京都府与謝郡伊根町本庄浜
京都府与謝郡本庄村浜
文部省唱歌
浦島太郎
尋常小学校唱歌第二学年用教科書
明治四十四年六月二十八日刊行
(1)昔々浦島は
助けた亀に連れられて
竜宮城へ来て見れば
絵にもかげない美しさ
(2)乙姫様の御馳走に
鯛や比目魚の舞踊
ただ珍らしく面白く
月日のたつのも夢の中
(3)遊びにあきて気がついて
お暇乞もそこそこに
帰る途中の楽は
土産に貰った玉手箱
(4)帰ってみればこは如何に
元居た家も村も無く
路に行きあう人々は
顔も知らない者ばかり
(5)心細さに蓋とれば
あけて悔しや玉手箱
中からぱっと白煙
たちまち太郎はお爺さん
|
宇良神社の概要
↑モニュメントの背後に宇良神社が鎮座している。
《宇良神社の概要》
日本人ならば知らぬ者はない、浦島太郎伝説の神社であります。与謝郡伊根町本庄浜にある神社で、祭神は浦島子、月読命、祓戸神。「丹哥府志」では祭神を浦島太郎、曽布谷次郎、伊満太三郎、島子、亀姫とする、延喜式内社に比定される。
今は海岸から1キロ以上も遠ざかった所にあり、神社の背後をを筒川が流れ北面して社殿が建つ。浦島大明神・筒川大明神ともよばれる。「丹哥府志」「宮津府志」は本庄宇治村にあると記し、社名を浦島社としている。
まことに古い記録が残されていて、『日本書紀』雄略22年条に、
秋七月に、丹波国余社郡管川(つつかは)の人水江浦島子、舟に乗りて釣し、遂に大亀を得たり。便ち女に化為(な)る。是に浦島子、感(め)でて婦(め)にし、相逐ひて海に入り、蓬莱山に到り、仙衆(ひじりたち)に歴(めぐ)り覩(み)る。語(こと)は別巻に在り。 |
『丹後国風土記』逸文に、
與謝の郡、日置の里。此の里に筒川の村あり。此の人夫(たみ)、日下部首(くさかべのおびと)等が先祖の名を筒川の嶼子と云ひき。 |
と伝えている。各地に浦島太郎の伝説はあるけれども、ここ与謝日置筒川がもっとも由緒正しいかも知れない。以後「元亨釈書」「如意尼の伝」、永仁2年の年号を持つ「続浦島子伝記」(社蔵)、南北朝期頃の作とされる「紙本著色浦島明神縁起」(社蔵、国重文)など、時代につれて伝説が変化・成長する。今日の誰もが知る助けた亀に乗って竜宮城へとか乙姫様とか、現在の日本人が普通知っているものはごく最近の浦島太郎伝説すなわち国定教科書版浦島太郎という。恐るべし国定教科書の威力。
どこまでが、村人たちに伝わった古来の伝説で、どこからが当時超一流の官僚学者たちの潤色部分かはよくわからない。
浦島太郎は月読尊の裔と伝えているし、筒川大明神の本地仏は薬師如来で、鎮座地がウジ、それに日槍の根拠地・但馬に多い日下部氏、そうしたことからたぶん金属や海と関係深い古い天日槍系、あるいは倭人系の氏族とワタシはみているが、とくには何も伝わらない。
社殿が北面して建てられている、なぜ日に背を向けるのか、当社の過去ばかりでなく何か語られない丹後史の重大な秘密が隠されているのではなかろうか。
『丹後旧事記』
水江能野長者日下部浦島太郎。去来穂別尊治天下即位四年諸州置国史官依旦波国與佐郡筒川日量里島垂根尊苗裔尋求名熊野長者日下部浦島太郎呼一説月読尊苗裔又島根見尊成り其伝何神孫の人也日下部首等祖也。風土記元々集田辺宮津府志に挙瑞歯別尊(反正天皇)御代に至る。 |
浦島社は当社周辺に、11社知られている(小牧進三氏調べ)。
「浦の嶋子を祀る神社は、
(1)同社(ここで取り上げている宇良神社)をはじめとし
(2)与謝郡加悦町字虫本(式内大虫神社合祀)
床浦神社
(3)竹野郡網野町字網野の大同元(八○六)
日下部嶋根保重神主とみえる
式内 網野神社
(4)同町浅茂川 川口の明神岡
島児神社
(5)同町下岡の
六神社(島子とその一族)
(6)竹野郡丹後町字宇川上野
浦島五社
(7)加佐郡大江町河守
浦島神社(筒明神)
(8)福知山市字戸田
浦島神社(月読尊)
(9)綾部市字下延町
浦島神社
(10) 〃 字奥黒谷
浦島神社
(11)兵庫県朝来郡山東町粟鹿(粟鹿大明神摂社)
床浦神社
と広範囲な神社分布の中に浦の島子は永劫の未来へと命脈している。」とされているが、舞鶴溝尻の貴布禰神社境内社にも浦嶋神社がある。氏ですら見落とされたものか、さらに超重要に神社がもう1社ある。丹後一宮元伊勢籠神社の元の(養老以前の)祭神が浦嶋太郎(彦火火出見と表向きにはなっているが、本当は浦嶋太郎という)である。今は末社の蛭子(恵比須)神社に祀られていて、同社は「元浦嶋大神宮」とも呼ばれるという。氏ですらも籠神社は火明命と思い込まれていたものか(『与謝郡誌』は、「当社の祭神に就ては異説紛々として殆んど定説なく、…」としてるくらいで火明命かどうかは実は不明である)、本当はそうではなかった、養老の頃に祭神は変えられていた。伝承として同社に残されていて公表されているものだから、恐らくは王権による不本意な転換であったろうか。火明命などはまったく関係もない押し付けで、後の世に加上されたものなのかも知れない。だいたい系図はそうしたもので、一番上はアヤシイ。
同社境内の「浦嶋太郎」像→
名は変えてあるが、その姿はどうみても浦嶋太郎さんである。手にしているのはタマ、常世の国からもたらされたこの世に命を与えるもの。
同社の本当の祭神が示されているかのようにも見える。倭宿祢とある、勘注系図によれば、別名天御影命、先祖伝来の鏡(息津鏡・邊津鏡)を持っていた、子は笠水彦という。何か舞鶴の神様のようであるが、海部氏の本当の祖かも知れない、しかしこの系統はどこかで途絶えたものか、それとも大和へ行ってしまったものか。舞鶴や黒谷の浦嶋社が何か伝えているのかも知れない…
宇良神社については、
『丹後旧事記』
丹後不二。由良ケ嶽と云ふ昔しは宇良神社の神山なり大雲川由良湊三庄太夫の古跡麓にあり屋敷首挽松月見松対王丸の隠れし国分寺今もありしかし一ノ宮国分寺といふ類ひにはあらず和銅年中国分の頃勅使の宿りし跡なりと伝ふ。 |
宇良は由良の間違いかと何度も確認するが、宇良と書かれている。今は由良神社だが、元々は宇良神社と呼んでいたものか。
『丹後旧事記』
宇良神社。中津村。祭神=浦宮大明神 少童命。延喜式竝小社。 |
今は浦宮神社となっている。
こうしたことで、少なくとも15社であろうか。一宮で祀られていたという、おとぎ話の主人公とか世に膾炙されるようなものではない、丹後では超タイヘンに重要なこれまでの認識からは異次元の神様であったと推測されるが、正体はいまだに明らかにはなっていない。私は丹後の国生みの男神、記紀でいう伊奘諾であろうかと推測している。天橋立に下りてきたのは本当はこの神であり、橋立はこの神のマラと見立てられていたのではなかろうか。
