京都府舞鶴市浜 |
海軍城下町の
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↑舞鶴鎮守府(舞鶴市・明治末期) 明治34年(1901)10月に開庁。日本で4番目の軍港として鎮守府・海軍工廠などの軍関係の中枢施設が置かれ、軍港都市舞鶴としての基礎を築いた。(『目で見る舞鶴・宮津・丹後の100年』より。キャプションも) ↑旧舞鶴鎮守府司令部の建物 明治34年10月1日舞鶴鎮守府が開庁し、日本で第4番目の軍港が発足した。初代鎮守府司令長官は東郷平八郎中将であった。司令部の建物は、現在の中舞鶴郵便局北側の山の上にあり、軍港や海軍の諸施設を見渡すことができた。第二次世界大戦後は、昭和27年6月まで連合軍に接収されていた。その後、大阪財務部舞鶴出張所の管理下に移ったが、建物が老朽化して危険になったので同39年11月に解体された。(『ふるさと今昔写真集』より。キャプションも) 場所は中舞鶴郵便局の背後の岡の上であった。 ↓現在の様子。 碁盤の目鎮守府のお膝元、今の中舞鶴はもとより、その東側に連なる東舞鶴の市街地も整備されていった。正南北ではなく少し北北西側に振れて、1丁間隔の碁盤の目。ちょっと古代の条里制地割りを見るような感動もの。こじんまりとしているが、この方法以外に都市づくりはあるのだろうか。両時代とも新しい国作りの情熱に燃えていたように感じられる。もちろん中国の古代都市作りから学んだもの。 ↑新舞鶴全景(舞鶴市・昭和初期) 舞鶴鎮守府開設以後、軍港都市として発展をみる舞鶴。市街地が広がる東舞鶴の全景。(『目で見る舞鶴・宮津・丹後の100年』より。キャプションも) ぜんぜん全景ではない、半分も写ってないが、四面山から東側を写したものと思われる。 何やら古代のミヤコを彷彿させられたりはしませんか? 同じ位置からこれらの現在の姿を写したいと考えているがいつになることやら… 別に特に自慢できるようなものもない、大勢のカンコー客さんどうぞ来て見て下さいと案内できるような華やかな所もない、ムリしてグルメと言って肉ジャガ(肉ジャガがグルメなの?)や明治文明と言って赤レンガ軍用倉庫(レンガ建物はチープの象徴でないの、まして軍用倉庫などは決して文化とは言わないと思う、どこか外国の倉庫モデルを雨と湿気の多い舞鶴向けに改良もせぬままに、そのまま持ち込んでここに建てただけのもの、何も舞鶴の風土や歴史とは関係がないまったくの外来建築、舞鶴文化とは何も関係がない、原発を若狭文化とか郷土の誇りなどとは決して言わない、いやいや受け入れただけのものである、若狭の自治体がこんなものを自分のゼニ使って宣伝したりはしない、宣伝したければ企業や国が勝手にやればいい。海軍軍用倉庫群は舞鶴の郷土の文化とは繋がりがなく、目出度い連中がバカ騒ぎするまでは長くうち捨てられていたし、体育館を建てるために2つの赤レンガ倉庫を破壊した。これが舞鶴の誇りといえるか?こんな物がいいのなら、本場へ行けば千倍も万倍ももっともっと「いいもの」がゴロゴロあろう、舞鶴で使う建築物なら舞鶴の風土や文化に舞鶴の知恵を絞って作り替えていかにも舞鶴だなと思えるようであっていてこそ意味があるのであって、そこが郷土の誇りとなるミソであろう、どこかよその物をそのままで〜すでは、それは舞鶴の郷土の誇りとは呼べまい、よそのものでしかなかろう、いくら高価なベンツが舞鶴にあったとしてもそのベンツ自体は舞鶴の郷土の誇りではあるまい、そんな物を郷土の誇りなどとは言うまい、何かまともに考える知性はお節介連中にはあるのか、海軍や国鉄が自分のゼニで宣伝するのなら勝手にやればいいが、なぜに自治体が税金でそんなバカをするのか。所詮は過去の亡霊、一過性流行程度の人気しか保てまい、それに税金をン十億円、ソロバンもできないのか、正気か?)などを売り込んでいる様子、ムリにムリして客が来るや来ないやも知れぬ観光開発などは夕張さんへトクと見習いにでも行ってくればよろしかろうが、町の滅びへの最も手頃な最短コースのお手本なのではなかろうか。 たぶん皆さんの町の方がいいでしょうが、狭い所ではありますが、丁寧に一つ一つに名が付けられている、歴史に興味のある方には、こんなひっそりがいいかも。 東舞鶴市街地の主要部分の南北には半丁間隔で道路に※条と古代の名が付けられた。なぜ軍艦名を付けなかったのかはわからない。 あるいは京の都のマネかも、田舎者の京の都コンプレックスかも。しかし京の都は条と条の間がずいぶんと広くて、10倍以上もあり、その間には何本も通りがある。ここは50メートル置いて次の条になる。田舎者は腰抜かすほどにレベルの格差におどろきカルチャー・ショックを受ける。我が町はみじめだった。今まで知らなかった。ああ恥ずかしいああ情けないああみじめ。 そんなカルチャー・ショックも受けることも目が覚めることもなかったド幸せなどうしょうもないド田舎者が「北都の雄」などと大笑いされそうなことを平気で言うのだろうか。 西から東へ 「一条通り」 「二条通り」 「三条通り」東舞鶴駅前より海岸まで。 ↑新舞鶴駅(舞鶴市・明治末年) 舞鶴軍港への鉄道敷設のため、明治37年(1904)に福知山〜新舞鶴間を結ぶ舞鶴線が開設された。現在の東舞鶴駅。 ↑三条通り(舞鶴市・大正12年) 三条通り八島から海岸方向に向かって撮られた写真。新舞鶴駅の開設とともに商店街に発展していく。 ↑新舞鶴駅前(舞鶴市・大正末年) 駅前を整列して行進する風景。 ↑昭和初期の三条通り(京都府舞鶴市浜初瀬通り(舞鶴市・昭和初期) 通りを往来する人びと、通りの両側に並ぶ商店が賑わいを感じさせる。 いずれも(『目で見る舞鶴・宮津・丹後の100年』より。キャプションも) 鉄道網整備は富国強兵策の最重点課題カナメだった。多くの民間鉄道を買収して政府の手に握る(国有化法は明治39年)。日露戦争の頃はまだ国鉄がなく兵隊送るのすらも大変だった、戦争物資の輸送などには頭がまわらない政府だった、しかし国鉄となれば鉄道職員までが公務員風を吹かせて偉そうにはしくさる、仕事はまったくもってさらさん、人件費は超高い、市民目線のサービス改善はありえない、せんでもよいチンプンカンしかさらさんし利権で政治屋どもとグルになる、などなどどこかの職員どもと同じ弊害がでるが、戦争はぐんとしやすくなる、というかこれがなければ戦争もできない。またこれを担保にして戦費も外債に頼ろうとした。 朝鮮にも鉄道は整備されていず、南満洲はロシアが建設していたが広軌だった。 明治37年、日露戦争の年に新舞鶴(東舞鶴)までが官設で開設されたという。日本一の急勾配と聞いたが、本当かどうか、突貫工事で白鳥トンネルを抜いて福知山まで通った泥縄鉄道であった。新舞鶴から鎮守府内への引き込み線(のちの中舞鶴線)も開設した。三宅神社の下に「北吸駅」(東門駅)があったが、高校生の頃、私は一度だけここまで乗ったことがある。 日清戦争のころは、鉄道がなく、兵隊は歩いたそうである。充員召集の歩兵第七聯隊は、金沢から敦賀まで160キロを陸行せよとの旅団命令を受領、北陸高速を走ってもイヤになるほどの距離であるが、あそこを4〜5日かけて歩いた、背嚢は5貫目、さらに鉄砲や弾丸を装備してである、暑かったそうで、日射病患者1259名、死者6名。鉄道がなければ戦争はできない。しかし派兵先のアジア諸国は鉄道などはない、歩兵というくらいだから、広大なアジアの地を歩いて歩いて歩き尽くした。平の引揚援護局から東舞鶴駅まで歩いたんですか、大変だったでしょうね、などとも驚かれる方も多いが、あれくらいの距離は問題でない。 ↑鉄道引込線 舞鶴線が開通したのは、明治三十七年である。同時に、「新舞鶴と余部」「舞鶴と海舞鶴」を結ぶ引込線も開通。また、大正十三年には、新舞鶴と東港の海岸を結ぶ引込線も開通した。 海軍専用の中舞鶴線 新舞鶴と余部間の引込線(中舞鶴線)は、当初、新舞鶴駅(現・東舞鶴駅)と海軍施設を結ぶ専用路線として敷設されたもので、軍港引込線といわれた。しかし、大正4年に軍港域内の一般通行が、引込線を利用することに限定されたことから、人員の輸送にも活躍。大正8年に鉄道省に移管され、東門駅と中舞鶴駅も設置された。戦後は、バスや自家用車の普及で、利用者は激減。昭和47年に廃止され、自転車と歩行者の専用道に生まれ変わった。(『ふるさと今昔写真集』より、キャプションも) ロシアは、 ↑シベリア鉄道輸送途次の一風景「グラフィック」所載 停車時間中プラットフォーム上でのリクリエーション(『画報近代百年史3』より、キャプションも) 大きな毛皮の帽子に長いコート、馬を連れている。コサック騎兵だ。平原全体が動くほどにも見える大部隊で長い槍をかまえて一斉突撃してくる。貧相な日本騎兵は彼らに面と向かっては勝ち目はなかった。大砲や戦車が登場するまでは無敵、強いロシアの象徴。 毛皮の帽子はロシアン・ファーハットというが、私の老師は黒貂のファーを被っておられた。黒貂ファーはロシアでも皇族しか被れなかったもの、もう毛もはげ落ちて地が出てしまい、何代も前のものならか黒くない肌色の黒貂ファーだったが、偉いサンと間違われて、こんな物をプレゼントされたという話であった。-40℃の世界ではこれナシでは過ごせない。アミダに被ったらあきません、しっかりとおデコまで被っていないと、前頭葉が一瞬に凍りついてしまいます、ここは人間の理性の座ですから、ここが一度凍るともう元へは戻せません、使い物にならないアホになってしまいます。ということであった。そんなことで私はファーを目深に被るクセがついてしまったのだけれども、これ被ってると何となくアバンチュールな雰囲気になるのか、女性にはどえらくもてる。 そんなことはどうでもよろしいが、氷結したバイカル湖上に線路を敷き、単線のシベリア鉄道では回送できなくなった車両は焼き払いながら、1日9列車だったか、後続部隊が続々到着。輸送に万全を期していた。 ロシアは何となくアジア的なところが見られる。ロシアは半分アジアだと思われるのを嫌がるクソ連中が当時の上層部には多かった、アタシらはヨーロッパなんよ、と思われたいようであった、そうしたアホげたコンプレックスから感情的に東洋を根拠もなくバカにして日本兵三人にロシア兵一人でよいとまで信じていた。皇帝は日本を猿と呼んでいた。 中国や朝鮮と同じだと思われるのを嫌がって日本人は西洋人の一種だと思われたいどこぞの国のタコ連中と同じで、この種の馬鹿げた劣等感を持っていたようである。いまだ中国人や朝鮮人を人とも思わず日本は神国、正義の戦争だったなどと言いたいのはこのコンプレックスだろう。猿呼ばわりさらすロシア皇帝と似た程度のアタマか。 この程度の三流以下の人物が絶対権力を持ち、その顔色だけしかみていない下らぬ取り巻きどもと軍と秘密警察で強い国家を動かす。国会なく言論なくいっさいの批判は許さない。帝政ロシアの話で、××低国の話ではない。これがどれほど国民にとり、侵略された周辺の国々にとっておそろしいほどに困ったものかは低国臣民ならだいたい想像できよう。 世界のどこにも誰一人として帝政ロシアに味方するものはなかった。