丹後の地名 若狭版

若狭

末野(すえの)
福井県三方上中郡若狭町末野


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福井県三方上中郡若狭町末野

福井県遠敷郡上中町末野

福井県遠敷郡瓜生村末野

末野の概要




《末野の概要》
国道27号の倉見峠の西側、南北に長い盆地状の地。奈良期から平安前期に須恵器が作られていた窯址群がある。近年、末野焼と称して焼物の復興もみられる。
中世の末野村は、戦国期に見える村で、若狭国遠敷郡のうち。「政所賦銘引付」文明15年(1483)5月28日条に、若狭武田氏の被官逸見国清の供銭質券地として「若州末野村」が見える。弘治2年(1556)6月22日付の明通寺鐘鋳勧進算用状に「百五十文 あかり末野」とある。
近世の末野村は、江戸期~明治22年の村。遠敷郡のうち。小浜藩領。安賀庄に属す。また「有泊場、中条等之号」とある。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年瓜生村の大字となる。
近代の末野は、明治22年~現在の大字名。はじめ瓜生村、昭和29年からは上中町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西6町・南北10町、戸数47、人口は男132 ・ 女129、学校1。


《末野の人口・世帯数》 146・48


末野窯跡群
末野集落の山麓一帯に広がる奈良末~平安時代中頃の須恵器製作の窯跡群。遺跡は昭和初年頃上田三平氏によって発見されており古くから知られていた。国道27号の北側谷間に位置し、東西山すそに窯跡が点在する。登窯の分布する地籍は、谷の東側山裾の雨坂(あまさか)四反田(したんだ)儀信田(ぎしんでん)・北赤松・大門(だいもん)百々木谷(ももきだに)の7ヵ所。西側字嶌・雨坂・四反田・儀信田では10基が確認されるが谷間全域に分布するともいわれておりさらに増える可能性がある。昭和45年に嶌・四反田の一部調査と北赤松などで採集した須恵器には糸切底は伴わず、8世紀末~9世紀初頭の限られた時期に生産されたと考えられよう。当窯址で生産された須恵器は若狭沿岸部に部分的な出土がみられ、この周辺に供給されたことがうかがえる。集落西側山麓には陶津耳尊を祭神とする式内社須部神社を祀り、須恵器生産地であったことを示唆している。


須部(すへ)神社(惠比須神社)(式内社)



集落入口左手の岡に鎮座。スベと読むのか、スヘと読むのか、スエベと読むのか、たぶんスヘ、スエ(末、須恵器(陶器)の須恵)と読むのでなかろうか。若狭国三方郡の式内社であり、当地は三方郡であった。元々は須恵器生産に関わる神社であったのだろう。神額に「惠比須大神」とある。
当社は養老3年(719)の建立とされ春秋の祭礼3月23日と9月28日には「近郷越前などよりも夥敷参詣有之候」とある。神主は山内家の世襲。近代に入り村社須部神社(祭神蛭児命)となり、境内社に瘡神社・少彦名社・八幡宮・天満宮・日吉社がある。
『遠敷郡誌』
須部神社 村社にして同村末野字神ケ谷にあり、祭神蛭兒命俗に西の神と稱し西の宮又西神託等と稱す、社傳によれば養老三年乙丑三月二十三日蛭兒命を奉祀すと云ひ、神官は山内氏の世襲にして氏子を有せざれ共信徒甚多く若狭の外丹後加佐與謝三郡越前南條敦賀二郡近江伊香東浅井阪田高島四郡に於ては現に参拜の講社を作れるもの五千人以上にして、毎年の參拜者は十二國に亘り幾萬に及ぶと云ふ、境内に五社あり、瘡神託祭神大國主命養老二年創建と傳ふ、少彦名社祭神少彦名命、八幡宮天満宮及日吉社祭神大山咋命なり。

