浦嶋神社(宇良神社)の延年祭
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お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから探索してください。超強力サーチエンジンをお試し下さい。 日本書紀の、雄略二十二年七月条に、 〈 秋七月、丹波国余社郡管川人水江浦嶋子乗レ舟而釣、遂得二大亀一、便化二レ為女一、於レ是浦嶋子感以為レ婦、相逐入レ海、到二蓬莱山一歴一二観仙衆一、語在二別巻一、 〉 とある。残念ながら「別巻」というものは伝わらないが、雄略天皇の時代の事として語られている。丹後風土記逸文などにも記録が残る。詳しくは「丹後の伝説1」 浦島太郎伝説も宇良神社も案内は大変、幸い境内には案内板があるのでそのままコピーさせてもらいます。 〈 浦嶋神社(宇良神社) 鎮座地 京都府与謝郡伊根町本庄 祭神 浦嶋子(浦嶋太郎) 相殿神 月読神 祓戸大神 浦嶋神社は延喜式神名帳所載によると、「宇良神社」と記されている。創祀年代は淳和天皇の天長二年(八二五)浦嶋子を筒川大明神として祀る。浦嶋子は日下部首等の祖先に当り、開化天皇の後裔氏族である。その太祖は月読命の子孫で当地の領主である。浦嶋子は人皇二十一代雄略天皇の御宇二十二年(四七八)七月七日に、美婦に誘われ常世の国に行き、その後三百有年を経て五三代淳和天皇天長二年(八二五)に帰って来た。 この話を聞き浦嶋子を筒川大明神と名付け小野篁を勅使とし宮殿を御造営された。この神社に伝わる浦嶋物語は起源が最も古く、八世紀初頭にできた丹後風土記更に日本書紀万葉集などに記載されている。又、古代より崇敬の念は厚く誠に顕著なものがある。 浦嶋子縁の地名 水之江里・筒川・曾布谷・今田・雲龍山・布引滝・龍穴・白鷺岬・かんこ川・舟繋岩 御神徳 縁結神・長寿神・農業神・漁業神・航海神・牛馬神・養蚕神 御祭日 祈年祭・延年祭 三月十六日夕宵宮・十七日午前九時より 例大祭 八月六日宵宮・七日午前九時より 御宝物 浦嶋明神絵巻(重文) 玉手箱(玉櫛笥) 乙姫小袖(重文)他 〉 心のふるさととしては、実はそう簡単な神社ではない。 『丹哥府志』には、次の記事がある。 〈 【浦島社】 本社(五間、三間)社の中央五社を合せ祭る(五社は何の宮を集めて五社とする審ならず、俗に浦島太郎、曾布谷次郎、伊満太三郎、島子、亀姫の五人なりといふ未だ実否をしらず)其左右に随神各一座(冠服の制並に年歴を歴たる模様千年以下のものにあらず)社の下に狛犬一対、社の右に末社二社、右は豊受皇左は八幡宮なり、社の正面に華表二基、華表の前に楼門あり、楼門の前に鞨鼓橋あり(長一間半横五尺、擬法師あり、銘に寛文二巳年とあり、足音の?たる鞨鼓に似たり、よって名とすといふ)門内右の方に手洗鉢一箇、手洗鉢の右に絵馬堂一宇、絵馬堂の右に篭堂一宇、楼門の前右の方に二重の塔あり(元は三重なるよし)塔の前に皺ゑの木あり、島子玉手箱を開きし所といふ。本社東の方に並びて寺の本堂あり、本堂の東に客殿庫裏櫓を並ぶ、本堂の正面に鐘楼門あり、鐘楼門の右に宝蔵あり、鐘楼門の左に惣門あり、門の続きに長屋を建つ、門の内に池あり、池の内に弁財天を安置す、池の辺に石灯篭一柱銘に至徳二年己丑二月とあり。 神社考曰。丹後与謝郡阿佐茂川明神者浦島子也云。(阿佐茂川非与謝郡也) 神社啓蒙曰。網野神社在丹後国竹野郡阿佐茂川之東網野村所祭之神一座其下に引日本紀及丹後風土記以為浦島子。 