全世界が日本に同情し応援してくれていた。全世界が帝政ロシアの敵であり、帝政ロシアは内部からも外部からも敵に分厚く包囲されていた、レーニンに言わせれば、地球を締め上げる世界帝国主義勢力の「鉄の鎖の最も弱い輪」になっていた。コサック騎兵もかつて侵略された周辺地域(ウクライナとかドン河流域)から召集された者たち、彼らとて強い反感を持ちながらの参戦であった。日本が一人戦っていたのではなかった。ガンバレニッポン、どうか勝ってくれニッポンであった。 しかしすでにその日本も「鉄の鎖」の一部でしかなくなっており、世界は日本の大勝も望んでいなかった、しかし大勝してしまったような、そして…それは勉強していただくとして…、 ついでながらベトナム戦争の頃の反戦歌「花はどこへ行った」はもともとはそうしたうち続く戦争に巻き込まれていったコサック地方の子守唄をヒントに作られたという。輪廻観があって愚かをまた繰り返す、そうした東洋的世界観があるが、全世界の多くのシンガーやスポーツ選手までがこの曲を取り上げて平和を訴えてきた。コロブチカ(行商人)も彼らの曲である。 さて一方、世界の流れからはいつも取り残され、そのとんでもない時代チンプンカンとそれにも気づかない無神経な島国根性と皇国は世界一信仰を発揮する伝統をもつが、その日本は、 ↑輜重輸卒が兵隊ならば電信柱に花が咲く 日清戦争はもっぱら軍夫の手に頼ったが、日露戦争から輜重兵が活躍し始めた。しかしかれらは兵隊として尊重されず一段低いものとされた。「絵入ロンドン新聞」所載(『画報近代百年史3』より、キャプションも)。 これらを見比べただけでも勝ち目があるとは思えないが、日清戦争では人力車夫、荷担人夫、船頭たちが徴発され軍の輸送に使われた。輜重は荷物のことだが、荷物を輸送する兵隊を輜重兵と呼ぶ、日露戦争からであったという。しかしそれは兵隊とは見ていなかった。死んでも官報にも載らず、戦死者にもカウントされることもなかった。量は兵隊の2割ほどもいて、彼らなくしては動けないのだが、軍事思想として、いかに補給を軽視していたか、近代戦は補給戦といわれるが、補給軽視は日本軍の伝統のようなもの、先の大戦では戦死の死因の6・7割が餓死であったともいわれる。戦死といわれるが大半は敵のタマに当たって死んだのではない、近代以前の脳髄が産み出した戦争の犠牲者であった。米一合と罐詰缶に一杯だけの塩を渡され、これで終わりだ、もう死ぬまで補給はない、各自の大和魂で足らずは補ってくれ。食糧がないくらいだから武器などあろうはずもない。「軍隊はアホですから」の老師の言葉を思い起こすが、何も軍だけの話ではない、日本人の妙な知能的欠陥ではなかろうか。今も食糧つくらない国、病院つぶす町、近代以前、いやいや人間以前のアホザルどもばかり。ベトナムは南部を武力解放すると決めるとただちに「ホーチミン・ルート」建設に着手している、58万回といわれ136万トンと推定されている米軍の絨毯猛爆撃の中、ジャングルを開いて本道や脇道枝道、おとり道などがネットとしてその大半を隣国ラオス国内に建設していった。石油パイプラインも建設する。総延長2万`にもなった、サイゴンの直前まで地球を半周する長さである。米軍は猛毒ダイオキシンを国際的に禁じられているにもかかわらず撒いた、B52は一日36回も同じ箇所を爆撃した、30%は不発弾といわれ、その処理にはまだ数百年かかるといわれる。ラオスはアメリカの交戦国ではないしそこには多数のラオス人が生活している、強い帝国の味方の属国はもとより安保理も何もしなかったと思う知らん顔、どこかの国の砲撃の何億倍もの大犯罪行為の中でも建設していった。ルートには合わせて大病院も120`ごとに建設した、たいして物もない国と思うがしっかり補給する、これらが解放を早めたといわれる。ルートというよりもこれはネットであった、4本ばかりの幹線が並行して走り、お互いは横道で繋がっていた、どこを爆撃されてもネットは生きていた、破壊されれば翌朝には修復された、爆撃を避けて夜間に大砲や戦車が前線へぞくぞく送られた、これらを密かに見た日本人ジャーナリストたちは「アメリカは負けた」と悟った。補給ルートはもとより戦略戦術、情報も道義もすべての面でベトナムはアメリカ帝国を手玉にとって余裕で完敗に追い込んでいった。本物の解放者はしっかりとよい仕事をするもの日本もエエかげんに改めないと世界が笑う。 さて「北都の雄!」いやいや「病院つぶしの雄!」のあなたなら勝てるだろうか、いやいや五分五分までもっていけるだろうか。知能の限りを絞って考えて下さい。いやいやまあムリか。 「四条通り」 「五条通り」北の突き当たりが海で、ここに桟橋があった。私の子供の頃はここにあった。 ↑五条桟橋(舞鶴市・昭和9年) 何隻郷土部隊が渡満する際の光景。 (『目で見る舞鶴・宮津・丹後の100年』より。キャプションも) 「六条通り」 「七条通り」 ↑七条通り(舞鶴市・昭和10年頃) 恵比寿神社跡地付近の通りの様子。 (『目で見る舞鶴・宮津・丹後の100年』より。キャプションも) 「八条通り」 「九条通り」 九条通は与保呂川左岸の通りで南向きの一方通行になっている狭い通り。万代橋から上手は「朝市」が開かれ、ちょっと有名とか。かつてはSLが走っていた ↑万代橋付近を走る貨物列車(昭和10年頃) 新舞鶴駅と東港海岸を結ぶ鉄道は、与保呂川の左岸沿いに海岸まで敷かれていた。この鉄道は、もとは新舞鶴桟橋倉庫株式会社が設置したものであるが、昭和三年同社が経営不振で解散したため、同五年鉄道省に編入。同時に新舞鶴港駅が設置された。