丹後の地名 若狭版

若狭

海山(うみやま)
福井県三方上中郡若狭町海山


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福井県三方上中郡若狭町海山

福井県三方郡三方町海山

若狭国三方郡西田村海山

海山の概要




《海山の概要》
田井から県道216号(常神三方線)を北ヘ湖畔の道を行く。

道沿いに、この舟屋というか舟小屋↑があるあたりから北が海山。現在はそうだということで、もとは北庄も海山だったので、田井村のすぐ北から、水月湖の西岸を主村域とする広域の村。集落は北庄(きたしょう)とそれよりかなり北の五十八(いかばち)に分れる。

三方湖と水月湖をつなぐ瀨戸という狭い水道、この写真では先が三方湖、手前側が水月湖になる。左から突き出ている島は、島ではないが、長尾・三尾・水尾という。
海山は水月湖の西岸一帯を占め、半農半漁で、水月湖の漁業権を有し、古くから湖上交通運輸の支配権を持っていたという。近年は観光に力を入れ、北方の梅丈岳への観光道路レンボーラインの入口がある。また、水月湖畔には国民宿舎梅丈ロッジや民宿が多い。さらに、県道沿いの山の斜面には特産のウメの栽培が行われている。

中世の海山は、室町期に見える地名で、若狭国三方部耳西郷のうち。応永31年(1424)8月5日の藤原重範寄進状に「耳西郷海山五十八村妙高禅寺」に現陀谷にある山を寄進し、その山の四至も記されている。五十八(若狭郡県志は五十鉢と記す)は江戸期の海山村の小字として残るが、天台宗妙高禅寺は現存しない。海山は山を越えた西の塩坂越(しおさこし)に対して水坂越(みずさこし)とも称され、弘治2年(1556)6月の明通寺鐘鋳勧進に「水さこし」は65文を奉加している。そのほか天正10年(天正1582)3月の遊子浦境目定書のうち遊子浦の西境として海山が見える。文禄2年(1593)10月には田井の伊良積村が海山の海を請け、代物として酒を進上するとしている。海山は古来上湖(三方湖)・中湖(水月湖)・菅湖の支配権を持っており、それは源平合戦に敗れた田辺六右衛門と田辺六郎左衛門という武士の力によるところがあったといわれる(西田村誌)。
近世の海山村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。文化4年の家数46・人数182。三方湖・水月湖の漁業権を有し、湖上交通運輸の支配権を持っていた。慶長7年(1612)6月の若狭国浦々漁師船等取調帳(桑村家文書)によれば船11艘を有し、うち3艘(3人乗2艘・2人乗1艘)は渡船であった。交通運輸の支配権は船番権利株といわれ、庄屋株の家柄4家の所有であった。湖岸諸村をはじめ西浦の諸浦と気山・三方を結ぶ動脈であり、諸浦の漁獲物・生産物・食料品・日用品等一切の運輸に携わったという。北方日向にまたがる梅丈岳(約400メートル、五十八山・万丈岳ともよばれた)は、三方富士と称される。東南麓に銅鉱坑の廃坑がある。宝永8年(1711)大坂泉屋(住友)の手代彦右衛門が日向・早瀬の銅山を見聞した記録があるが(「諸国銅山見分控」住友修史室蔵)、この日向銅山に当たるかという。
明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年田井村の大字となる。
近代の海山は、明治22年~現在の大字名。はじめ田井村、明治40年西田村、昭和28年から三方町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西2町・南北18町、戸数46、人口は男150 ・ 女138、学校1、小船46。


