京都府舞鶴市の西舞鶴市街地
京都府加佐郡舞鶴町
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丹後田辺城の概要
《田辺城の概要》
西舞鶴駅から北へ500メートルばかり行けば、現在は城門が「復元」さけているが、そのあたりが田辺城の中心であった。現在は「舞鶴公園」として部分的にわずかな石垣を残すのみで、当時のものはほぼ完全に消滅している。
↑ 本丸跡周辺は「舞鶴公園」になっている。この「城門」から入る。
↑城西門
↑城北門
『田辺府志』のこれらの図を頼りに追手門をここに「復元」している、わざわざ小さな門を選んで『田辺府志』が書き残したとも思えないので、これらが最も大きな立派な城門ではなかったか。図に残されているのは城西門、城北門であり、時代によって大手門とされる門は代わっているようで必ずしも城西門がそれではないが、今でも南北に走る国道27号を大手通りと呼ぶからだいたいは城西門がそうであったと思われる、しかしおそらく特に立派な門はなく、挿図のようにどれも似た程度の規模ではなかったと思われる。
位置は現在地ではなく城西門は大手通り(国道27号)・本町通りに向いていた。城北門は広小路のあたりだったろうか。どの門を復元したとも説明にはない、そもそも復元とも書かれてない、再建したと書かれている、どの門を「再建」したのかは不明。天守台の規模と比べるとき、この「復元」門は大げさすぎの誇大復元ではなかろうか、田辺藩の倍の7万石の石高があった宮津城の大手門(小さい挿図↑)より立派に見える、宮津城は写真が残されているのでほぼ正確に復元図を作ることができる、「復元舞鶴城城門」と似ているが、これを参考に設計したのかも知れない。
『田辺府志』挿図と比較すれば、史実は今の「城門」の半分以下の規模ではなかったのか…。
↓「復元田辺城城門」
→ちなみにこれは江戸城三の丸大手門(江戸城といえども大手門そのものはかわいらしいもので、その門を入ると桝形と呼ばれる四角の広場があり、これはその次にひかえる渡り櫓門である、田辺城は兼用の門であったか。桝形も設けられていない程度のお館のクラスものであったか。)
舞鶴では郷土史と言えば、この田辺城と細川幽斎であった、舞鶴の過去にこんなつまらんモンしかなかったわけなかろう、それともこれしか知らんのか、と子供でもうんざりして、それ以来郷土史には興味を失ってしまった記憶がある。間違っても学校教育などでこうしたものは取り上げないでいただけないだろうか、郷土に興味を失った根無し草の子をつくるだけであろう、経験から申し上げておく。舞鶴の過去として親たちが子たちに真剣になってぜひとも伝えなければならないものは幽斎や田辺城ではない。そんなことは中学生にもなれば子たちは知っているのだ、そこそこの能力を持つ子ならすでに感じとっているのだ。バカにしてはならない。「こいつらこんなことしか知らんのか、たよんないの」と、かえってバカにされるだけである。別に田辺城や幽斎が悪いのではないが、現在の郷土史教育なるものが、子たちに何を伝えるべきかも知らないほどの超つまらないものであったのであろう。子供時代の話をするのは、子供が興味を示さないものは、やってもまずダメだと思われるからである。現在もおおかたではそうした郷土史の貧困、教育の貧困が続いているかも知れない。この城門はおかしい、そう異議を唱えた郷土史家はいただろうか。ご同業者の悪口などは言いたくないが、市民の立場でいえば、そのレベルなのだということをよく認識してかかるべきである。
→ちなみにこれは大阪城大手門
ウソても誇大につくらねばならない、ウソとも気がつかない、彼ら自身の郷土史に対するうかつさとコンプレックスとあせりがあったのかも、本当の郷土の誇りとか郷土愛は歴史認識を誤らせるウソのドデカイ建物を「復元」する、そうしたことではなかろう、ナ〜ンもない町の観光目的としても史実に基づかないでは成り立たない。世の中は甘くはない、ごまかせない、自己に都合のよいように過去を作ってはならない、教えてはならない。
→ちなみに大阪城桝形門。大手門を入ると桝形広場があり、次にこの門がある。
