朝来と志楽


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朝来(舞鶴市)

大浦半島の付け根に朝来あせくあせくあせくという所がある。帝国海軍の火薬廠用地に村地のほとんど全部を取られてしまい、現在はその跡地に工場や団地などが建っており、もう過去の姿はない。
突然海軍高官が現れて、全村一年以内に撤去完了せよ、というものであった、期限の一年を過ぎると、すでに門ができていて、村民が残した家財道具を取りに帰っても二度と入れてくれることはなかったという。東舞鶴湾から東の青葉山の方へはいる谷である。『加佐郡誌』は


 〈 朝来村。志楽郷朝来谷の地である。笹部、杉山、登尾、岡安、白屋、長内、吉野、朝来中、大波上、大波下の十ケ字から成っている。
参考一、朝来の名の起源は諸書を見るも些の手がかりがない。二、長内はもと白屋の一部であったが、明治四年に独立したものである。三、吉野は明治四年十一月からの名で昔は下谷村といった。四、大波上及大波下は昔(徳川氏の中頃までは)一村であって大波村といはれていた。  〉 

 朝来あせくあせくあせくとは何とも面白い秘密のありそうな地名ではないか、しかし誰もその地名の由来を納得できるよう説明した者は過去にない。
兵庫県朝来郡朝来町、同じ字を書くがアサゴと読む。『和名抄』の但馬国朝来郡朝来郷(現・朝来郡生野町与布土)。安佐古の訓注がある。
奈良県桜井市にも浅古あさごあさごあさご地名があるし、播磨国飾磨郡にも朝来郷があった(荒陵寺御手印縁起に名が見えるそうである)。
和歌山県西牟婁郡上富田町朝来、ここはアッソとかアッソウと読む。角川日本地名大辞典は意味不明としている。
和歌山県海南市且来、且来は旦来の間違いではなかろうか、元旦の旦であり象形文字らしく日が地平線から昇ってくる字であり、朝のことである。朝来と同じであるが、ここもアッソと読む。『和名抄』名草郡の且来・朝来郷の地である。
大分県東国東郡安岐町大字朝来、アサクと読むが明治に出来た村名だという。朝来野川が流れており、それから出た地名なら古いと思われるが手元に資料がない。宮城県にも朝来地名があるが私にはこの辺りもわからない。朝来は他力本願では意味は解けないようである。自力でやってみるより手がない。






田口神社(舞鶴市朝来中)

『丹後風土記』残欠神名帳には御田口社とあり、その本文にも記事がある。
 〈 御田口祠。御田口祠ハ往昔、天照大神分霊子豊宇気大神猶此国ニマシマスガゴトシ。丹波国造日本得魂命等スナワチ地口ノ御田ヲ以テ奉ル。更ニ校倉ヲ建テ、其穀実ヲ蔵ム也。故名テ曰ク阿勢久良ト。且、其倉ヲ奠リ、以テ御田口祠ト称ス。(以下六行虫食)(原漢文)  〉

田口神社(舞鶴市朝来中)神社の南の山から取ってきた花崗岩製の大きな燈籠が立っている。日本一と唱えられる。(もっと大きな物を見たことがあるが…)。「室尾山観音寺神名帳」には名がない、あるいは正四位上中村明神がそれだろうか。
『神社旧辞録』は、


 〈 一説には、天武天皇の皇弟金丸親王が勅に依り当国の鬼賊討伐のとき当地長内の乳岩へ御成りあり、その畔に日本武尊の神霊を勧請し次いで天照皇大神や八幡大神も招遷し三社合祀し、その神威により、凶賊委の平定という。
なお乳岩神は祭神須佐之男尊とある。
右のとおり田口神社は素乳岩に祀られ後長内より現在地に遷座した。
或は字杉山の古?里付近より洪水のとき御神体が此処に流れついたのを斎き祀ったともある。境内には一色修理太夫義直寄進の石燈篭一基在。享徳三年戌十月の銘在り。古来より朝来谷一ノ宮と唱え当谷惣鎮守。土記には御田口社 寺記に中村社とも見える。  〉 

この資料は手書きで、杉山の古?里は、私には何とも読めないのであるが多分古見里である。現在地よりもずっと奥(青葉山麓というか山腹)にあったようであり、そこは玖賀耳御笠や鬼賊の本拠地であったところである。

『朝来村史』も引いておく、やはり青葉山の鬼や蛇と関わり深い社と思われる。
 〈 田口神社 字朝来中鎮座       
氏子 長内、白屋、岡安下谷、中村、大波一、祭神 豊受皇大神、日本得魂命、誉田別尊 
七月六日夜祭り角力有一、
由緒/ 勧請年暦不詳ト雖村里ノ伝統ニ往古日本得魂命此地ニ御神田アリ以テ豊受大神ヲ祀リ御神田ノ穀実ヲ蔵ル穀倉を建給フ故ニ其地ヲ名ケテ阿勢倉谷ト称シテ今ニ於テ一里余ノ総名ニ存シテ朝来谷ト云フ又一説ニ若狭丹後ノ国境ニ青葉山ト称スル山アリ往古山中ニ土蜘蛛耳御笠ナル凶賊アリ不時潜匿ヨリ郷里ニ出テ横行シ里人ヲ害シ財ヲ奪フ故ニ農夫安居スル能ハス於是勅アリ官軍ヲシテ其賊ヲ追ハシム終ニ同郡川守ノ辺ニ退ク茲ニ日本得魂命官軍ト共ニ議テ咸ク誅戮シ給フ後ニ郷里ノ民俗彌安堵ノ懐ヲ得タリ因テ日本得魂命ノ威徳ヲ仰ギ当社合殿ニ奉斎スト古老ノ遺説アリ而ルニ近村荒木氏ナル旧家アリ祖先荒木駿河守ト云フ祝部当社ニ奉仕シ由縁古記ヲ所有スルニ焼失シテ稍残記ヲ有ス然ルニ明治八年再ヒ焼失シテ悉ク焼ク依テ只村老ノ口碑ニ存スルノミ
「昭和十五年七月五日許可ヲ得テ同村字長内乳岩神社、金刀比羅神社ヲ合併シ境内神社乳岩神社ヲ創立ノ件同年七月二十二日創立完了ノ旨、同年八月二日届出」
一、境内神社 三社/武大神社/ 祭神 素盞鳴命/ 由緒 不詳/ 建物 七尺四方/厳島神社/ 祭神 市杵島姫命/ 由緒 不詳/乳岩神社/ 祭神 大物主命、外四神/ 由緒 不詳/ 建物 七尺四方/一、氏子戸数 二百戸
 田口大明神縁記伝来 (原文の儘)
一仰々其昔し仁王四十代天武天皇時節丹波後国丹後国両国分り不申一ク国之時当国に悪魔徘徊し人輪住事難及依之天子の御弟金丸親王御上意にて当国御行相成悪魔祓給ひ国家為安全之祈之御念ニ有然者以神力ヲ加護タメ此地長内乳岩元御行成此近辺え諸神勧請シ田口大明神其元神ハ神代日本武之尊奉申尊キ御神金丸親王是を勧請シテ田口大明神奉称則御鎮中ニ天照大神宮八幡大菩薩三社奉勧請シ諸神加護ニヨリ当国悪魔消滅シ国豊ニ納リ難有御神也時代年号白鳳年中勧請ヨリ元禄四年迄年続記千貮拾年ニ成ル元来親王長内乳岩ニ御行之思召ハ乳岩山神ハ古シ本神素盞鳴尊也神代にて此御神輿日本武尊二神共神威の加護達し安全納り御神故金丸親王キセイ有テ当国国家安全ニ納リ諸願成就シ給也昔シヨリ長内ヨリ大波村迄六ケ村氏神興奉拝候
 白鳳年中月日
    神主 大波村 荒木柴原義次 書
    同  下谷村 蔵内四郎左衛門
とあり、日本得魂命が日本武尊とあやまり記されたものか更に又金丸親王と日本得魂命と其の??が一つのものであるやう考へられるのも注意すべきである。  〉 

青葉山のアオバと、この谷の一番の下は大波おおばおおばおおばというが、たぶん同じ地名ではなかろうか。阿呆と書いてアオと読む所もある、ひょっとするとアナホとかアノウといった鉄を掘る穴を言っているのかも知れない。



日本得魂命(海部氏の祖)

日本得魂やまとえたまやまとえたまやまとえたま命が祭神として登場する。残欠の川守郷の所でも見たが、こことは字が違っている。
ここでは日本得魂命、川守では日本得玉命である。何か元の資料に違いがあるのであろう。統一がとれていない。異なる元資料に基づくものなのではなかろうか。しかし同一であろう祭神が活躍する地であり、両地間には何ぞ関係があろうかとも思われる。
「玖賀耳御笠の伝説」
川守では何か土蜘蛛退治の専門家のような人物である。日子坐王の一番隊長のように思われる。朝来の地は彼が侵略してくるまでは土蜘蛛の地であったろうと想像される。丹後に築いた最初の橋頭堡でなかろうか。