《海山の人口・世帯数》 108・27


《海山の主な社寺など》

縄文期の五十八(いかばち)遺跡

熊野神社

きらら温泉の先の細い道を少し行った所に鎮座。
『三方町史』
熊野神社
海山に鎮座。祭神伊邪那美命・若王子。海山の氏神であるが、いつごろ勧じょうされたかは明らかでない。言い伝えによると、大昔海山では、年々怪物に農作物を荒され、それを免れるため毎年一人ずつ人身御供をしていたが、これを若王子が聞いて退治した。その怪物は年老いた獅子猿であった(『西田村誌』)とのことで、この勇者若王子を氏神としてまつった。このようなことがあったためか、「猿神祭」という珍しい神事が行われていた。
 海山には、この社の外に廣嶺神社・山の神・神明社・八幡社・天照皇大神社などがあったが、明治四十一年六月に宇波西神社の境内社である八幡神社へ熊野神社をはじめすべての神社を合祀して、海山の集落内には氏神がなくなった。そのため、それからは次第に区民の心から神を敬う気持が薄らいでいった。ところが、もとの神社のこもり堂を買って納屋に改築した持主は、精神異常をきたし、大正十二年四月一日、たつみの強風の吹く夜半に納所から出火し、集落の大半と徳寿院まで焼けた。このため区民たちはこれを神霊のたたりと信じ、社殿を再建してふたたび祭神の遷座を願った(海山「郷土誌」)。それ以来海山では平穏な日々がつづいている。
 毎年四月十八日は例祭で、前日の十七日には、神主を招いておごそかに祈願し、それが終ると、当屋で神事講が厳粛に行われている。祭日には、山車を引き、神楽をはやして、祭行事がにぎやかに行われている。



曹洞宗水月山徳寿院

塩坂越トンネルの入口、徳寿院がある。如意輪観音菩薩座像があり、町文化財に指定されている。
『三方町史』
徳寿院
所在海山六四-一。山号水月山。幹洞宗。本尊延命地蔵菩薩。ところが、『若州管内社寺由緒記』には本尊阿弥陀如来と記されているが、この寺は二度火災に遭っているのではじめの火災後、現在の本尊を迎えたものと考えられる。約六百年前、駿河の国を出て諸国を行脚中の僧大等一祐が、たまたまこの地を訪れ、美しい景色に恵まれたここ海山の大寺山を修行地と決め、草庵を結んだのがこの寺の始まりであると伝えられている。大寺山の寺跡は、海山一〇一号一二番地に在って、現在も「方丈の谷」「墓の谷」の地名が残っている。その後一祐は、下山して草庵を山裾に移し、水月山徳寿院と名付けた。一祐は、その後、藤井に向陽寺を開いている。その後この寺にも、何回か浮き沈みがあったが、約二百年前には、臥竜院の末寺となった。
 明治初年に、村内の民家二十余戸と一緒に火災に遭い、その翌年の堂再建中にも火災に遭ったが、その翌年には、本堂が完成した。さらに、大正十二年には、開山堂を増築し大改修した。ところが、その翌年三月三十一日の夜中に、民家から火が出て、強風のため大火災となり、本尊の観世音菩薩像のほか、五体の仏像を除いて全部燃えてしまった。しかし檀家の人々は、このような再三の災害にもかかわらず、懸命の努力によって、ついにりっぱな堂を完成した。
 昭和六十二年、県道三方-常神線、海山地係の改良工事により、西向きに建てられていたこの寺を、山林を切り取り、墓地を移転、境内を造成して南向き(湖側)に移転改修した。この本堂の移転に伴い開山堂、二階建庫裏、観音堂を新築した。観音堂には三方町文北財指定の如意輪観音が安置されている。この時移転した本堂を含め新築された建物の面積は三八八平方メートル余で、事業費八千二百万円を投じて昭和六十三年七月完成した。



嵯峨隧道
北岸には江戸期に開かれた嵯峨隧道があり日向湖と水月湖を結んでいる。熊野神社の先に道はあるが、狭い、車で行けるものか不明、気山の方から回っても狭い、行けるものか不明。
レインボーラインの途中にこんな案内がある。
嵯峨随道の由来
 この道路の下五〇米水月湖と日向湖を結ぶ嵯峨隧道があって、両湖の水位の調整をはかつています。
 この隧道は、大津の住人笹屋弥七が宝永六年(一七〇三年)嵯峨山を開さくし水月湖の水を日向湖に落し、湖辺に新田を造成することを計画したのが始まりといわれています。
 しかし、事業が成功しないまま享保二十年(一七五五年)大洪水で山崩れがあり湖辺一帯は氾濫し大被害を受けたため、三方町の生倉、田井、成出等の各部落の有志七人が嵯峨開さくを実施しました。ところが資金難のため、次々と人々は手を引き、最後に残った赤尾善次とその後をうけた赤尾本次郎とが、宝歴年間に完成しましたが、その後崩壊のため惜しくも閉塞してしまいました。
 寛政二年(一七七九年)川方役所が設置され再び開さく事業を継続し十年の歳月を費して完成、湖辺一帯約百ヘクタールの新田が開拓されました。
 この石碑は、その際に記念して建立されたものであります。現在の隧道は、昭和七年から昭和九年にかけ、時局匡救土木事業としてコンクリート巻立が行われたものであります。  福井県道路公社

