丹後の地名








京都府舞鶴市浜

海軍城下町の
戦艦地名
(舞鶴軍港の浜地区の道路名)


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黄海海戦
黄海海戦 旅順にいたロシア太平洋艦隊は、8月10日、ウラジオストックへ回航しようとして大挙出動、港口を封鎖していた連合艦隊と交戦した。写真は左から「敷島」「富士」「朝日」旗艦「三笠」の戦艦4隻がロシア艦隊と並行砲戦中のもの。「三笠」が「朝日」と重なっている。ロシア艦隊は港内にもどり、日本側の勝利に(朝日クロニクル『20世紀』より、キャプションも)


 明治37(1904)年8月10日は日本にとってはもっともヤバイつらい場面ではなかったかと思う。日本には戦艦は写真のこの4艦だけしかなかった。対戦者は旅順艦隊(ロシア太平洋艦隊)の戦艦6+重巡3であった。旅順艦隊はバルチック艦隊よりも新鋭艦が多く半分は外国製の最新設計艦であった。満洲にはシベリア鉄道でぞくぞくと巨大な陸軍が送られ、帝政ロシアは極東を本気で南下しようとする気配を示していた。ロシアが満州に注いだカネは膨大なもので、「南下の気配」とか言ったものでなく、ロシアの国運を賭けたものであった。

現在でいえば沖縄駐留の米軍と思えばいいか。アメリカとすれば本気でアジア支配するために大金かけてヒミツで核も置いて日本国内に最新鋭の大軍を置いているのだが、しかし大方の日本国民はそうは考えてはいない。日本とアジアを守るため、平和と安定のための抑止力、沖縄その他に米軍がいてくれるので心強い、少しくらいの騒音くらい何だ。アメリカによる、アメリカの、日本のための在日米軍基地。ナイーブな幼稚知能ではなかろうか。
旅順や満洲に東亜の平和と安定ため露軍がいてくれて心強い、これは抑止のためだ、わるいのは中国と朝鮮。ロシアによる、ロシアの、日本のための旅順基地、平成日本人のようには明治日本人は考えもしなかった。戦争するかどうかは別としてもこれが正常な独立日本の反応だろうと思う、もしあの大基地がいるほどに本当にヤバイのなら国連軍を置いてもらえばよかろう、国内に主権の及ばない外国軍事基地があるということは独立が主権が犯されている状態そのもの属国そのものの姿ではなかろうか。どこかが攻めてくるという以前の、もうすでに攻められて国土の一部を取られて、知能すら大部分を占領されている状態なのではなかろうか。
当時と現在では国民がまるで違ってしまったような話で、信じられないかも知れない、明治日本人ならば沖縄などは武力解放も辞さずを覚悟をしたのではなかろうか。その覚悟も性根もないようなら何をやらかしたところでたいしたものであるはずもなく呆けた三流国にとどまろう。米軍基地移転費用の何百億かを出せとぬかす、よくぞここまでなめられたものである。属国あるいは三流国、あるいは先進国とかいわれる、どれが正しい評価であろうか、国歌を歌い国旗を掲げて、国民に向かっては偉そうにしているが、アメリカには何も言わない、何ぬかしくさると皆が横向くのも当たり前かも。


 ウラジオ艦隊捜索のため別行動中で日本には重巡艦隊も大部分がいない。ここにいたのは戦艦4+重巡2だけ。絶対数が少ない上にこの頃はまだ砲撃未熟で、砲撃がうまい旅順艦隊とは差がなく、水雷隊にも命かける者がなくただウロウロしているだけ。もし差し違える気でロシアが来て、日本戦艦の2隻でも沈めて、もしその気なればそれも可能な戦力であった、いや沈めなくとも、とにかく残艦がウラジオへ行けば、もう日本の負けである。ウラジオ港の封鎖は旅順以上に格段に困難。無傷のバルチック艦隊が1万2千海里を回航してくる。連合艦隊は倍以上の空前の大敵に挟み撃ちされる、こうなればどんな大将も勝てない。海上権を奪われれば満洲の陸軍は日干しになる。
彼我の距離は5千メートルで撃ち合う。軍配はどちらともつきかねた、どちらかといえば日本に分が悪い、砲弾がカラになるまで撃ち合っても勝負はつくまい、日が落ちていた、このまま日が暮れて夜の闇にまぎれてウラジオへ逃げればロシアの勝ち、旅順艦隊の大軍をここで逃せばすべてもう終わりだ、連合艦隊小軍が血相変えて追っているのである、全体とすればどう考えても日本にはもう勝ち目はなかった。
が、が、である。有名な「運命の一弾」の奇跡が日本に味方した。最後の最後まで勝負は捨ててはならぬもの−



 この時点の日本陸軍13個師団・ロシア陸軍70個師団。日本海軍25万8千トン・ロシア海軍51万トン。いまだ日本は軽工業国のド貧乏国で、粗鋼の生産量は1千トン、ロシア221万トン、アメリカ1035万トン、イギリス498万トン。銑鉄は2万1千トン、ロシア293万2千トン、アメリカ1401万1千トン、イギリス910万3千トン(明治33年)。平均寿命男44・女45歳。人口4436万人。
ケタが違うのである。1ケタでなく2ケタ3ケタも違う。話にならない絶対日本が負ける、は世界の常識であった。日本の当時の指導者達も勝つなどとは当然にも考えてもいなかった。素人が見ても勝てるワケがない、アリが像に勝てるか、カエルとウシ、ネズミとネコの大差がある、論外に目出度い連中以外は誰も思いもしなかった。短期戦で最初だけでも五分五分まで、できたら四分六分までもって行きたい、そこで講和、戦略はそれ以外にはない、勝ち逃げだがこれも難しい、考えに考えて優秀な大事な期待の作戦家たちが考えすぎて、戦争が始まる前にそのために何人も何人も疲れて死んでしまった。



しかしケタオチ超貧国のベトナムやアフガンが超大国アメリカに勝つように、まったくできないことではなかろう…、もし皆が命懸けて粘り抜きもし全世界の応援がありもし運がよければ…。もしもしもし…そんな民族解放戦争的な性格が強く持てればであった。しかしそう都合良くムシの良い方向へ持っていけるものであろうか。向けつづけられるものであろうか。



連合艦隊
佐世保より旅順に向う連合艦隊 1904年(明治37年)2月6日、手前の軍艦は朝日。(『画報近代百年史3』より。キャプションも)


守るも攻めるも鋼鉄(くろがね)の 浮かべる城ぞ頼みなる …

石炭(いわき)(けむり)はわたつみの (たつ)かとばかり(なび)くなり 弾丸(たま)うつ響きは(いかずち)の 声かとばかりどよむなり…


舞鶴でもよく知られる「軍艦行進曲(軍艦マーチ)」。パチンコ店の歌と思っている人も多かろう、勇ましい曲で、クソー負けるかの気にさせられて、とうとうサイフが空になった方もあるかも知れない。(web上から無断でコピーしたものです。著作権など問題がありましたら、即削除します。)

立派な教育者さまはこうしたものには痛く大感動をするものらしくて舞鶴の小学校ではマーチングバンドを半強制でやらせているところもけっこうあるとか、ド幸せな頭脳だのぉ、考えすぎて死ぬことなどは決してなかろうのぉ、アンさんが勝手に好きになるのはよいが、それを児童に押しつけるなよ、超時代遅れのお節介男だのぉ…(そんなブツクサの不平を父兄から聞くことがあるが、市教委のやっている実態が公表されず市民からは見えない、いっぱい問題があろうに議会で論じられたことがない、さすがに舞鶴軍港の市民には何の役にもたたない議会と教育委員会、よほどに自信がないのかヒミツでコソコソのようで検索かけてもでてこない、何でもヒミツにしくさる、スポンサーに隠れてコソコソしくさって、そんなことならオマエらには給料は払わんぞ、自信がない事業はすぐ廃止しろ、廃止しても誰も困らず、児童は大喜び、こんな結構はなかろう。前前市長が思いつきで始めたような目出度い話で計画性も一貫性も他施策との整合性もない行き当たりばったりで害の方が多いとか、与保呂校ではやっておらず(カシコイ)、私も詳細は知らない。)この時代あたりより多少とも理性に基づくものから、思い上がったバカの思いつきへ、どこぞの市政と市民は転落していったと私は見ている。さてさてその行き着く先がリコウなものであるはずもなく、病院つぶし、そして…

↑ この写真は開戦直前。これから1年のち、1年間の休む間もない戦いの連続で傷だらけになった三笠はじめ連合艦隊全艦船は大修理を終えて新品同様になった、さあいよいよバルチック艦隊を迎え撃つ、1艦たりともウラジオへやらせない。連合艦隊は再度佐世保軍港を出撃していく。狭い水道の両岸の村々では大勢の小学生達が出て日の丸の小旗を懸命に振って見送ってくれた。その答礼に「三笠」艦上の軍楽隊は、「軍艦行進曲」を演奏し続けた。



 6日に国交断絶、外交官は引き上げつつあった。巨大な勝ち目のない敵に立ち向かうにはどうするか、お家芸の不意打ち奇襲でしょう。正々堂々とやりたくとも、まともにやり合えば勝てない以上は貧乏国には汚い手しかあり得ない。のちの真珠湾も同じで、旅順港も奇襲、宣戦布告に先立つ海軍の魚雷奇襲で日露戦争の幕が落ちた。まず奇襲、そして宣戦、これが日本流、真珠湾と同じで長く問題を残した。(真珠湾は通説では大使館の不手際で宣戦布告が遅れたというハナシになっている、宣戦布告の超重要文書が係官がなれてなく不本意にも攻撃よりも遅れたなどは子供だましの言い訳にもならない、現代史家よしっかりしてくれ)
駆逐艦といってもこの当時は400トンもない小艦で、今のミサイル艇より少し大きく、掃海艇より小さい。これに魚雷2本を積んで夜陰の乗じて敵軍港内に潜入する。真っ暗闇での作業で、魚雷を発射すると同時に一目散に逃げて帰る。
上の写真はその前のもので、これら主力艦の先に駆逐艦隊がいると思われる。9日零時28分、旅順口に忍び込んだ駆逐艦「白雲」(イギリス製で330トン、舞鶴軍港所属艦)の放った魚雷が戦艦「ツェザレウィッチ」を撃った、続いて戦艦「レトウィザン」と軽巡「パルラーダー」を雷撃。停泊中のロシア全艦は無警戒で防雷網も降ろしていなかった。真珠湾は日曜の早朝。ここはマリア祭の当夜であった。10日に宣戦布告。
クリーンハンドの原則というものがあり、自分の手が汚れているのに、ひとの手が汚れていると非難する資格がないとされる。自分の過去は棚上げして他国をクソミソに非難するのは見苦しい、条約違反とか大げさに言う資格は日本にはあまりない。

ロシア極東艦隊主力
↑日露開戦直前、旅順港内のロシア極東艦隊主力(『画報近代百年史3』より。)


          


 宮津藩は7万石、田辺藩はちょうど半分の3万5千石であった。舞鶴鎮守府開庁は明治34(1901)年、寒村の倉梯村の海辺低地も埋め立て海軍「城下町」が建設されていく。
現在の浜地区:照れながらの自称「北都の雄」はそうした帝国海軍基地と同時に誕生した双生児であった。しかし脚光を浴びたのは日本海波高しの日露戦争期のわずかな間だけで、その後は横須賀や呉軍港に主軸は移る。戦艦三笠のようなその時代の新鋭主力艦が配備されたことはこれ以後には一切なく、4軍港の1つといっても脇役的予備役的なものへ落ちていく。
軍事予算に頼る限りは舞鶴には未来がない。細々と喰っていくのならそれでもいいが発展はあり得まい。ほかに生きる道を懸命に探さねばならないのだが、赤レンガ連中どもにそんな本気の芸が可能だろうか…
米1キロ400円くらい、1升が1.42キロとすれば、3万5千石は20億円くらいか、カワイイ台所の城下町だったが、海軍城下は2ケタから3ケタは違う城下町ではなかろうか。

 軍都舞鶴が最もはなやかなりし日露戦争前夜、その誕生時の化石が「城下町」に残されている。そうした物もやはり地名に残される。地名はウソをつかない歴史の証言者ようである。残されているというのか現在も生きている。生きた化石である。

舞鶴軍港へ入港する軍艦
入港する艦隊(舞鶴市・明治末年) 軍港都市舞鶴を象徴する一大風景である。(『目で見る舞鶴・宮津・丹後の100年』より。キャプションも)


 何通りなのか名もない通りが多くて、案内の説明に困るが、海軍さんは(海軍追従者か誰が命名者かわからないが)小さな通りでも道路名を付けた。どんな名かといえば、

 市史によれば、
 〈 新市街の命名 新市街工事の完成に伴い、明治三十五年十一月、倉梯村大字浜を中心に新市街の通り名が付けられた。市街地は海軍都にふさわしく戦艦、巡洋艦など艦種別、建造年代順に軍艦の名が用いられ、中心部を条に分けた。
 寺川、与保呂川間の南北の通りは西から寺川沿いを八雲通り、続いて一条から九条に分けた。
 東西の通りを北から
   (海岸) 八重山 富士 (大門) 八島 敷島 朝日 初瀬 三笠
 与保呂川、祖母谷川間を南北に、西から
   (養老) 吾妻 磐手 出雲 浪速
 東西に
   千早
 祖母谷川から市場間を南北に、西から
   千歳 高千穂 厳島 松島 橋立 高砂 宮古 曙
 寺川以西は南北に、東から
   千代田 和泉 秋津洲 須磨 明石 筑波
 東西に
    武蔵 高雄
 北吸に
    比叡 天竜 葛城 大和
と名付けた。
   (注)カッコ内は艦艇名でないことを示す。大門通りとは鎮守府裏門(東門)からの通りの意味である。  〉 


「余部鎮守府付近新市街地平図面」
↑新市街ができる以前の浜地区

↓現在の東舞鶴浜地区の市街地
現在の市街地(東舞鶴浜)

浜地区の通り名
↑地図は観光パンフなどからのコピーです。



舞鶴鎮守府(余部下)
舞鶴鎮守府(舞鶴市・明治末期) 明治34年(1901)10月に開庁。日本で4番目の軍港として鎮守府・海軍工廠などの軍関係の中枢施設が置かれ、軍港都市舞鶴としての基礎を築いた。(『目で見る舞鶴・宮津・丹後の100年』より。キャプションも)

舞鶴鎮守府跡(昭和38年)
旧舞鶴鎮守府司令部の建物 明治34年10月1日舞鶴鎮守府が開庁し、日本で第4番目の軍港が発足した。初代鎮守府司令長官は東郷平八郎中将であった。司令部の建物は、現在の中舞鶴郵便局北側の山の上にあり、軍港や海軍の諸施設を見渡すことができた。第二次世界大戦後は、昭和27年6月まで連合軍に接収されていた。その後、大阪財務部舞鶴出張所の管理下に移ったが、建物が老朽化して危険になったので同39年11月に解体された。(『ふるさと今昔写真集』より。キャプションも)


場所は中舞鶴郵便局の背後の岡の上であった。
↓現在の様子。
舞鶴鎮守府の場所。現在の様子

碁盤の目

鎮守府のお膝元、今の中舞鶴はもとより、その東側に連なる東舞鶴の市街地も整備されていった。

 正南北ではなく少し北北西側に振れて、1丁間隔の碁盤の目。ちょっと古代の条里制地割りを見るような感動もの。こじんまりとしているが、この方法以外に都市づくりはあるのだろうか。両時代とも新しい国作りの情熱に燃えていたように感じられる。もちろん中国の古代都市作りから学んだもの。

新舞鶴全景(東舞鶴市街地)
新舞鶴全景(舞鶴市・昭和初期) 舞鶴鎮守府開設以後、軍港都市として発展をみる舞鶴。市街地が広がる東舞鶴の全景。(『目で見る舞鶴・宮津・丹後の100年』より。キャプションも)

ぜんぜん全景ではない、半分も写ってないが、四面山から東側を写したものと思われる。
何やら古代のミヤコを彷彿させられたりはしませんか?
同じ位置からこれらの現在の姿を写したいと考えているがいつになることやら…

 別に特に自慢できるようなものもない、大勢のカンコー客さんどうぞ来て見て下さいと案内できるような華やかな所もない、ムリしてグルメと言って肉ジャガ(肉ジャガがグルメなの?)や明治文明と言って赤レンガ軍用倉庫(レンガ建物はチープの象徴でないの、まして軍用倉庫などは決して文化とは言わないと思う、どこか外国の倉庫モデルを雨と湿気の多い舞鶴向けに改良もせぬままに、そのまま持ち込んでここに建てただけのもの、何も舞鶴の風土や歴史とは関係がないまったくの外来建築、舞鶴文化とは何も関係がない、原発を若狭文化とか郷土の誇りなどとは決して言わない、いやいや受け入れただけのものである、若狭の自治体がこんなものを自分のゼニ使って宣伝したりはしない、宣伝したければ企業や国が勝手にやればいい。海軍軍用倉庫群は舞鶴の郷土の文化とは繋がりがなく、目出度い連中がバカ騒ぎするまでは長くうち捨てられていたし、体育館を建てるために2つの赤レンガ倉庫を破壊した。これが舞鶴の誇りといえるか?こんな物がいいのなら、本場へ行けば千倍も万倍ももっともっと「いいもの」がゴロゴロあろう、舞鶴で使う建築物なら舞鶴の風土や文化に舞鶴の知恵を絞って作り替えていかにも舞鶴だなと思えるようであっていてこそ意味があるのであって、そこが郷土の誇りとなるミソであろう、どこかよその物をそのままで〜すでは、それは舞鶴の郷土の誇りとは呼べまい、よそのものでしかなかろう、いくら高価なベンツが舞鶴にあったとしてもそのベンツ自体は舞鶴の郷土の誇りではあるまい、そんな物を郷土の誇りなどとは言うまい、何かまともに考える知性はお節介連中にはあるのか、海軍や国鉄が自分のゼニで宣伝するのなら勝手にやればいいが、なぜに自治体が税金でそんなバカをするのか。所詮は過去の亡霊、一過性流行程度の人気しか保てまい、それに税金をン十億円、ソロバンもできないのか、正気か?)などを売り込んでいる様子、ムリにムリして客が来るや来ないやも知れぬ観光開発などは夕張さんへトクと見習いにでも行ってくればよろしかろうが、町の滅びへの最も手頃な最短コースのお手本なのではなかろうか。
たぶん皆さんの町の方がいいでしょうが、狭い所ではありますが、丁寧に一つ一つに名が付けられている、歴史に興味のある方には、こんなひっそりがいいかも。

 東舞鶴市街地の主要部分の南北には半丁間隔で道路に※条と古代の名が付けられた。なぜ軍艦名を付けなかったのかはわからない。
あるいは京の都のマネかも、田舎者の京の都コンプレックスかも。しかし京の都は条と条の間がずいぶんと広くて、10倍以上もあり、その間には何本も通りがある。ここは50メートル置いて次の条になる。田舎者は腰抜かすほどにレベルの格差におどろきカルチャー・ショックを受ける。我が町はみじめだった。今まで知らなかった。ああ恥ずかしいああ情けないああみじめ。
そんなカルチャー・ショックも受けることも目が覚めることもなかったド幸せなどうしょうもないド田舎者が「北都の雄」などと大笑いされそうなことを平気で言うのだろうか。



   


 西から東へ
「一条通り」
二条通り
三条通り」東舞鶴駅前より海岸まで。

新舞鶴駅(明治末年)
新舞鶴駅(舞鶴市・明治末年) 舞鶴軍港への鉄道敷設のため、明治37年(1904)に福知山〜新舞鶴間を結ぶ舞鶴線が開設された。現在の東舞鶴駅。

三条通り(大正12年)
三条通り(舞鶴市・大正12年) 三条通り八島から海岸方向に向かって撮られた写真。新舞鶴駅の開設とともに商店街に発展していく。

新舞鶴駅(大正末年)
↑新舞鶴駅前(舞鶴市・大正末年) 駅前を整列して行進する風景。

三条通り(昭和初期)
↑昭和初期の三条通り(京都府舞鶴市浜初瀬通り(舞鶴市・昭和初期) 通りを往来する人びと、通りの両側に並ぶ商店が賑わいを感じさせる。
いずれも(『目で見る舞鶴・宮津・丹後の100年』より。キャプションも)