 彼はまた勘注系図の八世孫で、次のような注文があるそうである。『古代海部氏の系図(新版)』によれば、

 〈 御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天神)の御代(壬戌年春三月)に、娘の豊鋤入姫合が天照大神を大和国笠縫里より丹波国余佐郡久志比の真名井原匏宮に移して、豊受大神と同殿に斎き奉った、と記されている。(そのあとにつづいて小さな字で二月に、その後丙寅年秋七月、天照大神は大和国伊豆加志本宮に遷座したと記されている。)
この時、地口の御田を以って奉り、さらに校倉を建て、その穀実を蔵した。それでその名を阿勢久良といい、その倉を集りて御田口の祠と称した
崇神天皇のとき、当国青葉山中に土蜘がおり、陸耳の御笠は、その状人民を賊う。そこで日子坐王は勅を奉じて来り之を伐つ、時に日本得魂命たちは日子坐王に仕え余社の大山に至り、遂に賊を誅った
大初瀬幼武天皇(雄略天皇)の御代、戊午の年、秋七月に匏宮は伊勢の国、度会郡山田原に遷った
日本得魂命の妹、大倭姫命は崇神天皇の御代に大神宮を拝祭する。  〉 

残欠が述べるように本当に丹波国造であったかどうかはわからない。勘注系図にはその肩書きは書かれていない、ただ八世孫とあるだけである。十六世孫の大倉岐命ではじめて丹波国造の肩書きが現れるから、たぶん違うであろう。
尾張氏系図にも彼の名はあり倭得玉彦命とある、表記法から言えばこちらの方が古そうに感じる。ヤマトの名があるから大和物部氏系図にあったものの借用であろうか。ひょっとすると邪馬台国時代までもさかのぼる名なのかも知れない(大和にあったのか北九州にあったのかわからないが)。
 もしそうなら日本得魂命は倭人伝の卑弥呼の父親であろうか、勘注系図では娘は九世孫になるが、そこに亦名を倭迹々日百襲姫命であり、卑弥呼だとされる日女命と乙彦命が、十世孫に小止与命が見える。卑弥呼と男弟、次の台与という倭人伝の記事と一致する。よく言われるように海部氏系図には卑弥呼がいる。「卑弥呼」がいるのは尾張氏系図もそうであって、九世孫に弟彦命と日女命、すこし飛ぶが十一世孫に乎止与命がいる。
 日本得魂命が本当にこの田口社の祭神ならば、朝来は意外にも邪馬台国であったりするかも知れないことになる。いつの日にか、もしかすると此の地から邪馬台国が発掘されるかも知れない、楽しみに待つこととしようではないか。朝来は丹後海部氏にとっては邪馬台国なる地、何か大変に重要な地であったのであろうか。

 さて『天孫本紀』尾張氏系図では、始祖の天照国照彦火明櫛玉饒速日尊(=饒速日命・天火明命)の八世孫であり、次の記事がある。

 〈 八世孫 倭得玉彦命 亦名は市大稲日命 此命は淡海国谷上刀婢を妻と為し一男を生む。伊我臣祖大伊賀彦の女、大伊賀姫を妻と為し、四男を生む。  〉 

大和と近江と伊賀に関係ありそうな人物である。淡海おうみおうみおうみ国の谷上刀婢たなかみとべたなかみとべたなかみとべとの間の子が、弟彦命とその妹とされているが、日女命である。伊我は伊賀だと思うが、伊香のことかも知れない、伊香郡の余呉湖畔に羽衣伝説がある。


『角川日本地名大辞典』に、
 〈 高倉神社 〈上野市〉
 上野市西高倉にある神社。祭神は高倉下命。創祀は不詳であるが「古事記」「日本書紀」に神武天皇が熊野に入った時に、高倉下命が神剣を奉じて天皇の危機を救った説話があり、高倉下命の7世の孫である倭得玉彦命が当所に祖先を祀ったことに始まるとされる。貞観3年に神階従五位下を授けられている(三代実録)。  〉 
高倉下命という朝鮮語のオロチ族の七世孫というのなら、倭得玉命も金属と関係が深いと考えて間違いはない。
南山城の木津川の上流、金山媛を祀る伊賀国一宮の敢国あへくにあへくにあへくに神社の近く、佐那具さなぐさなぐさなぐといった地名の残る地である。ここもやはり鉄であろう。
「敢国神社」 「敢国神社」

 先にも取り上げた京田辺市の棚倉孫神社の木津川を挟んでの向い側の城陽市の水主神社にも祀られている。『京都府の地名』に

 〈 水主神社 (現)城陽市大字水主 宮馬場
 木津川の右岸にある水主集落の北方に鎮座。祭神は天照御魂神・天香語山神・天村雲神・天忍男神・建額赤命・建諸隅命・建筒草命・建多背命・倭得玉彦命・山城大国魂命。旧府社。…
 創建や由緒はつまびらかでないが、祭神の天照御魂神は火明命、山背大国魂命は火明命の九世孫玉勝山代根古命にあたり、「新撰姓氏録」 に「水主直、同上(火明命之後也)」とみえるこの辺りの豪族水主氏の祖を祀る氏神として創建されたものと思われる。ちなみに水主氏は、栗隈大溝に木津川より水を取り入れる井堰の管理をつかさどった一族といわれる。… 「水主神社」

 かつて海部(あまべ)氏の祖は木津川の流域にいたのかも知れない。そう言えば、朝来の東には若狭国大飯郡木津郷がある。丹後海部氏の系図は建振熊(たけふるくま)宿祢は、ここ若狭木津高向宮で海部直の姓を応神より賜り国造に仕奉したと記している、何か海部氏とは由緒ある地なのかも知れない。若狭で木津といえばここしか思い当たらない。海部と呼ばれた部民を統率したのであろうが、海部は元々は御食国若狭国がふさわしいように思う。海部郷(熊野郡)や凡海(おおしあま)郷(加佐郡)があり、日本海沿岸の広い範囲にわたったのであろうと思うが部として中央に仕えていたのは若狭が早いのではなかろうか。仕えていたというのはこんな侵略の先兵役であったのかも知れない。応神と海部は関係があるのであろうか、五年紀に「諸国に令して海人部(あまべ)・山守部(やまもりべ)を定めた」の記事がある。国造と書いてあるが、どこの国造とも書かれていない。丹波国造なのか若狭国造なのかわからない。
海部氏の祖・建振熊宿祢は神功皇后紀や仁徳紀の和珥(わに)臣の祖・難波根子建振熊(なにわねこたけふるくま)と同一の人物なのではなかろうか。勘注系図では彼の墓所は熊野郡川上郷安田(橋爪)となっている。どうも河内王朝系の淀川・琵琶湖・若狭湾ルートを掴んだ勢力の一翼であろうと思われる。古くは天日槍が掴んだ勢力圏である。
「海部氏の祖・十八世孫丹波国造建振熊宿祢」
 近江国高島郡木津郷(高島郡新旭町木津)や丹後国竹野郡木津郷(竹野郡網野町木津)も、あるいはこの木津川の木津かも知れない。ずっと金属資源を求めて、先住の土蜘蛛を追っ払い殺戮しながら朝来にやってきたものと思われる。
南山城の大変な天井川で、道路のはるか上を木津川の支流が何本も流れている。
「道路面より下を川は流れるものだけど、このあたりは違うんだな」と、この地の知り合いに話したら、「そうかあ、こんな所がないかあ」と言っていた。古くはたぶんこの川の上流で大規模な鉱山開発があったのではなかろうか。
「先人の知恵 天井川」 「山城再発見」



枯木浦(白糸浜:東舞鶴湾)

朝来は実は鉄があろうが、も一つの本命は海でもあろうかとも思われる。たいへんにおもしろい伝説が残されている。朝来谷の南に愛宕山があるのだが、『丹後風土記残欠』に、

 〈 枯木浦 本字彼来
枯木浦は、往昔、少彦名大神と大己貴大神、この二柱神、国造り坐さなんとするの時に当たり、海路の順次に所在する諸島を集合しめんと欲し、便ち笠松山之嶺に登り、息限りに号呼んで曰く、彼々来々と。則ち四嶼自ずから来て列り。故に彼来と曰う也。  〉 
市の広報誌にもある、枯木浦のモニュメント(潮路公園)