碑というのはこれだろうか、何か彫られているが、読めそうもない。


『三方町史』
嵯峨ずい道の開削
浦見川の開削は、湖辺の水害を取り除き、さらに湖岸に新地を開き、余徳を後世に伝えたことは既に記した。しかし、その排水能力はまだまだ十分ではなく、いったん大雨になるとにわかに水かさを増し、水は常に湖辺一帯にはん濫し、その被害は非常に大きかった。そのため湖畔の村々では、かねてから、さらに浦見川を拡張すると同時に、新たに嵯峨山を切り開いてずい道を通し、水月湖の水を日向湖に落とすことを強く望んでいた。
 元禄十一年(一六九八)四月、またまた大風雨があって、浦見川は崩壊し、湖水は流れず周辺にあふれて、湖岸の村々は大変な被害を被ったのであった。翌十二年正月にようやく改修工事に着手し、四月になって一応元の状態に戻ったのであるが、被害を受けた村々では、住民の治水に寄せる願いは、ますます高まるばかりであった。
〔民間による開削〕
 折も折、大津の住人で篠井弥七という者が、嵯峨ずい道を掘り抜き、湖岸に新田を獲得しようとして藩の許可を得、工事に着手することとなった。ところで、「嵯峨隧道普請覚忖」(日向、渡辺文書)には、
 宝永四丁亥年十月十九日より嵯峨山普請始まり、
 同宝永六己丑年五月四日暮五ッ時に掘り抜き候。
 普請之棟梁江州大津住篠井氏弥七。
 当国公儀之取り次ぎ小浜住板屋徳右衛門。
とあり、このときの嵯峨ずい道の工事開始は、宝永四年(一七〇七)十月十九日で、宝永六年五月四日の暮五ッ時に、一応、掘り抜きに成功したことが分かる。もとよりこれが嵯峨ずい道開削の最初であった。
 ところで、この開削に当たっては、日向浦の漁民たちは、ずい道の開削が自分らの漁の障害となることを理由に反対し、庄屋・惣百姓の連名で、代官あてに中止方を訴えるという一幕もあった。次の史料は、宝永四年十月に、日向浦から代官あてに差し出された口上書の一部であるが、その当時の、ずい道開削に対する浦方の動向を伺うことができよう。
    口上書を以て中し上げ候覚
一、嵯峨山は両方のひら共に当浦之山にて御座候。此の山普請之義御公儀様へ町衆願い上げられ候処に、相叶い願之通り仰せ付けられ候由、五井兵左衛門と申す仁私方へ参られ御公義表相済み候由申し聞けられ、夫より普請始まり候。普請成就仕り水落ち候ては猟場其の外之障りに段々罷り成ると存じ奉り候。
  (中略)
一、船出入仕り候川口より蚫取り申し候場所にて御座候処に、中海之洪水参り候わば水底見え申す間敷く候。其の外金網場と申す大網場処御座候。□水強く候わば水をきらい候魚類磯へ寄り付き申す間敷き事も御座有るべきと難義に存じ奉り候事。
右之通り当浦之迷惑成る義と存じ奉り候。此の段達て御公儀様へ御訴訟申し上げ度く存じ奉り候得共、御田地多く出来仕るべき義相さまたげ候様に相当り恐れ多く存じ奉り候。併し猟場其の外之障りに罷り成り候事迷惑に存じ奉り口上書にて申し上げ候。兼て此の段御代官衆様御耳へ御立て置き成され下され候わば忝く存じ侯。以上。
 (下略)    (日向、渡辺文書)
 このようにして、宝永六年に嵯峨ずい道は一度その掘り抜きに成功はしたものの、その後再三崩壊したため、引き続き工事を継続することとなり、結局前後を通じて八年の年月と、二千両の費用をつぎ込んだが、事志に反してついに途中で投げ出さざるを得なくなったのであった。
 時代は下って享保二十年(一七三五)六月、領内に大雨洪水があり、藩政時代最大といわれる水害に見舞われた。若狭国洪水次第(「福井県史」第二編)によれば、三方郡だけでも山崩れ、山抜けは百二十三ヵ所に上っており、三方町域でも方々に山崩れがあった。それ以後も、宝暦七年(一七五七)までの二十三年の間に十九年も湖水ははん濫し、沿岸の村々の被った被害は非常に大きく、村民の苦労は大変なものであった。
 そのため、田井村の赤尾善次をはじめ、生倉・成出・田井三村の者七人が相談の末、再び嵯峨山にずい道を掘り抜くことに決め、この旨を藩に願い出、許しを得ると早速峨峨山の上下に小屋掛けをして普請に取り掛かった。しかし、何分にも予想外に大きな費用のため、七人のうち六人までがその負担に堪えかねて、ついに脱落してしまった。あとにただ一人残された善次はあれこれと思案の末、田井村慈限寺の先の住職に依頼して産社に祈願し、普請を続けることについて、その吉凶を占ってもらったところ、結果は吉とのおみくじを得た。勇気百倍した彼は、同じ村の赤尾本次郎の協力を得、あちこちから資金を工面して普請を続け、普請を始めてから七ヵ年後の宝暦十三癸来年(一七六三)に、さすがの難工事もついに完成したのであった。

