丹後の地名

本庄浜(ほんじょうはま)
京都府与謝郡伊根町本庄浜


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京都府与謝郡伊根町本庄浜

京都府与謝郡本庄村浜



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本庄浜の概要




《本庄浜の概要》

筒川の下流・河口部周辺の半農半漁の集落、本庄小学校あたりから海まで。
本庄浜村は、江戸期〜明治22年の村名。はじめ宮津藩領、寛文6〜9年・延宝8年〜天和元年と享保2年以降は幕府領。寛文9年(1669)永井尚征が入部、本庄浜村・本庄宇治村・本庄上村に細分された。本庄浜村分には、浦島社(現宇良神社)領が含まれていた(延宝3年郷付帳)。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年本庄村の大字となる。
本庄浜は、明治22年〜現在の大字名。はじめ本庄村、昭和29年からは伊根町の大字。

《本庄浜の人口・世帯数》 119・48


《主な社寺など》

宇良神社
宇良神社(伊根町本庄浜)
大変有名な神社。宇良神社(通称・浦島さん)は浦島伝説で全国的によく知られる。中世の筒川荘鎮守と伝え、室町期の紙本著色浦島明神縁起1巻、桃山期の刺繍針桜土筆肩裾小袖1領が国重文、嘉吉2年・永正3年の浦島社棟札、浦島伝説ゆかりの玉手箱などある。同社は本庄・筒川・朝妻地域の郷社で、8月3日の本祭には本庄上からも祭礼が入り、4日は地下祭で、ともに太刀振と花踊が奉納される。花踊は中世風流の面影をしのばせている。
宇良神社
宇良神社の延年祭


若宮神社
若宮神社 本庄浜小字アゴバ
祭神 三野対島守郎女命
例祭 八月四日
沿革 寛永元年(一六二四)十一月創建
   享保三年(一七一八)再建の棟札がある。
(『伊根町誌』)

三柱神社
三柱神社 本庄浜小字門前
祭神 火産霊命・興津彦命・興津媛命(元三宝荒神)
例祭 八月四日
沿革 元中三年(一三八六)七月とされる。
   天明三年(一七八三)二月再建の棟札がある。
(『伊根町誌』)

三柱神社
三柱神社 本庄浜小字宮の下
祭神 火産霊命・興津彦命・興津媛命
例祭 八月四日
沿革 文亀三年(一五○三)九月創建と伝えられる。
   寛延二年(一七四九)十一月再建の棟札がある。
(『伊根町誌』)


曹洞宗安養山延命寺
延命寺(伊根町本庄浜)
安養山延命寺
本庄村字蒲入、本尊地蔵菩薩、開基詳がならず。もと真言宗にて延命庵と号せしも慶長十年八月振宗寺九世雪山林積和尚改宗中興、明治二年三月十六日祝融に罹り同十年八月再建檀徒七十戸。
(『与謝郡誌』)

安養山延命寺(曹洞宗) 本庄浜 檀家五二戸
本尊 観世音菩薩
開山 雪山林積(振宗寺九世)
伝法開山 弌山玉峯(振宗寺三三世)
由緒 元真言宗の庵寺延命庵があり、慶長十年(一六○五)八月、振宗寺九世雪山林積和尚が復興し、安養山延命寺と称して、慶長十八年(一六一三)三月、真言宗より曹洞宗に改宗した。
 この庵寺の開基は市郎右衛門(平松家二代)といわれ、戒名は安養院鉄旧又玄生禅定門とあり、承応二年(一六五三)一月十日没した。また伝えるところによれば、大坂の紅問屋の船が難破した時、救助した報恩として尼寺を建て寄進したとも伝えられる。
 境内には延享二年(一七四五)十二月建立の「三界万霊塔」と、安政六年(一八五九)九月建立の「百万遍供養塔」があり、その他年代不明の法華塔が数体ある。
 明治二年(一八六九)三月十六日類焼し、明治十年(一八七七)八月再建された。現在無住であり護聖寺の住職が兼務している。…
(『伊根町誌』)


