宮津城(みやづじょう)
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京都府宮津市鶴賀 京都府与謝郡宮津町敦賀 |
宮津城の概要古代〜中世の丹後国の政治上の心臓部は、今も「府中」と呼ばれている阿蘇海の北岸側にあった。古代は丹後国府があり、中世は丹後守護一色氏の居館(奉行所)があった。しかし土地が狭く、陸海交通の便もイマイチの地で、また籠神社や成相寺などもあり宗教都市でもあり古来からの聖俗のシガラミからみつく地でもあった。 近世を切り開くのが、対岸南側の宮津の地(大手川=宮津川の流域)になる。と言っても当地とてやはり一色氏の勢力下であり、特別に広いというわけでもない。『丹後御檀家帳』に、「宮津の御城」と見えるのは、上宮津喜多の小倉山の城で、「国の奉行之」「小倉どの」とある小倉氏は一色被官五家の一といわれた重臣、大手川の両岸の山々にはびっしりと山城を築いて宮津の地を支配していた。 江戸幕府と同じくらい長く支配してきた地だから、簡単には落ちない、幽斎(細川藤孝)としては、ヒサシを借りて母屋を取る、というダマシとヤシと裏切りを連発し、政略縁組などしながら何とか丹後の一角に橋頭堡を確保した。それが猪岡八幡山城で、その麓に館を構えた(天正3=1575)。 猪岡八幡宮は麓の鳥居からはずいぶんとスゴイ参道を登る、八幡山城はこの宮のさらに500メートル上、というか先に作られていた。 猪岡はたぶんイオカで、伊吹のことでなかろうか。麓の古代は伊吹氏の拠点でなかったかと思われる。 八幡山城跡 ここ八幡山中腹にまつる猪岡八幡は古社で長和五年(一〇一六)山城男山より勧請したと伝える。八幡山城の郭は八幡社の裏からはじまり、標高一六五メートルの頂上本丸まで、稜線に沿って十ヵ処ほどが並び、稜線の南側の通路がそれを結んでいる。稜線から更に分脈状の尾根がのび、そこにもいくつかの郭がみられる。水の手は本丸西南方小字水船のあたりであろうか。付近には馬場・的場・矢場等の小字名が残り、大字猟師もこの付近に散在し、この城が北西の大久保山城と並んで海に備えた城であったことを思わせる。 八幡山城の築造の時代・城主は詳らかでない。『丹州三家物語』の記す如く丹後国守一色五郎の居城であったかもしれない。然し丹後国には一色氏の意向とは別に、新興信長勢力に従わない連中がいたらしいのであるが、この城はそういう部将の居城であったかもしれない。 とまれ天正六、七年(一五七八、九)の交に、丹後平定を終えた織田信長は丹後国を細川藤孝・忠興父子に与えた。父子は天正八年八月宮津に入った。そこが八幡山城であったというのは細川家記類の記すところである。藤孝は改めて宮津浜手に新城を築きたいと考えて信長の許可を求めた。信長の返書は八月二十一日付で届いた。間もなく浜の新城が完成し、細川氏は城下整備も進めた。八幡山城は中世宮津の終焉の地であり、近世宮津の出発の地でもある。 宮津市教育委員会 宮津市文化財保護審議会 天正8(1580)年8月、細川氏は織田信長より丹後国を与えられ宮津に入り、八幡山城に陣取り、宮津平地部での築城の許可を得た。史料によってばらついていて、正確にはわかりにくいが、細川宮津城はこれからであろう。大手川の河口部、城の敷地は「宮津いち場」であり、中世都市的な発展がすでに見られた、それらは大手川の西に移し、城下町としたのであろうか。 その後(天正9年=1581くらいから)、田辺に館(幽斎の隠居所)を築き、ここに本拠を構えるようになり、宮津には家臣を派遣して政治を見させていたという。その館(代官所)は後の宮津城「三の丸」あたりにあったという。幽斎側には宮津には居にくい事情があった。天正10(1582)年、本能寺の変で信長がたおれ、同年9月に、一色氏を宮津に謀殺している。その場所を『細川家記』は一書の説として米田宗堅屋敷とし、その図面に屋敷の西に川と橋があり、橋の西を町として示している。さらに米田屋敷は城外とする一書の説をあげるが、同家記の編者は諸説を検討して宮津城内本丸広間としている。また同家記には、同10年6月3日および一色義有が異心を抱く同年8月の記事のなかに、犬の堂が宮津から18町の所にあるとしている。どうやらこの「三の丸」の今の一色稲荷↓のあるあたりで殺したようである。 案内板がある。 一色稲荷社 宮津市字鶴賀 丹後守護職一色氏は南北朝末明徳三年(一三九二) 正月に捕任された溝範をもって第一代とする。その後若狭武田氏にその職を奪われたことはあったが、七代義有(一五〇〇前後)のころまではその実名を明らかにすることができる。その以後の事情は頗るわかりにくい。 近世後期の地誌である「丹哥府志」にいう「一色義清の墓」と、幕末期宮津城図に記載されている「一色稲荷」とは同じものであろうが、その義清なる人物を確定する史料はない。「細川家記」その他近世軍記物によると天正一〇年(一五八二)九月八日、一色氏の当主−細川藤孝の娘むこ−が宮津細川家臣の屋敷で、細川忠興方の手で謀殺されるという大事件があった。細川方の記録類で米田屋敷、「丹州三家物語」で有吉屋敷というが、何れにしても現一色稲荷か、その付近と思われる。 「丹哥府志」はその復讐戦に義清を登場させるが、細川方の記録類は一切そのことにふれない。ちなみにその当主の名は義有、満信、義俊、義定さまざまに伝えられているが、何れにしても、謀略に倒れた一色氏の怨霊に対するおそれが、長く城郭内のこの地に鎮魂の社を存続させたものであろう。 宮津市教育委員会 大手橋を渡って100メートルくらいの場所、このあたりが細川宮津城時代の心臓部であったと思われる。『丹州三家物語』は「宮津の平地海によつて城郭を築」いたとし、『宮津事跡記』は「八幡山の山城を下宮津市場に引移す、本丸間数東西五十三間余、南北六十間余」としている。 細川城の本丸規模は、東西96メートル、南北110メートルくらい。 (ちなみに京極氏の増築後の規模は全体で、東西500〜600メートル、南北300〜350メートルで、本丸は、 「東西 南にて七十九間 北にて六十九間 南北 東にて五十七間 西にて八十二間」。東西142〜124メートル、南北は102〜145メートルであった。だいたい1.5〜5倍くらいに広げたようである)。 忠興の弟細川玄蕃興元は峰山城に入り、有力家臣の松井康之は久美浜の松倉城、有吉氏は安良山城(加悦町)、沼田氏は中山城(舞鶴市)を、河守(大江町)は家臣の上原福寿軒の新しい城が築かれた。細川氏は、宮津城と郡単位の支城とで、丹後を支配していた。 各地土豪などの従来の山城などは砕かれたという。 破城、砕くといっても砕きようもなさそうに思うが… 雪舟橋立図に描かれた、手前が府中城↑(新熊野城)、奥が阿弥陀ヶ峰城。丹後一色氏の拠点城・本丸城だが、絵はかなりデフォルメされているだろうが、今の股のぞき山(傘松公園)の西側に続く山並の高いところ全部である、どう砕くのだろう。 『宮津市史』より↑ 田辺で隠居して幽斎有罪の声のほとぼりさめるのを願っていたことだろうが、そうはいかなかった。関ヶ原に忠興や興元が出陣した留守をねらい福知山の小野木などが幽斎を攻める(慶長5=1600)。幽斎は宮津の館は自らで焼き払い、裏門から舟で脱出し田辺に籠城している。宮津城もそのほかの支城もすべて焼き払っていて、どれも攻められたら終わりで、そう大きな防御力を備えたものではなかったように思われる。守勢はシロートも含めて約500、それを1万5000の兵にぐるりと取り囲まれてしまった、幽斎も覚悟を決めたことであろう。1500もあれば楽勝なのに、その10倍の大軍、小野木側としては弱すぎる相手に、本気だす気もしなかったか、様子見、ともかく関ヶ原の結果次第と日和見を決めこんだようで、そのほかの幸運で何とか命拾いしている。 その後すぐに細川氏は豊前小倉39万石に移封となり、替わって京極高知が信州伊奈より国替で、田辺に居城し丹後12万3000石を領した。 元和8年(1622)極高知の死に伴い丹後は3分されて宮津は嫡子の京極高広(安智齋)が引き継いだ。 この後に宮津城ならびに城下は築造された、細川城を継承したともいわれる。築城時期については、『宮津旧記』は寛永2年(1625)大略完成、同13年に残らず成就としている。『宮津事跡記』『宮津府志』もだいたい同じ、ただ築造開始を『事跡記』は元和6年、『府志』は元和末年とする。『事跡記』に「宮津浜手に新城御普請」、『旧記』は「宮津の御館御取広げ海岸に御築城」といい、『丹州三家物語』は「田辺の城を宮津へ引、宮津古城を取立てらる」としている。三角州の地盤悪い所だからなかなかの難工事であったらしく、人柱伝説が残る。 えっ、と見違えるが、今の菊姫稲荷↑、ピッカピカだが、少し以前までは、マチの中にこんなほったらかしの社もあるのか、の荒れ放題の覗くもおそろしげな昼間でも薄暗い社叢のなかの小さな傾いた妖気ただようようなホコラだった。タタリがあるとか、恐れて誰もさわらぬ神のようであった。一色稲荷もそうだが、怨念の恐れ渦巻く魔界の城内だったものか。それは城内だけではなかろうが、宮津だけではなかろうが、花の都でもそうであった。お菊さんとかばかりではなかろう、手向かう者にいかにアクドイことばかりを繰り返してきたか、その罪深さを彼ら下手人自身ですら恐れふるえた。怨霊だとか、鬼土蜘蛛、妖怪がなぜこの人間社会に存在するのか、オモテ社会の裏には、こうした姿で見えていない真実の歴史が隠されていることも多い、ピカピカになると、退治話に喜んでいたり、バカにしていたりすると妖気ばかりでなく未解明の闇の歴史も消えるかも… まことの歴史が忘れられることほど支配者にとってありがたいことはない。領事館の玄関先に少女像など置かれると、彼らは手前勝手な怒りで気が狂う、その調子でアメリカにもものともいわんかい、クスっともよういわん者が目下と見た国へはエエカッコ言っても笑われるだけだろう。 過去を忘れたうすらトンカチばかりの世の中になれば、こうした程度の彼らにのみ都合の良クソい政治が安心して推進できることになる、どこかのマチや国のように…。 案内板がある。 丹州皿屋敷の話 この小社を「菊姫稲荷」と称え、俗に「お菊稲荷」といわれているが、今から二百余年前の宮津城主青山氏の一族に青山近江守幸澄という者がおり、その妾と家臣との不義密通から、養子鉄互助の自殺事件へと発展した。この間、幾多の奇怪な事件もあったらしく、藩主青山氏これら事件のため、幕府から咎められて美濃郡上へ転任を命せられた。この「お菊稲荷」が、この青山氏の事件に関係あることは想像されるが、それが後年の戯作者によって、「番町皿屋敷」等と、芝居ものに創作された経緯は明かでない。 けれどもこの有名な芝居「番町皿屋敷」と青山氏との関係を考えると、それが宮津藩主時代の事件を材料に創作されたことは首肯され、現にこの「お菊稲荷」の西北百メートル附近に、「お菊井戸」もあったが、今は埋められて跡形もない。そこで従来の「番町皿屋敷」や「播州皿屋敷」というよりも、実は「丹州皿屋敷」とでもいうべきだといわれ、ここ「菊姫稲荷」の縁起も、これでほぼ明かなように思われる。 宮津市教育委員会 当社の右手の建物の東が川というのか堀というのか、そこが宮津城の東端であった。