愚按ずるに、以上二書浦島の社を与謝郡筒川の庄本庄村にありとせず、蓋神社啓蒙は神社考の誤を受けて斯いふなるべし。丹後風土記曰。与謝郡日置里に筒川村あり、筒川の島子といふもの姿容美秀風流たぐひなし、所謂水江の浦島子なりと云。丹後旧事記に其日置といふに就て碇峠(本庄の南菅野谷より竹野郡宇川の庄へ越す峠なり)の名を引き延喜式に所載の倭文の神社を此宮に当つ、少し率合するに近し。阿部公の撰する新撰島子伝には此社を延喜式にある宇良の神社とす、宇良音韻も近ければ穏なるに似たり、今これに従ふ。 社記曰。浦島明神は島子を祭るなり、島子は元いづれの人なる事をしらず。偶然として筒川の庄水江に来りて其長浦島太郎の義子となる、浦島太郎は蓋月読尊の苗裔にして日下部の祖なり。風土記履仲天皇四年始て国史を置き尽く言事を記さしむ、此時に当りて丹波国与謝郡筒川の庄日置里に浦島太郎といふものあり、月読尊の苗裔なり、故を以てこれを長者とし国事をしるさしむ。其弟を曾布谷次郎といふ、次を今田の三郎といふ、浦島曾布谷今田は地名なり、太郎、次郎、三郎は伯叔の次なり、太郎は履仲天皇反正天皇に二代に仕ふ、次郎は允恭天皇に仕ふ、三郎は安康天皇に仕へて武術の聞えあり、安康天皇即位四年眉輪王帝を弑する時三郎これを防戦す、其功すくなからず(国史に日下部使臣其子吾田彦億計弘計の二皇孫を奉じて難を丹波與佐に避るといふ恐らくは此人ならん)。 始め浦島太郎に子なし毎に之を憂へて祷ること久し、一夜夢に天帝より太郎を召して告げて曰く、汝に天然の嗣子を与ふ謹而嗟嘆することなかれ、翌日太郎其妻と海浜に遊びて山水を弄ぶ、偶一童子の姿容秀美なるを見るよって問ふて曰、汝は誰家の児ぞ、児の曰、我に親なく又住する處もなし只天地の間のものなり、於是太郎其妻と昨夜の夢を語りて天の与ふる所の児は誠に此児なりとて、遂に携へて家に帰り養ふて以て子とす所謂島子なり。島子の人となり毎に山水を愛して高くは山に遊び遠くは水に泛ぶ、一日釣を垂れて五色の亀を得たり、恍惚の間に其亀化して淑女となり、五色の衣裳を垂れて玉笄象櫛悉く美を尽し従容として島子に謂て曰、我は竜宮の乙姫なり願はくは君の為に枕席をすすめん、固より一世二世の宿縁にあらずといふ、島子心にこれを異むといへども遂に乙姫と同じく竜宮に至る。 始め竜宮に至る時七竪子門外に跪きて島子を迎ふ、曰、我は昴星なり、又竪子島子に向ひて我は畢星なりといふて手をこまねき、島子を引て黄金閣より水晶殿を経て真珠宮に入る。於是舅姑恭しく出て島子を見る、曰、我は乙姫の父母なりよく避る心あることなく、永く先は偕に老いよ、其言のおわる頃ほひ窈窕たる一女子玉觴を捧げて舅姑の前に置く、又一女子甘露羮を奉じて其次に置く、舅姑其觴をとりてまづ少し喫みて島子に酬す、島子これをうけて又舅姑に献ず、其献酬の間伶人仙楽を奏す其冠服の制皆人間の見る所に異なる、島子乙姫に問ふて曰、今楽をを奏する者は誰とかする、いわく、上位にありて玉篇を吹く者は角星とす、次に金管をもつ者は元星とす、次を昏星とす、次を房星とす次を心星とす、次を尾星とす、各鐘鼓管籥を奏す。 既にして日々夜々の歓楽人の得てする所にあらず、荏苒として両三年を過ぎたり、一日乙姫と同じく鳳凰台に登りて千里の外に眼を遊ばしむ。於是島子愁然として偶故郷を思ふ、始め乙姫と同じく故郷を廃せし日は釣を垂るとて家を出るなり、然して遂に竜宮に来り荏苒として既に三年斗も過ぎたり、父母は定て江魚の腹中に葬るるとも思ふべし、おのれ独栄華を受るとも不孝の名を蒙りては天地の間に立つべからず。ひとたび斯思ひしより種々の念慮心頭に上り遂に几に憑りて臥しぬ。