 〈 舞鶴湾の戸島から東側、東港の古名を"枯木浦"といいます。その名の由来については、「丹後風土記」の一説、枯木浦に興味深い話を残しています。
【神様が"おいでおいで"】
 「昔、少彦名と大巳貴(大国主尊)の二人の神がこの地で国を造ろうとしたとき、海に清らかな島が欲しいと思った。島を集めるため、笠松山に登り大きな声で"カレキカレキ(おいでおいで)"と呼んだ。すると、四つの島が集まってきた。これが枯木浦の名の由来である」と伝えています。
 二人の神が登った笠松山とは、舞鶴湾の東側にある愛宕山で、呼びかけに集まった四島は、淵島(現在の浮島)、烏島、蛇島、戸島であると言われています。
 一番大きい戸島は、枯木浦を外敵から守るために入り口にとどまり、戸の役目を買ってでた。そこで、その名が付いたとも伝えられています。
【歴史を形づくる島々】
 この四島は、古くから枯木浦の歴史を形づくつています。戸島では、古代の祭祀土器が発見され、淵島には、鎌倉時代の元冦に敵国降伏の祈願がされたという嶋満神社をまつり、烏島には中世水軍の一人・水島碇之丞が城を築き、今も弁天がまつられ、蛇島には、戦国時代の武将・逸見駿河守が城を築き、著名な連歌師・里村紹巴が訪れたといいます。
【大自然への祈りにはじまる】
 枯木浦の歴史と祈りは、古代海人の大自然に対する祈りにはじまり、中世の水軍たちに受け継がれ、育まれたものであると考えられています。
五老岳より枯木浦
上の写真は325メートルの五老スカイタワーより見た枯木浦である。ここからなら四島が一度に見渡せる。画角は90度以上、18ミリレンズで一杯一杯である。ガラス越しで、実はデジカメの画像を何枚か合成して作ったものである。近畿百景の第一位に選ばれた展望であるが、枯木浦を見るための施設ではなかろうかと思えるほどよく見える。
 枯木浦は湾口から(冠島も含むのかもしれないが)、四島で終わる物語ではなく、本当は後で述べるが少なくとも枯木宮までは続くものである。そのだいたいの位置は下の写真の一番右側になるが、ここからは見えなかった。
 古代には枯木浦と呼ばれていたのであるが、後に白糸浜と呼ばれ、現在は東舞鶴港と呼ばれている。将来は京都東舞鶴港とでも呼びたいようである。
何故「京都」などとウソの名を付けるのか私にはわからない、ここは丹後であって京都ではない、過去に京都であったことはない、ちかごろ流行の、何にでも京と冠称をつける恥ずかしい詐称地名だと思う、京都と大ウソでも付けたら、ひょっとして港の値打ちが上がるであろうか。どうか地名は遠い過去より伝わる大切な文化財だということをヨーク肝に銘じていただきたい。頼りないどころか大ウソの呼び名は地名破壊でしかなく、地域の社会も文化も破壊するものである。非常に罪深い。誰かが喜ぶとでも思っているのだろうか。いいかげんな呼び名はまっぴら御免である。
舞鶴が京かそうでないかは少し喋らせてみればすぐわかる。舞鶴人は京都弁を使わないというか使えない。その地の言葉が喋れない者はその地の者ではない。単に行政上の線引きだけで判断してはなるまい。
 もうすでにそのように呼ばれているようである。府の広報紙などに書かれているところを見ると、どうやらこのつまらぬ名付け親はたぶん京都府であろう。つまらぬ役人が考えそうな話ではある。住民がそう呼ばないような地名を勝手につけるな。たまたま京都府にいるだけではないか、その京都府だって「平成の大合併」の次にくるであろう、道州制導入でどうなるかわかったものではない。
舞鶴市が福井県に入ったら、福井舞鶴港と呼ぶのか、滋賀県に入れば滋賀舞鶴港、鳥取県に入れば鳥取舞鶴港と呼ぶのか。もし北朝鮮に入ったら北朝鮮舞鶴港と呼ぶのであろうか。

かつての舞鶴軍港の心臓部であり、引揚港でもあった、多くの兵士がここから戦場に赴き、二度と帰ることはなかった。異国で無念の死を遂げた人々の魂はこの港へ帰ってきたのであろうか。
 現在は海自の基地がある。この日は珍しく潜水艦が入港していた、拡大して見ると確かに写ってはいるが、上の小さな写真では見えないと思う。
北から枯木浦
アフガン・イラクへもここから出て行った。「憲法なぞはどうでもよい、とにかくすぐ戦争へ行こう」ではないか、ムチャクチャを始めたら国は亡ぶ。困るのは国民だ。無辜のアラブの人々をミサイル爆撃し子供も含めて大量殺戮する超大国による、正確にいえばブさんによる大義無きテロを支援するために…。
わが国の恥ずべき国家犯罪の歴史をずっと見続けている枯木浦である。このまま行くなら21世紀の遠くない時期にたぶん東アジアを睨む核戦略基地となるであろう枯木浦、どうかそんな事にはならないでもらいたいものである。舞鶴は東西世界の最前線なんですねえ、と、よそから来られた方はその異様さに気がつかれる、しかし舞鶴人はこうした光景に慣れてしまっていて、軍のラッパの音を聞いて舞鶴を実感している。何ラッパというのか勝手に市民は「整列ラッパ」とか「消灯ラッパ」とか呼んでいるが、少しばかりふるさとを離れて、帰ってきてこのラッパを聞くといると、ああこの音が舞鶴だ、なつかいしなと話す。「総員起し」が朝の6時とか6時30分だそうで、その音に早くから市民も起こされてしまうそうである。意外な基地公害であるが、舞鶴革新政党の大物ですら「そう言われると忘れとったな、そうやなあ、舞鶴には自衛隊基地があるんやなあ」、と言うのである。もはや空気のような存在となっている。今や南北世界の最前線基地の町でもあるのだが、市民の間にはそうした認識はない、と言えるだろう。右へ右へと梶を切りたい政府与党は誠にやりやすい。もう少しは感心を寄せることが明日の舞鶴をつくる本当の基礎となるのだろうが…。
 上の写真は北側の大浦半島の引揚の平港から東舞鶴側を見ている。イージスシステム搭載のハイテク艦「妙高」(左側)と、新型補給艦「摩周」(右側)がこんな所に浮かんでいた。「妙高」の本来の目的は、ヨーロッパ戦線で戦端が開かれた場合に、極東に第二戦線を開きソ連の兵力を極東方面にも分散させるための米太平洋艦隊の補完用艦船であった、米海軍力だけでは心許ないために日本にもこんなハイテク艦を導入させたものである。大変に高価な買い物で「浮かぶ札束」と呼ばれる、一隻1200億円とかいう、しかも肝心の部分はブラックボックスである。ところがソ連の崩壊で無用の長物となっていたのであるが、近頃は弾道ミサイル「テポドン」や「ノドン」を撃ち落とせるよう改造する計画もあるという。
 テポドンというのはノドンを二段重ねたようなようなミサイルという、漢字で書けば大浦洞(テポドン)である。洞穴ほらあなほらあなほらあなというように、洞は音ではドだろうけれども、ホラと読んだのだと思われる、ホラはフルのことであり、大浦村といった意味であるという。
日本の大浦から出撃して、北朝鮮の東海岸の咸鏡北道花台郡舞水端里の大浦村ミサイルを撃ち落とせるだろうか。無理と思う。宇宙を軍事基地とするようなそもそも違法の衛星監視システムが仮によほどよく出来ていても、そんなものは日本にはないし、米軍のものを借りたとしても、まず無理であろう。飛んでくる敵の鉄砲の弾丸をこちらの鉄砲の弾丸で撃ち落とせるだろうか、マンガの世界なら知らず、現実の世ではできるわけがない。イカヅチでイカヅチを撃ち落とせるだろうか。発射されたら一度宇宙空間へ飛び出て日本海を飛び越え、弾頭が再突入してくる、マッハ10のスピードに達するという、稲妻よりも、隕石の落下よりも速い。その間はわずか5分という(防衛庁の試算では発射から着弾まで11分)。弾道の計算をしなければならない、スーパーコンピューターでも何分かはかかる、持ち時間は11分はない。ほぼ正確な落下位置が計算できるのは、やはり5分前と思われる。その時間でどこへ逃げられるだろう。逃げようもない、逃げられるのは首相だけだともささやかれる、官邸には避難シェルターがあるからである。
しかしテポドン1号は、日本政府の言うようなミサイル実験ではなく、衛星の打上に失敗したものだったとアメリカなどの諸外国政府は表している。日本政府は経済制裁をしいたが、諸情報から考えると衛星が正解のようである。