市当局はある程度は政治屋だから、ある程度はこうした政治的虚飾プンプンの建物を「復元」したくだらぬものを手がけるだろうし、それもある程度は許されるかも知れない、しかし史家や教育者は別である、史家や教育者が政治屋どもに迎合して口を閉ざしていれば、黙認したことになり、その資格をまったく失う、中学生を教える資格などもとよりない、歴史は川の流れのようなもの、上流成分を含みながら今を流れて下流へと達していく、過去に対する認識を誤れば、現在も未来も誤るは必定、過去は過ぎ去ったものではなく、今にも作用を及ぼしている生きたものである。今は何もないうえに築かれたものではない、過去の土台の上に築かれている、過去認識を誤れば今を未来を誤る。上流を正しく調査しないで、橋や堤防をつくるバカなどはいまい、過去に厳格に、さらに厳格に、これが郷土を本気でよみがえらせる正道ではなかろうか…、郷土のためと一生懸命がんばっておられるのは理解するとしても、政治屋的烏賊様土台では未来には破綻しかなかろう。
3万5千石ならちょっとしたトリデに毛が生えたくらいのものである、天守閣すらない城に、皇居正門に匹敵するこれほど立派な城門などがあるはずがない、中学生でもわかるリクツである、
城に知識ある人が見れば大笑いだろうから、ついでながら書き加えれば、江戸城の西ノ丸大手門が今の皇居の正門だが、これは幅32.4m、奥行7.2mあるという、↑上の江戸城三の丸大手門より少し小さい。「田辺城復元門」は21.67m×6.9m、高さは12.07mある。幅は10m弱、奥行きは30p小さい。城門の左右に張り出している塀部分も入れれば勝てるぞ。「田辺城復元城門」がこのサイズになっているのは皇居に少し遠慮したのではあるまいし、史実に合わないからでもあるまい、ただ予算の都合でこのサイズなのであろう、仮にもう何億円かがあったならば、皇居正門以上の門になっていたであろう。何も田辺城だけではなかったが、このころから「舞鶴はオカシイで」が市民にもはっきり見えるようになったと私は見ている。市民それぞれの心の「田辺城」が現実にはありえないまでに誇大に肥大しおごり狂い暴走し始めていた。その克服、正常化は現在も道半ば、いかに郷土教育・ふるさとの真実をしっかり学習することが大切かを教えている。自分の郷土を愛し国を愛することは何も悪いことではないが、そうした素朴で個人の心の問題をことさらに政治化しゆがめ利用するというワルもけっこういるし脳味噌の発達があまりよくない人々がひかかることも多い、現在は国のサイズでこうした「愛郷心」の狂いが暴走しているが、史家達、教育家たちに託された使命は今こそ発揮されるべきであろう、真価が問われる、がんばってくれ。
冗談はおいて、さて、このお城の呼び名であるが、地元舞鶴では普通は「舞鶴城」とか「田辺城」と呼ばれている、しかし舞鶴(マヒツル・ブカク)城は全国に多く、お隣の宮津城も別称は鶴賀城、あるいは舞鶴城であるし、雅称として舞鶴城と呼ぶお城は、全国的に多く次のお城だそうである。(ウィキペディアより)
- 三春城(陸奥国、福島県田村郡三春町)
- 太田城(常陸国、茨城県常陸太田市)
- 甲府城(甲斐国、山梨県甲府市)
- 福岡城(筑前国、福岡県福岡市)
- 柳川城(筑後国、福岡県柳川市)
- 唐津城(肥前国、佐賀県唐津市)
- 津奈木城(肥後国、熊本県葦北郡津奈木町)
- 村上城(越後国、新潟県村上市)
- 国分城(大隅国、鹿児島県霧島市国分中央)
高鍋・財部城(日向国、宮崎県児湯郡高鍋町)も舞鶴城と呼ばれ、藩校も明倫館だったという、こうした城名のほか「舞鶴」はかなり多く見られる地名で山名や公園名などにも各地に見られる。
田辺城は紀伊国にもある(3万8千石)。そうしたことで、このお城、今のところは特に正式名称もないようだが、「丹後田辺城」あるいは「丹後国田辺城(舞鶴城)」あるいは「舞鶴田辺城」とか呼ぶのがいいのではなかろうかと私は思うのである。
天正8年(1580)丹後に入国した細川藤孝・忠興父子は宮津城築城に着手すると同時に藤孝の隠居城として田辺城の築城に着手したといわれ、同11−13年頃にほぼ完成したとみられている。
↓細川氏時代を描いたと考えられる田辺御城図(「田辺旧記」所収)によれば、天守台・本丸を中心に北に二の丸・三の丸があり、南側に大手門、西側に搦手があってそれぞれ京口、宮津口に通じ、南東には若狭口があり、北側には船付御門が設けられていた。
