気比神宮(けひじんぐう)②祭神
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福井県敦賀市曙町 福井県敦賀郡敦賀町曙町 |
気比神宮の祭神《気比神宮の祭神》中鳥居をくぐると拝殿。この奥に本殿があるが、その姿は見えない。 拝殿をのぞくと、七五三詣りの様子であった。 主祭神・ 祭神は伊奢沙別命・仲哀天皇・神功皇后・日本武尊・応神天皇・玉妃命・武内宿禰命。「延喜式」神名帳に「気比神社七座並明神大」とみえる。 名神大社が7座もあり、境内境外の式内小社となるといくらあるのか、とんでもない社である。 そうしたことで、祭神もたくさんあって、そのなかのどの神が当社本来の主祭神なのかは、わかりにくい。 現在は一般には、 伊奢沙というのは、当地一帯の地名と思われる、イザとかイサとかイザサと呼ばれる、ラグーン東岸一帯の村々の古い地名かと思われる。この村の東には天筒山系の低い山々が南北に連なっていて、その東麓側は余座(ヨザ・ヨサ)村である。サは 古くは気比とか伊奢沙とか呼ばれた地であった、角鹿と呼ばれるようになるのは、後に都怒我阿羅斯等↓などが渡来してからのことであろう。 伊奢沙別命などの渡来は、この人↑よりも古い時代のことである。 「伊奢沙別命の大先輩、私はあなたと同郷の都怒我阿羅斯等と申します、ふるさとは寒くなりましたうえに、戦乱も続きます。あなたを頼って、この地に引っ越し、新たに村を築きたいと、海を渡ってまいりました、空いた土地を我等に分けていただきませんか、御礼としては…」 今もだが、当時も労働力不足、新技術を持った渡来は歓迎されたであろう。天日槍と呼ばれる渡来人たちは角鹿の地だけにやってきたものではなく、常宮や白木、沓とかそうした地にもやってきている。 天日槍の招来した神宝にイササが見える。 天日槍(天乃日矛)と呼ばれている渡来集団は一、二ではないし時代も一、二ではない。日本書紀では垂仁条に記され、二伝ある。古事記では応神条に記される。イササの地名や神社名、人命なども多く見られる。『地名辞書』は、 ○神祇志料云、伊奢沙別和気大神は此他ものに見えざれば、何神と云ふ事詳ならねど、海路に由縁ありての事と聞ゆるに附て思ふに、此は天日槍命にはあらじかと思はるる由あり、其は日本書紀、古事記、播磨風土記に拠るに、天日槍新羅より渡来し時、播磨より北海を経て角鹿にも至りけむ、故其経歴の地なるを以て、之を祭りしなるべし、其持来れる宝物に、振浪切浪比礼、振風切風比礼、奥津鏡、辺津鏡と云あるも、共に海路を渡るに由縁ある器と聞え、特に天日槍は神功皇后の外家祖なる故に、彼征伐の時に海路の事を祈りしも、此故事に依れりとみゆ、また日本書紀に挙たる宝物に胆狭浅太刀(イササノタチ)と云ふがみえ、天日槍の淡路出浅地を賜ふとある出浅も共に伊奢沙と同言なるは、日槍命の一名を伊奢沙別とも云て、此太刀より負ふ名にやあらむ。
日槍命の一名を伊奢沙別とも云て、此太刀より負ふ名にやあらむ。の説を紹介している。『日本書紀』応神三年条は 一に云はく。…
『古事記』応神条には、仍りて貢獻る物は、葉細の珠・足高の珠・鵜鹿鹿の赤石の珠・出石の刀子・出石の槍・日鏡・熊の神籬・ 其の天之日矛の持ち渡り来し物は、玉津寶と云ひて、珠二貫。又浪振る比禮、浪切る比禮、風振る比禮、風切る比禮。又
若狭湾の反対側の丹後一宮・籠神社に伝わる神宝の伝世鏡に、 兵庫県加古川市の日岡神社の祭神の天之伊佐々比古命は、孝霊天皇の皇子、亦名を彦五十狭芹彦(ひこいさせりひこ)、吉備津彦(きびつひこ)と云うという。 当社の境内摂社に伊佐佐別神社↑がある。右隣は擬領神社。中世の古図にも見えて、古くからこの位置にあったようである。 伊佐佐別神社の祭神は気比大神の荒魂と説明されている。しかしその名から考えれば、伊奢沙別命は元々は伊佐佐別神社の祭神であったと思われる。 案内板には 伊佐々別神社(いざさわけじんじや)