 発射される前に地上で叩くより手がない。ノドン(蘆洞)の方が怖いと思う、これは旧ソ連のスカッドミサイルの改造型で、敵の先制攻撃を避けて自走して常時移動しているから、どこにあるかもわからない、さっき確かにここにいたと思って攻撃してももうそこにはないのである。一晩に三度は寝場所を移動するというテロリストの親玉のようなものである。敵さんもマヌケにやられるほどヤワではない。命中精度が悪く、とうの昔の旧式なものであるが、イラクやイラン、パキスタンなどが持っているのは全部これと同じようなものである。
100基ばかり北はもっているのでないかといわれる(もっとあるとも言われるがどこまで本当なのかはわからない)。これに核が搭載されていれば誠に恐怖であるが、搭載できるほどの小型の核は現在のところは開発能力はないといわれている。発射されるかどうかもわからない敵ミサイルを米軍用語の「予防抑止」、先制核攻撃するより確実な手がない。ありそうなあたりを無茶苦茶に予防核爆撃するより方法がない、しかしそれでも本当に破壊できたかどうかはわからない、どこかに生きているミサイルが残っているかも知れない、一発でも生きていれば大変だ。さらに二次三次の予防核攻撃が必要になる。それでも確かではない四次五次がいる。これがイラクであるが、いよいよどちらがならず者国家かわからなくなってくる。核に頼る、軍事に頼るということはこうした誠にアホな事である。
 そもそもこんなに恐ろしい正気の沙汰とも思えぬ悪魔とて身震いして羞じ面をふせそうな核ミサイルを先に武装をしてきたのは我々の方ではなかったか。核ミサイルでねらって来たのはどの国がどの国に対してであったか。日本には他国を攻撃できるような自前の核ミサイルはない、憲法が禁じているからである。しかし日本には米軍がいる。これが核ミサイルを持っている。国内にある以上は日本が持っているのと同じである、これは明らかに憲法の精神には反している。人様のことを言う前に我が身を振り返ってみようではないか、それを棚上げしたまま、不問にふしたままの、日本人は穢れなき天使様なのだのようなつもりでいたのでは問題の解決はないだろう。
さらに悪いことには、日本国内にある(かどうかもわからない)この核ミサイルは日本の主権は及ばない、日本が仮に撃つなといっても米軍は撃つかもしれない。更に始末の悪いことに国連の決議もなしに、たいした根拠もなく平気で他国を先制攻撃する国であり、軍事施設だけをピンポイント爆撃しますと言って、実は何人の子供を殺している、そして誤爆でした誤射でしたと言うくらいの国であり、実際に原爆を二度も投下した国てあり、米本土で北で使用することを想定した原爆模擬弾頭の投化訓練をしている国である。日本の言うことなど聞くわけはない。いつこちら側の核ミサイルが発射されるかわかったものではない。政府筋やマスコミのウソ宣伝に長年さらされてしまって、今ではまともな判断もできなくなっているが、実際は攻撃されるのを恐れるよりも攻撃しはしないかと恐れる方が実情に合っている。
北のミサイルは何とかならんものかいなともいう。それは北のも言っていることであろう。こちらが言うよりももうずっと大昔から…。自分がその目に合わなければ、相手の気持ちもわからぬものらしい。本気でそう願うなら、まずはこちらの核武装を解くべきではなかろうか。
 実際に弾道ミサイルで攻撃してくることはないと言われる、本気で攻撃する気ならもっともっといい手がいくらにでもあるそうである。
アメリカも攻撃することはないであろう、こんな強い国には手は出さない、もっと丸腰の弱い弱い極貧の国を最新兵器で攻撃するのがアメリカである。彼らはビジネスマンである、「自由」などという大義のために本気で動いたりはしない。世界最強の軍隊を莫大な費用をかけて派遣してもベトナムでもアフガンでもイラクでも勝てない。日本人はアメリカは勝つと自らの体験からいまだ信じているが、時代は変わり自覚した国民の民族解放闘争には勝てないのである。アメリカが北朝鮮に勝てるなどともし考えているなら、まことに馬鹿馬鹿しい日本人の信仰上の話である。仮にもし本気でアメリカが攻めるならば、地上部隊は韓国や日本に行けと言うことであろう。それでも勝てるならまだいいが、まず勝目はなかろう。
 それにしても1兆円もかけて成功する可能性の少ない迎撃システムをつくるのは愚の骨頂である。テクノロジー過信というよりテクノロジー無知と呼んだ方が正しいだろう。ミサイル防衛とはいっているが、はじめから本格的なICBMや多弾頭ミサイルも無理である、最新のものはすべて無理で、かなり時代物のヘナチョコミサイルならなんとかなるかも知れないといった代物である。そもそもどこぞの大国はそんなに科学的根拠に基づいたり、周到な調査研究や熟考に熟考を重ねよく周囲の議論を聞いて安全保障政策を立てるような立派な政権ではない、北朝鮮よりも危険だともいわれるくらいであるし、世界一の大悪者にも撰ばれる名誉あるオン大将でもある、その軽すぎる政権の尻馬に乗るのはよく考えたがよいだろう、弾道ミサイルを迎撃できる兵器はない、仮にノドンなら何とかなってもこれはイタチごっこで、相手がさらに進歩した兵器を採用すれば、もう役にはたたない、10年もせずに切り替わるだろう。SS21改が出てくるだろう。
もう少し説明すれば、弾道ミサイルはその呼び名のとおりに放物線を描いて飛ぶ、放物線の一番上ではミサイルのスピードはゼロになる。ミサイルは止まっているのだからここを撃ち落とそうというわけである。これがミサイル防衛のネライ目である。ところがその一番上の高度が問題である。500キロ以上も上空だと、防衛ミサイルが届かないのである。B29の高度一万メートルだと高射砲弾が届かなかった過去と同じ歴史を繰り返すことになる。300キロといわれるノドンならなんとかなるかも知れないがテポドンは無理である。撃ち落とせない。防衛できない。ミサイル防衛はありえないことをよく知っているから先制攻撃論がでるのである。しかし相手は移動するから先制攻撃も難しい。もっとも先制攻撃が許されるはずはない。自分に先制攻撃が許されるなら相手にも当然に許される。そんな気違論がまかり通れば世界がどうなるか考えてみればいいだろう。
 税金だぞ、チト真面目に考えたらどうだ。こうした悪魔の兵器に頼らないで平和を築くのが政治家はもちろんのこと日本国民の使命であろう。「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」(憲法前文)と書いてあるのはもう死文なのだろうか。
フイッツジェラルド平成17年2月10日早朝、そぼ降る雨の中を、舞鶴海自埠頭に接岸した米第七艦隊所属のイージス駆逐艦「フイッツジェラルド」。日本のイージス艦「妙高」を見慣れているせいか、それに比べると格好が悪く、強そうに見えない、第一印象としてはヘボイ感じの艦である。
この場所はいつもは「妙高」がいる場所である、その場所を空けてやって、「妙高」は沖でアンカーを打って停泊している、この場所を米艦に使わせている、何もそこまでしてやる必要はあるのかと疑問に思う。
 「アメリカのイージス艦なんですか、ヘリは飛ぶは警察はウロウロしとるは、大変でしたよ」、ということであった。色は日本の船と同じ、というか日本の船が真似ているのか知らないが、何もそんなに似なくても…というほど似ていて、艦尾の掲げたアメリカ国旗でも確認しないと日本の船と区別できない。普通の人が見ると気味悪がる色になっている。潜水艦
反射率18パーセントの灰色なのだろう。周囲に溶け込んで見つけにくいという保護色であろう。米軍がこんな色を使うのはともかくとして、何も平和国家・日本の艦船がこんな色にすることはない。さらに見つけにくいの潜水艦だという、プロの船乗りでも発見がおくれ、目の前に来てから気が付き、びっくりして己が船の舵を切ってかわしたという話を聞く。日本の艦船は女性ばかりを乗せてピンク色に塗っておけばいい。名前も「平和」とか「友好」とか、「青年」とか「美女」とかつけたらいい。
この自衛隊艦船の色はおそらく100パーセントアメリカ海軍の色だと思う。私が子供の頃の話だが、ここを通りかかるとアメリカ海軍の小艦船の同型の物が幾隻も繋がれてこの桟橋に浮かんでいた。ブリキの船と呼んで当時の子供ですらバカにしたチャチな軍船であったが、これは当時の海自がアメリカが第2次大戦下に急造した安物の払い下げをもらったのではないかと思われるが、それがこの色であった。発足の事情のそのままが現在の海自に引き継がれているのだと思われる。海自の歴史の色ではあろうが、そろそろ見直せ。日本とは実はアメリカの属国ですよと高いゼニを使って世界に宣伝しているようなものである。、もっともっと独自の色とデザインを使え、恥ずかしい。
 こんな物騒な船をいい気になって写しいると、いつかの時のように、東舞鶴警察などに米軍へ通報されるかも知れない、誰の安全を守る警察なのか知れたものではない。誰よりも第一は、納税者の、お前さん達のスポンサーの安全を守れよな。
 中はそれと同時に入港した潜水艦である。一緒に入港しているから、共同行動を取っていたものと思われる。日本の潜水艦だろうか、普通は艦橋の後に国旗を掲げているのだが、それがなく確認できない。米イージス艦を護衛していたのでなかろうか。米イージス艦が日本海に来たからといっても別に日本国を敵ミサイルから防衛するのが目的ではない。米本土までは今のミサイルは飛ばないようだからアラスカやハワイ島をねらう。米本土向けは北極越えだから日本海にいてもあまり意味はないが、太平洋の基地へはその飛行経路は日本海上にある。その飛ぶかも知れない飛行経路の真下に行くのである。アメリカ基地防衛こそが日本海へ来た理由である。米艦艇は米国の安全を守っているのである。そんなことは当然だが、日本の自衛隊は誰がために潜水艦を持っているのだろうか、誰がための「平和と安全」を守る軍隊なのだろうか。ゴツイこと日本国民の税金を使って、やっていることは日本の安全を守ることではないのかも知れない。よく言われていることで今さらに疑問とする方がおかしいかも知れないな。フイッツジェラルドの兵士
 「あれがアメリカのイージス艦なんですか」と私が写していたら声をかけてくる女性があった。若いベッピンさんであった。
 「そうなんです。アイツひょっとすると核を搭載しているかも知れませんよ」。などと云うと「へー」といっていた。ひょっとして戦術核くらいはもっているのではなかろうか、少なくともいつでも核武装ができる艦であろう。日本海は波高し、大変な時期を迎えようとしている。どうか若い人たちにも興味をもって頂きたいと願う。
 下は「フイッツジェラルド」の米兵たち。雪が珍しかったのか、三段の雪だるまを作っていた。どこの国もやることは同じだなぁと市民たちの感想である。最近の日本の自衛隊員たちと雰囲気はよく似ている。
 え、アメリカ青年ってこんな感じだったあ、という気になる。本国ではかなり優秀な青年たちなのだと思う。遊びが賢いしおとなしくて行儀かいい。兵士という感じがない。しかし日本青年と似て夢も希望もないという感じを持っている。彼らなりにあきらめきってる、深い絶望を抱いた青年たちだ。悲しみがどことなく伝わる。ささやかな幸せで満足しようとしている。悲しい青年たちよ、本国へ戻って早くいい国にもどせよな。自国に自信が持てないのは日本青年の方が上をいく。他国ではきっとそう見られていることだろう。「同盟国」の国民として痛く責任を感じた。フセイン後に、こんな青年が1000名もイラクで殺され、それに10倍するイラク市民を殺している。誰がためにであろうか。
 米兵による性犯罪は、日本の米軍基地が飛び抜けて多いという。夜遅くまで飲食していた被害女性に問題があるのでは、と発言したという田中とかいう外務大臣がいたが、どこの国の外務大臣なのだろうか、こんな者を野放しにしたらどうなるかもわからぬらしい。即刑務所行きが当然なのである。女性としても人間としても日本国民としてもおよそ躰を為さない超人気大臣をありがたく戴くような国であるから、こうなるのも当然かも知れない。こうした犯罪は氷山の一角しか記録に残らない。実態はもっともっと多いと思われる。日本社会は犯罪が増えたというが、それも当然の結果であろう。国民自身がかなりおかしいのである。自分が無意識の共犯者だという反省がない。米艦船の寄港が頻繁になれば、舞鶴でもやがてはそうした重大犯罪が発生することであろう。
米軍兵士は魂が暗い。身びいきできないが、海自の隊員の方がずっと明るく好感がもてる。これは人殺しをしてきたか、そうでないかの違いだと思われる。
ややこしい話になってしまうが、それは置いておこう。出雲の国引き神話のような伝説である。彼来は命令形だろうから、カレキではなくカレコだろうと思う。原文は彼々来々だからカレカレココと呼んだのだろう。
戸島の戸は、由良の戸をわたる舟人梶を絶え…、でおなじみの戸で、出入口の狭くなっている所あたりを言う、そこにあるから戸(とびら)なのである。