 鉄道網整備は富国強兵策の最重点課題カナメだった。多くの民間鉄道を買収して政府の手に握る(国有化法は明治39年)。日露戦争の頃はまだ国鉄がなく兵隊送るのすらも大変だった、戦争物資の輸送などには頭がまわらない政府だった、しかし国鉄となれば鉄道職員までが公務員風を吹かせて偉そうにはしくさる、仕事はまったくもってさらさん、人件費は超高い、市民目線のサービス改善はありえない、せんでもよいチンプンカンしかさらさんし利権で政治屋どもとグルになる、などなどどこかの職員どもと同じ弊害がでるが、戦争はぐんとしやすくなる、というかこれがなければ戦争もできない。またこれを担保にして戦費も外債に頼ろうとした。
朝鮮にも鉄道は整備されていず、南満洲はロシアが建設していたが広軌だった。

 明治37年、日露戦争の年に新舞鶴(東舞鶴)までが官設で開設されたという。日本一の急勾配と聞いたが、本当かどうか、突貫工事で白鳥トンネルを抜いて福知山まで通った泥縄鉄道であった。新舞鶴から鎮守府内への引き込み線(のちの中舞鶴線)も開設した。三宅神社の下に「北吸駅」(東門駅)があったが、高校生の頃、私は一度だけここまで乗ったことがある。
日清戦争のころは、鉄道がなく、兵隊は歩いたそうである。充員召集の歩兵第七聯隊は、金沢から敦賀まで160キロを陸行せよとの旅団命令を受領、北陸高速を走ってもイヤになるほどの距離であるが、あそこを4〜5日かけて歩いた、背嚢は5貫目、さらに鉄砲や弾丸を装備してである、暑かったそうで、日射病患者1259名、死者6名。鉄道がなければ戦争はできない。しかし派兵先のアジア諸国は鉄道などはない、歩兵というくらいだから、広大なアジアの地を歩いて歩いて歩き尽くした。平の引揚援護局から東舞鶴駅まで歩いたんですか、大変だったでしょうね、などとも驚かれる方も多いが、あれくらいの距離は問題でない。

昭和38年ごろの中舞鶴線
鉄道引込線 舞鶴線が開通したのは、明治三十七年である。同時に、「新舞鶴と余部」「舞鶴と海舞鶴」を結ぶ引込線も開通。また、大正十三年には、新舞鶴と東港の海岸を結ぶ引込線も開通した。
海軍専用の中舞鶴線 新舞鶴と余部間の引込線(中舞鶴線)は、当初、新舞鶴駅(現・東舞鶴駅)と海軍施設を結ぶ専用路線として敷設されたもので、軍港引込線といわれた。しかし、大正4年に軍港域内の一般通行が、引込線を利用することに限定されたことから、人員の輸送にも活躍。大正8年に鉄道省に移管され、東門駅と中舞鶴駅も設置された。戦後は、バスや自家用車の普及で、利用者は激減。昭和47年に廃止され、自転車と歩行者の専用道に生まれ変わった。(『ふるさと今昔写真集』より、キャプションも)



ロシアは、
シベリア鉄道風景
シベリア鉄道輸送途次の一風景「グラフィック」所載 停車時間中プラットフォーム上でのリクリエーション(『画報近代百年史3』より、キャプションも)
 大きな毛皮の帽子に長いコート、馬を連れている。コサック騎兵だ。平原全体が動くほどにも見える大部隊で長い槍をかまえて一斉突撃してくる。貧相な日本騎兵は彼らに面と向かっては勝ち目はなかった。大砲や戦車が登場するまでは無敵、強いロシアの象徴。

毛皮の帽子はロシアン・ファーハットというが、私の老師は黒貂のファーを被っておられた。黒貂ファーはロシアでも皇族しか被れなかったもの、もう毛もはげ落ちて地が出てしまい、何代も前のものならか黒くない肌色の黒貂ファーだったが、偉いサンと間違われて、こんな物をプレゼントされたという話であった。-40℃の世界ではこれナシでは過ごせない。アミダに被ったらあきません、しっかりとおデコまで被っていないと、前頭葉が一瞬に凍りついてしまいます、ここは人間の理性の座ですから、ここが一度凍るともう元へは戻せません、使い物にならないアホになってしまいます。ということであった。そんなことで私はファーを目深に被るクセがついてしまったのだけれども、これ被ってると何となくアバンチュールな雰囲気になるのか、女性にはどえらくもてる。

そんなことはどうでもよろしいが、氷結したバイカル湖上に線路を敷き、単線のシベリア鉄道では回送できなくなった車両は焼き払いながら、1日9列車だったか、後続部隊が続々到着。輸送に万全を期していた。

ロシアは何となくアジア的なところが見られる。ロシアは半分アジアだと思われるのを嫌がるクソ連中が当時の上層部には多かった、アタシらはヨーロッパなんよ、と思われたいようであった、そうしたアホげたコンプレックスから感情的に東洋を根拠もなくバカにして日本兵三人にロシア兵一人でよいとまで信じていた。皇帝は日本を猿と呼んでいた。
中国や朝鮮と同じだと思われるのを嫌がって日本人は西洋人の一種だと思われたいどこぞの国のタコ連中と同じで、この種の馬鹿げた劣等感を持っていたようである。いまだ中国人や朝鮮人を人とも思わず日本は神国、正義の戦争だったなどと言いたいのはこのコンプレックスだろう。猿呼ばわりさらすロシア皇帝と似た程度のアタマか。
この程度の三流以下の人物が絶対権力を持ち、その顔色だけしかみていない下らぬ取り巻きどもと軍と秘密警察で強い国家を動かす。国会なく言論なくいっさいの批判は許さない。帝政ロシアの話で、××低国の話ではない。これがどれほど国民にとり、侵略された周辺の国々にとっておそろしいほどに困ったものかは低国臣民ならだいたい想像できよう。


世界のどこにも誰一人として帝政ロシアに味方するものはなかった。全世界が日本に同情し応援してくれていた。全世界が帝政ロシアの敵であり、帝政ロシアは内部からも外部からも敵に分厚く包囲されていた、レーニンに言わせれば、地球を締め上げる世界帝国主義勢力の「鉄の鎖の最も弱い輪」になっていた。コサック騎兵もかつて侵略された周辺地域(ウクライナとかドン河流域)から召集された者たち、彼らとて強い反感を持ちながらの参戦であった。日本が一人戦っていたのではなかった。ガンバレニッポン、どうか勝ってくれニッポンであった。
しかしすでにその日本も「鉄の鎖」の一部でしかなくなっており、世界は日本の大勝も望んでいなかった、しかし大勝してしまったような、そして…それは勉強していただくとして…、
ついでながらベトナム戦争の頃の反戦歌「花はどこへ行った」はもともとはそうしたうち続く戦争に巻き込まれていったコサック地方の子守唄をヒントに作られたという。輪廻観があって愚かをまた繰り返す、そうした東洋的世界観があるが、全世界の多くのシンガーやスポーツ選手までがこの曲を取り上げて平和を訴えてきた。コロブチカ(行商人)も彼らの曲である。

さて一方、世界の流れからはいつも取り残され、そのとんでもない時代チンプンカンとそれにも気づかない無神経な島国根性と皇国は世界一信仰を発揮する伝統をもつが、その日本は、
輜重兵

輜重兵
↑輜重輸卒が兵隊ならば電信柱に花が咲く 日清戦争はもっぱら軍夫の手に頼ったが、日露戦争から輜重兵が活躍し始めた。しかしかれらは兵隊として尊重されず一段低いものとされた。「絵入ロンドン新聞」所載(『画報近代百年史3』より、キャプションも)。

 これらを見比べただけでも勝ち目があるとは思えないが、日清戦争では人力車夫、荷担人夫、船頭たちが徴発され軍の輸送に使われた。輜重は荷物のことだが、荷物を輸送する兵隊を輜重兵と呼ぶ、日露戦争からであったという。しかしそれは兵隊とは見ていなかった。死んでも官報にも載らず、戦死者にもカウントされることもなかった。量は兵隊の2割ほどもいて、彼らなくしては動けないのだが、軍事思想として、いかに補給を軽視していたか、近代戦は補給戦といわれるが、補給軽視は日本軍の伝統のようなもの、先の大戦では戦死の死因の6・7割が餓死であったともいわれる。戦死といわれるが大半は敵のタマに当たって死んだのではない、近代以前の脳髄が産み出した戦争の犠牲者であった。米一合と罐詰缶に一杯だけの塩を渡され、これで終わりだ、もう死ぬまで補給はない、各自の大和魂で足らずは補ってくれ。食糧がないくらいだから武器などあろうはずもない。「軍隊はアホですから」の老師の言葉を思い起こすが、何も軍だけの話ではない、日本人の妙な知能的欠陥ではなかろうか。今も食糧つくらない国、病院つぶす町、近代以前、いやいや人間以前のアホザルどもばかり。ベトナムは南部を武力解放すると決めるとただちに「ホーチミン・ルート」建設に着手している、58万回といわれ136万トンと推定されている米軍の絨毯猛爆撃の中、ジャングルを開いて本道や脇道枝道、おとり道などがネットとしてその大半を隣国ラオス国内に建設していった。石油パイプラインも建設する。総延長2万`にもなった、サイゴンの直前まで地球を半周する長さである。米軍は猛毒ダイオキシンを国際的に禁じられているにもかかわらず撒いた、B52は一日36回も同じ箇所を爆撃した、30%は不発弾といわれ、その処理にはまだ数百年かかるといわれる。ラオスはアメリカの交戦国ではないしそこには多数のラオス人が生活している、強い帝国の味方の属国はもとより安保理も何もしなかったと思う知らん顔、どこかの国の砲撃の何億倍もの大犯罪行為の中でも建設していった。ルートには合わせて大病院も120`ごとに建設した、たいして物もない国と思うがしっかり補給する、これらが解放を早めたといわれる。ルートというよりもこれはネットであった、4本ばかりの幹線が並行して走り、お互いは横道で繋がっていた、どこを爆撃されてもネットは生きていた、破壊されれば翌朝には修復された、爆撃を避けて夜間に大砲や戦車が前線へぞくぞく送られた、これらを密かに見た日本人ジャーナリストたちは「アメリカは負けた」と悟った。補給ルートはもとより戦略戦術、情報も道義もすべての面でベトナムはアメリカ帝国を手玉にとって余裕で完敗に追い込んでいった。本物の解放者はしっかりとよい仕事をするもの日本もエエかげんに改めないと世界が笑う。


さて「北都の雄!」いやいや「病院つぶしの雄!」のあなたなら勝てるだろうか、いやいや五分五分までもっていけるだろうか。知能の限りを絞って考えて下さい。いやいやまあムリか。

「四条通り」
五条通り」北の突き当たりが海で、ここに桟橋があった。私の子供の頃はここにあった。
五条桟橋
↑五条桟橋(舞鶴市・昭和9年) 何隻郷土部隊が渡満する際の光景。
(『目で見る舞鶴・宮津・丹後の100年』より。キャプションも)


六条通り
七条通り
七条通り(昭和10年頃)
↑七条通り(舞鶴市・昭和10年頃) 恵比寿神社跡地付近の通りの様子。
(『目で見る舞鶴・宮津・丹後の100年』より。キャプションも)


「八条通り」
「九条通り」
九条通は与保呂川左岸の通りで南向きの一方通行になっている狭い通り。万代橋から上手は「朝市」が開かれ、ちょっと有名とか。かつてはSLが走っていた
九条通りをSLが行く(昭和10年頃)
万代橋付近を走る貨物列車(昭和10年頃) 新舞鶴駅と東港海岸を結ぶ鉄道は、与保呂川の左岸沿いに海岸まで敷かれていた。この鉄道は、もとは新舞鶴桟橋倉庫株式会社が設置したものであるが、昭和三年同社が経営不振で解散したため、同五年鉄道省に編入。同時に新舞鶴港駅が設置された。(『ふるさと今昔写真集』より、キャプションも)


   


 近世の3万5千石の城下町西舞鶴の市街地は高潮時には海水で冠水する場所が幾つかあるが、東舞鶴浜地区は満潮面より2尺5寸以上とするため、1〜2メートルばかり水田の地盤を埋め立てている。海水が逆流して道に溢れるようなことがない。古代や近世にはマネできない熱の入れようゼニの入れようであった。

 町づくり村づくりと、口先では叫ばれるが、現在では根性の入った工事は、する者がないのでなかろうか。明治人は間違いあれば、責任取って腹を切る覚悟で仕事をしているし実際に腹を切っているが、平成は情熱も失せたクソ官僚やクソ政治屋ども、腹切る覚悟などはサラサラないサラリーマン根性氏ばかりのよう、クチばっかりのおやかましいだけのもの、おかげで市民も往来のカンコー客までが大笑いする大ゼニを喰う割にはたいした効果なしのバカ工事ばかりが目立つ。

なんぼお役所仕事やいうても、もうちいとらしい仕事せえや。あんなもんは見るんも嫌になるわいや。あああこっちまでアホがうつりそうじゃ。ゼーキンやど、ええかげんにせえや。
いらん事ばっかり、あんなもんにカネほかすな。舞鶴の市長はボケとるなあ。もっと老人ホームを建てえよ、溢れとるやろが、見えんのかいや…などとオバチャン(失礼)たちまでも集まれば「みんなそう言うとってやわ」と情けながる。
何もボケとるのは特に市長だけではなく、クソ××クソ○○クソ△△…そんな連中全部がその様子。
市民を苦しめる社会問題などは元々が何も関心がないし理解すらできない勝手な幻想に酔う生まれついてのお坊ちゃまどもだからそれも当然な連中かも知れない、赤字だと病院を潰してさらに市民病院予算は通さない、市民とは何も関係のない赤字だと決まり切った赤レンガ10億は大賛成、どこかのベッピン仕分け人とは逆で、ひどいタコ連中だが、とにかくどこでも大変に人気が悪い、誰に聞いても異常な水準に下がっているのだが、市民は言うて行く所がない。いよいよ本気で何とかしないと舞鶴が潰れる。
無用人、遊び人風の発想しかないような、ちょっと賢いことするなあ、というものがない。遊んでばかりいたのか、苦労して勉強したことなどないような、しっかりせえよ、といってもそれでも一端の国士きどりで、市民生活などは頭になく下々などは芯からバカと見て聞く耳もたないので改まるわけはない。
市民としてはブーブー言い続けるより手はない。さらに声を大きくしてブースカと言い続けること、それでも聞かないと思われるがその時はしっかりと次の選挙では早いこと落としてしまいましょ。よい町を作るにはハコも大事かも知れないし、いろんなボランティア活動も必要、しかし選挙も大変に大事なもの、ダメは落とすこと、良い者を選ぶことは市民としての最低限の責任でしょ。これをしっかりやらないと舞鶴はよくはなりません。


百年後まで残る、住民にも多少は感謝されるかも、カンコー資源になるかもの、お仕事とはこんなものかも、の明治のお仕事を見てみよう。



 東西のメーン通り


大門通り(国道27号線)

↓大門通り



 メーン通りは今の国道27号線である。鎮守府街道東通り、有事の際は東側の友軍が駆けつけてくれる。鎮守府や要塞を守るために(市民は守ってくれるのかどうか?)金沢師団が駆けつけてくれるよう、金沢までは続かねばならない。

初期は「東大門通り」と呼んでいた。今は単に「大門(おおもん)通り」と呼ぶが、なぜ大門通りなのかは不明とされるようである。大きな門があったかといえば別にそんなものはなさそうに想われるが、余部下の本通り(府道)を「西大門通り」と当時は呼んだようだから、やはり鎮守府の東門や西門を大門と呼んだのではなかろうか。市史は「大門通りとは鎮守府裏門(東門)からの通りの意味である」としているがそれが正解ではなかろうか。西に突き当たった北吸付近を今も「東門(とうもん)」と呼んでいる。「西門」が正門で、余部下の鎮守府本庁の下あたりにあったという。

 新市街地の完成に伴い、通り名の命名が行われた。明治35年(1902)11月という。日露戦争は明治37(1904)年だから、その直前のもの。日清戦争(1894)時代の艦名も多い。もっともっと軍艦はいたのであるが、なぜこうした軍艦だけが選ばれたのかは不明。舞鎮所属艦かといえばそうばかりでもない様子。
東舞鶴の通り名を拾えば日露開戦期の海軍の陣容を目の当たりにすることができるかも知れない全国どこにもないであろう地名群、舞鶴でもただ東舞鶴だけである。
近頃では忘れられかけてきているし、どんな軍艦だったのか、どんな戦争だったのかは市民の誰ももはやシカとは知らない。市も市教委そんなまじめな仕事はせずに文明の赤レンガで〜す、ばかりに呆けている。
この前の敗戦も忘れ、引揚もスコーンと忘れるくらいに目出度いから、日清や日露など遠い過去などは初めから知らない、知らないということすら知らなくなっている。知ってるつもりだが記憶の回路が初めよりない。なんぞ言えば赤レンガで〜す。ああアホらしい、山のサルすら笑おう。これでは現在の自分の立つ位置ですらスコーンではなかろうか。
あなたの歩く足元に歴史がある。日清・日露がそこにある。舞鶴はこれらのより古い海軍創建時代の歴史も決して忘れてはならない町である。過去の話でなく、それは今もしっかりと舞鶴に生きている。有名な所だけでも少しついでに取り上げてみようかと思う。

万代橋(舞鶴市)
万代橋(舞鶴市・昭和10年頃) 与保呂川に架かる万代橋。手前に見えるレールは、新舞鶴駅と東港を結んでいた鉄道。

大門通り(昭和初期)
大門通り(舞鶴市・昭和初期) 現在の大門三条交差点付近から東側を望む。安田銀行の建物が左に見える。
(いずれも『目で見る舞鶴・宮津・丹後の100年』より。キャプションも)





戦艦名を冠した通り

 東舞鶴には軍艦名の道路は33あるようで、たぶん全国探してもここだけと想われるが、一度に全部は紹介できない、ここに書くのは日露戦争前後の戦艦名を冠した通りだけです。


 JR東舞鶴駅前から東西に次の順に浜側へ通りがある。駅に近い艦の方が建造年が新しい新鋭艦である。
戦艦三笠1/80の模型(舞鶴智恵藏)

戦艦三笠1/80の模型(舞鶴智恵藏)
↑戦艦「三笠」(まいづる智恵藏)

三笠通り


 戦艦三笠の名を付けた通り名で、戦艦三笠について市史は、
 〈 戦艦 三笠
 戦艦は「最も卓越せる攻撃力と防禦力とを有し、堅牢無比なる海上武力の根幹」(近世帝国海軍史要)であり、海軍の花形であった。日露戦争開始時には戦艦六隻が日本海軍の中心勢力となっていた。中でもこの三笠艦は日露海戦に備えて第二期海軍拡張計画のうち最後に完成した戦艦であった。
 明治三十四年、舞鶴鎮守府発足時には、まだ英国で建造中であったにもかかわらず、三笠は舞鶴を母港とすることに決定され、その乗員数は三月既に定められていた。乗員は高級士官を含めて八三○人の多数に及んでいた。一等戦艦、排水量一万五、○○○トン、機関出力一万五、○○○馬力、速力一八ノット、一二インチ砲四門、発射管四門ほかを備える当時世界での最新鋭艦であった。同三十五年三月しゅん工し、同年五月横須賀軍港に回航、七月にはその雄姿を舞鶴湾頭に現わした。軍艦に慣れ始めた地元民も、この新鋭艦に接して改めて目を見張った。同月二十二日地元を中心とした住民一般に公開されたが、その模様を新聞は次の通り報道している。
 去る二十二日より一般に拝観を許されたる三笠は世界有数の巨艦と云ひ、殊に舞鶴鎮守府の所属艦として、老幼男女の別なく、我も我もと船をこぎ寄する様は、恰も木の葉の落る如く、頗る多数の拝観人にて、当番士官以下艦員はいずれも懇切に説明の労を取り、大いに海軍思想の養成に努め居るものの如し。尚同艦は今暫時滞錨の予定なりと。
           (大阪朝日新聞「京都滋賀附録」)
 三笠は日露戦争中、連合艦隊司令長官東郷中将の旗艦として全艦隊を指揮した。殊に日本海海戦における輝かしい戦果により、「東郷」の名を世界にとどろかせ、日本海軍の代表艦となった(写真31)。  〉 