宮津城は京極高廣によって再建築されることになるが、このとき田辺城を壊して、宮津城へ持って行ったと言われる、宮津城の黒金御門(本丸へ入る門)も元は田辺城のものであった。おかけで田辺城はスッテンテンになり、櫓門も高塀も一ケ所もなくなり、石垣すら崩れたとか。『田辺藩旧語集記』に、「櫓門高塀一ヶ所茂無石垣所々崩れ三丸東方南の方三四ヶ所も七八間程宛引崩れ本丸脇之門黒金門と云由宮津え引取玄関前之門に建今以有鉄物ひしと打丈夫成門也当城根城成故安知御疾石垣を崩し門を引取られし由伝説也玄関前之門は勅使者に罷越見受候」。 当ページトップの宮津城大手門も元は田辺城にあった物で海上を移設したと最近は言われるようになっている。 そうした城の資材ばかりでなく、田辺の職人・町人の多くを宮津へ移したといい、後世「田辺越し」「宮津越え」などの語が生れたゆえんという。『丹後宮津記』に「宮津城古来宮津各有と謂も今の地にあらず、上宮津城跡有、其当時下宮津之内宮村八幡山にも城跡有、今之宮津城地は往昔田辺領にして平原民家のみ、寛永二乙丑年京極高広初而爰に城を築き城下屋敷を経営し町家之地割致して人を田辺より移らしむ、故に今に於て田辺越しの者として宮津開発之者と號新古之差別あり」。町人ばかりでなく町家も移したという。 「田辺越し」の言葉が生まれるくらいだから、城の建物移転に匹敵するくらいの規模で町家もシコタマ移したと思われる。田辺城下町もスッテンテンになったのかも知れない。 田辺城の弟の高三は「アニキめ、ムチャクチャしくさる」と思ったことだろう。兄弟といってもアニキは本妻の子、高三はメカケの子、さらにおとなしい性格だったのか何も言えない。それをよいことにしたか、高広はカナリ自分勝手な男であったもののよう。 (し、し、し、し、し、し、しかしじゃあ、あの巨大な城門が田辺城には残されたのじゃあ。と、どこかのアホげな市当局は言うのである。市やその追従者どもに対する市民の信用もまたスッテンテンとなってしまった。そんなカナリあきれた町もずっと後世にできている。人間というものは集団で全員が狂うこともある、を証明する見本のような記念物となった。 公権力は信用が第一で、それを地に落とすようなアホげな事業をしてはなるまい。どうせコイツらだ、そのやることときたら何もこれだけに限るまい…となり、もうこの町はダメだ、となりさらに人口が減っていく、公権力自身が町を壊しているのだから、どうしょうもない、コイツらワシ以上のワルよのぉぉ、と高広も驚いていることであろう。) 地名も中世は「いち場」とか「ゑのしま」だったが、宮津に改めたという。宮津城の雅号は地形にちなみ舞鶴城また鶴賀城と呼ぶ。宮津市が舞鶴市とか敦賀市とかの名になっていても特には不思議ではなかったことになる。こうして丹後国の近世の中心は田辺から宮津に移った。 7万石の宮津藩、舞鶴(田辺)は3.5万石、峰山1万石、福知山3.5万石、綾部2万石、亀岡5万石であったから近隣一の大藩の府城となった。 こののち宮津城下町並や家中屋敷の配置は廃藩に至るまで海岸部に多少の変化があったほかは、基幹においてほとんど変化はなかったといわれる。城郭内およぴ城下に水道が設けられた時代は不明であるが、西安智大通水筋・御曲輪内南側水道・同北側水道・御城打水道・外側水道・左惣口水道・辻町川水道・京街道湧水懸り・本町通水筋など端延長2600余間(4700メートル)にも及んだ。所々に上ケ溜井戸・埋酒井戸を設けた。城には櫓・物見・時鐘太鼓櫓などがあった。城都内外には諸番所24ヵ所、牢屋2ヵ所を設けた。 城下はほとんど萱葺・平屋建で、家中は50石以上は塀重門、100石以上は長屋門・玄関をもった。町家は奥行が長く、家中は間口が広く、在家は広い土間をもったという。 都にも知られた府中の凋落も目を覆いたくなる、雪舟の橋立図の頃が最盛期だったが、こちらもスッテンテンで、慈光寺(一色氏の菩提寺)や安国寺は言うまでもなく、国分寺、宝林寺なども庇護者の勢力を失い消滅あるいは大幅に縮小することになる。記録さえ失われているという。 その後の宮津藩 転変激しい藩で7つの藩が交代している。 『宮津市史』↓ 幕府領であったこともあり、それも加えると、30年毎に交代したことになる。 細川忠興のあと京極高知が入国。元和8年高知が没すると丹後国内は宮津・田辺・峰山に分領された。宮津藩はこの時7万8、200石を領有、藩主京極高広は宮津に築城し城下町の地割を行った。つづいて高国が藩主となったが、悪政・不和を理由に除封された。 永井尚征が7万3、600石余で山城淀から入封。これ以来当藩は譜代藩となった。尚征のあとを継いだ尚長が延宝8年鳥羽藩主内藤忠勝に殺害され嗣子がなかったため除封。 翌天和元年武蔵岩槻より阿部正邦が9万9、000石余で入封、元禄10年下野宇都宮に移封となった。 同地から奥平昌成が9万石で入封した。享保2年昌成は豊前中津に移封した。 信濃飯山より青山義秀が4万8、000石で入封、つづいて幸秀・幸道と在封したが、宝暦8年美濃郡上に移封となった。 代わって遠江浜松から本庄(松平)資昌が7万石で入封した。 藩主交代のたびに幕府領・藩領をくり返し、藩領域にも大きな変動があったが、当藩の支配は定着をみた。その藩領は、与謝・加佐・竹野・中4郡内の6万石と近江国栗太・野洲・蒲生3郡の飛地1万石であった。本庄氏は家祖宗資が綱吉の生母桂昌院の弟であったことから大名に取り立てられて、その子資俊の代から松平姓を名乗り、資昌のあと、資尹−資承−宗允−宗発−宗秀−宗武と7代にわたり、宗発と宗秀は老中にまで昇進している。 《宮津城。今に栄華のあとをとどめる》 何もないとか言っているが、城そのものはないが、周辺の物がけっこう残っている。 細川ガラシャ像(市役所裏) ガラシャ像が見つめている方向に宮津城があった。大きなアンテナがあるあたりが京極時代の本丸位置。背にしている方向の低い山の上に大久保山城があった。 案内板がある。 細川ガラシャと丹後・宮津 宮津の町は安土桃山時代に織田信長の命を受け丹後を平定・支配した細川藤孝・忠興親子が築いた城下町をその礎としますが、この忠興の妻が戦国の世の悲劇の女性、又敬虔なカトリック教徒として知られる細川ガラシャ(玉子)です。 玉子は永禄6年(1563)明智光秀の三女として生を受け、16歳で父の盟友細川藤孝の長子忠興に入嫁、天正8年(1580)、細川親子の丹後入国に伴い宮津入りをしました。その2年後、本能寺の変により逆臣の娘として忠興に離録され、味土野で3年の幽閉生活を強いられますが、後に復縁して大坂玉造にある細川屋敷へ移り住みます。