伊奢沙別命は、気比神とは違う性格の神で、気比神を祀る側の神であろうか。天日槍と言われることは上に見た通りである。。摂社。祭神は御食津大神荒魂神。漁労を守る神であり北方の海に面す。応神天皇皇太子の時当宮に参拝せられ。夢に大神が現れ御名を易える事を約し、その威徳により翌朝笥飯の浦一面余る程の御食の魚を賜わった。天皇嬉び御神威を畏み、氣比大神の荒魂を勧請崇祀された社である。 擬領神社(おおみやつこじんじや) 末社。社記に武功狭日命と伝えられ、一説に大美屋都古神又は玉佐々良彦命とも云う。旧事紀には「蓋し当国国造の祖なるべし」とある。 気比(笥飯)大神・ 社名が気比神宮だから、元々の主祭神は気比(笥飯)大神であろうと思われる。気比のヒは霊とか神とかいった意味で、気比とはケの神ということであろう。 ケとは何か。 ケは髪の毛のケでもあろうから、自然の恵みで発生してくるもの、そうした自然の産物すべてをいい食物だけには限らない。また気のこと、活気・元気の気、生みだす力、エネルギーであろう。 自然の産み出す力といっても、何よりもまずは人を生まなければ、そもそもその自然の恵みも、人の営みで収穫することもできないわけで、ケの神様は女性であると信じられている場合が多い。人を産み育てる女性が一番偉いのが、やはり人間社会の基本なのであろう。母系社会の場合は、ケの神様=祀る側の権力者、の関係が性の面からは問題ないが、父系社会になってくると矛盾が生じる。去来紗別神=気比大神なら、男=女になる。現在の日本のような存亡の危機と根本的矛盾に満ちた基本構造にになってしまう。あえて見ないで先送り、どちらかを消す、そんな方法で「解決」することになるようである。 名易えの伝説 気比神宮の祭神で、やっかいな問題は、祭神が名を易えたと伝わることであろう。しかも記紀に記されている。 『古事記』中巻 建内宿禰命、其の太子を率て、禊せむと爲て、淡海及若狭國を經歴し時、高志の前の角鹿に仮宮を造りて坐さしめき。爾に其地に坐す伊奢沙和気大神の命、夜の夢に見えて云りたまひしく、「吾が名を御子の御名に易へまく欲し。」とのりたまひき。爾に言祷きて白ししく、「恐し、命の随に易へ奉らむ。」とまをせば、亦其の神詔りたまひしく、「明日の旦、濱に幸でますべし。名を易へし幤獻らむ。」とのりたまひき。故、其の旦濱に幸行でましし時、鼻毀りし入鹿魚、既に一浦に依れり。是に御子、神に白さしめて云りたまひしく、「我に御食の魚給へり。」とのりたまひき。故、亦其の御名を稱へて、御食津大神と號けき。故、今に氣比大神と謂ふ。亦其の入鹿魚の鼻の血臰かりき。故、其の浦を號けて血浦と謂ひき。今は都奴賀と謂ふ。
『日本書紀』応神天皇条 一に云はく、初め天皇、太子と爲りて、越國に行して、角鹿の笥飯大神を拜祭みたてまつりたまふ。時に大神と太子と、名を相易へたまふ。故、大神を號けて、去来紗別神と曰す。太子をば譽田別尊と名くといふ。然らば大神の本の名を譽田別神、太子の元の名をば去来紗別尊と謂すべし。然れども見ゆる所無くして、未だ詳ならず。
応神天皇(誉田別尊・品陀和気命)と、伊奢沙別命(去来紗別神)とが名を交換したというのである。 誉田という地名は大阪府羽曳野市に今もある。応神陵古墳(誉田御廟山古墳)がある一帯の地名で、誉田別というのは、この村の名を負った村長さんであったのであろう。 伊奢沙別は、先にも書いたように、敦賀のこの地の地名を負った村長だと思われ、彼らが互いに名を交換するなどとは考えにくい。羽曳野市長と敦賀市長が名(個人名ではなく○○市長の肩書き)を交換するなどとはありえそうにもない。アメリカ大統領とロシア大統領が肩書きを交換したりするだろうか。たぶん記紀は何かの誤伝を元に記しているのではなかろうか。 個人名を交換したというのなら、ともかくも、それなら記紀に記すほどのことでもなく、恐らく、私の考えでは、伊奢沙別命は誰かと名(肩書)を交換したことは間違いはなさそうで、彼は正しくは気比大神と名を交換したのであろう、と思われる。 ケの神と天日槍は切り離せない、祀られる神と、それを祀る人の関係であるが、いつの日にか、祀る人のほうが、祀られる神より上になったりする、社会構造が高度化し世襲の権力者や神官集団が作られてくると、そうなってくるのであろうか。一般の人々がそのように信じていたかは知らないが、公式的には、そうなっていく。 摂社・伊佐佐別神社の祭神・伊奢沙別命は気比大神と名を易えて、当社の主祭神となった。気比大神は伊佐佐別神社に祀られることとなった。社名と合わない祭神がそれそれ゛の社に祀られている。しかしそれだけでは一般の人々が承知しないので、主祭神は伊奢沙別命だが、この神は ケの神を祀る人々 ケの神を祀るのは天日槍系の人々というのは敦賀だけではなかろう、と思われる。丹後は豊受大神の地であるが、この神を祀る人々がどうした来歴を持つかが解明不十分で、ケの神様を祀った人々が視界から消えている、あるいは丹波道主命か日子坐王になっていて、天日槍らしき名がすっかり消えているが、祀る人々なしでは祀られる神もあり得ないであろう。 