 三笠通りの西の突き当たりの高台に三笠小学校がございます。私の母校でござりまして、栄誉の戦艦三笠の名を冠した世界でただ一つの小学校かと思われます。従って私は戦艦三笠から生まれた三笠の分身でもあるようなわけでございます。戦艦三笠も日露戦争も市民が知らないのにはワタクシにも責任の幾分かはあるのかも、そんな事でちょっとばかりの責任を感じて、こんな事を書くわけです。別に戦争を鼓舞しているわけではございません。
こうしたことからか東舞鶴浜地区の通り名が軍艦の名からとられていることは子供の頃から私は知っていたが、へぇーそうなん、とそんなことはまったく知らないという舞鶴生まれの舞鶴人もけっこう多い。郷土教育に力を注いでこられた市教育委員会様の努力の大きな成果かも知れない。

↓戦艦「三笠」(朝日クロニクル『20世紀』より)
戦艦「三笠」

戦艦「三笠」
戦艦三笠竣工 英ヴイッカース社で建造されていた一等戦艦三笠が1月ほぼ竣工し、試運転のためタグボートで沖出しされた。日本がイギリスに注文していた6隻の一等戦艦の最後。排水量1万5362トン、全長131.7メートル、30センチ砲4門、速力18ノットで当時の世界水準でも最新鋭艦だった。日露戦争開始前に連合艦隊の旗艦となり、司令長官東郷平八郎大将が座乗する(朝日クロニクル『20世紀』より。キャプションも)


↓三笠通り(京都府舞鶴市浜)





初瀬通り


  1丁おいて、初瀬(はつせ)通り、戦艦「初瀬」の名を採った通りである。ハツセではなく本当はハセ(長谷)と読むのだろうけれども、それは置くとして、戦艦初瀬は、1899(明治32)年に進水。期待の最新鋭艦であった。

戦艦「初瀬」竣工 日清戦争後、日本は海軍近代化を急ぎ、6隻の一等戦艦をイギリスに発注する。初瀬はその4番艦として1月18日(1901・M34)アームストロング社から引き渡された。排水量1万5000トン、主砲は30センチ砲4門、速力18ノットの近代的戦艦。しかし、日露戦争開始早々の1904(明治37)年5月、旅順港外で機雷に触れ沈没。(朝日クロニクル『20世紀』より、キャプションも)
戦艦「初瀬」竣工

   

 1904年(明治37年)5月15日旅順港閉塞作戦で旅順口外、老鉄山南東沖10海里を航行中、先頭にいた初瀬は左舷艦底にロシア海軍が敷設した機雷にふれて、航行不能となる。8度くらい傾いて止まったので軽巡「笠置」が曳航準備をほとんど終えた午後0時33分に2回目の触雷をし後部火薬庫が誘爆、大爆発を起こして約2分で沈没した。
 この時「初瀬」のあとに二番艦「敷島」がいたが、これは幸運艦であった、機雷なのか潜水艦なのかもわからぬ中、機雷ならば同じ所に2個はないと「初瀬」の航路わだちの跡を拝みながら全速で走り抜けて無事であった。ところが三番艦の戦艦「八島」が被雷線上で二度触雷し6時近くに沈没してしまった。この日のわずかな間に6隻の戦艦のうちの2隻を一挙に失ってしまった。魔の5・15と言われる。このときロシアには11隻も戦艦があった。4対11となってしまった。
通り名を命名した時には「初瀬」はいたが、黄海海戦や日本海海戦時にはすでにいなかった。

↓初瀬通り





朝日通り


 戦艦朝日の名。


 1899年に進水した戦艦。「敷島」型の二番艦。
朝日通りはいにしえの丹後街道(若狭街道)と思われる。今の国道27号線の旧道ではなかろうか。


↓朝日通り

↑西端の「和泉通り」から写している、この通りは私は三笠小学校通学に毎日通った通りである。命名元は三等巡洋艦「和泉」(2987トン)と思われる。

   


 バルチック艦隊がどの航路を通りウラジオへ向かうのかが大問題であった。どこで待ち構えればいいのか。まず八分はここだろうと読んで、対馬水道には多くの哨戒艦船が張り付いていた。

 明治38(1905)年5月27日午前0時、濃霧たちこめる対馬海峡に哨戒艦「信濃丸」も任務についていた。この船が北上してくるバルチック艦隊を最初に発見。(沖縄の漁夫が一番早かったが連絡手段がなく、手間取った。)
気が付けば「信濃丸」はバルチック艦隊のど真ん中にいた、敵艦隊をしっかり確認して離脱し午前4時45分、暗号電文を打った。

敵ノ艦隊、二〇三地点ニ見ユ
執拗に食い下がってさらに打電、

敵針路、東北東。対馬東水道ニ向カウモノノ如シ。
さらに
敵針路、不動。対馬東水道ヲ指ス。

よい仕事をする船だが、「信濃丸」は明治33年竣工の貨客船6388トン、その後もずいぶんと長い間就航をした船で、大岡昇平氏の『俘虜記』主人公をフィリピンへ迎えに来るのがこの船とかで、引揚船にもなったよう。
昭和22年2月に大連から舞鶴へ引揚者を乗せて入港している、その後ナホトカから20回ばかりの引揚船となっているようで、引揚船リストに「信濃」が見えるが、この船だろうと思われる。
引揚船・信濃丸
↑「舞I引揚記念館」の引揚船・信濃丸の模型。案内プレートに「総トン数:6.155トン。速力:15.4ノット。登録寸法:133.5×15.2メートル。建造年:明治33年。船の種類:貨客船。主な引揚地:ナホトカ・大連。就航回数:19回。引揚乗船者数:38.621名」とある。


 この電報を対馬にいた二等巡洋艦「厳島」が取次ぎ鎮海湾にいた旗艦「三笠」へ打電。
午後6時0分、東郷は大本営宛に、

敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハ直チニ出動、之ヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ波高シ。

誰もが知る超有名な電文。軍隊の報告文らしくない美文、「秋山文学」とか呼ばれる。

連合艦隊出動(5月27日)
↑主力艦隊鎮海湾を出動して朝鮮海峡に向かう5月27日朝。(『画報近代百年史3』より)

「信濃丸」と哨戒を交代したのが二本煙突に二本マストの巡洋艦「和泉」であった。「和泉通り」の和泉である。
大胆にバルチック艦隊に接近し、撃沈される危険を冒してまとわりつくように監視を続けた。

敵艦隊発見。戦艦八隻、巡洋艦九隻、海防艦三隻及ビ仮想巡洋艦、工作艦等若干、並ビニ駆逐艦数隻。

バルチック艦隊はみな真っ黒な船体に黄色の煙突をしていた。それも打電した。連合艦隊は濃灰色であったから、敵味方の識別が楽になった。混戦になっても、とにかく黄色の煙突ならブッ放っせばよくなった。
バルチック艦隊は万里の長城にも似た壮大な陣容、洋上を圧し整然と北上を続けていた。各艦から吐かれる百本にもなる黒煙、その姿を見た者はみな震えたことであろう。
すげーぞ。東郷さんは大丈夫だろうか。
日本海海戦は沖ノ島(宗像市)の北方1〜2キロの海面で戦われ、市民で見た者は市杵島姫命を祀る宗像大社沖津宮の雑用少年(女人禁制の島)ただ一人であったそうではあるが…
あまりに近海を威風堂々と行くので陸軍の兵員満載の輸送船「鹿児島丸」は日本艦隊と勘違いして総員甲板に出て「バンザイ!バンザイ!」と大声挙げて叫びながらバルチック艦隊に大喜びして激励に近づいていったという。「こんな大艦隊が日本にあったのか、これならロシアに勝てるバンザイ!バンザ〜イ!頼むぞ勝ってくれよ」何度止めようとしてもこれが敵の大艦隊だと気付かない、いよいよ敵の射程内に入ってしまう、「和泉」のあわてたことは、笑い話のような…

兵器なども中世的な姿を残していたし、人間も牧歌的というのか、文学的ロマン的英雄詩的というのか、日露戦争時代はまだお互いに古武士のような面影が多少はあったようである。休戦になれば壕にひそみながらもお互いの酒瓶を投げ合って交換したり、旅順開城の日は日露の兵士達がお互いに塹壕を抜け出して昨日の敵同士が肩を組んで旅順の酒場へ繰り出したとか。ただ人殺しのためだけの戦争ではない面も残していた。
よき時代がお互いにまだ残っていた。多くの国民は明治近代国家に甘い共同体集団幻想を抱き今日を生きるがための宗教的信仰の対象となっていた。

ヒューマニティ
ロシア兵のヒューマニティ 旅順攻略戦のさなか、負傷した日本軍将校をだきかかえて運んで来たロシア軍兵士のヒューマンに行為に、敵も味方もしばし撃ち方をやめて目をみはった。「絵入ロンドン新聞」1904.11.1所載

















ヒューマニティ
←1904年8月14日蔚山沖海戦において撃沈されたリューリック号の水兵600余名を上村艦隊は常陸丸の怨を越えて救助した。(いずれも『画報近代百年史3』より。キャプションも)


信玄もいう。
人は城、人は石垣、人は掘。情けは味方、仇は敵。
市民を思う情けがなければ、結局は墓穴を自らで掘ることとなる。歴史が教える。




 ウラジオを基地としたウラジオ艦隊。後の巡洋戦艦にあたる1万トンを越える高速で遠洋用の巡洋艦隊。朝鮮海峡に出没して日本と満洲間を就航する輸送船を沈めた。6月15日、常陸丸は近衛後備連隊本部などが乗船していた、濃霧の中から突如ウラジオ艦隊が出現、小銃で応戦したが敵うはずもない、降伏を拒否して士官全員が割腹し、撃沈された、1000名余が戦死したという。
ほかには何もたいした能力はないが、そのかわりに無抵抗の病院船を沈めるのなら舞鶴のクソ議員やクソ公務員は世界一の達人でウラジオ艦隊もマッ青の腕前なのだが、このため国民、市民の非難はゴウゴウ、日本の重巡艦隊が血眼で追うが東京湾にきた津軽にきたとウワサが飛び交うばかりで捕捉できないでいた。
旅順艦隊が動くときウラジオ艦隊も連動して動くに違いない、旅順艦隊を迎えに必ず出撃してくるだろうと予想をたてて、ここで待っていた。
このときは旗艦「ロシア」を先頭に「グロムボイ」「リューリック」が南下してきた。日本側は旗艦「出雲」を先頭に「吾妻」「常磐」「磐手」。
リューリックはロシア製の優秀艦、航続距離は長く速度は速く、攻撃力も強い、後の巡洋戦艦のお手本。燃え上がるリューリック、これが見捨てておかりょうか、と何度も何度も戦友の僚艦が引き返し寄り添う、とうとう砲弾がなくなり、他の2艦は沈めることができなかった。君たちならどうする、もちろんさっさと逃げる。いやいや味方同士であっても撃って逃げるかな。頼りがいのある重巡艦隊である。

蔚山沖の海戦 一九〇四年(明治三七年)八月一四日、常陸丸撃沈の報復のためにウラジオ艦隊を求めていた第二艦隊はついに蔚山沖で敵を発見し、リューリック号を撃沈した。写真は水平線のかなたにウラジオ艦隊を発見せる瞬間。
蔚山沖海戦
沈没寸前のリューリック号 甲板に破裂する砲弾、バタバタたおれる兵士、沈みつつなお砲弾はなれぬ勇士。「絵入ロンドン新聞」所載。(いずれも『画報近代百年史3』より。キャプションも)


この頃は望遠照準はない、ロシア海軍にはあったそうたが、日本海軍にはまだなかった。肉眼で撃っている。テッポウ撃ちの才能は生まれつきのものらしくて、その才能がない者はいくら訓練してもたいしたものにはならないとか、海軍一級の才能はすべて戦艦の主砲撃ちに集められ、次がこの重巡艦隊に集められていた。




敷島通り


 この艦は3本煙突のよう。









↓現在の敷島通り



 艦名と艦景を見ていると違う型に見えるが、以上の4艦は実は同型艦・姉妹艦で、敷島型と分類される。簡単に言えば戦艦「三笠」が4艦いたわけである。のちに戦艦「大和」を4艦建造しようとしたのと同じ姉妹艦思想であった。明治海軍の主力艦、命の綱であった。
戦艦三笠1/80の模型(舞鶴智恵藏)
同じイギリス製であるが、作られた造船所が違い途中で改善もされたのか細部でビミョーに異なるが主砲、副砲、その他主要諸元は同じである。
戦艦三笠だと、
排水量:15.140トン
最大速度:18ノット
全長:131.7m
航続距離:7000海里
全巾:23.2m
機関:15.000馬力(石炭を焚いて2軸を廻す。イギリスからインポートした無煙炭が最良であった)
乗員:860名
兵装は、
主砲:40口径30.5センチ連装砲2基:4門
副砲:40口径15.2センチ単装砲:14門
対水雷艇砲:40口径7.6センチ単装砲:20門
47ミリ単装砲:16基
魚雷発射管:45センチ発射管:4門(水面下に装備)
衝角:(砲では決着がつかないと艦の舳先を敵艦のトテッパラにぶつける、そのための角がついていた。水面下のものでこの模型では見えない。)


ドレッドノート進水弩級戦艦進水 イギリスが誇る世界最大の戦艦「ドレッドノート」が2月10日、ポーツマス軍港で進水した。全長161メートル、最大速力21・28ノット。30センチ砲10門を備え、防御甲板も厚く、日米仏などの海軍を一挙に旧式化させてしまった。世界はこれ以後、大艦巨砲時代に突入。「超弩(ど)級」という言葉はこの艦に由来する(朝日クロニクル『20世紀』より。キャプションも)

米ポーツマス海軍工廠は日露講和会議の会場となったところで知られるが(1905年8月〜)、舞鶴の姉妹都市は英ポーツマスでこちらでは世界が驚嘆したドレッドノートが秘密裏に建艦突貫工事の最中、あるいは設計中であったのであろうか。
現在で言えばデシダル電子機器のような発達速度で軍艦は進化していた。戦艦ドレッドノート(30.5センチ主砲10門、21ノット)の進水は1906(明治39)年、日本海海戦の経験から設計されたというが、片舷側ならこれまでの2倍、艦首方向なら4倍、艦尾方向なら3倍の砲力。たったの1艦でこれだけの用を果たす。三笠などはその直前型、準弩級(どきゅう)戦艦、前弩級戦艦と呼ばれ、これにより一気に旧型艦となってしまった。続いてインビンシブルが進水し巡洋艦クラスでも世代交代が進んだ。三笠型戦艦なども日本の工廠ドックでも続々と建艦中であったが、それらすべても進水前に旧型艦、スクラップ同然のものとなってしまい、日本財政を苦しめた。弩級は30センチ(12インチ)砲をこの設計で積んだ艦、30センチ以上なら超弩級である。「超弩級」という言葉が少女漫画にすらもでてくるが、意味がわかっているのかどうか、本当はこの意味の海軍用語である。一等戦艦と呼ぶのは10.000トン以上の戦艦の意味。それ以下なら二等戦艦と呼んだ。

なお戦艦三笠は実物が横須賀市に三笠記念艦として保存されている。

   


 作戦を立てる者からすれば、できる限り同型艦であって欲しい。互いに性能が違えば全体の艦隊行動はもっとも非力な艦に合わさざるを得ない。どんな最新艦も持てる力を発揮できず存在意味を失う。速力が違えば最も遅いものに、砲が違えば射程距離がもっとも短いものに、あわせた制約された作戦が要求される。
最新鋭の同型艦を最低2艦のペアでほしい、人間と同じで1艦のみでは完全体になれない、漁舟は必ず舟2艘が組を組む、相手の舟を「やうち舟」と呼び、どんな危険でもけっして見捨てない同士であった、プールへ入る子供が二人で組を組む、何と言ったかわすれたが、ああした危険を伴う場合はみな同じで、艦隊行動も基礎単位は2。したがってその倍数の4艦、できれば8艦、16艦と欲しい。
今でいえば、最新の10万トン原子力空母(2兆円以上もするそうである)をムレのセットで買おうとするような話である、貧国はとてもとても買えないので何とか4艦をムリにムリしてさらにムリして揃えたわけである。

原子力空母はアメリカには11隻もあるそうで、佐世保や横須賀など母港にしているものもあったと記憶するが、オバマ大統領閣下、ぜひ軍港舞鶴にも1隻だけでも配備願えないでしょうか、ついでに原爆搭載の原潜も頼めないでしょうか、原潜だけ作ればいいというものではなく、これも空母以上に高くつくのではなかろうか、しかしたぶん多くの公務員さんや政治屋さんのアメリカ提燈もちどもが泣いて大喜び感謝感謝で提燈行列でもすることは確か、かも…
核はなくしましょう、はノーベル平和賞もの。自衛隊など軍備もなくしましょう、は次の課題か。そんな悪魔も震える物騒なものがなければ安全に生きられないのか、人間さまともあろう賢いはずの生き物にはその程度の知能しかない情けないものか、それでは同士討ちで亡ぶぞ。今われわれはそうした時代に生きているのであって、ここは遠い過去のお話を書いているだけ、時代が違い、人類のかかえる課題が違うことを間違えないようにして下さい。本当は夢と希望をもって政治は行うもの、それが政治家。夢もなければチボーもない「現実政治」などは本当は政治ではなくビジネスの話、商人とか政治屋と呼ぶ、これでは未来は来ない。


 バルチック艦隊の主力も竣工したての「三笠」よりも新しいピカピカ最新鋭最強の4姉妹艦であった。最後の艦「オリョール」が建造遅れのため、それが出来るのを待って明治37年10月15日にバルト海のリバウ軍港を出た。13.500トン、18ノット、12インチ砲×4門、主要鋼装14.5インチ。旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」「アレクサンドル三世」「ボロジノ」「オリョール」。
戦艦「アリヨール」

←海戦後ロシア戦艦アリヨール上甲板−下瀬火薬の威力による(『画報近代百年史3』より)

ずっとのちの第三火薬廠の工員が世界一と誇る下瀬火薬と伊集院信管も効果が大きかった。

全部沈んでしまったが、ただ1隻「オリョール」は「アリヨール」(鷲)とも書かれるが、オの口型でアと発音するのでこんなことになる、ボカスカに撃たれて沈没寸前に降伏し捕獲された、しかし佐世保までの曳航が難しく、近距離の舞鶴へ回航された。市史は、
 〈 五月三十日、降伏戦艦「アリヨール」が舞鶴軍港に回航されて来たが、これによって戦勝の報にわきたっていた市民は、実際にその戦果を目のあたりに見ることが出来たので、後々まで市民の語り草となった。なお同艦は、一ヵ月余り傷ついた巨体を舞鶴軍港に浮かべていたが、七月九日、日本海軍の艦籍に編入されて、「石見」と改め、呉軍港で修理のため舞鶴を去った。
 また、当時舞鶴の海軍病院には、日本将兵戦傷者二一人、病気療養者六一人、計八二人が入院加療を受けていたが、ロシア兵捕虜のうち三一人も合わせ治療させることになった。  〉 

『中舞鶴校百年誌』は、 
 〈 日本海海戦で捕獲されたロシアの軍艦アリョール(ロシア語ではオリョール)が舞鶴に回航され測候所(旧海洋気象台測候課)の西側の海岸につながれました。砲撃でハチの巣のようになっていましたな。捕虜は一か月ほど舞鶴におり、九州へ移されたとのことです。」(写真415)
 重複するが今少しく大谷修二氏(前地方総監部経理部長)編集の記事を借用して当時を偲んでみよう。
 明治38年5月27日、日本海で、日露両艦隊の撃ち合う音は、経ヶ崎あたりで聞えたという。
 明治38年5月30日午後一時頃、街にラッパが鳴り響いて、捕獲されたロンアの軍艦が入って来た。子供の時、人々のあとについていって、これを見た記憶のある古老の話では、アリョールと、もう一杯、バーャンであったとのことである。
 軍艦アリョールは排水噸一三、五一六噸、十二吋砲四門、六吋砲十二門、その他小口径砲四十六門、速力十八ノットという優秀艦で、第一戦艦隊スウオーロフ、アレクサンドルV、ボロジノに続く四番艦であった。
 当日、アリョールは、軍艦朝日に護衛されて、舞鶴に入港して来た。航側や煙突には、大きな穴があけられ、鉄板はめくれ、上甲板はめちゃめちゃで戦闘の激しさと、敗戦のみじめさをさらしていた。引続いて捕虜が上陸し、海兵団に収容された。また、傷病兵は、海軍病院に入院した。これらの情景を、町民は、身のひきしまる気持で見守った。
 おって町村から沢山の花束を贈って、傷病のロシア傷兵を慰めた。
 アリョールは、これを修復し、日本艦籍に入って「石見」と名を改めた。
 ついでにふるさとの地名を冠した戦艦『丹後』も捕獲艦であり舞鶴で修理された事実を知らない人々も多いことと思い老生の調査した範囲を紹介しておく。
 福井静夫箸「海軍艦艇史」に『丹後』は日露戦争で旅順港内に着底していた『ポルタワ』を明治38年8月29日舞鶴に曳航し修理を完了し『丹後』と命名し軍艦籍に編入されていたが、大正3〜5年の第一次大戦に際し、青島封鎖作戦に参加、大正5年4月にはロシアに有償譲渡されたと述べられているところをみると郷士との馴染は短かかったのであろう。(写真416)  〉 


