陸耳御笠伝説 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
このページの索引 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから探索してください。超強力サーチエンジンをお試し下さい。
残欠に於いては 地名説話として描かれる、このままが実話であるとか史実とかいったものではないが、一般には加佐の地の先住民と、その地へ侵入する大和系勢力の戦いが実話を背景に描かれているのであろうかと考えられるが、もっと深い歴史が隠されているかも知れない。ねじ曲げられた断片の幾つかから、歴史の真実は見つけられるだろうか。自信はないがやってみよう。 陸耳御笠(玖賀耳之御笠)は海岸と由良川筋にだけ顔を見せるから、渡来海人系のミミ族と呼ばれる人びとであろうか。 そもそも天皇氏だって、丹後海部氏だって、その始祖にはミミ族が含まれている、陸耳御笠を土蜘と呼ぶなら、そう呼ぶ当人らも土蜘であろう。 御笠は本当は土蜘といったものではなく丹後王国(旦波王国・但馬王国・若狭王国も含まれたかも知れない)の国王一族なのかも知れないし、仏教以前の宗教集団かも知れないし、金属とかかわりある集団かも知れない、御笠とカサがつく名であり、加佐の地とは由縁深い集団であったかも知れない。 征丹後軍最高指揮官の日子坐王の大軍団をもってしても征服することできなかった強力な集団であり、後の麻呂子親王の鬼退治伝説・七仏薬師信仰・源頼光らの大江山の鬼退治伝説へとつながる、退治しきれない集団である。 現在もこの子孫は加佐の地に生きているであろう。記録を追いながら少し探りを入れてみようかと思う。 もっともこれは伝説の地名説話である、古代人のロマンに付き合って私たちも空想の場で遊んでみようかと思う。
〈 甲岩。 甲岩ハ古老伝テ曰ク、御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇−引用者注)ノ御代ニ、当国ノ青葉山中ニ陸耳御笠ト曰フ土蜘ノ者有リ。其ノ状人民ヲ賊フ。故日子坐王、勅ヲ奉テ来テ之ヲ伐ツ。即チ丹後国若狭国ノ境ニ到ニ、鳴動シテ光燿ヲ顕シ忽チニシテ巌岩有リ。形貌ハ甚ダ金甲ニ似タリ。因テ之ヲ将軍ノ甲岩ト名ツク也。亦其地ヲ鳴生ト号ク 〉 「人民を賊ふ」のは日子坐とその背後の崇神勢力側であろう。だから陸耳御笠は正当にも反撃したのである。 「其の状、人民を賊ふ」ことのない、立派なものなら誰も血を流して戦ったりはしない。たぶん加佐人民を景気・年金・イラク等々で苦しめたのであろう。何時の世も同じようなことらしい。 基本的には陸耳御笠は加佐の英雄であり支配者である。残欠は基本的には官僚が手元の資料を寄せ集めて切り貼りしたもので、伝わったものをそのままに書いていると思われる、しかしどこでもそれが出来たわけではない。残欠は陸耳御笠については逆に書いている。ブさんやその目下の追従者コさんのように白を黒と言っている。 しかしそうは書いてはいるが、それを後世に残している。風土記は天皇への自己上申書であるから、いくら過去から伝わったものであったとしても、そのままの好き放題が上申できたわけではない、改変したり、修正したり、潤色したり、しなければならないこともあろう。 残欠の編まれた時代よりも何百年も昔のことではあるが、古老伝曰として、責任逃れの予防線を張ってから当地の伝説として残してくれている。誠に有り難いことである。 陸耳という、ミミあるいはミという名であるが、これは記紀などの編まれた時代よりも古い渡来の海人系の人びと、記紀の英雄たちから見れば先住民、によく着いている名であり、彼らが住んだ場所の地名にもなって現在にまで残っている。地名とは誠に有り難いものである。 青葉山の周辺の地名で探れば、 ここを若狭側から侵入した日子坐軍がまず叩いている。ここで大戦争があった。甲岩が鳴動したのはちょうど地震があったのではなかったかという話もある。 青葉山は陸耳御笠の拠点と伝説は伝える、この山は別名・ また御笠のカサで言えば、二つのピークには共にカサの付く神、即ち笠津彦・笠津姫を祀る六所神社(舞鶴市松尾)と、若狭姫・若狭彦を祀る青葉神社があり、地名では笠原(高浜町)がある。 下の写真は六所神社(舞鶴市松尾)、西国29番札所の真言宗の名刹・松尾寺の境内にある。松尾寺よりもずっと古い歴史ある神社ではあるが、現在は忘れられたように、本堂の右側にひっそりと鎮座している。本堂の前庭あたりは巡礼姿の参詣者でけっこう賑わっていても、すぐ隣のここへは誰一人として姿を見ることはない。 残欠の青葉社、「室尾山観音寺神名帳」の従二位加佐比売明神・従二位加佐比古明神であろう。本来は青葉山の西の頂上にあったものである。 『丹後風土記残欠』本文にも記事がある。 〈 青葉山は一山にして東西二峯有り、名神在します、共に青葉神と号つくる。其東に祭る所の神は、若狭彦神、若狭姫神、二座也。其西に祭る所の神は、笠津彦神、笠津姫神、二座也。是れ若狭国と丹後国の分境にて、其笠津彦神笠津姫神は丹後国造海部直等の祖也。ときに二峯同じく松柏多し、秋に至りて色を変えない。(以下一行虫食) 〉 若狭にもミの付く地名はたくさんある。国道27号線を走ると、福井県三方郡美浜町の耳川とミばかりの所もある、同じミミ一派であろうが、抵抗しなかったのであろうか。懐柔されてしまったのだろうか。征服されたのだろうか。陸耳御笠の側には内乱か分裂か腐敗か暴政か何かスキがあったのだろうか、そこに巧妙な分断各個撃破作戦が取られたようである。 分断して各個撃破して、傀儡政権を建て、侵略をごまかす。何かイラクにおける××軍のようだが、何時の世も同じ手口、やられる側も同じ手口でやられる。やられないためには、武力ではなく、文化の力にかかっている。ウソを見抜く文化力がその社会にあるかどうかである。