日向湖は海水湖で、そこへ淡水が流れ込むと、漁業にさしさわりが生じる、洪水時とか特別の時以外は閉じられているそう。

《交通》


《産業》

きらら温泉。コロナのためか人影が見えない。左手の裏山が梅丈岳(400m)。

観光船乗り場もある。(湖上クルーズ観光船は現在はここしかないよう…)

湖上に船影は見かけない。当地の観光船くらいである。左の建物は紅岳島温泉。


《姓氏・人物》


海山の主な歴史記録


『三方町史』
海山
海山は、約六百年前、平家の落ち武者がここにたどり着き、水田を開き湖面を支配して漁業を営み、次第に集落を作って行ったと言われている。土地は広く、生倉下から三方湖の東側を廻り、瀨戸を通って東長尾大脇、生栗鼻から風后(後)(かざしり)に至り、更に、気山下小谷新田があり、浦見川上口から水月湖を通って北庄下まで、延長は約十二キロ、山は福浦、切追谷を境として旧八村、西田村の境界線となり、西福浦・松ヶ崎・梅丈岳・竹力谷・夷崎・大黒山・富貴山の福谷から水月湖を渡り表嵯峨に至る広大なものである。湖面の漁業権については、いろいろな問題のあったことは前に述べたとおりであるが、水月湖・菅湖・三方湖の権利を持っていた。現在は、水月湖・菅湖は海山、三方湖は鳥浜が漁業権を持っている。
 海山に昔からあった旧家を「お家柄」または「庄屋株」と言い、集落の代表者であり指導者であって、藩主と奉行の命によって年貢の収納や、訴願の提出、定め書などの受理や伝達を行っていた。また、村の道普請、総仕事、共有林や田畑の管理、神社・仏閣・祭礼などの業務や行事は厳格に行い、村民はこれらのことをおきてとして守らなければならなかった。村の集会や相談ごとは、寺または庄屋の家で行われたが「庄屋株」の者は、中敷居で区別された奥座敷に坐るのがおきてであった。
 浦見川が掘削されるまで、土地が開けていたのは山の尾根で、頂上に立派な道をつくり、他集落との交流をしていた。また、かなり高い谷間に狭いながらも水田があって米を作っており、現在もその跡が残っている。
 海山の船番制度については第四編第六章で述べたとおりで、昔から海山は湖上に交通運輸の支配権を握っていた。明治二十一年町村制が実施されて、西浦方面から区長・議員・委員などが役場の会議に出席するためには往復ともこの舟番を利用した。
 明治以前は半農半漁の集落であったが、現在の主な職業は農業である。時代の推移とともに、油キリ実の生産・養蚕と移り変わり、現在は梅の栽培が盛んである。米作は昭和二十年ごろまでは、集落での自給自足も困難な状態であったが、現在は耕地を広げ、毎年約五百俵供出している。