そしてカトリックの洗礼を受け「ドンナ・ガラシャ」(「恩寵」・「神の恵み」の意)の霊命を授かりました。 しかし大坂へ移った後も宮津で子供を生むなど、丹後国主の妻としてこの地との行き来は続けており、また領地丹後におけるカトリックの布教を計画していたことも知られており、彼女はこの地に深い愛着を持っていたことがわかります。 ガラシャは慶長5年(1600 の関ケ原合戦に先立ち、敵将石田三成の人質となるのを拒み、自ら玉造の屋敷に火を放ちその生涯を終えますが、戦国武将の妻として、明智光秀の娘であるが故に辿った数奇な運命、カトリック教義への傾倒と信仰を守り抜いたその生涯は、当時布教のために日本に訪れていた宣教師達の手をへて、遠くヨーロッパの地で広く紹介されました。 例えば1698年、ウィーンの劇場で、ガラシャを主人公とした 「TANGO(丹後)の奥方」というオペラが上演されるなど、彼女は当時のヨーロッパにおいて最も知られた日本人の一人であり、今も多くの人にその感動を伝えています。 細川ガラシャ略年表
像は生誕450年を記念して立てられたという。 宮津城太鼓門(宮津小学校正門) 当時の太鼓門が修復されている。学校の裏手にほったらかしで朽ちていたが、正面へ移してリニューアルしたよう。もともとは城の南西隅にあった。(中央の門だけが残っていた、左右に広がる塀は最近のもの)。案内板がある 宮津城太鼓門 現在、宮津小学校の正門であるこの立派な木造の門は、俗に太鼓門と呼ばれ、旧宮津城南側にあった城門であるといわれている。太鼓門の名の由来は、江戸時代にはこの城門の傍らに時を知らせる「太鼓櫓」があったことに由来するのであろう。 ここは江戸時代に藩校・禮譲館の置かれた場所であり、明治六年(一八七三)の学制施行時に宮津校、明治二〇年に与謝郡の高等小学校、明治三七年に宮津女子尋常高等小学校(男子校は敦賀の旧城内に所在)が置かれるなど、近代以降一環して宮津の初等教育を担う学問の場であり続けた。明確な時期は特定できないが、この変遷のなかで、かつての城門はここに移築されたらしく、以後、小学校の正門として多くの子供たちの成長を見守ってきたのであろう。 大正七年(一九一八)に前記の女子校と男子校は統合、同一一年まで校地拡幅・校舎増築事業が行われ、その際太鼓門は敷地東側に移転された。以後小学校の通用門として長年の風雪に耐えてきたが傷みも著しく、近年大手川の改修工事をきっかけに、城下町の風情を復活させようと移築が計画され、関係者の尽力により平成二二年三月、約九〇年ぶりに元の場所に正門として修復整備された。 明治六年の廃城令により、城の遺構はことごとく取り壊されたが、太鼓門は現在市内に唯一残る宮津城の建築物として貴重である。子供たちが宮津の歴史に親しみ、地域への愛着を育むシンボルとして、長く大切にしていきたい歴史遺産の一つである。 宮津市教育委員会 宮津城の石 国道178号線の新大手橋の東側「武田病院」の前庭に置かれている。(城跡も大事だろうが、しかし宮津市には「病院」というのはここしかないのではなかろうか?)案内板がある。 旧宮津城を偲ぶ 宮津市字鶴賀 近世宮津城は、天正八年(一五八○)細川氏(藤孝・忠興)の入国築城にはじまり、次いで入国した京極氏が藩主高広の代に拡張・完成した。 細川城の竣工はその入国一、ニ年の後とみられ、京極城の完成は寛永年間伝えている。京極城の城縄張は、本丸・ニノ九・三ノ丸を備え、古絵図等により、今の町割にほぼ対比させることができる。細川城の規模はよくわからないが、少なくとも本丸部分の縄張は重なりあう部分が多いと推測される。 左後方の巨石は、この南方八〇メートル余りのところにあった本丸入ロくろがね門の袖石垣の一つである。その前のくぼみのある石は大手橋橋脚の礎石、その左の横にある波状の石柱はこの北側波止場の船つなぎ石である。現存する宮津城構築物の遺構としては、この南方一〇メートルのところに本丸北部石垣のー部が地上に顔を出している程度である。しかしながら、地下にはかつての宮津城を偲ぶことが出来る石垣等の構築物が今も遺存し、発掘調査によりその様相をうかがい知ることができる。当地は宮津城北西部のニノ丸地内である。宮津市教育委員会 墓所の橋(二の丸の橋) 桜山天満神社境内に、幕末の宮津藩主、幕府の老中、本荘家六代の本荘宗秀と七代の宗武父子の墓所がある、手前の石橋は宮津城二の丸から移したものという。(二の丸には庭園があったようで、そこにあったものか) 案内板がある。 本荘宗秀・宗武の墓 宮津市学万町 ここは宮津藩最後の藩主、本荘氏六代宗秀、七代宗武の墓地である。松は枯れてしまったが、二基の墓標と、旧城内二の丸より移した石橋が残っている。 宗秀は天保十一年(一八四〇)宗発より家督を継ぎ、寺社奉行・大坂城代・京都所司代・老中等幕府要職を歴任した。慶応二年(一八六六)長州再征に副総督として広島へ出張したが、捕慮の長州藩家老宍戸備後介らを独断釈放した事件をめぐって幕府の嫌疑をうけ、副総督・老中を罷免され家督を宗武にに譲った。 宗秀の時代は異国船渡来騒ぎのさなかで、宮津藩も海岸防備、「お台場」築造等慌しい時代であった。晩年は文芸書画を好み、又伊勢神宮大宮司となった。明治六年(一八七三)死去した。六十五歳。 宗武は家督をついで間もなく慶応四年正月戊辰戦争をむかえた。山城八幡の警備に当っていた宮津藩士のなかから官軍発砲事件を起し、宗秀・祭武父子は朝敵の嫌疑をうけ入京をさしとめられた。ところが時あたかも山陰鎮撫使西園寺公望一行の宮津到着の機会に、随行の長州藩士らの陳情もあって、嫌疑はとかれ入京も許されることとなった。 明治二年版籍奉還して宮津藩知事となる。同四年廃藩置県で暫く宮津県知事、明治六年北海道農園開拓に従事したが、同年宗秀死去の後宮津に帰って籠神社宮司になる。天橋義塾の創設維持にも関係し、文芸を好んだ。明治二十六年(一八九三)死亡した。四十八歳。