必ずしもケだけではなく、名が替わっていても、土地を開いた神とか、養蚕や酒作りを教えた神とか、拓殖産業の神々とかは、天日槍が連れてきた神のように思われる。 たとえば、私の父の地である与保呂という所は、『丹後風土記残欠』に、 与保呂里 本字仕丁 与保呂と号くる所以は、古老伝えて曰く、往昔、豊宇気大神の神勅によりて、此地に神人仕丁等を置かせらる。故に与保呂と云う。 とあって、こうあれば、まちがいなく、天日槍の子孫の村と断定してよいであろう。日尾池姫神社を祀るが、これもケの神様と見てよいであろう。 与保呂は高橋(倉梯)郷内の村だが、又同書には 高橋郷。本字高椅。高橋と号くる所以は天香語山命が倉部山(庫梯山・倉梯山)の尾上に神庫をつくり、種々の神宝を収蔵し、長い梯を設けてその倉のしなと為したので、高橋と云う。今なお峰の頂に天蔵と称する神祠があり、天香語山命を祭る。また、その山口(二字虫食)国に祠があって、祖母祠と称する。此国に天道日女命と称する者があって、歳老いて此地に来居まして、麻を績ぎ、蚕を養い、人民に衣を製る道を教えたので、山口坐御衣知祖母祠と云う。 天道日女命と名が替わっている、天道はおテント様のことで太陽神の名になっているが、性格はケの神様であり、高橋(倉梯)郷が天日槍の地であることがわかる。そもそも天香語山命は天日槍のことと見られている。 地元ヒボコ系の人々ばかりでなく皇室の崇敬も厚い。 葵の紋と、も一つは酒井家の家紋だろうか。武家の崇敬も厚い。 あと仏教系からも厚い。 「気比宮社記」に、仲哀天皇の時、神功皇后が三韓出兵の成功を気比大神に祈ったのに始まると伝え、「古事記」にもこのことを記すが、「日本書紀」神功皇后摂政13年2月条に「武内宿禰に命せて、太子に従ひて角鹿の笥飯大神を拝みまつらむ」と見える。これらの記事・社伝や信仰伝承から考えて、気比大神は古くからこの地で信仰されてきた御食津神、すなわち食物をつかさどる神で、とくに海人族によって信仰されてきた神であったと思われ、また天皇家の崇敬も受けていた。大宝2年文武天皇が社殿を造営し、同時に仲哀天皇・神功皇后を本宮に合祀したといい、その後日本武尊を東殿宮に、応神天皇を総社宮に、玉妃命を平殿宮に、武内宿禰を西殿宮にそれぞれ祀ったと伝える。 『敦賀郡誌』 ○祭神
本宮〔南面、瑞籬の中央に座す〕 祭神三座〔中央〕仲哀天皇〔右裾〕神功皇后〔左裾〕御食津大神 東殿宮〔瑞籬の中巽方、本宮を距る三間許西面〕 祭神日本武尊 総社宮〔同艮方本宮を距る二間許南面〕 祭神應神天皇、相殿〔右方〕常宮皇太后御前、相殿の勘請は延喜後の事なるべしと社記に見ゆ。 平殿宮〔同乾方本宮を距る二間許南面〕 祭神玉妃命 西殿宮〔同坤方本宮を距る三間許東面〕 祭神武内宿禰 以上を内五社と謂ふ。 以上常宮御前を除きて、七座は延喜式神名帳に氣北神社七座並名神大とある是なり。御食津大神の鎮座は神代なりと云ふ、仲哀天皇、神功皇后を率て御詣でありて、韓國征服の祈請あり、應神天皇も亦行幸ありて、大神を拜し給ひぬ。此等の由縁を以て之を御食津大神の祠に配祀し、日本武尊は仲哀天皇の御父にましまし、玉妃命は神功皇后征韓の時、満干二珠の如意珠を得給へる由縁にで、武内宿禰は應神輔佐の老臣なるが故に、同じく祀られしものなるべし。社記に據るに仲哀天皇・神功皇后を配祀し奉りたるは、文武天皇大寶二年八月四日なり。其他四座の神は斎き祭れる年月詳ならず、社記亦載せず。さて御食津大神は古事記訶志比宮〔仲哀〕の條に故建内宿禰命率二其太子一爲レ將レ禊而、經二歴淡海及若狭國一之時、於二高志前之角鹿一造二假宮一而坐、爾坐二其地一伊奢沙和気大神之命、見二於夜夢一云、以二吾名一欲レ易二御子之御名一、爾言?(カレコトホギテ)白之、恐、隧レ命易奉、亦其神詔、明日之旦、應レ幸二於濱一、献二易レ名之幣暼一、故其旦幸二行于濱一之時、毀鼻入鹿魚、既依二浦一、於レ是御子令レ白二于神一云、於レ我給二御食之魚一、故亦稱二其御名一號二御食津大神一、故於レ今謂二氣比大神一也、亦其入鹿魚之鼻之血屍、故號二其浦一謂二血浦一、今謂二都奴賀一也と見えたり。伊奢沙別大神と申たりしを此故亊にて御食津大神〔ミケツオホカミと読むべしノを添へてノオホカミと読むべからず。〕とも氣比大神とも申すと知るべし。氣比の意義は気は食(ケ)なり、比は産霊(ムスビ)などの靈(ヒ)なるべし。〔霊異の意〕御食津大神と稱し奉れるに因で其意を以て食霊(ケヒ)大神と申すなり。