丹後の地名 越前版

越前

気比神宮(けひじんぐう)①歴史概要
福井県敦賀市曙町


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福井県敦賀市曙町

福井県敦賀郡敦賀町曙町

気比神宮の概要-歴史




《気比神宮の沿革-歴史》
歴史の概要といっても、二千年の歴史があって、敦賀だけでなく日本全体の古代史にとっても大変な社だから、簡単にはいかない。
まずは概況、当社を外から見た大体の様子。境内は広く、歴史があるので、これだけでもたいへんだが、簡単に…

国道8号線神宮前交差点の東に赤い大鳥居が見えて、その背後に鎮守の杜の緑が映える。「青丹よし」とはこんな光景か。当社のシンボル。

かくも美しい大鳥居を写さずにはおくものか、とばかりに、誰も彼も↑スマホを向ける。
大鳥居だけは戦災(S20.7.12空襲)も、幸いにも焼失を免れた。両部式と呼ばれる型式で、高さは11メートル、日本三大鳥居の一つに数えられている。江戸初期のものである。正保二年(1645)、小浜藩主・酒井忠勝の寄進により、佐渡(当社は佐渡にも領土をもっていた)の榁の木で再建されたという、康永二年(1343)の暴風で倒壊していたものの再建だそう。
鳥居の朱は普通は、私が住んでるマチあたりでは、もっと淡い色だが、この鳥居は辰砂(しんしゃ)の色をしている。惜しげもなく辰砂が使われているのかも知れない。(大鳥居だけでなく、社殿や回廊なども、普通の朱色ではなく、みなこの色である。)

辰砂原石はこんな色↑(硫化水銀(HgS)、硫黄と水銀の化合物なので、500度ほどに熱すると水銀が分離されて危険になるかもという。)
中国のものだが、今ならタダ同然の安さ、しかし当時中国からの輸入品となれば目ン玉が飛び出るような高価なものではなかっただろうか。何でもある大国・中国との貿易が、資源なき小国に巨利を生むというのが実感できる。
辰砂と呼ぶのは中国で、辰砂の産地国として知られ、不老長寿薬として珍重したことも知られる、日本では古くは真赭(まそほ)と呼んだ、芭蕉も拾った「ますほの小貝」もこの色をしている。

案内板がある。
氣比の大鳥居(旧国宝)
当神宮は古く仲哀天皇の行幸・奉拝祈願があり悠久二千年の歴史を有する元の官幣大社で北陸道総鎭守・越前国一之宮である。大鳥居の歴史は通称赤鳥居として嵯峨天皇弘仁元年(八一〇)の造営時に東参道口に創建されだが度重なる災害に依り倒壊した為正保二年(一六四五)境域の西門に配し同礎石を移し寛永年間旧神領地位渡国鳥居ヶ原から伐採奉納の榁樹一本で両柱を建て再建されたのが現在の朱塗の大鳥居である。明治三十四年国宝に指定(現在は国の重要文化財)木造では天下無双の大華表と古くから呼称され各時代それぞれに権威ある伝統技術によって保存修理が行なわれ今日にその偉容を伝えている。尚正面の鳥偏は有栖川宮威仁親王の御染筆である。
東参道が正門だった頃は、そこにあったものという。
東参道は今は駐車場へ入る道になっている。土公などがある所になる。あのあたりが過去のいつかに於いては中心であったかと思われる。
中世境内図を見れば、東というか、北というか、境内の東北側に表参道があって、そこに大鳥居があった、ように描かれている。今は小学校のグランドがある方向である。
その当時は西門は裏口的な位置付けか、たぶんこちらは海(入江と呼ぶかラグーンか)が門まで迫っていて、舟でお詣りする人たちの門であったのかも知れない。
恐らく、元々は潟湖に向かい合った社であったのであろう。

亀池↑ 南池↓

境内の南側に池がある。
池というのか、ラグーンの名残というか、当社周辺の二千年昔の元々の自然環境が残されたものかも…。(古図には描かれていない)

『敦賀市史』→
古代といっても、ずっと下って律令時代の推定図だけれども、気比松原あたりから自然の浜堤が東に延びていて、その内側は潟湖でなかったかと思われる。その東岸一番奥に当社があったと思われる。
さて、全体の案内を境内の案内板で見ておくと、
北陸道総槙守
越前國一之宮  氣比神宮
祭神七座
伊奢沙別命(氣比大神)・帯仲津彦命(仲哀天皇)
息長帯姫命(神功皇后)・日本武命・譽田別命(應神天皇)
玉姫命・武内宿禰命
沿革
主祭神気比大神は神代から此の地に鎮り給うた大宝二年(七〇二)勅に依り社殿の修営を行い仲哀天皇神功皇后を合祀した。日本武命をはじめ四柱神を別殿(四社の宮)に奉斎した。延喜式に「祭神七座並名神大社」とあり類聚三代格には「神階正一位勲一等」と記されており此の七柱の神は一座ごとに官幣(大社)の奉幣にあずかっている。歴代の皇室をはじめ衆庶の尊崇きわめて篤き所以である。明治二十八年官幣大社に昇格し神宮号宜下の御沙汰を賜って氣比神宮と称した。之単に北門の鎮護たるのみならず日本有数の古名大社として通称「氣比さん」の名で親しまれ全国に幅広い信仰を集め九月二日より十五日におよぶ例祭は「氣比の長まつり」としてその名を留めている。上古より歴朝の奉幣は実に枚挙に遑なく行幸啓も極めて多く戦後では昭和四十三年畏くも天皇皇后両陛下御親拝・昭和六十二年五月昭和の大造営に依る本殿遷座祭・平成十四年御祭神合祀壱千参百年弐年大祭にあたり、幣帛料の御奉納を賜り厳粛なる奉弊祭が営まれた。戦後の都市計画で境内は大幅に削減されたが、由緒ある摂末社十五の中、当地敦賀の地名の発祥である式内摂社角鹿神社がある。

