京都府舞鶴市浜
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海軍城下町の
日清戦争時代の軍艦地名
(舞鶴軍港の浜地区の道路名)
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舞鶴東地区市街地に残る「通り名」は三笠通りとかだいたいは日露戦争時代の軍艦名が多いが、それよりも古い日清戦争時代のものもある、これは全国探しても当地だけの遺産かと思われる。この頃はまだ戦艦とかは呼ばず、大きいのを装甲巡洋艦(と言っても5000トンに満たない)、小さいのを巡洋艦と呼んでいた。軍艦なら装甲に決まっていそうだが、半木造艦というか鉄骨木皮艦で帆を張った軍艦も現役であった時代であった。
日清戦争時代の艦名を冠した通りはあるが、この頃は舞鶴にはまだ大きな動きはない。舞鎮(舞鶴鎮守府)ができても田舎鎮守府、二流鎮守府、裏口鎮守府とか呼ばれたくらいだから、それもないのだから、もうまったくの従来からのままののどかなる自然美あふれた田園、悪く言えばド田舎で、基地の町であったわけではなくナニもこれといった役割を果たしたというわけではない。一応は明治22年(1889)に舞鎮を設置すると決まっていただけ、エライさんが視察に来たり日本沿岸一周の途中に艦隊が入港したり、測量などが一部では行われたくらいである、ナニセ建艦で海軍にもカネがなく作れるわけもなかった。舞鎮の建設が開始されるのは、日清戦争が終わり、莫大な賠償金を得てからの同29年(1896)であり、開庁は同34年(1901)であった。舞鶴工廠の前身である造船廠の発足も同年、舞鶴海軍工廠と改称したのは2年後であった、火薬廠などは昭和に入ってからのことであった。ちなみに横須賀鎮守府は明治17年、呉鎮守府と佐世保鎮守府は同22年の設置であり、ほかの鎮守府と比べると当初より格下と見られていた。
日清戦争当時の連合艦隊旗艦「松島」↓
松島↑。三景艦は姉妹艦で同型だが、一艦だけは主砲の取り付けが違う。主砲が見えないが艦尾側(軍艦旗のある方)についている。4278トンだから今の自衛艦(ヘリ搭載の駆逐艦)程度のもの、あのヘリ甲板に32センチ一門を据えたようなもの。仏シャンチュー社製、これでも当時は日本最大の巨艦であった。。
橋立↓。厳島も同じで、主砲は艦首側についている。三艦が仲良く並んで進むと皆が同じ位置に主砲があれば死角がてぎるために変えてあるよう。
主砲は小さな艦の甲斐性に過ぎた巨大(32センチ×1)なものであったため、砲身を左右に振ると艦全体が傾いた、ドカンと撃てばその反動ショックで機関は故障したり進路が変わったりしたため使うのを敬遠して、主に舷側についた12センチ副砲(11〜12門)を撃ったという。橋立は横須賀工廠で作られたが、機関は輸入品、船体だけだが当時の日本の造船技術力では難しかったようで6年ほどかかっている。この時代の主力艦は英仏からの購入であった。要求過大なバランス無視の設計のため当初からムリがあって三景艦は頼りないうえに故障だらけの船だったという。
列強一流海軍国なみの艦艇をそろえていた10年後の日露戦争当時とは比べものにもならないビンボー国海軍であった。
対するは清国(中国)の定遠(ていえん)・鎮遠(ちんえん)で、こちらは当時は日本より一歩早く海軍近代化が進んでいた。
鎮遠↑。艦首と艦尾にある円いものは副砲で、艦の中央にある巨大な円形のものが主砲、この丸い砲塔の中に30.5センチの主砲二連装砲が入っている、反対舷側にも同じものがあり、主砲が4門、副砲(15センチ単装砲)2門が主な武装。後の軍艦の砲の置き方しか知らない者には何とも奇異に見えるが、単縦陣がとられるようになる以前の単横陣海戦のあり方ではこれが都合がよかったという。砲塔は14インチ、舷側は12インチの鋼鈑で当時としては不沈艦であった。黄海海戦では日本海軍が二百発以上も砲弾を命中させているが、4インチ以上貫通した弾はなかった、ニッポン海軍の艦砲などは屁でもなかったのである。英国海軍の戦艦でも弾や薬筴薬を砲口から入れる方式であったというが、これは今の砲と同じ砲の後を開いて入れる方式であった。定遠・鎮遠(7355トン・ドイツ、フルカン造船所製)と対等に闘える艦は日本には一隻もなかった。もし清国が一致団結して国難に対処するなら日本にはまったく勝ち目がなかった。列強海軍はこれよりも大型の戦艦を持つ時代であった。
黄海海戦の図↑
この当時はカメラはあるが、フィルム感度が低く動くものを写すことはできない、まして動きの早い戦場など写すことはまったくムリ。こうした絵でしかビジュアルには伝わらないが、実際に見て描いたものかは不明。
何通りなのか名もない通りが多くて、案内の説明に困るが、海軍さんは(海軍追従者か誰が命名者かわからないが)小さな通りでも道路名を付けた。どんな名かといえば、
市史によれば、
〈 新市街の命名 新市街工事の完成に伴い、明治三十五年十一月、倉梯村大字浜を中心に新市街の通り名が付けられた。市街地は海軍都にふさわしく戦艦、巡洋艦など艦種別、建造年代順に軍艦の名が用いられ、中心部を条に分けた。
寺川、与保呂川間の南北の通りは西から寺川沿いを八雲通り、続いて一条から九条に分けた。
東西の通りを北から
(海岸) 八重山 富士 (大門) 八島 敷島 朝日 初瀬 三笠
与保呂川、祖母谷川間を南北に、西から
(養老) 吾妻 磐手 出雲 浪速
東西に
千早
祖母谷川から市場間を南北に、西から
千歳 高千穂 厳島 松島 橋立 高砂 宮古 曙
寺川以西は南北に、東から
千代田 和泉 秋津洲 須磨 明石 筑波
東西に
武蔵 高雄
北吸に
比叡 天竜 葛城 大和
と名付けた。
(注)カッコ内は艦艇名でないことを示す。大門通りとは鎮守府裏門(東門)からの通りの意味である。 〉
↑新市街ができる以前の浜地区
↓『加佐郡誌』のころ
↓最近のもの
通り名は戦艦名を冠したものくらいは順序よく付けられているが、そのほかについては、なぜその艦名が選ばれ、どうした順に並べてあるのかわからない、基準はなくテキトーにと考えるよりないように思う。日清戦争は明治27、8年だが、舞鎮開庁は明治34年10月、初代長官は東郷平八郎であった。「城下町」である新市街地の通り名の命名は明治35年11月である。東郷さんは日清戦争当時は「浪速」の艦長であった、その浪速通りは端っこのほうに置かれた狭い通りで、長官の意見も聞き命名したとも、長官の戦歴を知っているとも思えない、チトオソマツものと思える、中学生でももっとらしく命名するかも知れないが、大地に刻まれた当時の歴史として大切にしたいものである。アベさんやらの戦争大好き人間の類ではありませんが、当時をふりえり将来を考えてみるうえでは舞鶴市民にとっては一つの身近な手かがりかと思うのである。駆け足で見てみよう。
この時代の戦争遺物といえば、この穴だらけの鉄板↓だけだろうか。通り名などには採用されるはずもない小型艇のもので、遠い海外での運用など想定していない本来は防衛用の艇と思われるが、威海衛軍港の攻撃にも使用したものか。
余部上の若宮神社境内にある。説明板は、
明治二十七年(西暦1894)日清戦役で威海衛の海戦に於いて敵弾を数十箇所受けた水雷艇の砲の外板の一部
とある。正確には明治28年(1895)2月5日か6日の交戦のものと思われる。
※艦名は襲名されて二代目三代目四代目の方がはるかに有名な艦が多いが、当ページはだいたいは初代の艦ばかりで、たいていは日清戦争の海戦に参戦した艦です。
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日清戦争の艦名を冠した通り
通りの位置はバラパラで何か基準らしきものがあったのかは不明だが、だいたいは短い狭い通りで、そんな名前があったのかも忘れられているような通りである。
古いものから見ていくと…
筑波通り
舞鶴の通り名は明治35年(1902)に命名している。日露戦争2年前である、通り名に名を残している艦のなかではこれがダントツに古いと思われる。
日露戦争中の明治38年(1905)起工の巡洋戦艦「筑波」がある、14000トンもあり30センチ砲×4というから「三笠」以上の国産艦である、建造中に「敵艦見ユ」を聞いた、失った「初瀬」・「八島」を補うための艦で工事は急がれたが戦争中なのでどこからも輸入したりはできず、艦も砲もすべて国産、ドックもクレーンもない、ないないなないの呉工廠で、こんな巨艦は作ったことはなかったがたった11ヶ月で進水させたという記録ずくめの艦であったが、戦争が終わってからの就役となった。しかしそれは通り名の命名以後のものである。この巡洋戦艦「筑波」は同名の二代目の艦であろう。
舞鶴の「筑波」は初代艦と思われる。
初代「筑波」は元々は英海軍のビルマ警備の「HMSマラッカ」という船だったのが売り払われ、それを日本海軍が英人から購入したもの、明治3年(1871)のことという。進水は嘉永6年(1853)であるというから日清戦争当時ですら「貴重な文化遺産」みたいな船であった。1947トン、16センチ砲×9という木造で蒸気エンジンはあるが半分は帆船というもの。しかし円罐ボイラを持ち当時としては最新技術ものであった、日清戦争などには投入されたことはない。
旧田辺藩士の伊籐雋吉は、「筑波」艦長として海軍初の遠洋航海を指揮し、ハワイやサンフランシスコ訪問を実現させたという。この船と思われる。のちに「金剛」↓艦長にもなっている。
宮津口の出身だが伊籐雋吉はよほどに能力優れた人であったようで、当時は「薩の海軍」で薩摩閥てなければ出世はありえない日本海軍であったが、その中で海軍次官にまで上り詰めた。非薩摩閥でここまで行ったのは斎藤実(仙台藩だが仁礼景範の娘婿で薩摩に近い)と、あと一人は加藤友三郎(広島藩)だけで、例外中の例外の人であった、しかし次官を退いた後は予備役で、斎藤(後に総理大臣)や加藤(後に総理大臣)には及ばなかった。片田舎の田辺藩出身ではやはり限界かと思われる、一人だけ優秀でも周囲はダメで、当時の天下国家の仕事について行ける者はなかっただろう、閥はまったく作れず退くしかなかろう。
筑波通り↓
北吸街道の東1筋目の南北の通り、これだけの長さである。
比叡通り
その次に古い艦は「比叡」「扶桑」「金剛」(同型艦)ではなかろうか。
舞鶴には「比叡通り」しかないが、英サミュダ造船所製で、明治12(1879)年に横浜へ回航されたという。当時は装甲艦はこの3隻だけで、天皇も視察に訪れたという期待の艦であった、最初はまだ帆があったようだが、改造して↓日清・日露にもシンガリながら参戦している。これは扶桑↓
「金剛」「比叡」は舞鎮に配属されたが、『舞鶴市史』は、
〈 海防艦 金剛、比叡
鎮守府発足と同時に配属されたが、共に明治十一年英国で建造された軍艦で、いずれも排水量二、二○○トン、機関出力二、五○○馬力、速力一三ノット、一七サンチ砲三門、発射管二門を持ち、建造当時は主力戦闘艦であったが、同三十年代には旧式艦として、沿岸防備を主要任務とする三等海防艦となった。
両艦共に鎮守府発足以前にも舞鶴湾に来航したことがあり、水兵の訓練、連絡輸送等に使用され地元民になじみが深かった。明治四十二年七月舞鶴軍港でその生命を終わり除籍廃艦となった。 〉
この艦に限らず、資料によってデーターもバラバラでどれが正しいのかもわからないので、そのまま引用することとします。
比叡通り↓
北吸の登り口、北吸郵便局の西側の狭い通り。向こう側へ伸びる道である、手前の北吸街道をはさみ東側にも続きの細い道があるよう。
明治19年(1886)、当時の仁礼海軍中将が「金剛」に坐乗して舞鶴湾を視察している。この時「日本海岸に於ける唯一無比の軍港地たる」を認め、以後舞鶴鎮守府設置が正式決定していくが、その「金剛」通りはない。
『舞鶴市史』
〈 明治十九年仁礼海軍軍事部長(三月参謀本部海軍部長に改組)が軍艦金剛に乗り、数隻の軍艦を帯同して、肝付水路部長と共に舞鶴湾を視察したという。
「舞鶴海軍三十年の沿革概要」(昭和六年舞鶴要港部発表)によれば「明治十九年、初めて仁礼海軍中将舞鶴湾を視察、無比の良港なるを認め、海面測量及び検潮を行ふ」と述べている。 〉
舞鶴だけでなく宮津もよく見ていたようである。
大和・武蔵・葛城通り
国産の小型巡洋艦として「大和」「武蔵」「葛城」(同型艦)↓が明治16、17年に建造される、1500トン、13ノット、6インチ砲2門などというものであった。帆をあげるマストの写真が残る木造艦の小さなもので対外戦争に使えるようなものではない。
後の戦艦大和・武蔵は知らぬ者もなかろう、しかしこれは初代の艦で、誰も知るものはなかろう、舞鶴の通り名にひっそりと残されている。
大和通り↓
北吸の狭い谷間の横方向の道。
武蔵通り↓
手前の左右の道は和泉通りで、ワタシは三笠小学校なので毎日和泉道を通ったのだが、この通りは気もかけなかった、そういえばあったような気もするなの通りである。和泉通りを挟んで山から寺川までの東西の通り。
葛城通り↓
北吸の出雲神社の参道のような通り、こちらの山から向こうの山までの通り。出雲神社は元々は三宅谷にあった北吸村の鎮守であったが、軍港建設のため全村移転となりこの地へ引っ越してきた、三宅神社と同境内にあったが、明治45年に当地へ移ったという。
天龍通り