常世浜と常世橋
逸文風土記にうたわれる。
常世の浜の 浪の音聞こゆ。
の「常世の浜」とは本庄浜の浜といわれている。ここに筒川が流れ込んでいるが、当地から野室の方へ通じる町道なのかそこに架かる橋を常世橋という。
常世の浜(本庄浜)
先に見えるのが「鯛釣り岩」。カメさんはいなかったが、ウミネコのミナサンでいっぱい、ここは海水浴場になる。
そのすぐ近くに常世橋がある。
常世橋(本庄浜)

龍穴
【龍穴】(本庄浜村より宇治村に出る路傍)
龍穴一に風穴といふ、殊に此穴より清風吹来りて夏などは至て涼しき事なり、かくれ里より此穴に通ずといふ左もあらんと覚ゆ、穴の傍に碑あり島子龍宮より此處に帰り来る所謂龍穴是なりといふ。
(『丹哥府志』)

浦嶋龍穴碑 浦嶋神社より本庄浜へ通ずる府道の中程左側に龍穴洞があり、風穴とも呼ばれて夏の盛りでも冷たい風が奥の方より吹いて流れる。真夏の暑い日盛りに道行く人はこの穴の前に立ってしばし暑さをしのぎ、風穴の前に憩う人々は、神秘的なものを感じ、浦嶋子が龍宮からこの穴を通って帰って来たと伝えている。
 高さ一・○メートル・幅五○センチ程の穴の真上に碑銘があり、「浦嶋子従龍宮此所江帰来則爰龍穴云」と刻まれ、この碑は元禄期の宮津藩主奥平昌春の家臣菅沼吉兵衛の書といわれている。
(『伊根町誌』)


《交通》

《産業》


本庄浜の主な歴史記録

『丹哥府志』
◎本庄浜村(野室村の西)
【若宮大明神】
若宮明神は何の神を祭るや詳ならず、宮の内に建武二年の棟札あり、其棟札に此所は古廟の存る所後世必ず掘るべからずと云、唯古廟とのみ記して誰の廟たる事をいわず、定めて訳のある事なるべし、いづれ高貴の人ならんと覚ゆ、申伝へも絶えて建武の頃既に誰なる事は知れざりしか又は露にいふべき人にあらざるか、今明に知るべからずといへども聊か考あり(日本史に日下部使臣億計、弘計の二皇孫を奉じて丹波与謝に遁る、日下部使臣故あって遂に縊れい死すといふ、恐らくは是ならんか)されども考証審ならざれば且録して以て後の考をまつ。
【大走朗嶋大明神】島子の母を祭るといふ。
【稲荷大明神】(二社)
【安養山延命寺】(曹洞宗)
【かくれ里】本庄浜より海岸にそふて舟行十町斗も行く處に二、三間四方の穴あり、穴の深サ幾許あるをしらず、穴の内は立派に掃除して小さき幟を夥敷たつ、如何様なる訳なりやと尋ぬれば穴の内に是は神体といふものもなけれども穴の内へ入りて祈願をこむれば極て霊験ある此幟は願満の幟なりといふ、以前は穴の口に至りて思りまま願をこむれば何によらず膳椀の類まで穴より出たりとかや、抑斯様の噺は奇怪にわたれども但馬などには海岸山谷に限らず武家の内にて天井より銭の落ちたり戸棚より衣服の出たる事ども往々これあり、皆狐狸の所為なり奇怪といへば奇怪なれども何ぞ怪しむにたらん。
【釣垂石】(かくれ里の次)
昔島子の釣をたれし所なりと申伝ふ、皆続きにまな板といふ大なる平岩あり。
【田井崎】(本庄浜村より舟にのりて浦入村へ至る間にあり、経ケ崎につづいてのみさきなり)
【龍穴】(本庄浜村より宇治村に出る路傍)
龍穴一に風穴といふ、殊に此穴より清風吹来りて夏などは至て涼しき事なり、かくれ里より此穴に通ずといふ左もあらんと覚ゆ、穴の傍に碑あり島子龍宮より此處に帰り来る所謂龍穴是なりといふ。
【須彌堂】
 【付録】(山神、八幡宮、愛宕権現、庚申、薬師堂、毘沙門天、滝不動、役行者)




本庄浜の小地名


本庄浜
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『伊根町誌』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん



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