丹後の地名 越前版

越前

気比神宮(けひじんぐう)③祭礼
福井県敦賀市曙町


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福井県敦賀市曙町

福井県敦賀郡敦賀町曙町

気比神宮の祭礼


《気比神宮の祭礼》

祭礼といっても、たくさんあるので、最も重要な例大祭と、古い神社だけあって、当社のみといわれる特別の祭典が多い、それを取り上げてみる。

《例大祭》


写真は「みなとつるが山車会館」の映像資料↑
例大祭(9月4日(旧暦8月4日))
大宝2年(702)8月4日。勅して六柱の神々を合祀して以来、この日年に一度の重儀である大祭(例祭)を執り行なう。 例祭前2日宵宮から15日月次祭終了迄を氣比の長祭りと云う、と案内にある。
例祭自体は9月4日になるが、各種神事は2日の宵宮祭から始まる。そして15日の月次祭まで祭事が続くことから、一連の祭りは「気比の長祭」と称される。また、俗に「けえさんまつり」ともいう。この期間中は、敦賀市内でも「敦賀まつり」として各種行事が行われる、という。
2日には翌日からの祭りに備えて本殿で宵宮祭が行われ、大鳥居前には各町内から山車が集まって舞が奉納される。そして3日には神幸祭として、祭神の神霊を遷した鳳輦の市内巡幸が壮麗な行列とともに行われ、市内は大きな賑いを見せる。続く4日の例大祭は1年間で最重要の祭りである。この祭りでは神社本庁から献幣使が参向して幣帛料が献じられ、本殿において古式に則った神事が行われたのち、市内各町の山車の巡幸が行われる。その後、祭りは5日からの後日祭を経て15日の月次祭で終了するのだそう。
案内板


氣比の長祭(けえさん祭り)」
敦賀に秋の訪れを告げる北陸随一の長祭
「氣比神宮例祭」は、九月二日宵宮祭(よいみやさい)、三日神幸祭(しんこうさい)、四日例大祭(れいたいさい)五日より後日祭、十日祭を経て、十五日の月次祭をもて終わる「氣比の長祭」として有名で、市民からは「けえさん祭り」と云われ親しまれています。けえさん祭りに合わせて行われる市民参加のカーニバル、民謡踊り、商店街のお祭り広場などの行事も含めた敦賀随一の祭りを総称して「敦賀まつり」と呼ばれています。

 二日の宵宮祭は祭りの前夜祭にあたり、大鳥居前にて、神楽町(御影堂前)の宵山(曳山)が、子どもたちの踊りを奉納します。その後、笛や太鼓などの賑やかなお囃子と共に巡行し、神宮前は祭り一色に染まります。

 三日の神幸祭は、氣比神宮の御神体をお遷しした御鳳輦(ごほうれん)が、菊花の紋章入りの錦旗を先頭に、烏帽子(えぼし)、護衛の直垂の衛士(ひたたれのえじ)、甲胄をまとった武士の犬神人(つるめそ)、神馬に乗った神官の神職(しんしょく)、稚児、楽人を従えて、雅楽が奏でられるなか、氏子達と共に古式ゆかしく市内を巡幸します。同日には、氏子各町の神輿が大鳥居前に揃い、その後、市内を練り歩きます。

 四日の例大祭は、大宝二年(七〇二年)仲哀天皇と神功皇后を祭神として合祀したと云われる日で、最重儀となる祭典です。同日には、敦賀まつりのシンボルとして長い歴史を持つ、六基の山車(やま)が大鳥居前に揃います。敦賀の山車の特徴は等身大の人形に本物の能面や甲胄を飾り付け、戦国時代の合戦における武将の勇姿を表現しています。