人類発祥の地・人間文化発祥の地のイラクであるから、それくらいの力はある。問わけているのは、むしろ侵略する側にそれだけの文化力があるかどうかであろう。 私が特に大和が嫌いだというわけではない、先に述べた見方は、ちゃんと伝えられている。『舞鶴の民話4』に、 〈 若狭富士といわれる京都府と福井県にまたがる青葉山は、かつて活火山として、煙をはいていたが、若狭の島々は陸つづきであり、人も住んでいた。対馬海流に乗って百済の方から来たのか、現地に住んでいた原住民が勢力をはっていた。ある説によると出雲から北へ来た人たちともいう。 大和の勢力が勢力拡大のため、若狭の方へ攻めてきた、その騎兵隊の一行が、青葉山に住んでいる豪族を攻め現在の田井の方へ攻めていったとき、馬が一斉に立ちあがった。それでここを馬立と名づけた。何年前か分からないが青葉山が噴火し、それぞれの土地に海水が流れてきて、島となってしまったという。 〉 この話はずいぶんと前後関係が何百万年もずれているように思える、青葉山の噴火は何百万年の昔の話で、日子坐王の話は4世紀辺りのことである。 水ケ浦の沖に浮かぶ馬立島の伝説であるが、もう一つこれは馬立島沈島伝説ではないか、何か冠島の伝説と関係がありそうにも思える。古くは若狭湾全体の沈下伝説があったのかも知れない。上の写真の島が馬立島、背後のかすんでいる山は青葉山である。 大和勢力も日子坐王の「丹後制圧」あたりから、ようやく全国統一国家の卵に成長していける。それ以前は数ある地方勢力の有望株の一に過ぎない。 人道的動機で陸耳御笠の討伐に来たのではない、イラクと同じである、侵略者は普通はまずは自衛のためという、大量破壊兵器が隠されている、自衛のためにイラクへ攻撃をかける。 そもそも大量破壊兵器を一番多く持つ国はアメリカではないか、イラクの近くならイスラエルが大量破壊兵器を隠し持っている国であろう、その数は数百発といわれ西側世界第二位といわれる。どこかの国、あるいはどこかの「テロ集団」が自衛のためにアメリカやイスラエルに攻撃をしかけても文句は言えないわけである。 そんな軍事力のある国は地球上にはないからいいようなもので、アメリカ風の手前勝手な二重基準で攻撃されてはかなわない。 正当性なしとされるこの侵略戦争をまっ最初に支持したのは、いずこの国であっただろうか。この戦争ですでに一万のイラク民衆が殺されたという、ますます正当性は怪しくなる。「どっちがテロかわからんな」とはである、正当性のない戦争からは日本軍は引き上げねばならない。 すこし分析されて自衛がいえないとなれば、次は人民の保護のためという。1万もの罪無き民を殺す侵略者が、よくこんな事が言えたものとあきれるが、人民から見放されて人民の敵となっている政権はすぐに倒せるが、侵略者がその真のネライ通りにその国の人民大衆を敵にすると、もうどうにもならない。 日本帝国主義も負けたし、アメリカもベトナムで経験した通りである。武力で制圧をしようとすればするほどに相手は強くなっていく。それが今のイラクであろう。武力で何とかなるほど今の世界は甘くはない。しかし、イラクは置いておこう。大和勢力は丹後で鉄と大陸への交易路を手にいれたのだろう。 征服した此の地に大和勢力は屯倉を置いたと思われる、あるいは講和の条件に取ったであろうか。大浦の屯倉はそうした古い時代の屯倉なのかも知れない、鉄と交易路の屯倉であったろう。大浦半島とその付け根の青葉山を含む志楽谷あたりまでが屯倉であったろうか。 いずれも陸側からは近づけない場所であり、水軍を繰り出した戦いであったであろう。田のつくれるような地ではない、ネライはここの鉄資源と思われる。 「成生漁港」
〈 爾保崎。爾保ト号ル所以ハ、往昔、日子坐王勅ヲ奉リ土蜘ヲ遂ス時ニ、其採持所ノ裸劒ハ潮水ニ触テ以テ銕精ヲ生ツ。即チにほ鳥忽チ雙ビ飛来テ、其劒ノ為ニ貫キ徹サレ死ス。之ニ依テ銕精ハ消テ故ニ復ル。故其地ヲ爾保ト曰フ也。(以下五行虫食) 〉 ここは先のページでも紹介した所である。 「邇保崎・二尾」 日子坐王は舞鶴湾内へ侵入してくる。日子坐王の別働隊であったかも知れない。主力は由良川へ入っただろう。 この周辺でミの付く地名は、 下安久には 御笠のカサでいえば、私が加佐郡のカサの地はここだという女布の辺りはこの湾の奥である。笠水彦を祀る笠水神社がある。三角崎は海からの玄関口にあたる要衝であった。 「三角古墳」 04年8月7日に三角古墳群(舞鶴市下安久三角)発掘の現地説明会が開かれた。三角古墳群の位置は匂ケ崎の少し北である。上の小さな写真は北側から現地を見上げているが、ちょうどトラックの真上の三角崎とでも呼ばれるのであろうか、その尾根上に2・3号墳が築かれている。匂ケ崎はこの山の向こう側である。 左の写真は3号墳、木棺直葬墳、舟底形の木棺の痕跡が残る、男の人が写っているがその人の下側の棺の縁から小さな鉄斧が出土した。舞鶴湾を見下ろす絶景の海を意識した位置である。写真でいえば、山が中央で切れた所が舞鶴湾の入口である。2号墳はこの西側60メートルくらいの尾根上にある。いずれも5世紀頃の10メートルそこそこの円墳である。同じ位置から平安期の経塚も4基発掘されている。この尾根にはもう少し古墳があるともいうが今回は調査されていない。 右側の写真は4号墳で、上の写真でいえば、山を向側へ少し下ったやせ尾根上に築かれている。海は見えないが二尾の集落や邇保崎が見下ろせる位置である。2トンもある天上石やその他の石がここまで運び揚げられている。6世紀末のものという。すでにかなり破壊されていたそうだが、方墳かも知れないと現地では説明していた。下には広い平地はなく、これらは海と関わる古墳であろうかと。 平地がないと海と関連と、××市教育委員会はすぐ言うが、そうとは限らない。悪い口癖だと思う。もちろん海もあろうが、邇保という地名から考えてみろよ、と言おう。もっともっともっと豊かな発想を持ってもらいたい。