本丸西北隅には天守台があるが、天守閣は築かれていない。天守閣を特に必要とはしない時代になったの判断か、それとも財政が許さなかったのか、天守閣を再建するカネで庶民のために両国橋を作った幕府であったが、幽斎様もそうした立派な市民福祉の志がおありであったのか、そのあたりは不明である。
北に西舞鶴湾、南は沼地、東西に川が南北に流れる自然の要害地であった。
↑この慶長5年頃といわれる「田辺御城図」には、「天正十一年細川越中守御縄張、同十三年酉年普請大略出来之由申伝」と註がある。
城名の由来は、往古当地方の地頭として活躍した田辺小太夫にちなむとも、当地方を往古田辺郷と総称したことによるともいい(加佐郡誌)。また城郭の形により別名を舞鶴城とも称したようで、現在の舞鶴市の「舞鶴」の地名はこの城の別称名によるものである。
舞鶴の地名は全国にはかなりあるが、本当は由来はそう明確なわけではない。
↑ 栄枯は移る 世の姿 (背後の石垣が天守台跡)
↑ 替らぬ光 たがためぞ
↑舞鶴公園(昭和3年) 田辺城址の舞鶴公園は庶民の憩いの場であり、旧藩士たちによって植えられたという桜の花見には人がつめかけた。(『目で見る舞鶴・宮津・丹後の100年』より、キャプションも)
↑彰古館の建設 彰古館は、昭和十五年に舞鶴出身の実業家有本国蔵の寄付によって新たに設計され建築された。田辺城の隅櫓を模して、本丸跡石垣の上に築かれたものであった。しかし、太平洋戦争が激しくなると、空襲に備えて、彰古館には迷彩が施され、戦後になっても長い間迷彩は、残っていた。(『ふるさと今昔写真集』より、キャプションも)
田辺城築城以前の話であるが、細川忠興の妻(玉子)は明智光秀の娘で、光秀が本能寺に信長を殺したとき、ビミョーな立場になり味土野(弥栄町)に隠棲させられた。
「細川ガラシャ夫人」
慶長5年、徳川家康方(東軍)についた細川忠興が石田三成方(西軍)の会津上杉景勝を討つため宮津を留守にした際に、そこを西軍に攻められた。留守を預っていた藤孝は、宮津城はじめ田辺以外の城をすへて自焼して田辺城に籠城して迎え撃っている。これを細川の田辺籠城とよぶ。7月から9月にかけて攻防戦が行われたが城は落ちず、9月の初めに至って後陽成天皇の勅使鳥丸光広の勧めで城を明け渡したという(田辺府志)。
田辺籠城では、関ヶ原へ忠興が殆んどの丹後兵を連れて出ていたのでこのとき田辺城を守っていたのは、幽斎などの率いる500人だけで空城同然だった。包囲軍は丹波・但馬の諸大名を中心とする1万5000の兵であった。頑強に抵抗したものの、1対30の兵力差、援軍の見込みもなく、7月末には落城寸前となった。
しかし包囲軍の中には、幽斎を歌道の師として仰いでいる諸将もいたいし、それよりも主戦場の関ヶ原の行方が心配であった。落とすのは簡単だがこのまま落としてしまって自分の身は安全か、の頭が動く。城内からはこちらを見ていて、攻撃側の動きを隊ごとに細かく記録している様子を見せつけている、言うたるぞ言うたるぞセンセに言うたるぞ、弱ったぞ、弱い者いじめしてるが、なにせ相手は少数で老いたとはいえワレラ田舎ザムライと格が違う超大物だし、そのバックに徳川家康でないか、もしウチの人気のない大将が負けるようなことがあれば、ここで軽はずみに決定的なことをして田辺城を落としてしまうと、あとであの詳細な記録やワケワカメの伝授だとかいうものやこいつら包囲軍のゴミみたいな味方も保身のためにあとでは何を言い出すか知れたものではない、そうしたものを元にして自分の首が飛びはしないか、だれしも我が身がかわいい。ユートーセー幽斎の大芝居に包囲側はおじけづき、攻撃はカッコだけのイヤイヤ、積極性は欠いた。シラミを潰すより簡単なこと何もそうあわでずともまぁ関ヶ原の結果を見てからで遅くはあるまい、自分が積極的に攻め手柄でもあげて目につくと、情勢反転した場合にもしかすれば自分だけがスケープゴードにされるかも知れないと腰が引けていた。
「田辺籠城と古今伝授」
慶長5年細川氏が豊前小倉へ移封になると、翌年京極高知が入封し、宮津藩12万7、000石を領知した。元和6年高知が死去すると、その遺言により次男高三に3万5、000石が分与され田辺藩が成立した。