宮津市教育委員会 宮津市文化財保護審議会 後野愛宕神社拝殿(宮津城本丸玄関) 子供歌舞伎で知られる神社だが、その拝殿は元は宮津城本丸の玄関という。曲線が美しいずいぶん年季のはいった唐破風の建物。 案内板がある。 与謝野町指定文化財(建造物) 後野愛宕神社の拝殿 指定日 平成4年12月3日 後野愛宕神社の拝殿は、本殿に残る棟札に、宮津城の本丸の玄関であったものを明治7〜8年にかけて移築したと記されています。また、拝殿には京極家を示す平四つ目結の紋所があることや建物の特徴から推測して、江戸時代初めの頃の建物とされています。 また、参道には宝永二年(1705)銘の石燈籠があり、奥の院の棟札の中には享保7年(1722)銘のものがありますので、江戸時代中頃には愛宕として信仰されていたことがうかがえます。また、本殿に残る別の棟札には、もともと本殿は背後の山上にあったが、明治29年に今の場所に新築したと記されています。 平成20年3月 与謝野町教育委員会 和貴宮にも唐破風の神門があるが、あれは城から移したものではないそう。 武家屋敷の長屋門(柳縄手) ガラシャ像がある広場はもとは大村邸があったところという、天橋義塾通りとでも呼んだ方がいいような所だが、武家屋敷の長屋門が残っている。案内板がある。 大村邸跡 宮津市字柳縄手 ここから南へ六〇〇メートル余の通りを柳縄手という。藩政時代の武家屋敷である。慶長七年(一六〇二)の検地帳には柳町と記され、その後柳縄手というよび名が漸次定着した。本庄(松平)藩時代江戸末期には、この場所の北に郡会所、その向い側に米会所があり、柳縄手全体に三十五軒の武家屋敷と六ヵ所の武家長屋があった。さして大身の居住地ではなかったが、明治になって宮津天橋義塾を中心とする民権運動の高揚期には、この通りからその指導者・後援者が多くも輩出した。沢辺正修・小室信介もここの出身である。 大村邸はもと藩医小谷仏庵の住んだところである。仙庵の次男謙次郎は明治十三年ころ帰郷開業、「立憲政党」に加盟した。明治二十年ころ峰山へ移り、そのあとへ、旧藩士大村政智が入居した。政智は維新後東京へ行って法学を学び、判検事弁護士の資格をとり、明治十三年帰郷した。天橋義塾維持講五本の株主となり、「立憲政党」にも加盟し、民権の伸張に寄せる志も一方ならぬものがあった。小谷謙次郎旧宅を求めて入居以来百年間、大村家の手によって維持されてきた邸宅であったが、惜しくも昭和六十一年二月、事故のため焼失した。僅かに長屋門一棟が災を免がれて残った。大村家の好意を得て、今、市有地となって憩いの広場として開放されている。一つの土地と家の変遷の中にも、宮津人の進歩によせるいぶきがうかがえる場所である。 宮津市教育委員会 宮津市文化財保護審議会 家老の門(中ノ丁) 太鼓門がかつてあったところの近くにある。何も案内がなく、正確にそうかは不明だが、それらしい門。 たもの木 今の警察署の前、国道178号線沿い、その歩道を占拠している。市民なら誰でも知っているタモの古木。木の下に案内板がある。 「たも」の木 宮津市字鶴賀 樹幹三百年を越すとみられるこの「たも」の古木は、この位置が、近世官津城の二の丸の東北端にあたり、また、城郭北壁の海岸線を示すものであり、更に宮津城内堀が海に注ぐ出口にあたるという、まことに宮津城を偲ぶ貴重な一本の「たも」の木である。宮津城の本丸と二の丸はこの西方大手川に至る間に、それ縄張りが定められた。二の丸の外部、内堀と外堀の岡は三の丸とされて、その外堀はこの木の東方に今も一部が残っている。 昭和四二年(一九六七)、この木の前の国道工事が行われる時、この「たも」の木がその路線にあたり、伐採の運命にあったところを、関係者によって、当局に「助命嘆願」がなされ、それが認められて、いまみる如く歩道が迂回された。 平成二年(一九九〇)、京都府流域下水道工事が行われる時、水路がこの木の下を通ることになり、せっかくの記念樹の枯死が憂えられたが、関係者の努力と当局の配慮によって、水路を迂回させて、この木の生命を永らえることが出来ることとなった。宮津城跡には、多くの古木があちこちにあったが、戦後に多く伐られてしまった今、この一本の「たも」の木は大切に残していきたいものである。 宮津市教育委員会 宮津市文化財保護審議会 案内板 ガラシャ像の隣にあるもの 宮津城と宮津城下町について 宮津城は天正8年(1580)に細川藤孝(幽斎)・忠興親子により、この場所から川の対岸浜手、天橋立を望む景勝の地に築城されました。以後20年間、細川氏はこの城を根拠地として丹後一国を支配します。関ケ原合戦の際、この城は一且焼かれますが (幽斎による自焼)、江戸時代初め、時の宮津藩主京極高広により再建され、以後藩主は変遷しますが、幕末までほぼ同規模の縄張りを有しました。 城郭は西に流れる大手川を外堀にして、北は宮津湾に面する海城で、本丸、二の丸、三の丸を備え、本丸内には壮大な御殿が造営されました。 明治4年(1871)の廃藩置県の後、城は取り壊されましたが、近年、市民の浄財により、川沿いに城壁風の護岸整備がなされ、かつての宮津城の威容を偲べるようになっています。 ここから西の現市街地は、築城に伴い城下町が開かれたエリアです。江戸時代後期には本庄氏七万石の城下町として、また北前船の寄港する港町として、さらに天橋立参詣の中継地として多いに栄えました。 この宮津の城外には、安土桃山時代の丹後国守、細川忠興とその妻のガラシャ、江戸時代中頃にこの地に逗留し画業を研鑽した与謝蕪村など、多くの歴史上の人物のドラマが残されています。そして現在のまちなかには、この城下町時代の町割りがよく残されており、そこに点在する多くの寺社や史跡が今にその歴史・ドラマを伝えてくれます。 宮津市 宮津まちなか観光推進協議会 復元城壁と大手門移築案内(中橋のたもと) 宮津城の城壁復元と太鼓門の移築事業 大手川は、平成十六年の台風二十三号の際、甚大な浸水被害をもたらしました。