梅丈岳(ばいじょうだけ)(五十八(いかはち)山・萬丈岳)


海山集落の北側にある山。レインボーラインの山頂公園・リフトや展望台のある山。当地にも登り口がある。若狭町と美浜町との境にある。標高395m。三方五湖最大の水月湖の北、常神半島の付け根にそびえる。もと五十八山と称し、のちに万丈岳と呼ばれるようになり、明治6年より梅丈岳と定められた。「若狭郡県志」や「若狭国志」には五十鉢山と見える。五十八山は南麓の海山の集落名五十八によるか。観光客には三方富士の名で知られる。周囲一帯は古生代の地層に属する頁岩・砂岩などの互層から成り、東西に走る断層もある。「三方郡誌」には弘化2年(1846)ごろに四国の別子より坑夫を呼び寄せ黄銅鉱を採掘した廃坑が山の東南麓にあると記す。かつては塩木切りの杣道や油桐の実を採取するための小道が通じていた程度だったが、昭和43年5月に美浜町笹田と若狭町海山とを結ぶ三方五湖レインボーラインが開通し、山頂部に休憩所・展望台・駐車場などが整備された。山頂から若狭湾や三方五湖を一望にし、 360゜の展望が楽しめる。

山頂は整備されて美しい公園になっている。お店もたくさんある。

舞鶴の五老岳より100メートル高く、眺望と「おもてなし」精神はひと味違う。五老岳は無料だが、こちらはここまで来るだけで2000円ほど必要。

『三方郡誌』
梅丈嶽。海山に在り。北西郷村に跨る。もと五十八(イカハチ)山と稱す。後萬丈岳と稱し、今は梅丈と書す〔明治六年定むる所なりと云〕、東南麓に廢鉱坑あり、地籍は八村に属す。銅鉱坑なり。弘化二年頃の發堀なるべし、坑夫は別子より来れりと云。廢坑の年月詳ならず宮津圖幅地質説明書に曰く、萬丈山ノ東南車宿麓ニ幅二拾尺ニ達スル肥大ノ鉱脈ヲ角岩中ニ通ズ、其走向ハ北々西ヨリ南々東ニシテ西南ニ四拾度乃至五拾度ヲ傾斜セり、主鉱ハ磁硫鐡鉱ニシテ斑々黄銅鉱ヲ散在シ、脈?大ナルニ比シタ鉱條弱小ナリ。舊坑アレトモ産鉱ノ多カラザリシモノヽ如ク、且母岩ハ角岩ナルヲ以テ、開坑極メテ廉ナラザリシヤ知ルべシ。然レトモ角岩及古凝灰岩層ヲ貫ク一條ノ花崗斑岩アリ、若クハ其接觸ノ處ニ於テ、鉱質富實ニ至ルヤヤモ亦知ルベカラズ。斯ノ如キハ中國鉱山中往々實例アリ。



蛸八なら聞いたこともあるが、イカハチ山とは、どうした意味があるのだろう。八ヶ岳とか八ヶ峰という山は、山の姿が、漢数字の「八」に似た山を言うようである、この山の場合は、それに厳めしいの接頭辞がついた山の意味であろうか。万丈岳は「万丈の山、千尋の谷」のたいへん高い山といった意味であろう。万丈岳がやがて梅丈岳に変わったのでなかろうか。