月読を祀る社は、
園部町船岡の月読神社
園部町竹井の摩気神社の境内社の月読神社
亀岡市千代川町の月読神社
京都府京田辺市大住の月読神社
松尾大社の境内社に月読神社(紀にその由来がある、「延喜式」には、「葛野坐月読神社 名神大。月次新嘗」とある)
若狭には大月神社が何社か見られる、関係あるのかも知れない、たぶん倭人海人系の社であろうか。何とも資料少なくわからない神であるが、月読神は海を支配する神ともされ、航海神として祀るものだろうか。それともヨミの国の神なのだろうか。
当社社伝によれば当社は天長2年(825)7月22日に浦島子を筒川大明神として祀ったのにはじまるとしている。それよりまもなく1200年となる。社頭には、こんな看板が→
以後33年ごとに上葺仕替、66年ごとに悉皆造営があり、その時に修覆供養神事能が行われ、近世初期まではこの明神付きの能太夫も抱えていた。
弘安2年(1279)8月21日御遷宮に際して、地頭左衛門尉平宗朋の御代官左金吾平時貞の名によって、国内の百姓から御料米進納の記事があり、御遷宮の際には神事能が催された。記録によれば慶長元年(1596)細川越中守の時に催された神事能をはじめ、寛永5年(1628)京極丹後守、寛文13年(1673)永井信濃守、元禄9年(1696)阿部対馬守、享保10年(1725)青山大膳守等の領主の時代に神事能が奉納され、そのつど領主の格別の保護が見られている。
現存する社殿の再建、修造の棟札としては、室町時代の嘉吉2年(1442)9月26日付御造営の棟札をはじめ、文明6年(1474)9月21日付修造、永正3年(1506)9月8日付御造宮等々、数多くの棟札が宝庫に所蔵されている。現在の社殿は元治元年(1864)4月13日類焼により宝庫の他はすべて焼失し、明治17年(1884)5月、再建されたものである。本殿は3間に2間の切妻造で
茅葺の直線的な構成を基調とした復古的なつくりである。棟持柱がなく柱は亀腹の上に立ち、縁の東南隅に方一間の屋形がつき、拝殿は中央間を通路とした割拝殿である。大工棟梁は加悦町の富田吉助、彫物は柏原の中井権次によって作られたという。「丹哥府志」に元治元年(1864)、類焼の厄に通うまでの境内の様子を記している。近世の社領は6石余(天和元年宮津領村高帳)。
当社別当は真言宗平野山来迎寺、もともとはすぐ近くにあったそうだが、今は近接の字本庄宇治の山ぎわに移っている。駐車場あたりから見える。なお古くは福田村の宝蓮寺であったという。
『伊根町誌』は、
神社の別当職
明治元年(一八六八)三月二十八日付、大政官布告一九六号のいわゆる「神仏分離令」が実施されるまでは、神仏習合本地垂迹説の影響の下に、神社の別当職として寺院の住職が兼掌し、宇良神社の別当としては古くは福田村宝蓮寺が別当寺であったことは、永仁二年(一二九四)に続浦嶋子伝記を書き写したと奥書のある「永仁二年甲午八月廿四日、於二丹州筒河庄福田村宝蓮寺如法道場一。依レ難レ背二芳命一。不顧二筆跡狼籍一馳二紫毫一了。」とあることによって推定される。その後、明暦元年(一六五五)九月十七日、真言宗平野山来迎寺が浦嶋神社の隣りに移転し、浦嶋神社の別当職として管掌することとなり、以後代々来迎寺が宇良神社の別当寺としてあたっていた。 |
その福田村の宝蓮寺とは、同書によれば、
「宝蓮寺」について推考すると、宝蓮寺は真言宗の寺院で この古文書によって中世には来迎寺の前に、宇良神社の別当寺として福田村に所在していたことが知られるが、現在福田村の範囲も、宝蓮寺が建立されていた位置も定かでない。福田の地名は現在は本庄宇治に小字名が残されているが、これは由緒のある福田の地名を後世に伝えるために、明治時代になり士地台帳作成の時に名づけられたものであり、もとの地とは異なっている。宇良神手社前宮司宮島茂久氏の控え帳に福田の地はもと本庄村曽布、谷東側にあって「宝蓮寺畑」の名が残っていると記録されている。
なお、浦嶋伝説をもつ網野町にも福田の地名があり、網野神社の付近も元福田村とよばれ、流れている川は福田川と呼ばれている。 |
地名にソブとフクとあれば、やはり金属かと思われるがのだが、何も記録にはないようである。忽然と消えて何も残っていないのがいい、漁業はさほどに盛んな土地ではなく、農作や酪農もとりわけていうほどでもないとすれば、この地の生産力=富をあとには何が想定できるだろうか。
宇良神社の祭礼は8月3日(元陰暦7月7日(太陽暦8月7日)であったが昭和34年伊根町の祭日の統一により8月3日となる)例大祭の夏祭り、8月3日の「本庄祭」と。(七夕祭と同祭日に注意。興味ある方は島児神社など参照)。
3月17日の廷年祭(棒祭・福祭)の春祭りがある。
例大祭の花の踊と太刀振りは↑、第2次世界大戦以前には本庄地区から浜・宇治・上と長延・蒲入が、また筒川地区から河来見、朝妻地区から新井などが集まって太刀振りと花の踊を奉納したが、終戦前後には本庄地区5集落だけとなり、近年はさらに減少した。筒川地区の菅野、朝妻地区の津母など各集落の氏神を中心に奉納される花の踊も、かつては宇良神社へも奉納されたと伝えるものが多い。本庄・筒川・朝妻地域は宇良神社を中心とする民俗芸能の奉納区域であるという。
社宝などは、紙本著色浦島明神縁起(絵巻)1巻は重要文化財。縦24センチ、横39センチ、鳥の子18枚。全長7メートル余、詞書はなく、古い形の浦島子の説話をよく伝えている。製作年代は南北朝前後とされているが、内容的には先の永仁の「続浦島子伝記」に似て神仙思想はさらに濃厚。巻末近くに、明神祭礼の田楽・競馬・相撲などが描かれ風俗画としても興味深いものがある。縁起絵にはこのほか掛軸が1軸ある。また刺繍桐桜土筆文肩裾小袖1領(重要文化財)は練貫絹地、丈119センチ、裄49.5センチ、桃山時代。そのほか宝物として能面、乙姫の玉手箱と称するもの、簪箱・櫛・点脂筆などなどがあるそうである。
宇良神社の主な歴史記録
『丹後国風土記逸文』
浦嶼子