同18年(1885)に「天龍」(1547トン、12ノット、17センチ砲×1など)の上記の艦と同じような帆柱が残る木造艦↑
ワタシは昔、帆船時代の船の模型を作ったことがあるが、どこの船だったか忘れたがその帆柱とまったく同じマストで、大航海時代の帆船の帆柱そのものである。蒸気エンジンがついてはいるが、半分は風まかせのもののよう。いずれもジャパン製造の小さな船で資料もほとんど手に入らないが、舞鶴の通り名には残されている。
天龍通り↓
北吸の三宝寺の参道のような通り。
少し下側にこんな石が置かれている。
案内板に
歴史を刻んだ敷石
明治三十四年の「舞鶴鎮守府開設」その準備に際し、海軍は初代司令長信の東郷平八郎中将の宿舎ができるまでの一時的な仮住まいとして、ここ舞鶴市北吸の民家を借り上げました。その当時の舞鶴には門を構えた家は他になく、それが家選びの決め手になったのではと言い伝えられています。
瓦ぶき平屋建てのしょうしゃなたたずまい。
広さ約二十坪の仮宿舎には、八畳の居間と和室、中庭に面した四畳半のひと間。それに女中らの賄い場が設けられ、下士官らが住んだ約九十坪の旅館風の二階建て民家が隣接しておりました。東郷中将が日々、立たずんだであろうこの中庭の敷石が今も歴史を物語ります。
「金龍しばらく池中に潜みぬ」と舞鎮左遷といわれる東郷の赴任だったが、鉄道もまだなく海路舞鶴へやってきたのだが、日清戦争の賠償金をあててつくられる長官官舎(舞鎮のすぐ後にあった)はまだてきていなかった。妻と娘を連れてやってきた、舞鶴には中学校すらなかったので息子二人は教育上の都合から東京に残した。
その「池の中」には当時かもう少しあとのものか海軍士官の官舎が今も残されている(北吸官舎と呼ばれた)。これこれ板塀に囲まれた家でワタシが子どものころからこの辺りにはたくさんあった。まだあるんだ(失礼)。
この道路(国道27号)のここに「東門」と呼ばれる舞鎮の東の入口があった。先の大きな建物は今の舞鶴市役所だが、そこには兵器廠の本部庁舎があり、手前に衛兵がいて、ここから先は一般市民は入れなかった。業者などが入って中の様子などをペラペラしゃべろうものなら「チョット来い」の世界であった。写真などはもってのほか、子どもなどが絵に描いても違法であった。↓こんな写真はもちろん憲兵が飛んできた。秘密保護法でまたそうしたこととなるやも知れない。
同級生などでこうした家に住んでいる者もあったが、訪れて見ればきわめて質素な建物であった。舞鶴は対露戦略を練るには都合がいい土地と言うがそれは当地に住んだこともない者が言う空論で、なぐさめにもなるまい、通信などある程度のインフラが整備された今ならまだしも、当時はここは露西亜はもちろん世界のどこもまったくナニも見えない地の果てのシベリア流刑地、目も耳も奪われて金龍には気の毒、将来は対露決戦の連合艦隊長官に抜擢する意図があっての舞鎮赴任ならともかくも、別にそうした意図が海軍首脳に当初からあったとも思えず、やはり左遷だとワタシは思う。
このあたりに東郷は潜ったのだ。もし抜擢されなかったらここで定年まで勤めて潜りっぱなしまま青大将くらいで終わったであろう。
高千穂・浪速通り
明治19年(1886)には、三景艦以前の日本の主力艦であった「高千穂」と「浪速」(26センチ砲×2、15センチ砲×6など、英アームストロング社製。3650トン、18ノット)。
英国海軍が羨ましがったという優秀艦であったという。1万トンを越える戦艦を有する国が本当にこれくらいの船を羨ましがったかは怪しいが、そういわれている。よい買い物であったよう。同時に「畝傍」(3615トン、仏シャンチュー社製)も購入したが回航途中にシナ海で忽然と消えてしまった。
あっちこっちから船を買うとあとが大変で船によって砲1門すら全部あつかいが違いこっちの船とあっちの船では共通性がない。ネジ一本から違っては保守や訓練教育がどうにもならない。国際関係に配慮してこうした買い物をしたわけだが、砲だけは何とかア社製で統一性を持たせたようである。
武器を売る列強は交戦両国に売っていて、ドンドン役立てて下さいよの、列強とは「死の商人」だが、テロでもどんどん売りますよとこんな儲かるウマイ商売はなかった、カネは「親方日の丸」の国相手だからカ〜タイもん、ウハウハウハウハたまらんわいと大儲けであった、泣くのは高いゼーキン取られる貧しい国民ということになるが、「武器輸出解禁」で今の日本が見習おうとしている。一度売った武器はどこへ流れるかわからず、ますますテロは拡散することであろう。
←『京都新聞』(2017.10.13)
「テロとの戦い」などと言っているどこかの国々、米、ロシア、中、仏、合計武器輸出額は世界の2/3以上を占めている、これらの核軍事大国こそがまことのテロ支援国家なのではなかろうか。
軍艦は耐用年数は8年とされていた、今のように兵器だけを新しい物に積み替えるということもできず、艦まるまるを作り替えなければならない、だから毎年毎年世界一の戦艦1と重巡1くらいを造り、補助艦も1/8づつ作らなければならない。だれがそのゼニを出し、誰が儲けるのであろう。
もちろん取りやすいところから取るわけで、弱く無権利で無知でもあった国民は、それが当然であるかのように思い込み軍や工場、学校など払い下げの残飯を食い、もう少し裕福な国民は台湾米を食い、娘は遊郭に売って重税をしのぐことになる。輝かしい明治、ロマンチックだ、ノスタルジックだ。当時のめでたい者にはそう見えたのだろうか、それとも今のめでたい者にだけそう見えるのだろうか。海軍カレーなどは呉にでもくれてやれ、そんな物は誰も実際には喰ってはいない、舞鶴は残飯メシや台湾米メシを売れ、これこそわれらの何代か前の先祖が実際に喰っていたゴッツォだ、こんな物を喰ってカッチョイイ大砲や軍艦の代金を支払ったのだ。そして負けてまた「残飯シチュー」を喰った、先の大戦敗戦後米占領軍の残飯をこう呼んで闇市などで売ったという、売れた売れた。
涙して喰おう、舞鶴赤れんが特製、どこにも売っていない「ロマンチックメシ」「ノスタルジックメシ」あるいは「開戦メシ」「敗戦メシ」「赤れんがメシ」「アベメシ」そう名付けて売ろう、売れるぞ。
残飯といっても今では知らない人が多いかも、「生ゴミ」のことである、ブタのエサであるが、そうしたゴミをブタと分け合いながら喰って、こうした軍艦を買ったのであった。
しかしこれはまだ序曲であった。さらにさらに大砲や軍艦を買わなければならなくなっていた。本番はこれからである。
超重税政府を無条件に特別に支持したのは、高い社会的地位・身分と財産を保障された華族、政商を先頭とする今の財閥の先祖である大商人・資本家、および寄生的大地主のウハウハ連中のみであったという。当時の舞鶴にこうしたウハウハがいたかどうかだが、いたら岡田の何とか邸の持主くらいの寄生地主くらいだろうか、小作料4割とか取っていたからウハウハである。これらごく一握りの特権寄生階級から見れば、明治は確かに良き時代であっただろう、そのごくごく一面だけを見て今の脳天気がそれらのマネして自分らもその寄生虫のつもりになってロマンチックだなぁとかノスタルジックだなぁとか近代化遺産だなぁカンドーとか言うのであろうが、それはクソのような寄生虫特権階級史観であり、血を吸われる側のワレラ一般庶民細民にはナ〜ンも関係がない史観である。その他大勢、国民の大多数はどうだったか。もはや世帯主の稼ぎだけでは喰えず、手の空いている者すべてが働いてもそれでもしれたものであった、そこへこの重税にあえぎ苦しい生活を生きていた。これら大多数の国民の犠牲の上に成り立った「輝かしい明治近代国家」。自分の先祖様もロマンチックな生活をしていたと思う子孫も泣きたくほどにめでたい、キミのめでたきノー味噌は世界遺産指定まちがいなかろう。国家とはそもそも誰のものであろうか、近代とは何なのだろうか。ごくわずかな人のためのものか、それとも半数以上を占める細民のものであるべきか、チイとは考えてみてはどうか。
そのウハウハ連中が50億ものゼニを出して「赤れんが」を整備するというなら勝手にやればよいが、それになぜワレラ市民のゼーキンを使うのか、ビタ一文使ってくれるな。
実際にはありもしなかった理想化され美化されすぎた「舞鶴の過去」↑(ワタシはこの近くで育ったのでよく知っている。膨大な税金を投入して大ウソがフレームアップされている)
実際にあった舞鶴の過去(龍宮の海軍様の遊興街)。これはほったらかし↓当時の姿はまず残っていないよう、そこの格子戸がそうかも(何も格子があればそうだとはぜんぜん決まった話ではないが…)
市民感情と市当局の基本姿勢はまずかみ合わない、「市もどう言うのかどうもわれわれとは合まへんな」と誰もが言うが何も舞鶴だけではないのが問題で、自治体職員の中央官僚化がすすみ中央に統制された中央の出先化された地方の官僚自治体、元々が官僚だから官僚化はある程度さけられまいが、その下部組織といってはナニだが、町内会とかそうした住民組織すらその影響を受けるのか官僚化して、官僚都合優先で住民無視の姿勢を持つようになっているしそのどっちを向いとんじゃいの大きな変化というか堕落だろうが、それにも気がついていない、それらをどう市民の視線に戻すか、そうした努力なくしては本来は地方がよくなったりはしない。
貧しい国民は税金払うために泣いて娘を売った。丹後の娘も売られたきたか。
高千穂通り↓溝尻街道の国道27号からの入口附近
浪速通り↓新川(祖母谷川)の西岸に沿った道。東岸の道は千歳通りで、国道27号に架かる橋は「千歳橋」という。
「千歳」は明治32(1899)年就航の軽巡で米製4760トン、22ノット、20センチ砲×2など。舞鎮に配備された艦で、『舞鶴市史』には、
〈 巡洋艦 千歳
第一期海軍拡張計画によって建造された二等巡洋艦で、明治三十二年米国でしゅん工した。排水量四、九○○トン、機関出力一万五、○○○馬力、速力二三ノット、二○サンチ速射砲二門、発射管四門を備え機動力に優れていた。 〉
千歳通り↓
祖母谷川東岸の狭い通り、工事中の様子であった。
八重山通り
そして同20年(1887)に「八重山」(通報艦・1600トン、20ノット、12センチ砲×3、三景艦と同じ仏の設計者、横須賀工廠)であった。煙突が傾けてあったりして仏らしいカッコがよいがあまり強そうには見えない、当時の仏は英に次ぐ一等海軍国、三番目が露であった。
八重山通り↓。富士通りの一つ北側の東西の通りで七条と九条との間だけの短い通りである。
高雄通り
明治22年(1889)に二代目の「高雄」(1800トン、15ノット、15センチ砲×4など)。これは日本の設計で、初めてのオールメタル製という、ようやく小型については世界の造船レベルに追いついたかなという艦であったが、英製の「高千穂」「浪速」と比べるとオハナシにならなかったともいう。それはそうだろう半分の大きさしかない。
山本権兵衛が初代艦長であった日本海軍を作った男、海軍の父と言われる。仏で建造された巡洋艦「畝傍」が回航途中シナ海で忽然と消えてしまった、誰一人として生存者はなく、原因は不明だが、たぶん暴風雨にやられたのであろう。
そうしたことで山本権兵衛は造船技術者をこの艦に乗せて荒海を走り回りデーターを集め、技術者たちにも嵐の海を経験させたという。どんな嵐でも敵は待ってはくれない、海軍が嵐の海など怖れてなろか、台風の目の中にでも突っ込んでいける船を兵を作れ作れ作れ、と海軍精神を吹き込んだという。
高雄通り↓
手前左右の通りが和泉通りで、あと50メートルも右へ行けば三笠通りである。両側一帯はNTTの敷地になっていて、通りの痕跡しかない。ワタシが小学生だった頃はまだNTTはなかったのだが、ここに当時何があったのか思い出せない、通りがあったかどうかも思い出せない。
千代田通り
仏で建造された巡洋艦「畝傍」が回航途中シナ海で忽然と消えてしまった、「畝傍」には保険が掛けられていたのでその保険金を元にして英トムソン社で建造された代船である。就航は明治24(1891)。2500トン、19ノット、12センチ砲×10など。
舷側に82mm〜92mm装甲を持ち「日本初の装甲巡洋艦」ともあるが、その装甲範囲は水線部に帯状の狭いもの、この頃から砲を独クルップ砲系から英アームストロング系列に切り替え始めたという。同型艦はない。
千代田通り↓
寺川の西岸の通りで、ずっと川沿いに三笠通りまで、途中で細くなったりするが続くようである。この写真の突き当たりで分かれて右に行くのか和泉通りになる。ワタシの通学路であった。
三景艦(松島・橋立・厳島)通り
就航は、「厳島」明治24年(1891)、「松島」同25年(1892)、「橋立」明治27年(1894)。仏設計シャンチュー社製、「橋立」だけは横須賀工廠で建造された。32センチ砲×1、12センチ砲×12など。16ノット。
厳島通り↓
松島通り↓
橋立通り↓
巡洋艦「吉野」
明治26年(1893)就航の、23ノットという当時としては世界最速の優秀艦で世界的にも有名な4200トンの艦であった、今ではこれくらのスピードなどは問題でもないが、当時はそんなスピードなんか出るはずがないといわれていた、実際に試運転では24ノットもでて乗務員は肝を冷やしたという。
豊島沖海戦や黄海海戦の第一遊撃隊の旗艦というまことにカッコよろしい花形艦、しかし通り名にはない。ホワイ?ホワイ?ホワイ マイヅル ビープル?