 バルチック艦隊もよく戦っている、何も弱かったわけではない。旅順艦隊とは国籍が違うのでないかと思えたほど実に勇敢に戦う。その姿に東郷が深い敬意を抱いたと言っているのだから本当である。この頃の軍人は後の退廃した大本営のような、平成の頭がよすぎて憂国の国士きどりのクソセンセどものような大ウソは決して言わない、言ったことはみな本当である。東郷艦隊がすごすぎたのである。

 アリヨールの被弾痕を調べてみると、12インチ砲弾が12、8インチ砲弾が7、6インチ砲弾22、口径不明23もあった。アリヨールは艦隊の陰の位置にあったので、被弾数は少なく、前面にあった他の沈没した戦艦はこの2倍はあっただろうと推定されている。現在はコンピューターとレーダーで百発百中だが、この当時は命中率は2〜3%もあれば上等、ピッチング・ローリングと大揺れの波高しの洋上で懸命に走っている船から相手も走っている船をめがけて撃ってもそう当たるものでなかった。何時間も撃ち合ってもお互い命中弾がないということもあった。しかしここから計算すれば東郷艦隊は12%を越えていたといわれる。超名人であった。お陰で1艦で6艦〜4艦分の活躍をしたわけで、単純計算では兵力が上回ったと考えられるバルチック艦隊は実際は5倍程度の実質実力を持った敵艦隊と海戦を交えたのと同じこととなった。


   


 艦隊は、艦隊に限らず何でもそうだろうが、努力と訓練次第ではこんなにも強くなれるもののよう。
連合艦隊解散の辞で、東郷は、
 〈 神明はただ鍛錬につとめ、戦わずしてすでに勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者よりただちにこれを奪う。古人曰く、勝って兜の緒を締めよ、と。  〉 
と東郷らしいこと、秋山文学なのだが、を述べたという。日露戦争はどの戦場も勝ったかも知れないがあくまでも超きわどい辛勝、紙一重の差、幾度もの天佑としか呼びようないもない超ラッキーが重なって奇跡のように信じられない「勝利」が得られたというもの。相手が負けてくれたようなもの、決して自慢できるようなワシは強くて優秀民族などと思い上がれるような勝利でもなかった。そのように考える根拠はどこにもなかった。思い起こすだけでもこわいよくぞあれで勝てたものと背筋が寒くなる、たまたま一時的に勝たせてもらったようなことになっただけだと言っているのてある。
知能優秀すぎる連中はそのあたりがわかってないのではなかろうか、肉ジャガは呉にくれてやればいいし、養老源水はやめればいい、あんな物は何も東郷さんとはまったく関係がないし明治海軍とも関係がない舞鶴の宣伝にもならない、戦史も知らない愚かな軍港人と世界が笑うし市民の歴史観を誤らせる。本当に利口な舞鶴人は横向いている。スーパーやコンビニに腐るほど並べてあるが誰も買わない、頭のよすぎる官僚が作った商品は私も絶対に買わないことにしている。
しかしこのな辞はしっかりと舞鶴に残しておきたいもの。ムダだろうがあるいは市役所にでも貼っておいたら…、問題あれば真下飛泉の「友は野末の石の下」と並べておけばよい。
米大統領セオドール・ルーズベルトはこれにはいたく感動して、ずいぶんと長いこの辞の全文を翻訳して自国の陸海軍に配布したという。


 勝って兜の緒を締めよ。一勝に安ずるなかれ。
さすがに米の大統領。日本とは格が違う。日本はどうだっただろうか。締めたかといえばぜんぜん締まらなかったのであった。歴史から何も肝心なことを学ばず、教えず、日本よい国強い国、進め進め兵隊進め、神風吹く神国などと何か初めから正義で勝つものだと勝手に自分ででっちあげた神話を信じ思い込んでしまい日本人の皆が集団大発狂した、これからわずか40年後には太平洋戦争をやらかして大敗北。わずかに40年後である。そして今もなおそのままに狂ったまま氏もわんさかと多い。あの人もこの人も、そぞろ歩む、いつか来た発狂の亡国への道…
貧国強兵策は一歩先は亡国策であった。
なぎなた訓練
なぎなた訓練(丹後町・昭和16年頃) 間人尋常高等小での女子生徒のなぎなた訓練の光景。背後の日の丸も時代を語る。
ほうたいの練習(舞鶴市・昭和14年頃)
ほうたいの練習(舞鶴市・昭和14年頃) 非常時に備えて女子生徒は、担架運びなども訓練した。
どんぐりあつめ(伊根町・昭和9年頃)
木の実あつめ(伊根町・昭和9年頃) ドングリを集めてまわる児童たち。
消火訓練(宮津市・昭和18年頃)
消火訓練(宮津市・昭和18年頃) 防空ずきんをかぶり隣組の人びとが参加してバケツリレーなどの訓練が行われた。
(いずれも『目で見る舞鶴・宮津・丹後の100年』より、キャプションも)


 舞鶴市は100年後に、この当時のもう役にも立ちそうにもない赤レンガのボロ倉庫(市役所横にある。というかここへ市役所が引っ越してきた)にさらに十億円の追加支出、国民文化祭の会場に当てるためだそう、どんなイベントをするにしろハコならいくらでもガラ空きハコがある、もしなければ外で勝手にやればよかろう、何を考えて誰のためにここにまた同じようなハコにゼニを投入して使いたいのか、市民の血税だぞ、発狂しているのかボケがきたのか、つまらぬ役にもたちそうにもないハコ作りよりもオマエらのスポンサーの市民生活をちいとは考えろ。土建屋助けもエエかげんにせえ、その土建屋は誰かさんどものの支持団体大票田、とすれば何でもない市民のカネで自分を助けているのではなかろうか。と市民はボヤく。
舞鶴に限らず地方の抱える問題はますます大きい、優れた政治家や行政家がこれほど地方に求められる時代はなかろう。しかしいるのはこの程度の何をなすべきかもわからぬ者ばかり。市民に舞鶴にはたして明るい未来など訪れるものなのであろうか。
作りたければ勝手に作ればいいが、ただし市民の税金はびた一文使うな、オマエらの負担で、犠牲で作れ。議員を削減し、職員を削減し、歳費を削減し人件費を下げて、その他ありとあらゆる方法を駆使してオマエらの金でやれ。市民にも舞鶴にもそんな無駄金はびた一文ない。オマエらのバカ計画に付き合う気は毛頭ない。


 市民に本当に必要なものかどうか、ここがポイントである。どうしても必要な病院はつぶしてしまう、必要ではない、こんなどうでもよいし、上の写真のような戦争の匂いのするハコ、何もうれしそうに10億円かけることがあるのか、これらの写真を赤レンガに貼って置いてよく見ろ、ドングリ喰うのがグルメか、原爆になぎなたで立ち向かう、焼夷弾にバケツリレー、それがロマンただよう文化か、こんなものには大金を使い何かすばらしいことでもしてるかのように勘違いをしている、こうした両面の痴呆政治が○○市ではずっとここ何十年続いている。道楽バカ息子のお遊びのようなことをずっと続けられては負担者である市民の貧しいサイフがいよいよもつまい。
もしかして「地方政治」の誤変換でありませんか!と利口なパソコンソフトが問うてくるが、いいえ誤変換ではありません、○○市、どことは言いませんが、そこでは痴呆都市・痴呆政治・痴呆自治体・痴呆公共団体・痴呆政治屋・痴呆公務員などなどで正しい変換なのでないのでしょうか。パソコンさん。
要するに何も考えてはいない何も現場がわかっていないという事が子供からでも丸見えで、こんなところへ書くのもアホらしくなる低レベルな話であるが、厳しい地方都市にあってこんな話を平気なツラしていうてくるような痴呆官僚は私なら即更迭すると思う、他市の市長さんでもしお読みならどうされるかお教え願えないでしょうか。
わずか100年後である、人種が国籍が違うのではないのかと疑いたくなるほどの民族の理性の心の退行、零落ぶり、日本人の全員が、特に苦労のない役人どもや政治屋どもが悪い、これらは子供に、幼児化して痴呆になってしまった。ようである。
勝った負けたと騒ぐでないよ、あとの態度が大事だよ。これほどのゼニをかけ命懸けた戦争とは、大勝利とは大敗北とは一体何だったのかとまことに空しい。


   


 イギリスが早くから新造艦を4隻1セットで作るのが有名。ドイツもこれに倣った。アメリカには16隻を一度に作る計画もあった。

 日露戦争は日本側には民族解放戦争的な性格も一応は持っていてアジア解放のリーダー達からはそう期待されもしたが、しかし全体とすれば、帝国主義国同士の植民地を武力で奪い合う帝国主義戦争の近代国家同士の総力戦であった。当時の帝政ロシアが近代国家であったかは疑問だが、それは置くとして、全国民が物質的にも精神的にも持てる総てを挙げての戦いである。
ロシアは大国で自国製の戦艦を持つが日本は自前の戦艦を建造する能力はなかった。当時のロシアの国家歳出は20億円、日本は2億5千万円。

朝日クロニクル『20世紀』によれば、
 〈 日露の比較 陸軍兵力と馬=平時の現役は日本16万7000人、ロシアは104万2000人で日本は6分の1。予備役などを含めた戦時では日本は63万2000人、ロシアは457万5000人で日本は7分の1。馬は日本が3万1000頭、ロシアは56万2000頭で18分の1。
海軍戦艦=連合艦隊は戦艦4(三笠、朝日、敷島、富士)、装甲巡洋艦8、バルチック艦隊は戦艦8(スウォーロフ、アレクサンドル3世、ボロジノ、アリヨール、オスラビア、シソイウエリキー、ナワリン、ニコライ1世)、装甲巡洋艦3隻。  〉 

これは海軍兵力は日本海海戦時の様子のようだが、旅順艦隊は戦艦6、重巡3。ウラジオ艦隊もいて戦艦級の重巡4もいた。幸いにも三つに分かれていた、できるだけ分かれていてくれた方が貧国はありがたい、これらが合体する前に各個撃破で打ち破り日本海海戦の撃滅戦に望むことになる。どこかで一歩ミスればどう見てももう勝ち目の絶対にない戦争であった。危険な冒険
危険な冒険 日露戦争の将に起こらんとする頃パリの新聞フィガロ紙にのった漫画。列国は日本の冒険的な戦争にこのような観測を下していた。(『画報近代百年史3』より。キャプションも)

私らの頃の歴史教科書にこの漫画は載っていたが、この超危険な漫画オッサンが身の丈もわきまえず作った街が東舞鶴浜地区であり、郷土の誇り赤レンガの軍用倉庫群である。カンコーになどとその子孫の超漫画連中が有り難がって何億も使う。もう漫画以上に超おかしいと全世界が腹を抱え泣いて笑うことであろう。赤レンガにはこれも貼っておくといいだろう。このチョンマゲオッサンの物置です、花のパリからはこう見えました、とか書いて。
なぜクマはチョンマゲオッサンに負けたのか、なぜチョンマゲオッサンはクマに勝ったのか、この論文を公募して優秀なもには1億円づつやるほうがバカやってるよりはよほどに賢いと思う。舞鶴の名を高め、日本文化を高めることに寄与することとなるだろう。

 遼東半島領有に対しての三国干渉は明治28(1995年)、これから一気に国家歳出は増える、前年に対して2.2倍、従って税金もそれだけ高くなる。税金が2倍以上になってそれは全部軍事に使われるなどと想像するのも嫌だが、舞鶴にはそんなのが大好き、明治のロマンが溢れる軍都の街などと勘違いする人の苦労も想像できない、頭の良すぎるクソ役人が多いようだが、何も誰もうれしいはずはない、ロシアが大連・旅順を租借(M31)すればますますそうなった。

 消費税を上げ、地租を上げ、戦時特別税、戦時国債、建艦国債、寄付金、国家公務員全員が6年間にわたり俸給の1割を建艦に献納。日露戦争の戦費は現在のカネに換算すると200兆円ばかりに登った。今の国家予算は100兆円弱だから、戦争がどれほどカネを喰うものかがわかる。もちろん全部国民が負担することになる。当時の人口は4000万ばかりだから、国民一人当たり500万円、4人家族だと2千万円の戦費負担になる。

何時の世もそうだが、どんな時でも儲けるのは一部大企業のみでガボスカだろう、これこそがまことの国賊だろうが、あらゆる物資は涸渇し物価は騰貴する、全国民は三度のメシも一度にし、耐乏貧困生活の悲惨の限界を超えて耐えていた。特に出征兵士である、独身の現役はまだよいとしても、それだけでは足りなくなって後備兵が召集されると困った、お国のためと出征した兵士の妻は小さな子を抱えて乞食となり苦悶の末に死んだ、それを心配した夫は我が子を殺してから召集に応じたりもしたという。日露戦争のさなか東北は天明以来の大飢饉に襲われ収穫皆無、窮民は餓死したり四散し海外移民や娘を売った。
靴は軍隊に入って初めて履いたというし、お菓子も入隊して初めて喰ったという。今日死ぬかも知れないから、タダで喰わせてやるといっても彼らはそんなには喰わなかった。超質素な生活を当然のようにしていたようである、うまいもんを喰いたいなどと考えたりはしなかった、そんなヒマがあれば鍛錬に精を出す、涙ぐましい者たちであった。
「明治のロマンとグルメと文明のかほり」の頭の良すぎるクソ職員どもとは何か根本的に国が違うのでなかろうかと思えるほどにも違っているが、この時代の人びとを自分らと同じ程度に抜けた者と勘違いしているのではなかろうかと思われる、オマエら明治国民を見てるのか。


砲撃訓練
↑6インチ速射砲による艦砲射撃訓練。周到な想定訓練はバルチック艦隊撃破をもたらした(朝日クロニクル『20世紀』より。キャプションも)

気が狂ったかといわれた猛訓練が続いた、この時の訓練ほどつらいものはなかったという、訓練だけが祖国を救う、みんな力合わせ元気だし勇気だし命の限りを戦おう、防禦は薄い鉄板が一枚だけ、なにオレたちはいい、赤紙1枚で召集された者、これで十分、祖国のため緑のわがふるさとのため自由のため独立のため、いつでも犠牲となろう。そう本気で信じていたかも知れない。


   


203高地
戦い済んだ12月9日の203高地。203高地は両軍が死傷者の山を築いた激戦地だった。双方の死傷者を収容するため、12月2日には午前10時から午後4時まで一部休戦し、お互いに斃(たお)れた戦友の死体収容にあたった。写真は東北隅の塹壕内で折り重なって戦死したロシア兵(朝日クロニクル『20世紀』より。キャプションも)

 旅順郊外の203高地は屍の山をとなった。要塞前面斜面は日本兵の死体で埋められた、敵味方のというかほとんどが味方の死体を積んで掩堡を作ったという。「オレたちはいい」の犠牲心の若者達が万の単位で天に昇っていった。予想を超えた大損害の連続に大本営は0が一つ間違ってないのかと、どの戦場からの報告も疑った。
塹壕という塹壕は日本軍の死者でアっという間に埋まってしまい塹壕の意味をなさない。休戦中にそれを取り除く。しかし次の攻撃で、またすぐに埋まり溢れたという。
旅順の場合は、ロシア軍の戦闘員4万5千人、死傷者は1万8千、死者は2〜3000人という。
日本軍は兵力10万人、死傷60、212人、死者は15、400人であった。全軍の6割も死傷者が出るのは世界戦史上でもまれなこと、損害が3割も出れば普通は全滅と呼ぶというが、ダブルスコアの常識はずれの全滅であったことになる。「負けた」方は3千人、「勝った」方は全滅、これは勝ったとは言い難い。
現在でもこのあたりでは敵味方の兵士達が叫び声や飛び交う砲弾の音が聞こえることがあるという、天に昇れない霊がまだたくさんさまよっているのかも知れない。
大連って赤レンガの建物が多くて、ノスタルジーだなあ、と市職員ども(と思うが)は大宣伝する。それは外国のロシアが建てたもので大連市民とは何も関係のないものだろう。通りすがりのツーリストのおよそ自国の歴史には超無関心な目であって友好都市の市民同士の目ではもとよりないし多くの犠牲者を生んだ国の末裔の目でもまったくない。三流観光業者の腐った商人の目であろうか。

「203高地の旅」乃木は詩人としての才能が高く、203高地を爾霊山と歌った
「旅順の町並み」現在の姿

 天に代わりて不義を討つ、忠勇無双のわが兵は、歓呼の声に送られて、今ぞ出で立つ父母の国、勝たずば生きて還らじと、誓う心の勇ましさ

日露戦争さなかに作られ歌われた『日本陸軍』。生きて還らなかった兵は日露とも11万人余。

では市職員どもの「ノスタルジー」を少しみてみよう。

参上!
惨状! 遼陽の戦闘中最も激烈をきわめた首山堡。原文の表題に曰く「これにまさる反戦論なし」と。「絵入ロンドン新聞」1904・10.29所載。
遼陽城頭夜は更けて と「軍神橘中佐」を生んだ遼陽の戦闘はこのように累々たる戦死傷者(日本側死傷2万3千、ロシア側2万)をだしたのち、9月4日早暁ようやく占領されたが、大損害をうけた日本軍はとうてい追撃などできなかったのである。「軍神橘」の静岡歩兵第34連隊は太平洋戦争にはガダルカナルの若林中隊長を出し、「風にそよぐ葦」(石川達三)にも描かれるほどの悲惨な運命をもった。(『画報近代百年史3』より。キャプションも)


 遼陽は遼東半島の付け根にある奉天に次ぐ南満洲第二の都市で露軍の総司令部がおかれていた。第一回目の日露両軍の大会戦がここで行われた。
遼陽城へは10師団(野津)麾下の福知山20連隊が一番乗りした。首山堡はその前面に築かれたロシアの主陣地であった。1万の骨箱は用意したそうだが、弾丸は用意がなかった。砲1門につき何発用意していたか、50発だそうである。一月あたりである。ドンと撃つとガラガラと砲車全体が後退してくる駐退機のない型で、再度前へ進めて再照準して発射、1分に2発がよいところであった(それで一日分の弾は予定終了だが)。小銃も小銃弾すらなく、おのおのの携行の弾でやれ、食糧もないので半分でやってくれ。なあに補給の不足は勇敢さで大和魂で補えるだろう。このころからそうであったようで、日清戦争当時の頭しかなく準備はなかった、砲弾生産力は1日300発、このあたりで、第一回目の最初の会戦で日本はもう限界がきていた。ロシア軍の防備
遼陽におけるロシア軍の防備−鉄条網と落とし穴「絵入ロンドン新聞」1904.10.29所載

兵隊もタマがないのだから本気にやって来られたらもうもちそうにもなくなっていた。しかし本気ではこない、後退をして敵を広い国内へ引きずり込みその補給線が伸びきった所でたたくのがロシアの戦略、退却するロシアには気をつけろが常識、退却していくぞと勝った勝ったと喜んだらとんでもない話でナポレオンもヒットラーもこれには勝てなかった。