(『ふるさと今昔写真集』より、キャプションも) 近世の3万5千石の城下町西舞鶴の市街地は高潮時には海水で冠水する場所が幾つかあるが、東舞鶴浜地区は満潮面より2尺5寸以上とするため、1〜2メートルばかり水田の地盤を埋め立てている。海水が逆流して道に溢れるようなことがない。古代や近世にはマネできない熱の入れようゼニの入れようであった。 町づくり村づくりと、口先では叫ばれるが、現在では根性の入った工事は、する者がないのでなかろうか。明治人は間違いあれば、責任取って腹を切る覚悟で仕事をしているし実際に腹を切っているが、平成は情熱も失せたクソ官僚やクソ政治屋ども、腹切る覚悟などはサラサラないサラリーマン根性氏ばかりのよう、クチばっかりのおやかましいだけのもの、おかげで市民も往来のカンコー客までが大笑いする大ゼニを喰う割にはたいした効果なしのバカ工事ばかりが目立つ。 なんぼお役所仕事やいうても、もうちいとらしい仕事せえや。あんなもんは見るんも嫌になるわいや。あああこっちまでアホがうつりそうじゃ。ゼーキンやど、ええかげんにせえや。 いらん事ばっかり、あんなもんにカネほかすな。舞鶴の市長はボケとるなあ。もっと老人ホームを建てえよ、溢れとるやろが、見えんのかいや…などとオバチャン(失礼)たちまでも集まれば「みんなそう言うとってやわ」と情けながる。 何もボケとるのは特に市長だけではなく、クソ××クソ○○クソ△△…そんな連中全部がその様子。 市民を苦しめる社会問題などは元々が何も関心がないし理解すらできない勝手な幻想に酔う生まれついてのお坊ちゃまどもだからそれも当然な連中かも知れない、赤字だと病院を潰してさらに市民病院予算は通さない、市民とは何も関係のない赤字だと決まり切った赤レンガ10億は大賛成、どこかのベッピン仕分け人とは逆で、ひどいタコ連中だが、とにかくどこでも大変に人気が悪い、誰に聞いても異常な水準に下がっているのだが、市民は言うて行く所がない。いよいよ本気で何とかしないと舞鶴が潰れる。 無用人、遊び人風の発想しかないような、ちょっと賢いことするなあ、というものがない。遊んでばかりいたのか、苦労して勉強したことなどないような、しっかりせえよ、といってもそれでも一端の国士きどりで、市民生活などは頭になく下々などは芯からバカと見て聞く耳もたないので改まるわけはない。 市民としてはブーブー言い続けるより手はない。さらに声を大きくしてブースカと言い続けること、それでも聞かないと思われるがその時はしっかりと次の選挙では早いこと落としてしまいましょ。よい町を作るにはハコも大事かも知れないし、いろんなボランティア活動も必要、しかし選挙も大変に大事なもの、ダメは落とすこと、良い者を選ぶことは市民としての最低限の責任でしょ。これをしっかりやらないと舞鶴はよくはなりません。 百年後まで残る、住民にも多少は感謝されるかも、カンコー資源になるかもの、お仕事とはこんなものかも、の明治のお仕事を見てみよう。 東西のメーン通り大門通り(国道27号線)↓大門通りメーン通りは今の国道27号線である。鎮守府街道東通り、有事の際は東側の友軍が駆けつけてくれる。鎮守府や要塞を守るために(市民は守ってくれるのかどうか?)金沢師団が駆けつけてくれるよう、金沢までは続かねばならない。 初期は「東大門通り」と呼んでいた。今は単に「 新市街地の完成に伴い、通り名の命名が行われた。明治35年(1902)11月という。日露戦争は明治37(1904)年だから、その直前のもの。日清戦争(1894)時代の艦名も多い。もっともっと軍艦はいたのであるが、なぜこうした軍艦だけが選ばれたのかは不明。舞鎮所属艦かといえばそうばかりでもない様子。 東舞鶴の通り名を拾えば日露開戦期の海軍の陣容を目の当たりにすることができるかも知れない全国どこにもないであろう地名群、舞鶴でもただ東舞鶴だけである。 近頃では忘れられかけてきているし、どんな軍艦だったのか、どんな戦争だったのかは市民の誰ももはやシカとは知らない。市も市教委そんなまじめな仕事はせずに文明の赤レンガで〜す、ばかりに呆けている。 この前の敗戦も忘れ、引揚もスコーンと忘れるくらいに目出度いから、日清や日露など遠い過去などは初めから知らない、知らないということすら知らなくなっている。知ってるつもりだが記憶の回路が初めよりない。なんぞ言えば赤レンガで〜す。ああアホらしい、山のサルすら笑おう。これでは現在の自分の立つ位置ですらスコーンではなかろうか。 あなたの歩く足元に歴史がある。日清・日露がそこにある。舞鶴はこれらのより古い海軍創建時代の歴史も決して忘れてはならない町である。過去の話でなく、それは今もしっかりと舞鶴に生きている。有名な所だけでも少しついでに取り上げてみようかと思う。 ↑万代橋(舞鶴市・昭和10年頃) 与保呂川に架かる万代橋。手前に見えるレールは、新舞鶴駅と東港を結んでいた鉄道。 ↑大門通り(舞鶴市・昭和初期) 現在の大門三条交差点付近から東側を望む。安田銀行の建物が左に見える。 (いずれも『目で見る舞鶴・宮津・丹後の100年』より。キャプションも) 戦艦名を冠した通り東舞鶴には軍艦名の道路は33あるようで、たぶん全国探してもここだけと想われるが、一度に全部は紹介できない、ここに書くのは日露戦争前後の戦艦名を冠した通りだけです。JR東舞鶴駅前から東西に次の順に浜側へ通りがある。駅に近い艦の方が建造年が新しい新鋭艦である。 ↑戦艦「三笠」(まいづる智恵藏) 三笠通り戦艦三笠の名を付けた通り名で、戦艦三笠について市史は、 〈 戦艦 三笠 戦艦は「最も卓越せる攻撃力と防禦力とを有し、堅牢無比なる海上武力の根幹」(近世帝国海軍史要)であり、海軍の花形であった。日露戦争開始時には戦艦六隻が日本海軍の中心勢力となっていた。中でもこの三笠艦は日露海戦に備えて第二期海軍拡張計画のうち最後に完成した戦艦であった。 明治三十四年、舞鶴鎮守府発足時には、まだ英国で建造中であったにもかかわらず、三笠は舞鶴を母港とすることに決定され、その乗員数は三月既に定められていた。乗員は高級士官を含めて八三○人の多数に及んでいた。一等戦艦、排水量一万五、○○○トン、機関出力一万五、○○○馬力、速力一八ノット、一二インチ砲四門、発射管四門ほかを備える当時世界での最新鋭艦であった。同三十五年三月しゅん工し、同年五月横須賀軍港に回航、七月にはその雄姿を舞鶴湾頭に現わした。軍艦に慣れ始めた地元民も、この新鋭艦に接して改めて目を見張った。同月二十二日地元を中心とした住民一般に公開されたが、その模様を新聞は次の通り報道している。 去る二十二日より一般に拝観を許されたる三笠は世界有数の巨艦と云ひ、殊に舞鶴鎮守府の所属艦として、老幼男女の別なく、我も我もと船をこぎ寄する様は、恰も木の葉の落る如く、頗る多数の拝観人にて、当番士官以下艦員はいずれも懇切に説明の労を取り、大いに海軍思想の養成に努め居るものの如し。尚同艦は今暫時滞錨の予定なりと。 (大阪朝日新聞「京都滋賀附録」) 三笠は日露戦争中、連合艦隊司令長官東郷中将の旗艦として全艦隊を指揮した。殊に日本海海戦における輝かしい戦果により、「東郷」の名を世界にとどろかせ、日本海軍の代表艦となった(写真31)。 〉 三笠通りの西の突き当たりの高台に三笠小学校がございます。私の母校でござりまして、栄誉の戦艦三笠の名を冠した世界でただ一つの小学校かと思われます。従って私は戦艦三笠から生まれた三笠の分身でもあるようなわけでございます。戦艦三笠も日露戦争も市民が知らないのにはワタクシにも責任の幾分かはあるのかも、そんな事でちょっとばかりの責任を感じて、こんな事を書くわけです。別に戦争を鼓舞しているわけではございません。 こうしたことからか東舞鶴浜地区の通り名が軍艦の名からとられていることは子供の頃から私は知っていたが、へぇーそうなん、とそんなことはまったく知らないという舞鶴生まれの舞鶴人もけっこう多い。郷土教育に力を注いでこられた市教育委員会様の努力の大きな成果かも知れない。 ↓戦艦「三笠」(朝日クロニクル『20世紀』より) ↑戦艦三笠竣工 英ヴイッカース社で建造されていた一等戦艦三笠が1月ほぼ竣工し、試運転のためタグボートで沖出しされた。日本がイギリスに注文していた6隻の一等戦艦の最後。排水量1万5362トン、全長131.7メートル、30センチ砲4門、速力18ノットで当時の世界水準でも最新鋭艦だった。日露戦争開始前に連合艦隊の旗艦となり、司令長官東郷平八郎大将が座乗する(朝日クロニクル『20世紀』より。キャプションも) ↓三笠通り(京都府舞鶴市浜) 初瀬通り1丁おいて、 ↓戦艦「初瀬」竣工 日清戦争後、日本は海軍近代化を急ぎ、6隻の一等戦艦をイギリスに発注する。初瀬はその4番艦として1月18日(1901・M34)アームストロング社から引き渡された。排水量1万5000トン、主砲は30センチ砲4門、速力18ノットの近代的戦艦。しかし、日露戦争開始早々の1904(明治37)年5月、旅順港外で機雷に触れ沈没。(朝日クロニクル『20世紀』より、キャプションも) 1904年(明治37年)5月15日旅順港閉塞作戦で旅順口外、老鉄山南東沖10海里を航行中、先頭にいた初瀬は左舷艦底にロシア海軍が敷設した機雷にふれて、航行不能となる。8度くらい傾いて止まったので軽巡「笠置」が曳航準備をほとんど終えた午後0時33分に2回目の触雷をし後部火薬庫が誘爆、大爆発を起こして約2分で沈没した。 この時「初瀬」のあとに二番艦「敷島」がいたが、これは幸運艦であった、機雷なのか潜水艦なのかもわからぬ中、機雷ならば同じ所に2個はないと「初瀬」の航路わだちの跡を拝みながら全速で走り抜けて無事であった。ところが三番艦の戦艦「八島」が被雷線上で二度触雷し6時近くに沈没してしまった。この日のわずかな間に6隻の戦艦のうちの2隻を一挙に失ってしまった。魔の5・15と言われる。このときロシアには11隻も戦艦があった。4対11となってしまった。 通り名を命名した時には「初瀬」はいたが、黄海海戦や日本海海戦時にはすでにいなかった。 ↓初瀬通り 朝日通り戦艦朝日の名。 1899年に進水した戦艦。「敷島」型の二番艦。 朝日通りはいにしえの丹後街道(若狭街道)と思われる。今の国道27号線の旧道ではなかろうか。 ↓朝日通り ↑西端の「和泉通り」から写している、この通りは私は三笠小学校通学に毎日通った通りである。命名元は三等巡洋艦「和泉」(2987トン)と思われる。 バルチック艦隊がどの航路を通りウラジオへ向かうのかが大問題であった。どこで待ち構えればいいのか。まず八分はここだろうと読んで、対馬水道には多くの哨戒艦船が張り付いていた。 明治38(1905)年5月27日午前0時、濃霧たちこめる対馬海峡に哨戒艦「信濃丸」も任務についていた。この船が北上してくるバルチック艦隊を最初に発見。(沖縄の漁夫が一番早かったが連絡手段がなく、手間取った。) 気が付けば「信濃丸」はバルチック艦隊のど真ん中にいた、敵艦隊をしっかり確認して離脱し午前4時45分、暗号電文を打った。 「敵ノ艦隊、二〇三地点ニ見ユ」 執拗に食い下がってさらに打電、 「敵針路、東北東。