丹後の国の風土記に曰はく、與謝(よさ)の郡、日置の里。此の里に筒川の村あり。此の人夫(たみ)、日下部首(くさかべのおびと)等が先祖の名を筒川の嶼子と云ひき。爲人(ひととなり)、姿容秀美(すがたうるは)しく、風流(みやび)なること類(たぐひ)なかりき、斯(こ)は謂(い)はゆる水の江の浦嶼の子といふ者なり。是は、舊(もと)の宰(みこともち)伊預部(いよべ)の馬養(うまかひ)の連(むらじ)が記せるに相乖(あひそむ)くことなし。故(かれ)、略所由之旨(おほよそのことのよし)を陳べつ。長谷の朝倉の宮に御宇しめしし天皇の御世、嶼子、獨(ひとり)小船に乗りて海中に汎(うか)び出でて釣するに、三日三夜を経るも、一つの魚だに得ず、乃(すなは)ち五色の亀を得たり。心に奇異(あやし)と思ひて船の中に置きて、即(やがて)て寝(ぬ)るに、忽ち婦人(をみな)と爲(な)りぬ。其の容美麗しく、更比(またたぐ)ふべきものなかりき。嶼子、問ひけらく、「人宅遥遠(ひとざとはろか)にして、海庭(うみには)に人乏(ひとな)し。いずれの人か忽(たちまち)に来つる」といへば、女娘(をとめ)、微咲(ほほゑ)みて対(こた)へけらく、「風流之士(みやびを)、獨蒼海(ひとりうみ)に汎(うか)べり。近(した)しく談(かた)らはむおもひに勝(た)へず、風雲の就来(むたき)つ」といひき。嶼子、復問(またと)ひけらく、「風雲は何の處よりか来つる」といへば、女娘答へけらく、「天上の仙の家の人なり。請ふらくは、君、な疑ひそ。相談(あひかた)らひて愛しみたまへ」といひき。ここに、嶼子、神女(かむをとめ)なることを知りて、慎み懼(お)ぢて心に疑ひき。女娘、語りけらく、「賎妾(やっこ)が意(こころ)は、天地と畢(を)へ、日月と極まらむとおもふ。但(ただ)、君は奈何(いかに)か、早(すむや)けく許不(いなせ)の意を先(し)らむ」といひき。嶼子、答へけらく、「更に言ふところなし。何ぞ懈(おこた)らむや」といひき。女娘曰ひけらく、「君、棹(さを)を廻らして蓬山(とこよのくに)に赴かさね」といひければ、嶼子、従(つ)きて往かむとするに、女娘、教へて目を眠らしめき。即ち不意の間に海中の博く大きなる嶋に至りき。其の地は玉を敷けるが如し。闕臺(うてな)はかげ映(くら)く、楼堂(たかどの)は玲瓏(てりかがや)きて、目に見ざりしところ、耳に聞かざりしところなり。手を携へて徐(おもぶる)に行きて、一つの太きなる宅の門に到りき。女娘、「君、且(しま)し此處(ここ)に立ちませ」と曰ひて、門を開きて内に入りき。即ち七たりの竪子(わらわ)来て、相語りて「是は亀比賣(かめひめ)の夫(をひと)なり」と曰ひき。亦、八たりの竪子来て、相語りて「是は亀比賣の夫なり」と曰ひき。茲(ここ)に、女娘が名の亀比賣なることを知りき。乃ち女娘出で来ければ、嶋子、堅子等が事を語るに、女娘の曰ひけらく、「其の七たりの堅子は昴星(すばる)なり。其の八たりの堅子は畢星(あめふり)なり。君、な恠(あやし)みそ」といひて、即ち前立ちて引導き、内に進み入りぎ。女娘の父母(かぞいろ)、共に相迎へ、揖(をろが)みて坐定(ゐしづま)りき。ここに、人間(ひとのよ)と仙都(とこよ)との別を称説(と)き、人と神と偶(たまさか)に曾(あ)へる嘉びを談議(かた)る。乃ち、百品の芳しき味を薦め、兄弟姉妹(はらから)等は坏を挙げて献酬(とりかは)し、隣の里の幼女等も紅(にのほ)の顔して戯れ接る。仙(とこよ)の哥寥亮(うたまさや)に、神の舞逶?(まひもこよか)にして、其の歓宴を爲すこと、人間に万倍れりき。茲に、日の暮るることを知らず、但、黄昏の時、群仙侶等(とこよひと)、漸々(やくやく)に退り散け、即(やが)て女娘獨留まりき。肩を双べ、袖を接へ、夫婦之理(みとのまぐはひ)を成しき。時に、嶋子、舊俗(もとつくに)を遺(わす)れて仙都(とこよ)に遊ぶこと、既に三歳に逕(な)りぬ。忽に土(くに)を懐ふ心を起し、獨、二親を恋ふ。故、吟哀繁(かなしびしげ)く発(おこ)り、瑳歎(なげき)日にuしき。女娘、問ひけらく、「比来(このごろ)、君夫が貌を観るに、常時(つね)に異なり。願はくは其の志を閏かむ」といへば、嶋子、対へけらく、「古
人の言へらくは、少人(おとれるもの)は土を懐(おも)ひ、死ぬる狐は岳(をか)を首(かしら)とす、といへることあり。僕、虚談(そらごと)と以(おも)へりしに、今は斯(これ)、信に然なり」といひき。女娘、問ひけらく、「君、帰らむと欲すや」といへば、嶋子、答へけらく、「僕、近き親故(むつま)じき俗(くにひと)を離れて、遠き神仙(とこよ)の堺(くに)に入りぬ。恋ひ眷(した)ひ忍(あ)へず、輙(すなは)ち軽しき慮(おもひ)を申(の)べつ。望はくは、しまし本俗(もとつくに)に還りて、二親を拝み奉らむ」といひき。女娘、涙を拭ひて、歎きて曰ひけらく、「意は金石に等しく、共に万歳を期(ちぎ)りしに、何ぞ郷里を眷(した)ひて、棄て遺(わす)るること一時(たちまち)なる」といひて、即ち相携へて俳徊(たちもとほ)り、相談ひて慟き哀しみき。遂に袂をひるがへして退り去りて岐路に就きき。ここに、女娘の父母(かぞいろ)と親族(うから)と、但、別を悲しみて送りき。女娘、玉匣(たまくしげ)を取りて嶋子に授けて謂ひけらく、「君、終(つひ)に賎妾を遺れずして、眷尋(かへりみたづ)ねむとならば、堅く匣を握りて、慎(ゆめ)、な開き見たまひそ」といひき。即て相分れて船に来る。のち教へて目を眠らしめき。
忽に本土の筒川の郷に到りき。即ち村邑を瞻眺(ながむ)るに、人と物と遷り易りて、更に由るところなし。爰に、郷人に問ひけらく、「水の江の浦嶼の子の家人は、今何處にかある」ととふに、榔人答へけらく、「君は何處の人なればか、舊遠の人を問ふぞ。吾が聞きつらくは、古老等の相伝へて曰へらく、先世に水の江の浦嶼の子といふものありき。獨蒼海に遊びて、復還り来ず。今、三百余歳を経つといへり。何ぞ忽に此を問ふや」といひき。即ち棄てし心をいだきて郷里を廻れども一の親しきものにも曾はずして、既に旬日を逕(す)ぎぎ。乃(すなは)ち、玉匣を撫でて神女を感思ひき。ここに、嶼子、前の日の期(ちぎり)を忘れ、忽に玉匣を開きければ、即ち瞻(めにみ)ざる間に、芳蘭(かぐは)しき軆(すがた)、風雲に率ひて蒼天に翩飛(とびか)けりき。嶼子、即ち期要(ちぎり)に乖違(たが)ひて、還(また)、復び會ひ難きことを知り、首を廻らして蜘?(たたず)み、涙に咽びて俳徊(たちもとほ)りき。ここに、涙を拭ひて哥ひしく、
常世べに 雲たちわたる
水の江の 浦嶋の子が
言持ちわたる。
神女、遙に芳しき音を飛ばして、哥ひしく、
大和べに 風吹きあげて
雲放れ 退き居りともよ
吾を忘らすな。
嶼子、更、恋望に勝へずして哥ひしく、
子らに恋ひ 朝戸を開き
吾が居れば 常世の浜の
浪の音聞こゆ。
後の時の人、追ひ加へて哥ひしく、
水の江の 浦嶋の子が
玉匣 開けずありせば
またも會はましを。
常世べに 雲立ちわたる
たゆまくも はつかまどひし
我ぞ悲しき。 |
「常世の浜」とは本庄浜の浜↑といわれる。近くに「常世橋」がある。