『福知山連隊史』には、
 〈 遼陽はわが聯隊が偉勲を樹てた会戦である。…
敵将クロパトキンが極東軍総司令官に任ぜられて満州に入るや、彼は遼陽を以て第一期作戦の主陣地と定め、日軍を茲に誘導して一挙に撃滅するの計画を樹て、この地に集結した敵兵は総数実に十六万、砲六百門と算せられた。
 既にして雨期も去り、満州軍総司令官大山大将は、馬を海城に進めて三軍を統べ、八月廿四日を以て遼陽総攻撃の命令を下した。黒木軍先づ行動を起し、次で野津、奥両軍起ち、激戦の結果、九月四日全く遼陽を攻略した。この戦闘に於てわが聯隊が、過半を犠牲とし、諸隊に先んじて遼陽城を占領した事は、支那事変における南京攻略並びに裏東会戦における殊勲と共に、聯隊史上光輝ある事跡とする所である。…
…猛然城門内に突入して敵を北方に潰走せしめ、一部を以て東南角迄追撃し、主力を南門入口に集結して、国旗を城頭に樹立し、遼陽城占領を確実たらしめ、聯隊は先頭第一の栄誉を荷うに至った。
 この日わが聯隊の攻撃正面は一望開濶にて一の拠るべき地点なく、且つ敵は高梁を八十糎の高さに折曲げ、一は我が軍の行進を困難ならしめ、一は自己の陣地を蔭蔽して掃射を有効ならしめ、且つ半永久的堡塁を築成して、壕前には鹿柴、狼穽、鉄条網、地雷等の副防禦を設け、之に拠って小銃火及び機関砲火を併用し、死物狂に我を射撃した為め、午前八時聯隊長先づ傷つき、代理次いで負傷し、殊に敵兵線に於ける各幹部は始ど死傷し、射撃に堪え得る健全の兵卒に至っては僅少となり、傷者苦痛を忍んで射撃を継続するの状態に至った。聯隊の指揮は遂に大尉に及び、損害の最も夥しき中隊に至っては上等兵、中隊の指揮を取れるもあり、聯隊は実に全員の約過半を失うに至った。
 本日突撃の際敵弾は軍旗に集中し、一弾旗頭の御紋章に命中して一片面を毀ち、一弾は旗竿を擦過し、旗地には十数弾の命中を見るに及んだ。…  〉 

のちの南京と並び武勲をあげたという。日清日露の時代は後の低国軍のような略奪や虐殺はなかったとされる(ウソ)。しかしその後の沙河会戦では「日本軍が演じたもっともぶざまな敗退」も遂げたという。何も悪くはない勇猛で知られた後備20連隊であったが、戦には負けも一杯一杯あるもの。『連隊史』にはその記述もあるが、さっぱり要領を得ない。負けたのだろう。

『福知山市史』に、
 〈 (十月)十五日には第一・第四軍正面の敵は姿を消して平穏に戻ったが、第二軍正面の敵のみは頑強に抵抗を続けて退く様子がない。そこで総司令部は、臨時に第二軍の応援に回っていた山田支隊(福山第四十一連隊基幹、福知山後備第二十連隊、鳥取後備第四十連隊、姫路砲兵第十連隊第二大隊、野戦砲兵第十四連隊第二大隊、工兵第五大隊第二中隊混成旅団)を第四軍へ戻したうえ、第二軍の沙河墨攻撃に呼応して万宝山を奪取するよう山田支隊に命じた。山田支隊は十五日午後八時三十分万難を排して見事万宝山の占領に成功したのであるが、第二軍が攻撃挫折して退却に転じたため、敵中孤立の姿となり、万宝山から急拠撤退の止むなきに到った。夜中にわかの撤退のうえ、指揮に不手際が重なり混雑しているところへ、三倍とも五倍とも見られるロシア軍の横撃を受け、山田支隊は支離滅裂の状態となって四散した。中でも抵抗力に欠ける砲兵隊の打撃は大きく野砲九門、山砲五門を敵に奪れ、傷兵は虐殺されるという惨めな敗北を喫した。山田支隊長は責任をとって十一月十三日解任され内地へ追い帰された。これを万宝山の敗戦といい、日露戦争における唯一の野戦の敗北とされている。十月十八日以降ロシア軍は士気低下のため、日本軍は戦力消耗の故に両軍休戦の状態になり冬営に入った。  〉 

『丹波文庫』に日露戦争出征日誌があったが、その中にこの戦闘もあったと記憶する、そのうちにさがしてみよう。後備というのは現役の20・21・22が戦死してしまい、その穴埋めに召集された者たちである。もちろん年齢は高い。それも戦死していくので、さらに高年齢が召集される。奉天会戦の時期になればある歩兵旅団は下士官と兵卒の平均年齢が45歳であったという。当時の男の平均寿命が44歳の時にである。今で言えば平均年齢80歳超の陸軍部隊である。そんな腰の曲がったジイさんを満洲まで引っ張っていっても勝てるワケがないではないか。そんなものでも引っ張っていかねばならないほどにもうどうにもならない仰天の時になっていた。クロパトキンさんがたいしたことがなかったので、何とかかんとか勝たせてもらえただけのもの。それも知らずか講和反対、ウラルを越えて、ペテルブルグまで攻めるのだ、と当時の新聞人も帝大教授も吼えた。何時の世も決してたいした連中ではないと頭に置いておきたい。
ウラルの彼方

沙河の市街戦
沙河の市街戦 1904年(明治37年)遼陽を抜いた日本軍はその10月には沙河をはさんだまま翌年まで対峙したのである。(いずれも『画報近代百年史』より。キャプションも)  

ノギさんの二百三高地ではなく、こちらが日本陸軍ロシア陸軍主力同士の決戦場。

後備兵、老兵たちが戦死していく様子を『天田郡志史料』が書いている。
 〈 鳴呼忠烈の諸士
 (福知山市野花の上川口)小学校運動場の一角に我々が常に眼にとまる碑か建っている。これは言ふまでもない、我が君国のために露と消え血を捧げた護国の士、陸軍歩兵曹長勲七等功七級足立定吉氏以下陸軍歩兵一等卒勲八等功七級宮本勢太郎氏、梅田千賀太郎氏、梅田市藏氏、桐村常吉氏等諸氏の霊を祀つた忠魂碑である。

『花は桜木人は武士』。 あわれ君の爲に花と散った武夫の譽は永遠に朽ちないであろう。今ここに一二の諸士の壮烈な最後を物語ろう。
 足玄定吉氏は明治十三年二月、本村上大内の一農家に生れ資性常に快活であった、二十二年六月村立小学校の尋常科を卒業し進んで高等科に学び、二十六年六月に其業を卒え、其の後百姓に一生懸命であった。
三十三年十二日歩兵第二十連隊に入営業し、第十二中隊に編入され、三十四年十一月歩兵一等卒を経て、上等兵に進み、三十五年十一月歩兵伍長に任ぜられ、三十六年一月満期となり除隊した。現役中は能く勤務に勉励して度々褒賞休暇を受けた。
三十七年四月二十一日充員召集に応して、歩兵第二十聯隊第十二中隊に編入せられ、五月五日独立第十師団戦闘序列に入り、即日直ちに出征の爲、福知山を出で、十日神戸港を出発した。十四日韓国鎮南浦に着き十八日其の港を出帆して十九日清国奉天省、南尖澳に上陸し、魯家屯の寒い野原を宿とした。二十日江家堡子に着き、其處で戦争に加わる。六月二日何家堡南方高地の攻撃を終って、九日相家堡子に泊り、二十七日分水嶺の戦争に交って二十八日岫巌に帰つた。七月三十一日から八月一日にかけて、折木城附近の戦争に加わって、十三日『マホア』山北方高地に戦い、二十五日から二十六日まで鞍山站附近で、三十日から九月三日までは、遼陽附近で戦うと言う様に到る所で激しく戦って、二十七日歩兵軍曹となり、十月十日から沙河の会戦に入り十一日三塊石山の夜襲にも加わり、二十日までは東山口附近に戦った。三十八年三月一日から奉天附近の会戦に加って、三月二日小東勾北方高地の攻撃の時こそ足立氏の最後の激戦であった。
 氏は部下を激励し、はけしい敵の銃火を冒して奮戦したが、不幸にも敵弾を受け負傷し、第三野戦病院に入院し四日遂に戦地の露と消えられ、其の日陸軍歩兵曹長に進められた。
氏の戦役の功により功七級金鶏勲章で年金百円並に勲七等青色桐薬章を授けられた。
 宮本勢太郎氏は明治七年五月上小田の一平民に生れ、常に温厚な人と称せられた。十四年四月上川口小学校に入学して十八年三月に卒業した.卒業後提灯屋を職業にして居たが、廿八年十月二十八日歩兵第八連隊補充大隊第五中隊に入隊して十月二十一日補充として清国に渡船し、廿九年五月大阪に帰営して励み、現役を終って除除となった。
明治三十七年六月十六日、充員召集に応じ、後備歩兵第二十連隊に入隊し、第四中隊に編入せられ、次いで出征の爲福知山衛戍地を発し、七月一日、神戸港を解纜して、七日清国奉天省南尖澳に上陸し、十一日岫巌に着く、次いで二十日同地を発し、二十三日折木附近に戦い、三十一日折木城の攻撃に参加し、八日下旬より遼陽附近に前進し、九月三日、遼陽総攻撃の際、中隊は初め丸井枝隊長の直接令下に在って総予備隊となり、終に敵陣に突入するや勢太郎氏は猛烈な敵の射撃を冒して突進し、足部に負傷して倒れしも、奮然として蹶起し、敵陣に向って進んだが、遂に敵弾に下顎部を貫かれ、頸部に盲管銃創を被って戦死した。氏も亦足立氏と同じく功によって、功七級金鵄勲章、年金百円並びに勲八等白色桐葉章を賜った。
 所属中隊長近藤兼三郎氏は書を勢太郎氏の遺族に送り、其の動作勇敢で衆の模範となったのを称して深く哀悼の意を表されたと云ふ事だ。
 似下三氏も二氏と同様に銃火の中に突入して、名誉の戦死をされ、功七級金鵄勲章、年金百円勲八等白色桐葉章を授けられた。  〉 


 前後するが5月の南山、大連の北側の山。
こちらは出城を攻めるようなもので、どうでもよいはずのものだった、だが、ところがここに旅順艦隊がバルチック艦隊の到来を待っていた。
南山の戦い
↑日本軍得意の夜襲「絵入ロンドン新聞」所載。
南山の戦い
↑三度目の突撃の後に南山の戦闘、野を埋める日本軍の屍「絵入ロンドン新聞」所載
奥大将の第二軍は五月五日より一三日にかけて塩大湊(大連湾付近)沿岸に第一次上陸を終了し、主力の北進を安全ならしめるために、金州半島を遮断して、ロシア軍を南方に制圧しょうとしたが、ここに南山の堅陣に遭遇した。そもそも南山は遼東半島の最狭部を抗する要害で、ロシア軍はここに一〇数座の半永久砲台を築きあげ、鉄条網・地雷・新式機関銃の装備も完ぺきであった。
日本軍は、この堅陣に対して五月二五日の夜半から行動を開始したが、重砲なくしてこれを攻撃するので、肉弾を以て突撃につぐ突撃を敢行、四四〇〇に近い死傷者を出して、一日にして攻略した。(いずれも『画報近代百年史3』より。キャプションも)


大連・旅順の周辺

『坂の上の雲』所収の地図だが、遼東半島の南の先端である。左手の大要塞が旅順、右手の大湾が大連。いずれも舞鶴とは友好都市である。仲良くするのはよいが舞鶴側の目の付け所が頼りない、中国は青くなっていることだろう。きっと何させてもこんなに頼りないことなのだろう。南山はこの地図の一番右側の半島が最も細くなった部分にある。

 明治近代国家には徴兵制があった、全国民はこれから逃れる自由はない。それ以前はそんなことはなかった。いくさはプロの武士だけに限った話であったが、近代国家ではそんなことができない。しかもどんな低脳指揮官のどんな無茶な命令でも文句一ついわずに従うより方法がない。敵前逃亡や抗命は銃殺であった、命令通り進めば敵に蜂の巣にされ、勝手に退却すれば味方から銃殺される。文明的な味がする。何かなつかしいロマンの味がしてきた。
徴兵を逃れることもできた、ロマンチックだろ、文明だろ、大金持ち、地元の有力者とか、官僚や軍関係の大事な仕事に就いているとか理由をコジつけて逃れたという。貧乏人はそんな事はできない。世の中は公平では決してない。徴兵制は貧乏人だけが貧農の次男三男それ以下だけが己が命をかけて負担する超不公平な労役であった。進め進めといっている本人やそのムスコは戦場でムダ死することはない、地獄の沙汰もカネ次第、彼らにはカネがあり逃れる手段があった。こんなド卑怯な連中の末裔がまたも勝てるわけもない戦争したがるわけであろうか。徴兵復活とか赤レンガ赤レンガと叫び儲かるわけもない市税の大バカ使いをするのであろうか。

『伊根町誌』は、
 〈 徴兵免除
 徴兵令は国民皆兵のたてまえにもかかわらず、徴兵免除の規定があり、当初は戸主(税金を納める)、長男(あとつぎ)のほか官吏、医者、外国留学経験者、及び代人科二七○円を納めるものなどは免除され、抽籤(ぬけくじ)の制度がありくじのがれの者は平時の兵役を免除された。
…一般の国民にとっては、働きざかりの若者をとられ、一家の労働力を三か年間失うことは大打撃であり、政府が「四民平等」「国民皆兵」をうたっているが、免役規定により兵役にとられるものは、貧農の二男、三男が大部分を占め、特定の国民の負担であったから、徴兵忌避の風がおこり、徴兵養子といわれた養子縁組が結ばれる風がおこった。  〉 


↓ いずれも旅順攻略戦の日本側の絵であるが、「絵入ロンドン新聞」と較べてどこまで戦史資料的な価値のあるものかは不明。『御国の誉』(S11)より。舞鶴の戦争展に展示されていたもの。






ぜひ憲法を改正して、戦争になれば、まずはクソ政治屋とクソ役人など世の中の役に立たないクズどもから徴兵することにしようではないか。若者は大事だから一番最後でよい、年の上の者からカネのある者からこの世で良い目をしてきたクソどもからまず天に昇っていただくように特別枠召集することにしよう。


   


旅順要塞の全景
↑旅順要塞の全景(『画報近代百年史3』より)

旅順港
遼東半島の先端の旅順は舞鶴とは友好都市となっているが、舞鶴港とよく似た地形をしている。(朝日クロニクル『20世紀』より)
旅順と舞鶴を重ねる
試みに両方の地図を同縮尺で重ねてみる。旅順湾は五老ヶ岳から先が海になった舞鶴湾である。


 周囲の山々は大要塞が築かれていた。ここが旅順艦隊基地で戦艦ほか東郷艦隊以上のロシア海軍がいた。バルチック艦隊の到着をここで待っている。
舞鶴で言えば大浦半島や槙山などにびっしりと大砲台群があり、みごとな砲撃をするから海からは近づけない。
舞鶴湾の入口は一番狭い所でも700メートルほどもあるが、旅順の湾口は実に狭く273メートル、水深が深く巨艦が通れる巾は91メートル。由良川程度の広さしかない。この狭い湾口に自船を何隻も沈めて、艦隊が出撃できないように封鎖してしまおうと決死隊が出る。東郷さんも秋山さんも、最初から生還の期しがたい、兵員の多量死がわかっているようなものは作戦ではない、いかに貧乏でもそんなことはやるべきではないと乗り気ではない。

第二回閉塞隊を見送る連合艦隊
↑第二回閉塞隊を見送る連合艦隊(『画報近代百年史3』より)

旅順港口閉塞は第1次作戦(2月24日)は天津丸、武揚丸、報国丸、武州丸、仁川丸の5隻。第2次作戦(3月27日)は、千代丸、福井丸、弥彦丸、米山丸の4隻。第3次作戦(5月3日)は、新発田丸、三河丸、佐倉丸、遠江丸、江戸丸、小樽丸、相模丸、愛国丸、朝顔丸、小倉丸、釜山丸、長門丸の12隻。軍神広瀬中佐の絵
←この絵は海軍記念館にあったように記憶する、額縁は福井丸のものとか 、しかし確かではない。

↑広瀬武夫中佐は水雷艇隊艇長を務め、ロシア滞在5年の経験をもつロシア通として知られていた。旅順口閉塞作戦では第1次(2月24日)の「報国丸」を指揮し成功した。第2次(3月27日)は経験を買われて17人搭乗の「福井丸」の指揮をとった。作戦を終えたが杉野孫七兵曹長の姿が見えない。3回にわたって船内を探したが見当たらない。小艇に乗り移った直後に、弾丸に当たって吹き飛んだ。ロシア側では福井丸将校の遺体を発見し手厚く処置したという。(朝日クロニクル『20世紀』より。キャプションも)

広瀬中佐は戦艦「朝日」の水雷長であるが、開戦前からここは封鎖しかないと唱えて準備していた。どこかの政治屋や評論屋どものように自分は安全な場所にいてひとに行け行けではない、ワシが先頭に立って死地へ行くのだとモラル面もまあクリアーか、モテ男としても有名。明治以来今日までヨーロッパ婦人の間で彼ほど騒がれもてた男もいないのではないかともいわれる。カッコだけではだめ、ロシア文学が原典で読めて漢詩訳する、死地に何度でも赴く、こんな男、男でも好感がもてるが、もしやああうらやましいな、ワシもオンナにもてたいというのならばトクと見習って頑張って下されよ。いい男がいないとやはりいい女もいない、つまなぬクズばかりのマチになってしまう。
67名の決死隊を募ったところ2000名の応募があった。この戦は勝つぞと広瀬は言った。しかし湾口の封鎖は失敗であった。

『中舞鶴校百年誌』は、(写真も)
 〈  川井林蔵氏(77才)のご回想によると5〜6才の頃、母に背負われて海兵団(現総監部)入口左手の斜面中腹の大砲練習建物(10数門の砲身が湾口向けて開口部から突き出ていた) 附近の道路で東郷大将の凱旋を見物したと
のことである。(…)
 なお、同氏の語られるところによると、今に残る旧海軍需部煉瓦建倉庫(現在舞鶴倉庫及び海上自衛隊補給所が使用)の煉瓦はすべて和田の小字日の迫(現在白浜ニュータウン埋立地附近)に高さ10m、横8m、長さ30m、ばかりの円形の炉を煉瓦で築き、ここで焼いた煉瓦を浜に出し千石船で戸島を廻り北吸に陸揚したとのことである。
(明治30年頃は現在のような道路はなく陸路の輸送は不能であった。)ちなみに煉瓦を焼かれたのは同氏の親の孫左ヱ門氏だったとのこと。
 明治の年皇太子殿下(後の大正天皇)が軍艦数隻を随え来鶴され和田のさきの乙栗に淀泊されたとき和田の浜で小便すると殿下が双眼鏡で見ておられるから淀泊期間は海に向って放尿してはならぬどの達しであったと今の若人には信じられない少年時代の思い出話を川井氏はつけ加えられるのである。  〉 

 〈 
 写真421は第3閉塞船相模丸の乗員でこの中に余部下旭西にご在住の上野山省三氏(75才)の養父上野山幸吉氏が写っているのである。
 独身の上野山二等機関兵は後嗣として薮井省三君(当時6才)を迎えて家系断絶の憂いを絶ち、明治38年5月3日決死の行に参加し、功7級の金鶏勲章と一片の感状とに化したのである。
 余談になるが旅順閉塞隊といえば広瀬中佐が有名で軍神として小学唱歌にまで歌われて杉野兵曹長(後嗣杉野中佐は今次大戦中の一時期舞鶴海軍工廠に勤務されていたと聞く)とともに全国民の話題となったがこの上野山機関兵その他数多くの無名の勇士が今次大平洋戦争における神風特別攻撃隊に比すべき決死の壮挙を而年前に敢行し、日本海の波間に泡と消え去っていたのである。
 広瀬中佐の名を聞くと戦争の意味するものを深くは覚らずただ歌詞の魅力と一種哀愁をさそうメロデイーにつりこまれて無心に声張りあげて歌っていた少年の日が回想されてくる。
 今も時たまナッメロの軍歌として歌われるその歌詞は次のようであった。
…  〉 


 旅順港周囲の山々は大要塞。要塞といっても日本人が考えるようなものではなかった、舞鶴要塞の百倍の強力さ。当時たぶん世界一の要塞でなかったかと思われる。数百万ルーブルの巨額をかけて20万樽以上のコンクリートで(そう言われても見当がつかないが)。要塞はロシアのお手の物。最強はジブラルタル要塞かここかといわれたという。