修復にあたり、国の 「河川激甚災害対策特別緊急事業」に採択され、大規模な河川改修事業が短期集中的に進められることになりました。 改修事業が進む中、城下町宮津の風情を取り戻したいという市民の声をきっかけに、改修事業に合わせた宮津城の城壁復元と太鼓門の移築事業が始まりました。 事業資金については、「宮津市まちづくり基金」を利用し、官民一体となったご支援を賜りました。 城壁復元事業では、宮津城下の風情を再現するため、城の外堀として使用されていた大手川に約二百四十メートルの城壁を復元しました。 また太鼓門の移築事業では、宮津小学校東側裏門に残っていた宮津城の門を往時の場所近くに位置する宮津小学校正門に移築すると共に、修復作業を行いました。 両事業は、観光地として市街地の魅力を高めることのみならず、市民の皆さんが宮津の歴史に親しみ、地域への愛着を呼び起こしてほしいとという願いを込めております。そして先人たちの遺産を次の世代に伝え、この地で生まれ、育つ子どもたちにとって、郷土を大切に思う気持ちを育む場として残していきます。 平成二十三年三月 宮津城の城壁復元に取組む会 信金の壁(大手橋のたもと) 宮津城跡第三次発掘調査地(三の丸西部) 近世宮津城は日本海に面した海域で、本丸と二の丸・三の丸を備えた。この付近は三の丸西部の一郭にあたる。西に流れる大手川は外堀の役割を果していた。 天正八年(一五八〇)に始まった細川藤孝・忠興による宮津城の築造において、この付近は重臣松井・有吉・米田氏等の屋敷地として割り与えられた。元和八年(一六二二)京極高知の死後、領地丹後は三分される。宮津城へは嫡子高廣が入り、細川時代の城を更に拡張して近世宮津城を完成させる。現在地付近は三の丸の西部にあたり、江戸期を通じ藩主一門や家老の屋敷地が立ち並び、宮津城本丸へ入っていく正面の威儀を正した一郭であった。 北京郁信用金庫(現京都北都信用金庫)の協力を得て実施した宮津城跡第三次発掘調査(昭和五八年度)において、水道施設や礎石建物跡等の江戸時代の遺構のほか、安土桃山時代の築造と思われる石垣があらわれ、それまで謎であった細川氏時代の城の遺構が考古学的に初めて確認された。また、同時期の「一之」銘の天目茶碗が出上しており、細川家臣の茶人、沼田一之斎との関係が指摘されている。 宮津市教育委員会 関電建物の北側(警察署の裏) 雨ざらしだと禿げて読めなくなるし、ここのようにガラスケースに入れると反射して写真が写しにくい。 宮津城跡第二次発掘調査地(二の丸東部) 織田信長の命で丹後を領した細川氏((藤孝・忠興)は 天正八年(一五八〇)八月宮津に入り、急いで浜手に新城、更に城下の建設を進めた。慶長五年(一六〇〇)、忠興が徳川方(東軍)に伴い会津上杉氏征討に出陣中、石田方(西軍)は丹後に兵をむけたので、幽斎(藤孝)は宮津城を自焼して田辺(舞鶴)に籠城した。関ケ原合戦後、忠興は豊前中津に移封、丹後には京極高知が入部して田辺(現舞鶴市)を居城とした。元和八年(一六二二)、高知の死後丹後は三分され、嫡子の高廣が宮津城主となった。彼は十数年を費やして城郭・城下を整備したが、その際細川氏時代の縄張りがどの程度踏襲されたかは明らかでない。 昭和五五年に実施した宮津城跡の第一次発掘調査 (現宮津警察署敷地・京都府教育委員会実施)に続いて同年と翌年、宮津市教育委員会は関西電力株式会社の協力を得て、同敷地 (二の丸東部)において、第二次調査を実施した。その結果、調査地西区では石組の溝(暗渠水路)を、東久(二の丸東門付近)では第一次調査地で検出した内堀石垣の続きを確認、ほか二の丸と三の丸の間を通す土橋や城内の水道施設など、江戸時代の城郭の遺構を検出した。 調査後行われた現地説明会には多くのの人が参集し、地下に埋もれた宮津城の存在を広く世に知らしめる記念すべき調査となった。 宮津市教育委員会 関電建物の東側(警察署の裏) 丹後宮津城跡 織田信長の命で丹後を領した細川氏(幽斎・忠興)は天正八年(一五八〇)八月宮津に入り、急いで浜手新城更に城下の建設を進めた。慶長五(一六〇〇)忠興が会津上杉氏征討に出陣中、大阪方は丹後に兵をむけたので、幽斎は宮津城を自焼して田辺(舞鶴)に籠城した。関ケ原戦後忠興は豊前中津に移封、あとへ京極高知が入部して田辺を居城とした。元和八年(一六二二)その没後丹後を三分して嫡子高廣が宮津城主となった。彼は十数年を費やして城郭・城下を整備したがその際細川氏時代の縄張りがどの程度踏襲されたかは明らかでない。昭和五五年の二ノ東門(外不明門)北方の第一次調査(京都府教育委員会)に続いて宮津市教育委員会は、同年十一月及び五六年三月に、本丸東門(内不明門)。二ノ丸東門付近の第二次調査を実施した。その結果、二ノ丸東門の外に三ノ丸に通じる土橋のほか内堀石垣、二ノ丸内の水道と思われる石組み溝等の遺構を検出した。 宮津市教育委員会 宮津市文化財保護委員会 《城下町》 「鍜冶」と「れうし」 『宮津旧記』に「宮津は庄名にして今の地は与謝郡下宮津の庄十ケ村の内鍛冶・猟師両村の地也。上宮津三ケ村下宮津十ケ村の総名なり」、また「天正八年辰八月細川兵部大輔藤孝公入国して此地に館を構へ近郷の政治を布き、長臣をして此館を守らしむ。此時までは鍛冶・猟師の二村海辺に並びて在町の如くにてありし也」 宮津城下は下宮津の以前の「鍛冶」・「猟師」の地を取りつぶした地であった。 「猟師」「れうし」は表記文字は異なるが、同じものなのか不明だが、漁師町は今もある、与謝海の海岸の今のあたりに中心があったものか。 「猟師」も今も木ノ部の奥にある。小字的に残っているものなのか、惣にもある。 「鍜冶」は慶長7年の検地帳の宮津下村に「かぢ・杉ノ末かぢ・浜かぢ・わきの宮かぢ」が見える。鍜冶屋の小さな集団居住地があちこちにあったように思われる。近世の城下町では「わきの宮かぢ」辺りを鍛冶町と呼んでいたという。