肝心カナメが抜け落ちるという、この町は何かどこか大事なとこが抜けとるデ、と深いソンケーやまない舞鶴らしいハナシといえば、そうだが…
三景艦建造でビンボー海軍はもうすでにサイフはスッカラカンだった。これでは定遠・鎮遠に当たれない。強い艦がもっともっと欲しい、しかしカネがない。
明治23年(1890)天皇は心配され30万円を艦建造のために寄付された。国民も何銭というわずかなカネを寄付しあい数ヶ月で「建艦寄付金」200万円余が集まった、この金でできたのが「吉野」その同型艦「高砂」であった。このハナシを聞いた英の設計者はえらく過激して、貧しき者の期待に応えられる一艦よく数艦と渡り合える優秀艦を作ったという。砲は全て防盾付き、アームストロングの15cm単装速射砲×4、12cm単装速射砲×8など。
しかし別に清が攻めてきたわけではない、攻めて来てるのは列強だが、それにはゼニを集めないが、列強に攻められ続けている気の毒な清に対抗するためにはなけなしのゼニを寄付する、ニッポンすばらしいと伊籐正徳氏や英人などはほめたくるがどこがアジア解放のため闘ったなどと言えるのだろうか、列強に日本が本気で攻められなかったのもこうしたアジア諸国がおいしく、いわば身代わりになってくれたからかも、古くから世話になった国であるのに、恩を仇で返す、こうした不義理な国民性は誇っていいのやら恥じるべきなのやら、これでは友達はいない、今から考えてみるのも何やら参考となるかも知れない。
米帝に基地だと国土を取られて実際に70年にもわたって攻められているのにそれにも触れもせず、中国や朝鮮攻撃ばかりしているどこぞの国民に共通しているかも知れない。こうしてアジア侵略の先兵へと貧国強兵策を推し進め、膨大な犠牲者を出して最後は焼け野原となり敗戦を迎えることになっていく。
仏人ビゴーの描いた風刺画→
花の巴里からはこう見えた。この当時よりワレラは何かチト進化しチトは賢くなったであろうか。ワタシは自信がないが、チミならどうかな。
「吉野」とは「高砂」が同型艦とされる↓。
「高砂」は通り名に残っているが、日清戦争後の明治31年(1898年)就航であった。設計者は「吉野」と同じだが、「吉野」とは兵装、装甲などに違いがある。これは元々はすでに建造中の巡洋艦を購入したものだという。カッコは似ているが厳密には同型ではまったくないようである。「高砂」は4155トン、23ノット、20センチ砲×2、12センチ砲×10など。
高砂通り↓
松島通りから東へ2本目の南北の通り。
秋津洲通り
巡洋艦「秋津洲」(あきつしま)は明治27年(1894)就航の、設計から建造までの全てを初めて日本製という巡洋艦とされる。
最初は三景艦の四番艦として計画されたが、あのバランスの悪さではと考えたか、設計を一新し全く別の艦として作られたという。横須賀工廠製。3150トン、19ノット、15センチ砲×4、12センチ砲×6など。「吉野」がモデルだったというがオハナシにはならない程度のものだったという。同型艦はない。
秋津洲通り↓
千代田通りの一本西側の南北の通りで、これだけの長さの通りである。
これから先は日清戦争には間に合わなかった艦になるが、
須磨通り
秋津洲通りの西に須磨通り、明石通りと並んでいるが、「須磨」と「明石」は同型艦で(起工時が異なるため若干異なっている)、「秋津洲」の小型改良型とされる。
「須磨」は、横須賀工廠製の国産艦で、明治29(1896)の就航、2600トン、20ノット。15センチ砲×2、12センチ砲×6など。
須磨通り↓
明石通り
「明石」は明治32(1988)竣工。横須賀工廠製。「須磨」の同型二番艦。
明石通り↓
和泉通り
「和泉」は元はチリ海軍の「エスメラルダ」で、日本海軍が明治27(1894)年に購入したもの。英アームストロング社製で、3000トン、18ノット。25センチ砲×2など。
和泉通り↓
市街地の一番西側の南北の通り。小学生の頃はこの道をポカポカと馬が荷を引きながら歩いていたことがあった。
宮古通り
日露戦争中、戦艦「初瀬」「八島」が触雷沈没した魔の明治37年(1904)5・15の前日に「宮古」も大連湾掃海中に触雷しアッという間もなく沈没した。
5・15は「春日」と「吉野」が深夜濃霧の中で衝突し、ナント「春日」の衝角が「吉野」の左どてっぱらを突き刺して「吉野」はアッという間もなく沈没しほとんど全員が戦死してしまった。
その昼前には期待の戦艦「初瀬」「八島」が触雷し沈没、その救助のための軽巡「龍田」は暗礁に乗り上げ大破してしまった。
17日には砲艦「大島」と「赤城」が濃霧に中で衝突「大島」が沈没。駆逐艦「暁」(初代)も触雷沈没。それでなくとも戦力不足のおりに「注意不足」の重大事故が7隻つづいた。号泣議員ではないが、誰もただオイオイオイオイ泣くばかりで東郷に報告することができなかったという。誰しも何度かこうした経験をお持ちかと思うが、実際にこうしたことがある、いくら注意していてもある。神に見放されるとリクツでは信じられないような不運が一気にやってくる。原発には決して起きないという保障は何もない、もし起きれば日本滅亡である。戦争と自然と原発は常に想定外を想定しておかねばならないものである。
「宮古」は呉工廠製で明治32(1899)年就航。1800トン、20ノット、12センチ砲×2など。
宮古通り↓
龍宮橋のある通り
曙通り
水雷艇のお兄さんという感じの艦で後に駆逐艦と種別されるようになる。明治32(1899)就航。英ヤーロー社製、300トン、31ノット。8センチ砲×2、発射管×2など。
これは同型艦の「漣」↑だそう、今の海自の護衛艦(駆逐艦)と比べると何とも小さな艦だが、「漣」はバルチック艦隊のロジェストウェンスキー提督を捕虜にする大仕事をした艦として歴史に残る。
舞鶴工廠建造の第一号艦、駆逐艦「追風」(明治39年進水の初代)はこの艦とよく似た艦、というかコピーのようでこうした4本煙突であった。命名以降のことなので舞廠建造艦の通りは一筋もない。
曙通り↓
宮古通りの一本東の南北の通り
千早通り
舞鎮に配属された艦で、『舞鶴市史』は、
〈 通報艦 千早
日清戦争後の第一期海軍拡張計画により、明治三十四年九月横須賀工廠でしゅん工したばかりの新鋭通報艦である。排水量一、二○○トン、機関出力六、○○○馬力、速力二一ノット、一二サンチ砲二門、発射管二門を備えていた。昭和三年九月除籍。 〉
千早通り↓
富士通りから一本北側の浮島から与保呂川までの東西の通りだが、今はないのではなかろうか、そこのスーパーやその先のマンション(?)の敷地になっているよう。
日露戦争の重巡
日露戦争の蔚山沖海戦や日本海海戦で有名な連合艦隊第二艦隊(上村艦隊)を構成した重巡が通り名に残る。いずれも1万トン近い艦で三笠型(1万5千トン)よりは小さいが「春日」や「日新」よりも大きい。当時の連合艦隊は六六艦隊といって戦艦六と重巡六で成るものであったが、通り名としては戦艦六はあるが、重巡は四しかない。ホワイ?ホワイ?ホワイ マイヅル ピープル?
出雲通り
「出雲」と「磐手」は姉妹艦(同型艦)、通りも隣り同士である。「出雲」は第二艦隊旗艦であった。
英アームストロング社製で、明治33(1900)就航。9700トン、20ノット。20センチ砲×4、15センチ砲×14など。
出雲通り↓
昔の市民病院前の南北の通り。
磐手通り
「磐手」は「出雲」と同型艦。
磐手通り↓
昔の市民病院西側の通り。
吾妻通り
「吾妻」は仏製でやはり明治33(1900)の就航。9300トン、20ノット。20センチ砲×4、15センチ砲×12など。第二艦隊の三番艦を勤めた後、舞鎮の顔のような艦で、今の海自桟橋に長く係留されて見学艦となっていた。『舞鶴市史』には、
〈 巡洋艦 吾妻
一等巡洋艦七隻の一つで、フランスで建造され、明治三十三年七月しゅん工したものである。同艦は「迅駿なる速力と強力なる攻撃とを併有しかつ最も近代的装備を為せる優勢艦であった」と、日本回航に当たった大角岑生(後の海軍大臣)の伝記に述べている。同年十月回航されて佐世保軍港に着いた。
排水量九、四○○トン、機関出力一万六、○○○馬力、速力二○ノット、八インチ砲四門、六インチ砲一二門、発射管五門、速射砲をも備えていた。乗員は六四八人である。
同三十四年修理と装備を終えた吾妻は、直ちに常備艦隊の旗艦となり、司令長官東郷平八郎中将が坐乗したが、東郷の舞鶴鎮守府への転出と同時に、その艦籍を舞鶴軍港に移した。
その後、吾妻は舞鶴軍港にその所属を続け、大正初期には練習艦隊に編入され、同十四年海軍機関学校が舞鶴に移転されるとその練習艦となった。のち舞鶴軍港の一角に長く係留されてその精華の名残りをとどめ、見学艦として市民にも親しまれ、舞鶴軍港の象徴的存在として軍事思想の普及に大いに利用された。
同艦は、昭和十九年二月除籍、同二十年第二次世界大戦の敗戦を目前に古鉄再生の目的で解体されたが、その艦齢四五年間は、誕生から終末まで、舞鶴軍港と運命を共にしたものであった。
なお、吾妻の記念碑が、昭和四十四年五月二十七日乗り組み員の特志で松尾寺に建立された。 〉
吾妻通り↓
磐手通りの一本西の通り。
八雲通り
「八雲」は同じく明治33(1900)年就航の独製。「定遠」「鎮遠」のフルカン社製。9700トン、20ノット。20センチ砲×4、15センチ砲×12など。
八雲通り↓
寺川の東の南北の通り
第二艦隊にはこのほか「浅間」と「常磐」がいたが、それは通り名にはない、明治32(1899)年英アームストロング社製で、9700トン、21ノット。20センチ砲×4などであった。
日清戦争と呼ばれるが、日本と清だけが戦争していたわけではなく、朝鮮や台湾とも戦争した複合戦争であった。マンガ↓にあるように領土を広げて植民地とし列強なみの一等国になりたかったためである。日本とすれば清だけではなく朝鮮と台湾も欲しいわけだが、ハイハイどうぞとどこぞの国のようなドめでたいボケどもばかりがいたはずもなく、草も木も皆抗日ゲリラとなって立ち向かってきた、今のワレラの言葉にすればテロであるが、アフガンやイラクの米帝みたいなもので、ナニ、クソどもがと、これらの地の万単位の農民軍や住民を虐殺するなかから、アっと言う間の急速に「ロマンあふれる近代日本」が「ノスタルジックな赤れんが舞鶴」が、ああーアホくさ、チト歴史学的に言えば大日本帝国が誕生してくる。
舞鶴はその日帝海軍の拠点となり、その歴史をとどめる「軍艦名の通り名」や「赤れんが倉庫」などの帝国の遺産が残されることとなった(日清戦争賠償金を当てたという)。
当ページは主にその通り名に残された艦船を取り上げているので日清戦争全般、陸軍戦史についてはごく簡単でしかありません。詳しくは他のものを参照して下さい。
江戸時代は鎖国だからもともと日本は海外に領土はない、近い所でよいからとにかく欲しいと考えたのだが、そこは歴史的に中国の影響が強く、一応独立国ではあったが半分属国のような所であった、それなら親分の中国をやっつけて領土を取ろうというわけである。
日本も中国文化圏であった。古来の日本文化を尋ねれば九分九厘の由来は中国から来ていた、この文字すらそうであり、上の方のゼニに狂い始めたごく一部を除けば、一般庶民の従来の感情は中国に対しては尊敬であって、中国が悪い国などと思っている者は一人としてなく、この国と戦争するなどはまったく腑に落ちなかった。日清戦争から今にいたるまで中国に対する、大きく言えばアジア全体に対する心のありかたは、従来の日本人とは大きく転回をすることになる。血肉分けたる兄弟であり師でもあったアジアを蔑視したり敵視したりし、あげくの大バカは自国や自分を神ほどの高いもの見たり、歴史的には関係がなかったアジア侵略の列強西洋にキモイほどの低姿勢ですり寄っていくことが近代化でスバラシイ、ロマンチックだなあというになっていく。同じ外国であるはずだが、西洋諸国にへの態度とはコロっと変わり特にアジア諸国に対しては強圧的な態度になる、まことにヘンな特異な二面性を持つがこれはここ百年ほどの傾向で日清戦争から始まったと言われ、その考え方は今の時代錯誤総理などにも受け継がれているように感じられる、その愚かさの結末がどうなったかは歴史が教える通りである。いまだどこかのマチなどに残る時代錯誤の「近代化遺産」を乗り越えてはじめて新しい時代が始まることであろう。
ロシアだけでなく列強各国も同じネライを持っている、地球の裏側の領土など仮に取ったとしてものちの防衛はムリ、何よりも現地住民の意思があり簡単に取れるわけがない、そうしたことで本気で取ろうというのではない、シベリア鉄道もまだなかった、取ってもチョットだけ。日本全体を取るようなことはせず米軍基地のように小さな場所だが重要地だけを取る米帝の戦略と同じである。
近い日本とロシアがそれよりは熱心だが、軍艦も作れないような低技術力の舞鶴までも鉄道が通ってもいないビンボー日本が本気でハングリーにそれをやろうとしたのであった。
朝鮮も開国させられたのだが、お陰で輸入が増え、米などの輸出は増えて民衆は貧窮し各地で暴動が発生していた。東学農民軍が朝鮮政府軍を打ち破ることが起こり(第一次農民戦争)、朝鮮政府は鎮圧のために清に派兵を要請した。清が派兵するなら日本もと「邦人保護」「公館守備」とかを名目に過大な派兵となった、真のネライは清を追い出すことであった。