もう一つあって、
氣比神宮御由緒
祭神七座
伊奢沙別命
仲哀天皇
神功皇后
日本武尊
應神天皇
建内宿禰命
 主祭伊奢沙別命は通称氣比の大神として二千年有余の昔当地に鎮座になりました。大宝二年(七〇二)の御造営時に他の神々を合せ祀り、祭神七座の格式は言う迄もなく越前之国一の宮・北陸道総鎮守と崇められる元の官幣大社であります。時恰も平成十四年、御祭神合祀壱千参百年弐年大祭が盛大に斎行されました。
 境内に式内摂社・角鹿(つぬが)神社があります。「敦賀」の地名発祥の神社でもあります。当神宮と敦賀は古い歴史と伝統を守りながら時代を共にして来ました。九月に見る豪華絢爛の絵巻さながら、市民参加の敦賀まつり(氣比祭)が之を象徴しています。また六月の御田植祭と牛腸(ごちょう)祭・七月の総参祭(そうのまいり)は、いずれも御祭神ゆかりの特殊神事として注目されています。また仏教との関係も深く遊行上人のお砂持神事。旧跡は明らかでないが神宮寺は日本最古と記される氣比神官寺。最澄(伝教大師)・空海(弘法大師)が求法の祈誓をかけて大行を修したと伝える聖地があります。その他芭蕉が「奥の細道」に北陸の勝を探り氣比社参。正保二年(一六四五)神領地・佐渡の国、鳥居が原にて伐採の榁樹一本や両柱を建立。芸術性に秀でた天下無双の大華表、有栖川宮威仁親王染筆にかかる扁額が爽やかに光を放つ。
 古くより国家鎮護の大社として、悠久の歴史に育まれた「日本のこころ」が御参詣の皆さまの心を潤すことを願って已みません。
平成十八年三月吉辰  気比神宮宮司謹記
当社は案内もヘタなツーよりもずっとよくできているし、HPもよくできている。
いつも時代の先端にあったのであろう様子を偲ばせている。↓


戦災で全焼しているので、焼ける前の状態を記したものもみてみると、
『敦賀郡誌』(大正4年)
氣比神宮  敦賀町曙區に鎭座す。官幣大社なり。瑞垣門内なる本殿及四社に祀れる七座は、延喜の神名式に氣比神社七座、並名神大とある神なり。天平二年以前に從三位を、其後正三位勳一等を授け奉る。〔並に年月不詳〕承和六年〔二月廿六日大神宮雑務、国司の預るを停め、神祇官に隷す。〕十二月九日、從二位を、嘉祥三年十月七日正二位を、貞観元年正月二十七日從一位を授け奉り、其後正一位を授け奉れり。寛平五年十二月の官符に正一位勳一等氣比大神宮と見えたり。〔神階記に、寛平五年十二月二十九日に正一位を授け奉ると見えたるは呉なり。〕歴麻崇奉する所厚く、越前第一の総社、北陸無双の神祠と稱す。〔筆海要津〕平家物語にも氣比の宮とあきの厳島は兩界の垂跡〔気比宮は金剛界厳島宮は胎蔵界〕にて候が、けひの宮はさかえたれとも、厳島はなきか如くにあれはてゝ候と見ゆ。〔これ平清盛高野大塔婆修造の時、夢に見し老僧の語なり。古事談には日國中大日如来は伊勢大神宮と安芸厳島也とありて、気比社とはなし〕其頃は殊に社頭の壮麗なりしを知るべし。又常に航海に従事する者は海路の安金を祈請す。越前國の一宮たり。明治四年七月國幣中に列せられ、二十八年一月八日官幣大社に陞格し、同年三月二十六日更て神宮と稱すべき旨宣下せらる。諸宮殿及建造物には本宮の西の石玉垣内には、御子神七社東面し、二社の御子神北面し、神明兩宮南面す。本宮の東一町許に角鹿神社あり、角鹿神社の東北東鳥居の内に大神下前神社あり、本宮の東南半町許に児宮あり。西半町許に猿田彦神社あり。其他の建造物には拝殿・繪馬堂・遥拝所・社務所・神饌所・寶藏等あり。明治十年三月二十一日御子神社の内天利劔神社・天比女若御子神社・天伊佐奈彦神社・伊佐々別神社及び角鹿神社を境内攝社、常宮に鎮座せる常宮神社及常宮神社末社玉佐々良彦神社・天鈴神社・天國津比咩神社・大國津彦神社の五社を境外攝社に定めらる。大椋神社〔大蔵〕劔神社〔莇生野〕椎前神社〔道口〕道後神社〔天筒山麓今は本宮境内〕の四社は當郡四方鎮護社と稱し、維新前にありては、本宮の摂社に屬したる者なり。社地は平坦にして、古松老杉欝蒼として晝猶暗き程にて、いと神寂びたりしが、明治六年八月九日の暴風雨に大幹巨木の倒れし者多く〔敦賀縣にて囚人を出してその後始末を爲せり。〕境内も爲に大に荒みたりしが、二十九年り水害と大風とに残余の老樹も亦或は倒れ、或は枯れ、一層荒廢したりしかば、其後二萬本の松杉を補植し、以て境内風致の復舊を計れり。現今境内は九千八百二十九坪〔大正元年末現在〕あり又西の大鳥居の正面なる道路は、二百年前頃までは、土俗三丁縄手と稱し、三丁程の間は人家なく、兩側並松なりしが、其後漸次に田圃を埋めて人家次第に建ち列り、維新後は一丁程となり、更に大華表前に敦賀驛鐡道停車場の設けられしより、人家建ちつヾきて、其邊にありし両側の石燈籠も境内に移して、遂に今の如くになれるなり。…