乙姫其不豫の色あるが如きを見て慇懃に其よしを問ふ、島子審に情の発する所以を語る。乙姫其ゆゑんを聞て敢て留める事能はず、遂に島子を帰省せしむ。別に臨て島子に玉手箱を与ふ、かたく戒めて曰、再び竜宮へ帰らんと欲せば必ず此箱を開く事なかれと、よくかれに教へて島子を送る。島子将に帰らんとして猶別を惜しみ涙を垂れて遂に臥しぬ、島子の心にしばし眠るかと思へば既に水の江に着ける。 於是陸に上り其故郷を見るに桑碧相変りて一もしる所なし、偶一老婆の衣を洗ふを見る(此處所謂鞨鼓橋なり)これに就いて浦島の所在をを尋ぬ、老婆の曰、我事既に一百七歳我祖母の話に昔浦島太郎といふものの子に島子といふものあり一日釣に出て遂に帰らずといふむかし語りはあれども浦島太郎といふものをしらずといふ。島子自ら謂はく僅に三年斗と思ひしが今幾星霜を経たるをしらずみづから心を傷ましむ、又浦島太郎の墓ありやと尋ぬれば、老婆大樹を指して此樹に浦島太郎の墓に植ゑし樹なりと申伝ふ(所謂一本杉是なり)於是島子其樹の下に至りて久しく哭泣すれども悶を遣るによしなく、彷徨して又老樹の下に至り、乙姫の与へし玉手箱を出して如何なる物ぞとひそかに開けば、其中より紫雲出て其身忽ち皺となり遂に其樹の下に死す(所謂皺ゑの木是なり)抑雄略帝廿二年秋八月海に入り淳和帝天長二年に帰る、其間凡三百四十二年。 愚按ずるに、丹後風土記又阿部公の撰する新撰島子伝、社記と大同小異あれども大意略天長二年に帰るとあり、天長二年は養老四年より相後るる凡一百六年、其養老四年に成る日本紀及び聖武帝の御宇に撰びし万葉集に浦島子の事あり、天長二年に帰るとするは杜撰の甚しきなり。 日本書紀曰。大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)廿二年秋七月…略… 愚按ずるに、扶桑略記並近世水戸公の撰する日本史に載する所も此文と略相似たり、皆島子釣る處の亀化して女となる島子其女と同じく蓬莱に至るといふ、実に是事あり哉審ならず。又浦島子伝、続浦島子伝を見るに皆大意は相似たり、続浦島子伝始に島子の事を記し次に古風一篇をのせて次に七言絶句並和歌各十四首を題す、始にのする所の文、古詩の序の如くに見ゆれども序文にもあらず固より島子の伝にもあらず、まづ浦島の賦なり証とするに足らず。三才図会には島子の至る竜宮を今の琉球ならんといふ、風土記の如きは徐福のいれまぜたるに似たり。 或曰。億計、弘計の二皇孫は市辺押磐の子なり、市辺押磐は履仲天皇の皇子なり、始め安康天皇市辺押磐は履仲天皇の皇子なるを以て立てて太子とせんとす、安康天皇眉輪王に弑せらるる(安康天皇の皇后は元大草香の妻なり、根使主の讒によりて大草香を殺し遂に其妻を納れて皇后とす、大草香の子眉輪王は皇后の生む所なれば宮中に養はる、眉輪王父の為に仇を復するとて帝を弑す、皇弟其変を聞くより兵を率ゐて眉輪王を攻む、眉輪王遁れて大臣円の家にかくる、皇弟其家を焼く、眉輪王及円皆焼死、皇弟は則雄略帝なり)に及びて安康天皇の皇弟市辺押磐を殺し遂に位に即く、是を雄略天皇とす、是時に当りて市辺押磐の臣日下部使臣、億計、弘計の二皇孫を奉じて難を丹波與佐に避け、後廿六年を経て播磨の国司来目部小楯其よしを以聞するによって億計、弘計の二皇孫初て帰る、実に清寧天皇の三年なり。始め難を避けて丹波與佐にかくる、弘計年甫十歳、億計年十八歳、立て天子となる弘計卅八歳来目の稚子と称す、位に在る僅に三年、年四十にして崩ず(顕宗天皇)皇兄億計王立て天子となる、年四十九歳嶋郎と称す、位に在る凡十一年、年五十九歳にして崩ず(仁賢天皇)。