そうでないと大事な過去を見落とすことだろう。成生のあたりにしろ、ここにしろネライが金属資源にあると見てよいと思われる。ブさんがネライもなしに大軍率いて来るわけはない。世に戦争ほどゼニのかかるものはない。大軍を派遣してペイするだけのネウチのあるものがここにあるのだ。 この尾根上には戦争遺跡(戦跡)もある。稜線に花崗岩の石柱がずっと並んで立てられている。海岸より五老岳の頂上まで続いているのではないかと思われる。10センチ角くらいで背丈よりも低いが、鉄条網があったそうである。陸軍の陸という文字が彫られているものがある。この北側は要塞地帯であるから侵入者がないように作られたものと思われる(侵入しようと思えばワケないと思えるが…。軍隊はアホです、と私の先生が言っていたのを思い起こされる)。それらを抜き取って古墳を発掘していた。 (この辺りも軍用地だらけである、実際はどこを取り囲んだ鉄条網なのかは正確にはわからない。このすぐ山下にも下の写真のような石柱が残る。 匂ケ崎も軍用地で、現在は公園になっている所には、「ちっちゃな要塞があって、四角いしっかりしたコンクリが残っていた」という練習砲台があったし、この南側の平地(現在トンネル工事が進んでいる)には舞鶴要塞の火薬庫本庫があった。その海辺には「兵隊桟橋」(右写真。左手の岬が匂ケ崎)と呼ばれる石の桟橋が今も残り魚釣りの名所となっている。由良石と呼ばれるたぶん奈具海岸あたりで切り出された花崗岩で立派にできている。この写真の尾根も調べてみると小さな軍用地となっている。「補助観測所・交通路」となっている所のようである。 砲台の話をしていると時たまに、私この前中国へ行ってきました、ひどい事してますね、日本人は…と203高地あたりを見てこられた方があった。 また昔の私の若いときにこの辺りへ徴兵されて来たのですが、うろ覚えなのですが、この辺りに確か砲台があったのですが、心当たりは御座いませんでしょうか…などと尋ねられることがある。 私は戦後生まれでそんな事は知らない。機銃でしたか、それとも本当の砲台ですか、舞鶴にはたくさんあったと聞いていますが、この辺りなら、たぶんあそこではないかと思いますが、などといいかげんな事を教えるのである。舞鶴人は戦争は知りませんでは済まないようである。) 左上の写真の海面に何やら「しきり線」が見えるが、ここは埋め立てられコンテナ埠頭が作られる、そのための道路建設に伴い、これらの遺跡はいずれも今回は完全に破壊される。
〈 志託郷、本字荒蕪。 志託ト号ル所以ハ、往昔、日子坐王官軍ヲ以テ陸耳御笠ヲ攻伐ノ時、青葉山ヨリ墜シ之ヲ遂ヒ、此地ニ到ル。即チ陸耳忽チ稲梁中ニ入テ潜匿レル也。王子急デ馬ヲ進メ其稲梁ノ中に入テ、殺サントセントキ、即チ陸耳忽チ雲ヲ起シ空中ヲ飛ビ走ル。南ニ向テ去ル。是ニ於テ、王子甚ク稲梁ヲ侵テ とうとう由良川(残欠は大雲川)へ入ってきて 対岸に 陸耳は空中を飛ぶらしい、人民側からの見方であろうか、正義の味方・スーパーマンが描かれる。神と見られていた。人民側からはこのようにも見られている、しかしまた一面では圧政者であったかも知れない、人心が離れるデキの悪い人物でもあったかも知れない、それは単に大和側からのみの手前勝手な見方ではなかろうと思う、そうでなければ日子坐王に負けたりはしなかったかと思われる、古代といえども人心が離れる時が政権の終わる時である。 地名説話であるが、ここで説明される志高の地名の意味は当たっているかも知れない、残欠は志高とは荒蕪地・荒地のことだというのである。引用文中のルビは『元初の最高神と大和朝廷の元始』(海部穀定著)によるものであるが、私は安物の高校生が使う程度の物しか持ってないが、その古語辞典には、「しだく」は荒れ散る・荒れるとして、堀河百首の「野風にしだく刈萱の」を引いている、又、散らす、荒らす、押しつぶすの意味の他動詞にもなり、源氏橋姫の「水の流れどもを踏みしだく駒の足音も」を引いている。 シタカ・シッタカ・シリタカといった地名は全国あちこちに僅かに残っている。この前亡くなられた網野善彦氏が小浜市の遠敷あたりにも同じ志高・尻高という小地名があるらしく、これは開墾地の意味だろうと、書かれていたと記憶している。その書は今は本棚のどこにあるかわからないが、この記憶に間違いはない。 府内なら、船井郡八木町氷所尻高があるが、どんな所か私は知らない。 当時の地形は今はもう残ってはいないだろうが、志高は由良川の氾濫原、水害の常襲地であり、河原の大石・小石の散乱する、危険でどうにもならない土地もあったことであろう。たぶん自動詞の方で、荒地の事をいうのではないかと私は考えている。その地は僅かずつでも開墾されるだろうから、開墾地でもあろう。またこうして戦場ともなった。 左の写真はその志高のバス水没現場である(朝日新聞のもの04.10.21.6:50)。テレビなどでも何度も放映されて全国的に有名になってしまったが、04年の台風23号の雨により由良川が氾濫し、国道175号線を走っていたバスなどが冠水で立て往生していたところ、ますます水かさがまして、乗客が取り残されたものである。バスの屋根に登り一晩を濁流の中で過ごしたそうである。写真は朝になってからのもので、少し水かさは減っている、午前1時ごろには屋根に立った状態で腰まで水があったという。もしもう1メートルも増水したり、もう少し水流が強ければと考えるとゾっとする、危機一髪の命拾いであった。大きなバスだから屋根に登れたが、小さい車にいた人は近くの自動販売機によじ登ったりして難を逃れたという。この車列の中のトラックの運転手一人は流されて行方不明だそうである。(後に遺体で海から発見されたという) こんな事は何十年に一度くらい、とっくに呑気者が忘れた頃にやってくる程度の割合だろうが、いわば由良川筋の低いところの避けられない宿命のようなものである。 