『上中町郷土誌』
須部神社  末野
国帳に云正五位須部明神 郡県志遠敷郡の部に 西神在二末野村一伝言祭二蛭子矣一説当社祭二恵美須一云末知二孰是一也民間蛭子与二恵美須一為二同体之神一考非也社説云養老二年戊午九月二十八日神霊現二末野村南而神谷桜樹下一同三年三月二十三日建一社于此処一而祭レ之古有二神領田畠八段一矣正保二年酒井忠勝公依レ有二祈願一建二鳥居一毎歳三月二十三日九月二十八日有レ祭此日土人結二来杉葉少許一而売二参詣之人一相伝挿二此杉葉於屋内或担下一則攘二悪気一矣
須部神社由緒
祭神蛭児大神陶津耳大神蛭子大神は世に恵美須大神又は西の神とも袮へて、伊邪那岐、伊邪那美二柱の御子に坐して天照大御神の御弟に坐すなり。又陶津耳大神は大国主神の祖神に坐して陶器の開祖にあらせらる。社記に曰く式内須部神社は人皇四十四代元正天皇養老二年戊午九月二十八日神霊末村神ヶ谷桜樹の下に現はれ翌三年己未三月廿三日社殿を神ヶ谷に建て之を祭り云云。此処は三方郡遠敷郡の堺に位し四方山嶺に囲まれ幽邃森厳の霊地たり、往古より此地に粘土(ユーツチと称する)を産出に依り陶津耳尊を合祀され陶の字いつの頃からか末野と書くに到る。
古代製陶所遺跡として末野の山麓に多数の土器破片を堆積せる遺跡あり。附近に又古墳石室あり須部神社の西なる山麓両坂、島の地に祝部土器朝鮮土器破片多く山麓に近き畦畔の下に層状を呈し多数あり。又寺塚本にも窯跡と認むべきものあり、原料は末野一般に存在し現今はその粘土を利用Lて藺蓆の原料たる藺を晒す時に塗沫用として需要さる、又土器破片は古へ製造された陶津焼にして御祭神陶耳との関係深きことを示す。当社は東山天皇の永宝年間に一千年祭が文化六年に一千百年祭を明治四十二年五月一千二百年祭を執行された、更に昭和二十五年十月二十八日本社々殿及拝殿新築落成し大祭執行さる。
社寺由緒記
末野村西之神 四神社二間四面養老二甲子年九月廿八日神ケ谷桜之本の木に宝鏡戸帳千早此三種忽然と有レ之其時風神荒シ故木動揺して不思議多く、貴賤男女打寄彼三種の神威を拝し奇異の思ひを為しけるが、中に一人の婦女俄に狂乱して樹下に走り寄託宜して曰、我は是西の宮の恵比須三郎也□□□に社を建立すべし、此婦女即直当るべしと託し給ふ。依レ之養老三乙丑年三月廿三日本社拝殿等建立し、春秋の祭礼三月廿三日九月廿八日祭レ之其己後春秋共に近郷越前などよりも夥敷参詣有之候。正保三丙戊年少将様御代に鳥居御建立被レ遊候即只今の鳥居にて御座候。


八幡神社

集落の一番奥に鎮座、神額は「八幡神社 山王神社」となっている。
『上中町郷土誌』
八幡神社 末野
末野字堂の奥にあり。祭神は応神天皇大山昨命にして元山王とも称へる、明治四十四年宗像社祭神田心姫命市杵島姫命端津命を弁天池より合併す。
瘡神社 末野
同村にあり養老三年三月二十三日之を建て大己貴命を祀ると伝へらる。
社寺由緒記  八幡神社 氏神は山王八幡相殿にて一間四面の一社に而御座候
由緒 不二相知一
  延宝三年     末野村庄屋    三郎右ヱ門



浄土真宗本願寺派若林山宝重寺

『遠敷郡誌』
寶重寺 右同寺派にして本尊は阿彌陀如来なり、同村末野字内道に在り。

『上中町郷土誌』
一、宝重寺 浄土真宗 末野
(社寺由緒記)西本願寺宗 宝重寺 此寺 古へは天台宗にて候由申伝共寺号も不二相知一候及二大破一住持も無レ之候処に百余年以前一城の主たるよし申伝候越侍土坂氏牢人にて当所へ参り被レ致二住居一本願寺法を被レ立候其時村中共に本願寺宗に相成候
  延宝三年 末野村庄屋 三郎右衛門
本尊阿弥陀仏なり
宝重寺宝物 一、経蔵有り(一切経)
一、仏舎利 経蔵内に安置さる
一、重源作仏座像 高さ五寸黒色鎌倉時代
一、支那仏像 高さ七寸金製
一、朝鮮渡来 仏像高さ三寸五分黒色金製