「旅順のロシア軍要塞跡」

舞鶴要塞は露天に砲が並べてある脆いもの、あれは日清戦争時代のものと考えればよい、もしロシアが攻めてきたならアっという間に破壊されよう、なきに等しい気安め程度の「要塞」である、旅順要塞とは比較にもならない(舞鶴の各砲台は明治32〜35年にそれぞれ竣工)。
旅順要塞はみな掩蓋砲台でコンクリートの天井があってその上に土が厚く被せてあり、地下には巨大な戦闘空間が掘られ地下道でお互いに繋がっていた、日本陸軍が持たない知らない機関銃というもののトーチカが無数にあった、これが近代要塞というモデルのようなもの。28センチ砲でも掩蓋の上に被せた分厚い土砂を吹き飛ばすくらいのことしか出来ない、要塞そのものはかすり傷も負わない。そこを時代遅れのわずかな野砲・山砲、舞鶴要塞にあったのと同じ青銅製のものまで、と銃剣突撃で攻める第三軍の乃木さんもその参謀もあまりにも子供、戦争の大局は理解せず、持ち場の現場すら見ていない幼児であった。10年前の日清戦争では1日で乃木さんらはここを攻略したのであった(清側の半分ほどが逃亡したのだが)、このとき南京の先例のような旅順虐殺事件が起きた、真相は例によってあいまいにされている(市民や捕虜など無差別虐殺、中国発表では死者2万人、本当はその半数ほどでないかと日本ではいわれているが、指揮官は乃木さんもふくめて極めて事態に無頓着であったという)、今回も1日でと期待されたのであったが、今回は違った。10年昔とはぜんぜん違う。
当人たちは専門家のつもりだが、自分で勝手にセンモンカと思い込んでいる者ほど視野の狭い保守的な使い物ならない役立たずはないかも知れない、新たな意外な期待されるような着想を生む意欲も知的な精神的なゆとりや余裕もなく、問題意識も危機意識もない、目の前でバタバタと大量に天に昇っていく姿を見ていても何ともしようともしない、ただ何十年も昔のままのマンネリと惰性だけで動いている、何十年もの遙かな大昔はこうだった、というだけで自分が今のしていることが効果があるのかどうかの点検もしていない、たいしたこともない「専門知識」を杓子定規にあてはめるだけの自己満足の世界。それはできません、これもできません、何もできません。オマエらは素人ではないか、何を言うか、と人の意見には耳もかさない。世界一の要塞を前にテイノウ幼児どもが集まる現場からははるかに後方の愚者のサロンからチンプンカンの指揮するのだから、命令される者たちにとってはここは地獄であった。

↓槙山はどうだったか知らないが日本国内各地の海岸要塞から取り外してこの28センチ砲を大連に送ると、乃木司令部からは「送ルニ及バズ」と返事があったという。
新兵器の使い方も研究していない、あんなもんは役にたたん。と自分が使えないものだから頭から決めてかかっつている。どちらが役にたたんのか。
28センチ榴弾砲
↑旅順攻囲軍の攻城砲(『画報近代百年史3』より)

28センチ榴弾砲
↑遠距離砲撃用に内地の海岸砲台からはずして運搬した28センチ榴弾砲。写真は王家甸(おうかでん)南西凹地に設置後の試射(10月1日)の情景。最大射程7900メートルで、203高地占領後は旅順港内のロシア艦撃沈に威力を発揮した(朝日クロニクル『20世紀』より、キャプションも)


 203高地は菅坂峠くらいの位置にあって、ここからは湾内が丸見えであった。海軍はもちろん大本営もここを早く取って湾内の艦艇を砲撃して沈めてくれと28センチ榴弾砲を18門も送り、艦艇から取り外した砲も送る、それで撃てと何度も言うのだが乃木さんたちは知らん顔、ご無用でございます、旅順包囲網線上1メートル当り3名の兵隊がおりますから十分、陸軍には陸軍のやり方がござると返事してくる。
あのなー陸軍も海軍もないだろう、そんなレベルの話か、一日も早く旅順艦隊を沈めないとどちらも亡ぶ、国が亡ぶ。
かくしてここでは6万人死傷者のミゾーユーのレコードがつくられた。
榴弾砲は曲射砲、弾道ミサイルのようなもので、目標との間が山で遮られていても飛び越えて射撃する。メクラ撃ちでは弾のムダ、203高地に観着弾測点を置いて山越えで撃てば旅順艦隊が沈められる。
そんな所を取っても何にもなりませんでしょ、アタシゃ正面から行きますよと、敵のどないにもならない堅塁にバカの一つ覚えの白兵銃剣突撃をくりかえす、見当違いの攻撃ばかりで死傷者はうなぎ登りで、兵舎もカラッポになり、白木の墓標ばかりが延々と増えていく。バルチック艦隊は近づいてくる。たった2つしかなかった最後の予備師団を乃木の元に送るかどうかで大本営はもめた、あんな所へ送ったら最後皆がムダに殺されてしまう、どうかそれだけはこらえてケレ、1師団だけを送るのであったが、乃木の部隊に配属と決まると兵隊の士気は目に見えて落ちた。あんな指揮官の下では犬死にだと口にする兵士もあった。

とても堅塁で落とせません。よし、それならタスキを締めてかかれ。本当は夜戦での敵味方識別のためという。
白襷隊
白襷決死隊 1904年11月26日第2回旅順総攻撃の際各師団より選抜された切込み決死隊で、生還したものは殆どなかった。田山花袋の小説「一兵卒」はこの白襷隊の一兵士をモデルにしたもの。(『画報近代百年史3』より。キャプションも)

各師団から志願、選抜された3100名。命令はまず旅順要塞正面の最強の松樹山要塞を奪い、それから一気に旅順市街に突入せよ。そんなことが出来たら誰が苦労するか。26日はこの日になるとなぜか日本軍が銃剣突撃してくるので、ロシア側も準備を練って待っていた。ヘンなクセ通りに日没とともに出撃、すさまじい探照灯に照らされて前は見えない、砲台前斜面には地雷原があり落とし穴があり鉄条網がある。周囲の要塞からの十字砲火の中をシャニムに進む、攻撃開始1時間で壊滅状態、半数が死傷した、もっとも前面の補助砲台にまでも行け着けず天に昇っていった。相手も気付いているであろう26日なのかと問うと、偶数で割り切れるつまり要塞を割ることができる、と答えたそう。あああ何億人兵隊がいても勝てないわ。

 のちには乃木神話が作られていて、そうした国民的神話に配慮してか映画などもそうしたストーリーに作られている、私が書くようなこんな話は信じられない人も多いかと思う、神話好きも結構だが、神話は神話である。現実とは違う空想の昔の世界。では現実はどうかとよく見なければならない。これは本当の話で、児玉という乃木の郷土長州の先輩が(満洲軍総参謀長)ここを代わって攻めた。アっという間に取ってしまった。
どうしても要塞を攻めるなら、要塞攻撃にはその方法がすでに全世界で考案されていてその通りにやればいいのである。まず周囲に攻撃用砲台をつくりガンガン撃つ、そうしておいて要塞の地下へトンネル掘って近づき火薬を詰めて山ごと土台ごと要塞ごと吹き飛ばす−。
白襷隊などは無益な殺生以外の何物でもない、銃剣突撃で落とせるほど甘いものではない。私でも知っているではないか。
乃木は長州、参謀長伊地知は薩州、まだ薩長連合の時代、陸の長州の時代の当人の能力とは関係がない派閥人事であった。そうした人事が生んだ大変に困ったコンビであったといわれる。別に乃木さんがわるいと言っているのではない、彼は命令されて一生懸命にやっているだけ、命令した陸軍が悪いわけで、40年後のその崩壊までたいした改善はなく同様の愚を繰り返した。そうして日本は亡びた。


203高地
二〇三高地 旅順口の死命を制する高地として、その攻防に屍山血河の大激戦を演じたところ。攻撃軍司令官乃木大将の詠んだ詩の中に「山形改まる」といわれているのでも想像がつく。1904年11月30日の総攻撃で日本軍は遂にこれを占領した。(『画報近代百年3』より。キャプションも)

第一回総攻撃のあと
↑第一回総攻撃のあと サーチライトの光芒の下に照らしだされたのは累々たるしかばねである。「絵入ロンドン新聞所載」(『画報近代百年史3』より、キャプションも)

「日露戦争:陸戦編」
「203高地-8-」(いかに乃木軍とはいえ敵から丸見えの昼間に突撃したりはすまい、映画らしくかなりマンガチックではあるが、こうして天に昇っていったのだろう)


203高地そのものにはたいした要塞が築かれてはいなかった、そんなに重要とは気が付かなかったロシア側の見落としであった。ビデオにもあるような程度のものしかなかった。その後、日本軍が執拗に攻撃してくるのでその重要性に気づき、艦砲を引き上げて急遽要塞化していた。11月27日、203高地に正面転換して総攻撃開始、12月6日、山頂に日章旗が揚がった。5日から28センチ砲、6インチと4.5インチ艦砲が203高地に着弾観測点を置いて峠越しに湾内の艦艇を砲撃。乃木軍は軍艦は榴弾砲では沈まんでしょ、撃てば相手だって撃ち返してくるでしょ、艦砲は強力、それって大変にヤバイでしょと考えていたようであるが、…



炎上する旅順港 203高地占領後、日本軍の28センチ榴弾砲は確実にロシア艦を撃沈した。左が「パラーダ」(のちに「津軽」に)、右が「ポペーダ」(のち「周防」に)。港湾施設に火の手が上がっている。04年12月撮影

←旅順港で日本軍の砲撃を受けて大破したロシアの巡洋艦「バヤーン」。激戦の末に203高地を奪取した日本軍の第3軍は28センチ榴弾砲で同港を砲撃し、停泊の軍艦の多くが沈み、港湾施設にも大損害を与えた
(いずれも朝日クロニクル『20世紀』より。キャプションも)

バヤーンはこののち戦利品として接収され「阿蘇」となり舞鶴に配備された。

「203高地-18-」


 旅順港は狭い、不忍池ほどとかある旅行記にあるそうだが、それほどではないとしても、舞鶴港東西併せて若干プラスしたほどだから、逃げ所がなく、攻撃には弱い。
勇猛をもって知られ日本海軍も恐れたフランス製一等巡洋艦バヤーン、マカロフが愛したバヤーンも沈んだ。この頃はどの軍艦も艦砲を取り外して陸揚げして砲台を作り要塞防衛のため戦っていた、水兵達もみな山に登っていて艦はすでにカラッポだった。
5日は30分で戦艦ポルタワが沈んだ、6日は戦艦レトウィザンとペレスウェートが、7日には戦艦ポベーダ、8日には重巡バヤーンなど、わずかの間に旅順艦隊は全部沈んだ。
全部沈んだか。戦艦「セバストーポリ」の姿が見えない。舞鶴湾でいえば平湾のような場所に隠れていて完全な確認が取れない。何度も水雷攻撃をかけてます、報告ではまず沈んでいると思えますが、それではワシが見に行くといって東郷は自分の目での確認にでかけた。周囲は懸命に止めた。まだ周囲の敵砲台のすべてが沈黙したわけでもなく、機雷もあろう海面であった。はるか後方にいて敵情も見なかった乃木さんとは違った。市民生活の現場も見ようともせずわかったつもりのどこかのクソ政治屋やクソ役人どものような世界一の○○どもとも違っていた。
ツァイスの双眼鏡と肉眼で何度も確認して、よし、と全艦艇を日本へ返して突貫修理をする。バルチック艦隊が迫っていた。まかせろ、工廠の工員たちが燃え上がった、2ヶ月かかる予定が1月でできた。



 丹後に縁深い与謝野晶子は「君死にたまうことなかれ…親は刃をにぎらせて、人を殺せとをしへしや、人を殺して死ねよとて、二十四までをそだてしや」。
「旅順軍包囲軍にある弟を歎きて」と題したもので
「君死にたまふことなかれ
すめらみことは戦に おほみづからは出でまさぬ
かたみに人の血を流し獣の道に死ねよとは
死ぬるを人をほまれとは
大みこころの深ければ
もとよりいかで思されむ」
きびしく突いている。


われらの真下飛泉は「戦いすんで、日が暮れて…」の「戦友」。舞鶴市民の感情としても、舞鶴の文化としても外来の赤レンガボロ倉庫よりも、これらの方がはるかに縁深い、目出度いクソ職員どもでは理解はできまいが、…

戦友を埋める日本軍
↑倒れし戦友を埋める日本軍。
「ここはお国を何百里 離れて遠き満州の 赤い夕陽に照らされて 友は野末の石の下……」この一種の哀調を帯びた軍歌「戦友」は、日露戦争にはじまり、その後永らく人々によって歌われたが、文字どおり真紅の夕陽沈む戦場に、友のなきがらを葬る兵士たちは、思を故国の父母の上に馳せて、涙を流したことであろう。それは日本兵・ロシア兵を問わず、共通した人間の感情でもあったろう。見も知らぬ、何の怨もない人々が、なぜ殺し合い、屍を広野に埋めなければならないのであろうか。平民新聞は、その愚を幾度びか警告したが、戦いは続けられ、鮮血を吸った満州の野には、驚くように真赤な大きな花が咲いたという。それにしても、戦争に当って、宗教家はどのような態度を示したであろうか。十字架を手にして先頭に進むロシアの宣教師、死者を回向する日本の従軍僧など、神を説き仏を教える宗教家も、ほとんどが戦争の遂行に一つの役割を果したのであった。(『画報近代百年史3』より。キャプションも)


後の世のように怒らなかった明治軍人はそれなりに偉い、それなりの正義があったのだろうと思われる。軍人といっても維新の元勲たちも多くいて筋がとおっていて、また彼らの多くは超貧乏人の出であった。私たちも命を懸けてます、あなたちも一生懸命なら道は違えお互い協力できるでしょう。
頭の良すぎるどこかの職員や、エエトコ出の議員その他どもはは「グルメとロマンと文明のかほりの近代化明治の舞鶴」と宣伝する。
深刻なビョーキではなかろうか。病院つぶし病で自分の脳天も潰してしまったのであろうかのお。

 戦艦「三笠」はそれでも買うゼニがなかった。貧国の政治家は腹を切る覚悟を決めていた、違憲の予算流用して何とか発注したあと海相と内相は本気で二人で二重橋の上で腹を切ろうと約束していたという。春日・日進のゼニもなかった。石炭も買えなかったが支払いは翌年廻しにしてもらえた。



   



 誠に苦労の連続であったと想われる、が、20対2.5の本気の勝負、はたして勝てるものなのだろうか。
それでもまずムリな話でなかろうか。負ければ暴動が起きよう。革命はロシアでなく、日本で発生したことであろう。日本は何とか勝ったが暴動が発生し東京市には戒厳令が敷かれた。
内相官邸正門前の乱闘
↑05年9月5日、「講和反対国民大会」の会場である日比谷公園に続々と集まってきた群衆は、1時過ぎ、警察官の制止を振り切り、正門の丸太の柵を破って公園内に入った。夕方になってから内相官邸正門前で、突入しようとする群衆と防止する警察官との乱闘となった。(朝日クロニクル『20世紀』より)

戒厳令だから兵隊が出動している。敵国の兵隊ではなく、自国の丸腰の納税者が敵になった。自国民と戦う、何のために?誰のために? 勿論支配者どもを守るためだが、基地や兵隊とは、自国の兵隊も外国の兵隊も無論そうだが、実はこんな大きな役割もある。ご宣伝のような敵国に対する「抑止力」ではないようで、自国民に対する「抑止力」のようである。世も末。これが亡国、革命も起きよう。

 貧国が10万d原子力空母を何隻も買い、超大国相手に命がけの大戦争をするのだから、国民の負担は超大変。その上に飢饉が発生した。

↓05年の天候不順で東北地方東・南部は大凶作に見舞われ、同年秋から翌年にかけて大飢饉に見舞われた。食糧に窮した農民は木の根や草、あるいは稲わらを臼でついて食べ飢えをしのぐが、多くの餓死者を出し、農村は疲弊の極に達した。役所や慈善団体が援助物資をもって困窮農家を訪れるが、焼け石に水だった
1905飢饉

飢饉孤児
↑東北の大飢饉で多数の孤児が発生。キリスト教や仏教の団体が中心となって孤児の引き取りに奔走した。各地の施設に引き取られた孤児は約2300人。地元の仙台養育院を始め遠く九州まで運ばれた子供たちもいた。写真は3月、石井十次の岡山孤児院に引き取られる途中、東京の篤志家の家にたどり着いた孤児たち(いずれも朝日クロニクル『20世紀』より。キャプションも)

明治39年東北凶作地帯スナップ

明治39年東北凶作地帯スナップ
↑自在鉤のほかには、農家らしいものは何一つない。凶年に耐える力のないことは、徳川時代とちっともかわらない。

明治39年東北凶作地帯スナップ
↑凶年ともなれば、父は逃亡し、母は日傭取りをして糊口をしのいでいる、極貧の農家である。わずか7歳の子がほんの少しの薪をひろってくる。(『画報近代百年史3』より。キャプションも)

実はこうした農民や労働者など貧者の犠牲の上に作られた大貧乏国強兵策であり、その犠牲の上に軍艦通りや郷土の誇り赤レンガ軍用建物群などがあるわけである。陸軍が勝ったのでも海軍が勝ったのでもなくそのスポンサーである極貧に耐えた国民こそがロシアの帝政に勝ったのだと思う。赤レンガも軍艦通りも実は海軍のものではなかった。もちろんクソ職員どものものではない。彼ら幾千万の怖ろしく貧乏で靴もはけず低品位のアワヒエを喰い、それでもなけなしのカネで税金を払ってくれた貧農や低賃金労働者の勝利であった。これを明治人はよく知っていて忘れなかった、ここが明治人の偉いところかも知れないが、後の時代になるほど堕落してこうした大事な事が忘れられる、国が亡びたのは当たり前の道理であった。どうか同じ愚かな堕落と滅びをどこかの職員さまは繰り返されませぬように、決して過去の物語ではありませんから。
赤レンガ倉庫を見てロマンチックだなぁと単純に感激するのは利口がすぎて大事なもう片面がみえてない、想像もできない世界が笑う××市の職員どもだけではなかろうか。私などはこのボロ農家の方に感激する。これを赤レンガ倉庫の正面に復元保存する方がよほどに舞鶴の誇りとなり有意義であろう。
人の苦労もわからん、想像もできない最低人間どもに大金積んで職員をさせておいて大丈夫なのだろうか。市長さん。とにかく早急に赤レンガ10億円分+これまでの赤字分、市民病院の赤字分の職員あるいは議員を削減してくれ。超ノンキなゼーキン感覚では消費税10%ではもつまい、100%でももつまい。1000%でももつまい。

明治43年の中等農家の収支決算がある。同じく『画報近代百年史3』には、
 〈 1町歩の田地を自作する中等農民の収支計算
親1人子2人をもつ夫婦があくせくと働いて1カ年の収入が267円10銭ある。ところがいろいろの税金、肥料、農具、衣食……などと支出を計算していくと合計316円20銭となり、49円10銭の赤字である。中等自作農家ですら、こうだから、それ以下の農民の状態は推して知るべしである。(「東京パック」明治43年2月10日)  〉 
今も1町歩で、米だけなら同じらしく、作れば作るだけ赤字。明治以来進歩のない一等国である。

千人針
銃後は40年後も同じ様子、この頃から「千人針」があったようである。英語ではThe Safety Girdle よぶそうで、神戸の街角の風景。

小学生の模擬戦
↑小学生の模擬戦 日露両軍に分かれて戦争ゴッコ。いずれも「絵入ロンドン新聞」所載。(『画報近代百年史3』より)