当社境内には「蓬山(とこよ)の庭」がある。
『御伽草子』「浦嶋太郎」
昔、丹後国に浦嶋といふ者侍りしに、その子に浦嶋太郎と申して、年の齢二十四五の男ありけり。明け暮れ、海のうろくずを取りて、父母を養ひけるが、ある日のつれづれに、釣をせんとて出てにけり。浦々島々、入江入江、至らぬ所もなく、釣をし、貝を拾ひ、みるめを刈りなどしけるところに、ゑしまが磯といふ所にて、亀を一つ釣り上げける。浦嶋太郎、この亀に言ふやう、「なんぢ、生あるものの中にも、鶴は千年、亀は万年とて、命久しきものなり。たちまち、ここにて命を断たんこと、いたはしければ、助くるなり。常には、この恩を思ひ出すべし」とて、この亀をもとの海に返しける。
かくて、浦嶋太郎、その日は暮れて帰りぬ。また次の日、浦の方へ出でて、釣をせんと思ひ見ければ、はるかの海上に、小船一艘浮べり。怪しみやすらひ見れば、うつくしき女房、ただ一人波にゆられて、次第に太郎が立ちたる所へ著きにけり。浦嶋太郎が申しけるは、「御身いかなる人にてましませば、かかる恐ろしき海上に、ただ一人乗りて御入り候ふやらん」と申しければ、女房言ひけるは、「されば、さる方へ便船申して候へば、折節、風波荒くして、人あまた海の中へはね入れられしを、心ある人ありて、みづからをば、このはし舟に乗せて放されけり。悲しく思ひ、鬼の島へや行かんと、行方知らぬ折節、ただ今人に逢ひ参らせ候ふ、この世ならぬ御縁にてこそ候へ。されば、虎狼
も、人を得んとこそし候へ」とて、さめざめと泣きにけり。浦嶋太郎も、さすが石木にあらざれば、あはれと思ひ、綱を取りて、引き寄せにけり。さて、女房申しけるは、「あはれ、われらを本国へ送らせ給ひてたび候へかし。これにて棄てられ参らせば、わらははいづくへ何となり候ふべき。棄て給ひ候はば、海上にてのもの思ひも、同じことにてこそ候はめ」と、かきくどき、さめざめと泣きければ、浦嶋太郎も、あはれと思ひ、同じ船に乗り、沖の方へ漕ぎ出す。かの女房の教へに従ひて、はるか十日あまりの船路を送り、故里へぞ著きにける。
さて、船よりあがり、いかなる所やらんと思へば、 銀の築地を築きて、金の甍を並べ、門を建て、いかならん天上の住居も、これにはいかでまさるべき。この女房の住み所、言葉にも及ばれず、なかなか申すもおろかなり。さて、女房の申しけるは、「一樹の蔭に宿り、一河の流れを汲むことも、みなこれ他生の縁ぞかし。ましてや、はるかの波路を、はるばると送らせ給ふこと、ひとへに他生の縁なれば、何かは苦しかるべき、わらはと夫婦の契りをもなし給ひて、同じ所に明し暮し候はんや」と、こまごまと語りける。浦嶋太郎申しけるは、「ともかくも、仰せに従ふべし」とぞ申しける。さて、偕老同穴のかたらひも浅からず、天にあらば比翼の鳥、地にあらば連理の枝とならんと、たがひに鴛鴦の契り浅からずして、明し暮させ給ふ。
さて、女房申しけるは、「これは竜宮城と申す所なり。この所に、四方に四季の草木を現せり。入らせ給へ、 見せ申さん」とて、ひき具して出てにけり。まづ東の戸をあけて見ければ、春の景色とおぼえて、梅や桜の咲き乱れ、柳の糸も春風に、なびく霞の内よりも、鶯の音も軒近く、いづれの梢も花なれや。南面を見てあれば、夏の景色とうち見えて、春を隔つる垣ほには、卯の花やまづ咲きぬらん、池の蓮は露かけて、汀涼しきさざなみに、水鳥あまた遊びけり。木々の梢も茂りつつ、空に鳴きぬる蝉の声、夕立過ぐる雲間より、声たて通る時鳥、鳴きて夏とや知らせけり。西は秋とうち見えて、四方の梢も紅葉して、ませの内なる白菊や、霧たちこむる野辺の末、真萩が露を分け分けて、声ものすごき鹿の音に、秋とのみこそ知られけれ。さてまた北をながむれば、冬の景色とうち見えて、四方の梢も冬がれて、枯葉に置ける初霜や、山々やただ白妙の、雪に埋るる谷の戸に、心細くも炭竈の煙にしるき賎がわざ、冬と知らする景色かな。
かくて、おもしろきことどもに、心を慰み、栄華に誇り、明し暮し、年月を経るほどに、三年になるは程もなし。浦嶋太郎申しけるは、「われに三十日の暇をたび候へかし。故里の父母を見捨て、かりそめに出でて、三年を送り候へば、父母の御ことを、心もとなく候へば、会ひ奉りて、心安く参り候はん」と申しければ、女房仰せけるは、「三年がほどは、鴛鴦の衾の下に比翼の契りをなし、片時見えさせ給はぬさへ、とやあらん、かくやあらんと、心を尽し申せしに、今別れなば、またいつの世にか逢ひ参らせ候はんや。二世の縁と申せば、たとひこの世にてこそ、夢幻の契りにて候ふとも、かならず来世にては、一つ蓮の縁と生れさせおはしませ」とて、さめざめと泣き給ひけり。また、女房申しけるは、「今は何をか包み候ふべき。みづからは、この竜宮城の亀にて候ふが、ゑしまが磯にて、御身に命を助けられ参らせて候ふ、その御恩報じ申さんとて、かく夫婦とはなり参らして候ふ。またこれは、みづからがかたみに御覧じ候へ」とて、左の脇よりいつくしき箱を一つ取り出し、「あひかまへて、この箱をあけさせ給ふな」とて渡しけり。会者定離のならひとて、会ふものにはかならず別るるとは知りながら、とどめがたくて、かくなん、
日数経て重ねし夜半の旅衣たち別れつついつかきて見ん
浦嶋、返歌、
別れ行く上の空なる唐衣契り深くはまたもきて見ん
さて、浦嶋太郎は、たがひに名残を惜しみつつ、かくてあるべきことなられば、かたみの箱を取り持ちて、故里へこそ帰りけれ。忘れもやらぬ来し方行く末のことども思ひ続けて、はるかの波路を帰るとて、浦嶋太郎、かくなん、
かりそめに契りし人のおもかげを忘れもやらぬ身をいかがせん
さて、浦嶋は、故里へ帰り見てあれば、人跡絶えはてて、虎臥す野辺となりにけり。浦嶋、これを見て、こはいかなることやらんと思ひ、ある傍を見れば、柴の庵のありけるに、たち、「もの言はん」と言ひければ、内より八十ばかりの翁出であひ、「誰にてわたり候ふぞ」と申せば、浦嶋申しけるは、「この所に、浦嶋の行方は候はぬか」と言ひければ、翁申すやう、「いかなる人にて候へば、浦嶋の行方をば、御尋ね候ふやらん、不思議にこそ候へ。その浦嶋とやらんは、はや七百年以前のことと申し伝へ候ふ」と申しければ、太郎おほきに驚き、こはいかなることぞとて、そのいはれをありのままに語りければ、翁も、不思議の恩ひをなし、涙を流し申しけるは、「あれに見えて候ふ古き塚、古き石塔こそ、その人の廟所と申し伝へてこそ候へ」とて、指をさして教へける。太郎は、泣く泣く、草深く露しげき野辺を分け、古き塚に参り、涙を流し、かくなん、かりそめに出てにし跡を来て見れば虎臥す野辺となるぞ悲しき