『敦賀郡神社誌』(昭和8年)
官幤大社 氣比神宮 敦賀郡敦賀町曙字氣比
位置と概況 気比神宮は、近年まで敦賀町市街の東南隅に當ってゐたが、敦賀驛の移転に伴ひ、道路網の革新を来し、数條の新道開通と共に、學校官衙人家等が、漸次其附近に建設されたので、今は殆んど市の南北の中央東端に位するに至った。彼の元龜年間の戰亂を物語る天筒山が、恰も屏風の如くに数頃の水田を隔てゝ背後に聳へ、自餘の三方は舊社家と氏子等の人家である。新装の笙の橋通りを一直線に東面して進み、行啓道路と相交叉した正面が、即ち海内無雙と呼ばるゝ國寳朱塗の大鳥居で、天に冲する老松の間に巍然として立ち、北國一の大社たる偉容の莊厳さを、先づこの壯頭第一に偲ばしめる。
其左右に社標制札が建てられ、其内左側に戰利品の大砲が儼然と据へられてある。こゝを過ぎ御手洗川に架せる神橋を渡り、延元の昔當神官が松頭高く義旗を掲げて、敵の大軍を威嚇したといふ、旗掲の松と稱する名木を眞向に見て、多数の石燈籠の並列する參道を進めば、右に社務所、左に御手洗舍がある。御手洗舍には未だ灑がずして既に心身の清きを覚ゆるばかりの瑠璃の如き清水が混々として湧く。之にて垢離潔斎して第二の朱塗中島居に入り、拝殿を迂廻して中門に詣る。中門は左右各一間程が透塀で、之に連接して廻廊が建てられ、他の三方は玉垣を繞らし東西に脇門が設けらる、この内裡の神庭中央に國寶の本宮が南面し、其後方左右に西殿宮、東殿宮が相對して鎭座し給ふ。本宮殿西方の玉垣外には摂社、天伊佐奈彦神社・天比咩若御子神社・金神社・劔神社の四社が、何れも東面し、又其北方には末社、神明神社が南面し、摂社佐々別神吐 末社擬領神社が並列して北面し、拝殿の西方には末社、猿田彦神社が東面して鎮り給ふ。又本宮の東方玉垣外に神饌所及神庫があり、社務所の東方には絵馬殿・遥拝所があり、其側に戦利品の大砲・魚形水雷等が威勢よく据へられて、北海の要津國家鎭護の古社たる武威を表徴してゐる。此附近は數奇を凝らした、大規模の神苑で、泉石の配置よく天工を奪ひ、錦鱗池中に躍り、小禽樹間に飛ぶの景情ありて、獨り賽客の足を停めて安息せしむるに、絶好の休憩所たるのみならず、一般民衆の散策清遊にも亦最適の遊覧所として知られてゐる。又東方の間道を背にして皃ノ宮が西面して鎭り、其東北方の道路を隔てゝ摂社式内角鹿神社が西面して鎮ります。其前庭南側にある、椎の大樹は幹圍二丈五尺高五丈で、境内第一の古木と稱せられてゐる。神饌所の東北方には幾棟の社庫が連なり、多数の神輿祭器等が藏せられて、其祭典の盛儀さを偲ばしめる。境内の北隅に方り大神下前神社が背面して鎮まり、其東側の道路を隔てて元宮司故今井清彦翁の銅像が建てられ、翁一代の偉蹟を物語つてゐる。大神下前神社の附近に土公と刻した卵形の石が八角形に石垣を築ける高所に建設してある。この土公及び墳型の盛地に就きては後項に記して置くことにする。以上略叙した如く、當神宮は廣い大なる境内に千古の老松参差枝を交へ、いとも神さびたる多数の社殿が其間に隠見して、神々しきこと言はんかたなく、又其他の設備も充實して、結構壯麗殆んど問然する所がないのは、これ神威赫灼古今に超絶し給ひて、上下の崇敬今古比類なきの致す所である。

大鳥居の左には「戰利品の大砲が儼然と据へられて」、魚雷も置いてあったという。武器が守護にならないことは古来よく知られている通りで、国宝の本宮があったのだが、惜しいことに戦災で焼かれてしまった。相手は当方よりもさらに優れた武器を持つものである。

昭和11年、陸軍関係者植樹というユーカリの樹が境内にある。コアラがいるかもと探してみが、見当たらなかった。テッポーよりもチャンバラごっこよりも木を植えなはれ。

『奥の細道』にも描かれる

芭蕉像が本殿と向き合って立っている。(後述する)