此御號に因て此大神の坐す地名をも気比とは云なり。〔古事記伝〕氣比大神をば氣比俗談及び社記には社の古傳に據て保食大神とすれども、是社の眞の古傳にあらず。道成私記〔續神祇集所引〕云、後冷泉天皇永承二年七月二十二日、氣比宮司云、我大神筑紫宇佐同體神也、顯座之時爲レ鷹給、立レ社以後七百餘歳、云々と見えたり。永承頃は宇佐同體説なり。官社私考〔伴信友〕三方郡常神社條に、氣比の祭神の中に保食大神とあるは、古事記に應神天皇の若くましましける時、御名易し給へる神を、其御名を稱(タゝ)へて御食津大神と號すと見えたる稱號の御食津大神を、神代紀に見えたる保食神の亊なりとさかしらに心得誤りて、然は書傳へたるものなりとある、さる事なり。止由気宮儀式帳天照大神の御誨言に、丹波國比治乃眞奈井爾坐我御饌都神等由気大神とあるは、天照大神の御食神にます由なり。こゝも應神天皇の御食神なり。凡そ御食津神と物に見えたるを考るに、神祇官坐御巫所祭八座の中に御食津神、これを祈年祭祝詞に大御膳都神とあるは、豊受大神にますなるべし。大膳職に坐神三座の中に御食津神社、これは天太玉命にますなるべし。高橋氏文に応上総國安房大神乎御食都神止座奉天(トマセタテマツリテ)と見えたり、安房大神は天太玉命なり。造酒司坐大宮賣神社四座の二座は大御膳津彦大御膳津姫神を祀るなるべし。河内國高安郡恩智神社は大御食津彦命大御食津姫命なり。是天児屋命玄孫大御食津臣命夫妻の靈を祀るなるべし。猶園池司に御氣津神一座ます。〔此外になほあるべし〕皆同神には坐まさゞれとも、御食に由れる神なれば、かく申せるなり。即此大神も御膳の料の魚を太子に献り給へるに因りて御食津神と申すと知るべし。〔古事記傳。権祝石塚資元も保食神に非ず、御食津大神と申すべしとて、その著敦賀志稿に御食津大神の名を用ひたり。其より後、由緒の類には御食津大神と書するに至れり。〕さらば氣比大神は何神にますぞと云ふに、古事記傳に承和六年に遣唐使の船歸着難にせしに依で、住吉神と此氣比神とに幣を奉て、歸着むことを祈賜ひし亊、續後紀に見えたり。住吉と同じく此事をしも祈賜ひしを思へば、いかさまにも異國の事に故ある神なるべし。其に就て書紀垂仁巻の都怒我阿羅斯等が事、又天口槍が事にいさゝか思ひ依れる亊もあれど、詳ならねば云がたしとある、この天日槍ぞ氣比大神なるべし。八幡宮本紀〔貝原好古〕にも保食神にますならば、應神天皇の殊更に之を拜する由なしと云へり。其日槍を敦賀に祀れるは、敦賀が日韓交通の要地にして、日槍が近江若狭の經由の時も一時此に住したるべく、敦賀も日槍に由て開かれたるべし。都奴我阿羅斯等もその先蹤をたどりて来航したるべく適紀記風土記に見えざるは、逸したるなり。若それ此神を日槍として、その海路の安全を所請せられたる所以を思へば、天日槍が持渡れる寶物に振浪氏禮、切浪比禮、振風比禮、切風比禮、奥津鏡、邊津鏡とあるは、海路を渡るに由縁ある器と聞え、殊に日槍は素盞鳴尊以來海外より渡り来れる人にして、且は神功皇后外家の祖なれば、仲哀天皇の角鹿に行幸ありしものは、海路の安穏を祈られしのみならす、亦殊更に訴請する所のありしなり。されば凱旋ありては、太子にも此神を拜せしめて、報賽し給ひしなり。其爲に敦賀に至て御禊をもし給へり。又伊沙々別の御名は、天日槍の寶物の瞻狭浅(イサゝ)大刀とあるイサゝなるべく、淡路の日槍に給へる地を川淺(イツサ)と云へるも伊沙々より出で、且は天日槍を伊沙々別といひし故なるべし。〔豊田天功氣比神考〕或云、氣比大神の名は品陀別にして、伊佐々別は應神天皇の名に非ずやと。是書紀應神天皇卷の註に一云、初天皇爲二太子一行二于越國一、拝二祭角鹿笥飯大神一、時大神與二太子一名相易、故號二大神一曰二去来紗別神一、太子名二誉田別尊一、然則可レ二大神本名誉田別神一、太子元名二去来紗別尊一、然無一所見一也、未レ詳、とあるに依れり。新井白石も此説に從て氣比大神を成務天皇同母弟五百城入彦の王子品陀眞若王なり〔白石遺文〕と謂へりしが、此註文は書紀集解に古本無き所にして、私記のさん入なりとありて、書紀の原文に非ず、素より採るに足らず。古事記に從ふで大神の名は伊奢沙別大神ならとすべきなり。〔社記に伊奢沙別太神、此訓二伊佐和氣一也、不レ訓二伊佐々一、是古傳也とあり。されと書紀にも去来紗と紗字を添加しあれば、猶古訓は伊佐々なるべし。