丹後の地名 若狭版

若狭

旧・鳥羽村(とばむら)
福井県三方上中郡若狭町
無悪・三生野・海士坂・麻生野・黒田
・三田・小原・山内・持田・長江・大鳥羽


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福井県三方上中郡無悪・三生野・海士坂・麻生野・黒田・三田・小原・山内・持田・長江・大鳥羽

福井県遠敷郡上中町無悪・三生野・海士坂・麻生野・黒田・三田・小原・山内・持田・長江・大鳥羽

旧・鳥羽村の概要




《旧・鳥羽村の概要》
北川中流へ注ぐ鳥羽川の流域に位置する。
中世の鳥羽荘。
鎌倉期~戦国期に見える荘園。若狭国遠敷郡のうち。寛元元年(1243)11月の太良荘についての六波羅裁許状に、文暦2年(123)に茜藍代銭について鳥羽荘の荘民が地頭を訴え、この役を停止したことが傍例として述べられているのが初見。建久7年(1196)6月の若狭国御家人交名案に鳥羽源内定範が見えているが、荘地のある鳥羽谷は若狭の最有力在庁官人で御家人であった稲庭時定の子孫の鳥羽氏が勢力を張った地であり、少なくとも弘長3年(1263)以前から鳥羽国茂が鳥羽荘預所となっており、一族の瓜生(脇袋)範継もこの地の年貢を納入していた。文永2年(1265)11月の若狭国惣田数帳案には新荘のうちに鳥羽荘56町1反20歩が記される。康安2年(1362)5月3日付のヘカサキ重雄書状の端に「山門領アカリ・鳥羽」という追記があり、当荘が延暦寺領であったことが明らかになるとともに、この追記の性格から考えて、この時に守護の半済が行われたものと判断される。応安4年(1371)正月~5月の若狭国人一揆には鳥羽谷の武士も一揆の中心となって守護に敵対したが、多くが討たれた。この一揆ののち、鳥羽荘須那浦山の鳥羽氏惣領分が一色氏守護代小笠原長房に宛行われており、稲庭時定子孫の鳥羽氏の勢力はほぼ一掃されたとみられる。領家については「康正二年造内裏段銭并国役引付」に山門衆徒金輪院が反銭を負担し、山門領として維持されている。しかし文明9年(1477)4月22日には「鳥羽庄金輪院知行分」のうち280石が「大乳人様」への納入とされ、この幕府収取分の代官に近江国の朽木貞高が任じられている。金輪院代官として清水が現地におり、武田氏家臣の内藤賢高が年貢催促を行うこともあった。永享2(1430)~7年の明通寺寄進札に「鳥羽□小原禰宜大夫、平末広」「鳥羽庄小原願主孫権守」「鳥羽宮北祐永」「鳥羽小原妙円」とあって、荘内の小原の地名も見える。大永4年(1524)「鳥羽黒田」、天文4年(1535)には「鳥羽之庄小原竜雲庵」が見える。天文6年11月27日に武田元光が「鳥羽庄山門領宝光院分」のうち2反を西福寺に寄進しており、依然山門領が存在するが、幕府への年貢納入は武田氏の押領のためとだえており、同9年3月14日には幕府収納分の回復がはかられ、同年3月27日には当荘を京都の尼寺曇華院に与えようとの将軍足利義晴の意向があったという。戦国期には当地の武士として、大永4年(1524)以前に鳥羽左衛門尉賢冬が、同22年12月に鳥羽亀千代が知られる。この鳥羽氏は大鳥羽村霧嶺城主であったと伝える。弘治2年(1556)の明通寺鐘鋳に関する史料に「鳥羽山内村」が見えるが、もと荘域内にあったと考えられる大鳥羽・黒田・三田・小原・持田・長井は自立した村となっている。
鳥羽荘とは別に、鎌倉期以来、戦国期に至るまで、鳥羽保という保も存在した。鳥羽保は上保・下保に分かれていたが、中保の存在を示す史料もある。初見は文永2年(1265)11月の若狭国惣田数帳案で、鳥羽上保は27町4反300歩、うち除田として多烏田9反、大般若田2町、地頭給・下司給3町などがあり、下保は21町3反10歩、うち除田として安楽寺9反90歩・天満宮4反240歩・下司給1町などが見える。元亨年間頃の朱注は上保・下保とも国衙領で、地頭は北条氏得宗家であるとしており、また上保の下司は松田左衛門大夫入道で、その跡を後家が知行していること、下保の下司・公文は御家人加賀兵衛大夫跡を多田三郎太郎子孫が伝領していると記している。
室町期に「とはの中ほう(鳥羽中保)」を知行していた松田豊前守が鳥羽荘須那浦山庶子分を併せたことがあり、松田氏が引き続き支配権を有していた。松田豊前守貞寛は文安元年と宝徳2年に上保・下保について籾井慈照と争っているが、この幕府倉奉行籾井氏は「康正二年造内裏段銭并国役引付」にも鳥羽上保・下保反銭の負担者として現れる。上保下司の松田氏に関しては明応2年7月19日の幕府奉行人奉書が松田頼亮知行分鳥羽上保年貢700石を葛川関で煩いなく通過させるようにと命じており、戦国期にも支配を続けていた。上保・下保の位置は不明であるが、鳥羽荘の位置から考えて、近世に本荘と称されている麻生野・海士坂・三生野・無悪が保域であろうかという。