対馬東水道ニ向カウモノノ如シ。」 さらに 「敵針路、不動。対馬東水道ヲ指ス。」 よい仕事をする船だが、「信濃丸」は明治33年竣工の貨客船6388トン、その後もずいぶんと長い間就航をした船で、大岡昇平氏の『俘虜記』主人公をフィリピンへ迎えに来るのがこの船とかで、引揚船にもなったよう。 昭和22年2月に大連から舞鶴へ引揚者を乗せて入港している、その後ナホトカから20回ばかりの引揚船となっているようで、引揚船リストに「信濃」が見えるが、この船だろうと思われる。 ↑「舞I引揚記念館」の引揚船・信濃丸の模型。案内プレートに「総トン数:6.155トン。速力:15.4ノット。登録寸法:133.5×15.2メートル。建造年:明治33年。船の種類:貨客船。主な引揚地:ナホトカ・大連。就航回数:19回。引揚乗船者数:38.621名」とある。 この電報を対馬にいた二等巡洋艦「厳島」が取次ぎ鎮海湾にいた旗艦「三笠」へ打電。 午後6時0分、東郷は大本営宛に、 「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハ直チニ出動、之ヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ波高シ。」 誰もが知る超有名な電文。軍隊の報告文らしくない美文、「秋山文学」とか呼ばれる。 ↑主力艦隊鎮海湾を出動して朝鮮海峡に向かう5月27日朝。(『画報近代百年史3』より) 「信濃丸」と哨戒を交代したのが二本煙突に二本マストの巡洋艦「和泉」であった。「和泉通り」の和泉である。 大胆にバルチック艦隊に接近し、撃沈される危険を冒してまとわりつくように監視を続けた。 「敵艦隊発見。戦艦八隻、巡洋艦九隻、海防艦三隻及ビ仮想巡洋艦、工作艦等若干、並ビニ駆逐艦数隻。」 バルチック艦隊はみな真っ黒な船体に黄色の煙突をしていた。それも打電した。連合艦隊は濃灰色であったから、敵味方の識別が楽になった。混戦になっても、とにかく黄色の煙突ならブッ放っせばよくなった。 バルチック艦隊は万里の長城にも似た壮大な陣容、洋上を圧し整然と北上を続けていた。各艦から吐かれる百本にもなる黒煙、その姿を見た者はみな震えたことであろう。 すげーぞ。東郷さんは大丈夫だろうか。 日本海海戦は沖ノ島(宗像市)の北方1〜2キロの海面で戦われ、市民で見た者は市杵島姫命を祀る宗像大社沖津宮の雑用少年(女人禁制の島)ただ一人であったそうではあるが… あまりに近海を威風堂々と行くので陸軍の兵員満載の輸送船「鹿児島丸」は日本艦隊と勘違いして総員甲板に出て「バンザイ!バンザイ!」と大声挙げて叫びながらバルチック艦隊に大喜びして激励に近づいていったという。「こんな大艦隊が日本にあったのか、これならロシアに勝てるバンザイ!バンザ〜イ!頼むぞ勝ってくれよ」何度止めようとしてもこれが敵の大艦隊だと気付かない、いよいよ敵の射程内に入ってしまう、「和泉」のあわてたことは、笑い話のような… 兵器なども中世的な姿を残していたし、人間も牧歌的というのか、文学的ロマン的英雄詩的というのか、日露戦争時代はまだお互いに古武士のような面影が多少はあったようである。休戦になれば壕にひそみながらもお互いの酒瓶を投げ合って交換したり、旅順開城の日は日露の兵士達がお互いに塹壕を抜け出して昨日の敵同士が肩を組んで旅順の酒場へ繰り出したとか。ただ人殺しのためだけの戦争ではない面も残していた。 よき時代がお互いにまだ残っていた。多くの国民は明治近代国家に甘い共同体集団幻想を抱き今日を生きるがための宗教的信仰の対象となっていた。 ←ロシア兵のヒューマニティ 旅順攻略戦のさなか、負傷した日本軍将校をだきかかえて運んで来たロシア軍兵士のヒューマンに行為に、敵も味方もしばし撃ち方をやめて目をみはった。「絵入ロンドン新聞」1904.11.1所載 ←1904年8月14日蔚山沖海戦において撃沈されたリューリック号の水兵600余名を上村艦隊は常陸丸の怨を越えて救助した。(いずれも『画報近代百年史3』より。キャプションも) 信玄もいう。 人は城、人は石垣、人は掘。情けは味方、仇は敵。 市民を思う情けがなければ、結局は墓穴を自らで掘ることとなる。歴史が教える。 ウラジオを基地としたウラジオ艦隊。後の巡洋戦艦にあたる1万トンを越える高速で遠洋用の巡洋艦隊。朝鮮海峡に出没して日本と満洲間を就航する輸送船を沈めた。6月15日、常陸丸は近衛後備連隊本部などが乗船していた、濃霧の中から突如ウラジオ艦隊が出現、小銃で応戦したが敵うはずもない、降伏を拒否して士官全員が割腹し、撃沈された、1000名余が戦死したという。 ほかには何もたいした能力はないが、そのかわりに無抵抗の病院船を沈めるのなら舞鶴のクソ議員やクソ公務員は世界一の達人でウラジオ艦隊もマッ青の腕前なのだが、このため国民、市民の非難はゴウゴウ、日本の重巡艦隊が血眼で追うが東京湾にきた津軽にきたとウワサが飛び交うばかりで捕捉できないでいた。 旅順艦隊が動くときウラジオ艦隊も連動して動くに違いない、旅順艦隊を迎えに必ず出撃してくるだろうと予想をたてて、ここで待っていた。 このときは旗艦「ロシア」を先頭に「グロムボイ」「リューリック」が南下してきた。日本側は旗艦「出雲」を先頭に「吾妻」「常磐」「磐手」。 リューリックはロシア製の優秀艦、航続距離は長く速度は速く、攻撃力も強い、後の巡洋戦艦のお手本。燃え上がるリューリック、これが見捨てておかりょうか、と何度も何度も戦友の僚艦が引き返し寄り添う、とうとう砲弾がなくなり、他の2艦は沈めることができなかった。