『敦賀郡誌』
○神事  例祭は九月三日四日なり。舊は大陰暦八月三日四目なりしを、明治七年、大陽暦の同日に改めたりしに、農家繁忙の時なるか以て、翌年、更に改めて、今の如くに定む。陰暦八月四日は大寶二年、仲哀天皇神功皇后を合祀し奉りし日なりと云。二日は宵宮祭にて、神楽町及舊一向堂町より宵宮車を出す。(以前は猶他の数町よりも出せり。)三日は神輿渡御あり。神輿の前後を甲冑武者の裝をなしたる犬神人練行す、其数凡三十人、明治十一年始めし所なり。河東天滿神社を御旅所とす。其日還御。四日は宵祭なり、奉幤使参向す。午後、挽山出づ、其数凡十一車なり。維新前は三日四日の兩日之を出せり、其数も亦多し。五日より十日に至るを後祭と稱す。祭禮の間は、京都其他他近國より、諸商人香具師等來り集り、境内甚賑ふ。
『敦賀郡神社誌』
例祭 九月四日(元舊八月四日) 
〔『俳諧歳時栞草』〕 敦賀祭 氣比大明神は越前敦賀郡にあり、例祭八月十日(十日とあるは誤)
〔敦賀志稿〕 當所神亊は八月三日、四日也、二日は宵祭にて御影堂前(神樂區)紙屋町(御手洗區)兩町より紙細工の挽山を出し、拜殿の前に至り、神覧に備ふ、三日は練物山を出す山は一家より一つ、又は二三家組合にて一を出すも有。山数多き年は四五十、少なき年は三四十。四日は一町より山一を出す、山毎に挽人百餘人、何れも古戰場のよそほひをなし、枝ぶりよき松の大木に簱吹流し等を建つらね、埓幕は羅紗猩々緋の類にいろいろの高縫をなし、或は蝦夷錦唐織の類を用ふ、高欄の金物彫もの種々美を畫せり、其麗はしき事たぐひ稀也、山車大造にて神前へは得至らず、市中の東西を挽わたせり、よって金紙の幤を神幸に擬し、御小人町(御手洗區)の桟敷据奉り、社司神人等是に隨從す、司市執法本勝寺の桟敷に於て被觀覧雨天なれば晴日を待てわたす、神事竟て後十日迄は後祭にて、社内いと賑やかなり。
〔敦賀郡誌〕 本勝寺記 八月四日氣比宮例祭には、北門石垣の上に棧敷を構へ五奉行此にて山練物を見る。是織田信長當寺にて山練物一覽ありし例なりと云ふ。寛永十九年、酒井忠勝、萬治元年同忠直、文化二年同忠貫並に此にて同じく一覧せらる。


京都の祇園祭の山鉾巡行に似ているといわれるが、上に乗っている人形は迫力ありすぎ、ミヤコではなく、東北の民のエネルギーであろう。
会館の説明(図も)
 敦賀の山車の起源はさだかでないが、京都の祇園祭りの影響をうけて室町末期には成立したと思われる。このことは、天正三年(一五七五)織田信長の祭礼見物の伝説、寛永一九年(一六四二)小浜藩初代藩主酒井忠勝や寛文三年(一六六三)二代藩主酒井忠直の山車観覧の記録からもうかがわれる。
 江戸時代にあっては、敦賀三六町のうちの一二町が東・西組六町ずつに分かれ、隔年ごとに山車を曳き出していた。すなわち、八月三日には富裕な商人たちを中心とした小山車が、四日には六町からそれぞれ一基ずつの大山車と商人たちの小山車が、少ない年で三〇基、多い年には五〇基ほど曳き出され賑わった。
 明治六年(一八七三)に個人の山車を廃止するとともに、町で曳き出す大山車を小山車に変更した。さらに東・西組を統合し、原則的に各町から曳き出す山車の全一二基を巡行するとした。また、明治五年一二月には暦が太陽暦に改正されたため、祭礼日も一か月遅れの九月三日四日に執行されることとなった。
 昭和二〇年七月一二日の戦災で山車の大部分が焼失したが、現在、六基がようやく復元し、昔の姿をしのぶことができるようになった。