中世の気比神宮

北陸新幹線の敦賀開業(2024年3月16日)で、全国から参拝があろう、ということか、回廊により詳しく案内パネルもあった。
気比神宮古図には、戦国時代より前の古い境内図が記されています。この中には神宮寺、食堂、鐘楼、塔といった寺院の施設があり、神仏習合の姿を色濃く残しています。
 この他に、音楽殿や本殿前に右、左楽屋がみえます。平安時代の歌謡集の中に氣比歌、気比神楽歌というのが残されていることから、古代から氣比神宮では、神事の際に神楽歌が歌われていたことがわかっています。また中世の氣比神宮には舞師、歌師など専属の芸能民がいた可能性があり、歌舞を奉納していたと考えられます。
 政所神は角鹿神社のことで、本殿や九社之宮などとどもに、現在の位置と替わらないですが、大鳥居が北に向いているのが大きな違いです。古代から中世まで、大鳥居ははるか海のむこうから訪れる人、物を迎えていましたが、近世に入ると、湊だけでなく都への街道にも面している西側に、大鳥居は立て直されたのです。

幸若も近世の記録に見えるので、能も奉納されていたのであろうか。

大鳥居と向き合って「お砂持ち」の像がある。神宮寺などともに後述する。このあたりも当時は入江で、砂を運んで300メートルの参道を作ったそうである。
お砂持ち神事

古代の祭祀跡と気比神宮の始まり
天筒山と土公


今は当社境内になく、隣の小学校のグランドに「土公」(どこう・ちきみ・ちのかみ)と呼ばれる築山がある。その背後に天筒(てづつ)山が見える。

境内には遥拝所がある。
天筒山と土公が一直線に重なる、その前庭がかつての祭祀場と思われる、ここに神籬を立てて祭祀を行っていたであろう、その聖地は小学校のプールや何の小屋かできていて、信仰を失って無粋この上なしの状況になっている。
(小学生たちの姿が見えない、新幹線が通る町の中心地の小学校がまさか廃校になったりはしまい、と思っていたのだが、いつ見ても姿がない、学校の廻りをぐるっと廻って見たが、人のいそうな様子はない。HPを見てみると閉校になった、150年の歴史の幕を閉じたそう。卒業生には俳優の大和田伸也、獏さん兄弟らもいるそう。原発もダメ、新幹線もダメで少子化が町中でも深刻に進行しているよう。そもそもが敦賀のための原発でもなかったし、新幹線でもなかったことがよくわかる。
どこの家でもそうだろうが、子がいなれば50年もしないうちに確実にオシマイである。何を騒ぎ、何を誇ったとしても、破滅を目前にした馬鹿騒ぎにすぎない、子がなければオシマイ。ドシンケンになって対応策を練らなければ敦賀も消滅してしまう。
跡地は何に使うのかは分からないが、少なくとも土公とその周辺は神社へ返還してもらうのがいいと願う。市が所有しているうちならまだしも、もし民間に売却されると消滅してしまうかも知れない。学校の歴史も神社の歴史に較べれば屁のようなはかなきものに過ぎないのかも知れない)


案内板に、
氣比宮古殿地の事
氣比神宮境内東北部に位置し当神宮鎮座にかかる聖地として古来より「触るべからず 畏み尊ぶべし」と社家文書に云い伝えられているが、嘗て天筒山の嶺に霊跡を垂れ更に神籬磐境の形態を留める現「土公」は氣比之大神降臨の地であり、伝教大師・弘法大師がここに祭壇を設け七日七夜の大業を修した所とも伝えられる。
土公は陰陽道の土公神の異称で、春は竃に夏は門に秋は井戸に冬は庭にありとされ、其の期間は其所の普請等を忌む習慣があったが此の土砂を其の地に撒けば悪しき神の崇りなしと深く信仰されていた。戦後境内地が都市計画法に基づき学校用地として譲渡の已む無きに至ったが土公と参道はかろうじてそのままの形で残された。大宝二年(七〇二)造営以前の気比宮は此の土公の地に鎮座され祭祀が営まれていた。此の聖域を通した気比之大神の宏大無辺の御神徳を戴くことが出来るよう、此のたび篤信者の奉賛により遥拝設備が立派に完成されるに至った次第である。
社殿が造られる以前の祭祀場を遥拝するものである。
神社ははじめから今のように社殿があったものではなく、神が降臨されると考えられた山頂とか磐座とか巨樹とか、あるいはこんな築山を作り、その前庭に神籬(ひもろぎ)を立てて祭場としていた。裾の石垣積は後世のものかと思われる。
神道というものは、日本だけのものと思ったりするムキも多いかも知れないが、これも渡来氏がもたらしたもののように見えてくる。天日槍が招来した神宝に「熊の神籬」があるという、熊はカミの渡来語と思われ、まさに神の神籬であり、それは後世の神社のことであろう。
「土公」は陰陽道の神とされるが、道祖神なども土公と呼んでいる。古い土俗の神といった意味であろうか。元々は何と呼んでいたかはわからない。
今の主祭神の「ケの神様」は最初は天筒山山頂に、そののち麓におろされて、何度が祭祀場をかえて、最終的にこの「土公」に降臨されるようになったと思われる。