 無茶苦茶な戦費。『宮津市史』は、
 〈 …日露戦争の戦費は一八億円をこえ、約七億円近くを外債で賄ったほかは増税と国債により、これも庶民に重い負担となってのしかかった。とりわけ国債は、郡・町村を通して各家々に割り当てられて消化されていった。明治三十九年三月には、日露戦争の後始末のために臨時事件公債二億円を募集し、従来と同じく各村への割り当てにより消化が図られた。だが戦争終結後の募集であったことから、上宮津村組長会では割当額九二○○円の半額四六○○円を辞退する旨の請願書を提出している。その理由としては、@村の総地価八万円のうち二万六○○○円が他町村持ちとなっている、A韓国に渡来者が続出している、B三十八年の米作が二割以上の減収であったうえに降雪のため本年の麦作も収穫の減少が見込まれる、以上三点をあげている。上宮津村では奉公義会費二二六円余の各戸への割り当てもやめ、山林の材木を売却してしのいでいる(『上宮津村史』)。民衆の負担は限界に達しつつあったのである。
 このように日露戦争は前線の兵士はもちろんのこと、銃後の庶民にも多くの負担を強いた戦争であった。しかし日本の勝利は薄氷を踏むもので、奉天会戦以後日本軍は戦場で指揮する将校や武器弾薬、さらには資金面でも行き詰まり、早急に講和を求めざるを得ない状況にあった。こうして明治三十八年九月五日、樺太の南半分を得たものの賠償金なしの条件でボーッマス条約が結ばれた。その内容に怒った民衆は、同日いわゆる日比谷焼き打ち事件を起こし、軍隊が出動して鎮圧する事態となった。以後講和反対運動は全国に広がっていく。宮津町でも九月六日、三井長右衛門ほか八人の発起により万年座で条約破棄を求める大会を開催し、次のような決議を採択した(『日出新聞』明治38・9・9)。
  一現内閣員及有責元老は速に自裁して罪を上下に謝すべし
  一現講和条件は極力破棄せんことを努む
決議後直ちに政談演説会に移り、岡野告天子、牧放浪、杉山荘太郎、津原武が講和反対の演説をおこなった。  〉 

三井長右衛門さんは天橋立を守った宮津町長の先代かも。
当時のお金を、現在のお金に換算するのは、だいたい10万倍してもらえばよいよう。日露戦争「勝利」の背景
各戸割り当て分の226円なら現在なら2500万円程度になるのか。何戸あったかは知らないが、大変な金額になろう。戦争大好きな方はどうか買ってください。



 ロシアではこの年の1月「血の日曜日」、12月には「労働者武装蜂起」など革命前夜の様相を呈していた。
血の日曜日

血の日曜日
↑戦局の不利とともにロシア民衆ことに労働者の困窮は堪えきれぬものとなった。既に戦争第一年の一九〇四年、国内の不安と動揺はたかまっていたが、旅順陥落と共に明けた一九〇五年には抑えきれぬ段階まで達した。
1905年1月22日(露暦一月九日)僧侶ガポンに率いられた一四万人以上の労働者は、妻子をひきつれ、ツァーの肖像と教会旗を捧げ、雪の降りしきるペテルスブルクの街を皇帝の住む冬宮をさして行進した。
彼らの請願書には次のような悲痛な文字が綴られていた、…私達ペテルスブルク市の労働者、私達の妻、子供、頼り少なき老いたる両親は、正義と保護とを求めて、わが君、陛下の許に参りました。私達は貧窮に打挫かれ、抑圧され、堪えられない労働の重荷を負わされ軽蔑をうけ、人間らしい取扱いは受けていません。私達は専横と暴政のため今にも窒息しそうになっております。私達にとってはこの堪え切れぬ困難を続けるよりも死ぬ方がよいと思われる悲しい時機が到来しました… たしかにロシア民衆は皇帝に哀願することによってその困窮が救われると考えていた。
だが、彼らがナルヴァ門にたどりついたその時、皇帝ニコライ二世はかれらを射撃することを命じた。一瞬ペテルスブルクの雪は血潮でまっかに染められた。労働者は血の教訓を得た。かれらは哀願することで自分たちの権利を獲得し得ないことを理解した。
その日の夕方にはペテルスブルクの労働者地区でバリケードがきずかれはじめた。革命が勃発したのである。(『画報近代百年史3』より、キャプションも)


オデッサのストライキオデッサのストライキ オデッサの軍港のドックがもえている。“Fight in the FarEast”所載。

1905年1月22日(露暦1月9日)の血の日曜日はロシア第一革命のきっかけを与えた。労働者の革命的闘争はいっそう激しくなり、かつ政治的な様相を帯びるにいたった。そして農民は、各地に地主に対する反乱にたちあがり、軍港オデッサにゼネストの火があがった。オデッサの近海に碇泊していた黒海艦隊の戦艦ポチョムキンの乗組水兵はゼネストに呼応して反乱をおこし、司令官の命令を拒否してオデッサに回航し、数日のあいだ、そのマスト高くへんぽんと革命の赤旗をひるがえした。この反乱は、陸海軍での最初の大衆的革命行動であり、ツァー(皇帝)の武力の大きな部隊が革命に参加した最初の事件であった。そして、これは、日露戦争の終結を早め、決定的なものとした。



戦艦ポチョムキン
↑革命に参加した戦艦ポチョムキン オデッサで労働者のゼネストが進行していた時、黒海艦隊の戦闘艦「ポチョムキン」の水兵は反乱に立ち上り、艦をオデッサに回航し、マストには高々と革命の赤旗をひるがえした。「絵入ロンドン新聞」所載。(いずれも『画報近代百年史3』より、キャプションも)

労働者は社会変革の主力部隊。ここが立ち上がれば皇帝もひっくり返る。その知識と自覚と責任感があるのかどうか。どこかの旧工廠の労働者たちは病院つぶしどもを応援していたようだったが…。市職員さんや労働者諸君さん、帝政を潰すでなく何で病院つぶすんよ。全世界が大笑いしていることだろう。


 近代国家に対する幻想が現実に打ち砕かれて社会問題が広範囲に噴出し、国民生活は逼迫して格差と貧困が極度に本格的に広がる。しかし政府も自治体も何も有効な解決策を差し伸べようとはまったくしない。国民生活には目を向けず一つは産業経済基盤を整備して経済力をつけ国力増進させようとする。もう一つは軍事力の増強・侵略の方向をとる。富国強兵策。富国ならまだいいが、実は一般人から見れば貧国強兵策。
どこぞの政党が出任せに言うが、豊かな活力ある国をといっても一般国民ではない、大金持ちのみがという意味であるが、戦勝と同時にとったのが貧国強兵の亡国への道。何かどこかのいつかと似てるなと思われるだろうが、そんな間もなく現代が生まれようとしていた。



八島通り



 八島通りの真ん中はアーケード街になっている。自称「北都の雄」第一の商店街である。







八島通り(大正11年)
しめやかな葬列(舞鶴市・大正11年) 軍の制限により、舞鶴でのこのような戸外撮影はきわめて珍しいことであった。現在の八島通りでの光景。

八島通り(昭和13年頃)
八島通り(舞鶴市・昭和13年頃) 八島市場や各種の商店があり、当時のメーンストリートのひとつとして活気をみせた。八島通り六条から西を見る。
(いずれも『目で見る舞鶴・宮津・丹後の100年』より。キャプションも)



戦艦八島は1896年に進水した。
排水量:12.320トン
最大速度:15.25ノット
全長:113.4m
航続距離:7.000海里
全巾:22.5m
機関:13.500馬力
乗員:741名
兵装:
主砲:40口径30.5cm2連装砲2基:4門
副砲:40口径15.2cm単装砲:10門
47m単装砲:24門
45cm水上雷発射管1門
45cm水中魚雷発射管4門

 戦艦「初瀬」の所で書いたが、1904年(明治37年)5月15日旅順港閉塞作戦で旅順港外、老鉄山南東沖10海里を航行中、三番艦で続いていた八島は二度被雷して沈んだ。同じコース上のパトロールを繰り返していたのでそこに機雷を敷設されたわけである。この日限りでこんな危険はヤメというその日にひかかってしまった。このほかこの日の前後のわずかの間に虎の子の7隻の軍艦を失った。二倍以上の強大な敵を前にしたピリピリの東郷艦隊でもやはり人間、こんなことがある。皆の注意が極度の疲労で散漫になる魔の瞬間のアっという間の出来事であった。
戦艦「八島」と戦艦「初瀬」が触雷沈没。軽巡「吉野」衝突沈没、駆逐艦「曙」触雷沈没。通報艦「宮古」触雷沈没。軽巡「龍田」座礁沈没。特務艦「大島」衝突沈没。
曙通り」「宮古通り」や「初瀬通り」「敷島通り」を通られる時は思い起こして気を引き締められるとよろしいかも。
龍宮橋の通りが「宮古通り」、もう一つ東側が「曙通り」→
軽巡「吉野」は日清戦争で活躍した優秀艦だけれども、通り名には残っていない。

この1月前に逆に機雷でロシア艦を沈めている。同じコースを通るロシア艦の運動を見た、日本海軍が前夜敷設したばかりの機雷に旅順艦隊の旗艦「ペトロパウロスク」がひかかり真っ二つになって沈み、名将マカロフ提督が戦死した。世界的によく知られた軍事理論家で、秋山真之も愛読した、もし彼が生きていたなら東郷とてヤバすぎる名将であった。

ペテルパウロフスク号の轟沈 1904年4月13日極東艦隊旗艦ペテルパウロフスク号は機雷にふれて轟沈、マカロフ提督も共に戦死した。「絵入ロンドン新聞」所載。(『画報近代百年誌史3』より。キャプションも)
旗艦ペトロパウロフスク轟沈

初瀬・八島の虎の子の戦艦を失ったのは機雷であったし、マカロフが死んだのも機雷であった。浮島丸触雷説が舞鶴では支配的だが、というかそれしか言う者もない、というよりこんな分野でもたぶん思考停止の死んだ町なんだろう、では機雷爆発に関する確かな知識があるのかといえば別に何も聞いたことがない。機雷機雷というが、オマエは機雷ってどんな威力があるものか知ってるのかと問うと黙っとってんですわ、よその人はそんな事を言ってよく笑うが、舞鶴とはそんな町のようで、よく人の話を聞いて見聞をよくよく拡げてから言わないと世界が笑う。
『坂の上の雲』を読んでみよう。
 〈  戦闘終了の鐘が鳴った。
 水兵たちが砲側から離れ、甲板のあちこちで足をのばしはじめた。
 マカロフは戦闘指揮所を出たとき、たまたまそこにいた従軍画家のウェレシチャーギンに気づき、陽気に声をかけた。
「うまく写生できましたかね」
というと、画家はスケッチブックから目をあげ、それが提督であることに気づくと、ちょっとはにかみながら両手でスケッチブックをかざしてみせた。写生帳の水平線上に、日本艦隊がえがかれていた。
 現実の水平線上にも、日本艦隊がいた。空を幾すじもの煙が染めている。
 そのとき天地が裂けたかとおもわれるほどの轟音がおこり、艦底が持ちあがり、甲板が大きくかしぎ、大火柱があがった。すべてが同時だった。マカロフは爆風のために飛ばされ、甲板にたたきつけられた。
 マカロフが起きあがったときは、血みどろになっている自分を発見した。かれはすぐさま外套のボタンをはずし、ぬぎすて、さらに靴もぬいだ。この海に馴れた老将は、舷側から海へとびこむつもりであった。かれは重傷にも屈せず舷側へ出ようとした。しかし、甲板が胸突きの坂のようにかしいでしまっていて、うまく歩けない。
 そこへ第二の爆発がおこった。かれはすでにのがれがたいことを知り、そのまま両膝をつき、最後の祈祷をする姿勢をとった。
 戦艦ペトロパウロウスクが大爆発をおこしてから沈没するまで、わずか一分三十秒ほどでしかなかった。マカロフは艦とともに海底へ没した。このときマカロフと運命をともにした者は、六百三十余人であった。
 「信じられない」
と、この光景をみて一様に叫んだのは、この水域のそばにある黄金山砲台の陸兵たちであった。マカロフは所属のちがう陸兵たちにまで評判のいい男だった。
 砲台の陸兵たちがみた光景というのは、戦闘を終えていわばしずかに帰港しようとしている旗艦ペトロパウロウスクと、大小十数隻のその艦隊であった。その旗艦が、ロシア側でルチン岩といっている岩礁のそばまできたとき、突如大爆発をおこしたのである。海水が壁のように騰って艦をつつみ、やがて第二の爆発がおこり、艦体は青みがかった黄色の猛煙を噴きはじめ、すぐさま艦首が沈み、艦尾がたかだかとあがって、そのスクリューが非常ないきおいで空中で回転した。とみるまに沈み、あとの海面には煙だけがのこった……。
 黄金山砲台の陸兵たちが目撃した沈没の光景というのはそういうものであった。
 かれら陸兵はいっせいにひざまずき、脱帽し、右手の指三本をあわせて胸で十字を三度えがくというロシアふうの祈祷をして、かれらが誇りにしていた世界的名将の最期をとむらった。
 一方、日本艦隊のほうでも、この光景を遠望していた。
 遠景としてみたこの光景は、当然ながら不明瞭であった。ペトロパウロウスクとおぼしい一艦が急に黒煙につつまれ、轟音が水をひびかせつつ日本側にもつたわったが、しかしそのつぎの瞬間には艦影がなかった。
「どうしたのか」
と、幕僚が他の幕僚にきいた。たしかに後尾の巨艦が消滅した。しかしあまりとっさの光景のために、これは錯覚かもしれないとおもい、自信がなかったのである。
 幕僚のひとりである真之は、双眼鏡というものをもっていない。この理由はのちに触れるが、かれはそのためにこの光景を見ていなかった。
「未確認なるも、敵一艦沈没せるもののごとし」
といったふうの報告を大本営にむかって幕僚たちが発しょうとしたとき、東郷が双眼鏡をおろし、「沈没した。旗艦ペトロパウロウスクじゃ」と、明瞭にいった。かれの高性能の双眼鏡だけがこの光景を確認できたのである。  〉 

機雷とはこんなに威力あるものである。いかなる巨弾も及ばない。戦艦ですらアっという間に沈み、並の水兵以上に敏捷だったマカロフでも逃げられない。浮島丸がもし機雷ならあの程度の爆発だっただろうか。
旅順口外の偶発の小戦闘にマカロフが出て来たもので、このときばかりは掃海ができていなかった。
明日は我が身、同じ手で自軍が逆にやられるかも、東郷も旅順パトロールに2交代で出ていたので、順番が一日ずれていたなら、三笠が沈み、東郷も戦死していたことになったかも。
それも忘れてしまうほどに戦いが連続して、心に大きな死角ができていたと思われる。
同じく『坂の上の雲』
 〈  この日の出番は、東郷の代理として海軍少将梨羽時起が初瀬に座乗し、敷島と八島をひきい、さらに巡洋艦、駆逐艦以下をひきつれて定期パトロールに出た。
「×地点(老鉄山付近)」
というのが、港口の外洋にもうけられていてこのパトロール艦隊はそこまで行ってぐるりと反転しもどってくる。この×地点をきょうかぎりで廃止しょうという日が、この五月十五日であった。
 初瀬は一五二四〇トン、一八ノットの世界的な戦艦である。以下敷島、八島の順ですすみ夜が明けきったころ旅順にちかいあたりに達した。すでに夜来の濃霧もはれ、遠望も十分きいている。
「なんの心配もせず、平気でわれわれはすすんでゆく」
 と、このとき敷島の艦長だった寺垣猪三という大佐が、のち中将になってから当時を回顧している。このあたりは水深もふかく、しかも旅順から南へ十一海里の地点で敵の砲台の射程からはるかに遠い。
 ところで午前十一時前、敷島の前方にあたって海をゆるがすような大爆発がおこり寺垣大佐がそのほうをみると、初瀬の艫のあたりに大きな煙の渦が巻きのぼっているのがみえ、やがて艫から沈みはじめた。
 あとでわかったところでは、初瀬は艦の尻が触雷して舵機をこわされた。そのあとすぐ別な機雷に触れ、こんどは火薬庫が爆発し、破片を天に四散させつつ一分十秒で沈没してしまった。戦死者は四百九十三人である。
 戦艦八島(一二五一四トン)が後続している。八島は初瀬を救おうとするうち、これまた触雷し、大爆発とともに艦底をやぶられ、付近の岩礁にやっと乗りあげたが、ほどなく沈んだ。乗組員は全員救助された。  〉 




富士通り


 富士は案内プレートがないようで写せないが、「八島」と同型艦、二姉妹艦である。
↓戦艦「富士」(朝日クロニクル『20世紀』より)
戦艦「富士」

↓富士通り(京都府舞鶴市浜)



 本当は日清戦争の清の主力戦艦「定遠」「鎮遠」(7400トン・30センチ砲×4門。14インチ鋼装砲塔・12インチ舷側鋼帯)に対するためにイギリスで建艦されたものだが、日清戦争には一ヵ年、まに合わなかった戦艦であった。
当時の日本海軍には定遠・鎮遠をブチヌク大砲はなかった。定遠の半分の口径砲しかなかった。

 急いで建艦されたのが三景艦と呼ばれる「松島」「厳島」「橋立」であった。これらの艦名の通りがある。
「松島通り」「厳島通り」「橋立通り」→
松島橋の通りが「松島通り」、一つ東が「橋立通り」、一つ西が「厳島通り」。
これらを「三景通り」と呼ぶようだが、「三景艦通り」ではなかろうか。またいつか書いてみようか。
三景艦は定遠の30センチに対して32.5センチ砲を1門だけ積んだ4000トンの速力は定遠以上の艦であった。
今の自衛隊の中ごろの大きさの船に32.5センチ砲を1門だけ積んだようなものだからバランスが超わるい。いかにもビンボー国らしいビンボーたらしい船であるが、真正面向けていればいいが右や左を向けると艦全体が傾く。重量物を甲板上を移動させて水平を出して、出ないので水平に撃つにも仰角を付ける。ドカンと撃つと反動のショックで船の機関は故障する、進路は変わる。並大抵の苦労では発射できない代物であった。1発撃つにもどれだけ時間がかかることやら。定遠鎮遠相手に実際に撃ったのかといえば0〜2発は撃ってるが、当たるわけはなかった。
もうちいとらしい船がほしい、定遠鎮遠と正面から戦える船がほしいと建艦されたのが、「富士」「八島」であった。こいつならバンバンもったいないような戦艦であった、のちの日露戦争に役立った。





海岸通り

 富士通りのも一つ海側に「海岸通り」がある。今の「潮路通り」である。名の通りの海岸であった。
↓海岸に沿う道路がそれである。五条桟橋も見える。
海岸通り(昭和32年頃)
右の通りを手前に来て、寺川に架かる橋が「海軍橋」(今の夕潮橋)。この橋の下の泥の中にはゴカイがたくさんいて、魚釣りのエサに採りに行ったもの。
海軍橋(昭和30年代後半)
↑寺川河口左岸の六島付近には、明治34年の舞鶴鎮守府開庁以来、舞鶴防備隊が昭和10年代まであったが移転。その後、同地は舞鶴鎮守府の経理部や施設部などが使用した。昭和30年代後半ごろは、上の写真の向かって右の建物を近畿財務局舞鶴出張所が、その左の建物を第八管区海上保安本部が使用していた。海軍橋は昭和7年、旧海軍が鉄筋コンクリート橋として完成させたが、昭和40年に架け替えられた。同時に橋名も「夕潮橋」に改められ、橋の架かる臨港線を「潮路通り」と呼ぶようになった。
寺川河口右岸と二条通り、そして富士通りに囲まれた一角には、戦前から戦中にかけて海軍関係の施設があった。また現在の防衛庁共済組合の地には、海軍准士官の社交機関だった舞鶴海友社があった。その西隣りの写真の位置は、海軍機関学校甲号官舎と海軍爆薬部官舎があったが、現在は大蔵省近畿財務局舞鶴出張所が建っている。そして、海友社と官舎の北側の広大な土地には、舞鶴下士卒集会所があり、多くの海軍の若者が集った。(『ふるさと今昔写真集』より。キャプションも)

下士官兵集会所(昭和初期)
↑下士官兵の修養娯楽施設
舞鶴海軍下士卒集会所は、明治三十六年、北吸の軍港構内に設置されたが、大正二年、浜の二条通り富士北に新築移転。海軍下士官の修養娯楽施設で、館内には、事務室や応接室、遊戯室、展覧室、理髪室などがあった。外には、奨武館という大道場があり、撃剣、柔道、相撲などの練習場として使用された。
広大な敷地のなかでは、春には桜が咲き乱れ、海軍軍楽隊の演奏が市民に披露され、大変親しまれた。現在その跡地は、舞鶴勤労者福祉センターや海上保安学校修練館、東乳児保育所、NHK舞鶴ラジオ中継放送所などとして利用されている。(『ふるさと今昔写真集』より、キャプションも)