君たちならどうする、もちろんさっさと逃げる。いやいや味方同士であっても撃って逃げるかな。頼りがいのある重巡艦隊である。 ↓蔚山沖の海戦 一九〇四年(明治三七年)八月一四日、常陸丸撃沈の報復のためにウラジオ艦隊を求めていた第二艦隊はついに蔚山沖で敵を発見し、リューリック号を撃沈した。写真は水平線のかなたにウラジオ艦隊を発見せる瞬間。 ↓沈没寸前のリューリック号 甲板に破裂する砲弾、バタバタたおれる兵士、沈みつつなお砲弾はなれぬ勇士。「絵入ロンドン新聞」所載。(いずれも『画報近代百年史3』より。キャプションも) この頃は望遠照準はない、ロシア海軍にはあったそうたが、日本海軍にはまだなかった。肉眼で撃っている。テッポウ撃ちの才能は生まれつきのものらしくて、その才能がない者はいくら訓練してもたいしたものにはならないとか、海軍一級の才能はすべて戦艦の主砲撃ちに集められ、次がこの重巡艦隊に集められていた。 敷島通りこの艦は3本煙突のよう。 ↓現在の敷島通り 艦名と艦景を見ていると違う型に見えるが、以上の4艦は実は同型艦・姉妹艦で、敷島型と分類される。簡単に言えば戦艦「三笠」が4艦いたわけである。のちに戦艦「大和」を4艦建造しようとしたのと同じ姉妹艦思想であった。明治海軍の主力艦、命の綱であった。 同じイギリス製であるが、作られた造船所が違い途中で改善もされたのか細部でビミョーに異なるが主砲、副砲、その他主要諸元は同じである。 戦艦三笠だと、 排水量:15.140トン 最大速度:18ノット 全長:131.7m 航続距離:7000海里 全巾:23.2m 機関:15.000馬力(石炭を焚いて2軸を廻す。イギリスからインポートした無煙炭が最良であった) 乗員:860名 兵装は、 主砲:40口径30.5センチ連装砲2基:4門 副砲:40口径15.2センチ単装砲:14門 対水雷艇砲:40口径7.6センチ単装砲:20門 47ミリ単装砲:16基 魚雷発射管:45センチ発射管:4門(水面下に装備) 衝角:(砲では決着がつかないと艦の舳先を敵艦のトテッパラにぶつける、そのための角がついていた。水面下のものでこの模型では見えない。) ←弩級戦艦進水 イギリスが誇る世界最大の戦艦「ドレッドノート」が2月10日、ポーツマス軍港で進水した。全長161メートル、最大速力21・28ノット。30センチ砲10門を備え、防御甲板も厚く、日米仏などの海軍を一挙に旧式化させてしまった。世界はこれ以後、大艦巨砲時代に突入。「超弩(ど)級」という言葉はこの艦に由来する(朝日クロニクル『20世紀』より。キャプションも) 米ポーツマス海軍工廠は日露講和会議の会場となったところで知られるが(1905年8月〜)、舞鶴の姉妹都市は英ポーツマスでこちらでは世界が驚嘆したドレッドノートが秘密裏に建艦突貫工事の最中、あるいは設計中であったのであろうか。 現在で言えばデシダル電子機器のような発達速度で軍艦は進化していた。戦艦ドレッドノート(30.5センチ主砲10門、21ノット)の進水は1906(明治39)年、日本海海戦の経験から設計されたというが、片舷側ならこれまでの2倍、艦首方向なら4倍、艦尾方向なら3倍の砲力。たったの1艦でこれだけの用を果たす。三笠などはその直前型、準 なお戦艦三笠は実物が横須賀市に三笠記念艦として保存されている。 作戦を立てる者からすれば、できる限り同型艦であって欲しい。互いに性能が違えば全体の艦隊行動はもっとも非力な艦に合わさざるを得ない。どんな最新艦も持てる力を発揮できず存在意味を失う。速力が違えば最も遅いものに、砲が違えば射程距離がもっとも短いものに、あわせた制約された作戦が要求される。 最新鋭の同型艦を最低2艦のペアでほしい、人間と同じで1艦のみでは完全体になれない、漁舟は必ず舟2艘が組を組む、相手の舟を「やうち舟」と呼び、どんな危険でもけっして見捨てない同士であった、プールへ入る子供が二人で組を組む、何と言ったかわすれたが、ああした危険を伴う場合はみな同じで、艦隊行動も基礎単位は2。したがってその倍数の4艦、できれば8艦、16艦と欲しい。 今でいえば、最新の10万トン原子力空母(2兆円以上もするそうである)をムレのセットで買おうとするような話である、貧国はとてもとても買えないので何とか4艦をムリにムリしてさらにムリして揃えたわけである。 原子力空母はアメリカには11隻もあるそうで、佐世保や横須賀など母港にしているものもあったと記憶するが、オバマ大統領閣下、ぜひ軍港舞鶴にも1隻だけでも配備願えないでしょうか、ついでに原爆搭載の原潜も頼めないでしょうか、原潜だけ作ればいいというものではなく、これも空母以上に高くつくのではなかろうか、しかしたぶん多くの公務員さんや政治屋さんのアメリカ提燈もちどもが泣いて大喜び感謝感謝で提燈行列でもすることは確か、かも… 核はなくしましょう、はノーベル平和賞もの。自衛隊など軍備もなくしましょう、は次の課題か。そんな悪魔も震える物騒なものがなければ安全に生きられないのか、人間さまともあろう賢いはずの生き物にはその程度の知能しかない情けないものか、それでは同士討ちで亡ぶぞ。今われわれはそうした時代に生きているのであって、ここは遠い過去のお話を書いているだけ、時代が違い、人類のかかえる課題が違うことを間違えないようにして下さい。本当は夢と希望をもって政治は行うもの、それが政治家。夢もなければチボーもない「現実政治」などは本当は政治ではなくビジネスの話、商人とか政治屋と呼ぶ、これでは未来は来ない。 