 カレキと読むのか、カレコあるいはカラキ・カラコなのか、唐古・鍵遺跡のある唐古池を思い起こさせる名である。ここに書くまでもなくよくご存じと思うが、弥生期の巨大な環濠集落である。
「唐古・鍵遺跡」 「唐古・鍵遺跡」

 残欠の笠松山之嶺をどこに比定するかであるが、四嶼の比定と統一しないと広報誌の説では木に竹を接いだものである。もっとも地名の泉源寺にはかつて泉源寺という真言宗の寺院があり、その山号が笠松山であった。また『丹後国加佐郡寺社町在旧起』に、
 泉源寺村…、笠松りゅうしょうりゅうしょうりゅうしょう山愛宕権現社、同山白山権現社、同山稲荷明神夷社あり。としているから、この山も笠松山であったことは間違いがないだろう。
しかし海路の順次に諸島を集合せしめたというのだから、もし浮島が最期なら、笠松山は市場・溝尻・倉梯あたりの山でなければならない、従来通りに泉源寺の愛宕山とするなら、その麓に湊がなければならないし、四嶼は戸島・乙島・蛇島・烏島でなければなるまい。乙島は枯木浦よりも九景浦(西舞鶴湾)に入り込む、勘案して私は前説をとりたい。笠松山という地名から考えてもやはり倉梯・高橋と呼ばれる地の辺りでないとどうもおかしいのである。
 上の写真は泉源寺の愛宕山であり、海が枯木浦である、埋め立てられて当時よりもずいぶんと狭いものになっている。フェリー埠頭の先端から東を見ている。中央の高い山がそれである。残欠の笠松山に比定されている。この山からだと確かに四嶼のすべてが見渡せる。
ついでに説明しておくと、愛宕山には海軍の防空用の高角砲陣地があった、私の親父はこの山の対岸にあった防空壕に中にいて扉の割れ目ごしに、敵の艦載機の大編隊がこの山の上に飛来するのを見上げていたそうである。ちょうどこの写真を少し引いた状態である。撃ち落とせよと願っていたそうだが、偉そうにぬかしやがっていても、肝心のときにはアイツラ一発も撃たなんだナ、ということである。子供の私が何で撃たんのやと問うと、そんなことしたら自分らの位置がバレて、敵に攻撃されるからじゃ。能ある鷹は爪隠す、のではない。自分らの安全が第一ということか。それが本来の任務なのである。納税者・市民の生命財産はどうでもいいのである。そんなものを守るのは警察のお仕事、軍隊が守るのはそんなものではない。軍隊とはそんなものである。何を守ってくれるのであろうか。莫大な税金を投入するのが惜しくてかなわん。イラクにおける米軍しかり、ではイラクにおける日本軍はどうだろうか、自分たちを犠牲にしてでもイラク人の生命・財産を守れるだろうか。それともかつての偉大な神様に祀られる先輩たちのように能ある鷹は爪隠すのであろうか。
井伏鱒二の『黒い雨』だったか、こんなに話があったと記憶している、広島でも撃たなかったようである。
 この山の下にあるのが、海自の教育隊である。ビルのように見えるのがそれである。かつての舞鶴鎮守府の海兵団である。海兵の教育・訓練を行ったという。左手(北)へ向いてすすむとすぐに平の引揚港になる。



枯木之宮(弥加宜神社摂社)

以上は伝説である。では本当は何故に枯木浦と呼ばれたのであろうか。こんな事を問う人はいないのであるが、これはそんなに難しくはない問題である。枯木堂(弥加宜神社前)
 右の写真を見て頂きたい。加佐郡式内社の弥加宜みかげみかげみかげ神社(舞鶴市森井根口)の大きな鎮守の森の入口、赤い大鳥居の外側に枯木之宮(弥加宜神社末社)がある。府道・白鳥通りに面していて車からもよく見える場所にある。一番手前の赤白の布がぶらさがっている小さな建物である。朽ちかけた欅の大木の下のちょっと大きな祠という感じの建物で、こんなに古いものが現在にまで残っているのは奇跡のようなに思える。
表には「枯木堂」と書かれているようで(写真下)仏堂かとも思える、内部を覗くと石の仏像が三体祀られていた。しかし「大森大明神再興之記」(延享4)に、「枯木之宮者西宮夷三郎也」とあり、元々はこの浦の海人たちが齋き祀った立派な神社だったようである。枯木堂(?)の表札がかかる
 枯木浦の枯木はここから出たものであろう、弥加宜浦とは呼ばないので、弥加宜神社よりも歴史が古く、本来はこの地の鎮守であったものと考えられる。後世に枯木神社はその鎮座地(杜清水の地)を弥加宜神社に奪われて、境外に追い出されたものであろう。もちろん枯木神社だけがあったわけではなく、周辺に集落があり、枯木の里と呼ばれる周辺一の大集落だっただろうし、倉梯とか高橋と呼ばれる以前はこの地は枯木と呼ばれたと思われる。残欠が書かれた頃にはすでに追い出されかけていたであろうが、残欠が枯木浦と記録していてくれたお陰で歴史は復元できるのである。『倉梯村誌』は、

