丹後の地名 若狭版

若狭

玉置(たまき)
福井県三方上中郡若狭町玉置


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福井県三方上中郡若狭町玉置

福井県遠敷郡上中町玉置

福井県遠敷郡野木村玉置

玉置の概要




《玉置の概要》
北川の中流右岸に位置する、一帯は平坦な水田地帯。玉木とも書いた(正保郷帳・元禄郷帳・天保郷帳)。
玉杵里は、 飛鳥期に見える里名。若狭国小丹生評のうち。藤原宮出土の調塩付札木簡に「己亥年□□(月力)玉□(杵力)里人若倭部身塩二斗」の墨書があり、己亥年は文武天皇3年(699)と推定されている(藤原宮出土木簡5)。「和名抄」や平城宮木簡に見える遠敷郡玉置郷の前身と見られる。
玉置郷は、 飛鳥期~平安期に見える郷名。「和名抄」若狭国遠敷郡八郷の1つ。高山寺本は「多末支」の訓を付し、東急本は訓を欠く。古くは手巻・玉杵・手枕にもつくる。藤原宮出土の貢進物付札木簡に「若狭国小丹生郡手巻里人□」という墨書が見え(藤原宮木簡2)、「郡」の用字から大宝令制下のものとされる。平城宮出土の調塩付札木簡にも「若狭国遠敷郡玉杵里五百・木部□波調塩三斗和銅六年十月」という墨書がある(平城宮出土木簡概報12)。小丹生から遠敷への郡名表記の変化は、和銅6年に出された郡郷名の好字改変による。里名表記は「手枕里戸主无?津君千島一石」(平城宮出土木簡概報13)、「玉置里私臣□(賀力)□万呂」(同前15)ともされ一定しなかった。神亀4年(727)閠9月7日の年紀がある木簡に「若狭国遠敷郡玉置郷田井里〈三次君国依 御調塩三斗〉」とあるのを初見として、以後は玉置郷の表記がなされた(平城宮木簡1)。また「□□□□(玉置郷田力)井里〈□□□御調塩□斗〉」(同前)、「玉置郷伊都里〈舂白米五斗」(平城宮出土木簡概報19)とも見え、当郷のもとには田井里と伊都里が存在した。さらに「玉置駅家三家人黒万呂御調三斗」「天平四年九月」という調塩付札木簡が出土し「延喜式」に見えない玉置駅の存在が知られる(平城宮木簡1)。天平勝宝4年(752)10月25日造東大寺司牒によれば、同年に当郷が東大寺へ封戸として施入されたとあり、それに伴い駅家も野里郷へ移転して「延喜式」に見える濃飯駅に継承されたと考えられている。郷域は現在の上中町玉置を中心とする地域に比定される。なお,玉置遺跡からは平安期の須恵器などが出土している。また地内玉泉寺の木造薬師如来座像は平安後期の作と推定され、昭和59年県文化財となった。