寛文8年京極氏が但馬豊岡に移封ののちは、牧野氏が代って藩主となり10代続いて幕末に至った。
封建社会から近代社会へと変化するなかで存在意義を失った田辺城は、明治6年に廃城が決定され、同7年から順次取り潰されていった。
現在は「彰古館」(昭15)と呼ばれる二槽隅櫓や「城門」(平4)を見ることができるが、これらは最近建てられた物で、往時のものではない。彰古館は実業家・有本国藏氏の個人的な寄付によるもの(市役所西支所に銅像が建つ)で復元ではない。
城門は城西門を復元したものか、はたして今のようなものがあったのかどうかもよくわからないようなことだし、位置は今の市民会館のあたりであった。観光目的かも知れないが長い将来にわたっての町作りに本当にふさわしいと大金の税金をかけるほどのものか、下の石垣は何百年かもつかも知れないが、上の建物は50年ほどしかもたない、そうした時にゼーキン使って再建されるとはとても思えなく、いま調子に乗って建てただけの時代錯誤のムダ使いに終わるかもー。と危ぶまれる。
こうした城は誰が建てたものか。何とかという武将ではない。負担させられたのは百姓たちである。年貢率は5・5割とかそれ以上であった。皆さんも月々の僅かの(失礼)給与の半分以上、7割とかを税金に取られたらどんな気持ちがすることだろう。有効利用してくれるのならまだ辛抱もしようが、取っていくだけで、その血税でこんな建物を建てられて喜んだ百姓がいたであろうか、喜ぶような者はよほどにめでたい苦労もないかアホウ百姓であろうし、一人も喜んだりはしなかったと思われる。
一城成ったかも知れないが、その蔭では万骨が枯れたのである。枯れた万骨は我々の祖先であった。では今は喜ぶ納税者がいるのであろうか。誰もいないと思われるのである。役人どもの自己満足だけであろう。歴史は二度繰り返されるとヘーゲルは述べているという。マルクスはそれを引いて一度目は歴史の悲劇として、だが二度目は茶番である、という。それは確かな歴史哲学と私も考える。二度目の、まして観光目的の史実に忠実でないものなどの復元の歴史的意義は、どうひいき目にみたとしてもお笑いでしかありえない。二世首相のようなものかも知れない。後世のお笑いのネタとしてマンザイとしてマンガとして何億もの税金がムダに使われた。真面目に生活する市民からみるならアホらしい話である。
「荒城の月」は土井晩翠の故郷・仙台青葉城の印象が反映しているといわれる。
その青葉城(仙台城)も復元するかどうかとなかなかもめてますよ。という話を聞いたことがある。莫大なゼニがかかり誰が何ゆえにこの財政難にそれを負担するのかという問題がある。また復元とて貴重な遺跡の破壊にもなりかねない。知らぬ者とてなかろう伊達政宗の城でもそうで、今以て復元できないのだから、田辺城などはあくまでも有志の寄付でまかなえる程度のものにすべきであろう。石垣だけで十分と私は考えるが、どうしても復元したいならばまずは言い出しベエが自分の身銭でやってくれ。誰一人として身銭を切らない、瓦一枚の寄付とてない口舌の徒の口車に乗って市がゼーキンで全額の面倒を見るなどは愚か過ぎる、納税者をバカにした話である。今後ももしこうしたことをやる気なら、チェック能力ゼロの議会の承認などはどうでもよいが、必ず市民投票にはかけてくれ。市も議会もそろそもそろって公金の管理すらまともに厳格に対応できない様子のよう、オマエらのカネではない、これに限らず問題ありそうな支出については市民投票に必ずかけろ。
公金はもうないのである。莫大な借金ばかりが残されている。よく心してそれを使う場合は、考えに考えて有効に、民にとって将来にとって誠に効果があるスポットのみに投入すべきであり、市民多数の賛同を確認するべきである。こんな馬鹿げたハコ作りなど無駄なことは一切やるべきではない。
京極氏時代は、沼に注いでいた丹波川・池内川・伊佐津川の付替工事を行って一流とした(伊佐津川の瀬替え)、城南部は沼地より乾田に化したので、細川氏時代つくられていなかった南部の堀と土堤がつくられた。城内の規模は東西230間・南北420間であった。