回廊の案内パネル
氣比神宮のはじまり
 氣比神宮は、伊奢沙別命、別名、笥飯大神、御食津大神ともいわれる神が、天筒山の嶺にご降臨されてから、氣比神宮境内の聖地である土公に遷座され、ここに祀られたことから始まります。
天筒山や土公など、地域の象徴的な山などの自然に神をみとめる、古来の神籬磐境の形態を留めてています。
 その後、 仲哀天皇はご即位(一九二年)の後、当宮に親謁せられ国家の安泰をご祈願され、神功皇后は天皇の勅命により御妹玉姫命と武内宿禰命を従え筑紫より行啓せられ参拝されたと社伝にあります。この時、日本書紀には、仲哀天皇が敦賀に笥飯宮という行宮を建てて滞在していたこと、また神功皇后はこの笥飯宮から海に出て、穴門(山口県)へ向かったことが記録されています。
 当初は土公の地で祭神を祀っていましたが、仏教伝来による寺院建築の影響もあり、社殿が整備されたのは飛鳥時代、文武天皇の大宝二年(七〇二年)勅して(御言宣)当宮を修営し、仲哀天皇、神功皇后を合祀されて本宮となし、後に日本武尊を東殿宮、応神天皇を総社宮、玉姫命を平殿宮、武内宿禰命を西殿宮に奉斎して「四社之宮」と称したと伝わります。

『敦賀郡誌』
土公(チノカミ)  本宮より艮位五十間許に在り、高さ六尺許の小阜にして、石を以て圍む。保食神降臨の地と稱し、此に大願祈祷を行ひ、又傳教弘法二大師、此處に祭壇を築き、祈祷すと、社記に見ゆ。或云。最初の本宮の地なりと。然ども、是或は古墳なるべし。墳上に植えられたる古松は、寛永年中の大風に倒れて植ゑつきしを、明治二十七年頃の夏、雷落らて又枯る。元龜以後、地を削りて之に添ふて道路を開き、今の如く石を以て、八角形に圍めり。

『敦賀郡神社誌』
土公 境内遺址として説述すべきであるが、便宜この條にて略述する、既に位置と概況に於て其墳丘の状態を述べたが、これは元龜以降何れの年代か詳ではないが、道路鑿通して、現今の如く整地した際の遣址と思はるゝ。しかしこの土公に關しては諸説あり、曰く保食神降臨の地と云ひ、傳教大師・弘法大師がこゝに祭壇を築き祈祷した所ととも云ひ、又舊本宮の社殿の趾なりとも云ひ、或は古墳には非らざるかとも云はれてゐる。社家の傳承では此の墳丘には尊貴の品が埋蔵してあるとの口碑もある。當神宮は仏教関係も極めで濃厚であり其の墳丘様式より見て、或は經塚ではあるまいか。神社境内に經塚築造の例は甚だ多い。更に一考すべきは土公の文字が古くより用ひられてゐることである。土公とは陰陽道の土公神(ドクジン又はチノカミ)の異稱である。士公神は春は竃にあり、夏は門にあり、秋は井戸にあり、冬は庭にあるとて其期間は其處の普請などを忌むのであるが、この整地土工に關して土公神として、この墳丘に祀つたものかと思はるるのである。

天筒山のツツは天橋立の鼓ヶ岳のツツと同じで、ヘビのことでなかろうか。この山のテッペンに世界樹があった、そんな伝説がありそうに思うが、伝わらないようである。


式内社・大神下前神社(境内末社)

土公の一番近くにある、大神下前神社(おおみわしもさきじんじゃ)は、氣比大神四守護神の北方鎮守社で、元々は北東の天筒山山麓の宮内村(金ケ崎町)に境外末社として鎮座していた。明治四十四年(1911)に鉄道(港線)敷設のため、この地に遷座。稲荷神社と金刀比羅神社を合祀、特に海運業者の信仰が篤いという。
境内の案内板
大神下前神社(おおみわしもさきじんじや)
末社(式内社)。御祭神は大己貴命。敦賀市内気比大神四守護神の一社で元は北東の天筒山麓に境外末社として鎮座されていたのを明治四十四年現在の地に遷座、稲荷神社、金刀比羅神社を合祀した。

『敦賀郡誌』
大神下前神社  もと道後(ドウゴ)神と稱す。永正四年二月金前寺々頷目録に道後神前と見ゆ。社記云、道後神社、祭神一座、一説曰、大己貴命、一説曰、大神下前神社、今より凡二百年前、宮守勝田某、金比羅神稲荷神を勸請して、今は三座なり。明治九年六月八日村社に列せらる。本宮の境外末社にて、社はもと天筒山麓に鎮座ありしを、明治四十四年社地の鐵道敷地となりしかば、今の處に移す。

『敦賀郡神社誌』
大神下前神社 祭神 大神下前神、大物主命、宇賀魂命
由緒
道後神と稱し、社記に道後神社一座とあり、一説に大巳貴命とも稱してゐる。元天筒山麓に鎭座し給ひ、延喜式内の古社にて気比神宮の境外末社であつて、勝田某宮守をなし、凡二百年前に金刀比羅大神、稲荷大神を勧請して合祀し、祭神三座である。明治九年六月八日村社に列せられ、同四十四年鉄道敷設地の爲め神宮境内の現地に奉遷した。


新幹線で湧く敦賀に今も線路が残る敦賀港線の廃線↑
シベリア鉄道につなぐ夢があったのではなかろうか、「命のビザ」を発給された6.000名のユダヤ人たちも、この線路を通ったのであろう。
さらばシベリア鉄道、さらば大陸欧亜の夢、さらば人道の鉄路。夢も人道もない、どこか腐った国のどこへつなごうとも敦賀は生き残れまい。鉄道もまたはかなき、無常の夢か。新幹線すらも通らない、たいていの町はどうなるのであろう。ただただ失われていくのみ、だろうか。