台風が通過している時に、こんな所は走ってはならない、どうしても走らなければならないのなら、遠くの安全なトイレのある場所にまずは避難していて、安全が確認されてから通行すべきだろうと、これは何度もそんな目に遭ってきたこの川筋の人が実際に実行していることである。 現在の情報などは、「情報化社会」などと叫ばれて、いかにも発達したようにいわれているだけで、実際は役に立つようなレベルではぜんぜんない、ロクでもない下らぬものばかりが多くて、命にかかわる肝心の大切な情報はない。ましてやそんなものは絶対に過信してはならない、自然の猛威は誰にも予想できないことがあるからである。 台風の翌日ハンドルを握っていて、どのラジオ番組もいかに下らぬものか身にしみて感じた。テレビもまた同じであろう。どこか関係のない国の番組であった。クタバレこのろくでなしが!と思わず叫んだものだ。 木立が見えるが、これが175号線の並木道である。志高の一番北側の下境と呼ばれる辺りである。 51年前の台風13号以来の水位に達したようである。バスの上に人が残されているので上流のダム(たいへんに立派なご判断であった、名前は大野ダムという、ありがとう)が放流しなかったためらしい、放流していたらさらに水かさは増えただろうといわれる。大野ダムがあの時放流していたらあと1メートルは水位が上がっただろうと地元民はいう。大雲橋のあたりでの大野ダム分の水はここを流れる全水量の13パーセントと『大江町誌』は計算していた。この志高のあたりでもほぼ同じであろう、9メートルの1割増し大ざっぱに1メートルの上昇と計算できる。あと1メートルも上昇したらバスの屋根の上の人たちはどうなっていただろう。. 実は由良川筋は洪水との戦いの歴史であった。現在でもそうであるが、偉そうに宣う支配者どもは何もさしたる洪水対策はとってはくれない、現に洪水になるまで、洪水になることすら知らない、水没した大江町役場などはその典型例であろうか、司令塔を水没させるようなご神経である。過去の経験は三歩歩くと忘れるのである、おごれる人間とはアホな動物である。自分がそんな目に遭っていてもそうである。 小さな家はキリキリと回転しながら流れていった、長屋のような建物はそのままスーと流れて行く、中には屋根に人が乗っている、「助けてくれ、助けてくれ」と叫んでいるが、どうしようもなかった、そうした家の上に鶏が乗っていることもあった、一生懸命に鳴いていたと過去を語る。 これらの被害からの復旧は、被害を受けたその村社会が全部背負わなければならなかった。たいへんな負担である。洪水で流されてきて積もったドロの深さは長靴を越す、流れてきた流木などの山とドロなどを取り除いて、田畑を復旧させなければ、一家飢死ぬより道はない。 重機のある現在でも「もう廃業や、もう復旧でけん、重たいドロ運びで体のあちこちが痛い」という声を聞く。わずかばかりの義捐金を出しただけの身としては、偉そうにいう資格もないが、これがどんな大変なものであったかは少しくらいは想像できる。村社会のきびしい規制も生まれることになる。 私の経験から書いておけば、今回の台風の雨は、それほども強いとは思わなかった、不断の雨とそれほどのちがいは無いと思っていた。あんな被害が出ようとは、あの雨からは予想もしていなかった。雨の量というものは体感的にはわからないものであるようである。ただ川が不断には見られないほどに増水していた、山から大量の水が流れ出て、道路に土砂を流し込んでいた、こんなことから、へえーよく降ったんだなあとくらいに感じていた。たぶん皆そうであったことであろう。雨からは被害が甚大だとは予想できなかったのである。自然とのつきあいを絶ってしまった文明人の盲点であろうか、己が命にかかわるような大変な天候の変化に気が付かないのである。こんに時こそ野獣にもどって、ろくでもない時にもどってないで、ご先祖様から受け継いだ全動物的感覚を総動員して自然が織りなす危機を感知するよう勤めるべきであろう。「そうだそうだオレは動物だったワイ」と頭脳を動物モードを切り替えて対処したい。 川の水はいつもの台風よりも急激に増水したそうである。道路を走っていて、前の車が立ち往生した、自分の車も進めなくなる。えっと思ったらドアの半分くらいの所に水が来ていた。これで車の屋根に登った者は助かったし、体力に自信があって泳いで逃げようとした者は死んだ。軽い車は水に浮く、浮いて車ごと道路から深みへと流されていく。これくらいなら大丈夫と冠水した道路へ車を入れた者は死んだ。 このバスの事故はよほどに皆の記憶に残ったのか、8ヶ月も過ぎてからでも取材がある(右写真・テレビ朝日とか)。あの時バスの屋根に残された人たちが幾人か見えていたようだ。 その下は新たに設けられた、洪水の水位を記録したモニュメントのようなもの。国土交通省が作っていた。バスの現場より、上流300メートルくらいの所にある。 青い水位が昭和28年の13号台風の水位、その右側の赤色が今回の23号台風の水位である(はずであるが、これはその逆に書いている。平成15年8月とあるが、10月の間違いか。ここだけでなく51年前の方が水位は高かった。ここだけは逆ということはないと思われるが、ここでは51年前は+7.92m。今回は+8.24mとなっいる。桑飼下も23号が少し高い)。 水位も少し怪しいかも知れない。後の白い民家は理容店で、ここではニ階まで水か来た、道路通行中の車の人々がここへ避難してきたのであるが、水位上昇で危険になって皆三階まで避難したという。その話と少し合わないのである。 道路上に取り残された車の人たち30何名ばかりもこの民家へ避難してきたそうである。床が抜けねばと心配したほどの人がここに逃れたという。 そのまま十日ばかりを避難させてもらったいたという人もあったそうである。 その後またここを通りかかった時にもう一度確認してみたら10月と書き直っていた。青と赤はそのまま。