中世は玉置荘で、鎌倉期~戦国期に見える荘園。元暦元年(1184)12月1日に源頼朝は三井寺園城寺の要請に応じて、平家没官領として後白河院から与えられていた「玉置領壱所」を同寺に寄進した。この寄進の時、下司職は鎌倉方の沙汰とされているが、荘園領主としては鎌倉期を通じて園城寺が支配した。文永2年(1265)11月の若狭国惣田数帳案には「園城寺沙汰」の所領のうちに玉置郷63町7反76歩(うち本田46町2反40歩,新免17町5反36歩)がある。建武3年(1336)9月24日に園城寺は光厳上皇院宣によって玉置荘を安堵されたものの、これ以降園城寺領としての史料がない。文和2年(1353)4月16日に若狭の国人河崎信成が玉置荘内清沢名を若狭神宮寺に寄進したことがあり、康安元年(1361)10月に守護職を改易された細川清氏は京から下向して玉木城を拠点としたことも知られる。応安4年(1371)5月26日早朝に守護一色氏と若狭国人が対立した若狭応安一揆の決戦は「玉置河原」で行われ、国人方が敗北した。「若狭国守護職次第」に「同廿六日の暁、玉置庄へ敵方打入之間、のき山よりおり、玉置河原にて合戦を致す」とみえる。
この頃守護による半済が実施されて、領家は荘の3分の1を、守護方が3分の2を支配するようになり、応永21年(1314)12月27日に南禅寺竜華院が3分の1方地頭職を将軍足利義持から安堵されている。その後竜華院はこの所領を失っていたが長禄2年(1458)4月18日に将軍足利義政から返付され、残りの「玉置庄弐分方」のうち20石が翌年3月16日に尊永喝食に与えられている。年代は未詳であるが玉置荘は賀茂御祖社(下鴨神社)の所領となっていたことがあり、文明2年(1470)12月18日に「玉置庄一分方」が、この年仙洞料所として借り上げられ賀茂御祖社仮殿造営料にあてられようとしたことがある。造営料にはならなかったようで同社社家の氏益が代官として当荘に下向しており、社家知行地であったと推定される。現地の代官は守護武田氏家臣の逸見駿河入道であり、文明3年12月17日に代官から納入された一分方の年貢は22貫500文であった。同10年5月28日に足利義政は南禅寺竜華院に玉置荘を返付しているが、その後の支配は不明である。大永8年(1528)3月21日に明通寺所領のうちに「玉置庄一分方力満名」の抜地2反のあったことが見え、永禄5年(1562)2月16日の明通寺寄進札には「玉置村」とあり、村と称されるようになった。永禄9年頃、白井勝胤は玉置荘を勲功の賞として武田氏から与えられていたが武田義統の指示により、この地を返したとあるものの詳細は十分あきらかでない。天正16年(1588)村内で岡弥右衛門に知行地300石が与えられた。
近世の玉置村は、江戸期~明治22年の村。「若狭郡県志」に「合上玉置・下玉置之両村者也」とある。小浜藩領。天保7年(1836)の大飢饉ののち小浜藩命により当村的場に社倉が置かれた。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。明治5年兼田・武生・玉置・上野木・中野木・下野木の各村を校区として恵懐小学校を設置。同9年の玉置村の大火により焼失し上野木村の盛雲寺に移る。明治22年野木村の大字となる。
近代の玉置は、明治22年~現在の大字名。はじめ野木村、昭和29年からは上中町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西5町余・南北2町余、戸数58、人口は男137 ・ 女133、小船3。野木村役場を設置、同32年武生に移転。


《玉置の人口・世帯数》 197・53


《玉置の主な社寺など》

玉置遺跡
集落北方の水田中、通称広谷・杉本地籍に玉置遺跡があり、天平4年(732)9月付の平城宮出土木簡にみえる玉置駅の跡地に比定される。昭和38年広谷地籍から、直径30センチ、長さ120センチの杉材の掘立柱列が発見され、須恵器や施釉土器など大量の遺物が出土したという。


熊野神社

玉泉寺の少し奥に鎮座。ちょっとした鎮守の杜のなかにある。元は若一王子社と称して3月11日の祭日に能の奉納があった。近代に入り村社熊野神社となる。祭神は伊弉冊命、境内社に八幡神社・蛭子神社・金比羅神社がある。
『遠敷郡誌』
熊野神社 村社にして同村玉置字的場に在り、祭神は伊奘册尊にして天暦元年勧請と傳ふ、元若一王子大明神と稱す、境内神社に八幡神社祭神應神天皇、蛭子神社祭神事代主命、金比羅神社祭神崇徳天皇の三社あり。

『上中町郷土誌』
熊野神社 玉置字的鎮座
社寺由緒記 一二四頁に玉木村
一、若王子 往古より氏神にて御座候 熊野の流れにて三百八十四年以前正応三壬辰年建立に候え共小破に及故二十六年以前慶安三庚申年建直申候 弥宜は東と中表に御座候
    玉置村庄屋  五郎左衛門 以上
遠敷郡誌 一二五頁に
一、熊野神社 村社にして同村玉置字的場に在り祭神は伊弉冊尊にして天暦元年勧請と伝う元若一王子大祭神と称す
境内神社に祭神応神天皇 蛭子神社祭神事代主命 金比羅神社祭崇徳天皇の三社あり       以上
野木村誌 二六七頁に
一、祭神 熊野神社は一般に須佐男命を奉祀するものなれば、若一王子を須佐男命の亦の名と思い当社はもと若一王子大明神といいしゆえ祭神を須佐男命ともいう。三宅村大字井ノ口、今富村大字湯岡にも熊野神社あり、もと若一王子大明神といい共に伊弉冊尊を祀っている、神社明細帳には当社の祭神を伊弉冊尊とある故に由緒不詳なれ共伊弉冊尊として奉祀すべきである。
一、社殿 文化元年氏子より寄進した神社の金子を社殿に近き薬師堂に保管せしが後大火に際し焼失した。文政十年社殿を再建した木材を天徳寺村、神谷村、日笠村、平野村、武生村より寄進した。
一、境内 四百六十五坪
一、野森社 玉置字野森
 由締明かならず、田園中の一小丘にして社なし。
一、白山社 玉置字的場、
 白山権現という 山神は明かでない古くより鎮座せる神らしい。 以上