 〈 初め現時の行永小字彌伽宜谷に奉祀せられしが、聚落の移動交通の発達に倶ひ再遷三遷遂に現神域に奉祀せられたりとの説あれども其年代更に詳ならず、果して然りとすれば、土地の沿革聚落の発達交通系統等より考へて蓋永禄…三七〇年…以後の事か  〉 
としている。永禄(1558〜70)ということはない、残欠の頃にはすでにここ杜清水の聖地に来ている。当時は現在ほどに大きなものであったかどうかはわからないが、参道は現在もその弥加宜谷の故地まで続いていて、その辺りをうろうろしていたかも知れない。現在も清水がわき出し続ける杜清水と呼ばれるこの聖地には古くからガンと枯木社が鎮座していたのである。弥加宜神社といえどもその歴史を抹殺することはできなかったのであろう。
枯木の地名は丹後では大江町と宮津市にある。それらも見てみよう。
内部リンク「鉄の弥加宜神社」


宮津市の枯木浦

下の図は元禄二年、貝原益軒が来遊して著した「天橋記」の挿入図の一部である。天橋立を真下に見ながら、阿蘇海を東から西を見ている。現在とは少し地形が異なっているようである、現在の天橋立駅の辺りは海の中のように見える。倉椅川は描かれているが、倉椅山が見えないがどうしたのだろう。須津(宮津市)


枯木浦(与謝郡)
『丹後名所詞花集』(嘉永4)に、
 枝もなき枯木の浦に風吹けは浪の花こそ散り乱るらん(玄旨法印)
 冬見れば梢にくもる夜半もなし枯木の浦にさゆる月かけ(顕朝朝臣)
傘松山(公園になっている)
 橋立の内海・阿蘇海の一番の奥て、野田川(倉椅川)の河口部、古代与謝の心臓部にあたる場所で、現在の宮津市須津すづすづすづのあたりを呼ぶのである。須津には現在も枯木、枯木鼻とか枯木一丁目などの小字がある。倉椅川をさかのぼると加悦町がある。この名は加耶国のカヤとも言われる、それならあるいは枯木は加羅(加耶)来であろうか。江戸期の文献からは枯木浦は現在の阿蘇海の一番の奥一帯を指すようである。しかし古来は阿蘇海の全体をそう指したのかもわからない。傘松山(ここから橋立をみると結構なながめ)
加佐郡枯木浦には笠松山があったが、ここでも傘松山がある、橋立を股覗きをする観光名所の山が傘松公園である。何事でも少し見方を変えてみる、決まり切ったような見方ばかりでなく、できたら180度変えてみることも時には大事で面白いかも知れない。籠神社の横手からケーブルで登る山である(上写真)。アソとカサマツ、枯木、クラハシの地名とがここでも重複している。

日本冶金工業の大江山ニッケル工場やその資財置き場などができたり、丹後最大といわれる建設会社もある。丹後でも最も変貌が激しかった場所といわれる。スズといった弥生の製鉄地名ではなかろうかと思われる地の古い昔の面影はない。宮津藩御用達の須津鉄山もあった地である。名物・傘松山の股のぞき

 「あそこにはいつもあの船が浮かんでますけど、アレは何ですか」と宮津湾(与謝海)に浮かぶ貨物船(右写真)を指さして問われることがある。あれはニューカレドニアからニッケル鉱石を運んできた船である。
オーストラリアの東・南太平洋に浮かぶフランス領の島、天国に一番近い島とか呼ばれる。ミッドウェーで空母を4隻も沈められなければ、日本軍が攻略するはずであった島である。この島の鉱石はここで小さな艀に積み替えて、天橋立の回旋橋をすり抜けてゆく。宮津湾の鉱石運搬船
もともとは大江山からニッケル鉱石を採っていた、倉椅川をさかのぼれば、大江山である。「埋蔵量含有量ともに我国希だ」と大阪鉱山局が折紙をつけた大江山ニッケル鉱、中国人強制労働事件も起こして現在も訴訟が続いている。
企業は和解に応じたが、情けない国は謝罪もなく時効で逃ようとしているようである、「坊ちゃん鉄道」と呼ばれる加悦鉄道が大江山の鉱石を運んでいたが、北海道を除きニッケル鉱はここしかないそうであるが大江山は貧鉱とかで、ずいぶんと昔から輸入にもたよっている。軍の要求で橋立の中央を切断して艀を通そうといったような乱暴な話もあったそうであるが、地元民たちの命がけの奮闘で退けたという。
内部リンク「天橋立悠久の碑」
「大江山ニッケル鉱山」 「大江山捕虜収容所」



『宮津府志』『丹哥府志』のいう、穴憂の里(輪の崎・和野崎・三角五輪くずは崎とも呼ばれたそうである)は、須津の東側で内海に突き出た岬のあたりではないかと思う。上の挿入図でいえば「菩提岩」より右に突き出た松が二本生えている岬ど思われる。現在も二本松と呼ぶ地である、ここにレストランがあったと記憶しているが、現在はないようである。
『丹哥府志』は、

 〈 【穴憂の里】(菩薩岩の西、今輪の崎といふ)
音にきく穴憂の里やこれならん 人の心の名こそありけれ (頼円法師)  〉 
 『地名辞書』によれば、与謝郡式内社の吾野神社は須津の須津彦神社だという。吾野は普通はアガノと読まれるが、アノあるいはワガノかワノかも知れなく、それはアノウの転訛かも知れない。吾野神社はここにあって穴生神社であったかも知れない。穴生なら鉄である。







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資料編の索引

50音順
あ い う え お
か き く け こ
さ し す せ そ
た ち つ て と
な に ぬ ね の
は ひ ふ へ ほ
ま み む め も
や ゆ よ
ら り る れ ろ
わ

丹後・丹波
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宇宙山と世界樹の伝説


ここ阿蘇海の枯木浦は舞鶴の枯木浦の倉梯くらはしくらはしくらはし(高橋)郷の地名や、志楽田中の鈴鹿神社、西舞鶴上安の鈴木神社などとも何か関係があると思われる。鉄と関係のある地名かも知れない。また天下の名勝・日本三景の天橋立あまのはしだてあまのはしだてあまのはしだての橋立の名もあるいはここの倉椅くらはしくらはしくらはし山から出たかも知れない。ここの倉梯山は日本冶金工場の裏山である。高倉に架けられた倉梯(丹後古代の里資料館)
柳田国男だったかどこかで書いていたと記憶しているのだが、天橋立の「橋立」とは本来は険しい山を呼ぶのであったという、後の世のように海に架かる砂嘴を橋立と呼ぶようになったのは後の話だろうとしていた。倉椅というのは高床式の高い倉や建物の玄関先に立てかけてあるハシゴの意味である。復元図や復元建物でご覧になった方も多かろうと思う。右写真は高倉の入口の梯子である(丹後古代の里資料館の復元)。これは高橋とも呼ぶ。この藏にかかる枕詞が橋立(梯立)である。だから橋立の倉梯山と呼ばれる。須津の現在の倉梯山はそれほどハシゴをたてかけたような険しい山とも見えない、どこか近くの他の山ではないかとも考えたりしたてのだが、倉椅川(野田川)との関係でよくわからなくなってしまっていたのであった。倉梯山(与保呂校校庭より)

舞鶴の枯木浦の奥にも倉梯山がある、茅屋の窓からはすぐそこに見える、海軍の防空砲台が頂上にあったため地元では砲台山と呼ばれる方が多い、せっかくの大砲台のくせして一発も撃ったことがないんやて、と麓民は今でもあざけり憤慨する。ここばかりではない、全国どこの砲台も敵機が来ても撃たなかったとよくいわれる。加佐郡倉梯郷(高橋郷)の語源山である。倉梯小学校の語源の山だが、与保呂小学校の方がずっと近く、ここからなら玄関先の山である(左写真)。 ついでに書いておけば、米軍機は子どもは撃たなかったといわれる。子どもだとわかるのか知らんが、ビュンと機首を向けて来てもワシらは撃たなんだでと、私より10歳ばかり年上の者はいう。情けない後輩は「誤射・誤爆」で子どもも何も見境もなく殺すが先輩はずっと偉かったようである。一番最初に支持した国が日本らしいが、支持丸投げでなく文句をいわんかい、抗議せんかい、何をしとるんじゃ、情けない。貴国は先の戦争では決して無抵抗な子供を撃つようなことはしなかったと聞き及んでいる。それがどうしたのか。子供を殺してテロとどこが変わるのか。子供を殺されて黙っている親がいるとでも思っているのか。テロを増やしているのは貴国自身のそうしたやり方ではないか。もう支持はできないぞ、と。
 いつだったか丹後の山中を車で走っていた。立派な道路の真ん中に猪の児の二匹がいた。何に気を取られているのか我らが乗った車が近づくのがわからないのかも知れない。しかしそのうちに気がついて逃げるだろうと考えてスピードも緩めずに近づいた。車としてはどちらかへ避けようもない所にいた。あわてて避けてもドンと接触した。ひき殺してはいないが、ケガくらいはしただろうと思う。降りて見てみたが、そこらあたりには姿はなかった。
「足くらいは敷いたかな」と言うと、丹後の同乗者は「帰りはこの道は通らないほうがいい」。イノシシだって児が傷つけられれば黙ってはいない、復讐のイノシシテロを恐れ遠回りして帰らなければならない。復讐されても文句もいえない。