事は続日本紀に詳なり。蓋島子の蓬莱に詣りて数百年を経て帰るといふは実は仁賢天皇雄略帝の難を避けて丹波與佐に詣り、数十年を経て都に帰り立て天子となる、年四十九歳猶島郎と称す、於是知るべきなり、実に島子の事あるにあらずといふ。 愚按ずるに、仁賢天皇の即位より日本紀の成る養老四年に至る凡二百卅三年、世の相距ること未遠からず、斯の如きは皆世の知る所なり、况や舎人親王日本紀を撰するに豈其事を知らざらんや、然るに島子竜宮の事をのせて実は仁賢天皇の事なりと日本紀にいはざるは何ぞ哉、抑当時の事を言はざるは史の習ひなれば舎人親王万言に帰して其事を露に言はざるか明に知る事能はず、姑く録して後の撰物の参考に備ふ。 宝蔵目録 一、描金彩匣 一、滝金手箱 一、盥 五 一、點脂筆 十巻 一、櫛 十枚 一、円鏡 以上七品何人の寄付なる事をしらず、俗に乙姫の備具なりといふ。櫛十枚の内三枚古代の物と覚ゆ、よって図を以て別に示す。 一、玉篋(玉の周三寸斗)鈿匣に蔵む、俗に乙姫島子に与ふ玉手箱なりといふ。 一、小袖…略… 一、白磁…略… 一、仮面…略… 一、横笛 一管 一、鼓…略… 一、能登守教経矢柄…略… 〉 浦嶋神社の延年祭について、『伊根町誌』は、 〈 延年祭 春祭りで棒祭、福祭ともいい、浦嶋子に最もゆかりのある三野家一門が拝殿に参集し、座祭を執り行い、削り掛の福棒およびハナを参拝者に頒つ行事が執り行われる。毎年社人三野家にて一門が参籠し、潔斎して神木として削り掛の花をつくり、花は俵と繭の形につくり、その年の米、蚕の幸を願い寿福を祈る行事である。 〉 としている。 『京都の田楽調査報告』(府教委・昭53)は、 〈 丹後の宇良神社における『縁起絵巻』に見る如く、中世期の絵画史料に立派な専業の田楽法師による田楽の姿が描かれており、農民による所役としての素人田楽のみでなく、地方の大社寺にも、専業芸能者の隷属が充分に考えられる。 〉 古くはプロの芸能人もいたと推測されるという。そうだろうと思う。この辺りの筒川周辺は高い文化が残されている。古代から中世までくらいではなかろうか。この高い文化を支えたのはこの地の水銀や金属だと私は(たぶん一人で)考えている。浦嶋にゆかりのある三野家一門が祭をとり行うそうだが、なかなか垢抜けしていて、面白くてたいくつさせない。無駄なモノがいっさいなく手慣れたツウのこなしぶりである。 延年祭に翁 丹哥府志も宝物に仮面を挙げていて、古くから伝わっていたと思われる。小牧進三氏は、 〈 例年二月十七日は、太宝令(七○一)に定められた「年祈祭」にあたるか、ことに宇良神社がこの祭祀を延年祭と呼び宮中祭祀に同系の祭祀がみいだせるのは、文献によらずともこの祭りは平安時代まで悠にさかのぼりうる。その祭祀の全般をとおしてみる素朴さと重厚さは、筒川の里の風光と巧みに溶け千古無量の光陰がよみがえる。 〉 としている。 「延年」というのは、簡単には健康長寿ということだが、この場合は大寺院の法会の後の余興芸能のことで、岩波の『古語辞典』に、 えんねん【延年】A平安時代末期から鎌倉時代にかけて、寺院で法会の後など、芸能に堪能な者(後には専門の遊僧)によって余興的に演じられた、舞楽・田楽・猿楽その他の遊宴歌舞の総称。特に南都・北嶺の大寺で盛んに行なわれた。「延年の舞」とも。「山門衆徒遊宴、−と称す」(明月記寛喜一・七・一七) とある。 たぶん最初は、来迎寺の法会の後で催されていた、猿楽系の根本舞であったものか、それがいつの頃か当社に引き継がれてきたものかも…、芸能には長寿除禍の効果があるとされていた。 