さて、浦嶋太郎は、一本の松の木蔭に立ち寄り、あきれはててぞゐたりける。太郎思ふやう、亀が与へしかたみの箱、あひかまへてあけさせ給ふなと言ひけれども、今は何かせん、あけて見ばやと思ひ、見るこそくやしかりけれ。この箱をあけて見れば、中より紫の雲三すぢ上りけり。これを見れば、二十四五の齢も、たちまちに変りはてにける。
さて、浦嶋は鶴になりて、虚空に飛び上りける。そもそも、この浦嶋が年を、亀がはからひとして、箱の中にたたみ入れにけり。さてこそ、七百年の齢を保ちける。あけて見るなとありしを、あけにけるこそよしなけれ。君にあふ夜は浦嶋が玉手箱あけてくやしさわが涙かなと、歌にも詠まれてこそ候へ。生あるもの、いづれも情を知らぬといふことなし。いはんや、人間の身として、恩を見て恩を知らぬは、木石に譬へたり。情深き夫婦は、二世の契りと申すが、まことにありがたきことどもかな。浦嶋は鶴になり、蓬莱の山にあひをなす。亀は、甲に三せきのいわゐをそなへ、万代を経しとなり。さてこそめでたきためしにも、鶴亀をこそ申し候へ。ただ人には情あれ、情のある人は、行く末めでたきよし申し伝へたり。その後、浦嶋太郎は、丹後国に浦嶋の明神とあらはれ、衆生済度し給へり。亀も、同じ所に神とあらばれ、夫婦の明神となり給ふ。めでたかりけるためしなり。
『伊根町誌』より |
尋常小学国語読本(巻三) 小学校三年用
「うらしま太郎」
むかし うらしま太郎 と いふ 人 が ありました。
ある 日 はま を 通ると、子ども が 大ぜい で かめ を つかまへて、おもちゃ に して ゐます。
うらしま は かはい さうに おもって、子ども から その かめ を かつ て、海 へ はなして やりました。
それ から 二三日 たって、うらしま が 舟に のって つり を して ゐます と、大きな かめ が 出て きて、
「うらしま さん、この あひだ は ありがたう ございました。そのおれい に りゆうぐう へ つれて いって 上げませう。私 の せ中 へ おのり なさい。」
と いひました。うらしま が よろこんで かめ にのる と、かめは だんだん 海 の 中 へ はいって いって、まもなく りゆうぐう へ つきました。
りゆうぐう の おとひめ は うらしま の きた のを よろこんで、毎日 いろいろな ごちそう を したり、さまざまな あそび をして 見せたり しました。
うらしま は おもしろがつて うち へ かへる の も わすれて ゐましたが、その うち に かへりたく なって、おとひめ に
「いろいろ おせわ に なりました。あまり 長く なります から、 もう おいとま に いたしませう。」
と いひました。おとひめ は
「それ は まことに おなごりをしい こと で ございます。それでは この 玉手箱 を 上げます。どんな こと が あって も、ふた を おあけ なさいます な。」
と いって、きれいな 箱 を わたしました。
うらしま は 玉手箱 を もらって、又 かめ の せ中 に のって、海の 上 へ 出て きました。
うち へ かへつて みる と、おどろきました、父 も 母 も しんで しまって、うち も なくなつて ゐて、
村 の やうす も すつかり かはつて ゐます。しって ゐる もの は 一人 も ありません。かなしくて かなしくて たまりません から、おとひめ の いった こと も わすれて、玉手箱 を あけました。あける と、箱 の 中 から 白い けむり が ぱつと 出て、うらしま はたちまち 白が の おぢいさん に なって しまひました。『伊根町誌』より |
『丹哥府志』
【浦島社】
本社(五間、三間)社の中央五社を合せ祭る(五社は何の宮を集めて五社とする審ならず、俗に浦島太郎、曾布谷次郎、伊満太三郎、島子、亀姫の五人なりといふ未だ実否をしらず)其左右に随神各一座(冠服の制並に年歴を歴たる模様千年以下のものにあらず)社の下に狛犬一対、社の右に末社二社、右は豊受皇左は八幡宮なり、社の正面に華表二基、華表の前に楼門あり、楼門の前に鞨鼓橋あり(長一間半横五尺、擬法師あり、銘に寛文二巳年とあり、足音の?たる鞨鼓に似たり、よって名とすといふ)門内右の方に手洗鉢一箇、手洗鉢の右に絵馬堂一宇、絵馬堂の右に篭堂一宇、楼門の前右の方に二重の塔あり(元は三重なるよし)塔の前に皺ゑの木あり、島子玉手箱を開きし所といふ。本社東の方に並びて寺の本堂あり、本堂の東に客殿庫裏櫓を並ぶ、本堂の正面に鐘楼門あり、鐘楼門の右に宝蔵あり、鐘楼門の左に惣門あり、門の続きに長屋を建つ、門の内に池あり、池の内に弁財天を安置す、池の辺に石灯篭一柱銘に至徳二年己丑二月とあり。
神社考曰。丹後与謝郡阿佐茂川明神者浦島子也云。(阿佐茂川非与謝郡也)
神社啓蒙曰。網野神社在丹後国竹野郡阿佐茂川之東網野村所祭之神一座其下に引日本紀及丹後風土記以為浦島子。
愚按ずるに、以上二書浦島の社を与謝郡筒川の庄本庄村にありとせず、蓋神社啓蒙は神社考の誤を受けて斯いふなるべし。丹後風土記曰。与謝郡日置里に筒川村あり、筒川の島子といふもの姿容美秀風流たぐひなし、所謂水江の浦島子なりと云。丹後旧事記に其日置といふに就て碇峠(本庄の南菅野谷より竹野郡宇川の庄へ越す峠なり)の名を引き延喜式に所載の倭文の神社を此宮に当つ、少し率合するに近し。阿部公の撰する新撰島子伝には此社を延喜式にある宇良の神社とす、宇良音韻も近ければ穏なるに似たり、今これに従ふ。
社記曰。浦島明神は島子を祭るなり、島子は元いづれの人なる事をしらず。偶然として筒川の庄水江に来りて其長浦島太郎の義子となる、浦島太郎は蓋月読尊の苗裔にして日下部の祖なり。風土記履仲天皇四年始て国史を置き尽く言事を記さしむ、此時に当りて丹波国与謝郡筒川の庄日置里に浦島太郎といふものあり、月読尊の苗裔なり、故を以てこれを長者とし国事をしるさしむ。其弟を曾布谷次郎といふ、次を今田の三郎といふ、浦島曾布谷今田は地名なり、太郎、次郎、三郎は伯叔の次なり、太郎は履仲天皇反正天皇に二代に仕ふ、次郎は允恭天皇に仕ふ、三郎は安康天皇に仕へて武術の聞えあり、安康天皇即位四年眉輪王帝を弑する時三郎これを防戦す、其功すくなからず(国史に日下部使臣其子吾田彦億計弘計の二皇孫を奉じて難を丹波與佐に避るといふ恐らくは此人ならん)。