気比神宮の伝説

『越前若狭の伝説』
気比神宮      (曙町)
 気比神宮の祭神は保食(うけもち)の神である。この神は五穀の初生(しよしよう)の神であるので、このように名づけている。この神の口から飯肉を出し、体から豆穀と蚕の糸および万物の種と牛馬が生じた。後世衣食を得ることはこの大神のめぐみである。この神がおられる所を笥飯(けい)の浦という。故に笥飯太神と号する。
 仲哀天皇は笥飯太神の神徳を仰ぎ、仲哀二年に角鹿に行幸になり、行宮(あんぐう)を建てた。今の天神の社内がその遺跡である。都をこの地に移そうと思われたが、果たされなかった。天皇は皇后や百官をこの地にとどめ、紀伊国へ行かれ、さらに九州の熊襲征伐のため長門国(山口県)穴門(あなと)へ行かれた。使いを角鹿にやり、皇后および百官もここへ来るようにいわれた。
 六月十日皇后は角鹿を発しようとして、笥飯太神に参拝し幣をささげた。太神は皇后に「海路より行き、道々海神を祭れ。」と教えられた。よって皇后は船に乗り、妹の玉姫を神主として、自ら琴をひいて海神を祭った。七月豊浦に着いた。この日海神か出現して干満の如意珠を皇后に奉り、「この玉は天下を平治する重器(ちようき)である。」といった。
 仲哀八年三韓を征伐することとなり、同年三月皇后に「角鹿に行き、笥飯太神を祭って三韓追討を祈れ。」と命ぜられた。皇后は玉姫や武内らを連れて角鹿に至り、兵器を造って神幣とし、笥飯太神に祈った。太神はねんごろに方略を皇后に教えた。
 皇后は神の教えに従い、船を造り、五百枝(いおえ)の賢木(さかき)を船のともえに立て、上の枝にますみの鏡をかけ、中の枝に十つかの剣(つるぎ)をかけ、下の枝にやさかにの玉をかけて、角鹿の港を出発した。皇后が船に乗られた所を正面町と名づける。山のふもとにある岩屋から大小の竜魚が出て、お船を守護した。今の沓浦の皇后を祭ってある所がそこである。六月九州に着かれた。
 仲哀九年二月天皇かなくなられた。皇后は遺勅により三韓を征した。三韓王は満珠(まんじゅ)に苦しめられて降伏した。皇后摂政十三年二月八日東宮(応神天皇)は皇后の命により武内大臣と共に角鹿に来たり、笥飯太神を祭り、干満二つの珠を笥飯の浦に納めた。笥飯太神の教えにより海神を祭って二珠を得、刀に血をぬらずに三韓を征伐できたからである。今の沓浦の石のからとがそれである。その前に礼拝石がある。天皇が武内と共に天神地神を拝んだ所である。
 そのとき笥飯太神が太子の夢に現われ、「あす太子に名をさしあげよう。」と告げた。太子が翌日竜頭に乗って海を遊覧するに、いるかという魚が浦いっぱいにいた。太子は喜んで「神はわたしに御食(みけ)の魚をたまわった。神のお名を御食津(みけつ)の太神と名づけ奉ろう。」といった。神がまのあたりに現われ、「お名を誉田別(ほんだわけ)のみことと奉ろう。」と申した。この故に太神の摂社に、御食津の神を祭っている。また佐々別(ささわけ)の太神ともいう。
 推古天皇の吉貴(きき)二年天皇は角鹿の天筒山)に行幸になった。故に幸臨山(こうりんさん)あるいは光臨山という。この山の峰にめでたい雲かたなびき、光り輝いた。その夜小海(おうみ)の直(あたい)の幼い子どもに神託があり、「わたしは仲哀天皇である。跡を都留賀(つるが)の国に垂れ、常に皇室と国家を守る。わたしを笥飯の神社に祭れば、ますます天下を護持し、暴乱を除き、福寿を与えよう。」と告げられた。しかしこのときは故あって、仲哀天皇を祭ることができなかった。そのためこの年から奇怪なことがあり、鬼が社内に出没した。
 持統天皇の六年九月二十一日越前国司が白い蛾)を朝廷に献じた。白い蛾が角鹿郡浦上浜に群れ集ったからである。朝廷ではこれを喜び、笥飯太神の所領を二十戸増封した。
 文武天皇の大宝二年(七〇二)大領角鹿(つぬか)の直(あたい)が勅令により、神宮を経営し、仲哀天皇・神后皇后を保食(うけもち)の神と相殿(あいとの)に祭り、改めて気比(けい)太神と名づけた。故に気比の三神という。今の神官角鹿(つぬか)・大中臣(おおなかとみ)の二族は角鹿の直の子孫である。     (気比太神宮俗談)

 建内宿祢(たけうちすくね)は太子(応神天皇)を連れて、みそぎをするため越前の角鹿に来たり、仮宮を造っていた。そのときイササワケ大神が夢に現われ。「わたしの名を太子と取りかえたい。」といわれた。「命に従ってかえ奉る。」と答えると、神は「あす浜に行ってみよ。名をかえたお礼の品をさしあげよう。」と語られた。
 翌日浜へ出てみると、鼻の傷ついたいるかが浦いっぱいにいた。太子は神に「御食(みけ)の魚をいただいた。」と申した。よって神の名を御食津(みけつ)大神という。今に気比大神という。鼻の傷ついたいるかは、その血のにおいがくさかった。故にその浦を血浦と称した。今都奴賀(つぬが)という。         (古事記)