敦賀の山車の歴史~山車の近代~
 明治6年( 1873 )、3日の練物は廃止、各町が4日に出していた山車(大山)は大きすぎて軒先を壊す等の被害のため廃止し、個人の山車(小山)を町の山車とすることとなりました。また町名と町割りの変更により、山町の組織である牛腸組合を脱退する町や新たに加入する町もあり、毎年12基が巡行するようになりました。
一方明治28年に気比社が官幣大社に昇格し、同34年には1200年祭を迎えることから、祭りを盛大にしようとする機運が高まります。しかし経済的理由で脱落する町もあり、桜町の西岡治左衛門が個人で出して10基の巡行を維持したこともありました。
 昭和5年(1930)からは5基ずつ隔年で出すこととなりますが、日中戦争が始まった昭和12年から巡行は中止となり、昭和15年6月に氣比神宮の遷座祭で10基巡行したのが戦前最後の山車の巡行となりました。
 昭和20年7月、敦賀は日本海側で最初の空襲の被害にあい、多くの山車が焼失しました。戦後は残された御所辻子、金ヶ辻子、唐仁橋の山車が何度か巡行しますが、それも途絶え、金ヶ辻子山車は市外に売却されました。
 昭和45年、金ヶ辻子山車の敦賀市への寄贈が契機となり、昭和57年から3基の山車での巡行が行われるようになりました。
その後敦賀の山車の保存会の熱意によって東町、観世屋町、鵜飼ヶ辻子山車が再興され、平成6年以降6基揃っての巡行が続けられています。


《特殊神事》
古い神社だけあって、ものすごく古い来歴がありそうな祭礼がある。
『敦賀郡神社誌』
當神宮には特殊の古典的な神祭が多い、就中誓祭、御名易祭、總參祭、御田植祭、牛腸祭等がある、今その大要を社記により摘録す。

(以下原文はカタカナ書きなので、ひらがなに変換する)
誓祭 舊暦二月六日 社記云仲哀天皇御宇二年二月六日此地に行宮を興て居之同日自ら笥飯大神を拜參し玉ひ叛賊退治の亊を祈り且つ天皇深く此地を愛慕し玉ふ以て永く皇居を此地に定め玉はんとのに事ふ誓ひ玉へり故に本日神事を修行し號けて誓祭と云
御名易祭  舊暦二月八日(三月八日)
社記云神功皇后摂政十三年春二月皇后の命に因て皇太子誉田別王武内宿禰命及百官等を率て此國に行臨し玉ひ氣比大神を拝祭し玉ふ同夜大神夢に太子と名易の亊を誓ひ玉ひ其旦太了自ら濱に出て大神の禮代の魚を受け玉ひし事古事記に見へたり此例に因て本日神事を修行し號けて御名易祭と云
御田植祭 六月十五日
社説云神代天照皇大神天熊之大人を此葦原中國に降し玉ひ保貪神の奉る所の種々の穀物を看察せしめ玉ひ後ち之を天上に奉進せしめて天狹田長田に植ゆ萬の穀物を作らせ玉ひ其秋の垂穂を以て躬親ら保食神を拜祭し玉へり此例を?し毎年六月十五日田植の式を行ひ以て五穀豊饒の神事をし號けて御田植祭と云
牛腸(ごちょ) 六月十六日 社記云古首本社例祭を修業する毎年六月十六日を以て神事の初日となし當日早旦山番町氏子頭の者當神社に参詣し神事を修し祭典畢て直に會場に至り當年九月例祭の次第を議し亦大山練物等の順序を探鬮す而して尚當日の神事を呼て牛腸祭と云牛腸之起原未だ詳ならず然れども其行ひ来るや久矣今其の次第を舉ぐれば敦賀町の内牛腸番と唱へ各町年々順番を以て相勤むるの慣例なり而して其牛腸番に相當する町内に於て殊に富家にして其事に堪ゆるものを希望者の内より選択し其家を以て之に充つるを例とす其の主意たる牛腸番なる者は其の年當神社祭禮に関する練物大山等の次第を議し大祭に属する諸事を辨備する會所にして則六月十六日を以て初會の日と定む該家主は豫てより家屋を新造し又修繕し屋内の装飾に至まて其家主の堪ゆる限り善美を盡し八珍美味を以て大祭に付大山練物等を出たすの各町を饗應す實に當敦賀港第一の儀式とす囚て富家に非れば牛腸番を勤仕する能はず而して之を勤むるに堪ゆたの家は之を以て面目とす當日に到れば氏子頭(當時役員肝煎を云)を招待するに未明より数回之使を派し使ひ八度に至り途中にて行合と云(之を七度半の使と云へり)該家に至て打揃ひたる上一同厳重に行列を正し當神社に參拜す牛腸祭畢て再び其家に歸り嚮應を受く其鄭重なる事當地に於て其比を見ず此禮會畢て後ち家屋の装飾を諸衆に縦覽せしむ而して衆亦之を見んと欲し競て之に集り其結構美麗を賞嘆して歸る如此重大の大禮なるにより富家に非ずんば勤めんと欲すると雖も不能なり因て此牛腸番を以てー世の栄譽とし平素之を勤めん事を渇望するにより業務を黽勉すると云爾
総参祭 舊暦六月卯日(七月二十二日)社記云仲哀天皇御宇二年六月乙卯日天皇の勅を奉し皇后息気長帯姫命武内宿禰命及百官を率ひて此湊より航して穴門國豊浦守に赴き玉ひたり故に於今其形を?し毎年六月卯日神璽を御船に奉遷し神職之に供奉し此湊より(海上五十丁)當神社攝社常宮神社に至り神事を修す之を號けて総参之祭と云