〕 / 玉妃命は、社記に日、又名淀姫命、虚字都媛命、豐比賣命、又稱二川上明神一、〔是神功皇后之御妹姫又名豊玉比賣命〕と、こは神名帳頭註に與止日女、風土記云、肥前國佐嘉郡與止姫神有二仏座一、一名豊姫、一名淀姫、乾元二年記云、淀姫太明神者八幡宗廟之叔母、神功皇后之妹也、〔八幡愚童訓も同し趣なり〕とあると同じ傳なれども豊玉姫命は海津豊玉彦の女にして、彦火々出見尊の妃となり、??草葺不合尊を産み給へり、彦火々出見尊、兄火闌降尊と爭ひし時、海神より干満兩顆の寶珠を得て、火闌降尊に勝ち給へり、〔記紀〕豊玉姫命、即豊姫とも云ひ、肥前佐嘉邯に鎭座して淀姫神社と云ひ、又川上明神と稱す。神功皇后、此神より得給へる如意珠は即ち彦火々出見尊の得給へる寶珠なり。依で玉妃命と申すなるべし。皇后の妹虚室津比賣命とは別神にますなり。平殿の淀姫命にますより推して考れば、西殿も高良玉垂命にますなるべし。高良玉垂神社を武内宿禰を祀るとするより、社記も武内宿禰とのみ傳へしものなるべし。高良玉垂命と豊玉姫命とは同じく皇后に寶珠を捧げ奉れり。且高良玉垂神と豊比咩神とは文徳實録・三代實録に封戸位田位階を授け奉るに並べ記し、神名帳にも筑後三井郡高良玉垂神社豊比咩神社並に名神大社に列し、今は同じく高良社同殿たり。因て此の神も亦高良豊姫並べ祀られたる者なるべく思はるゝなり。姑く附記して後考を待つ。〔高良神淀姫神の事は、詳しくは大日本史神祇志、或は栗里先生雑著高良神社祭神攷、八幡の神の考に見ゆ〕 『敦賀郡神社誌』 祭神 本宮 伊奢沙別命、仲哀天皇、神功皇后
東殿宮 日本武尊 總社宮 應神天皇 平殿宮 玉妃命(海神に座す淀妃命なりとも傳ふ) 西殿宮 武内宿禰命 由緒 謹みて按ずるに、當神宮は上古より北陸無雙の大社であり、又越前國の一宮であつて、神階は正一位勲一等の極位を授けられ、延喜式に七座共に月並名神大社に預つてゐる。御祭神七柱中の伊奢沙別命は本神宮の主神に座して氣比大神(笥飯大神)と稱へ奉り、又御食津大神とも稱へ奉るは、古事記の傳によると皇太子誉田別命(應神天皇)武内宿禰を随へて角鹿(敦賀)に行啓し給ひしに氣比大神夢に現はれ『吾が名を以て御子(誉田別命)の御名に易へん』と又宜う給はく『明旦濱に幸せらるべし易名之幣(ナカヘノイヤジリ)獻らん』と宣り給ひぬ果して入鹿と云ふ魚濱に着きてゐたので誉田別命は『我に御食の魚を賜ひぬ』と仰せられて御神名を稱へ奉り御食津大神と申されたと云ふのであつて、即ち氣比大神は皇太子誉田別命に御食の御料として入鹿を奉られしにより御食津大神又は保食神とも稱へ奉つるのである。伊奢沙別命は角鹿海直の祖神に座し、御七代皇霊大皇の皇子吉備津彦命に座すと云ふ。この氣比大神は往古より此の地に鎮座の神にて、仲哀天皇、神功皇后は文武天皇大賓二年八月四日勅宣により合祀せられ給ひ、又日本武尊(仲哀天皇の御父)應神天皇、武内宿禰命、玉媛命(神功皇后御妹)の四柱は夫々別殿に祀られ、これを四社ノ宮と総稱し奉つてゐる。抑も仲哀天皇二年二月軍國の事につき行幸氣比大神に御祈願をなし給ひて行宮に座しゝに三月紀伊國を經て四月長門國に幸し給ひ、角鹿に留り給ひし皇后を召させ給ふ、皇后は氣比大神に御祈請ありしに大神の霊夢に海神を祭るべきよしを教へ給ふ。(淀媛命は海神に座し征韓の時特更に祭り給ひし神に座し特に氣比大神の霊夢に海神を祭るべきを教へ給ひし事なれば共に祀られしならん祭神に玉姫命とあるは後考にまつ)ここに於て舟出して海神より航海中涸珠滿珠(ヒルタマミツタマ)を得させ給ひ、七月長門に到り此の珠を天皇に奉り給ふ。八年三月天皇筑紫に座し、皇后及び武内宿禰、安曇連等に氣比大神を祭るべしと勅し給ふにより、皇功は御妹玉媛命及び武内宿禰等を從へて敦賀に到り大神に御祈請ありしに、玉媛命に神託あり『天皇外冦を憂ふることなかれ刃に血ねらずして自から歸順すべし』と教へ給ふ。六月皇后此の地を發して筑紫に還御ありしに程なく天皇崩御させ給ひしが皇后は喪を祕して神託のまにまに征服し給ひ後皇太子誉田別命に武内宿禰を從へ氣比大神を拜せしめられて、報賽の大孝を述べ又御父仲哀天皇の御冥福を祈請せられ給ひし等古來皇室の御崇敬最も厚き大神に座し、御祭神六座とも上述の如き関係ある社なれば文武天皇大寶二年に奉祀し給ひて以来皇室、武将の崇敬、攝社末社神階神佛習合神領及び社家領神官等の由緒甚だ多ければ煩を避くる爲め、これ等は別項に其大要を記すことゝした。明治四年七月國幣中社に列せられ、同二十八年一月八日官幣大社に昇挌し且つ同年三月二十六日神宮號を宣下あらせられた。 以上が本殿に祀られている。それ以外にも神々は多くあって、 九社の宮と神明両宮 本殿の東に9つの宮がある。これは中世の古図にも描かれていて、ふるくからここに鎮座していた宮々であろう。こちら(北)を向いている社は左から伊佐佐別神社。その右隣は擬領神社である。 九社の南奥に神明両宮が鎮座している。 案内板に、 九社の宮・神明両宮 御由緒(鳥居側より)