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


末野の主な歴史記録


『上中町郷土誌』
末野
  夕雲雀おもひあがりの山越へて
     春の末野に声ぞ落ちくる
信友翁の歌である。末野は安賀里の北東郡境に近く、山中の一盆地で丹後道から較々離れ一方山内に道ずる坂路もある。
その坂路の近くに古墳石室があり、又古墳時代の窯跡と考えられる処も数ヵ所あり、其辺に土器夥敷く出る地点もある。此辺一帯は粘土に富むので元陶(すえ)の字から大字名になったかと思われる。現に須部神社には陶津耳尊を合祀している。「神祇志料」に曰く旧名須部野三方郡境に接する地なり文安六年醍醐三宝院所領目録は若狭国須恵野と収む」とある。
この社は延喜式須部神社であって、境内には末社六所鎮座し数回の改築を経て神厳を加え、春秋二回の祭礼は近県からも参詣人今に至りても絡繹として織るが如き観を呈す。
尚字堂の奥に応神天皇を祀る八幡神社あり。又宗像神社もいっき祀る。
寺院には真宗西本願寺末若林山宝重寺あって土坂氏代々敬守している。
尚字六反に諦応寺の古跡がある。
近年山野を開墾し果樹園とし重に蒲萄、桃等を植栽し、時勢に相応じた産業を興し益々発展しつつあり。

同区には昔より温泉がわくと云い伝えられた。が、昭和三十七年一月十八日仝区の杉与惣吉氏より田圃に温泉がわいているので開発の可能性について調査してほしいと県若狭事務所へ届出た。其の話に依れば田圃の温泉は二十年以前からわいていたらしく、昨年六月の水害でたまたま田の土手がくづれたあとに急に水が強くなったと云う。不思議に思ったので、去る九月県衛生試験場に水質検査を受けた処無色透明だが鉄分などを含んだリュマチ等にきく鉄泉で、水温は二十一度六分湧水量は一分間に〇・五リットルという結果が出た。届出を受けた県事務所では産業観光課が中心となって調査するが湧出量さえ多ければ観光開発にも役立つという。(朝日新聞より)



『丹哥府志』
◎森村(清道村より城取嶺を越して森村に至る、若狭街道)
【正一位大森大明神】
大森大明神は天正の頃迄社領百石あり、慶長五年の秋小野木縫殿介田辺を襲ふ時其社焚焼す、於是社司某神体を奉じて若狭に遁る、後に吉田家へ願を出して八幡宮を勧請す、其翌日社司某又神体を奉じて帰り来る、よって二社を合せ祀る。今若狭末野といふ處に泣蛭子といふ社あり、其祭の日に「泣ベスホイベス丹後の蛭子銭が一文タライデ泣モドッタ」といふ歌を児童に至る迄歌う、蓋大森の社司神体を奉じて遁る處なりといふ。



末野の伝説

『越前若狭の伝説』
須部(すべ)神社  (末野)
養老二年神(こ)が谷の桜の木に鏡などの神器がかがっていた。ひとりの婦人が神がかりとなり、「われは恵比須(えびす)三郎である。神社を建ててわれを祭れ。」といった。それで翌年本殿などを建ててこの神を祭った。これがこの神社の始まりである。   (社寺由緒記)



末野の小字一覧


『上中町郷土誌』
末野区の小字
宮ノ越 宮ノ脇 東郷 坂ノ本 儀信田 大門 堡ノ奥 宮ノ前 野牛ノ辻 四反田 小佐吉 殿畠 伊尾谷 南谷 小良畑 嶌 北ノ下 寺山 北赤松 南赤松 天神山 野々奥 北谷 呉田 町泉口 寺海道 内道 前田 中田 北雨坂 南雨坂 西野 坂ノ脇 坂ノ尻 口神ヶ谷 神ヶ谷 宮ノ下 治郎丸 林ノ越 的場 後谷 赤元 神田 弥ヶ谷 脇ヶ谷 中々谷 白屋 釜郷 桃木谷 町桃木谷 塚田 河原 百町 中鼻 弁天 岩ノ鼻 角町 小畔 新川 阿羅田 東弥ヶ谷 口峠 奥峠 口大八谷 嗚和谷 境谷 大八谷 新田 茶屋谷 峠 上ノ口 武知田 口云船 外羽谷 奥云船 堤口 三ノ谷 部々越 三ノ谷口 二ノ谷 御殿尻 穴ノ谷 一ノ谷 猿子田 中河原 下河原 寒風

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『上中町郷土誌』
その他たくさん



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