牛腸祭
ワタシは以前から気になっていたのだが、「牛腸」はゴチョウとは読めない、ギュウチョウではないか。ゴチョウと書くなら「午腸」であるべきだ。午は馬である。漢字は似ている、上に角が一本出ていれば牛、角がなければ馬(午)である。なぜ牛腸と「牛」の字を書くのか。今は牛とは何も関係がない祭だが、本来は牛と関係があった祭ではなかったか、そうでなければ牛腸とは書かないと思われるのである。
もしそうだとすると、「牛を殺して漢神(からかみ)を祭る」の記事を思い浮かべる。
『日本書紀』
皇極元年(642)7月戊寅(二十五日)に、群臣相語りて曰はく、「村村の祝部の所教の随に、或いは牛馬を殺して、諸の此の神を祭る。或いは頻に市を移す。或いは河伯を禱る。既に所效無し」といふ。蘇我大臣報へて曰はく、「寺寺にして大乗経典を轉讀みまつるべし。悔過すること、佛の説きたまふ所の如くして、敬びて雨を祈む」といふ。

『続日本紀』
延暦十年(791) 九月甲戌(十六日)。伊勢・尾張・近江・美濃・若狭・越前・紀伊等の国の百姓の、牛を殺して漢神を祭るに用ゐることを断つ。

新古典文学大系本の補注(「殺牛用漢神」)に、
 三代格延暦十年九月十六日付太政官符、応二禁二刺殺レ牛用一レ祭二漢神一事に「右被二右大臣(藤原継縄)宣一称、奉レ勅、如レ聞、諸国百姓殺レ牛用レ祭、宜下厳加二禁制一莫上レ古今レ為レ然。若有二違犯一科二故殺烏牛罪一」と見え、弘仁格抄や要略七十にも載せる。「漢神」は中国の神。故殺馬牛罪は、厩庫律8逸文に「凡故殺二官私馬牛一者、徒一年」(要略七十)とする。
 日本における殺牛祭神は、皇極紀元年七月戊寅条に「群臣相語之曰、随ニ村々祝部所教一、或殺二牛馬一、祭二諸社神一」と見えるほか、延暦期には本条(延磨十年九月甲戌条)のほか類聚国史、雑祭の延麿二十年四月己亥条に「越前国禁行□加[   ]屠レ牛レ祭神」とあり、霊異記(中-五)にも、聖武太上天皇の世に摂津国の一富人が漢神の祟りに対して牛を殺して祭り、悪報を得かかったという説話が見える。
 中国では殺牛信仰が古くから漢書・後漢書などに見え、農耕儀礼(雨乞い)や怨霊神の祟りを祓うための民間信仰として盛んであった。日本の殺牛祭神も中国のそれを起源にすると考えられるが、とくに延暦期の殺牛祭神は、怨霊神を対象とする怨霊思想としての性格を受け継いだもので、本条でそれを禁じたことは民間の怨霊思想対策であった可能性があり、また桓武が丑年生れであった(後紀延暦廿三年八月壬子条)こともかかわるか。