そののちの寛文9年(1669)牧野親成が入城、城の修理に着手、翌年修復を完了した。この頃が田辺城が最も整備されていた時期と考えられる。それまでは天守閣もなく平らな所に侍屋敷が並んでいるだけで「御館」と称していたというが、この頃からそれらしくなって「御城」と唱えたという。
享保7年の「田辺御城図」によると、旧搦手のあった位置に追手門、旧追手門の位置に南門が置かれ、若狭口に通じる方角には新しく大内門が設けられている。
城内追手門を入ったところには藩の学問所(明倫館)が置かれていた。↑現在もその門は明倫小学校の正門に使われている。(位置は代わっているが、当時のものである。)
今の小学校程度、昔の尋常小学校の年齢を対象にした学校のようである。なかなか教育熱心でなにか微笑ましいような光景であるが、『舞鶴史話』には、
〈 教科目は初は漢学ばかりでしたが、安政頃から洋学、医学、算術、習字、習札の五科を加えました。またこゝへ通ったのは前にもいったように武士の子弟でしたが、その子弟は八歳になると就学し、元服するまで勉学を続けなければなりませんでした。卒業すると成績優良だったものは更に進んで学寮に入りましたが、その他に家塾に就くことも自由でした。又藩費や私費で遊学することも許されていました。私費の場合は幾分かの補助があったようです。これらの学事経営に要した藩の費用は文政年中は米百二十石、維新後は米七百五十石でした。正月開講の節は藩主自ら臨席して、その授業振を参観、聴聞しました。特に藩主誠成はひとしお教育に熱心で、月々自ら講義を行い、毎月日を定めて臨席監督もいたしました。 〉
藩主もあげての教育熱心さ、藩の文化意識の高さ、その光を誇り、観光にというなら、話はわかるが、そんなことは知らん顔して、何億もかけて櫓をつくったり、大手門をつくったり、それが何か郷土の光であり誇りでもあるかのように思い違いをしているのが現在の舞鶴の殿様どもなのであろうか。
むかしの光 いまいずこ
新緑の風に吹かれる、いにしえの田辺藩学問所・明倫館の門。ひとり何を思っていることであろう。
明倫館の模型(市政記念館藏)↑
「明倫館 復元時代 明治期 明倫館は、田辺藩の学問所で中央に楼があり、太鼓を据付けて時刻を知らせたと言われています。」と案内にある。
城下町の構築
城郭が建設されるとともに、その西側には町割が行われ、近隣諸国から商人・職人を招いて城下町が形成されていく。
大手門を出たばかりの地・本町付近が最初に形成され、町屋としては同町の山本又左衛門(丹波屋嘉右衛門)家が最も古いという(丹後旧語集)。
城下町造りのため地子銭を免除されたのは職人・本・魚屋・平野屋・竹屋・寺内・新・紺屋の9か町。寛文年間以前の絵図によれば、城下町は武士と町人の混在型であった。
「加佐郡寺社町在旧起」は、
「そもそも丹後国田辺城下町屋の体軒端、継建続き本町 職人町 魚屋町 漁師町 丹波町 平野屋町 竹屋町 大橋を限り東の町これなり
大内町は城の東にこれあり
橋西に至り寺内町 堀上町 新町 西町 紺屋町 引土新町 朝代町 引土町 諸商人諸職人 家業断絶無候」と記載されている。高野川に架かる大橋を境として城下町が東西に大別されており、現在も両地域を橋東・橋西とも通称している。
「田辺旧記」の「城下町数」では、本町・職人町・魚屋町・丹波町・平野屋町・竹屋町・寺内町・新町・西町・紺屋町・堀上町・引土新町・朝代町・引土町・大内町・吉原町と16町を数える。城の西方の町家14・家数1、067、東方の町数1・家数66ともあり、また「古帳十七町島崎町今手代町也」とも記される。
寛保3年の城下町の戸数1、281(竹屋町文書)。天保9年の巡見使に対する「庄屋心覚」(上羽家文書)の戸数1、593・人口6、510。安政6年には戸数1、725・人口7、075で、ほかに武士ならびにその家族・従者2、455人(舞鶴市西図書館蔵、原正景百ケ条)。という。
明治初年の段階では、田辺城下のうち吉原町が東西に分割されているほか、城跡や藩士屋敷地などに字二ノ丸・南表町・南裏町・大内口・新道・表町・北裏町・三ノ丸・新立・鳩部屋・築地・七軒・元職人町・手代町・島崎・松陰土手・京口・宮津口の字名も見える。