朝鮮は平穏だったが、せっかく派兵した軍隊をむなしくテブラで撤兵帰国させるわけにもいかんわい、ナニか成果が結果が欲しいわい、国民もミヤゲを望んでおるわい。というわけである。
勝手なリクツだが、日本は武力で朝鮮に親日傀儡政権をデッチ上げて清との条約を無理矢理に廃棄させる、朝鮮国内の清軍を攻撃する「正当な」口実を力ずくで得た。
こうした朝鮮をめぐる日清の覇権争いに生したのが豊島(ブンド)沖海戦と高陞号事件であった。
清は増援の陸軍部隊2300名を英船籍の貨物船3隻に分乗させて当時清の根拠地であった牙山(ソウルの西海岸の港)に送ろうとしていた。そこへ偵察派遣されていた日本の連合艦隊第一遊撃隊の「吉野」「秋津洲」「浪速」の高速艦隊と清海軍の巡洋艦「済遠」「広乙」が遭遇し戦闘になった、これを「豊島沖海戦」(明治27年(1894)7.25)と呼んでいる。
例によってまた開戦通告以前の先制攻撃である。先遣の騎兵隊と警官隊が出会ったようなものであるが、日本側が先に発砲したが日本側でも公平な方の資料だが、清海軍はいずれも老朽艦で「済遠」はやる気なしでトンズラ、「広乙」は座礁し自爆するの日本側完勝の具合だったのであるが、そこへ、ほかの2隻より遅れた英船籍の貨物船「高陞号」(こうしょうごう)が砲艦「操江」(640トン)に護衛されながら現れた。「操江」は降伏し拿捕されたが、臨検の結果「高陞」は清兵1100名と大砲14門を積み牙山へ輸送中であった、「高陞」は降伏を拒否するので「浪速」が砲撃して撃沈し、乗っていた千名以上の陸兵は水死、英人の高級船員3名を救助した(高陞号事件)という。
ナニ、丸腰の英国艦を撃沈しただと、しかも正式な宣戦布告前ではないか、日清が戦争しそうだなどと誰が知るか、ロクな軍艦もない国が1万トン戦艦を持つ最強海軍国の無抵抗の商船を沈めた、ナニ考えとるんじゃ、と全世界に衝撃を与え、特に英国世論の非難を招いた。英を敵に回しては勝てるわけないと日本国内ですら皆がオロオロしたのである。今でいえば非武装の米商船を沈めたようなものである。テロだクソどもに報復だと今なら米巡行ミサイルや無人攻撃機が飛んできて集団的自衛権じゃのメタメタアベ政権が、米帝様を助けるんじゃ、とそのケツから攻めてきそうなハナシで、気の弱い者なら聞いただけでも死んでしまいそうな事件であった。
この時の「浪速」艦長が東郷平八郎であった。
「浪速」艦長時代の東郷平八郎→
東郷は若い頃にイギリスの商船学校に留学経験があり、国際法の深い知識を身に付けていた。カッときてナニも考えずにやったわけではない。
やがて2人の英人の国際法の大権威が東郷艦長の決断は全く正当である、との見解をタイムス紙に投稿してくれたので事態は一気に沈静化していった。
しかしいかに列強理論の当時の国際法上では適法か知らないがやはりヤバイ事件で、もしそうした大権威が公平な立場でたまたま超幸運にも投稿してくれたからよかったものの、もしそうでなかったら世論はどうなったか、清よりであったらどうだったか、カネもないくせに高い兵器を大量に買ってくれる、アトサキ考えない軽薄な連中でキチガイなのか勇敢なのかわからない、自分も黄色い顔したアジア人だという肝心な事を忘れてヨーロッパ列強人のつもりでいやがる、アホなのやらリコウなのやらはかりかねる、こいつらをアジア侵略の突撃部隊の先兵に育ててみようの目論見の英米などが日本びいきであってくれたために問題とはしなかったのだろう。今の中東などと事情は同じであったろうか。
しかし適法などというが、宣戦布告以前に戦闘に入るなども当時は適法であったというが、軍事上はそうであったとしても常識上人道上、丸腰の千人以上も乗っている商船を沈めるなど強攻策はやはり正当化はしにくい、仁義なきヤクザ抗争以下と非難されても言い訳もしにくい、最初からこれでは正当な戦争だとは言いにくいものと自ら立証してしまったことになる。
清国内もゴタゴタしていて小出しの兵力の逐次投入という拙劣な戦略しかとれなかった上に、この増援軍の海没のためさらに朝鮮派遣の清陸軍はますます劣勢となり朝鮮国内で次々と敗北を重ねた。清国内ですら手が回りかねているのに朝鮮まではムリであった。
海陸の勝利をおさめた日本は8月1日に、朝鮮の独立維持を戦争目的とした宣戦の詔勅を布告した。しかし朝鮮独立は言葉だけで、実際は朝鮮を保護国とする方針を決めていて、鉄道・電信・鉱山の利権獲得をはかっていく。
日本陸軍は9月16日の平壌攻略により全朝鮮を制圧した。
今のどこかの国のように大国に従属しその戦争に協力しその負担は民に押しつけようとする親日の傀儡のような政権の「開化」策は、それ以外の人々が誰も反対、農民・民衆も反対し、一度沈静化していた東学農民軍が再び立ち上がった、第一次と比べると参加農民は全土を巻き込んで大幅に増えていた(第二次農民戦争)。下の絵のとおり。
ワタシなどは学校の歴史では「東学党の乱」と呼んで習ったものであるが、何を習ったかはシカとは記憶にはない。
舞鶴には幸い「東学農民革命を考える会」という集まりがあって、韓国研究者と協力しながら研究されているようである。「ドめでいたボケ」ばかりが目に付くかも知れないが、こうした市民もまたいる。その会が発行されたマンガの一部↓
「乱」というような規模ではなく、日清戦争の最大の犠牲者はここで発生したことは間違いないようで、その正確な数は今後の研究にまたねばならないが、3〜5万とも30〜40万ともいわれている。殲滅したのは日本軍とその指揮下にあった朝鮮の傀儡政府軍と反動団体であった。もう一つの秘匿された日清戦争というか、それに平行して行われた「日朝戦争」で、竹ヤリくらいしかたいした武器をもたない朝鮮農民軍を陸海から包囲して村々の隅々まで捜索して二度と蜂起することなきよう徹底的に殲滅したという。明治27年の11月末くらいから翌年4月くらいまでの戦争であった。5ヶ月間の農民軍の戦闘回数は46回、参戦者数はのべ13万4750人とも推定されている。
日清・日露の頃はアジア解放戦争で、軍隊は軍律きびしく農民ジェノサイドなどはまったくありますかいななどというのは、残念ながら大ウソのデッチ上げで、帝国は最初からこれであった、あああーロマンチックだ、ノスタルジックだ。どこかの脳天気な市当局さんならばこうした血塗られた侵略をそう感じるのであろうか、それとも知らないのだろうか、多少は知っているが都合悪く無視しているのか、いずれにしても反吐がでそうだ。
そこまでは行かなくともけっこう左のエライさんでも、昭和の戦争はあれはダメだが、日清・日露は正義の戦争、良い戦争とまでは言わなくとも仕方もなかった戦争で虐殺や略奪、侵略にかかわるような戦争ではなかった、舞鶴の赤れんがはそのよい時代のものだから、あれはよいものだとする見方が実際にある、どこからそうした史観が出てくるのかわからない、何かわからんハナシだが、日清戦争のこれが侵略や大量虐殺でなくて何であろうか、「農民の乱」から朝鮮の安全と平和を守ったとでも言うのだろうか。良い戦争、悪い戦争の時代ときれいに線が引けるものなのだろうか、ある一線から突然に性格が変化したのであろうか、ジキルとハイドのように、ある個人ならそうした二重人格もあるのかも知れないが、日本一二の大組織にもそうしたことがあるのであろうか、自国防衛の範囲内の常識的ものなら「良い」であろうが、海外戦争を想定する軍備となればどうであろうか、舞鎮はその分水嶺を越えたかも知れない、今の集団的自衛権のように。
「良い」中にすでに「悪い」も含まれているのがフツーであろう、舞鶴の一部だけかも知れないが左と右、リベラルすらも思想の根底でヘンに繋がるのである。「いやあなたはそう言いますけど左の方でもこれは賛成してますよ」などと反論してくるが、それは正しいのである、確かにそういう「左の方」やさらに「リベラルの方」も結構あることは確かである。テレビなどにも出てくる一見リベラル風の怪説者とかでも「日清・日露の頃には虐殺とか侵略とかそうしたことはあまりなかった」などと堂々とたまわってござる。こうしたヤシ連が事実確認をせずに何をエエ加減を言おうが自由だが、この人の個人的意見で史実に反するウソです、とテレビ局はテロップを入れろよ、公共の電波なんだから。
歴史の基礎の検証もなく、50億とかの税金が投入されたが、失敗することであろう。そうした方々、どうか協力してシリを拭いてケレよ、市民にツケを回わさんでケレよ。
韓国でも軍事政権下ではこの史実は長く伏せられていたそうで、金大中大統領になって「名誉回復」が行われ、民族の独立を守る崇高な戦いとして顕彰されることになったという。この時代に高い理想をかかげてこれだけの農民が参加した、朝鮮の誇るべき歴史かと思われる。
黄海の制海権がないため、陸軍大部隊を朝鮮へ送ることは大変であった。一つ間違えれば高陞号の運命であった。
制海権も制空権もない国が海を渡って攻めてきたりはしない、攻めてくると言って制海権の制空権のある国が攻めて行くのである。
清の海軍がが出てこないと考えられる近いところの釜山などに上陸してあとは陸路をテクテクテクテクと歩いていくのだが、日本軍は攻めることしかアタマになく補給を担う兵站部門はオソマツの限りだし、さらに朝鮮には鉄道はなく道らしい道もなく、釜山漢城間は特に難路であった、さらに真夏で暑かった。ソウル(当時は漢城といった)を目指すと言っても舞鶴に上陸して東京までの距離になる。テブラでも大変なところへ18キロの背嚢を担ぎ4キロの村田銃を携帯してテクであった。現地で馬や人夫も傭うが支払うゼニも底をついてみな逃亡してしまう。日本人人夫は逃亡はしなかったようだが、あまりの苦しみに一歩も動けずひと思いに切り捨ててくれと頼んだという。こうした事態は以後も一向に改善されることなく最後の敗戦まで続き、先の大戦でも敵のタマに当たって死んだ英霊よりも補給を受けられず餓死した英霊の方が多かったのである。さぞや無念なことであったであろう。アタマの薄いのがアトサキ考えずガムシャラにメチャクチャに攻めるだけ、この当時から出先の軍の暴走や住民の虐殺などは絶えない、今の原発再稼働のようなものだが、それを制御できないどころか旗を振っている政府、そんなことで軍人や政治屋など信用したり期待する者はよほどにメデタイ者だけとなり、とうとうまともな者が興味を失ってしまった、たいていはメディアなどを信用して、きわめてテキトーに選挙権を行使しているわけであるが、この当時のメディアは戦争報道をして一見カッコいい勇ましそうなことを書けば新聞は売れて売れてバカ売れで儲けて儲けて大儲け、従軍記者を派遣してイケイケイケイケと戦火大拡大を煽るばかり。もうちょっと慎重に平和的にやってくれ、などと書いたりすればもう売れなかった。明治日本は野蛮国なのだろうか、対外戦争の悲惨な経験が皆無で、一見強そうな声が人気を集めたのだろうか。しかし本当に強い者はそうしたことはしないものである。。
今もある程度は似たり寄ったり、メデイアにもそれなりの都合があるので、言うことをそのまま信じたりはしないように、やはり自分の頭と心でよく考えて頂きたい。
清軍は士気が全体に低い、日本兵は食料なしタマなしのテク兵だが、危険ドラッグ中毒者もマッサオのメチャクチャ人殺しマシンなので、清兵は逃げ出して勝手に自滅してくれたようなことになり何とか勝てたようなことになったのである。
援軍輸送を護衛した帰りの清海軍と日本の連合艦隊が、鴨緑江沖でいよいよ遭遇した。明治27年の9月17日であった。戦闘は午後0時50分に始まり日没で終わった。これが黄海海戦である。
勝敗は「清が七分、日本が三分」。何と言うても「定遠」「鎮遠」がおる清が勝つに決まっとるやんけー、そうやんけー、清は大国、島国の日本は小さい、清が勝つに決まっとるやんー、そうやんけー。日本はこのごろきばっとる、しかしまあ快速「吉野」がどんな大刀回りをするかが見物くらいなもんやんけー、そうやんけー
海戦前のこれが全世界の野次馬の下馬評であった。
←遭遇した時はこんな状態
第一遊撃隊の「吉野」「高千穂」「秋津洲」「浪速」の高速艦隊、そのケツに主力艦隊の「松島」「千代田」「厳島」「橋立」「比叡」「扶桑」。
と言っても「比叡」「扶桑」は当ページでも一番上に出てくるように老朽艦で実際は10ノットしかでないヨタヨタ艦であった。
「西京丸」は4100トンだが商船で「参謀官」が乗っていた。「赤城」(600トン)は「西京丸」護衛用の吃水の浅い川用の砲艦である。
午前10時20分頃、「吉野」の見張り兵が水平線に一条の煙を発見、さらに進むと数条の煙、「敵艦隊東方に見ゆ」、腹が減っては戦はできぬと全員がすぐに昼飯を食って、その方向へ単縦陣で全速で急いだ。といっても10ノットだが。
対する清の北洋艦隊は、「定遠」「鎮遠」を真ん中にすえて、左翼に「来遠」(2900トン、21センチ砲×2、15ノット)、「致遠」(2300トン、21センチ砲×3、18ノット)、「広甲」(1300トン、15センチ砲×2、15ノット)、「済遠」(2300トン、21センチ砲×2、15ノット)、右翼に「経遠」(2900トン、21センチ砲×2、15ノット)、「靖遠」(2300トン、21センチ砲×3、18ノット)、「超勇」(1350トン、10センチ砲×2、15ノット)、「揚威」(1350トン、15センチ砲×2、15ノット)の単横陣で7ノットで迫る。さらに後方からは「平遠」(2100トン、26センチ砲×1、11ノット)「広丙」(1000トン、12センチ砲×3、17ノット)と3隻の水雷艇が戦場へ向けてはせ参じている最中であった。