伊佐々別神社(いざさわけじんじや) …① 擬領神社(おおみやつこじんじや) …① 天伊弉奈彦神社(あめのいざなひこじんじや) 摂社(式内社)。祭神は天伊弉奈彦大神。続日本後記に、承和七年(八四〇)八月、越前國従二位勲一等氣比大神御子無位天利劔神、天比女若御子神、天伊弉奈彦神、並従五位下を奉授せらるとある。 天伊弉奈姫神社(あめのいざなひめじんじや) 摂社(式内社)。祭神は天比女若御子大神。社家伝記に、伊佐奈日女神社、伊佐奈日子神社は造化陰陽の二神を祀りしものなりと云う。古来より縁結びの御神徳が顕著である。 天利劔神社(あめのとつるぎじんじや) 摂社(式内社)。祭神は天利劔大神。仲哀天皇当宮に参拝、宝劔を奉納せられ霊験いと奇しと云われる。後に祠を建て天利劔宮と称え信仰される。 鏡神社(かがみのじんじや) 末社。神功皇后角鹿に行啓の際、種々の神宝を当宮に捧げ奉った。其の中の宝鏡が霊異を現わしたので別殿に國常立尊と共に崇め天鏡宮と称え奉ったと云う。慈悲之大神として知られる。 林神社(はやしのじんじや) 末社。林山姫神を祀る。福徳円満の大神。延喜式所祓の越中國砺波郡林神社は当社と御同体である。延暦四年(七八五)、僧最澄気比の宮に詣で求法を祈り、同七年再び下向して林神社の霊鏡を請い比叡山日枝神社に遷し奉った。当社が江州比叡山気比明神の本社である。 金神社(かねのじんじや) 末社。素盞嗚尊を祀り、家内安全の神とされる。延暦二十三年(八〇四)八月二十八日、僧空海当宮に詣で、大般若経一千卷を轉読求法にて渡唐を祈る。弘仁七年(八一六)に再び詣でて当神社の霊鏡を商野山に遷し鎮守の社とした。即ち紀州高野山の気比明神はこれである。 劔神社(つるぎじんじや) 来社。祭神は姫大神尊。剛毅果断の神として往古神明の奇瑞があり、莇生野村(旧敦賀郡)へ勧請し奉ったと伝えられる。 神明両宮(しんめいりょうぐう) 末社。祭神天照皇大神(内宮)、豊受大神(外官)。外宮は慶長十七年(一六一二)三月二十八日、内宮は元和元年(一六一五)九月二十八日伊勢の神宮よりそれぞれ勧請奉祀される。 『敦賀郡誌』 七社之御子神
剱神社〔第一之王子宮〕 祭神姫大神尊(或云、往昔、神明の奇瑞にて、莇生野村より勧請すと。 金神社〔第二之王子宮〕 祭神詳ならず、或云素盞嗚尊を祀る、依て社を天金宮と稱すと。又云、天劔宮とも稱すと。延暦廿三年三月廿八日、 僧空海、氣比神宮に詣でゝ大般若經一千卷を転読し、渡唐求法を祈り、大同二年六月五日、空海賽禮の爲下向し、大般若經を神庫に奉納す。弘仁七年又参詣して御子神金神社の霊鏡を請ひ、高野山の鎮守として天野社第三殿に勧請して氣比明神と稱す。(天野社第三殿氣比神、第四殿厳島神兩座は土御門天皇承元年中行勝上人の時勧請すと云ふ、然らば社記非なるか、猶尋ぬべし。) 林神社〔第三之王子宮〕 祭神詳ならず。或云林山姫神の鎮座なりと、或云面足尊惶根尊なりと。延暦四年、勅に依りて僧最澄参詣して求法を祈り、同七年復下向して林社の霊鏡を請ひ、江州比叡山に勧請して氣比明神と稱す。(二十二社註式には中七社第六に列し、耀天記下七社第六、日吉山王新記下七社第七に列す。) 〔日吉社神道秘密記〕 一気比社、童形、本地聖観音、越州敦賀郡ヨリ御勧請、傳教大師御時也、第十四代仲哀天皇是也、第十五代神功皇后御子八幡宮也、 鏡神社〔第四之王子宮〕 祭神詳ならず、或云神功皇后の納めたる種々の神寳の中に、寳鏡、最霊異ありしかば、之を祀り、天鏡尊を合祀して天鏡宮と稱すと。 天利劍神社〔第五之王子宮〕 祭神詳ならず、或云仲哀天皇奉納の寶剣靈験あり、崇祀して天利剱宮と稱すと。続日本後紀曰、承和七年九月癸酉朔乙酉奉授越前國從二位勲一等氣比大神之御子、無位天利劔神・天比女若御子神・天伊佐奈彦神、並從五位下と、式内なり。 天伊佐奈姫神社〔第六之王子宮〕 祭神は伊奘冊尊にますなるべし。或云續日本後紀延喜式の天比女若御子神社なりと、又云伊佐々別大神を祀ると。 天伊佐奈彦神社〔第七之王子宮〕 祭神は伊弉諾尊にますなるべし。式内なり、神階天利劔神社の條に見ゆ。以上が外七座と稱す。 二社の御子神 擬領神社 祭神詳ならず、或云建功狹日命を祀れるかと。(擬領訓不詳、社記曰、又云擬領神、當訓大美屋都古能神歟) 伊佐々別神社 祭神気比大神の荒魂なり、應神天皇・武内宿禰の勸請する所なりと云ふ。(此神は漁猟を守護せらるるが故に、社殿は北に面すと、此舊傳なりと云ふ。」 以上二社、七社の南方北面す。 神明兩宮 伊勢内外兩宮を祀る。外宮は慶長十七年初て宮殿を造営して三月廿八日勧請し、内宮は元和元年造営して九月廿八日勸請する所なり。兩宮とも七社の北に在り、南面す。 『敦賀郡神社誌』 境内神社 御子神七社