角鹿神社   (曙町)
 気比神宮の一隅に角鹿(つのか)神社がある。崇神天皇のみ世に任那(みまな)の国からみつぎの船が来て、笥飯(けい)の浦に着岸し、種々の宝器を天皇にささげた。その正使の額に一つの角があった。よって角鹿と名づけた。外国から朝貢が来た最初なので、天皇はことのほか角鹿を愛され、笥飯の浦を角鹿に与え、気比太神に仕
えさせた。よって筒飯の浦を改めて角鹿の郡(こおり)と名づけた。
 角鹿は霊神となり、長くこの地を鎮護した。よって角鹿の大神と号し、また角(かど)鹿あるいは政所(まんどころ)神と称した。子孫は世々この地の政所で、今の神官角鹿大中臣(おおなかとみ)はこの神の子孫である。
 この神の祭りは御頭(みくし)の神事がある。災難を退け、疫鬼を駆り、福寿を祈る祭りである。仁明天皇のみ世に天下の悪病が流行して、特に北陸がはげしかった。承和年中(八三四ころ)角鹿の大神が神官の夢に現われ、次のようにお告げかあった。「今疫(えき)病が流行しているのは、天平年間に三韓の異賊が気比太神の神罰によってほろぼされ。骨を北の海の砂にさらしておる。その憤怨(ふんえん)がとけないで結ばれ、疫鬼となって災を起しているのである。かの三韓も日本の神明の生じた国である。その故にわたしがまず来て神に化した。今この病気をしずめようとするなら、わたしの神像を歌舞して祭り、四方に遊行(ゆぎょう)せしめよ。疫鬼がたけだけしくとも、わたしの神霊がこれを征しよう。」 翌日神官が幣を奉って祭ると、大神かたちまち姿を現わし、勇猛の相を示した。神官が仰ぎ見るに、頭だけで、体は神隠れて見えない。お告げのままに神遊するに、至る所で病気がなおった。これより毎年神遊することになった。祭礼は四月の初卯(はつう)の日である。これは神功皇后が三韓征伐のとき出兵した日であるとともに、角鹿の神託により御頭の神事を草創した日である。神功皇后が三韓から軍を引き上げた日は十一月の初卯の日である。天平年中異賊滅亡の日もこの日である。よって両月のこの日を祭って、三韓降伏の神事と名づける。
          (気比太神宮俗談)
 崇抻天皇の世に額に角のある人が船に乗って越の国の笥飯(けい)の浦に来て泊った。よってそこを角鹿(つぬか)という。「どこのの人か。」と問うと、「オホカラ国の王子で名はツヌカアラシトという。またの名はウシキアリシチカンキである。日本の国に聖皇ありと聞き、帰化しようと思って来た。」と答えた。    (日本書記)
 註
 角鹿は、土地では古くからツノカと称した。しかし「古事記」などにツヌカと読んであるので、今はツヌカという人が多い。(杉原丈夫)

大鳥居    (曙町)
 気比宮の大鳥居は、九州人の寄進である。ねずみ杉の大木を切って海へ入れたところ、この津に流れ寄った。これを取上げて造作した。一本の木で二柱と笠(かさ)木までできた。              (越前国名蹟考)
 気比神宮の朱塗りの大鳥居は、むろの一本の材で造られてある。むかし正保のころ(一六四四ころ)敦賀に大水が出て、気比神宮のあたりがあふれたとき、どこからか一本の大きな材木が敦賀の浜に打ちあげられた。その材木には「気比」と書いてあった。それで町人がおおぜいで、引きあげようとしたが、どうしても動かなかった。そのときある人が、「エンヤラサーエ、モーソコジヤ」と音頭をとって、みながこれに和して引っぱると、やすやすと引上げられ、やがてこの木であの大きな鳥居が建造されたのである。今も九月四日のこの宮の祭礼の山車(だし)は、この掛声で引くのである。      (福井県の伝説)

さか梅(一)  (曙町)
 気比神宮の社の前に一株の梅がある。香気高く、花がみな下に向いて咲いている。故に逆(さか)梅という。一説には盛(さか)梅であるともいう。香気が盛んだから名とした。
 弘法大師が気比神宮に参拝されたとき、後世わが宗が繁栄するならば、このつえ(杖)たちまち花を開けと、持っていたつえを地にさしたところ、たちまち花が咲いた。それが今に至っている。       (気比太神宮俗談)
 気比神宮の社頭に逆梅という名木がある。嵯峨天皇の世に勅命によって空海が社殿を修造したとき、梅を一枝さしておいた。当社が繁盛するならばこの梅栄えよと、わざとさかさにさされた。今も枝がさかさにさしている。    (寺社什物記)

さか梅 (二)  (曙町)
 栄(さか)梅は一名天神梅という。中門と拝殿の東方にあり、石をもって根をかこむ。薄紅座輪梅である。宇多天皇の勅使として菅原道真が参向したときのお手植である。今茂っているのはひこばえである。   (敦賀港)
 註
 大宝元年(七〇一)若狭の三方郡に奇瑞があり、天皇は菅原氏を勅使として上瀬神社につかわした。大宝二年また角鹿に勅使として来た。この故菅原氏は代々上瀬・気比両社の神官となった。あるいは菅原道真公が勅使として来たともいうが、これは時代があわないから、非である。(気比太神宮俗談)

つき鐘   (曙町)
 気比神宮の社の東南につ鐘がある。弘法大師がこの社で法を修したとき、鬼女か来てこの鐘を奉ったという。
 一説には、藤原為兼(ためかね)卿が越後へ下向のとき、この社に参られた。月夜の静けさの中に海中から鐘の音がする。不思議に思って通夜した。その夜の夢に和歌があった。
  浮かべとて魚(うお)を敦賀の入り海に
   鯨(くじら)の鐘を波やうつらん
 翌朝網をあげて、この鐘を得た。      (気比太神宮俗談)