寺社は城内にうのもり大明神、城下に一向宗源演山源蔵寺・不動如山瑞光寺、浄土宗随心山浄土寺・竜詣山見海寺・滝谷山松林寺・海岸山見樹寺、曹洞宗天香山桂林寺、経宗長久山妙法寺・妙光山本行寺、真言宗慈恵山円隆寺、朝代大明神がある。
また城内には慶長5年の田辺篭城の際玄旨法印がその下で古今証明の状を認めたという古今伝授の松があった。
明治2年藩籍奉還の際、紀伊国の田辺藩と区別するため、城名をとって舞鶴藩とし、以後町名も舞鶴町に改めた。廃藩後、城郭地の大部分は市街地化し、北田辺町・南田辺町となるが、本丸およひ二の丸の藩主邸の庭園は舞鶴公園となている。
朝代神社例祭に吉原地区から「太刀振り」が奉納される、4年に1度だが、田辺城趾でも演じられる。
幽斎が籠城した際に、漁師たちも見張りなどに活躍したことから、その戦歴を武道の型として、吉原地域で引き継いでいると伝わる。8演目ある(府民俗文化財)。
田辺城祭り
(このページの写真の多くは田辺城祭りの様子)
田辺城城門の再建完成イベントとして、舞鶴の歴史と文化にスポットをあて、まいづる田辺城まつり実行委員会が主体となり、1992年(平成4年)から始まった祭。
これもまた田辺城の表情かも知れない…
↓備州岡山城鉄砲隊の演武(2012.5.27)
↓韓国民団のサムルノリ(2012.5.27)
田辺城の主な歴史記録
《丹哥府志》
〈 【足利泰氏の城墟】
日本史に東鑑を引て曰。足利義氏の子足利泰氏丹後守に任ぜられ宮内少輔に遷る、素より遁世の志あり建長三年剃髪して僧となる、文永七年卒す平石殿と称すると云々。是を一色氏の祖とす、加佐郡建部山に城郭を築き代々是に居る。祖父の義康は鎮守府の将軍源義家の孫式部大輔義国の長子なり。兄を新田義金といふ。泰氏に八男子あり、其四男一色宮内卿公深家を嗣ぐ初て一色氏を冒す、次を一色次郎範氏といふ、次を一色左馬の頭修理太夫範光といふ。建武三年正月足利尊氏兵を率ひて京師に入る、楠公の為に敗走して西国へ遁る、是時一色範光之に従ふて西国に下り菊池の兵と戦ひ之に克つ、遂に八代の城を落す、於是九州の兵皆尊氏に属す、此歳の五月足利尊氏西国の兵を率ひて再び京師に入らんとす、湊川に於て楠公と戦ひ楠公遂に討死す、一色範光尊氏の為に功ありといふ(丹後旧記に建武三年一色範光初めて丹後に封ぜらると云は誤なり)。次を一色兵部少輔詮範といふ、嘉慶三年山名氏清の為に押領せらる、よって姓名を吉原左京太夫詮範とあらため城を丹波郡吉原に築き山名の陣代となる、居焉四年其子一色修理太夫満範と同じく山名氏清を討てこれに克つ、明徳三年一色修理太夫満範再び丹後に封ぜらる、於是吉原城より又建部山の城に帰る。次を一色兵部少輔義範といふ、将軍義宜公に従ふ、永享元年伊勢の国司北畠氏と戦ひこれに克つ、嘉吉三年洪水陵に登る、国人殆ど餓ゆ、義範これが為に貢をゆるす、是時の觸書加佐郡志楽の庄の民家にありと順国志に記す。次を義直といふ、応仁年中山名宗全に属し御敵となる、永正五年七月九日卒す竜勝寺殿天?衍公大居士、加佐郡行永村竜勝寺に葬る、義直の長子義春応仁の乱に討死す、よって義直の弟義遠の子義季を以て嗣子とす、義季始め一色松丸といふ左京太夫といふ、永正四年若州の国司武田大膳太夫元信と成相山に戦ふ、是時小笠原澤蔵軒討死す(天橋記に永正年中に武田元信と成相山に戦ふを一色義有とす、然れども義有といふもの系譜に見えず、永正の頃は一色五郎義季の代なり、後に左京太夫といふ丹後の守松丸といふ、足利義昭公に従ふて若狭越前に赴く人なり)。丹後旧記に曰。義季より以下義俊に至る凡四代其間一百余年、是時に当りて八十五ケ處の城塁あり、皆一色氏に属すといへども或は従ひ従はざるものも亦あり、多くは足利の諸将遁れて丹後に来るものなり、是を以て義季より以下丹後の国主とせずと云。次を左京太夫義幸といふ、次を左京太夫義道といふ(義道一に義通に作る)天正五年冬十一月細川藤孝将軍信長の命を以て丹後に入る、一色義道是と戦ふ、一色の随将小倉播磨守、野村将監、河島備前、井上佐渡守、小倉筑前守、日置弾正、仝小次郎、千賀常陸介、仝山城守等追々馳集り細川藤孝殆ど危し、於是救を明智光秀に乞ふ、明智光秀使を日置の城主松井四郎左衛門及算所の城主有吉将監に嘱す、是より藤孝に属する者多しよって遂に克つ事を得たり、翌年の春正月廿日建部山城落城、一色義道中山村に走り其臣沼田幸兵衛の城に入る、仝廿四日中山村を出て討死す、其子五郎義俊中山より遁れて与謝郡弓木の城に篭る、細川藤孝数々是を攻めけれども克たず、仝十年義俊故ありて田辺の城に於て死す先是義道の弟吉原越前守義清吉原にあり、姪義俊の死するを聞て吉原より弓木の城に移り細川藤孝と戦ふ仝五月廿八日義清宮津に於て討死す、於是一色氏亡ぶ、足利泰氏より義俊に至る凡十三代、其年暦殆ど三百五十年。