始め浦島太郎に子なし毎に之を憂へて祷ること久し、一夜夢に天帝より太郎を召して告げて曰く、汝に天然の嗣子を与ふ謹而嗟嘆することなかれ、翌日太郎其妻と海浜に遊びて山水を弄ぶ、偶一童子の姿容秀美なるを見るよって問ふて曰、汝は誰家の児ぞ、児の曰、我に親なく又住する處もなし只天地の間のものなり、於是太郎其妻と昨夜の夢を語りて天の与ふる所の児は誠に此児なりとて、遂に携へて家に帰り養ふて以て子とす所謂島子なり。島子の人となり毎に山水を愛して高くは山に遊び遠くは水に泛ぶ、一日釣を垂れて五色の亀を得たり、恍惚の間に其亀化して淑女となり、五色の衣裳を垂れて玉笄象櫛悉く美を尽し従容として島子に謂て曰、我は竜宮の乙姫なり願はくは君の為に枕席をすすめん、固より一世二世の宿縁にあらずといふ、島子心にこれを異むといへども遂に乙姫と同じく竜宮に至る。始め竜宮に至る時七竪子門外に跪きて島子を迎ふ、曰、我は昴星なり、又竪子島子に向ひて我は畢星なりといふて手をこまねき、島子を引て黄金閣より水晶殿を経て真珠宮に入る。於是舅姑恭しく出て島子を見る、曰、我は乙姫の父母なりよく避る心あることなく、永く先は偕に老いよ、其言のおわる頃ほひ窈窕たる一女子玉觴を捧げて舅姑の前に置く、又一女子甘露羮を奉じて其次に置く、舅姑其觴をとりてまづ少し喫みて島子に酬す、島子これをうけて又舅姑に献ず、其献酬の間伶人仙楽を奏す其冠服の制皆人間の見る所に異なる、島子乙姫に問ふて曰、今楽をを奏する者は誰とかする、いわく、上位にありて玉篇を吹く者は角星とす、次に金管をもつ者は元星とす、次を昏星とす、次を房星とす次を心星とす、次を尾星とす、各鐘鼓管籥を奏す。
既にして日々夜々の歓楽人の得てする所にあらず、荏苒として両三年を過ぎたり、一日乙姫と同じく鳳凰台に登りて千里の外に眼を遊ばしむ。於是島子愁然として偶故郷を思ふ、始め乙姫と同じく故郷を廃せし日は釣を垂るとて家を出るなり、然して遂に竜宮に来り荏苒として既に三年斗も過ぎたり、父母は定て江魚の腹中に葬るるとも思ふべし、おのれ独栄華を受るとも不孝の名を蒙りては天地の間に立つべからず。ひとたび斯思ひしより種々の念慮心頭に上り遂に几に憑りて臥しぬ。乙姫其不豫の色あるが如きを見て慇懃に其よしを問ふ、島子審に情の発する所以を語る。乙姫其ゆゑんを聞て敢て留める事能はず、遂に島子を帰省せしむ。別に臨て島子に玉手箱を与ふ、かたく戒めて曰、再び竜宮へ帰らんと欲せば必ず此箱を開く事なかれと、よくかれに教へて島子を送る。島子将に帰らんとして猶別を惜しみ涙を垂れて遂に臥しぬ、島子の心にしばし眠るかと思へば既に水の江に着ける。於是陸に上り其故郷を見るに桑碧相変りて一もしる所なし、偶一老婆の衣を洗ふを見る(此處所謂鞨鼓橋なり)これに就いて浦島の所在をを尋ぬ、老婆の曰、我事既に一百七歳我祖母の話に昔浦島太郎といふものの子に島子といふものあり一日釣に出て遂に帰らずといふむかし語りはあれども浦島太郎といふものをしらずといふ。島子自ら謂はく僅に三年斗と思ひしが今幾星霜を経たるをしらずみづから心を傷ましむ、又浦島太郎の墓ありやと尋ぬれば、老婆大樹を指して此樹に浦島太郎の墓に植ゑし樹なりと申伝ふ(所謂一本杉是なり)於是島子其樹の下に至りて久しく哭泣すれども悶を遣るによしなく、彷徨して又老樹の下に至り、乙姫の与へし玉手箱を出して如何なる物ぞとひそかに開けば、其中より紫雲出て其身忽ち皺となり遂に其樹の下に死す(所謂皺ゑの木是なり)抑雄略帝廿二年秋八月海に入り淳和帝天長二年に帰る、其間凡三百四十二年。
愚按ずるに、丹後風土記又阿部公の撰する新撰島子伝、社記と大同小異あれども大意略天長二年に帰るとあり、天長二年は養老四年より相後るる凡一百六年、其養老四年に成る日本紀及び聖武帝の御宇に撰びし万葉集に浦島子の事あり、天長二年に帰るとするは杜撰の甚しきなり。
日本書紀曰。大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)廿二年秋七月…略…
愚按ずるに、扶桑略記並近世水戸公の撰する日本史に載する所も此文と略相似たり、皆島子釣る處の亀化して女となる島子其女と同じく蓬莱に至るといふ、実に是事あり哉審ならず。又浦島子伝、続浦島子伝を見るに皆大意は相似たり、続浦島子伝始に島子の事を記し次に古風一篇をのせて次に七言絶句並和歌各十四首を題す、始にのする所の文、古詩の序の如くに見ゆれども序文にもあらず固より島子の伝にもあらず、まづ浦島の賦なり証とするに足らず。三才図会には島子の至る竜宮を今の琉球ならんといふ、風土記の如きは徐福のいれまぜたるに似たり。或曰。億計、弘計の二皇孫は市辺押磐の子なり、市辺押磐は履仲天皇の皇子なり、始め安康天皇市辺押磐は履仲天皇の皇子なるを以て立てて太子とせんとす、安康天皇眉輪王に弑せらるる(安康天皇の皇后は元大草香の妻なり、根使主の讒によりて大草香を殺し遂に其妻を納れて皇后とす、大草香の子眉輪王は皇后の生む所なれば宮中に養はる、眉輪王父の為に仇を復するとて帝を弑す、皇弟其変を聞くより兵を率ゐて眉輪王を攻む、眉輪王遁れて大臣円の家にかくる、皇弟其家を焼く、眉輪王及円皆焼死、皇弟は則雄略帝なり)に及びて安康天皇の皇弟市辺押磐を殺し遂に位に即く、是を雄略天皇とす、是時に当りて市辺押磐の臣日下部使臣、億計、弘計の二皇孫を奉じて難を丹波與佐に避け、後廿六年を経て播磨の国司来目部小楯其よしを以聞するによって億計、弘計の二皇孫初て帰る、実に清寧天皇の三年なり。始め難を避けて丹波與佐にかくる、弘計年甫十歳、億計年十八歳、立て天子となる弘計卅八歳来目の稚子と称す、位に在る僅に三年、年四十にして崩ず(顕宗天皇)皇兄億計王立て天子となる、年四十九歳嶋郎と称す、位に在る凡十一年、年五十九歳にして崩ず(仁賢天皇)。事は続日本紀に詳なり。蓋島子の蓬莱に詣りて数百年を経て帰るといふは実は仁賢天皇雄略帝の難を避けて丹波與佐に詣り、数十年を経て都に帰り立て天子となる、年四十九歳猶島郎と称す、於是知るべきなり、実に島子の事あるにあらずといふ。
愚按ずるに、仁賢天皇の即位より日本紀の成る養老四年に至る凡二百卅三年、世の相距ること未遠からず、斯の如きは皆世の知る所なり、况や舎人親王日本紀を撰するに豈其事を知らざらんや、然るに島子竜宮の事をのせて実は仁賢天皇の事なりと日本紀にいはざるは何ぞ哉、抑当時の事を言はざるは史の習ひなれば舎人親王万言に帰して其事を露に言はざるか明に知る事能はず、姑く録して後の撰物の参考に備ふ。
宝蔵目録
一、描金彩匣
一、滝金手箱
一、盥 五
一、點脂筆 十巻
一、櫛 十枚
一、円鏡 以上七品何人の寄付なる事をしらず、俗に乙姫の備具なりといふ。櫛十枚の内三枚古代の物と覚ゆ、よって図を以て別に示す。
一、玉篋(玉の周三寸斗)鈿匣に蔵む、俗に乙姫島子に与ふ玉手箱なりといふ。