桃の木    (曙町)
 仲哀天皇が九州の熊襲(くまそ)を征伐されたとき、戦いが不利で後退した。そのおり桃の切り株につまずき倒れ、それが原因で死亡した。気比神宮は仲哀天皇を祭ってあるので、気比社の境内では桃の木は育たない。また敦賀地方では桃にヤニがついて、完全な結実ができない。     (伝説の敦賀)

砂持ちの神事  (曙町)
 正安三年(一三〇一)四月九日藤沢の遊行(ゆぎよう)二代上人他阿弥が気比神宮に参拝し、諸国巡回の祈誓をした。そのとき落葉が道に散らばっていた。上人はみずからちりを掃除し、道を清めて、「神力によってわが宗の回国修行が末代まで退転なければ、世々おん神に参り、きょうのごとく清掃します。」と誓った。
 時に上人は西方寺を建立(こんりゅう)して、そこに住んだ。いわゆる藤沢(とうたく)山である。ここから気比神宮まで歩いて行かれた。気比の西(さい)門口に大沼があり、舟でなければ越えることができない。ここにおいて上人は沼を埋め、道を造った。道はば八メートル、長さ三百メートルである。この大沼は苅菰(かりこも)池といい、水が東南から流て来て、ここに会して海に入る。万葉集に人丸の歌がある。
 他阿弥がこの道を造ってから、代々の上人が気比大神に参り、みずから砂石を運んで、祈誓をすることになった。これを俗に砂持ちの神事という。この日神官が幣を奉って、回国に障害のないよう祈る。落髪の僧は社殿の階段を昇ることは許されないが、遊行上人だけは許されて大床にて祭拝する。この沼は今は田地となり、残る所は鳥居の南の蓮(はす)池だけである。 (気比太神宮俗談)

 気比神宮の西表の大鳥居前通りを俗に三丁縄手(なわて)という。遊行二代真教上人巡国のとき、気比神宮西表の道が洪水のためこわれ、沼となった。沼に大かめかいて参けい人の舟を悩ませた。上人はこれを嘆き、ここにとどまって、諸人をさそい、浜から土砂を運んで、もとのごとく三丁縄手の大道を造った。
 西大手の正面に西方寺本堂を建て、手ずから自像を刻み、合掌して気比大神宮を拝んだ。よって正面の門にしきいがない。しかし凶事を行なうときは、神前をはばかって門を閉じる。
 歴代の遊行巡国のとき、気比神宮へみずから土砂を運ぶ、衆僧三十余人が荷をもって従うのを例とする。打它(うちだ)氏の北の浜から唐仁橋町・御影堂前町を経て、神前・中門前・大鳥居前と三度運ぶ。       (敦賀志稿)

 亀太夫(かめだゅう)・竹人夫のふたりが、えぼし・したたれ姿で砂持ちの行列の先導をする。亀太夫の先達は、大沼の中の大かめが、上人の教化を受け、化生した因縁による。代々三島に住んで、この役を勤めた。竹太夫のことは不明である。
   (敦賀郡誌)
 遊行二代の埋立てのとき、沼にいた大かめが、上人のまくらもとに現われて、「庶民救済のため、沼を埋め立てられるのはよいが、われらの住居を失うのをどうして下さる。」となげいた。上人はこれをふびんと思って、「されば人間に生れさせる。」といわれ、人に化生(けしょう)せしめた。今の三島稲荷神社の南手に亀太夫といって。世々占いを業とする一家があったが、それはこの亀の転生したものの子孫だと伝えられている。明治の末頃までその家はあったが、火災にあってからどこかへ退散して所在不明となった。
 上人はこの埋め立てのとき、今の西方寺に滞留されたが、気比明神の社に正面して、日々祈願をこめられ。この寺に跡を残されるために、自ら木像を刻まれた。そのとき夜々気比明神がおいでになって、これを手伝われた。木像の首は気比明神の御作であると伝えられている。    (福井県の伝説)

土公(どこう)さま   (曙町)
 空海が気比神宮に参拝して、渡唐の無事を祈った。今の土用松の所に壇をこしらえ、秘法を修した。大師はここに土用を封じた。それ故今でも土木を起す人は、この土を持って帰って、礎石の下に埋めると、土公のたたりがないという。 (気比太神宮俗談)
 弘法大師が気比大明神を信仰されて、神宮にこもられた時、境内に土公を封じ、八角形に石垣を築き、盛り土をして、その中に松の木を植えられた。里人が家を建築する時に、その土をひとすくい取って屋敷に祝いこめると、火難にかからぬといわれ、またこの石垣を息を継がずに三度回れば、松葉が金のかんざしになるといわれている。     (福井県の伝説)
 土公は、本宮の東北百メートルばかりの所にあり、高さ二メートルばかりのつかで、回りを石で囲んである。保食(うけもち)の神が降臨した地といわれ、ここで大願祈とうを行なう。また伝教・弘法二大師が、ここに祭壇を築いて修法した。また最初に本宮があった所ともいう。あるいは古墳かも知れない。         (敦賀郡誌)
 註
 今は北小学校の校庭のまん中にある。(杉原丈夫)




①(歴史概況)
②(祭神)
③(祭礼)
④(神宮寺)
⑤(松尾芭蕉)


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん


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