牛腸さんが全国500名ほどあり、新潟に多いという。 「名字由来ネット

柳田国男集、「午餉と間食」に、

 小林君の方言考初稿に存録せられて居らぬのを見ると、或は越後でももう消滅したのかと思ふが、十年前の「里言葉」にはあるのだがら、少なくとも記憶して居る人は多い筈である。可なり古風な珍しい言葉が一つ、この地方には傳はって居た。頸城三郡の方はまだ確かめて見ないが、信州は水内高井の境上の村にも、私の知る限りでは此語を解する者が居らず。會津でも莊内でも一度も耳にしたことがない。何か隠れたる支持力があって、爰ばかりでは保存して居たので、斯んな小さな一事でも、辿れば尋ねて行かれる常民の歴史が、まだありさうだといふことだけはわかる。
 始めて幸田氏の方言集を見た時から、私の筆記し且つ關心して居たのは次の一項であった。
  ゴチヤウ 近隣親戚知己などに普請あるとき送る酒食(普請には人多ければ酒食を調ふるに容易なるまじとて、斯くおくるが此地の習慣なり)
 田中氏の越佐方言集はどうであったらうか、今手元に無いので見られないが、温故之栞第三十六編には出て居るから、古志郡地方にも此語は古くにから有ったのである。此記録には、牛腸といふ妙な文字を宛てる人もあるといふことを誌し、やはりゴチヤウは家普請などに送る酒食だと謂って居る。さうして別に又入牛腸などと書くイレゴチヤウといふ言葉もあって、それは客を招かずに其代りに酒食を送ることだとも謂って居るのは、注意しなければならぬ旁證であった。

 佐渡ではたしか矢田氏の方言集にも、人の家の普請に送る食物をゴチヤウといふことが見えて居た。山本修之助氏の「佐渡の民謡」六八頁には、
  バンジョさんゴチョだ
  ひのきさげじゆうに麥饅頭
といふ、あの島特有詞形の踊歌を載せて其註に、「牛腸、家蔵土蔵などの新築に、親類知人が食物を其家に送って、大工人足等を犒ふ風がある」と説明して居る。此風習は實はほぼ全國的であって、新潟一縣に限ったことでないのだが、たゞ之を表示する名稱だけに他では聽かれない特色があったのである。勿論他には無いといふこともさう容易には言はれない。たとへぱ能登の鹿島郡誌などにも、「ゴチョ、大漁新築などの祝品」とあるから、搜せば日本海岸にはもっと飛び飛びにはあるので、單に町や往還の附近で、それが漸く聽かれなくなったといふに過ぎぬのかも知れない。
私たちが日本の隅々の探集と、各地の篤志者の呼應協力とを急務として居る理由は、全く斯うぃふ隠れて消えて行ってしまふ問題に在るのである。