或の説に、一色の本城は今の田辺なり、田辺の城細川藤孝の草創にあらず、といふ。然れども(一色の末葉といふ者の記録に建部山を以て一色の本城とす今之に従ふ抑も天保武鑑に一色の本城は宮津にありといふ蓋一色義俊建部山落城の後弓木の城によるこれを以てなり)吾丹後に城跡と称するもの凡八十五ケ處皆山城にて一も平城ある事なし是元亀天正以前は山城なりと見えたり、信長公起りてより城郭なり甲冑なり刀釼なり凡天下の武備一変せり、吾丹後も亦然り、細川藤孝の来りてより皆平城とぞなりぬ。 〉
《地名辞書》
〈 田辺城址。今舞鶴町の東偏に在り、北は海浜に至り、東南は流水を湛へ、防御と為せり、天正年中細川藤孝の修築する所也。或は曰ふ、旧一色氏の館址に就き、之を起すと、慶長五年の乱に、西軍藤孝を此に攻め、両月抜けず、関原決戦の前四日、藤孝城を出て、西軍亦囲を解く。(外史云、藤孝守田辺、…)京極高知同年を以て本州十二万七千石に封ぜられ、宮津に入る。元和六年、田辺三万五千石を高知の二男高三に分与せらる、寛文八年に至り、京極氏減封、但馬に移され、牧野信濃守親友之に代る、三万五千石、世襲して明治の初に至る。城郭の形状、舞鶴に似たりとて又其名あり、今の市街港湾の号と為る者即之に出づ。宮津府志云、田辺府志曰、本城、応安年中、一色左京大夫詮範領し、嘉慶の比は、山名播磨守満幸領したりと、按ふに建武中、足利尊氏公一族たるを以て、一色兵部大輔範光始て当国に封ぜらる、詮範は範光が子なり、嘉慶年中、山名満幸丹波近江を領し、丹後一色が領地をも押領せしならん、明徳二年、山名氏敗れ、満幸は遁れ去る、翌三年再び一色満範に賜ひしものなり、此時詮範には若狭今富の庄を賜ふ、又一色家代々居りし地は加佐郡田辺か、天正六年冬、織田信長公より当国を長岡兵部大夫藤孝に賜ふ、藤孝当国加佐郡大内に入、此時一色義道父子田辺の城に在り、藤孝の多勢に敵し難く、城を出て同郡中山村と云所にて、藤孝の勢と戦ひ、父義道主従騎戦死す、五郎義俊は此所を遁去り、与謝郡弓木村の山中に砦を構て篭居す、藤孝偽て和を講ず、爰に於て五郎義俊砦を出で降参、藤孝信長公の令を伝へて誅之、一色義光建武四年封を受しより、天正六年に至て十代二百三十八年にして、一色氏断絶す、是に於て加佐郡八田の地に城郭を経営し、市街を開きて居城とす、今の田辺城是也。○丹州三家物語云、永禄元亀の頃より、当国殊に騒しく成て、既に天正の比は丹後一州を地侍共三十六人として分領し、海辺の者共は海族を事とし、廻船を悩し、面々に掻上を構て城主といはぬ者もなし、かかる所に天正九年、細川父子此国に来りしより、同十年に丹州五郡悉手に入ければ降参の者共をば念比に扶助して、皆家臣とせられける、然共在々所々のかきあげ共、悉破却して宮津田部は根城にて、其外四箇所に城を立てらる、其頃加佐郡には頭立たる城侍地侍八人有けるが、藤孝家臣石寺治右衛門を田部に遣し、之を招降せらる、月を経て宮津には、藤孝、松井佐渡に仰けるは、加佐郡の者どもが遅参せし条、汝はやく田部わ参れとありて、田部をさして急げるが、加佐郡の各を石寺同船して来けるに、今崎にて行あひたり、松井申けるは、石寺殿はこなたの舟に乗給てといひければ、石寺各へ目礼して松井が舟へ乗移むとせし所を、田部衆おもひけるは扨はわれわれを鉄砲にて打ものよと心得て、石寺を一大刀に打はなし、海中へ突はめて、急ぎ田部に漕帰る、松井佐渡大に怒て、藤孝へ此よの申ければ、さらば田部へ可向と、藤孝直に出馬有て、田部着陣せられしが、彼八人の地頭ども、各妻子を引つれて思々に立退、城々を捨ければ、何の手間取事もなく、加佐郡治りける、天正十年壬午の十月の事也、○北越軍記云、慶長五年、田辺城主藤孝を攻亡さんと、…