当時の地図には万町通りの府道9号線より西側に「鍜冶屋町」が見える。 地図に「鍜冶屋町」とあるあたり(今の万町通り)↓ 実態はよくわからん、が正直ところだが、ほかの一般の字(町・組)とは異なる性格を持ったものとして注目される。古い地主神的な存在として扱われたものか、これらの地は近世は猟師町・鍛冶町といわれ、その所在は城下の周辺部在方を中心に全域にわたって散在し、城下町組の名主とは別に庄屋・組頭・百姓代が置かれ、その庄屋は猟師町(今の字漁師の分)から選ばれたという。 古くは漁師も鍜冶も同じ者の兼業であり、冬は鍜冶屋、そのほかの海の穏やかな季節は漁師だったと思われる。ワタツミとヤマツミは同じものである、そうでなければヤマツミの娘がアタツヒメなのは理解できない。 宮津石と呼ばれる花崗岩の山々なので、よい鋳物ができたかも知れない。鉄と塩と漁師は同じ者の兼業らしいというのは舞鶴浦入遺跡などを見ればわかる。「伊根のなげ節」にも歌われている 伊根はよいとこ後は山で、 前で鰤とる、鯨とる。千両万両の金もとる。 特に伊根の漁師だけではなく、一般に漁師は前の海で魚を取り、塩をとり、後の山で金属をとった。浦島太郎さんに金属生産者の影が見られるのは当然のことなのである。 金属資源を独占しようとする大和政権からは、元々からの地元の生産者であった彼ら(海人と呼んでも倭人と呼んでもいい)言うことを聞かなければ「土蜘蛛」「鬼」とか呼ばれて退治され殺されたり、俘囚となり「別所]で金属生産に従事させられた。そうしたことは今の支配者にも都合悪い歴史であり、大昔より日本の支配者はスンバラシかったと教えたいので、歴史の真実はガッコーで教えたりはしないし、郷土史家が取り上げたりもせず、誰もよくは知らないことになっている。メデタシメデタシの大方の御仁には見えないかも知れないが、しかしよく調べてみればそうした恐ろしい過去もわずかに見えてくる。 漁師が産鉄者であり製塩者であったとは、生産の分業と専業化、細分化しているのが当たり前の現代人からは奇異に感じるかも知れない、漁師は漁師だけ、鉄は鉄だけ、塩は塩だけに決まっとる、と無意識に思い込んでいるが、それは現代人の思い違いである。現代でも農民と工場労働者は同じ者の兼業ということはある。 アダム・スミスのピンメーカーの話にある通りに、専業化が進むのは近世になってからである。人間社会は効率化し生産性と品質は飛躍的にはねあがったが、それは同時に消費との隔離が発生し、恐慌と好景気が繰り返し、自然との調和は狂い、また全的であるはずの人間性は大きく疎外され小さな歯車でしかなくなっていく、もっと全的な存在であるはずの人が小さな無視される無権利の小さな歯車になっていく、もう民主主義も平和もない、政治も司法も学問も文化ももうない、その担い手の市民層が没落して貧しく無権利の歯車になっていく、その置かれた実態にふさわしい貧困しか市民社会にはない、本当は市民社会もない、マコトのネウチあるものはもうどこにもない、スッテンテンのカラッポの荒れ野しかない、身も心も廃れきった人影のようなものが時にウロウロするくらいのものである。 実は社会のごく一部の大金持ち様のモウケ第一社会である、それをゴマカシゴマカシでスンバラシイスンバラシイと大金持ちの費用で大宣伝してやっているが、実態は「戦争」や「テロ」がやまないなど社会矛盾に悩むことに深く陥っていき、解決できない。生産力があがったが、社会制度は昔のままで釣り合っていないからで、富が一部にだけ独占される社会だからであるが、ごく一部でしかない富の豊かさの部分だけが誇大に宣伝されるが、他方に貧困は全世界に満ちあふれているがこれはスポンサーなく宣伝されず埋もれていく。 人様ともあろう者が乗れるような物ではないひどいドロ船に乗っている今だが、ワレラは社会の根本的な変革、人間性の全面的な解放を目前にした夜明け前の最も暗い時代に生きていることになる。 『宮津旧記』に、高広が築城の際、下宮津の内から曲輪・侍屋敷分に456.863石、町家分に218.562石を潰地とし、町家分の地子を免除して商業の繁栄を図った。 近世鍛冶町・猟師町は小高とはいえ組頭・百姓代・長百姓その他の百姓もいて有田・田中村と紛議を起こし、天保8年(1837)庄屋との間にも村勘定で訴訟も起こしている。庄屋は一人で両町を兼帯していたという。 町の組織 宮津城下は大手川で大きく分れて、その東は本丸・二の丸・三の丸・家中屋敷がほとんどを占め、東部にわずかの町家があるのみであるが、その西部は町家と家中屋敷が複雑に分布する。家中屋敷のうち足軽長屋は周辺部に分散している。町家分の地は「町」の付く地だとだいたいはいえる。 町の状態を知りうる絵図が幾つかあるそうで、町家の地割が詳細に描かれ、宮津城下は6つの幹町とその町「分」と称する幾つかの枝町から構成されていることが知れるという。6幹町には初め町年寄が各1〜2人置かれていたがのち各町1人となった。年寄は在方の大庄屋に匹敵する格で、町奉行の指図を受けた。青山氏入国以来年寄は名主とよばれるに至ったが、4万8000石で小藩となったためか名主は4名であったという。 6幹町とは本町・魚屋町・万町・職人町・白柏町・川向町であった。鍜冶町と猟師町は町家分には属さず、今の宮津市字漁師にあたる猟師町は川向町「分」であった。幹町と技町との関係は大部分が幕末まで固定していたが一部には離合があった。 家中屋敷の位置は近世を通して大きな変化はなかった、藩主の交代に伴って若干の変動があった。 青山氏入部の時の家中屋敷割をみると、上級武士の入る所には「明屋舗」が目立つ。一方、足軽長屋は明屋がほとんどないばかりか、「二間梁廿間一通り」に「伊藤五右街門十人分小頭共」とか「県新左衛門組九人並小頭共」というようにかなりな詰込みの状況がうかがわれる。 町家の支配は名主・組頭によって行われたがその数は必ずしも一定していなかった。本庄氏時代は名主は6名でそのうち1名の月番名主を選んだ。