 そこで考へられるのはこの單語の起りであるが、誰しも先づ氣が付くのはゴチソウといふ言葉、及び疲れたことを意味するゴッチョウ(ゴシタイ)といふ言葉などであらう。人が特別の勞働をした場合に供與する飲食物を、ダリヤメだのゴクラウザケだのシンノヨビだのといふ例は多いから、ゴチヤウもそれと同列の慰勞の食事とこじつけられぬことは決して無い。しかし所謂入牛腸の場合でも知れるやうに、普請でなくても又作業の日でなくても、尚ゴチヤウは送って居たのである。次に馳走といふ語は中古の文献にある意味と、近頃民間の用法とは成程少しちがひ、後者は主として飲食物に限られてゐるやうだが、それにも信州甲州などは別な例があって、もとの歓待とか好意とかいふ意味を存して居るのみならず、何れも御の字を添へて相手方からの感謝を表して居るのだがら、それが此方からの取持の名になる気づかひは無い。斯ういふ風に田舎では何でも誤ったことを謂ふものと、田舎の學者自身までが考へる癖は昔からだが、人間は先づ間ちがへたことをせぬものと一應は推定して、正面から解を求めるのが研究の順序だと私は思って居る。
 但し牛の腸だけは何分にも受けられない。察するに是も一旦ゴチヤウの語の意味が不明になった結果、一二の知ったかぶりが斯んな文字を考へ出して、反對をし得ない無筆な人々を煙に捲いた名残であらうと思ふ。ヒルゲ即ち屋外の晝飯を午餉といふことは正しい漢語であり、日本へも入って来て中世は相應に弘く用ゐられて居た。それが佛散語や法曹語と同様に、全く文字を知らぬ人たちの間にも行はれたのは、新しい風習であり又守らるべき制度であって、別に固有の日本語の根強いものが無かったからだらうと思ふ。餉といふ漢字は辭典にもあるが、手短に和解すると食物を運ぶこと、もしくはその運ばるゝ食物といふことであって、現在のベントウといふ語が是に該當し、その所謂辨當の文字も、實はまだ少しも来由がわからない。つまりはめいめいの屬する臺所の鍋から、直接掬って食ふ食物以外、通例家から外に出て食ふやうに出来て居るものが餉であって、本来は山行きの焼飯も、田植の日の豆粉むすびも包含してよい言葉であった。それが斯うして二たてに分れて、メンパや割籠の飯は辨當と謂ひ、ゴチヤウと呼ばなくなったのは、恐らく一方が心を籠めた御馳走に限られた爲だらう。
 今日はもう多くの人が知って居るが、我々の常の食事は近世までは二度であった。特に改まった事件のある日ばかり、其中間に何か食った故に、ヒルゲは原則として午餉であったのである。其遺風は田植の日に、可なり明瞭に傳はつて居る。家普請が個々の私人の営みでありながら、是には門黨故舊同村の誰彼の、多敷の戮力を掟として居たことは、今日は寧ろ午餉によって推測せられるのであるが、記録に見えて居るのは有力人の行旅、殊に軍陣の移動の場合が多かった。是などは耳遠い漢語のゴシヤウ午餉を、ゴチヤウと訛らせて大衆の用語に化せしめた一つの大いなる原因かと思はれる。さうでなかったら皐月の田植ボチなども、同じくさう喚ばれるだけの十分な條件があるからで、此方だけは今でもヒルゲ・ヒルマといふ舊日本語のまゝであるのは、所謂牛腸の慣習が是と獨立に、發逹して来た證據とも見られる。京都縉紳の日記を讀んで見ると、彼等の奈良詣での行返りには、必ず宇治玉水の間などに野外の食事が用意せられた。それを雜餉と文字にも書いて居るのは、餅鮓酒菓物その他取り取りの趣向が設けられて居た爲でありうと思ふが、この単語なども今も九州には活きて行はれて居るのである。人もよく知る博多近くの停車場名の雜餉隈りザッショノクマ)などは古い由緒もあらうが、別に婚禮の前後に調味して贈って来る重箱の内を、肥後でも薩摩でもザッショと謂って居り、肥前久間村の方言誌にもデフショは祝儀のことゝ出て居る。祝儀では不精確だが、吉凶の人寄りに厨事を助ける意味で餉(おく)って来る例は仝國にある。それを或る土地では今なほ雜餉と謂って居るのである。屋外饗宴の場合は嫁入の受渡し、もしくは信心の旅行の出迎へにもあった。雜餉隈は要するに他の地方の坂迎場に該當する地名である。