劔神社 第一王子宮 祭神 姫大神尊 由緒 往昔神明の奇瑞にて同郡粟野村莇生野へ勧請し給ふと云ふ 社殿 () 金神社 第二王子宮 祭神 素盞鳴尊 由緒 社號と天金宮とも又天劍宮とも稱し奉ると云ふ。僧空海が再度氣比大神に參社して、金神社の霊鏡を請ひ奉り高野山に勧請し、氣比明神と尊稱して鎭守となしたと傳ふ。 社殿 () 林神社 第三王子宮 祭神 林山姫神 或ハ面足尊惶根尊 由緒 祭神に二説あり定め難い。僧最澄勅命により氣比大神に参社し、更に再度參社をなして林神社の靈鏡を請ひ奉り比叡山に勧請し氣比明神と尊稱し奉祀した。 社殿 () 鏡神社 第四王子宮 祭神 神功皇后寳鏡 天鏡尊 由緒 神功皇后の納め給ひし神寶中の寶鏡を祀り、天鏡尊を合祀して天鏡宮と稱し奉ると云ふ。 社殿 () 境内攝社 天利劍神社 第五王子宮 祭神 天利劒大神 由緒 仲哀天皇の納め給ひて寶劍を祀り大利劒宮と奉稱したと云ひ、或る説には氣比本宮に座す伊奢沙和気大神の御子神なりとも傳ふ。仁明天皇承和七年八月乙酉從五位の御階を奉進せられ、又延喜式内社である。神階奉進に「越前國從二位勲一等氣比大神之御子無位天劒神從五位下]とあれば後説に從ふ。 明治十年三月二十一日攝社に定められた。 社殿 () 天伊佐奈姫神社 第六王子宮 祭神 天比女若御子神 由緒 仁明天皇承和七年八月乙酉從五位下の神階を奉進せられ、気比大神の御子とあり。延喜式神名帳に天比女若御子御社とあるは、即ち當社でありて明治十年三月二十一日摂社に定められた。 社殿 () 天伊佐奈彦神社 第七王子宮 祭神 伊佐奈彦神 由緒 仁明天皇承和七年八月乙酉從五位下の神階を奉進せられ、氣比大神の御子とありて延喜式内の神社である。明治十年三月二十一日攝社と定められた。 社殿 () 以上を氣比御子神七社と云ふ。 伊佐々別神社 祭神 伊奢沙和気大神 由緒 氣比大神の主神に座す、伊奢沙和気大神の荒魂を祀り給ひし社にて、應神神天皇武内宿禰命の勸請奉祀せられたる社であると云ふ。明治十年三月二十一日攝社と定められた。 社殿 () 擬領(ヲホミヤツコノ)神社 祭神 稚武彦命 由緒 角鹿國造の祖神に座すとも云ひ、或は大美屋都古能賣神とも云ひて、異説あれども角鹿國造の祖神稚武彦命神なりと云ふ説に従ふ。 社殿 () 神明兩宮 祭神 天照皇太神 豊受大神 由緒 外宮は慶長十七年三月二十八日勧請奉祀し、内宮は元和元年九月二十八日勧請奉祀したのである。 今は駐車場の入口になっている、東参道側に、南側から、角鹿神社、兒宮、大神下前神社の3社が並んで鎮座する。 角鹿神社 兒宮 案内板に 角鹿神社(つぬがじんじや)
摂社(式内社)。祭神は都怒我阿羅斯等命。崇神天皇の御代、任那の皇子の都怒我阿羅斯等が氣比の浦に上陸し貢物を奉る。天皇は氣比大神宮の司祭と当国の政治を任せられる。その政所の跡にこの命を祀った。その命の居館の跡が舞崎区であり同区の氏神が当神社である。現在の敦賀のもとの地名は「角鹿」でこの御名に因る。往古は東門口が表参道であったため氣比神宮本社の門神であった。 兒宮(このみや) 末社。祭神は伊弉冊尊。元は氣比神宮寺の境内に鎮座。平安朝時代、寛和二年(九八六)九月二十日遷宮の事が残されており由緒は古く、子宝及び安産の神と称され、小児の守神として今日に至る。 大神下前神社 …①に記した 『敦賀郡誌』 角鹿神社 祭神任那王子都怒我阿羅斯等なり、天保十年、相殿に大山咋尊を鎮め奉る。本殿の東方一町許にあり。政所神と稱す、又門神ともいふ。往昔東門口表通なりしかば、門神(カドカミ)と云ふなり。永正三年七月廿日、諸殿末社悉焼失したりし時、本社一宇殘留す。大永三年十月廿五日、神座を炊殿へ移して造営す。六年十一月十一日造営なりて、正遷宮を行ふ。元龜元年、織田信長の兵火を諸殿に放ちし時、亦本社残留す。元祿十五年(月日不詳)造営なりて正遷宮を行ふ。大永六年の造営より百七十八年なり。同十六年七月、石華表を建つ。(社記)