普通には13号台風の方が高かったといわれている。 13号台風の時はまだ大野ダムがありませんでしたから、あんなもん(23号台風の洪水)くらいではありませんでしたデ。と一般には言われる。たとえば鉄道の被害の大きさを較べても、あの家のどこまで水が来たという話を較べても、13号台風の方が水位は高かったと思われる。 右の画像は、西側からバス事故の道路を見ている。小さくて見えないが、中央あたりが現場である。現場からは300メートルばかり西によった山の麓にあたる。この辺りの民家は洪水に備えてみなタンボ面より150センチばかりは高い所に石垣を組んで、その上に家を建てている。それが昔からの知恵であるが、それでも今回は床上ギリギリまで水が来たという。避難命令はそこまで水が来てから出たそうである。そこまで水が出ると避難はかえって危険である。指定避難場所の保育園はすでに水に飲み込まれていた。行政などは、頼りない、クソの役にも立たない、惚けたようなものだということをよくよく理解されよ、人の命も守れない、私がそういうのではない、この地の人が言うのである。そんなことはこのあたりに長年住んでいる人はよくよく知っていることだが、たまたま事情を知らないよその人が通りかかった時がヤバイわけである。 この辺りは洪水の常襲地である。その地でそんなことであった。経験のない未曾有の出来事でしたので、十分な対応が取れずにとか反省を言うのであろうが、過去に何度でも何度でもいやというほどに経験をしたことなのである。経験はしているが、行政にはどうでもいいことだったのでそれが経験として蓄積されなかったということなのである。今回も同じことであろう。50年後にまたも同じことを書くHPが、今度は何百とあることだろう。 道路の遮断機が作られた。トラックの方向へもう2分も走ればバスの水没現場に着く場所である。由良川の信じられないほどの猛威や阪神大震災以降ものすごく増加した高速並のスピードで走り抜ける大型トラックのハイパワーに較べると何とも可愛らしい申し訳のおもちゃのような物に見える。この道は田舎道ではない、あちらでもし何かある時には日本経済を死から救う大動脈であるが、それにふさわしそうなものに見える。 この遮断機はあちこちに作られているが、これはおかしいのではないかと思われる低い場所にも作られている所がある。この遮断機がまず最初に水に浸かるだろうと思われる場所、たぶん無線指令で遮断棒が降りるのだろうが、下の四角い配電盤がまず水に浸かる、それでも機能するのだろうか。こんな低い最初に水に浸かる場所で道路を遮断されたら、車や人はどこへ避難すればいいのだろう、ここで死ねということかと頭をひねるような所もある。設置場所をもう一度点検されてはいかがか。 「しだく」という語は現代では意味がわからない死語である、この辞書によると平安時代には生きていたようであるから、その後どの時代まで生きていたのだろうか、この伝説の下限がわかるかも知れない。 この辺りカサとも呼ぶ、現在の舞鶴でカサと言えば、この辺りを指す。私はこれはそんな古い地名ではないと考えてはいる、それは先に書いた通りである。 由良川筋がカサだとする論考はあることはある。どうも論拠がはっきりしないので引かない。 カサは瘡であって、天然痘などで出来るカサブタのことである、さらに古くはクサであって、それは恐るべきもの、忌むべきものの総称であったと、柳田は書いている(『国語史』)。 加佐郡にはカサが三つあったかも知れない。青葉山の周辺・女布あたり・そしてここ由良川筋、すべて陸耳御笠の拠点であったと思われる。
〈 川守郷。 川守ト号ル所以ハ、往昔、日子坐王土蜘陸耳匹女等ヲ遂ヒ、蟻道郷ノ血原ニ到ル。先ニ土蜘匹女ヲ殺ス也。故其地ヲ血原ト云フ。トキニ陸耳降出セント欲シ時、日本得玉命亦下流ヨリ之ヲ遂ヒ迫ラントス、陸耳急チ川ヲ越テ遁ル。即チ官軍楯ヲ列ネ川ヲ守リ、矢ヲ発ツコト蝗ノ飛ブガ如シ。陸耳党矢ニ中リ、死スルモノ多ク流テ去キ。故其地ヲ川守ト云フ也。亦官軍ノ頓所ノ地ヲ名ツケテ、今川守楯原ト云フ也。其時、舟一艘忽ニ(十三字虫食)其川ヲ降ル。以テ土蜘ヲ駆逐シ、遂ニ由良港ニ到リ、即チ土蜘ノ往ク所ヲ知ズ、是ニ於テ日子坐王陸地ニ立チ礫ヲ拾ヒ之ヲ占フ。以テ与佐大山ニ陸耳ノ登リタルヲ知覚シキ。因テ其地ヲ石占ト云フ。亦其舟ヲ祀リ楯原ニ名ツケテ舟戸神ト称ス。(以下三行虫食) 〉 匹女。初めて見える人物であるが、 ここではもう一人、別働隊の隊長・ 勘注系図の注文には何が書かれているのだろう。『古代海部氏の系図・新版』(金久与市著)に、引かれている部分があった。 〈 日本得魂命 「勘注系図」で人世の孫にあたるのが日本得魂命である。そこには御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天神のこと)の御代(壬戌年春三月)に、娘の豊鋤入姫合が天照大神を大和国笠縫里より丹波国余佐郡久志比の真名井原匏宮に移して、豊受大神と同殿に斎き奉った、と記されている。(そのあとにつづいて小さな字で二月に、その後丙寅年秋七月、天照大神は大和国伊豆加志本宮に遷座したと記されている。) 続いて、「勘注系図」には「この時、地口の御田を以って奉り、さらに校倉を建て、その穀実を蔵した。それでその名を阿勢久良といい、その倉を集りて御田口の祠と称した」とある。 『丹後風土記』残缺加佐郡余巻にも次のように記している。 「御田口の祠は、往昔天照大神の分霊豊宇気大神と、猶ほ此国に照臨すが如し、丹波国造日本得魂命たち便ち地口の御田を以て奉り、更に校倉を建て、其の穀実を蔵めまつりき。故に名を阿勢久良、その倉を奠りて、以て御田口の祠と称う」 また「勘注系図」には「崇神天皇のとき、当国青葉山中に土蜘がおり、陸耳の御笠は、その状人民を賊う。そこで日子坐王は勅を奉じて来り之を伐つ、時に日本得魂命たちは日子坐王に仕え余社の大山に至り、遂に賊を誅った」と記している。 