ゴチソウという言葉とも似ていて、何か繋がるのかとも思えるのである。
今の牛腸祭は拝殿で式典、参列者はその後社務所へ移動して、9月例祭の練山曵山の次第を米くじで決める特殊神事と位置づけられている。

社務所で米籤を引いて、順番を決める→
何か歴史がもっとありそうなものと思えてくる、山車の順番を決めるだけの祭なら、あるいは単なる昼食なら、とっくの大昔に忘れられ、消えて無くなっている。千年も二千年も続いているはずがない。
しかし当社といえども古い史料がない。せいぜい江戸時代後半のものしか残されていない。

「山車会館」の展示に、
牛(午)腸祭
牛(午)腸祭は、氣比神宮例祭にあわせて曳き出される山車の順番等を籤で決める重要な神事です。江戸時代後半には毎年(旧暦)五月十六日を執行日と定めていました。現在では六月十六日に行われています。
 江戸時代の牛腸祭では、敦賀三十六町のうち十二町が東組と西組に分かれ、隔年ごとに神事を行いました。祭を執行する会場となり神事執行の中心となったのが、牛腸番、あるいは当屋(家)と呼ばれる家です。頭屋は、ハレの場である会場(屋敷)を提供し豪華な昼食で各町の代表者をもてなすことが可能な、裕福な家が選ばれました。これは敦賀町人として最高に名誉な事とされました。
 ちなみに、「牛腸」の意味は、祭当日に昼飯(午餉)の饗応をすることが主要な行事の一つであるため「午の刻』(正午)から「午」とする説が一般的ですが、山車の巡行が御霊信仰に通じるとして、その所似の神である牛頭天王の「牛」とする説もあります。
 江戸時代から近代にかけての文献には、「午」と「牛」が入り混じって表記され、「牛腸祭」と書かれる例もしばしばあります。


氣比宮社記 第三巻(全九冊内・一部パネル) 宝暦十一(一七六一)年 氣比神宮蔵(博物館寄託)市指定文化財
 本冊子は江戸時代に書かれた貴重な氣比神宮の歴史書です。ここに書かれた「牛腸祭」についての事項は次の通り、

十六日謂る牛腸之神事 祭祀同神具願主之神事
祝詞亦同断
近来執行之
自八月祭禮番組町 今日為祭礼始祝儀 奉
献神具而 取祭礼両日行列之番鬮 定前後之
次第

「今日を祭礼の始め祝儀となし」とあるように、真夏に盛大に執り行われる氣比神宮の例祭は、まずはこの牛腸祭から始まると書かれています。

遊行上人砂持の神事

大鳥居に向き合うように「お砂持ちの像」がある。案内板に
お砂持ち神事の由来
 正安3年(西暦1301年)に、時宗2代目遊行上人他阿真教が諸国巡錫の砌、敦賀に滞在中、氣比社の西門前の参道、その周辺が沼地(この時代には氣比神宮あたりまで入江であった。)となって参拝者が難儀しているのを知り、浜から砂を運んで道を造ろうと上人自らが先頭に立ち、神官、僧侶、多くの信者等とともに改修にあたられたという故事に因み、「遊行上人のお砂持ち神事」として今日まで時宗の大本山遊行寺(藤沢市の清浄光寺)管長が交代した時にこの行事が行われている。
 元禄2年、奥の細道紀行で敦賀を訪れた芭蕉は「月清し遊行のもてる砂の上」と詠んでいる。
当社の祭礼というより時宗大本山の行事だが、今もなお続いているという。
『敦賀郡誌』
遊行砂持の神事は、遊行眞教、同國の時、大鳥居の西、沼地にして、参詣の人艱みたりしを、遊行自ら土砂を運びて通路を開きたりし故事に基き、其後の遊行の回國ある時は、本國近國の時宗の僧徒を集め遊行と僧徒と簀を擔ひ、神前に濱砂を運ぶ神事なり。今に絶えず。(詳くは第二章寺院西方寺篠に出づ。)