田辺桂林寺は、永享年中、僧雄山の創建せる禅院也、朝代神社は今舞鶴市街の鎮守とす。或云、和名抄の高橋郷は今詳ならず、本郡に岡田村の首里を由理と云ひ、河辺村高野村の首里いずれも由里と云へり、由里の名義を詳にせず、或は疑ふ高橋は高野の誤にして、即田辺の南なる高野村かと。又云、和名抄の刊本に田辺郷を田造郷に謬る。今高野村大字女布(古訓メフならん)に延喜式目原メフ神社あり、又隣村池内の大字今田に延喜式倭文シツリ神社あり、舞鶴の南二里にして分水嶺あり真倉峠と云ひ、何鹿郡綾部山家に通ずる坂路とす。 〉
《舞鶴の文化財》
〈 (史跡)市指定文化財
田辺(舞鶴)城趾
史跡面積 19.800u(西舞鶴公園)
主な遺構 本丸および二ノ丸の一部
(天守台跡・本丸石垣・二重隅櫓・心種園・二ノ丸石垣)
築城年代 安土桃山時代
所有者・管理者 舞鶴市(字南田辺)
田辺城の築城は戦国群雄の中て、智将であり歌聖といわれた細川藤孝(幽斎・1535-1610)が、天正8年(1580)8月織田信長より丹後国をあてがわれて、子忠興(1564〜1645)とともに縄張したことに始まる。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦における幽斎の「田辺籠城」は、この地に古今伝授の史実をのこし、忠興が功により豊前に国替のあと京極高知(1572〜1622)が入城、元和8年(1622)その遺命により丹後国三分が行われ、次男高三(1607-1636)が城主となった。
寛文8年(1668)京極氏が豊岡に国替のあと牧野氏がこれに代わり、明治5年(1872)の廃城まで代々田辺藩主として在城した。
この城は、本丸を囲んでニノ丸、三ノ丸がある輪郭式の平城で、東に伊佐津川、西に高野川、南は湿地、北は海に接した要害の地に築かれた。
隅櫓(彰古館)は、昭和15年に舞鶴出身の実業家、有本国蔵(1860〜1944)の寄付により、新たに設計され建築されたものてある。また、幽斎ゆかりの心種園も西舞鶴公園内にある。
昭和57年には、田辺藩の藩校である明倫館の門を明倫小学校本館前に移転復元するとともに、舞鶴西総合会館4階には、田辺城跡発掘資料も多数展示している。 〉
田辺城の「太鼓堂」(復元とか。証拠も示されないのでただ市サンを信じるしかないが…)。誰も話題にもしない、市民はまったくの無視状態なので取り上げておくと、
西舞鶴の駅前に田辺城の太鼓堂がある。時計がついていて、夜はライトアップされているし、何時かには音楽が流される。スチールの案内板に、
〈 西舞鶴駅駅前緑地
−過去と現在そして未来をつなぐ記憶のモニュメントとしてー
「丹後田辺に過ぎたるものは時の太鼓に野田希一」
幕末期に東海道の馬子によって歌われたこの歌にもあるように、田辺城内にあった太鼓堂は、朱子学の大家である野田笛浦(希一)とともに、田辺藩の人々の誇りでありました。
西市街地は細川幽斎によって築かれた田辺城(現在の舞鶴公園)の城下町を原型としており、今もその名残を随所に残しています。田辺城は別名舞鶴城と呼ばれ、後に現在の市名となりました。
この駅前緑地では、先人の残したかけがえのない歴史遺産を大切にする意味で、時計塔は太鼓堂を、広場の平面形状は田辺城の形をモチーフにしました。時計塔の外壁や広場の床に多用されているいぶし銀の瓦平板はかつて様々な地区で活躍した田辺の瓦職人を偲んだものです。 〉
何を考えて太鼓櫓など失われて百年以上も過ぎてから復元したのか知らないが、しかし復元でもない、自分の都合のよいように、よい部分だけ歴史を扱うのは傲慢というものだし「歴史遺産を大切する」という精神では本当はあるまい。どうもお偉いお役人どもなさることは理解がむつかし過ぎる。私はお手上げである。しかし一応はこうしてあるので紹介だけしておく。
太鼓櫓の近くにあるこの松は古くから伐られることもなくここに生えているが、「引揚列車見送りの松」と書かれている。舞鶴港引揚雲仙丸第一船 昭和二十年十月七日」と書かれている。どうも最近になって立てられた案内のようである。チープな感じの板の看板に書かれているが、こちらの方が舞鶴にしかない「かけがえのない歴史遺産」ではなかろうかと考える。
↓心種園の池に住む鴨
↓二ノ丸、三の丸通り
関連項目
「宮津城」
「福知山城」
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