このことは『古事記』の崇神天皇の条にも「日子坐王を旦波国に遣して、玖賀耳之御笠を殺さしめたまひき」と出ている。 さらに「勘注系図」に「大初瀬幼武天皇(雄略天皇)の御代、戊午の年、秋七月に匏宮は伊勢の国、度会郡山田原に違った」とも記されている。 また「勘注系図」は「日本得魂命の妹、大倭姫命は崇神天皇の御代に大神宮を拝祭する」とも記している。 九世の孫たちと日女命 「勘注系図」では八世孫、日本得魂命のつぎに九世の孫として意富那比命の名をあげている。同時にその弟として乙彦命、玉勝山背根子命、若津保命、置津世襲命、意富那比命をあげ、妹には日女命、葛木高千名姫命をあげている。 日女命はまたの名を神大市姫命とすると共に、もう一つまたの名を倭迹々日百襲姫命と書いている。これは有名な奈良県の南東、三輪山の麓に近い箸墓の被葬者とされている名前である。『書紀』では崇神天皇の十年、「倭迹迹日百襲姫が死んで大市に葬りまつる」と記していることに注意したい。 ただ日女命の名はここだけではなく、十一世の孫のところにも出てくる。その前に十世の孫も見てみよう。 〉 何ともわからないが、大和と名が付くのだから、大和系の人なのだろうか。娘の日女命は箸墓の被葬者・夜麻登登母母曾毘売命、また卑弥呼だともいわれる人物であるが、三輪山祭祀と関わりがあると思われる。 結局大和では祀られることがなかった天照と豊受であるが、この陸耳御笠の時代から何か関係がありそうにも思われる。 大和得玉命については舞鶴市朝来の田口神社にところで見てみたい。 「朝来・志楽」
陸耳御笠と日子坐王の伝説はまだいくつか当地の各地に残っている。『舞鶴の民話5』に、
〈 アワピ (舞鶴市志楽) 若狭富士といわれる青葉山を根城に、多くの党徒を率いる陸耳御笠、但馬馬琴川下流の西北一嶺岳には、土蜘匹女という首領が一党を率いていた。陸耳御笠と連絡をとり一勢力をふるい、若狭、丹後、丹波をおさえていた。そして城崎郡主櫛岩竜が殺された。 この様子は県主穴目杆が大和朝廷に奏上した。天皇は彦坐王命に陸耳御笠、土蜘匹女を平定するように命を授けられた。彦坐王命は、丹波道主命、丹波国造倭得王などを召して、追討軍を組ませ、丹波に兵を進められた。陸耳御笠は攻めてくる軍の勢の強いのを知り、船で海より逃げた。 彦坐王は早速船を仕立てて追った。南風が強く、波は荒れ、時と共に暴風雨となり、船は進む自由を失い波のままに岩角にあたるなどして穴があき、船に海水が浸水した。陸耳御笠の船も勢いをさげ、もう少しで追いつくのだが、なかなか先へ進まない。彦坐王は両手をあわせ海神に祈りをあげた。しばらくすると船に侵入してきた海水がへってきた。アワビの大群が現われ、船底の穴をふさいでくれたのだ。また沖には美保大神が天下り、戦況は一変し陸耳御笠の船はちりぢりになり、海に沈むものもあり、賊徒を平定することができた。 これは天祖の加護と美保八千戈の助力の賜であると、出雲にいき神に参った。帰途に大きなアワビが現われ、船の先導をしてくれた。陸についた後、船をあらためると九穴には大きなアワビが横たわっていた。このことは阿良須神社誌にかかれている。 〉 大変な話である。この阿良須神社は舞鶴市小倉フル山に鎮座する神社で、一宮さんと呼ばれる、志楽小学校の向かい、国道27号線に面している。青葉山の西麓である。 下の写真の右奥が布留山神社、左手が阿良須神社である。 この神社の案内板にも、 〈 由緒 当社は崇神天皇十年丹波将軍道主王が青葉山に住む土蜘蛛陸耳御笠と云う兇賊を征伐し給う時、豊受大神を神奈備の浅香の森にお祀りされたのを創祀とする。… 〉 『加佐郡誌』によれば、神座府という地名もここから出たと伝わるそうである。加佐郡のカサの発祥地とするという。アサカというのだからまんざらのいいかげんな話でもないと思われる。 なぜアラスと呼ぶのかよくわからないが、同名の加佐郡式内社の阿良須神社は加佐郡大江町有路で、ここではないと思われる。ここも以前は式内社・阿良須神社と書いてあったと記憶するが、現在はもうそれはない。郷社・阿良須神社の石柱だけが建っていた。阿良須とか有路とか有栖とか嵐山とか全部同じ意味を持つようだが、アリラン峠のアリ・アラであり、五千年の歴史ある名だという、太陽・太陽神のことだといわれる。 残欠の大倉木神社は、一説にこの神社の末社・布留山神社だともいわれる。正確には陸耳御笠の伝説はこの社に伝わるようである。「室尾山観音寺神名帳」の正三位神並明神と正三位大倉明神がこれらにあたろうか。阿良須神社は豊受大神と宗像三女神を祀る。大倉木社は大倉岐命という海部氏の祖を祀るのであるが、現在の布留山神社は須佐之男、経津主命、武御雷神を祀っている。 「阿良須神社天女舞」 『ふるさと岡田中』に、 〈 日子座王伝説後日談(下見谷) 四道将軍日子座王に追われた、陸賀耳御笠(士蜘蛛童子)は、志託の戦で潰滅し、由良石浦の地に上陸して与謝郡と境の大山に逃げた。石浦、和江、八戸地の何れから逃げこんでも、漆原の地に辿りついたことであろう。 日子坐王は源蔵人を将として、四名の若武者を撰び追跡させた。選り抜きの屈強な若武者に追いたてられた土蜘蛛は、漆原の地に落ち着くことができず、下見谷に逃げ込んだが、追跡の手はいよいよ厳しく、童子は遂に赤岩越えを決意し再び山入りを試みた。追いつめられた土蜘蛛童子は、赤岩山のゴラ場に逃げこんだ。ゴラ場は家のような大石から小石まで、累々と積み重なっていて、樹木も育たぬ石ゴラの原で独特の奇観を呈しているところである。さすがの若武者も彼等の姿を見失い取り逃してしまった。岩場はもちろんのこと付近の山中もくまなく詮索したが、杳として足取りをつかむことができなかった。 源蔵人は疲労も加わり病のため整れてしまった。やがて、土地の人はこの地を源蔵と呼び、長く蔵人の武威を偲ぶことにした。