日本海軍初めての海戦である、「豊島沖海戦」があったが、あれは絶対優勢下のもので、「定遠」「鎮遠」がいる今海戦とはわけが違う。ぶるぶるぶるぶると皆の手足は震えたという。
0時50分、距離5800メートルで先頭艦「吉野」に敵砲弾が集弾、ドンドンドンドンと50発以上が「吉野」の近くに落下して水柱をあげた。
「厳重に単縦陣を保て、速力14ノット」「敵右翼から叩け」「3000メートルに迫ってから発砲せよ」。
0時55分「吉野」が発砲、3艦も続いて20分ほどで敵右翼の「揚威」「超勇」に致命的打撃を加えた、両艦は大火災を起こしその黒煙は清国艦隊を覆って兵士の士気を失わさせ、まもなく沈没した。↑「比叡」「扶桑」の動きがヘンだが、これは老朽艦でスピードが10ノットしか出ず、艦隊に付いていけず、とっさの判断で敵艦隊の真ん中、「定遠」の隣ををスルーしたため。
あまり動きのない敵艦隊をグルリと外側から取り囲み、高速でチョコマカと動き回り、横から後からとボカスカに撃ちまくったという海戦である。弁慶をまかした身の軽い牛若丸の戦法であろうか。必殺の強烈パンチはないがフットワークを行かせたジャブを連発して勝負をリードしまくった。
巨砲は清側がはるかに優位なのだが、何といっても発射に時間がかかる、1分に1発も撃てたら上等、ボカスカと気軽に撃っているのは小さな速射砲と呼ばれた砲で、特に定義はないそうだが、1分に10発も100発も撃てるようなものを呼ぶようである。
これを日本艦隊には76門装備していたが、清の北洋艦隊は新式の速射砲はゼロであった。日本側の被弾数は140発であたったが、清側は1200発以上(沈没艦があるため正確にはわからない)ということになった。1対10くらいで命中させるのだから、清側はどうにもならない。
三景艦の巨砲はほとんどゼロ発だけであったし命中弾はなかった。
「鎮遠」の放った巨弾は「松島」に命中して96名の死傷者を出した。ほかの艦すべての死傷者合計が185名だから怖れられた巨弾1発のすごい威力を知ることができる。日本側の速射砲は「定遠」には159発、「鎮遠」は220発、「来遠」には225発も命中した。しかし沈没した艦は4艦だけで沈めるまでの威力はない、ただおびただしく命中して甲板の兵員を殺傷し火災を起こし巨砲の発射を妨げた。
一番左翼にいた「済遠」は豊島沖海戦にもいた艦だが、ここでもトンズラ、隣の「広甲」を誘って戦場からバイナラしてしまった。敵前逃亡はどこの軍法でも死刑であろう、艦長はのちに銃殺となったという。
(「広甲」「広乙」「広丙」の3隻は日本が闘っている北洋水師(艦隊)の船ではなく、南洋水師の船である、北洋水師の創立記念に参加して給料未払いの南洋に帰らずここにいた居候みたいな艦であった。日本でいえば幕府軍は力がなく長州藩の軍隊と日本が戦争している状態で、「広甲」などはいわば薩摩藩の船であった。当時の中国の軍隊はそうした軍閥の軍で、軍という点から見れば日清戦争というよりも日本対清国最強の北洋軍閥戦争であった。軍閥は日本よりも早く日本がうらやむほどに最新の軍事技術も導入していて清仏戦争(1884)ではこうした清の軍閥は仏に勝っていた、白人に黄色人が勝ったのは日本がロシアに勝ったのが最初ではなかった、その20年も前にすでに勝っている。しかし全体の体制が旧態依然の時代遅れのため近代国家化した国に負けてしまう)
日本艦隊以上に勇敢な者もいて「経遠」は一番艦「吉野」と差し違えるべく戦列を離れて1艦だけで「吉野」めがけて突如突進してきた、ヤバイと遊撃隊の集中砲火をあびて100メートル手前で撃沈された。水雷艇のなかにも勇士がして「西京丸」に突進して40メートルまでにせまり魚雷3発を発射した、さいわい近すぎたため魚雷は「西京丸」の底を潜ってしまい命中はしなかった。しかし全体には日本側がはるかに勇敢であり練度、技能も上だった。
清側は「揚威」「超勇」「経遠」「致遠」が撃沈、「広甲」は擱座後破壊され、生き延びた7隻は旅順口に逃がれた。
日本側は「松島」「比叡」「赤城」が損傷したくらいで戦闘力を保持していた。
当初の予想とは違った結果となった。日本の大本営すらこれほどの大勝になるとは予測していなかった。
勝った勝ったで提燈行列で国民は祝った。日本やそのひいきは「勝った」、清とそのひいきは「引き分け」の判定であった。
清の主力艦はすべて生きてはいたが、すでに戦意なく、再び海上に出きて闘うことはなかった。制海権はほぼ日本に握られることになった。以後の戦場は中国領土内の中国領土ぶんどり戦争に移り、このあたりから本当の「日清戦争」になる。それ以前を「日朝戦争」と分類する人もある。ひさしはとった、さあ次は母屋だ。
この海戦あたりから日本人の対中国感が変化する、ちょっと勝ったくらいで調子に乗ってしまう、それまでは尊敬していた中国が意外と弱く、日本が意外と強いのを見て、自分は天にも届くほどの高いものであり、中国は文化の遅れた人ばかりが多い貧しい弱い国と蔑視に変わる。特に日本人だけではなく欧米人も同じ偏見をもっていたが、それを見習ったのか、欧米人よりは中国をよく知っているはずなのだが、り、り、李鴻章の禿げアタマ、ま、ま、負けて逃げるはチャンチャン坊、と子どもまでが歌うようになってくる。エエオッサンまでが中国人をチャンコロと呼ぶようになる。
日本はどこにもほかには植民地はなく、すぐ隣の中国一国にに全力集中してくるため、こいつは中国にとっては世界一危険だと、中国では反日感情が高まってくる。中国を侵略した国はなにも日本だけではないが、特に反日は強く警戒が強いという(反日で日本一般ではなく反軍国主義日本、反日帝だが)。今に尾を引く両国民の感情のもつれはこのあたりに発祥していると言われる。
9月16日に平壌を占領して10月末には鴨緑江を渡り河口西岸の九連城を占領した。
九連は日本の呉と同じ意味(高句麗)ではなかろうか、呉には当時は大本営が置かれていた。
これは九連城の戦利品の野砲↓
↓現在の旅順と清軍の砲
↓制海権を得て、一挙に大軍を送れるようになった。大連占領途中の戦死した清国兵士↓
↑旅順郊外での砲撃戦
旅順は遼東半島の先端にある軍港で清がここに建設したものであった。ちょうど舞鶴のようなよい湾がある。もし反対に日本側で起きたなら「舞鶴虐殺事件」であった。北京を攻めるには海路を行けば黄海の一番奥の渤海湾へ入って行くことになるが、その渤海湾を北側から抱く半島の先端である。東京攻めなら三浦半島の横須賀鎮守府のような位置になる。中朝国境のルビコン河・鴨緑江を渡ればもう近い、出先の派遣軍は命令無視して独断と偏見でドンドン先へ進んでしまう。
旅順には後のロシアの旅順要塞ほどではないが、強固な陣地が築かれていた。海上防衛の海側には重砲58門、軽砲8門、機関砲5門、陸側砲台群はまだ建設中であったが重砲18門、軽砲48門、機関砲19門で、1万2000名であったという。舞鶴要塞よりははるかに強力であったが、指揮官が何名も逃亡したり、新兵が多く戦闘力は低かったという。攻める日本は3万5000名、実質はもっと少ないが、北方からも攻撃して来る清救援軍を牽制しつつ攻めた。乃木希典も旅団長で加わっていた。明治27日11月21日で、この日でケリはついた。
旅順市街やそのほかの敗残兵掃討中に捕虜や非戦闘員(婦人や老人を含む)を無差別に殺害したのが「旅順虐殺事件」であった。「旅順大屠殺」「旅順港大虐殺」「旅順港残虐」などと世界では報道されている。日本ではほとんど知られていない。恥ずかしながらワタシも事件があったことは知っていたが詳しいハナシは知らなかった。当地には今は「万忠墓博物館」が建てられているそうである。
殺害人数は確かなことがわからないが約1万のあたりのよう、無差別虐殺が行われたことは第三者の欧米のジャーナリストや観戦武官など多数が目撃して記事にしているし、日本側司令官もしぶしぶ認めている。
軍神乃木さんの部隊でも同じで敗残清兵を撃ち殺し、突き殺し、村に逃げれば村ごと焼き払って焼き殺し、負傷していても斬り殺し突き殺したという。兵隊でない民間人でも男ならみな殺したのである。1万人も殺すなどは大規模な大仕事であって、下級兵がついカッとアタマにきてやったというのでは出来るものでなく、上級指揮官も知っていたし時には煽り先頭切っていたのであろう、そうした組織ぐるみの日本軍あげての大仕事といった次元の事件であって軍自体、国家自体の理念や構造がもつ本質的な問題であった。ここまで被害が大きいと国自体、国民自体が問われるといったまさにワレラが問われる問題でもある。日清戦争ではすでにそうした事態がいくつか発生していた。衣食足りて礼節を知る、かも知れないが、そうした余裕があると日本人も割合にシャンとするのだが、何しろまともに食うものもないような戦争を何日にもわたってしかけているので、キチガイ兵になってしまう。指揮官どもが功名を焦って勝手に攻めまくるその無理無謀な作戦に問題があるのではなかろうか。清国側にも日本人虐殺ということをしているが、それは清国が国をあげて組織ぐるみで起こしたものではない、先端の下級兵がカッときてついやったもので、問題の本質は違っている。。
どうか知らないが事は悪質で低国と呼ばれても言い訳ができない、調査することも処分もいっさい行っていない、大日本帝国は生まれた時からこうだったようで、亡ぶまで改まることはなかったし亡んでも完全に改まったとは言いがたく、なかにはそんなものはなかったとしたりするがそれでは自らが野蛮国を宣伝しているようなものである。仮に強くてもこれでは強いとは認められにくい、ルールも人道も無視したムチャクチャして勝っても勝ったとは言いがたい、スポーツなどだと即反則負けである。上がそろってこれでは下はもっとひどいカル〜イカル〜イ判断しかしなくなって虐殺蔓延になってくる。不平等条約改定をしたくて日本は先進国並みの文化国家で正義の戦争だと言っていたが、どうも口先とは違って勇敢というより何をするかわからんぎょしがたい野蛮な連中だと見られるようになっていく。日本を見る世界の視線が冷えて来る、「これでは不平等条約改正は困難になりますよ」などと米からクギを刺さされた。日本は近隣に友人がありませんがな、とドイツあたりから言ってもらっても何も努力しようともしないし逆を進める今もだいたい同じである。こうした国家が国民子弟の道徳教育をするなどとどのツラ下げていうのであろう。
日本の新聞社などはこうした「都合悪いこと」は知らぬふり、従軍の絵作家なども取り上げなかった御用系のつまらぬ者だし、現在の書でもまず取り上げるものは少ないが、ビゴーはさすがで目撃した事件をちゃんと描いている。これが本物の記者であり画家であろう。
清国兵を串刺しにする日本兵↓
虐殺↓(ビゴーの油絵)
ビゴーも怒ったようである、彼はカメラを持っていたが、その下の写真はビゴーがほかの写真家から手に入れたものという。
ウへーッ、ウソッー!と驚いた人も多いのではなかろうか。権力やマスコミなどによっていろいろと情報操作がなされていて、今にいたるも日本人は「左の方」や「リベラルの方」も含めてこの事件があったことすらほとんど知らず、日本に誇りを持とうなどと勝手なことを言っているわけだが、ムチャクチャをされた側の中国や韓国では教科書にも書かれていて高校生くらいならよく知っているものだそう。
黄海海戦で生き延びた清の北洋艦隊の残存艦は旅順口に逃れたが、日本軍が迫ったため、ここを出て対岸の山東半島先端にある威海衛基地に移動せざるを得なくなった。旅順とは違いここは本格的修理のできる工場はない、兵の戦意は失われ外洋に出て戦えるような状態ではなかった。しかし北京へ行くにはこの港の前の海を航行せねばならず、「定遠」「鎮遠」がいることは違いなく、このままにしておいてはやはり大きな脅威であった。
威海衛は劉公島が中央にあってその南北が(東西とも言われる)入口だが、いずれも強固な防材で封鎖されていて特に水雷艇の侵入を防いでいる。10年以上をかけて構築された要塞がグルっと取り囲み、北側に11個、南側には7個、劉公島と日島には5個の砲台があり、161門の大砲と機関砲があったというから舞鶴要塞など問題にもならない強力なもの。ここに20隻ばかりの清国北洋艦隊の残存艦がいた。
しかし後の山の砲台は清陸軍兵で練度と士気が低い、砲台を取られてそれを艦隊に向けて砲撃されるとかなわんから海軍がやるから砲台守備を代わってくれ、あるいは取られる前に破壊してくれと頼むが陸軍は拒否、そんなことでアッという間にこれらの砲台は日本軍が占領することになり、市街地も無血占領した(明治28年(1895)2月2日)。
二つの島の砲台と艦隊は抵抗するが日本陸軍の砲では射程外なのでどうにもならない。日本の連合艦隊といっても小さな艦ばかりだから陸の砲台と撃ち当ては勝ち目がなく近づけない。それなら水雷艇(魚雷艇のこと)にヤバイ仕事をしてもらうより手がないと1月30日に出動命令が下った。