うろ覚だったのでもう一度読み返して、検討してみたい、『潟に関する連想』に
 〈 △天橋の意義と伝説    此に行って予の心付いた事は、天の橋立なるものが、松の生えて居る長い砂嘴を意味して居るかどうか疑はしい事であります。古語の「ハシ」は、水平の橋梁を一意味するの外、梯とか、石階とかを意味して居ったのであります。さらば「ハシタテ」といふ以上は、常に雲梯(山に登る道)を意味して居るものであります。それで「丹後風土記」を見ますると、榊様が天に懸けようとした橋が、倒れて海上に横はったのであると書いてありますが、此のやうな伝説によるの外は、あれを橋立といふことが当らぬ。それよりも、今では山頂の寺の名になって居りますが、成相寺の成相といふ語が、もとは成合であって、即ち両陸の相接続することを意味することで、此方が寧ろ適当な名であると思はれます。  〉 
『物語と語り物』に
 〈 …埋立新田の広々と績く地方には、もうさういふことを知らぬ家ばかり住んで居るだらうが、附近に高く仰ぐ孤峰のある土地には、そこを精霊の降りて来る倉梯と感じて、いはゆる盆の月の七日又は朔日に、そこから里へ来る登路の草を苅る村里が、稀ならず諸国には有るのである。…  〉 
『山宮考』に
 〈 …高山短山の頂上は、祖神の常住む伊穂利では無くなって、或すぐれた天津神の雲を分けて昇り降りしたまふ倉梯であ るかのやうに、想像せられるに至ったのである。…  〉 
 ハシゴがでてくるので気になっていたのだが、やはり読み返してみるべきものだ。大変な事を見落としていたようである。
柳田よりもさらに根元的な話をすれば、倉椅山は宇宙山だったのだ。須弥山とか弥山とか呼ばれるようにもなるが、この山はもっと古くもっと広く人類共通の太古時代からの伝説の山であった。倉椅山(宮津市)
宇宙山は世界の中心にある山で、現世の地上世界と天上世界、さらには地下の世界とを結ぶ山である。この山の頂にあるというハシゴを使って天上世界へも地下世界へも行き来ができる山である。大和の倉橋山(桜井市の音羽山。北麓に倉橋の地名がある)は知らないが、丹後の倉椅山がどちらもあまり険しくない、特に宮津の倉椅山(左写真。雲に隠れた中央の暗い山。。右手の煙の煙突は大江山ニッケルの工場)はなだらかに見えるので、「険しい山」説は、どうもおかしいぞとおもってはいたのである。
 天橋立は伊奘諾いざなぎいざなぎいざなぎ尊が降りてきたハシゴだという『丹後風土記』逸文の伝説にあるように、天界の神が地上に降りてくるハシゴでもあるし、人間が、シャーマンがであるが、彼がこのハシゴを使って天上世界や地下世界へ行き来きできる山である。
「天梯立」(「丹後の伝説2」)
このハシゴは太古は柱であったり樹であったようである。世界樹・宇宙木と呼ぶ巨木がこの山の頂上に生えていて、この樹を登れば天上世界(日の国・神々の国)へ、根の方へ降りれば地下世界(根の国・黄泉国)へと行けたのである。天上界の神々と地下界の祖霊が集う山であったのだ。
「ジャックと豆の木」のあの豆の木が世界樹であろう。ジャックという子供が登ってゆくのだが、本来は子供ではなくて神様だけが、そして神の使いであるシャーマンだけが登れるのである。節分の豆とジャックの豆は関係があるのだろうかこの民話と日本でおなじみの節分の豆まきは何ほどかのつながりがあるのであろう。悪魔払いに世界樹の実を使用している。西暦採用で何かわからなくなってしまったが、節分あたりが本来の日本の正月であろうと思う。世界樹の実で世の悪魔をはらって新年を迎えるのであろうか。

地球の裏側の豆の木の童話は、丹後の羽衣伝説にも似ているので較べられるといいだろう。
「丹後の伝説」の「羽衣伝説」

 シャーマンというのはツングース語らしいが何と説明すればいいのか、中国では巫覡ふげきふげきふげきなどとも呼ばれるが、日本語には適当な語が見当たらない。中国語の沙門がそれでないかとも言われるが、日本では薩満教などとも書く。呪い師・拝み屋さん・呪医、お医者さんや宗教家や政治家やマジシャンや天皇さんやらの遠い昔のご祖先のようなものである。

「ドラ・クエ」とかいう子供ならずとも夢中になるというおもしろいテレビゲームがある、このゲームでは「世界樹の葉」というアイテムを使うと死者がよみがえる、殺された仲間が一発でよみがえる頼もしいアイテムである。かように世界樹は尽きぬ生命の樹でもあり、無限の豊穣の樹でもあった。かつてはそのような伝説が倉椅山には伝えられていたと考えられるが、そうした伝説のバリエーションの一部のごく一部であろう伊奘諾尊の梯立下りの話(丹後風土記逸文)しか現在には伝わらない。
 天孫降臨にもやはり世界樹の思想があったものと思われる。天照の孫の邇邇芸ににぎににぎににぎ命が降りてくるわけだが、彼はその名の通りに豊穣神である。高木神という神が登場しているが、何ともどの書にも解説がないのであるが、これが世界樹を神格にしたものであろう、彼がいなかったら降りてはこれまい。邇邇芸の祖父でもある。そして久士布流多気に降りてくる。このクシフル岳が宇宙山である。
笠沙かささかささかささ の御前みさきみさきみさきで大山津見おおやまつみおおやまつみおおやまつみ神の娘・木花佐久夜毘売このはなさくやひめこのはなさくやひめこのはなさくやひめと遇う、彼女を記は弟木と書いているが、姉に石長比売いわながひめいわながひめいわながひめ石長比売がいたのだが、ブスなので邇邇芸はイランと言って父の元へ返してしまった。ところが姉は名の通りに石のように長い命を与えるものであった。以後皇孫は花のように短い命になったと伝える。
大山津見神は宇宙山の神、木花佐久夜毘売も石長比売も世界樹であろう。人の生命を支配する神々であった。ついでに書いておけば、海部氏の祖・火明命は、この邇邇芸命と木花佐久夜毘売の間の子である。
 記紀の国生み神話の天柱・天御柱(アメノミハシラと読む)もそうだろう。この柱の廻りを廻って伊奘諾尊・伊奘冉尊は国を生む。天照大神を「天柱を以ちて、天上に挙げまつりたまふ」とも紀き記す。
 播磨風土記の印南郡、益気の里の斗形山にも、石の橋があり、上古の時代、天に至り、八十人がみんな上り下りに往来したと伝える。「升田山」 「平荘潟」

 倉橋サンはどうなのかは知らないが、高橋サンは神官に多いようである。森や行永にもその旧家が多いが、あるいは太古の祖先は倉椅山のシャーマンだったのだろうか。
さて、仁徳記の女鳥王と速総別王の反逆記事に
  梯立ての倉椅山を嶮しみと岩かきかねて我が手取らすも
  梯立ての倉椅山は嶮しけど妹と登れば嶮しくもあらず
という有名な歌があって、この連想から、倉椅山とは険しい山のことと考えられる事が多いようだが、先に述べたように宇宙山ととらえた方がいいと思われる。この山で行われたであろう歌垣のかけうたではないかともいう。倉梯山は当然にも歌垣山でもあったと思われる。
それにしても何故に女鳥王と速総別王は倉椅山へ逃れたのだろうか。それはその名が語ってくれる。メトリとハヤブサ、いずれも鳥である。記が述べるような仁徳の弟とか妹ではなく、その名が象徴するように飛翔能力を持つ天上界の人間であった。二人はこの宇宙山のシャーマンであった、この地の信仰や政治の中心人物であり、仁徳には邪魔であったのだろうかと思われる。尤も仁徳も本名は大雀命(大鷦鷯尊)であり、彼自身もまたどこかの宇宙山のシャーマンだったのかも知れない。弥生の伝統を引いて、東アジアのシャーマンにように天狗と同じように嘴をもった鳥装していると想像された人物であろう。
同じ仁徳記のこの記事のすぐ後に、その世界樹と思われる話がある。
「枯野という船」(「丹後の伝説14」)
 大阪府高石市の富木とのきとのきとのきあたりに高い樹があって、その影は朝日が当たれば淡路島まで、夕日が当たれば河内・大和の国境の大阪府八尾市の高安山までとどいた。この樹で枯野からのからのからのという船をつくったところ大変に速い船になった。この船を用いて朝夕に淡路島の清水を汲んで天皇さんの水に使った。この船が壊れたので、船材で塩を焼き、残った材料で琴を作ったところ、たいへんいい琴になった。これと似た話は『播磨風土記』にもあり、速鳥という船である。
景行紀には、朝日に照らされると杵島山を隠し、夕日に阿蘇山を隠す樹の話がある。同じような話が『筑後風土記』逸文にある。『肥前風土記』にもある。
昔話の「花咲じいさん」に出てくる樹がたぶん世界樹だろうと思われる。この樹で臼を作ったら大判小判がザクザクと出てきた、この樹を焼いた灰をまくと枯木に花が咲いたのであった。桜
「花咲じいさん」 「アイルランド民話・ジャックと豆の木」 「花さかじいさん」 「花咲爺」