当社の伝統芸能「翁三番叟」は一度は消滅していたもので、1988年伊根町商工会むらおこし事業において、40年ぶりに地元青年たちが中心となって復活させたもの。本庄地区などの青年らによる「翁会」が、89年からは毎年、延年祭で奉納されているという。筒川をさかのぼった河来見地区が奉納していたものだという。 伊根町のどこの青年団長だったか、伊根町はパチンコ屋がない、信号機がない、女がない。若者などはおりません。などと嘆いていたが、大変な難事業だったと推測できるが、根が残っていたから復元もできたのだと思う。伊勢神宮だったかそこまで行って教えてもらったとも聞く。 翁三番叟のはじまり。 玉手箱だろうか、まさか、たぶん面の入った箱だろうか、それを先頭に翁、千歳、三番叟、そして囃子方と続く。 後の新聞報道で知ったのだが、今年は主役三人全員が新人という。初舞台とするならまことに立派なものだったと私は思った。本当は一年以上も以前から週二回の練習されていたそうであるが、昨年はわずかに完成度が足りずに見送りとなり、今年が初めてなのだという。 さっぱりと門外漢なのでまともな説明などはできないが、写真をとってから調べたドロナワの知識で、少しだけ怪しげな「説明」をつけておこうかと思う。 翁の舞 黒式尉(三番叟)の舞い 舞いと呼ぶか、かなり躍動的なもので、本当は舞うと呼ばずに踏むというのだそうである。しかし踏むというよりも宙を舞うという感じである。静と動、横の動きと縦の動き、白と黒といったみごとな対比なのか。三番叟は嫗だとも言う。男と女の対比もあるのかも。わずかな表徴で全世界を表現しているのではなかろうか。現代人よりもかなり粋な感性を持っているように思われる。先人はすごい格調があってしかも誠にカッコがいい。「日本人DNA」かな、共鳴するのか細胞の奥からかなり揺り起こされそうになる。 黒式尉はコクシキジョウと読む。あるいはクロシキとかクロキとかとも呼んでいる。これを 最初はこのように素面で登場する。 これからがミモノですよ。 しかしワシ、足が痛うて、どうにもなりませんので、ちょっと崩さしてもらいますわ。 千歳と三番叟 三番叟 黒式尉の面を付けて鈴をもらって、また踏む。 それでは皆さん引き上げましょう。 ん?何をしておいでじゃな。 なに足が痺れて歩けないと。 すばらしい芸能でした。全舞台録音はしてきたのだけれども、とても文字に正確に復元できないのですべて省略します。 この日は、東京から来ましたという団体もあったが、見物の人はそう多くはないようで、見る側にはまことに楽に見せてもらえる。せっかくの渾身の伝統芸能、お近くの人はぜひご見学を! 「延年祭'13」 秋の例大祭→「本庄祭'12」 (参考) 『伊根町誌』に、 〈 河来見の翁三番叟 河来見の三柱神社(元三宝荒神社)に伝承されている翁三番叟は、その創始年代は明らかでないが、江戸時代初期から始められたと推定され、起源は浦嶋神社にその発祥を見ることができる。 浦嶋神社には室町時代に神社お抱えの猿楽師達があり、神事には能楽(始め猿楽能)が催されていたが、近世初頭に社領が半減されたことによって、能役者を抱えることが財政上困難となり、能楽師たちは若狭方面に移住してしまった。浦嶋神社の社領は天文九年(一五四○)十月二十三日付、「浦嶋大明神へ御寄進分目録」(社創注進)によると二○石六合四勺があてがわれていたが、慶長六年(一六○一)十月に一○石となり、更に翌慶長七年(一六○二)京極高広の検地により六石三斗一升二合と削減されている。