按、祭神、社記には都怒我阿羅斯等とすれども、これ必ず角鹿國造祖建功狹日命なるべし。(大日本史)維新の頃迄、此神社の祭祀に、主神に近づき奉るは唯社家島氏のみなりと云。島氏は角鹿朝臣の姓を稱す、角鹿直姓の後なりとぞ。社記に亦角鹿姓を都怒我阿羅斯等の後となすは非なり。姓氏録を按ずるに都怒我阿羅斯等の後は大市首・清水首・辟田首の三氏なり。角鹿直は國造の後なるべし。即その祖神を祀れる者なるべし。角鹿姓の朝臣を稱するは何時代よりの事なるか詳ならず、文保二年三月の秦文書に見ゆるを初見とす。(之より以前の文書には單に角鹿とのみありて姓を稱せず。)角鹿神を政所神と稱したるは阿羅斯等に勍して此國政所となりて此津に止まらしめたろ故なり(社記)とぞ。蓋し政所は國造の訛傳なり。 兒宮 祭神伊奘冊尊、本殿の東南三十間許に在り。寛和二年九月二十日遷宮の亊(社記)見えたれば、其以前に鎮座なりしを知る。天文の初、朝倉孝景社殿を造営して後、元龜元年兵燹に罹りて其まゝになりありしを、元和六年、松平忠直の室、祈願の爲造営す。六月功成りて十七日、正遷宮を行ふ。(社記所載棟札) 大神下前神社 もと道後(ドウゴ)神と稱す。永正四年二月金前寺々頷目録に道後神前と見ゆ。社記云、道後神社、祭神一座、一説曰、大己貴命、一説曰、大神下前神社、今より凡二百年前、宮守勝田某、金比羅神稲荷神を勸請して、今は三座なり。明治九年六月八日村社に列せらる。本宮の境外末社にて、社はもと天筒山麓に鎮座ありしを、明治四十四年社地の鐵道敷地となりしかば、今の處に移す。 『敦賀郡神社誌』 角鹿神社 祭神 都努我阿羅斯等 相殿大山咋命
由緒 御祭神の都努我阿羅斯等とすれども角鹿國造の祖に座す建功狭日命なりとも云ふは尤もなる説の如くである。島氏は元角鹿姓を稱へ角鹿國造の後裔なりと云ひ、往昔は政所神社とも云ひ、或は土俗稱して地主命と尊崇するは一に角鹿國造を申し奉るのであると云ふ。猶後考にまつこ とゝする。當社を門神(カトカミ)と奉稱するは、往昔東門口大通であつたからである。天保十年大山咋命を合祀したので、松尾大神とも尊稱してゐる。東郷村舞崎區はこの角鹿神社が鎭守である。當社は延喜式内社にて、明治十年三月二十一日摂社に定められた。 〔附記〕 日本書紀〔垂仁紀二年二月 註〕一云御間城天皇(崇神)之世額有角人乗一船泊于越國笥飯浦故改號其處曰角鹿也問之曰何國人也封曰意富加羅國王子都怒我阿羅斯等亦名曰于斯波阿利叱智于傳聞日本國有聖皇以歸化之到于穴門云々とあり、績紀天平神護元年に角鹿直島麿あり、類聚國史天長五年閏三月の條に越前國正税五百束給采女角鹿直福貴子など見えてゐる。然らば角鹿國造は孝霊天皇皇子若武彦命の御孫にて吉備武彦命は御父なり。角鹿海直は考靈天皇皇子日子刺肩別命の子孫なうと云ふ。 角鹿直は三代實録十四に角鹿直眞福子、越前國天平二年正税帳に敦賀郡々司少領從八位上勲十一等角鹿直綱手など奈良朝頃既に見えてゐる。 社殿 () 兒宮 祭神 伊奘冊尊 由緒 平安朝時代花山天皇寛和二年九月二十日遷宮の事が見えてゐるから、其の以前より御鎮座の事は明かであるが、御創立の由来及び年代は詳でない。 社殿 () 大神下前神社 祭神 大神下前神、大物主命、宇賀魂命 由緒 道後神と稱し、社記に道後神社一座とあり、一説に大巳貴命とも稱してゐる。元天筒山麓に鎭座し給ひ、延喜式内の古社にて気比神宮の境外末社であつて、勝田某宮守をなし、凡二百年前に金刀比羅大神、稲荷大神を勧請して合祀し、祭神三座である。明治九年六月八日村社に列せられ、同四十四年鉄道敷設地の爲め神宮境内の現地に奉遷した。 社殿 () 猿田彦神社 大鳥居近くに猿田彦神社が鎮座、この社は新しいようである。 案内板に、 猿田彦神社(さるたひこじんじや)
末社。安永四年(一七七五)の鎮座、御祭神は猿田彦大神。氣比大神を案内される神であり、交通安全、家内安全の御神徳は高く日々の参詣者は頗る多い。俗に庚申さまと唱えられている。 『敦賀郡神社誌』 猿田彦神社 祭神 猿田彦命
由緒 安永四年の御鎮座なりと云ふ。 ①(歴史概況) ②(祭神) ③(祭礼) ④(神宮寺) ⑤(松尾芭蕉) 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『敦賀郡誌』 『敦賀市史』各巻 その他たくさん |
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