当時の水雷艇はこんなもの↑。上は「小鷹」で 203トンある例外の大型艇で、ほかのは50トンばかりのものである。魚釣りに行く漁船くらいのものである。これに16名が乗り込んで渤海の真冬の荒海を乗り切って呉からやってきた。
狭い艦だから便所はない、漁船でもあるが、真冬のことで海に落ちたら5分とは持たずオダブツ、甲板も魚雷発射管も波をかぶってすぐに凍り付きワラジばきでも歩くことができない。
武器の魚雷がまたスバラシイ、14インチ、爆薬21キロ、射程300メートル、速度8ノットという当たれば戦艦も必殺のインポートの超高価なものであったが、まっすぐに進むとはぜんぜん限っていなかった。カーブ、シュート、ドロップとどう進むかは一つ一つに個性があった、中には発射するとぐるっと円を描いてまた自分の所へ戻ってくるアホな魚雷すらいくつかあった。だいたい100メートルくらいならば直球のはずじゃ、そのあとは不明じゃ、といって配給割当を受けた、なくしたらたいへんなので禁止されていたが秘密に事前に試射して一つ一つのクセをつかみそれをマークしておいて臨んだ。
(実際、魚雷は高価なものであったよう、後のハナシになるが、舞鎮でも海軍記念日には余興で実物の魚雷を湾内で発射して「敵艦」を轟沈して市民に見せたが、これはインチキで、魚雷が通り過ぎて十分に離れてから「敵艦」に仕掛けられた爆薬を爆発させたもので、魚雷は後に回収したのであった。魚雷は高いのでどこかのメデイタ市民を喜ばすためにはそうやすやすと爆発させられなかったのである、今の海上自衛隊の潜水艦に積まれている魚雷は1発2億円するという)。
ところがその高価な魚雷、突入前に実際に発射実験をしてみると当たっても爆発しない。爆発しない魚雷などクソでしかない、ナキながらナヌと調べてみれば、艦に突き刺さっているのだが、信管が日本製でイカレていて全部ダメなのだ、幸い「浪速」「高千穂」が英製の信管を持っていたのでそれと取り替えるとミゴト爆発した、夜襲直前に日本製を英製に全部取り替えたという。
(日本製工業製品なら英国製より品質はいいのではないかと考えられる人が近頃では多いかと思うが、一般にJapanMaid工業製品がよくなったのは、ごく最近の話で、ワタシが子どものころでもまだ、日本製は安いが品質悪くすぐ壊れる物というのが世界市場での一致したイメージで、もし買うならそのつもりで買いなさいよというものであった。工業製品はよくなったかも知れないが、さてそれ以外のものの品質はどうだろう、まだまだ努力がたりないように思われるのだが)
こんな便所もないゴミのような小型艇と、撃てば手元へまた戻ってくるブーメラン魚雷で、連合艦隊の主力艦でも出来なかった「定遠」「鎮遠」を葬るということができるのであろうか。
出撃命令が出ても零下30度の天候不順でムリ、2月5日風やみ午前3時30分出撃した(第一回夜襲)。第二・第三艇隊の10隻が南側から湾口に迫る、第一艇隊は北で待機して逃げてきた敵艦をここで葬ろうというわけである。第三艇隊の艇長のなかには後の首相鈴木貫太郎もいた。彼の艇は「鎮遠」らしい敵艦に迫り魚雷発射しようとしたが故障で発射できなかった、その艇の水雷主任は軍法会議にかけてくれと頼むが誰も取り合わない、キミに何の落ち度も責任はない、しかし後に彼は切腹した。遺書には「戦友達に申し訳ないことをした、これで許してくれ」とあった。あれだけの大事故を引き起こしながら誰一人腹を切った者もない無責任国家の今とはまるで別の国である、こうしたチョーチョー無責任連中が再稼働などというのであろう。
湾口の防材は意外と強固なもので爆破できない、秘密の出入り口があったのでそこから侵入した、湾内は消灯していて真っ暗闇で、どこに敵艦がひそんでいるのかわからない、隊列を組んではいられなかった、各自判断して敵艦がいそうな方向へ進み、ウンよく闇夜でも敵艦が見える所まできたらよく確認し魚雷が曲がらない距離まで突進して発射して逃げて帰った。
来襲を知ると敵艦は探照灯を一斉に点灯してボカスカに撃ってきた。何発が命中したか↓。どの水雷艇の鉄板かわからないが、ここだけでも20発は命中している。小さな砲なので大きな被害はなく、途中座礁した艇以外は全艇が帰還した。艇からの報告によればどの艇がどの敵艦を撃ったのか不明だし当たったかも不明、成果も不明であった。
わからんのかい、と海軍では言っていたのである、それはそうだわかるわけがない。翌朝、陸軍見張りから、「定遠」が錨地を離れて移動しており、どうやら浅瀬で擱座していると知らせてきた。「定遠」は魚雷を受けて浸水し、錨を切って南へ進み、浅瀬に乗り上げて転覆を防いでいた。この夜の襲撃ではどうやらやっつけたのは「定遠」だけであったよう。
あとまだ敵艦は一杯おるわいと翌日は二回目の夜襲が行われた。前夜は北で待機していた第一艇隊の5隻(1隻は故障で4隻)であった。同時刻同じように湾内に侵入し、「来遠」転覆、「威遠」練習艦轟沈、「宝筏」砲艦轟沈という成果を上げた。
「鎮遠」はじめまだ何隻もの北洋艦隊がいるし、島の砲台は生きていたが清水兵の動揺は大変なものになり、反乱直前状態になっていた。
翌7日からは日本の艦砲射撃が始まった。魚釣り漁船くらいの艇にこれだけテガラを上げられてマッサオ、もうひっこんでもいられない。連合艦隊の全33艦がさらに湾に近づいて砲撃を始めた。
清海軍にも水雷艇群がいたが、逃げたいものは湾から脱出してよいとの許可がおりた。20隻ばかりが脱出を試みたが、外は荒海、日本海軍が待ち構えているで、全艇が転覆したり追っかけられて沿岸で擱座したりして全滅してしまった。
闘うべきだ、最後の一戦を交える、という提督に、もう勝ち目はない、これ以上闘っても無駄死にだ、降伏しようの声が高まってくる、白刃をふるって降伏をうながす、いよいよ反乱になりつつあった。
島の砲台むけての砲撃で次第に島の砲台も沈黙し守備兵は降伏しろとせまった。さらに日本艦隊は近づいてとうとう艦隊にまで弾が落ち始めた。9日「靖遠」の火薬庫に命中して一瞬に轟沈。「定遠」艦長は自艦を爆破し自分も自殺した。12日に降伏し北洋艦隊提督はその夜「鎮遠」で自殺した。
その後連合艦隊は、台湾の澎湖諸島の占領に向かう。これは台湾を取るための既成事実作り工作であった。たいした被害もなく占領したが、その後にコレラが流行し多くの軍夫に被害が出たという。
工事中
下関講和条約で清からぶんどった台湾であったが、台湾現地では日本領土になることに反対であった。5月25日には台湾は独立して「台湾民主国」となっていた。
日本は台北に上陸するが、最初の時期の相手は共和国政府軍でもともとが大陸の兵であり、戦意は低く、すぐ大陸へ逃げてしまった。
その後が大変であった、「民軍」「義軍」と呼ばれた地元民の強烈な武装勢力が待っていた。日本では「土匪」と呼んでいた。今のアメリカならびその追従者ならテロだろうか。テロに味方するかそれともアメリカに味方するか二者択一だと米大統領はせまったことがあった。違うだろう、米大資本の大儲けに見方するか、それともそれに苦しめられている地元民に見方するかだろう。本当のテロはどちらかだろう。
台湾は開拓地で、対岸の福建省から移ってきた者が多いが、元々の現地民や出身地違いで開拓部落同士の抗争があったりして戦いがやまず自衛の軍事組織を村ごとに持ち実戦なれしていて戦争は上手、村々はまるでトーチカか要塞、さらに愛郷心も独立心も強く反権力であった。武器はたいしたものはなく、主に竹ヤリで、せいぜい猟銃であるが、満州などにはない絵↑のような深い竹林の密林であり、ここに地理に精通した強兵にひそまれると日本軍も手を焼いた。
「相手が強く攻めてきたら逃げろ、人数少なく弱いなら攻めろ」「人民の中で闘え」という毛沢東のようなゲリラ戦術を身につけていて、敵なのかフツーの民なのかも識別することができない。ベトナムやアフガンやイラクの米帝みたいなもので、実際には味方などいるわけもなく老若男女のすべて草も木すらもみな普段はフツーだが、弱いと見ると即敵兵であった。ベトナムの米帝のように村を焼き払ったり村ごと無差別虐殺したりした、病死も多いが全土で激しい抵抗にあい日清戦争での日本側での死者は3000名(兵のみ)ばかりだが、その過半は台湾で生じた、主に5名ほどでなった兵站が狙われたという。米帝のたっての願いを入れて、憲法も無視して自衛隊を米衛隊にして、後方の安全な所で兵站や補給の任につく、などとゲリラ戦も知らないゲリラをなめた馬鹿げた説明をしているが、後方だから、兵站だから安全というリクツはゲリラ相手ででは成り立たない、相手は正面の強い米兵などは攻撃しない、自分らの手に負える弱い後方を攻撃してくる、米兵は攻撃せずに、弱い米衛隊を攻撃してくる、まずここをメタメタに叩いて日帝を戦線から離脱させることだろう。日本軍伝統のお粗末の限りの兵站思想は今も引き継がれているよう。
日清戦争の「日台戦争」でこれはいつ終わったかはあいまい、全島を制圧できたのは明治38年(1905)頃というから、日露戦争で旅順が落ちたころになり、平定に10年をようしている。
こうしたことをしている日本の台湾総督府の堕落・腐敗もひどいものだったという、乃木さんが総督だったが、逆に摘発した者の首を切ったという。どちらが「土匪」であろうか、宣伝で信じ込まされているが「正義のよい戦争」とはどうも言えそうにはなかった。
「台湾」では日本占領を歓迎していた、などと宣伝されていて、こうした事実は知られていない。それはどこだって何だって「歓迎」する者もいる10人いれば1人くらいはいるものである。原発歓迎の人もそれはあるが、植民地支配されてそれを喜ぶ、まともな者かどうかくらいはバカでもわかろう、そうしたごく一部だけを見て全体もそうであったと見てはなるまい。
舞鎮が開庁となるのは、日清戦争後の明治34(1901)年である。すぐに日露戦争(明治37−38。1904−05)になる。1894・1904・1914と10年おきに戦争していたわけだが、後の世のワタシなどたいして勉強しない生徒は「10年おきで覚えやすてよい」などと言っていたもの、しかし実はその間にも戦争はあった。
開庁1年前の本格的な工事が舞鶴各地で始まった頃であるが、北清事変(明33。1900)という戦争があった。ワタシなどはガッコで「義和団の乱」と習ったものである。
事変や乱というものでなく当時の清国が日本にも宣戦布告をしたれっきれきの戦争であった。「北京の55日」というアメリカ映画かあったが、あの戦争である、映画の内容は西部劇みたいなもので米帝史観の加害者と被害者を自分に都合良く取り替えたものであった、北京にいた公使館員などが義和団に包囲されて殺されそうになったという話だが、自分らがそれまでに他国に入り込み何人の中国農民を虫けらのように殺してきたかはまったく触れない。くだらぬものだがあの映画をまた見たいテレビでやってくれないものかと願っているのだが、あの史観ではムリか。日本の映画でもあの当時の物を描いたものはこれと同水準でしかないものばかりだが、それは放映している。まぁ娯楽映画で時代劇程度の物と見て現実の歴史とは決して思わないようにしたい。水戸黄門さんを見て泣いている喜ぶ者が実際にいるので、こんなものを見てもホンマと思い違いする者もまた多い、放映するテレビ局は「一部史実と異なります、あくまでも娯楽のために作られた作品ということで見て下さい」とかのキャプションを入れるべきであろう。
「義和団」は義和拳←梅花拳などという少林寺拳法の同好集団というのか、民間のいろいろな人々からなる秘密結社とされる、少林寺カンフー同好会というの娯楽健康スポーツサークルだがそう書くと都市住民的になるがそうではなくだいたいは農民が主体となったもので、結社や集会の自由がなかったので人が集まっていれば何でも「秘密結社」ということになるが、別にとくにどうかするという団体ではなく人畜無害のものであった。
王朝の末期になると一見平和で繁栄し安定して人口も大幅に増た社会になってくる、「シナに四億の民あり」と言われ出したのここの時代であった。
が実際は格差と貧困と抑圧が下層では大きく拡がり深刻な耐えがたいものになってくる、たいした経済発展もなく人口だけは増えてくるので、一人当たりにすればひどい貧乏になってくる、貧困層がどんどんと増加してくる。
上層は社会のこうした矛盾を下層の犠牲で切り抜けようとしこれといった新しい時代の要請に沿った未来が描けるわけでない、反動的に切り抜けようとしたりするどこかの国などでも同じようなことである、お金持ちにもっともっと金持ちになってなってもらい、そのおこぼれで貧乏人も豊かになる、どこぞの国のネゴトは実際はあり得ないおハナシでしかない。
国の根本体制も長い時代のなかで劣化し腐りはてていて、やがてこうして古い体制は毀わされ新しい時代が切り開かれていく。新中国への始動ともなった「乱」でもあってここから中国国民の覚醒が始まったとされる。何もガクシャセンセや憂国の士や大政治家やインテリどもやアベさんなどからではなく、何でもないオバちゃんたちの「米騒動」から日本の現代が始まるように、この「民衆反乱」から中国も新時代に入っていく。赤れんがなどよりもはるかにはるかに重要なため脱線しても触れておかないわけにはいかないものである。