西方寺 敦賀町神楽に在り、藤澤山西方寺安養院と稱す。時宗遊行派、藤澤清淨光寺末に属す。初は眞言宗の寺院なりしが、正安三年、遊行二世他阿〔眞教〕廻國の時改宗す、他阿西方寺に在る時、氣比宮の西門と寺との間大沼にして、參詣の煩たり。故に祠官等道を作らんと欲したれども力及ばずとして其儘にありけるを聞き、他阿其徒と海邊より土砂を運びて道を作る。近隣歸依の貴賤亦加はり祠官社僧遊女も出でゝ之を助け、日ならずして成る。是後の三丁繩手なり。今の大鳥居前の往来なり。加之、更に宮中に砂をちらし、石を疊み、社内を清淨にす、〔繪縁起〕因て神勅にまかせ、社前護念の爲め、自彫像を刻して、大鳥居の正面に堂を建てゝ之を安置す。是後の本堂なり。〔本尊、阿彌陀如来〕因て本堂正面〔即大鳥居と相対す〕の表門に閫を設けず、亦寺にて凶事を執行する時は神前を憚かり、門を閉づ、表門の北手に不淨門あり、之より往來す。…

年中行事
「氣比神宮」の公式HP年中祭典 行事」より

◎若水祭(1月1日)
◎歳旦祭(1月1日)
◎元始祭(1月3日)
◎古神札御焚上祭(1月15日)
◎節分祭(2月3日)
◎紀元祭(2月11日)
◎祈年祭(2月17日)
◎天長祭(2月23日)
◎御誓祭(みちかいまつり)(3月6日(旧暦2月6日))
仲哀天皇2年2月6日、筍飯(氣比)大神を参拝、兇賊退治の事を祈られる。天皇深く此の地を愛し「此地に宮居を定め永く居らん。」と誓われた故事に因る神事。
◎御名易祭(みなかえまつり)(3月8日(旧暦2月8日))
神功皇后摂政13年2月、皇后の命に因り、応神天皇(皇太子)が角鹿(敦賀)の氣比大神を詣で、同夜、大神が夢に現れ太子の名易(名変え)の事を告げられた話に因る神事。
◎昭和祭(4月29日)
◎角鹿神社初卯祭(5月初卯日)
◎春季例祭(5月4日)
◎御田植祭(6月15日)
◎牛腸祭(ごちょうさい)(6月16日)
9月例祭の練山曵山の次第を米くじで決める特殊神事。
◎夏越大祓式(6月30日)
◎総参祭(7月22日)
祭神神功皇后が角鹿から遠征航行した故事を模し、海を渡り対岸の常宮神社へ神幸する祭。
◎神幸祭(9月3日 終日)
例祭前日、御鳳輦が市内を巡幸する。各町内の神輿が本殿より神霊を神輿に奉還し市内を渡御する。 この日市内は、各種奉賛行事で賑わいを見せる。
◎例大祭(9月4日(旧暦8月4日))
大宝2年(702)8月4日。勅して六柱の神々を合祀して以来、この日年に一度の重儀である大祭(例祭)を執り行なう。 例祭前2日宵宮から15日月次祭終了迄を氣比の長祭りと云う。
◎大神下前神社例祭(10月10日)
◎神嘗祭当日祭(10月17日)
◎明治祭(11月3日)
◎兒宮祭(11月15日)
◎七五三祭(11月15日前後の期間中)
◎新嘗祭(11月23日)
◎〆替・煤払い神事(12月15日 月次祭後)
◎年越大祓式(12月31日)
◎除夜祭(12月31日)
◎献燈祭(12月31日)
毎朝御日供祭、毎月1日朔旦祭、15日月次祭、干支の庚申日に猿田彦神社祭、その他臨時祭を随時斎行



①(歴史概況)
②(祭神)
③(祭礼)
社家
④(神宮寺)
⑤(松尾芭蕉)


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん


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