この社領の減少によって、常時能役者を抱えることができなくなった浦嶋神社では、神社の造営や屋根の葺き替えなどの神事の時には臨時に能楽師をよんで上演していた。翁三番叟はその後浦嶋神社の神事のおりに、能楽者に代わって河来見の地域の人々が勤めるようになっている。河来見地区に残されている記録によると、天保二年(一八三一)、三柱神社の造営のときと、昭和四年(一九二九)四月十九日、同神社創建八百八十年祭に、装束や調度品を新調して荘厳な式典を共に上演されている。当時の記録をたどって見ると、京都室町にて能楽の装束や調度品を整え、三本木観世能楽堂をたずねて実地に見学し、研さんに努めていることから、観世能の流れを汲む翁三番叟である。この翁三番叟が催されたのは、年中行事の祭礼とはことなり、かつては干天がつづいたときの雨ごいや、重要な神事の時だけに上演されたものであり、戦後には一度雨ごいのために浦嶋神社で奉納されている。 翁三番里の由緒について浦嶋神社前宮司宮嶋茂久の書写したものによると、 「権現山は経が岬の沖合より見通しのよろしきところへ、昔ある年の春ならむ。浦々をめぐりける千石船のありけり。はてしなき海原にかすみかゝれる晨そらに、舟の上にて人々舞楽を催しけるに、ふしぎや一時ばかりのほどに舟、水上に留まりして動かざり。人あやしみて同船の智識に其のいわれをうらないけるに、遥かに権現山にいます熊野大神のこれの興あり。音楽におん耳をそばだてられしより、自ら船は行手にさまよいけむという。みな人即ち驚き畏みて、鼓、太鼓のかずかずを大宮に献上する事を起誓し奉り、具に海上安穏を念ぜしに船忽ちにすゝみ行けりと。是ら郷の人神慮を和らげまつるよすがとして、翁三番叟を神技とし累代伝えたりとぞ」とある。 一 翁三番叟と別火 翁三番叟はもと猿楽能から伝わって、今なお能楽に演じられる首曲であるが、一般常納の戯曲的なものと全く異って、天下泰平・国家安穏を祝う祭式的性質をもっている。 神秘観から俗界を離れた清浄境を現すために、能楽の冠頭に据えて前奏する曲礼である。 演式は翁・千歳・三番叟の三部からなっている。 猿楽が神社の所属であった時代にその芸術的信仰から常の演舞に先立って、神魂を迎えて舞台を浄化せしめるよう翁を奏したもので、古来「翁渡し」といっていることを考え合わせると、神の渡御に擬する意義を酌みとることができる。 翁三番叟はこのように神曲として尊崇されたので、この役にたずさわる者は、あらかじめ数日間別火して不浄を忌み、精進潔斎をする掟がある。河来見の場合も一週間前よりそれぞれの家の表の間に籠り、家の出入りも通常の入口は使わず、表の縁側より出入りをし、寝食も家族と別にした。特に炊事の火の取扱いは厳重にされ、使用に先立っていちいち切り火をして清めてから使用され、また炊事用鍋なども同様に切り火をした。食事も酒、肉を断って心身を清めて当日を待つのが慣わしであった。 二 装 束 諸役の装束並びに持物 翁 初め直面、翁烏帽子、襟−白二枚 著附白線、指貫、翁狩衣、腰帯、翁扇 後に白式尉面を着ける 千歳、 侍烏帽子、襟赤 著附段厚板、千歳直垂上下、神扇 三番叟 初め直面、侍烏帽子 著附−厚板、三番叟直垂上下 扇 後に剣先烏帽子、黒式尉面、鈴 面箱持 装束は千歳に同じで他に面箱(翁) 囃 方 地謡 裃 笛 〃 小鼓 〃 大鼓(大胴) 〃 後見方 〃 三 出順 面箱持は両手にて恭して捧げて先頭に立つ。 続いて翁−千歳−三番叟−離方−地謡方の順に舞台に入る。 太夫の後見方は太夫の背後に、地話方は囃方の後方に着座して始演を待つ。