海山の伝説

『越前若狭の伝説』
熊野神社     (海山)
むかし海山では、毎年怪物のために農作物を荒されて困った。それを免れるため毎年ひとりずつ人身御供をささげた。若王子という人がそれを聞いて、怪物を退治するため、夏の土用中に紫の弓を持ち、金のかんじきをはいて、怪物を追い回し、ついにヤマンバタと呼ばれている湖辺まで追いつめて殺した。見るとその怪物は年老いたひひさるであった。若王子は氏神として熊野神社にお祭りした。
また怪物のたたりを恐れて、毎年九月九日の節句に猿(さる)神祭りという神事講を行なう。家格の順に神前に並び、首座のものが「ククク」とさるの鳴きまねをすると、村の氏子一同さるの鳴きまねをして、食ぜんにとりかかる。そのごちそうも、いかにもさるの好みそうなカボチャやイモの料理である。   (西田村誌)

山うば退治    (海山)
三百年ほど前、旧暦の六月に黄色い雪が二メートル近く降った。そのころ梅丈(ばいじょう)山(五十八山)の奥に山んばが住んでいた。この山んばは、夜になると出て来て、子どもをさらい、農作物を荒すので、村の人はたいへんこわがっていた。田辺安太夫の先祖が、この黄色い雪の中を、鉄のかんじきをはき、かまやりを持って、山んば退冶に出かけ、これを倒した。
その後かまやりとかんじきをお宮に奉納したが、村に悪いことが続いたので、拝んでもらったら、氏神へ置くのは神様がおきらいだというので、藤井の向陽寺にあずけた。今も向陽寺の宝物になっている。   (藤本良致)
海山の五十八(いかはち)の山奥に森があり、その森の中の巨木の空洞(どう)の中に鬼女か住んでいた。五十八の安太夫がこれを退治しようと思い。鬼女が行動しにくい大雪の日に、よろいかぶとを着け、鉄のカンジキをはき、長柄のかまやり(鎌槍)をもって退治した。安太夫の死後、彼を神とあがめ、小社を建てて八幡大菩薩と祭った。よろいかぶとは藤井の向陽寺に寄附し、鉄のカンジキは海山の熊野神社に納め、かまやりは安太夫の家に伝え、明治二十年ごろまであったが、今は行くえかわからない。  (福井県の伝説)

王の舞      (海山)
宇波西(うわせ)神社の例祭(四月八日)の王の舞の面は、海山の北庄の田辺清平の網にかかったものである。そのいわれで清平がその面をかぶって能を舞い、田辺次左衛門が太妓を打った。しかるに清平が衰えたため、その権利を海山区に売った。故に清平の養子である南西郷村大藪の佐弥治と海山区とが交替で行なうことになった。
現在ではさらに分割され、北庄では六年に一回当家が回ってくることになった。      (西田村誌)

北庄に瀬平・治左衛門という旧家があった。四月七日の朝、御神事のご菜を取りに湖へ網さしに行った。御菜の魚は一日に四枚いるので、三日間に十二枚必要である。ところか湖が荒れて片目の小さな一枚と、面とほこが上がった。ようやく切追に着いて、メンコ(べんとう箱)をいれた布のかっさい袋に面とほこを入れて、切迫から山を越えて、宇波西神社へ持って行った。その後京都の神楽(かぐら)坂で王の舞のけいこをして帰った。それで今でも「瀬平まいまい、治左たいこ」という。
面が古くなったので、塗りかえようとしたら、血が出たので、やめた。ほこも触れると血か出るといわれている。大正十年ごろ大火かあったが、面とほこなど神事道具を納めてあった納屋(なや)は燃えなかった。納屋だけとび越して燃えていった。(藤本良致)

残念石     (海山)
織田信長か朝倉氏を攻めたとき、朝倉氏は子どものひとりを当地のコガシマに隠した。コガシマは五ヘクタールほどの平で、その中に宮・森・寺屋敷などの地名が残っている。
寺屋敷には、むかし寺があったが、秀吉が焼いてしまった。そのとき寺男が残念に思って石にくらいついた。その歯跡か今も残っている。
その当時の寺の鐘が湖に沈んでいる。鐘の回りには、湖の主(ぬし)がいつも番をしている。湖の主は大きなこい(鯉)である。
        (藤本良致)