野森神社

この社も本殿がない、野木山↑の遥拝所だろうか、そうだとするなら少し方向がズレでいるような…

曹洞宗薬王山玉泉寺


『遠敷郡誌』
玉泉寺 曹洞宗正明寺末にして本奪は阿彌陀如来なり、同村玉置字宮前に在り。

『上中町郷土誌』
一、禅宗薬尾山玉泉寺 由緒無之略之
      玉木村庄屋   五郎左衛門
遠敷郡誌に
玉泉寺曹洞宗正明寺末にして本尊は阿弥陀如来なり。同村玉置字宮前にあり。
 福井県教育委員会文化財調査報告第二集
 遠敷郡野木村玉置玉泉寺 薬師如来
前記による法量及形式手法等は文化財の部門に詳記したれば之を略するも推定造顕の年代は藤原時代にて右手は後代において修理補足したるものなり。
野木村誌
(本尊)釈迦如来
(由精)山号を薬王という、大字玉置にあり。滋賀県下当時の寺院明細帳に「創立宝暦二年八月三日大嶺和尚建立トイフ」とあり。
然るに玉泉寺に存する磬子に「貞享三丙寅年二月十五日玉泉寺久室代」と刻めり。宝暦二年は貞享三年より後るること六十六年にして宝暦以前に玉泉寺の存在せしことは同時住僧の石碑過去帳にても知るべく、宝暦二年の創立にあらざること明らかなり。
右の如く村誌に述べている且又すでに延宝三年(宝暦二年より七十七年前)に玉置の庄屋よりこの寺の在ることを報告しているので社寺由緒記にも記載されている。
(寺地)滋賀県下当時の寺院明細帳には当時所有地田一反五畝二十二歩山林弐畝二十五歩あり。
玉置村 薬師堂
社寺由緒記に庄屋五郎左衛門より報告せられたる宝玉寺と記載せるものならん。
野木村誌に
(本尊)薬師如来
(由緒)堂は以前若一王子社附近にありて氏神例祭には薬師如来を主として、若一王子大明神を従として祀った。当時の堂は三間半に四間斗りの建物であったが何時の頃か大難にあった。これが再建に際し文政四年八月従前同様の建築を致し度いと玉泉寺は無住のため正明寺代判天置村庄屋連判の上、和田吉治郎、原猪之助、山崎万右衛門宛に願出で、材木は三宅村大字天徳寺七兵衛より買求め、同年九月十八日普請小屋を造りI工事に着手し文政六年七月二十五日入仏式を行った。その後また火災に罹り安政五年に再建した。その工費は弐貰五百六拾七匁参分にして各村から寄付を募ったがなお百拾七匁弐分六厘を不足した。
その後また明治九年の大火で危険に迫った際、消防手田申源治郎が本尊を背ひ東又治郎家の前におき引返し。防火中に負傷して帰宅後、命、旦夕に迫ったが、薬師如来の霊験によりてか幸に蘇生した。本尊は玉泉寺内に安置し、奥本長兵ヱの発起により明治三十一年堂宇を再建。更に大正九年七月現在の新宮殿を有志者が建立。同十年三月七日入仏式を行なった。(野木村誌)


「若狭町の文化財」(写真も)
【木造 薬師如来坐像】【県指定】
檜材の一木造り、割矧ぎ、背刳り、彫眼の手法がとられ、漆箔が施されている。丸くふっくらとした面貌と体躯、衣文もゆったりと刻まれ、平安後期の特色をよく示している。