一、小袖…略…
一、白磁…略…
一、仮面…略…
一、横笛 一管
一、鼓…略…
一、能登守教経矢柄…略… |
『宮津府志』
浦島社 在與謝郡本庄宇治村
祭神 浦島子 相殿四座 社人 赤染氏 今断絶
祭日 別当 来迎寺
按スルニ諸記号シテ二網野ノ社ト一以テ二竹野郡網野村 今 属浅茂川村 所ノレ祭ル者ヲ一爲ス二本祠ト一。然ルニ今以テ三尊二奉スルヲ当社ヲ一鮮ナシ下知ル二網野ノ社ヲ一者上。諸舊記之説列ス二于左一
神社啓蒙ニ曰。網野ノ社ハ在リ二丹後国竹野郡阿佐茂川ノ東網野村ニ一所ノレ祭ル之神一座水江浦島子也。
神社考ニ云。丹後国與佐郡誤阿佐茂川明神ハ者浦島子也国司神拝必ス預ル二奉幣ニ一云々。
以テ二以上之説ヲ一考フレバ則チ今津茂川村梅浜。所ノレ在ル之小社俗ニ称スル二奈古社ト一者是往古所レ祭二浦島子ヲ一而号スル二浅茂川明神ト一者也。浦島子ガ事跡古書所レ載スル加シレ左ノ
日本紀雄略天皇紀ニ曰。二十二年秋七月丹波ノ国余社郡管川ノ人水江浦島子乗レ船ニ而釣シ遂ニ得タリ二大亀ヲ一便チ化シテ爲仙女ト於レ是ニ浦島子感シテ以テ爲シレ婦ト相逐テ入リレ海ニ到リ二蓬莱山ニ一歴ク観ル二仙衆ヲ一云々。
扶桑略記ニ曰。雄略天皇二十二年秋七月丹後国與謝郡有リ二水江浦島子ナル者一云々與ニレ女ト到ル二常世ノ国ノ海神之都ニ一蓋シ龍宮也。浦島子不レ老不レ死其後欲ス下帰ニ二故里ニ一省ント中父母ヲ上時ニ神女授二與シテ玉匣ヲ一曰欲セレ再ビ二来ラン此ニ一者必ズ勿レレ開クコト二斯ノ箱ヲ一。浦島子還リテレ郷ニ見レバレ之ヲ知ル者無シ二人モ一驚キ怪ミ問フレ人ニ人答へテ曰聞ク昔浦島ナル老游レ海ニ遂二不ズトレ返於テレ是ニ始メテ知リ三其ノ到レルヲレ蓬莱ニ一而急ニ将レ趣カント二神女ノ所ニ一向フモレ海ニ不レ知レ在ルヲ二何レノ許ニ一也。浦島子惘然トシテ憂ヒレ之ヲ忘レテ二神女言ヲ一而少シク開ク二匣ヲ一紫雲忽チ出テ靉ク二於常世ノ国ニ一浦島子大ニ悔ユ共貌チ爲リ二老翁ト一遂ニ死ス于レ時淳和天皇天長二年ナリ。帰ルレ郷ニ凡三百四十八年也。
日本後紀曰。天長二年帰レ郷至レ今三百四十七年也浦島子到リ二蓬莱ニ一居ルコトレ之ニ三年ト云々。
丹後風土記ニ曰。與謝郡日置里ニ有リ二筒川村一此ニ人夫日下部首等ノ祖名ヲ云フ二筒川ノ島子ト一爲リレ人ト姿容秀美風流無シレ類ヒ斯レ所謂ル水江ノ浦島子也。長谷朝倉ノ御宇島子獨リ乗リ二小舟ニ一泛二出テ海中ニ一爲レ釣ヲ云々 下略。
宮津古記曰、今の社は本庄の小村宇治といふ所にあり、神社口伝記に云く昔筒川庄に浦島太郎と云人あり其太祖は月読の尊の苗裔にして浦島は当地代々領主なりと云伝ふ、然るに浦島太郎曾布谷二郎 浦島太郎弟 に子なし、之に依りて浦島太郎夫婦天に祈り一人の男子を生めり其名を島子と名づく、或時此島子船に乗て釣に出しに大なる亀を釣得たり、此亀美なる姫と化して島子を誘て海神の宮に到ると云々。
按に此説は当国俗間に古より云伝へし説なり、今浦島の社別当来迎寺の縁起にも斯の如く云なり、然れ
ば浦島太郎と島子は別人にて龍宮に到りしは島子なりと云ふ。縁起云今五社を祭るは浦島太郎、曾布谷二郎・今田三郎 共に浦島が弟にて島子が叔父なりと 島子、乙姫以上五人の霊を祭ると云。浦島の古跡并古歌等は名所の部に出せり。
当社神宝
龍宮乙姫手箱 大小手箱三
島子十三歳時小袖 一
足利尊氏公奉納瓶子 一
能登守教経矢柄 一本
大軸掛物 古法眼筆 島子絵伝 一幅
牛黄 三
猿楽面并大小鼓笛
縁起 二巻 |
『丹後伊根の民話』
浦島太郎
このへんは昔、水江の里いうたんですなあ。ここに昔に、浦島太郎左衛門いう長者がおって、それの兄弟に、弟に曾布谷次郎いうのと、今田三郎いうのとおったんだそうです。
ほしてしたんだけど、太郎左衛門いうのに子がのうて、で、神さんに願を掛けたんですなあ。子どもを授かるようにいうて。へでしたんだけど、子どもは産まれなんだ。
ある日、ふらっと、きれえな若あ男の子が出てきて、
「お前どっから来たんだ」
いうてしたところが、
「わしは家もない、兄弟もない一人ぼっちだ」
いう。
「そうか、そうなら、まあ品格もあるし、なかなか上品なふうをしとるけえ、まあ、いわれのあるとこの家のもんに違いをあだけえ、こりやぁ神さんがわしらに授けてくれたに連あない」
いうので、それを養子にして、それが島子いうんですなあ。
それが毎日釣りをしとったんだそうです。釣りをして、まあ、その時分には、このへんで大将やっとったもんですきかい、別に仕事をせんならんことあらへんのだし、常世の浜へ出て、いまの本庄浜に出て、あそこへ出ては釣りをして、向こうの岩の方に行ったりして、鯛釣り岩だなんだいう、ああいうとこへ行って釣って遊んどったんだそうですけど。
ほてしたところが、浜で子どもが亀をつかまえて遊んどったんで、かわいそうな思って、亀をば子どもから自分が分けてもろうて海ぃ放してやった。
ある日、どういうわけじゃったかしらんけど、風に流された、遭難に遇うたいうか、いつも釣船に乗って釣りに出とったそうですけど、その船に乗って釣りに出たなり、もう帰ってこんようになってしもうて、どこへ行ったやら分からんようになってしもうたんですなあ。へえでまあ二親は、それをたいへん心配して、ほって死んでしもうたんだ。
ほしたところが、その船に遭難に遇うて流されて性根がついたら、そばにきれえな女の人がおって、介抱しとってくれたいうんじゃ。それが乙姫じゃったいうてなあ。ほしたところが目鼻立ちもええだし、上品な人だもんだはかい
乙姫が世話ぁしてえて、自分のうちい連れて帰って、ほして二親に、
「これをわしの夫にするさかい」
いうて、そこへ行って何不自由なしに、おもしろう暮らしておったんだけど、年がたったら、ふと故郷のことを思いだあて、親がどうしとるかしらん思うて、そして帰ってきたいうんです。
三年ほどおった思うて帰ってきたら三百年ほどたっとった。
帰ってきたのが常世の浜ぁ着いた。地形も変わっとるし、もう顔を知った人ぁおらへんし、へてしたところが、カンコ川のカンコ橋のとこまで出てきたところが、確かにこのへんじゃった思うて来たところが、お婆さんが洗濯うしとって八十ぐらいになったお婆さんが、ほて、
「浦島の屋敷は、このへんにあったと思うんだが、どこです」
いうて聞いたら、
「浦島の屋敷は、あの向こうに大きな榎の実の木のあるとこで、あれが浦島の元庭先にあった木で、もう今ぁその家ぁ滅びてしもうて、あの木が形見に残っとんだ」