中の湖    (海山)
水月湖を中の湖(うみ)という。むかし義経が奥州へ落ちるとき、この湖のほとりに来た。そのとき弁慶は、ある寺の大つり鐘をかついで来て、この湖に投じた。底深く沈んだ大つり鐘の中には四メートルばかりの大きなこいが住んでいて、湖の主となっている。   (福井県の伝説)

万谷市郎兵衛     (海山)
むかし海山に万谷市郎兵衛という家があり、ひとりむすこがいた。父は早く死に、母や妻子と暮していた。ある年母か重い病気になり、むすこは看護に努めた。すると母は寒中にふなか食べたいといった。むすこはさっそく水月湖に舟を出したが、寒中のこととて、ふなは一匹もいなかった。
そのとき一羽のウ(鵜)かふなを一匹くわえて空を飛んでいた。あのふながほしいものだと、ひとりごとを言うと、ウは舟の上へ来て、ふなを舟の中へ落していった。むすこは喜んでこれを料理して、母に食べさせた。このことが藩士に聞こえ、親孝行をほめて、一軸を賜わった。   (福井県の伝説)





海山の小字一覧


『三方町史』
海山
大石(おおいし) 鎌倉(かまくら) 広畑(ひろはた) 南堀切(みなみほりきり) 堀切(ほりきり) 大端(おおばた) 艮張(こんばり) 岩崎(いわさき) 池の崎(いけのさき) 池の浦(いけのはた) 巴(ともえ) 向(むかい) 泉河原(いずみかわら) 東瀬戸(ひがしせと) 白石(しらいし) 岩棚(いわだな) 大脇(おおわき) 笹久保(ささくぼ) 生栗(いくり) 瀬崎(せさき) 風後(かざしり) 西小谷(にしこだん) 小谷新田(こだんしんでん) 川上口(かわかみぐち) 西川口(にしかわぐち) 東阿武子(ひがしあぶし) 阿武子(あぶし) 細磯辺(ほそいそべ) 嵯峨(さが) 西嵯峨(にしさが) 山姥(やまんば) 南椎崎(みなみしいさき) 椎崎(しいざき) 横掛(よこがけ) 福浦(ふくうら) 原下(はらした) 茨端(いばのはな) 大岩(おおいわ) 長坂(ながさか) 二つ割(ふたつわり) 長畑(ながはた) 田の尻(たのしり) 椎の木(しいのき) 双股(ふたまた) 南崎(みなみさき) 無佐(むさ) 小向(こむかい) 北小向(きたこむかい) 古畑(ふるはた) 宮本(みやのもと) 五十八下(いかばちした) 五十八(いかばち) 千原(ちはら) 大畑(おおはた) 豆利(ずり) 大口(おおくち) 柳谷口(やなぎだにぐち) 西山(にしやま) 松中(まつなか) 竹裏(たけのうら) 上山口(かみやまぐち) 宗心畑(そうしんはた) 粟の谷(あわのたに) 東庄(ひがしのしょう) 大寺(おおてら) 寺上(てらうえ) 中庄(なかのしょう) 西の庄(にしのしょう) 端庄(はなんしょう) 明者(みょうしゃ) 午房谷(ごぼだに) 治良谷(じろだに) 太良谷(たろだに) 柳谷(やなぎたに) 竜虎(りょうこ) 馬越(うまこえ) 沖の谷(おきのたに) 石橋(いしばし) 黒崎(くろさき) 西瀬戸(にしせど) 河原崎(かわらざき) 柿河原(かきこうら) 夷端(えびすのはな) 大東(おしがし) 北庄(きたじょう) 北庄下(きたじょうした) 南庄(みなみしょう) 庄堺(しょうさかい) 上河原(かみかわら) 坂の下(さかのした) 綱子(つなこ) 中賀谷(なかがたん) 小堀(こほり) 堀巴(ほりともえ) 西長尾(にしながお) 東長尾(ひがしながお) 西福浦(にしふくら) 松ヶ崎(まつがさき) 梅丈ケ岳(ばんじょがだけ) 竹ケ谷(たけがたん) 蛭子崎(えびすざき) 大黒山(だいこくやま) 富貴山(ふうきやま) 福谷(ふくたに) 表嵯峨(おもてさが)

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『三方町史』
その他たくさん



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