座が定まると笛をまず一笛ふき出して、小鼓が入違いの手を打出し、大夫が「とうとうたらり、たらりたらりあがりららりとう」と謡い出す。つづいて、地「ちりやたらりたらりら、たらりあがりららりとう」太夫「所千代までおはしませ」地「我等も千秋さむらはう」太夫「鶴と亀との齢にて」地「幸心に任せたり」大夫「とうとうたらりたらりら」地「ちりやたらりたらりら、たらりあがりららりとう」と謡う。 ここへまた笛の音が入って、小鼓の打つ手が変り、千歳「鳴るは滝の水、鳴るは滝の水日は照るとも」と謡いながら、直垂の左右の袖を取って立ち上がる。地「絶えずとうたりありうとうとうとう」で正面先へ出て、右を受けて「絶えず溜たり常に陥たり」と謡い、鼓方の掛声「イャッハ」と左の袖を離し、同じく「ハッハ」と右の袖を離し、後へ退って両袖を高く巻き上げ「イヤハ」と足拍子を踏む。これより初めの「千歳之舞」となる(舞略)舞い終わると「君の千歳を経ん事も」と謡い出す。「天つ少女の羽衣よ」で左右と二足踏み込んで、右の袖を巻き込んで聞き、「鳴るは滝の水」と袖を戻し、右へ廻り、しなに扇を右へ持ち直し、「日は照るとも」と正面を向く。地「絶えず溜たり、ありうとうとうとう」で正面先へ出て、右足を留めて、足早に下がり、両袖を巻き上げ足拍子を踏んで遥拝する。これより再び千歳の舞となる。略。 「およそ千年の鶴は万歳楽」と謡う。つづいて「万代の池の亀甲に二極を備えたり、渚の砂、索々として朝の日の色を朗じ、滝の水、冷々として夜の月あざやかに浮かんだり、天下泰平国土安穏今日の御祈祷なり」と謡い、上を見上げて足拍子三つ踏む。これを「天の拍子」といい、下を見て足拍子三ツ踏むのを「地の拍子」という。これより舞進んで足拍子三つ踏むのを「人の拍子」といい、「天地人」の三拍子を舞い上げる。「千秋万歳の悦びの舞なれば一舞まおう万歳楽」と三足出して三足引き、両袖を寄せて拝をし、地「万歳楽」太夫「万歳楽」地「万歳楽」と静かに謡い納める。つぎに三番叟は黒式尉面と鈴を取り出し、侍烏帽子を脱ぎ、代りに剣先烏帽子を被り、囃につれて「ああ」と掛声をしながら足早やに舞台へ出て、「おおさいおおさい喜びありや、此の所より外へはやらじとぞ惟う」と謡って大鼓の頭と共に拍子を踏み、以下笛も吹き続けて舞となる。これを「揉之段」といい、舞の終わり方に横飛びする型を烏飛という。揉之段が終わると、三番叟は後見座で黒式尉の面を着け、面箱持と問答があって、次の舞の鈴を受取る。面箱持は外に退き、三番叟は再び囃子につれて「鈴の舞」を舞う。この舞の間は鈴を右手に扇を左手に持ち、そのうち扇を後にして体を屈めて、鈴で土に種を蒔き歩くようた型をし、これを「種蒔」という。また扇を片方へ引き除け、面を切って見廻すところを「面返し」といい、鈴と扇とを左右に広げ、まず足先で足拍子踏むのを「揺合せ」という。終わりに後へ退り鈴を裁いて舞い納める。 〉 何で3月17日なのかが以前から気になっているのだが、何も文献にはないようである。翌日の3月18日(9月18日も)は、藤社神社(峰山町)の天目一箇神の祭日であるように、大変に重要な日のようである。 柳田国男は「目一つ五郎考」に次のように書いている。 〈 …我邦の傳説界に於いては、三月十八日は決して普通の日の一日ではなかった。例へば江戸に於いては推古女帝の三十六年に、三人の兄弟が宮戸川の沖から、一寸八分の観世音を網曳いた日であった。だからまた三社様の祭の日であった。といふよりも全国を通じて、これが観音の御縁日であった。