他の四人の若武者は土蜘蛛を退治する目的は達したものの、その首級を取ることのできなかったことを面目なく思って、都に帰ることを断念し、野に下ることを決意した。四人は、姓に田の字を入れる約束をして土着したので、太田、河田、池田、藤田等の姓が当地に残っているのはこの勇士の末裔ではないかと言い伝えられている。 この事件が一段落すると、次の歌がどこからともなく伝わった。 往き帰り 三葉宇津木は 左り側 根元に眠る 黄金千両 この山のどこかに黄金が埋めてあるというのである。山仕事に出掛ける里人の夢はふくらんだ。黄金を埋めたのは土蜘蛛童子だろうか、源家の武士だろうか。まだ黄金は見付からないが、村人たちの働きによって立派な山があちらにもこちらにもできたという。 〉 源蔵という小字がある。入道という小字もある、23号台風で一番大きな被害が出た谷といわれる、「これからどうして生活したらいいのかわかりません」という老人を送って入道下橋のある所まで行ってきたのだが、これは丹生土下橋であろうか、水銀か鉄が出るのだろうか。 黄金埋蔵伝説がある地である。赤岩山登り口の下見谷神社は金山彦を祀る。上見谷はないそうであるが、下見谷はあるいは下丹谷ではなかろうか。赤岩山(669M)は大江山の続の山で、大江山超塩基性岩類から構成されているらしい、鉱物は多かろうと思われる。 左写真の中央が赤岩山、下見谷から見ている、先の台風23号のため、田畑だった所が川原になっている。ひどい所がたくさんある、気の毒でカメラも向けられない。 「赤岩山」 「赤岩山」 陸耳御笠・日子坐王の話には、残欠に先行した何か資料があったのでないかと思われる。陸耳御笠系の語部が残っていたのでなかろうか、こうした史実や伝説を記憶し伝え歩いた集団が丹後にはいた、そうでなければ、これだけの断片があちこちに残るわけがないと思うのである、丹後国崩壊の大きな悲劇物語が伝わっていたのでなかろうかと想像する。残欠はそれを所々つまみ食いし、白と黒を入れ替えたのでなかろうか。 かつては伝説は真実の歴史と信じられていたものである。近頃は丹後近辺でも『○○の伝説』として発刊されるものが多くなったように感じているのであるが、伝説が意味を失った地でそれを掘り起こそうとすることの意味というのは何だろう。それはやはり地域の崩壊を食い止めようとすることであろうと思われる。危機感がそうさせているのだと思われる。 社会性の崩壊・人間性の崩壊に直面する社会、手前さえよければいい、強い者が一人勝ちすればいいという風潮のなかで、伝説に再び意味を与えることで、地域社会とそこに生きる人びとに再び意味を取り戻し、確たる存在を与えようとするものだろうと思われる。 どうでもいいような物と感じられるかも知れないが、伝説というものはそんなに意味の無い物ではない。 陸耳御笠を伝えるものには、『但馬故事記』があるという。私は読んだことはないが、これは官職名などに矛盾があり偽書とされている。その理屈なら天皇などと書かれる記紀も偽書となるはずであるが、大和側と現在の史学界主流から見ての偽書であろう。 歴史はいろいろある、何も大和の歴史観だけが歴史ではない。『但馬故事記』から見れば、記紀こそ偽書である。学校で教える政府公認の日本歴史が正しいと思っては絶対にならない、皇国史観・神国史観・侵略史観をついさっきまで教えていた所である。パソコンを再起動するようなわけにはいかない、人間の脳味噌は侵略戦争に負けましたから、正しいものに切り替えますという簡単にものではない。十分な反省ができていない連中もたくさんいるのである、というかほとんど全員がそうなのである。もしまともなら何も隣国からあれほどの抗議はこない。 戦前のそうした連中の貼った偽書のレッテルでもある。最も大切な書かれている内容を自分の頭で分析作業もしない初めから、誰が貼ったかも知れぬレッテルを信用してしまうというのは大変に愚かなことである。書物の値打ちはそこに書かれている内容如何で決まる。官撰風土記であるかどうかなどは実はどうでもいいことであり、そんなことで書の値打ちは決まらない。現代に至っても政府発行の書にまともな代物があるかどうか考えてみればわかるだろう。しっかりと読むこと、理解することから始めよう。 そんな事を思いながら、偽書とされる残欠を読んでいこう。
邪馬台国の手前の国という、
始祖王の神武。神武などの漢字二字の名は
ミがつく名は天皇系譜だけではない。実に多く見られて、古くはたぶんミミの国であったとも思われる。 〈 ミおよびミミの名のつく人名は神武帝を中心として四代前にさかのぼり、四代後までおよんでいる。これはいったいどうしたわけだろうか。 〉 と谷川健一氏は書いている(『青銅の神の足跡』)。 宮崎県日向市を耳川が流れている。その川口南の 元々この辺りのこんな地名の所に居たのなら、神武はミミ族であろう。このミミ族が大和を征服して建てたのが大和朝廷ということであろうか。負けていたら日向の土蜘・彦火火出見というのが侵略してきたが、撃退したと書かれたであろう。 「美々津(日向市)」 「美々津」 「美々津に来ちゃんない」 「美々津立磐神社」 「ミミ分布表」 漢風諡号を昔は全部暗記させられたそうである。神武・綏靖・安寧…と小学生に記憶させた。頭のいい生徒でも、つまらぬ事を覚えるのに苦労したそうである。デキのよくない子ならまして…。何の役にも立たない知識である。アホな狂育をしたものである。 これがいい見本で、戦前・戦中はたいへんによい教育をしたものであるらしい。そんなよい教育の伝統は今も残っているらしく、国旗を立てろ、国歌を歌えと強制する。そのうちに諡号を全部覚えろとほざくことであろう。おぼっちゃまの言う「美しい国づくり」とは実際はそうした程度の国づくりのことのように思われる。 そんなことは強制するものではない。隣国では決して歌えなく、その国々へ集団売春旅行に出かけるような、ここに書くのも恥ずかしいチョー立派な国ではないか、そのようなものは強制するものではない、そんなに歌いたければ、人に強制してないで己が重慶あたりで大声だして歌えばよかろう。そんなアホな奴らが教育界にのさばらない、まともな誠に誇れる国と思うようになれば、強制なくとも歌うかもわからない。