義和団は苦しむ下層人が集まっていた互助会的な集団でもあり、あちこちにあって別に統一したセンターがあった組織ではなかった。カンフー拳法を使い刀や棒などで武装しているのでヤシ語では匪賊とかテロ組織とか呼ぶが、そうしたものでは元々はない。状況がさらに悪化し厳しさが増してくると一部が先鋭化過激化してそれが目立ちそればかり報道宣伝し悪者イメージが作られるが、生まれるやむえぬ理由あって、がまんにがまんを重ねた結果に生まれたものである。「テロ」にはそうした長い歴史をもつ具体的利害の対立の理由があり彼らに長年にわたって深刻な不利益を強いているという根拠のある大問題があるので米軍が爆撃したくらいで簡単には終わらない、それどころかかえって拡がることになるのである。
さてもう一方、下関条約で日本が資本輸出権を得たことにより列強各国も最恵国待遇でその権利を労せずに得て、輸出するほどの資本がない日本よりも清朝弱しとみて帝国主義列強の対中国資本輸出がいっせいに開始され世界分割競争が中国に向かって集中し、中国はかつてなく外からの侵略を受けていわば民族的危機に直面することになった。
その中国侵略の先頭に宣教師と教会がいたのであるが、この時代の宣教師というのはキリスト教の布教拡大とかが目的のものではない、列強大資本の先端部分で帝国主義の先兵であった。以前ワタシは当時の各国宣教師派遣のデーターからこれは宣教というものでないと、割り出した人の話を聞いた覚えがあるが、彼らは羊の皮をかぶったヤシであった。原発予定地に最初に入る「ガクシャセンセ、キョウジュ、センモンカ、ガクシキケイケンシャ」のようなものかも知れない。
義和団運動が最初に起こった山東省は、日清戦争で日本軍の侵入・占領をこうむり、その後膠州湾と威海衛をそれぞれドイツとイギリスに占領、租借され、結局ドイツが全山東をみずからの勢力範囲として収奪と人民弾圧をほしいままにしていた。後発の資本主義国で日本と同じような所があってドイツもひどいもので、法を無視し天を無視する袖志の米帝よりももっともっとヒドイものだった
強い大資本が無制限に入ってくるので従来からの農村経済は破壊され農民は土地を奪われ無産化し、手工業者・小商人・運送労働者などの破産・失業が急速に進み、人民は重税雑税、労働徴発、災害に苦しめられた。
仇教(反キリスト教)運動が急激にひろがった。列強の勢力を背景に清朝の保護を受けつつ農村内部に入り込んだ教会が中国人の土地を収奪し帝国主義勢力の農村での経済活動の拠点となり、教民(キリスト教入信者)と従来の一般農民の間に分裂をつくり、伝統的農村の共同生活における人々の信仰や生活習慣の切り崩しにかかった。
中国は儒教が国教でキリスト教は一応原則禁止だが、本来の教義に従っておとなしく布教する分は大目に見ている、よほどのことでもない限りはキリスト教そのものを迫害したりはしない、しかしこの時代の列強の武力で認めさせられたキリスト教布教というものはそうしたものではない、教会や司祭や信者は治外法権を持つもので、袖志のレーダー基地のようなもの、何を彼らがしようが、ここへ逃げ込まれれば中国は手出しできない不平等外交特権を持っていた、殺人や大借金をしていても教会に逃げると手出しができず、またその地位も特別に高い、司祭くらいで府知事くらいであったという。袖志米軍基地司令官ならどれくらいになるのか、市長や知事以上は確実でなかろうか。自分がここに教会を作りたいと思えばどこでも作る、何も地域の事情などは考慮なし、袖志と同じ、キリスト教布教のためと言えば、日本を守るためと言うのと同じでどこでも好き放題に作り、それをどんどんと増やしていく。土地を奪われる住民が反対しても市長も府知事も中央官憲も基地の味方で、反対すれば逮捕される。天下の名勝でも知ったことかと彼らの好き放題の荒らし放題で地の皮すらもヘーキで剥いでしまった。教会というので立派な建物でもあるのかと思えば田舎屋のボロ家、これを教会だとして風で倒れても反キリスト教運動のクソどもが倒したのだと難癖をつける。日本を本当に守るとか言うのならまだよいが、そんな気はまったくないテメエの国を守るためのだけの基地みたいなものか。
貧乏人には施しや子弟の教育もしたが、一度信者となってしまえばもう何もくれないし教育もしてはくれなかった。一時協力金(地域振興財源)のようなものか。
中国住民もキリスト教信者になれば、外交特権により保護される。どうしょうもないゴロツキでも、というかそうした者しか加入しないのだが、外国の威を笠に着ておのが勢を増やそうとする売国奴であって、まともな者は誰も入信したりはしないが、こうしたものが信者を増やしたい教会に加入すれば保護される。クビに十字架でも下げていようものなら、「この印籠が目にはいらぬか」である、ゴロツキどもでもアメリカ賛成を言えば保護され、反対などと言えば白い眼で見られ「アレはアカや」とか言われる。「この印籠が目に入らぬか」、米軍基地や原発と同じである。列強各国の地方出先である教会とそれに苦しめられる人々が集まった義和団とが鋭く対立する、清国の政府はどうだったかだが、どこぞの国の政府と同じで、国家権力の主流は売国奴の集まり、我国から出て行ってもらいたいなどとは絶対に言わない民族の誇りなどカケラもないド腰抜けどもであり、教会側に立ってしまい自国民を守る気はまったくない。政府は法も自国民を守らず、そしてぬかす、国を守るためだと。
さらに黄河の氾濫が重なった。黄河は地面より3〜5メートルも高い天井川なので少しでも手を抜くと大洪水が発生する、自然災害というよりも人災であることがほとんど、大川の治水は国家の管理なのだが、それが腐敗していて堤防などに杜撰工事を繰り返した、そんな大災害がわけがありませんがなこれくらいしとけばダイジョウビ、被害を受けるのはアンさんらワテらは何も被害はなく絶対大安全大安心でっがな、とどこかのクソ権力のような話である。腐敗権力と土建業者がグルになって工事をごまかした。ひとたび洪水となると津波のように3メートルを越す水が一気に押し寄せて広大な地域が大被害を受けた、これが日清戦争以後には毎年のように、あるいは年に何回もと頻発した。
こうした広範な範囲に及ぶ洪水被害や清中央が義和団弾圧方針から黙認さらに半政府軍的扱いとしはじめするのを背景に義和団勢力が一挙に拡大し、北京、天津など都市部までも広がり拠点となっていった。「扶清滅洋」をスローガンに教会や洋品を扱う商店や鉄道や電柱などの焼き討ちを始めた。日本の勤王攘夷のようなものか、反帝民族戦線のようなものか、しかしやはり農民団体で統一指導部はない、各自テンデバラバラに闘っているし、元々が村落を盗賊集団などから自衛するための団体なので、武器はカタナやヤリとか拳法で用いる武具程度のもの、飛び道具は鳥打ち猟銃くらいしかない。これで列強大盗賊集団を追っ払えるだろうか。
明治33年(1900)6月には、義和団は20〜40万人にもふくれあがり北京に入城して全北京を掌握し、列強公使館区域を包囲、また租界を抱える天津も占領した。
危機を覚えた列強が公使館防衛として第一次出兵が5月末、日本も先頭切って上陸させた。軍艦「愛宕」(摩耶・明石と同型艦)の24名の陸戦隊と将校1名を上陸させ、少し遅れて露英米仏伊の5ヵ国海兵341名と将校14名を上陸させ、さらに独澳も派兵し列車で北京に到着した。これらの部隊全員で439名と義勇兵が「北京の55日」を、対清・義和団の包囲下の籠城戦を耐え抜いたことになる。
6月10日には列強の第二次出兵2000名ほどは3日分の食料を携行して北京に向かおうとしたが、鉄道は破壊されているし義和団の激しい攻撃に遭い、食料も底をついて天津に戻ってきた。応援部隊を乗せた列車が速く着かないかと心配顔で出迎えに行った日本公使館の書記生がこのとき惨殺されている。相手は騎兵だったというから清の正規軍兵であろう(11日)。
清朝の中央も次々と列強に追い込まれていくが、闘いたくとも闘えるような実力はない、闘えば必敗である。どちらについたものか清朝の判断が難しくなってきた。今の沖縄のようなものかであるが、アメリカにつきましょうかそれとも沖縄の民意につきましょか、もちろん米帝に決まっとりますがなのどこかの国の反人民主義の強い者に投降主義の政府と基本は同じだが、この時ばかりはチト違ってきた。おとなしくしていれば、好き放題にされ、戦争しても負けてまた好き放題にされる、どちらに転んでも清国に未来はないかも知れないが、ここはやるだけやってみよう、という主戦派が強くなり、北京防衛ののど元の大沽要塞を列強八ヵ国連合軍が攻撃し占拠したのを見て恐怖を感じ、義和団の力をあてに清朝は八ヵ国に宣戦布告する(21日)。挙国一致の反帝民族統一戦線であろうか、一時はそうした戦線ができたのだが、はたして火器も持たずカタナやヤリで攘夷は可能か。なぁに、竹ヤリとバケツがあればダイジョウビは、どこかの国であった。B29など竹ヤリで落としてくれる、北朝鮮のミサイルなど屁で落としてくれるわ。
連合軍の第三次出兵は4万7千名砲140門、その半分は日本軍であった。何といっても地の利がある、列強は遠いので迅速に出兵できないが、日本はすぐ近くである、広島5師団を中心の2万2千を先頭に8月4日に天津を出発し14日には北京を鎮圧し、公使館区域の包囲を解き「北京の55日」は終わった。日本軍は大活躍し後に日英同盟が結ばれる基礎が作られたという。列強連合の中国侵略の先兵と実力が認められたことになった。
皇帝(光緒帝)や西太后は西安に逃れた。
天津郊外で義和団を攻撃するさまざまな制服の連合軍。信仰の力で結ばれ、「弾にあたっても死なない」と信じた義和団は善戦したものの、やはり近代戦では連合軍にかなわなかった。中央奥に「日の丸」も見える。実際、連合軍の半分は日本軍だった。(『朝日クロニクル20世紀』より、キャプションも)。
連合軍勝利後の各国の略奪や虐殺の数々は書くのもイヤになってくるようなものである。鬼もふるえるようなことであった。これを見れば要するにこの「乱」が本当は何であったか、「乱」を引き起こした真犯人やそのネライもわかってくる。農民の暴動だった史観は根本的に見直さねばならなくなる。
日本は日清・日露の頃は軍紀きびしく略奪なんかする者はなかったとかいう神話が日本の一部では信じられ誇らしげに語り継がれているらしいが、それは史実に違う大ウソである。
1年間ほど連合軍が北京を占領するが、ここは全東洋の宝の山で、しかも無政府状態におかれ、各国による徹底した略奪が行われた、紫禁城やその周辺の貴族の邸宅などの秘宝宝石や貴重な文化財、絵画書籍などが略奪され、放火され破壊された、略奪した盗品の宝物を換金するための泥棒市が立っていた。日本軍を先頭で闘わせておいて、そのケツから来た列強各国連中は何は置いてもまず略奪を行った。この構造を繰り返そうというのが「集団的自衛権」、日本の若者の血を流させて、どこかの国はおいしいところをタダ取りしようというわけのよう。
もちろんどの国にも一部には清廉潔白な人もいて決してそうしたことら手を染めなかった者もあろうが、全体としてはおよそ近代の軍隊というものでなく古い時代の盗賊・山賊・海賊の類いと同じであった、そうしたことは各国とも軍事機密で正確なことは不明であるが、ひどいものだった、ワシらか一番まともだったと、どこにもその盗賊ぶりは人後に落ちない日本が言うくらいだから、それは相当なものであったと思われる、そうした他国のクソどもは置くとしても、北京一番乗りした日本軍も同じことをしている。
日本軍は他国軍に先駆けて戦利品確保に動き、まず総理衙門と戸部(財務担当官庁)を押さえて、約250万両の銀と約2万石の米を得たという。
銀は日銀に納められたというから国家あげての略奪であるが、そのため列国中戦利品が最も多かったという。これは映画「北京の55日」に登場する伊丹十三演じる情報将校・柴五郎中佐の指示に拠るものという。さらに続きがあって、乃木指揮下にある第十一師団歩兵第十二連隊第三大隊が、盗んだ馬蹄銀をひそかに横領していたという。盗賊国家から盗む盗賊部隊もあった。こうなると笑うしかないが、何ともご立派な軍隊であった。日本軍は綱紀正しかったことを内外に喧伝していた、確かに兵士の一人一人はそうした恥ずべき行為はしなかったようであるが、組織ぐるみ国家ぐるみで上の方がやっていて実際はそうではなかったことを『万朝報』の記者・幸徳秋水らが厳しく追及した。これが「馬蹄銀事件」である。この一連の記事によって、幸徳秋水らは山縣有朋など長州の恨みを買い、それが明治天皇爆殺をたくらんだという事件をデッチ上げられて幸徳自身が死刑になった(大逆事件1911)原因となったともいわれる。清廉な乃木はワシをナメとるのかとアタマに来て自分の部隊を調査するとお寺の地下からその銀が出てきたという。
大逆事件はそうした権力によるデッチ上げの国家によるテロであるが、戦後の再審請求でもすべて棄却されていて、司法裁判所はこの国家テロ時代のままであるよう。
↑11年1月24日、幸徳秋水ら11人の、また翌25日菅野スガの死刑執行。宮下太吉の遺体は東京雑司ケ谷墓地(霊園)に葬られた。「墓籍簿だけで100余冊。どこにあったかも特定できない」と同霊園管理事務所(『朝日クロニクル20世紀』よりキャプションも)