一方にはまた洛外市原野に於いて、この日が小野小町の忌日であった。九州のどこかでは和泉式部も、三月十八日に没したと傳ふるものがある。「舞の本」の築島に於いて、最初安部泰氏の占兆に吉日と出たのもこの日であり、さうかと思ふと現在、和泉の樽井信達地方で、春事と称して餅を搗き、遊山舟遊をするのもこの日である。暦で日を算へて十八日と定めたのは佛教としても、何かそれ以前に暮春の満月の後三日を、精霊の季節とする慣行はなかったのであらうか。 このあひだも偶然に謡の八島を見てゐると、義経の亡霊が昔の合戦の日を叙して、元暦元年三月十八日の事なりしにといってゐる。これは明らかに事実でなく、また観音の因縁でもない。そこでたち戻って人丸の忌日が、どうして三月十八日になったかを考へると、意外にも我々が最も信じ難しとする景清の娘、或ひは黍畑で目を突いたといふ類の話に、却って或程度までの脈絡を見出すのである。「舞の本」の景清が清水の遊女の家で捕はれたのは、三月十八日の賽日の前夜であったが、これは一つの趣向とも見られる。しかし謡の人丸が訪ねて来たといふ日向の生目八幡社の祭禮が、三月と九月の十七日であったゞけは、多分偶合ではなからうと思ふ。それから鎌倉の御霊社の祭礼は、九月十八日であった。上州白井の御霊宮縁起には、権五郎景政は康治二年の九月十八日に、六十八歳を以て歿すといってゐる。 私は今少しくこの例を集めて見ようとしてゐる。もし景政景清以外の諸国の眼を傷つけた神々に、春と秋との終の月の欠け始めを、祭の日とする例がなほ幾つかあったならば、歌聖忌日の三月十八日も、やはり眼の怪我といふ怪しい口碑に、胚胎してゐたことを推測してよからうと思ふ。丹後中郡五箇村大字鱒留に藤社神社がある。境内四社の内に天目一社があり、祭神は天目一箇命といふ。さうしてこの本社の祭日は三月十八日である。今まで人は顧みなかったが、祭の期日は選定が自由であるだけに、古い慣行を守ることも容易であり、これを改めるには何かよくよくの事由を必要とし、かつそんな事由はたびたびは起らなかった。故に社傳が学問によって変更せられた場合にも、これだけは偶然に残った事実として或ひは何物かを語り得るのである。… 〉 あるいは今の延年祭の次の日に、本祭、目一箇神の祭がかつてあったのでは…などと疑うのだが、何も記録はない。 ほかを当たってみると、平景清あるいは活目入彦五十狭茅尊(垂仁天皇)を祀る生目八幡神社(宮崎県宮崎市生目)の祭日は3月と9月の17日であった(今は違っているとか)。活目生目(いくめ・いきめ)は片目一つ目のことで、鍜冶神であるが、その祭祀日は、3月と9月の17日と18日であったと思われる。 3月17日の祭日から推して当社も鍜冶神を祀るのであろうか。浦島太郎さんは漁師だと思い込んでいると理解できないが、 「伊根のなげ節」にも歌われている。 ♪ 伊根はよいとこ後は山で、 前で鰤とる、鯨とる。千両万両の金もとる。 漁師は前の海で漁師をし、後の山で鍜冶も行った。冬期の海の荒れる季節は鍜冶屋であったと思われる。こうしたことで当然にも鍜冶神も祀られることになったのであろうか。延年祭は福祭とも呼ばれる、吹く祭か、福棒は吹く棒か、桐の木のようで、真ん中は穴になっていて、火吹き竹を彷彿させる。 |
資料編の索引
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昔々浦島は
助けた亀に連れられて
竜宮城へ来て見れば
絵にもかけない美しさ
乙姫様の御馳走に
鯛や比目魚の舞踊
ただ珍らしく面白く
月日のたつのも夢の中