廻地蔵
「若州管内社寺什物記」に玉置・武生・井ノ口・天徳寺・神谷・日笠・兼田・加福六は「右此の八箇村家一軒に一日ずゝをき次々へ廻申し候,因茲廻地蔵と申し候ふ」とある。「玉置庄廻り地蔵」は江戸期以来、現在に至るまで継承されており、町民俗文化財になっている。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


玉置の主な歴史記録


『上中町郷土誌』
玉置
玉置郷。
玉置は奈良朝の頃玉置郷と称し東大寺領であった。伴信友の若狭旧事考に、 東大寺に蔵したる天平勝宝四年十月廿五日東大寺に封戸を賜える造寺司の牒に合奉レ宛封一千戸とある中に若狭国伍十戸遠敷郡玉置郷とみゆ此文其寺の要録にも載たり。今玉置、天徳寺(旧名大渓)日笠、神谷、井ノ口、武生(旧虫生と書く)兼田加福六(旧蕪六と書)堤(旧名娑婆賀)杉山等の十カ村を玉置庄と呼ぶ。
 東鑑に元暦元年十一月廿八日奉レ寄三井寺御領事在二若狭国-玉置領一所右件処依レ為二平家設官之領一自レ院所給預也云々 

 東寺の貞和四年の文書
当国守護職次第応安三年の事を記さる処には玉置と見えたり。今玉置村(上玉置下玉置と別てり)というわたりが本土にて、郷の名となるべし。玉置いま多末岐と唱う古より然ぞ呼けむ。(村人は玉木とも書きたり)
 若狭郡県誌に「三井寺領」と題し、
遠敷玉置庄古為二三井寺領一東鑑曰
 奉寄  三井寺御領事
右件所依為平家没官之領自 院所給預也而今為崇福寺仏法所令寄進也但於下司職者従鎌倉所沙汰付也不可有相違之状
如件
    元暦元年十一月廿八日
                前右兵衛佐源朝臣
〔玉木〕 大字玉置は京極氏当国所領の時京極忠高から家臣糟谷勘右エ門に玉置の一部を支配せしめた古文書に
 「為給地遠敷郡玉木村之内高五拾石云々」とある。
徳川時代には上玉玉置、下玉置と分った。いまは上条、下条と称している。
〔山の神〕 玉置の庄は元日笠の舟塚の東部に在ったとの伝説がある。之を裏づけるものとして、日笠には小字名に百町という所がある。この辺は古墳時代以前よりすでに大集落地であったらしい。口伝には通称玉置の元屋敷ともいう。
 日笠山は玉置と日笠との所有であった。その故に今なお玉置はこの日笠山において広大なる山林を所有している。かつて日笠は瓦木税とて割木税を米に代えて納めた頃、瓦木税は舟塚附近の山林約五町歩の税であると解して玉置に向って入会権なしと主張した。そこで玉置は利害関係大なるため訴訟問題まで引きおこしたこともあった。
かかる関係もあってか、玉置区民は山の神といって、日笠の山を祀り且つ拝するという。
霊木と種ナ池。奥本六郎右エ門に欅の古木ありその根本に地蔵尊を祀る。玉置にも杉山のそれと同様種籾浸けの池が今なお七ヵ所残っている。
朝倉太郎左ヶ門の碑。玉泉寺境内にあり、五輪塔で最上部より如意珠形半月三角円方と称す、上部二個を失い、三角は反りがあって高さ八寸下縁の長さ一尺、円はやや扁平で高さ八寸、横の直径一尺で三角縁の長さに等しい。
伴翁の若狭国志に石塔有レ五一在二玉置村神祠杜辺一、葢古人為二戰死者一在レ之とあるのはこれで、伝説では朝倉太郎左エ門の墓といい以前は熊野神社附近にあった。
寺子屋教育と社倉
玉泉寺において医師の野々口為敬氏を師として兼田、武生、玉置の子供約三十名を集めた。
天保七年の飢饉に鑑み、小浜藩は各地に社倉庫を増設した。この時玉置の字的場にこれを設けて社倉籾を貯蔵した。