若狭湾あたりから但馬海岸へかけて、海岸沿いを東から簡単にミの地名を拾ってみよう。あくまでも機械的にである。本当にミミ族の拠点かどうかは、詳しく調べるより手はないが、そこまでは手が回らないので、現在に残る、あるいは記録に残された、ミのつく地名を単に拾ったというものである。三宅とか宮といった明らかにミミと関係ないと思われるものははずした、だいたい市販の地図に見える地名である。簡単にコメントもつけたところもある。
(越前)「空から見る港・若狭湾」
よく読まないで、天田郡というところはすごい所なんだな、こんな説を掲げるとは、ものすごい文化を持ってる地だ、と早合点して思ったのだが、よく読んでみれば、太田亮(『丹波・丹後』)を写したのだそうである。しかし太田亮を写しただけでもすごい。
『天田郡志資料』(昭11年・山口?(加の下に米)之助)のその部分をひけば、 〈 …玖賀耳之御笠は恐らく桑田県(後に郡)の土豪であらう。此人の居つた地については丹後といふ説もあるし、また私も前にはさう考へたが、それは御笠のかさが加佐なる地名を帯びたのであらうといふ仮定から来たに過ぎない。けれどもよく此地名を考へると玖賀は他の例から推すと地名であって、耳は私が原始的のかばねと名づけたもの、つまり彦や公または建と同様に古代豪族の称号である。さうすると氏族制度で延べたやうに此等の称号が地名と重なる時には其地の豪族を意味するのであろうから、此人は玖賀の酋長で名が御笠であつたことが別る。、 〉
〈 玖賀耳之御笠 ところで、この玖賀耳之御笠征討伝承によって、はじめて彦坐王のプロフィールを垣間見ることができるのであるが、玖賀耳之御笠とは、いったい何者なのであろうか。 「玖賀(クガ)」、これはどうやら地名のようである。おそらく、あとで述べるように、「久我(コガ)」と同じであろう。だが、地名となる以前に、「玖賀」とはどのような意味をもつ語であったのか、それが問題である。 この説話もまた鍛冶王伝承の一つではないかという視座から考えると、答は簡単に出そうだ。 ? ?(香カグ)→?(玖賀クガ)→?(久我コガ) (開音化と音訛) つまり、「香カグ」「高カグ」「鹿の下に弭カゴ」と同じで、「銅カグ」のことであろう。 「耳ミミ」、これが尊称であることはすでによく知られたことである。だが、古来これを「ミミ」と訓み習わしてきていることに、私は疑問を感じる。と言うのは、「耳」は表音表記であり、朝鮮語における ? ky @耳 A責(漢語系)の音を写したものである。したがって、語義的には「貴」、つまり、「大日?貴オホヒルメムチ」や、崇神天皇の夢枕に立った「貴人ムチ」と同じように、「ムチ」と訓むのが妥当なのではあるまいかと思うのである。「玖賀耳」を「クガミミ」と読むのは重箱読みであって不自然だ。したがって、「玖賀耳」とは「香カグ(鹿の下に弭)貴ノムチ」というのと同じことであり、銅神を奉じて丹波路の一角「久我国」に蟠踞した鍛冶王のことである、と考えたい。「御笠ミカサ」、この「御」はおそらく後代に付加された美称であろう。問題は「笠」。これも、個人名と考えてもよいが、 ? kat (昔の)笠・冠・帽子 ?? kamthu カムト(昔の冠、昔の帽子、甲) を参考にして、冠をかぷった人、氏族の長、といつたふうに解して、要するに族長たることを意味した普通名詞にすぎぬと考えることもできようし、「??」に力点をおいて、カプトの生産に秀れた技術を有した鍛冶氏族の首長を想定してみるのも一案であろう。つまり、「銅クガの責ムチ、冠カサ(甲)」と捉えてみるわけである。 このように考えてくると、彦坐王が玖賀耳之御笠を討ったという伝承が、高志路を平定したという大毘古命や東方十二道を鎮めたという建沼河別命の伝承と並べられていることに、重大な意味が付せられていることに気付く。すなわち、正史が丹波道主命の覇業とする丹波路平定伝承に比べて、それを彦坐王の功と主張する『古事記』の所伝は、容易ならぬものを秘めていると推測されるのである。 桑田玖賀媛 … 「久我国」の服属を語る二つの伝承 因みに、山城国乙訓郡には、後に後字多院領として知られた「久我(こが)荘」の地があり、式内社久何(こが)神社の鎮座とともに、今に『久我(こが)』の地名を残している。この地から西へ、有名な「老ノ坂」を越えると桑田郡に入る。水路ならば保津川で結ばれる。長岡京のころまで、この「老ノ坂」越えが丹波路であった。したがって、乙訓郡から桑田郡にかけて、丹波路の入口を抑えていた一大勢力の「玖賀耳」がいた、と推定して大きな誤りはなかろう。紫野大徳寺の北に鎮座する式内社の久我(こが)神社まで考慮に入れるならば、「玖賀耳」の勢力は愛宕郡にも及んでいたと見てよさそうである。『山城国風土記』が「賀茂建角身命」伝承の中でいう「久我(クガ)国」(逸文・賀茂社条)こそ、まさにこの「玖賀耳」の王国であっただろう。かつて、乙訓・愛宕・桑田の三郡域にまたがる地を領域とする「久我国」があった。その王者は「玖賀耳」と呼ばれていた。… 〉 桑田玖賀姫がいるから玖賀は桑田のことだろうとは想像できる。桑田とは玖賀=銅のことであろう。玖賀タ・タは所のこと→桑田であろうか。 |
資料編の索引
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Link Free. Copyright © 2004-2007 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com) All Rights Reserved |
陸耳御笠の伝説