そこを教えてもらって、何も知った人ぁあらへんし、なつかしゅうなって、その木の下ぁ行って、形見に乙姫からもらってきた玉手箱を開けた。こりやぁ決して開けるこたぁならん。開けんとおったら、もとの姿でおるさかい、また竜宮へ来られることがあるけど、この蓋ぁ開けたら来られん。決して開けるこたぁならん。こりゃぁわしの形見だいうてもらった玉手箱を、なんにもあらへんし、知った人おりゃへんし、その形見の玉手箱を、そこで開けたら、にわかに白髪のお爺さんになった。
しわができて、しわを取っては木に投げて、その木にしわがいっぱいひっついて、榎の木がしわくちゃになった。皺榎の実いう木じゃ。
そこで死んでしもうたいう。そのあとへ、浦島太郎を祭ったんが、浦嶋神社でいまも祭ってあるんじや。曾布谷次郎や今田三郎の屋敷跡も残つとって、曾布谷の屋敷跡には、椎の木があるけど。
乙姫さんいうのは、亀で、助けられた亀が恩返しに乙姫になって助けてくれたんだいうていわれとるんだ。 (本庄上の藤原国蔵さんに聞く) |
『丹後の宮津』(橋立観光協会・昭33)
浦島太郎の話
時間的に連絡がうまくいけば、さっきの部落「六万部」からバスで、ジープまたは徒歩でも六万部から峠という部落をこえて六キロ、浦島一族を祭神とする本庄宇治部落の「宇良神社」に着くのである。いったい浦島一族は丹後における古代の名族であった。従ってその勢力は、丹後半島の沿岸にまたがり、日本の正史にも「雄略二十二年七月(四七八)、丹後国余社郡人水江浦島乗船而釣、云々」とあるし、「万葉集巻九詠水江浦島子一首並短歌」や、「続浦島子伝」「丹後風土記」などにもあって、当時すでに丹後半島と大陸との往来の事実があったことも考えあわせれば、丹後の有力な浦島族が「竜宮」がどこであるかわともかくとして、海外と往来したことを否定する何ものもないのである。いま旧式内・宇良神社(もとは浦島大明神)にもうで、社司宮嶋氏について説明をきくまでもなく、以上のことから、ここの浜へ流れそそぐ筒川の流域に、古代に一種の浦島文化というか、筒川文化というかがひらけ、一ツの勢力をはっていたこと、それがこうした伝説をつたえ、古代日本人の大きい夢として、ながくわれわれの血となり肉となってきた。この宇良神社も、この浦島一族の主流を祭神とするその一族の氏神であったにちがいない。もし時間がゆるし、社司宮嶋氏の好意があれば、当社の宝物「島子のうちかけ」「乙姫の玉手箱」「縁起・絵巻」といったものを一見することは、ここまできたものにとって、それは無上の収穫である。もちろん、時代は中世室町期の品々であっても、こうしてながく五六世紀にわたって伝える伝説の添景として、まことに貴重であるし、その品々自体も立派な美術品として、日本の重要文化財とするに価することは、その道の専門家もまたしばしば証明しているのである。なお古い神前舞楽もあり、春・夏の祭典にでもくれば、その古典祭事も一見することができるわけで、わが「丹後の宮津」を中心とする観光コースの重要な一拠点が、ここ浦島の里にあることはいうまでもない。やがて神前をさるとき、その前方の山頂から白布をたらしたような爆布、「布引の滝」といっている。高さ七十五丈という、海上はるか沖の船も、この滝に朝日が反映して七彩にとびちるありさまを望む心は、まことにおどろきであるという。このほか、浦島にちなむ名所や遺蹟も多く、時間のよゆうがあれば、それらをたづねることもたのしいプログラムの一ツであるが、現在ではまだ交通の便もわるく、ここから経ケ岬へ出るにもさらに八キロの難路を徒歩せねばならぬ今日、宮津を中心とする橋北への足は、ここらでひとまづ切りあげて、またの機会をまち、いま迄に見おとしの寺社その他にも足をはこぶ切なる希望をかけておきたい。帰路もバスでなければ、自由な自動車などの用意がのぞましい。 |
『丹後路の史跡めぐり』
水の江の浦島の里
春の日霞める時に
墨之江の岸に出でいて
釣り舟の通らふ見れば
いにしえの事ぞ想ほる 万葉集
丹後半島も北端に近い浦島の里は意外にも山あいの盆地にあり、浦島さんの名で親しまれている宇良神社もその本庄の田んぼの中にある。
ところが少し行くと岬に囲まれた美しい海が見えて驚く。これが浦島太郎が亀を助けたという永世(とこよ)の浜である。その途中に竜穴という風洞があり、浦島太郎はここを通って帰って来たという。浜の沖あいに太郎が釣をしていたという鯛釣岩が見え、左手の断涯を縫うて行くと雷神洞(はたがみうろ)という大きな洞窟があり、小さな洞が祀ってある。ここが太郎が竜宮から帰りついた所といい竜穴はここへ通じていると信じられている。
日本書紀巻十二に「余社郡筒川人水之江浦嶋子」とあり、丹後風土記には「与謝郡日置里筒川村日下部首先祖三河筒川嶋子」とある。筒川は宇良神社の裏を流れ永世の浜へ注いでいる川である。
六撰言司(むたりのまきとをえらぶのつかさ)の一人である伊預部連小野馬養(初代の丹後国司)の書いた浦嶋子伝一巻に「応仁二季牛八月二四日於丹州筒河庄福田村宝蓬寺」とあり、日本書紀別巻に「雄略天皇二二年七月瑞江浦島児
」とのせ、室町時代のお伽草子や釈日本記巻十二にものせている。
浦島太郎は四道将軍丹波道主を祖とする日下部(くさかべ)の一族で、雄略天皇の二二年(四七八)に亀につられて竜宮へ行き、三四七年後の淳和天皇の天長二年(八二五)十一月帰ってきたという。
丹後浦島島じゃと言えど
島じゃござらぬ田の中じゃ
田の中にある宇良神社はもと浦島大明神といい、祭神に浦嶋子、浦嶋太郎、竜女、母御前、次弟曾布谷次郎と今田の三郎を記っている。
社宝に縁起絵巻三巻(室町期の作)、刺繍桐桜筆文肩裾小袖(乙姫小袖とよばれ桃山期のもの・重文)、玉手箱(紫雲筺重文)等があり、毎年八月に奉納される「花の踊」は単調な踊りであり、この地方最古の踊りであろうと思われる。この神社は長寿、縁結び、豊作豊漁の神として知られ、近在はもとより中郡、竹野郡までも信仰篇く、また農業に欠かすことのできない牛の神様でもあって、参拝者は境内の笹の葉を持ち帰って牛に食べさせる風習がある。
本庄の字良神社の近くには浦島太郎ゆかりの今田、曾布谷、福田などの地名が残っている。
宇良神社の近く滝山は雲引山、紫雲山ともよび、数条の白い滝水が流れ落ちているが、浦島太郎の屋敷はこの滝の麓にあって、竜宮から帰ってきた時に庭の榎の下で玉手箱をあけた所、白い煙が立ち昇って滝となったという伝説があり、水の江の熊野の滝、浦島の滝ともよばれている。夏は水量が少ないため枯れることが多い。
本庄宇治の来迎寺の麓には昔長廷(ちようえん)を経て蒲入(かまにゆう)へ通じた古道があるが、そのかたわらに珍らしい陰陽石が祀られ、また野尻にも陽石が見られる。 |
関連情報
|
資料編のトップへ
丹後の地名へ
資料編の索引
|