『新わかさ探訪』(写真も)
玉置の庄の廻り地蔵 若狭のふれあい第82号掲載(平成6年33月31日発行)
主婦に背負われて 家々を巡る厨子の御仏

 若狭町の玉置の庄と呼ばれる一帯(玉置・日笠・神谷・天徳寺・井ノ口・兼田・武生の7集落)には、「廻り地蔵」という風習があります。これは、厨子に納められたお地蔵様が、各家を順番に巡っていくというもの。厨子は、台所などに置かれ、ご飯や餅、お菓子、花を供えて、家族が数日から1ヵ月間お参りしたあと、その家の主婦が背負って次の家まで運びます。この廻り地蔵については、寛文7年(1667)の『若州管内寺社什物記』にも記録があることから、数百年に渡って続けられているようです。兼田の藤田栄一さん宅で、ご近所のみなさんと一緒にお話をうかがいました。
 「この地蔵様は女性で、カカ(台所を預かる主婦)の働く姿を見たいから、台所(茶の間、食事の場)に置きます。あんばいよくまつると福が来る。家内安全で、家族が健康に暮らせます」と話す福井貞義さん。
 木造の厨子には、「地蔵大菩薩」の額がかけられ、中にご本尊と両脇侍の3体の像が納められています。厨子には、お供え用の器や小物類を入れる引き出しもついています。藤田さんの家では、茶の間に厨子を置き、同家の主婦順子さんが、毎朝、ろうそくと線香を立て、ご飯とおかずを供えています。
 「お地蔵さまを次の家に送るときは、お供えのお菓子や果物を買い換えて、新しいものを渡します。それまで飾っていたお下がりは、跡取りの人だけが食べてよいことになっていて、家を出ていく立場の娘さんが食べたりすると、出戻りになるんだそうです」(辻本清さん)。
 お地蔵さまの厨子は、玉置の庄の7集落を、決められたとおりに1軒ずつ回ります。兼田では、2泊3日で次の家へ、武生では1週間、天徳寺の寺には1ヵ月滞在します。それで、3年に1回くらい各家に回ってくる計算です。お地蔵様は、主婦が背負って運ぶことになっており、厨子の裏側には、背負いひもが取り付けられています。(重い厨子なのに、女性が背負うと不思議と軽い」(辻本さん)そうですが、最近は、時代の流れか、車に積んで運ぶ人もいるようです。
 若狭町では、三宅の庄(三宅・仮屋・市場)にも、同じように廻り地蔵があり、こちらは、おおむね各家に1昼夜おまつりして、次の家に送ります。三宅の庄の廻り地蔵は、江戸末期に疫病が流行したとき、その災厄から救ってもらうために始まったと伝えられています。
 「家族みんなが健康で無事に過ごせますように」という願いを込めて、廻り地蔵は、今日もどこかの家でお参りされています。

玉置の伝説

『越前若狭の伝説』
野森塚   (玉置)
玉置の東、田の中にある。むかし朝倉太郎左衛門が戦いに敗れて逃げて来たとき、うりのつるが馬の足にからみついて、馬もろとも倒れ、追手のやりに突き殺された。遺体は風雨にさらされていたが、だれも弔う人がなかった。そのころからさまざまな怪異があったので、村の人は、これは太郎左衛門のたたりであろうと、塚を作って厚く葬った。
明治初年、四五人の老年の男が越前から来て、祖先の戦死のことが旧記にあるから参りに来たといって、塚に参拝して帰った。  (野木村誌)


敦賀郡天筒山城主の朝倉太郎左衛門教景は、弘治元年九月八日一乗谷に病死し、野森では戦死していない。(野木村誌)

お虎御前  (玉置)
むかしは北川がこの地点を流れていた。ここでお虎(とら)という目くらの女がおぼれ死んだので、墓を建てて祭った。お虎御前の墓という。    (野木村誌)



玉置の小字一覧


『上中町郷土誌』
玉置の小字名(土地台帳による)
下倉 五ノ坪 倉柱 杉本 下堤 芝欠 下芝欠 屋上(タチノウエ) 村下 上畷 小川原 向畷 上穴田 下穴田 若宮 中穴田 川柳 向川 中川 向長田 下長田 松張 松原 役代 清水 殿道 殿越 上堤 山崎 鋤崎 墓ノ下 広谷 松崎 下戸 西戸 宮下 村前 松木 上長田 川端 下柳 窪ノ前 上窪ノ前 宮前 的場 旭 松尾 野森 妙角 堂前 中嶋 高畑 塊淵(クレブチ) 友安 上塊淵 川上

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『上中町郷土誌』
その他たくさん



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