近代の鳥羽村は、明治22年~昭和28年の遠敷郡の自治体。無悪・三生野・海士坂・麻生野・黒田・三田・小原・山内・持田・長江・大鳥羽の11か村が合併して成立。旧村名を継承した11大字を編成。大鳥羽に役場を設置。村名は中世鳥羽荘に由来する。「各村ハ鳥羽谷ト総称シ,又鳥羽組トモ称シ其名近郷ニ通スルニ由リ之ヲ採ル」とある。嶺南地方としては、養蚕が最も盛んな村の1つである。
昭和29年1月1日上中町の一部となり、同時に山内の一部から南が起立して、当村の11大字とともに上中町の大字に継承された。




旧・鳥羽村の主な歴史記録


『上中町郷土誌』
鳥羽地区大字誌
その地区と開闢
地区開闢は定かにこれを知るに由なしといえども伴侶友翁若狭旧事考によれば、
「大同年間人皇第五十一代平城天皇の御宇開闢せしものの如し、鳥羽ノ荘、本荘とあり。
大鳥羽 黒田 三田 下町、南町、北町、深見(今は深水) 小原 南、小原、上町、中丁、下丁、南丁 長江 持田
以上七ヵ村を鳥羽の荘という。
 氏神祭礼、三月十六日毎年輪番御能あり(注、今は廃たれた)麻生野 アサフノアソノ(方言) 海上坂 三生野 本条 北丁 無惡 サガナシ 上丁下丁
以上四ヵ村を本荘と呼ぶ」とあり
 伝説によれば山城国大原郷の人来りて開きしものの如し。人情の同地方と類似せるもの多く地名もまた同一なるものあり。これ等より推考すれば大原地方と本村とは何等か関係あるが必ずしも無稽の説として軽視すべきではない。
     ○
地名辞書によると「今鳥羽村という、安賀郷の域内にして安賀里の北とす、その渓流は一澗に帰して南流し瓜生村において北川へ入る。康正二年造内引附に七貫匁金輪院若州鳥羽荘段銭と載す。
延喜式に石桉比古神社は大字大鳥羽に石按比売神社は大字小原に在り。岩倉明神と称せらる。(神祇志料)

鳥羽の庄
鳥羽地区一帯の鳥羽谷に其所を求むべく後世本庄と称する地域の大部分なるべし。庄の由来は史料を欠きて不明なれども、文永二年総田数帳には本家円満院鳥羽庄五十六町一反卅歩とあれば当時三井寺領也、康正二年造内裏段銭付に鳥羽庄段銭七貫匁金輪院とあり。また朽木文書に文明九年四月金輪院知行分年貢の内切米二百八十石分の代官として朽木信濃に任命せるを見る、而してその地域の分布は明記なしといえども、同上田数帳には別に国領鳥羽上保廿七町四反三百歩内除田十七町六反百廿歩残る。定田九町八反百八十歩所当米卅七石七斗五升地頭得宗御領下司松田左衛門大夫入道跡後家伝領また国領鳥羽下保二十一町三反十歩内除田十二町二反二百卅歩残り定田九町百四十歩所当米四十三石二斗地頭得宗御領下司公文御家人加茂兵衛大夫跡多田三郎太郎子跡等伝領とあるを以て見れば別に鳥羽上下保の存せしことを知る。天文四年西福寺文書に鳥羽庄小原龍雲庵分の田地一反を、藤城小次良より西福寺へ寄進状あり同文書天文六年鳥羽庄田地二反寄進証状あり。 (遠敷郡誌による)





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『上中町郷土誌』
その他たくさん



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