その報酬を苦労米と称し、各支配下より半期ごとに間口1間につき3合5勺ずつ拠出した。このほかにも本庄氏時代には名主一同に米3石の支給があった。組頭はおよそ5人組5組を1区域として1名を選んだ。本町分10人、魚屋町分16人、万町分10人、職人町分10人、白柏町分16人、川向町分11人で、計73人であった。ただし無給。これら町家役人の管轄するところは町家のみで家中屋敷は藩が直接に支配した。町家全体を惣町と称したが、城下町全体を示す語はない。漠然と宮津という語が時に町家をさし、時に全体をさす。 職業・戸口 仏性寺過去帳(仏性寺蔵)に、正保2年(1645)〜元禄15年の間に、木綿や・こんや・肩や・さらしや・米や・大工、宝永元年(1704)〜享保19年の間に、すみや・石屋・ぬし(塗師)や・かみ(紙)や・木引(挽)・わたや・糀屋・万十や・ますや・家根屋・うどんや・かいや・をけや・追かけや・ふしや・あめや・たたみや・付木や・こんにゃくや・いとや・魚屋・ひしや・みそや・車や・いりこや・とうふや・もちや・せんべや・玉子や・い子や・八百や・うるしや・かしや・左間(官)やなどが出ているという。『丹後宮津志』は、享保3年2月改で宮津城下に、町医者26人、外料2人、目医師3人、紺屋156軒、酒屋57軒、大工15軒、木挽38軒、屋根屋18軒、鍛冶屋32軒と「丹後宮津記」を引いている。 宮津城下町は、藩主の交代が激しく、しかもその石高は阿部9万9000石、奥平9万石、青山4万8000石、本庄7万石と上下の開きが倍以上もあるので、家中屋敷の家数・人数には時代によってかなりの違いがあった。 元禄16年、奥平氏当時の城下絵図(前田家本)に記された町家は、「惣町中家数合千百六拾九軒内(割注・八百九拾六軒町分 二百七拾参軒小散田分)」、青山氏当時の享保3年中の家数・人数は1917軒、7231人(男3553人、女3678人)。幕末(天保年間か)の家数は町家1760、出家17、社家6、家中833軒ほかで計2639軒、人口は町家で6168、出家67、社家25、家中3346などで計9715人であった。 ちなみに平成22の国勢調査によると、今は「下宮津」と呼ばず、単に宮津なのだが、世帯数4227、人口9678(男4571、女5107)であった。 藩内の一揆 文政の一揆がよく知られるが、かなりの頻度で発生している。
宮津城の主な歴史記録『与謝郡誌』 宮津城趾 宮津城又舞鶴城(或は鶴賀城とも云ふ)といふ地形の似たる故なり此の城は天正五年長岡氏入国八幡山に城を取るも、所謂城櫓を構へず此所に館を構へて居す。其後田辺へ移れるにより家老米田宗堅を此の館に留めて近郷の政事を執らしむ長岡氏(細川氏)豊前の小倉に移るや慶長年中京極丹後守生双(道可後改高知)問当国を領して田辺城に居る其後京極高広相続て当国を領し田辺より宮津へ移り城を築く(俗にれを宮津趣と云ふ)京極氏亡で寛文九年己酉永井尚政宮津を領して当城に居る、爾来三十有余年阿部対馬守奥平大膳青山大膳を経て宝暦九己卯年本庄氏本城に居し明治二年版籍奉還に至る。今宮津城に関する二三の資料を挙ぐれぱ、 城築の時海中に築出けれども一夜一夜に崩れ成就せず是由て大膳と云ふ山伏に占はせければ人柱を御入無之ては成就せずと云ふ。或説に云ふ駒の詰の角矢倉を八蔵矢倉と云此所海中へ頗る出たれば如何にしても出来せず是に於て人柱の事を選宣ふ。八蔵と云ふ中間(或は足軽)君の心を察し不肖なりと雖も私人柱とならんと望みしかば不便には思はれけれども不成就には替かたしと人柱を入れ玉ひしかば全く成就せしとかや。八蔵が名にめでゝ囲の内に八地蔵を建立有りしと地に地蔵存せり。又彼の大膳は功験ある山伏なればこそ如願寺山より流出る町中の用水昔より過て溺るるとも怪我することなく是丹後公彼に封せしめ玉ひし故なり(村田記) 元和の末より築造の事始まり寛永二乙丑年に至て城郭大略出来して高廣公移居也。此後十二年を経て寛永十三丙子年に至って城郭尽く出来侍屋舗町肆まで残らす成就すと指田武良古老の物語に侍りぬ云々(宮津日記) 丹後一覧集によりて城の結構を見れば 本丸 東西 南にて七十九間 北にて六十九間 南北 東にて五十七間 西にて八十二間 総坪数四千六百九十八坪 内 建家八百七十六坪 門 三百二十九間 櫓 五ヶ所 南櫓三ヶ所 中櫓二ヶ所 二丸 東西 南にて二百六十二間五尺 北にて一百九十三間 南北 東にて九十七間 西にて百二十間余 総坪数二萬九千六百五十七坪 櫓四ヶ所 角櫓三ヶ所 中櫓 一ヶ所 堀南三百六十八間三尺 西九十一間余 東百九十六間三尺 巾廣き所二十間 狭き所九間余 三廓 堀東西八百四十八間 巾廣き所十六間 狭き所六間 西川切戸橋より海手迄十二町余 門 大手門 切戸門 鉄門 不明門 冠木門 北門 波涛場門 不明門 二ノ丸 冠木門 二ノ丸 内馬場門 西仕切門 東仕切門 舛形門 馬場先門 太鼓門 冠木門 惣村門 鐘楼門 波路門 冠木門 水門 木戸 西ノ方中橋 去申京口 寅卯駒爪 未申黒門 亥宮辻 橋 大手橋 長十六間巾四間五尺 切手橋 長九間巾三間 中橋 長十三間巾三間余 惣村口橋 長六間巾二間 波路口門 長九間巾三間 不明口橋 長十三間巾三間 太鼓櫓 東馬端門内 奥平昌春代建置之 太鼓 半鐘 銘曰 宝永五年八月朔日 鐘撞楼 惣村門内 京極高廣建置之 鐘 高三尺五寸 小口三尺八分 径二尺四寸四分 (宮津日記) 因に云ふ本城は明治十九年全く破却し盡し鶴賀町方面に僅かに残壕秋草離々として蟋蟀露に咽び古木影粛々として黄昏烏雀の悲むめるのみ。 関連情報丹後田辺城丹波福知山城 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『宮津市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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