八ヵ国連合軍の一年にわたる北京占領期間に中国の文物が国外流出したが、その量は19世紀に世界に流出した文物と比較して、質量ともに巨大なものであったという。それらの盗品らしき美術品は今の日本にもたくさんあり、美術館などに展示されていたりするが、正規のルートでは手に入りそうにはないものも多く、あるいは窃盗の証拠品のようなものであるかも知れず軍機でわからないながらも、自らで盗んだり、盗品と承知しながら二束三文で買ったりして手に入れたものかも知れない。こうしてウハウハとボロボロボロ大儲けした連中や古美術商などがそれを隠すために日本軍軍紀粛正神話を流したものと思われるが、美術館はその神話を笑っているようなことかも知れない。
どうコロンでも偉そうなことが言えたものではない。朝鮮ではどうであったか、『京都の中の朝鮮』は、
〈 日本は19世紀の末、本格的な朝鮮侵略とともに多くの貴重な文化財を略奪した。一攫千金を夢みた日本人骨董商と職業的盗掘団「掘り屋」が、各地の古墳や王陵を掘りまわった。こうして、三国時代の副葬品や高麗・李朝の磁器、石造美術品、石塔類などが続々と日本に運ばれ、美術館や大学の所蔵品となり、また、業者を通じ日本の資産家や好事家に販売されていった。その点数は、約数十万点になるという。 〉
数十万点!、要するに根こそぎに奪いもって帰ったわけである。どこが「よい時代」だなぁ−ロマンチックだなぁ−なのであろうか。
掘り返せば掘り返すほどに、ヒドイ実相が見えてくる。「赤れんが」などは歴史を掘り返す労もとらずの空騒ぎである、まともなものではない、実際はアジア相手に観光資源になり大儲けできるなどとはユメ思ったりはしないことである。当市民のアホさかげんを自己宣伝するだけのものである。
明治34(1901)年9月、清朝と11ヵ国(8ヵ国とスペイン、オランダ、ベルギー)との間に最終議定書「辛丑条約」が調印された。多額の賠償金のほか北京・山海関沿線の外国の駐兵権を認め、人民の反帝運動の鎮圧を清朝が義務づけられるなど、中国の半植民地化をいっそう深めるものであった。
賠償金は4億5千万両、39年間分割払い、年利4%で元利合計で総額9億8200万両で、当時の清の国庫収入の5年分に当たった。日本はもっとも鎮圧に活躍したのだが、取り分はその7.7%、多くは要求しなかった、これは中国からは好感を持たれた。すぐに辛亥革命(1911)が起こり中華民国となってもこれは引き継ぎ支払い続けた。
駐兵権でここに駐屯していた部隊がのちに盧溝橋事件を起こす。
←義和団鎮圧のあと、その報復は苛烈をきわめた。各国軍は捕らえた義和団員を処刑したほか、清朝政府関係者に一連の義和団事件の責任をとらせるとして処罰を要求するなど強硬態度に出たため、宮人も多数処刑された。おりから、光緒帝や西太后は西安に脱出 逃亡して不在だった(『朝日クロニクル20世紀』より、キャプションも)
北京陥落ののち各地の義和団は反人民の性格をむき出しにした清朝によって徹底的なすさまじい弾圧を受けた。昨日の戦友は今日の敵、惨殺された団員は数万という。
義和団は敗北するが、帝国主義列強の中国分割の野望をくじき、中国民族人民の気概を示した反帝の巨大人民闘争となり、民族の覚醒をうながして辛亥革命への道を切りひらいたものと評価されている。
福知山二十連隊は日清戦争当時は大阪鎮台・大阪第四師団隷下にあって、大阪城に本拠を置いていた。第四師団は日清戦争の実戦に参加していない唯一の師団であったが、戦後の講和条約交渉や三国干渉が進むなかで、遼東半島の「保障占領」の任務に就いた。当時の二十連隊兵士(和田山出身の一等卒)の手記が『福知山市史』に引かれている。
〈 第四師団北上す
四月二十三日柳樹屯(大連北港・人家百戸余)に上陸した四師団は、休む暇もなく半島西岸皮(貔)子窩方面に展開すべしとの命を受け金州城へ向って行軍を開始した。一面の広野には道らしき道もなく、川底を道とし、田畑を踏んで進めば、民家はあっても人民悉く四散して人影もなく、清国敗残の兵が馬賊匪賊と組んで出没するのみである。七里省に着き、河原に数箇の塚を掘り携帯の雨具を張って露営したが、賊の襲撃に備え、村田銃には弾丸を填め武装のまま座臥する。夕食時になっても糧食は届かず、熱湯を飲んだだけで警戒しつつ払暁を待った。翌二十四日は物凄い暴風が砂塵を巻き上げ、視界の効かぬ道なき道を、重装具を背負い苦しい行軍が続く。昨日の午前十時に昼食をとったのみで飲まず食わずに歩く。午後二時頃から雨になり、道路は泥濘と化す。食料の欠乏に堪え兼ねて路上に倒れる者が、大隊千二十五名のうち三十名にも達した。ようやく金州城に辿りつき、やれうれしや今夜はここで宿営かと思ったのに、第三師団の兵が充満していて果さず、午後五時になってから劉家屯へ向かった。兵士は失望落胆してせめて水でもと思っても飲料水はない。隊長は励ますため軍歌の高唱を命ずるが、勇気はあっても空腹には勝てず声も出ない。すでに日は没し、暗闇の中で第三師団の病兵を送る牛車に逢う。日本人の軍夫が守衛に当っているが、何分軍隊教育を受けていない者達で、患者の取扱いが冷酷無残である。そのうち生田一等兵も路上に倒れたが、さっき見た患者護送の冷酷さが目に浮び、こんな所で死んだら犬羊の餌食になる。劉家屯まで後一里の声に励まされ、必死で本隊の後尾に追すがった。道端に倒れている兵士達は、陽に焼かれ、弱り切った蚕のように見えた。劉家屯の家屋は破壊し尽され人影もない。野原に幕舎を張り、周囲に石を積み上げて宿舎とする。夜中の十二時頃になって食事分配のラッパが鳴った。「飯だ、食事だと」皆手を打って喜び、各分隊とも猛胆勇武の兵卒を撰抜し、日直上等兵が引率して出向き、やがて帰舎して、各自携帯する金椀一杯つつの飯が分配された。二日も食べずに重装備の強行軍に堪え抜いた兵達は、「百年目に初めて父に会ったような心地がする」などと口々に叫び、その場に座りこんで、むさぼりついた。翌二十五日午前五時四十分起床、今日一日の食糧として乾飯が一人一合宛支給された。使用注意に「水に三十分つけ、三分の一ずつ食べよ」とあるが、付近に水はない。そのまま呑みこみ、六時三十分出発した。この日生田一等卒の小隊は後軍となって、患者護送の任についた。
何分二、三日ろくろく食べずに重い荷を背負って暑熱の下悪路を行軍し、夜は警戒のため安眠もしないのだから、剛毅勇猛を誇る兵達も、難苦欠乏に堪え兼ねて、その日路上に倒れ伏す者実に百三十名を超えた。いかにお国のためとは言いながら、食糧の欠乏では、人たるものなかなか打克つことは出来ない。乾飯の残りをたよりに倒れていたものもようやく立上り、六十戸ばかりの金化屯に辿りついた。ここは近衛師団の兵站もあり、はじめて宿営も出来る予定であったが、割当ての民家を検視すると我国の厩よりも不潔で、こんな所に泊れば伝染病間違いなしと恐れ入っているところへ、軍医官より宿営禁止の指示があり、又も野原で野営する。夕食時間はとうに過ぎているのに食事の分配はなく、兵士一同失望落胆のところへ、兵姑の人夫五、六人が桶を三箇搬入した。携帯の金椀二杯つつの粥の配給にありついて、一同子供のように喜んだ。夜の寒さに寝もやらず喋っていたところ、東方から烈しい銃声が起った。直ちに広場に集結したところ、運悪こんばいく我五中隊に威力偵察の命が下り、四方を探索したが異常を認めず帰舎、何しろ疲労困慰の身には地獄の苦しみであった。二十六日晴天、午前七時三十分出発、十二時小休、ここで軽少ではあるが湯漬が振舞われ、久し振りで飯らしい飯にありつき、諸官兵一度に元気づき、勇気百倍して行軍を続けた。二十七日六時三十分集合、各自糧食を携帯して出発、九時頃から暴風雨となり、ぬかるみに苦しみつつ午後二時三十分一応の目的地である皮(貔)子窩港に到着した。
この日上陸以来五日ぶりに初めて民家に宿営することが出来た。家の主人は王照録といい、甚だ学者のようで色々と筆談した。しかし何分敵地である。片時の油断もならぬ。警戒を厳重にして臥眠した。皮子窩で三十日迄休養することになり、糧食も一人一日一合五勺の配給があり一応安堵した。尤も中隊本部からの通報によれば、「付近の日本兵が頻々と襲撃され、死傷者も出ているから充分警戒せよ」とあって油断大敵である。休養中に第二十連隊長から各大隊の兵員の状況を報告せよとの命令があった。第一大隊は兵員千百余名のうち戦闘可能な健兵は六百八十名に過ぎず、第三大隊も健兵大隊定員のようやく半数。しかるに我第二大隊のみは幸いにも九百五名の戦闘可能者数を保持していた。大隊長の喜びは大変なものであった。このような健兵の損耗は第一に糧食の不足と悪水の飲用による。消耗した体力に病魔がつけこみ、戦闘前に病死するものが続出した。休戦中の部隊ですらこのような有様であるから、戦争時期の状況は酷烈想像を絶するものがあったに違いない。はじめての外征のため計画にゆきちがいが多く、特に兵站補給、衛生方面では致命的欠陥を露呈した。戦争初期第二十一連隊の第三大隊長古志少佐が兵姑輸送失敗の責任をとって割腹自殺を遂げた悲話すらあった。日清戦争の死者は合計一万三千四百人を数えるが、この内実に一万千八百九十四人は病死であった事が、日清戦争における輸送、衛生方面の致命的欠陥を物語って余りあり、日本兵は戦闘よりも恐ろしい飢餓と病魔に苦しみ抜いたのであった。… 〉
どこまでが手記でどこが市史の加筆なのかわからないようなことだが、
〈 日清戦争は近代に入って最初の外征であり、長らく恐れ続けていた老大国清国との決戦であったから、日本全土に緊張感が漂り、昨日までの烈しい政争は嘘のようにピタリと止み、挙国一致の体制が見事に成立した。国家・国民の意識が開国以来はじめて確立したという点では日露戦争よりも大きな意味があった。よくある戦争批判や反対の声は一切聞かれなかった。「この戦いは弱い朝鮮を助けてその独立を保護し、横暴な清国を麿懲する義戦であり、清国の覚醒を求め、吾人と共に協力して東洋の改革に従わしむるための戦い」と一般国民は認識していた。この故にこそ内村鑑三のような人でさえ、「仁義の戦」と呼んでこの戦争の意義を英文をもって世界に訴えたのであった。ところが時の外相陸奥宗光だけは、この戦いに寄せる国民与論を「社会凡俗の与論」と冷評して、「戦争は義侠の精神で十字軍を起すようなものではない、それは飽くまでも、国益伸張の手段にすぎぬ」と洩らしている。 〉
当時の政治家の方がリベラルの思いあがりの空論よりもよほどに正鵠を射ているようだが、今のたいていの政治屋は当時のリベラル空論にプラスして帝国陸軍の思い上がりと戦後の対米従属の植民地根性もプラスした何ともとんでもない凡俗の怪論が主流になっているように思われる。
一般に戦争に正義の味方・月光仮面はない。国土を他国に侵略されている側にはまだしも正義はあるが、他国を攻めている側に正義などがあるはずもない。他人の家に武器を持って押し入っている者はよほどの正当な理由がなければ犯罪者である。戦争は政治の延長であり、政治は経済の延長である。ゼニ儲けをまことのねらいとした大量殺人行為である、超重犯罪である。
関連情報
「日露戦争の戦艦名を冠した通り名」
「舞鶴要塞」
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日清
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明治29 |
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1897 |
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明治31 |
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1899 |
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事変 |
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命名 |
1903 |
明治36 |
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1904 |
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日露
戦争 |
1905 |
明治38 |
日露
戦争 |
資料編の索引
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【参考文献】【引用文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
『大海軍を想う』『海の史劇』『坂の上の雲』
『朝日百科 日本の歴史10近代T』(朝日新聞社)
『別冊歴史読本18日本海軍軍艦総覧』(新人物往来社)
『図説日本海軍入門』(学習研究社)
『語りつぐ京都の戦争と平和』
『軍港都市史研究T舞鶴編』(精文堂)
『軍港都市史研究U景観編』(精文堂)
『日清戦争』(中公文庫)
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