巡洋艦「日進」・「春日」



↓日清戦争後、日本はイギリスに戦艦6隻の建造を注文するなど、海軍拡充にやっきとなっていた。日露対決を間近にした1903(明治36)年末には、イタリア・ジェノバの造船所でアルゼンチン海軍のために竣工直前だった巡洋艦2隻を急遽購入した。写真はジェノバ港外で儀装中の2艦で左が「日進」、右が「春日」。1本マストのほぼ同型艦で、一等巡洋艦に登録された。排水量7700トン、全長約105メートル、速力20ノット。なお「日進」には若いころの山本五十六元帥(当時少尉候補生)も乗艦し、日本海海戦で戦傷を負う(朝日クロニクル『20世紀』より、キャプションも)
左が「日進」、右「春日」

 黄海海戦や日本海海戦で、初瀬・八島が欠けたあとを埋めるのが、重巡「日進」と「春日」であった。明治35年に軍都舞鶴の通り名を命名した時にはまだなかった船である。イタリアで造船中のアルゼンチンの重巡「リバタビア」と「モレノ」であったが、イギリスの情報で知りロシアと競り合って大金を積み明治36年暮れも押し詰まってようやく購入したものである。ともに優秀艦で、「日進」は舞鶴に配属された。
市史は、
 〈 巡洋艦 日進
 明治三十七年一月イタリアでしゅん工。排水量七、七○○トン、機関出力一万五、○○○馬力、速力二○ノット、一○インチ砲と八インチ砲、発射管四門を備え、その主砲の射程は二○キロメートルに達する性能をもつ主力艦に準ずる一等巡洋艦であった。同年舞鶴軍港に配属された。
 日進は同型巡洋艦春日と共にアルゼンチン国軍艦として建造されたものを、日本が日露開戦に備えて急拠購入したものであった。黄海海戦や日本海海戦において目覚ましい活躍をしたことは有名である。  〉 

艦隊一の長射程主砲を持っていた。外洋から山越えに旅順湾内が撃てた。
日本海海戦では若き日の山本五十六がこの日進に乗っていた、「テッポウ撃ち」をしていたそうで、この海戦で指を飛ばしてしまったという。

↓「日進」「春日」が横須賀へ2月16日、イギリスの仲介でアルゼンチンから譲渡を受けた新巡洋艦「日進」と「春日」が、建造地イタリアのジェノバから長期航海をして横須賀へ入港。10日の対露宣戦の直後だけに、入港してきた両艦を官民あげて大歓迎。このあと両艦は呉に向かった。写真は3月14日、江田島に仮泊中の「春日」(朝日クロニクル『20世紀』より、キャプションも)
巡洋艦「春日」

 ↓天橋立の磯清水の近くにこんな大砲が1門、砲身だけ置かれている。「軍艦春日」のものと説明板にある。この巡洋艦春日と思われる。6インチ速射砲である、春日には14門あったがその1つと思われる。上の方の射撃訓練をしている砲も6インチ砲。
こうした小口径砲は日本海軍が得意としたものであった、大口径の数はロシア軍に劣るが小口径は上回っていた、これで敵艦を撃つには接近戦をしなければならなかった、4000メートルくらいに近づかないと命中率は上がらず有効ではなかった、この小砲の有効射程内まで接近して撃ち合えば、日本側有利の計算がされていた、常識を打ち破った接近戦が戦われた、6インチは日本を救った砲であった。
ロシア人も橋立観光に訪れるのでそうは書かれていないのか、これがバルチック艦隊を撃った6インチ砲↓
軍艦「春日」の大砲()

秋山真之でしょう、砲弾は下瀬火薬…などと司馬遼太郎で読んだと女性でもけっこうご存じの様子。
説明板


   

 津軽や宗谷海峡にバルチック艦隊が迂回するかも知れない、それに備えて各艦船は甲板にまで人の背以上に石炭満載で待機していた。
しかし予想した通りに対馬に来てくれた。大喜びで、超高価な英国インポートの無煙炭を惜しげもなく海中へ投げ捨てて、甲板を海水で洗い掃除し消毒し、砲塔の廻りには血糊で滑ることないように砂を撒き、総員が風呂に入り、ま新しい戦闘服に着替えて海戦に急ぐ。
さあいよいよ天下分目の関ヶ原。奇しくもこれを書いている今日はその105年のちの同じ日である。
関ヶ原や徳川家康や細川幽斎などは世界の誰も知らないし興味もないどうでもいいローカル史ものだろうが、日本海海戦やトーゴーは世界史ものでよく知られ研究されている。

 東郷は明治34(1901)年に新設の舞鶴鎮守府の初代長官であった。舞鎮長官は閑職で次は予備役だろうとうわされていたが、明治36年連合艦隊司令長官に抜擢任命された。訝る明治天皇に日本海軍育ての親であった山本権兵衛は「東郷は若い時から運のいい男ですから」と答えたそうである。まあ運も実力のうち、名将は敵将よりも必ず運がよくなければならない。ギリギリの勝負ではそうだと思われる。東郷がいたころの舞鶴は確かに運がよかったかも知れない。ウンも実力のうち、ツキも実力のうち、こうしたときは必ずついてるやつにやらせる、が正解かも知れない。
とっくの昔にあるじすでになしだが、人気がある東郷邸↓



海軍大将東郷平八郎の揮毫になる忠魂碑(与保呂)→与保呂小学校正門(すぐ隣に村役場があった)の斜め向い側に立つ忠魂碑。「海軍大将東郷平八郎」と書かれている。共楽公園と四面山の忠魂碑も「海軍大将東郷平八郎」の揮毫になる。61名かのこの村の戦死者の名が彫られていた、10インチ砲弾のよう、直径約25センチ、長さ約80センチある。戦艦主砲と重巡主砲の中間サイズ、日進・春日の主砲クラスである、信管がないので実弾ではなさそう。
靖国神社の当村末社のようなもので、A級戦犯などは合祀されてはいない様子、英霊に感謝の誠を捧げるとか本気で言っているのなら、こうした所へ詣でればいいのだが、そんなことはゼッタイにしないし、市民でもそう詣でる人はないよう。まぁこうした物が二度と立てられることなきよう、詣でることが繰り返されることなきよう努力し務めるのが戦後に生きる政治屋はもちろんだが、我らの責務である。詣でて文句あるかなどとバカボン丸出しの逆ギレして周辺諸国との平和構築にために逆のことしかしないようなふざけたことでは詣でる資格はない。

『中舞鶴校百年誌』(昭51)は、
 〈 古老の回想と新聞の報道
 古老(川井馬蔵氏明35卒)のお話によると、入学時の明治31年には今の郵便局の横にあって、屋根に大鼓堂のある校舎で授業の始まるのを、この大鼓をドンドン叩いて知らせたとのことである。(その後写真43のように鐘に変り、現在はチャイム)
 (注・椙山志香さん、坂本さよさんの記憶によると、余部小学校には大鼓堂はなく、小使いさんが「りん」を振って合図したそうであるから、川井氏の思い違いで、これは坂本さよさんが西の明倫小学校の高等科へ通学していたころ相生橋のあたりまで大鼓が聞えてきて慌てて走ったが遅刻したとの思い出話から想像すると、川井氏は初年も昔のこととて明倫校と混同されているとも考えられるが確かなあかしはない)
 学校の前には余部下の田んぼの中を流れている小川が今のように港内に注いでいた。自分はこの学校へ通うために自宅(和田)から山道坂や峠を越して北舎上(現在の中保育所)へおり、それから南通りの山裾を通って下二丁目付近から田んぼへ出て通学した。
 軍港工事や市街計画工事が進むにつれ、校舎も狭くなったので明治34年4月新築落成した木の香新らしい学校(前記中保育所位置)に移転した。丁度その年の10月1日舞鶴鎮守府が開庁になり、初代司令長官東郷平八郎中将が慥か軍艦吉野に乗って赴任せられた際3、4年の生徒(このころ余部小学校は尋常科のみで修業年限は4ケ年)が長浜海岸から大きなはしけ舟に乗って戸島付近まで出迎え、坂根益吉校長の発声で司令長官万歳を三唱したことは忘れられない思い出のひとつと述懐されている。
 東郷中将は家族と共に写真44の長官々舎(現総監部会議所)に約二年近く在住されたので、長女八千代さんは明治34年本校4年生に転入、翌35年3月に尋常小学を出られた。(写真45)八千代さんは4年生の男女の中で一番背も高く体格のよいお派なお嬢さんであったとの、前記川井氏の追憶のとおり卒業写真にその面影が窺えるし、また身にまとう晴着には一般庶民の手のとどかない上流社会の豪華さが偲ばれ、まるではき溜に鶴の感じを村人にただよわせたであろうと想像されるのである。  〉 


舞鶴鎮守府長官から抜擢されて、連合艦隊がいる佐世保へ向かった。この時は55歳と思うがヨボヨボのジイさんであったという。東郷は世界史上の名提督となったが、この当時は明治海軍の中でも最も名声のない人物であったという。

『坂の上の雲』は、
 〈  東郷は終生、自分の賢愚をさえそとにあらわしたことがないというふしぎな人物であった。東郷は賢将かということについては、かれの辞令が公表されたとき、連合艦隊の基地佐世保でも話題になった。ほとんどの士官が東郷を無能ではなくとも、凡将であるとおもっていた。
 真之の兵学校いらいの親友である森山慶三郎は、東郷の名前を佐世保できいたとき、
「東郷さんといえばその存在さえ現場の士官たちのあいだではおぼろげで、まして能力がわからない。われわれ士官仲間では、そろそろいくさがはじまるというのに、こんな薄ぼけた長官が来ちゃ海軍もだめだ、おそらく薩摩人だから選抜をうけたのだろう、何にしてもこまったものだ、と評判した」と、後年、ある座談会で語っている。
 東郷が汽車で佐世保へつくというので、森山慶三郎少佐は、少将梨羽時起、それに三笠の艦長伊地知彦次郎大佐のたった三人で迎えに行った。
「本来なら艦隊の兵員が整列し、軍楽隊の吹奏入りで迎えるべきところかもしれないが、じつにさびしい出迎えであった。このときはじめて私は東郷さんを見たのだが」と、森山はいう。
 小柄な爺さんというだけの感じで、とても大艦隊の総大将という威容はない。
「停車場の前が埋立地になっていて、地面がでこぼこし、水溜りもある。東郷さんはその埋立地をヨボヨボ下をむいて歩くのだから、いよいよこの人はだめだとおもった」
 しかし東郷が艦隊に着任してしばらくするとその人格的威力が水兵のはしばしにまで浸みとおって、なにやらふしぎな人だとおもうようになった、と森山は語っている。  〉 

下の絵↓とかテレビや映画では東郷さんはカッコよろしいが、それらあくまでもデフォルメどぎつい理想の英雄像であり、はっきり言えばウソである。わずかに残されている当時の映像動画などみてみれば真実の東郷はもっともっとジイさんぽい、威厳も何もない、そこらのジイさんである。猫背ぎみでヨボヨボの、オイオイジイさん大丈夫か、杖がいるのでないか、貸そうかといいたくなる感じが強い。ホンマにこの人がバルチック艦隊を全滅させたのか、マグレの勝利でないかと、まことに失礼ながら信じがたい気になってくる。あくまでも外見上のハナシ、内面のジイさんはそこらにクサルほども見られが、あんなものではなかった。
バルチック艦隊のロ提督は皇帝のお気に入りで、宮廷の世渡りがうまく、宴会でカッコよく強そうなことばかりを言っていた口先だけのつまらぬ人物、捕虜になってからは「メシがまずい、ウマイ物をくわせろ」とばかり言っていたという。どこの国でも事の重大さが理解もできないドつまらぬ者が言うことは同じである。あとはアツイサムイと言うだけであろう。

↓1905(明治38)年5月27日午後2時4分の旗艦「三笠」の艦上。前方にいるロシア艦を見据えるのは東郷平八郎司令長官。長官から左へ加藤友三郎参謀長、安保清種砲術長、伊知地彦次郎艦長。その左で双眼鏡を眼に当てているのは今村信次郎少尉、中腰になって艦の位置を調べるのは布目満造航海長、階段を上ってくるのは飯田久恒参謀、海図を見ているのは枝原百合一少尉。中央後方で測距儀を窺うのは長谷川清少尉、長官の右で戦況を写すのは秋山真之参謀、右端で伝声管についているのは玉木信助少尉候補生。左上方に四色の彩旗「皇国の興廃此一戦に在り各員一層奮励努力せよ」を表すZ信号旗が掲げられている。2時4分、左舷転舵の命令が下る寸前の緊張した場面である(朝日クロニクル『20世紀』より。キャプションも)。
東城鉦太郎画。関東大震災で焼失した。三笠保存会に現存のものは再描されたものという。



 トォォォォリカァァァジィィィ一杯。東郷は右手を大きくあげて左へ半円を描く、世界海戦史上超有名な「トーゴー・ターン」敵前大回頭の直前の様子のよう。
左16点遂次回頭が始まる(16点回頭は180度回頭のこと。遂次というのは先の艦が回頭した位置まで進んでそこで回頭すること)。

↓Z旗が上がったのは午後1時55分。上下はこれでいいのかわからないが、この旗旒信号の意味は、
皇国ノ興廃、此ノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ。
たぶん秋山文学だと思われる。何か大芝居がかっているが、この場合は面白い。その後の海戦ではこんなものはないと思う。これは各員に伝声管を通じて伝えられた。

どれがZ旗でしょうか ↑この絵では連合艦隊はこちらへ向けて進んでいる。バルチック艦隊は右側手前にいて向こうへ向けて進んでいる。彼我の距離7000メートル、ほどなく5000メートル台、敵の射程内での敵前大回頭がはじまる。回頭中はこちらからは撃てない、撃てないことはないが撃っても当たるわけがない。一方敵からはこんなにありがたいことはない、距離がわかっていて同じ位置へ次々と艦がやってくるのだから、ただドンドン撃てばいい。こんなところで二直角に廻すか、世界海戦戦術の常識を打ち破っていた。回頭が早過ぎれば背後から撃たれるかっこうになるし、遅いと追撃戦となり、逃してしまう確率が高まる。
東郷は海戦40年の生涯がある、当時世界一の実戦経験者であった。肉を切らせて骨を切る。勝負のカンが冴える。艦橋に立てば今とるべき最も重要な戦術がにおいでわかるのだろう。
砲の命中率を上げるため、日本艦隊はいつも風上にいる。風上有利で、「風上を取る」は戦況を牛耳ることとなる。この絵のZ旗と煙の方向はおかしい。あるいはこの時点ではまだ風下にいたのかも…

↓日本海海戦05年5月27日午後2時10分ごろ、遠来のバルチック艦隊の攻撃を受けながら敵前回頭し、砲撃を開始した連合艦隊。左より先頭の「三笠」「敷島」「富士」「朝日」「春日」「日進」と続いている。とくに旗艦の「三笠」は集中攻撃を受けた(朝日クロニクル『20世紀』より。キャプションも)。同画伯のもの。
日本海海戦図

 バルチック艦隊は東郷艦隊の向う側下手にいることになる。ウラジオへ逃さないようバルチック艦隊の頭を常におさえる。三笠・敷島・富士・朝日・春日・日進、その後に6隻の巡洋艦隊が続く伝統の単縦陣、瀬戸内水軍に学んだ「長蛇の陣」。
出雲・吾妻・常磐・八雲・浅間・磐手と続くが白糸中学から海まで続く南北の通り名となって残る。

夕張か舞鶴かと、100年後のご立派がすぎる舞鶴市長や議員や官僚どもによって世界的に有名すぎるほどに有名になってしまった「舞鶴市民病院」の正門前の通りが旗艦「出雲」の出雲通り、西へ磐手通り、吾妻通り。ずっと東へ飛びはなれて寺川東沿いに八雲通り。なぜ常磐・浅間の通りがないのか不明。吾妻は舞鶴籍で舞鶴軍港の象徴のような艦であった。
バルチック艦隊は針路に機雷をまかれたと思い隊列が乱れてダンゴになっていた。下の図にもあるが、戦艦隊が2列縦隊になっている、こんなことになれば、戦力は半減してしまう。ラインダンスのように一糸乱れぬ艦隊運動ができるのは当時はイギリス艦隊と日本艦隊のみでロシア艦隊は得意ではなかったという。


 先頭の「三笠」としんがりの「日進」は舞鶴籍であるが、この2艦に敵弾は集中した。
しんがり艦は艦隊が16点一斉回頭すれば、こちらが先頭になる艦で、指令官が乗っている重要な艦、敵がねらってくるのは当たり前。先頭艦は旗艦、フラッグシップ、指令長官が乗っている。

テレビでもあるらしいが『坂の上の雲』は、(海戦図も)
 〈 六番艦の日進の状況もすさまじかった。
この艦は殿艦だったために、三笠に次ぐほどの砲弾量を浴びた。
 開戦三十分後に十二インチ砲弾が飛んできて、前部主砲の砲塔に命中したのである。このため右側の砲身は吹っ飛んで海中に落ち、弾片が四方に散ってその一部は艦橋にいた参謀松井健吉中佐の胴から下をうぼって即死させ、さらに鉄片群は上甲板、中甲板、下甲板を襲い、十七人を死傷させた。
 そのあとさらに九インチ砲弾が、すでに廃墟になっている前部主砲の砲塔に落下して大爆発し、その破片は司令塔のなかに飛びこみ、司令官三須宗太郎中将や航海長を負傷させた。さらに当時高野といった山本五十六候補生など約九十名も血みどろになった。この砕かれた前部主砲砲塔はまるで磁気をもっているようにしばしば敵の砲弾をひきよせた。三たび砲弾が襲った。三度日は十二インチ砲弾であった。砲弾は、残っていた左側の砲身をこなごなに砕いた。
 また六インチ砲弾が、大檣に命中した。
 このとき、日進の大檣にのぼっていて弾着の観測をしていたのが、中島文弥という声の大きい三等兵曹だった。かれは落ちないように体をマストに縛りつけ、上桁に腰をおろして元気のいい声で弾着を報じていたが、このときの命中弾で右脚を付け根から持ち去られ、そのため体中の血がその大きな傷口を筒口にして艦上へ降りそそぐというかっこうになった。中島はマスト上にはりつけになったようなかたちで絶命した。
 春日、日進というのは、つらい軍艦であった。
この二隻はわずか七七〇〇トンの装甲巡洋艦であるのに、三笠以下の戦艦の戦隊(第一戦隊)に編入されていた。昨年、旅順沖で機雷のために沈んだ二隻の戦艦(初瀬、八島)の身代わりとして編入されたことはすでにのべた。
 戦艦は主砲が大きく、装甲が厚い。この攻撃力と防御力を基礎にして戦艦の戦隊の戦術運動ができあがっているのだが、戦艦からみれば小児のような春日と日進が、大人なみの運動にくっついてゆかねばならないのである。ただその主砲は十インチと八インチ砲ながら仰角が大きく、一万五千メートルという長大な射程をもっていた。さらにこの両艦は副砲を片舷に六門ももっていたために戦艦の代用がつとまると判断されたのである。
  〉 

日本海海戦図

日本海海戦図


「日本海海戦:その時歴史が動いた」
「日露戦争:海戦編」

もっとも敵はもっともっと苦しかったのである。この十倍は苦しかった。
舞鶴も意外とウンのいい町で、ボカスカに撃たれる町なのかもしれないが、それらも知ろうともしないのは舞鶴のスコーン人だけかも。
もうちいと書けや、と言われているようにも感じる、私は何も軍国主義者ではないが、舞鶴にはこれも忘れてはならぬ大事な歴史の一面、あともう少し追加していこうと思っている。

水雷艇の防禦鉄板
↑当時のものといえば、こんな物が舞鶴には残されている。「明治27(1894)年日清戦役で威海衛に於いて敵弾を数十箇所受けた水雷艇の砲の外板の一部」と説明にある。余部上の若宮八幡神社境内。威海衛の夜間水雷戦。
水雷倉庫だった「赤レンガ博物館」
あんなとこ二度と行くかと市民にも観光客様にも大変に不人気の「赤レンガ博物館」なるものは、元はこの水雷倉庫であった。
のんき過ぎる官僚どもの皮算用通りに人が来るのかどうかの何の点検もないままにまた10億円をムダにするという。次は取り上げてみようかと考えている。





関連情報

日清戦争時代の軍艦名を冠した通り名
舞鶴要塞





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
『大海軍を想う』『海の史劇』『坂の上の雲』
その他たくさん





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