バルチック艦隊の主力も竣工したての「三笠」よりも新しいピカピカ最新鋭最強の4姉妹艦であった。最後の艦「オリョール」が建造遅れのため、それが出来るのを待って明治37年10月15日にバルト海のリバウ軍港を出た。13.500トン、18ノット、12インチ砲×4門、主要鋼装14.5インチ。旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」「アレクサンドル三世」「ボロジノ」「オリョール」。 ←海戦後ロシア戦艦アリヨール上甲板−下瀬火薬の威力による(『画報近代百年史3』より) ずっとのちの第三火薬廠の工員が世界一と誇る下瀬火薬と伊集院信管も効果が大きかった。 全部沈んでしまったが、ただ1隻「オリョール」は「アリヨール」(鷲)とも書かれるが、オの口型でアと発音するのでこんなことになる、ボカスカに撃たれて沈没寸前に降伏し捕獲された、しかし佐世保までの曳航が難しく、近距離の舞鶴へ回航された。市史は、 〈 五月三十日、降伏戦艦「アリヨール」が舞鶴軍港に回航されて来たが、これによって戦勝の報にわきたっていた市民は、実際にその戦果を目のあたりに見ることが出来たので、後々まで市民の語り草となった。なお同艦は、一ヵ月余り傷ついた巨体を舞鶴軍港に浮かべていたが、七月九日、日本海軍の艦籍に編入されて、「石見」と改め、呉軍港で修理のため舞鶴を去った。 また、当時舞鶴の海軍病院には、日本将兵戦傷者二一人、病気療養者六一人、計八二人が入院加療を受けていたが、ロシア兵捕虜のうち三一人も合わせ治療させることになった。 〉 『中舞鶴校百年誌』は、 〈 日本海海戦で捕獲されたロシアの軍艦アリョール(ロシア語ではオリョール)が舞鶴に回航され測候所(旧海洋気象台測候課)の西側の海岸につながれました。砲撃でハチの巣のようになっていましたな。捕虜は一か月ほど舞鶴におり、九州へ移されたとのことです。」(写真415) 重複するが今少しく大谷修二氏(前地方総監部経理部長)編集の記事を借用して当時を偲んでみよう。 明治38年5月27日、日本海で、日露両艦隊の撃ち合う音は、経ヶ崎あたりで聞えたという。 明治38年5月30日午後一時頃、街にラッパが鳴り響いて、捕獲されたロンアの軍艦が入って来た。子供の時、人々のあとについていって、これを見た記憶のある古老の話では、アリョールと、もう一杯、バーャンであったとのことである。 軍艦アリョールは排水噸一三、五一六噸、十二吋砲四門、六吋砲十二門、その他小口径砲四十六門、速力十八ノットという優秀艦で、第一戦艦隊スウオーロフ、アレクサンドルV、ボロジノに続く四番艦であった。 当日、アリョールは、軍艦朝日に護衛されて、舞鶴に入港して来た。航側や煙突には、大きな穴があけられ、鉄板はめくれ、上甲板はめちゃめちゃで戦闘の激しさと、敗戦のみじめさをさらしていた。引続いて捕虜が上陸し、海兵団に収容された。また、傷病兵は、海軍病院に入院した。これらの情景を、町民は、身のひきしまる気持で見守った。 おって町村から沢山の花束を贈って、傷病のロシア傷兵を慰めた。 アリョールは、これを修復し、日本艦籍に入って「石見」と名を改めた。 ついでにふるさとの地名を冠した戦艦『丹後』も捕獲艦であり舞鶴で修理された事実を知らない人々も多いことと思い老生の調査した範囲を紹介しておく。 福井静夫箸「海軍艦艇史」に『丹後』は日露戦争で旅順港内に着底していた『ポルタワ』を明治38年8月29日舞鶴に曳航し修理を完了し『丹後』と命名し軍艦籍に編入されていたが、大正3〜5年の第一次大戦に際し、青島封鎖作戦に参加、大正5年4月にはロシアに有償譲渡されたと述べられているところをみると郷士との馴染は短かかったのであろう。(写真416) 〉 バルチック艦隊もよく戦っている、何も弱かったわけではない。旅順艦隊とは国籍が違うのでないかと思えたほど実に勇敢に戦う。その姿に東郷が深い敬意を抱いたと言っているのだから本当である。この頃の軍人は後の退廃した大本営のような、平成の頭がよすぎて憂国の国士きどりのクソセンセどものような大ウソは決して言わない、言ったことはみな本当である。東郷艦隊がすごすぎたのである。 アリヨールの被弾痕を調べてみると、12インチ砲弾が12、8インチ砲弾が7、6インチ砲弾22、口径不明23もあった。アリヨールは艦隊の陰の位置にあったので、被弾数は少なく、前面にあった他の沈没した戦艦はこの2倍はあっただろうと推定されている。現在はコンピューターとレーダーで百発百中だが、この当時は命中率は2〜3%もあれば上等、ピッチング・ローリングと大揺れの波高しの洋上で懸命に走っている船から相手も走っている船をめがけて撃ってもそう当たるものでなかった。何時間も撃ち合ってもお互い命中弾がないということもあった。しかしここから計算すれば東郷艦隊は12%を越えていたといわれる。超名人であった。お陰で1艦で6艦〜4艦分の活躍をしたわけで、単純計算では兵力が上回ったと考えられるバルチック艦隊は実際は5倍程度の実質実力を持った敵艦隊と海戦を交えたのと同じこととなった。 次へ 関連情報「日清戦争時代の軍艦名を冠した通り名」「舞鶴要塞」 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 『大海軍を想う』『海の史劇』『坂の上の雲』 その他たくさん |
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