さてこの樹は何と呼ばれたのであろうか。「世界樹・宇宙木」と呼ぶのは古代宗教学etcの学問用語で、当時こんな名で呼ばれたわけではない。皆さんは何と名付けられるだろうか。私ならたぶん「大きな木」だな。何でも知っているつもりの現代人様が名前も知らないこの大きな世界樹、本当はいったい何と当時は呼んだのだろうか。
私はこれをカラ木と呼んだのでないかと考えているのである。カラキ、あるいはカサマツと呼んだのではなかろうか。このように考えるとすべての謎がきれいに解けるのだが、いかがであろうか。傘松について柳田が『祭場の標示』に書いている

 〈 野中にただ一本の高い木が聳え、又は其形の特に他のものとちがって居る木ならば、人は直覚にでも是が神様の木だといふことを感じ得たであらう。たとへぱ杖銀杏・逆さ杉のやうな木は常には見ない。普通は上を向くべき枝が皆下へ垂れて居るのは、杖を刺したのが成長したのだからといふ様な想像も起り易いが、そんなことを言ひ出さぬ場合にも、傘松などの枝のさきが地に向ふるのは、天からこの土地へ降りたまふ神々の、梯子として便利なやうにも考へ たのであらう。  〉 
『しだれ桜の問題』に、

 〈 何にもせよ墓所や寺の庭にしだれ桜のあること、山で天狗の木といふのがしだれ桜であったことと、仮にこの二つの現象はもつと遠方の地に離れてあってる、尚根原に何等かの共通するものがあることを、想像させずには置かぬやうに思ふ。…笠松又は傘松の名は有っても無くても、山野に孤存する多くの神様松は笠形であった。さうして星降りの松とか影向の松とか、現実に神霊の此木を梯として空より降ったことを、伝へ説く例も多かったのである。  〉 

 世界樹そのものとその山は何と呼ばれたのであろうか。風土記はこの樹がクスノキだと書いている、それならクス山、クシ山、クシフル山であろうか。ハシ山、ハセ山もそうであろうか。長谷山に葬られたという大倉木命の大倉木もこの世界樹のことかも知れない。天木・大木・青木・高木・トノ木・クラ木・橋木これくらいがすぐ思いつくがどうだろう、天山・梯立山、高橋山、倉梯山、高倉神社のシハスクリというのもそうかも知れない。世界樹は大杉だという伝説もある。舞鶴倉梯山の北端の長谷山の麓には大杉稲荷社(左写真)がある。大杉稲荷社(舞鶴市浜)
倉梯地区にはこの大樹伝説の残りなのでないのかと思える伝説があちこちに伝えられている。
「梯木林」(舞鶴市多門院材木)

宮津の倉梯山の地元の岩滝町にある伝説を引いておく。
「蛇谷の大杉」(「丹後の伝説14」)。
大宮町明田は西に大内峠を越えたところであるが、ここにも大杉の伝説があるという。引いておいたので参照して下さい。明田は古くは与謝郡に属したらしいが、ここには弥生後期の「岩立橋」遺跡があり、「心木神社」がある。世界の中心の木を祀る社なのであろうか。心木神社(大宮町明田)
 無限の豊穣の樹であって、宝舟にも宝臼にもなるし、琴を作ればいい音がするし、灰にして蒔けば花が咲く、ありがたい樹であった。枝葉で天上世界を支え根で根の国を支える樹であった。これが倉橋山にあったのであろう。
赤レンガ博物館(舞鶴市浜)に、後漢時代の「不死樹と羽人」を描いたのセン(土偏に専。煉瓦のこと)が展示されていた(左写真)、河南省の古墳の墓室から出土したものらしいという。偶然か間違いがそれとも意図して手に入れた物かは知らないが、何も書かれていない煉瓦はガラクタだが、これはすごい宝物を手に入れたものと思う。これで枯木浦の意味が解けそうである。
 崑崙山に不死樹があるという、羽人は上が人、下が鳥の姿をした仙人であるという。矢尻のように見えるのが不死樹であろう、不死鳥なら知っているが、こんな樹があったとはついぞ知らなかった。羽人はその上下にあるものがそれなのだろうが私にはよくわからない。不死樹と羽人のセン(赤レンガ博物館)
 タリム盆地の南嶺が崑崙(こんろん)山脈であるが、現実世界のこの山脈ではなく、いつから伝わるのかわからないような古くからの伝説の山である。西王母が住むという。崑崙山が宇宙山、不死樹が世界樹、羽人はシャーマンの祖であろうか。崑崙にあるという不死樹、崑崙樹が枯木と転訛したのでなかろうか。崑崙山脈の西はカラコルム山脈、アフガンのすぐ近くだが、これも崑崙の転訛ではなかろうか。龍燈杉(大江町皇大神社(元伊勢内宮))
枯木はあるいは記紀の軽野船の話から考えると軽木か刈木の転訛かも知れない。もしそうならば銅の木と意味になる。しかしこの説明には自信がない。

龍燈松というのがあった、橋立の南の松並木の中の一本をそう呼んでいたそうである。六斎日にこの松に龍が燈籠を点けたそうである。近くには龍宮へ通じるといわれる龍穴もあった。
大江町内宮にもある(左写真の白っぽく見える枯れた杉を「竜灯の杉」と呼んでいて、同じような言い伝えがある。樹齢600年以上といわれ大江町一の巨木であるそうである)。
 これらも古くは世界樹伝説の一つであろうかと思う、根の国(冥界)からの祖霊が通る樹であったということになろう。

舞鶴市城屋の揚松明や赤野の柱松もやはり世界樹であろうか。高い世界樹の先端に盆燈籠を点けて、祖霊がここを通って、各自の己が家に戻るのを迎えるための行事なのかも知れない。この行事は8月14日とか15日に行われる所が多い。揚松明の先端(舞鶴市城屋)下の写真参照

 左写真は坂根正喜氏のもの。城屋の揚松明神事を写している。16メートルの柱の先端に取り付けられる。重機を使って立てて3本のロープで固定する。柱に繩、あの世とこの世をつなぐものである。
 ここでは8月14日夜の9時過ぎくらいから、下から火を点けた小松明を投げ上げて、この部分を点火する。ここの水分神との関係からか雨乞い行事だとも云われ、古来納得できそうな説明もなく、お盆の真ん中の日の行事にもかかわらず祖霊信仰の盆の行事とは地元ではまったく意識されてはいないようだが、そうではなく、起源はずっと古く世界樹の思想に基づいているものであろう、今の形は盆の精霊迎えの行事ではなかろうかと私は考えている。松明を立てる(祭日から想定しているわけだが、別に私だけがそう考えているわけではなく各地の同種の行事で、そのように意義付けしている所は多い。「柱松の柴燈」(淡路) 「北信濃の柱松」 「周防柱松」など参照)
 これが盆の高燈籠であり、祖霊は根の国(地下の冥界からか天国からか)からこの柱を伝ってこの世に戻ってくる、その目印になるよう点火するお盆の行事であろう。
雨引神社のすぐ社前を流れる高野川は先の23号台風で川岸を2箇所ばかりえぐっていた、一時交通止めになった。こうした川原的な場所で神事が行われる。こうした場所は網野氏風に言えば無縁地、この世ではあるが、あの世にかも知れないような、その境目と意識される場所である。あの世にもっとも近いこの世である。この世とは意識されない、この世ではないこの世で、あの世の人々がこの世にあらわれてくるにはもっともふさわしい場所である。
橋の袂の川辺の柳の木の下に幽霊が出るように、本来の幽霊は決してどこでもでるわけではなくて、場所を選んで出ているのであるようだが、こうした川原に精霊迎えの揚松明が焚かれたのであろうか。テレビから幽霊は出てくるのかと幼稚園にかよう子に尋ねられたが、それは悪いテレビの見過ぎだろう。そんな所には幽霊は出ない。
  そうした起源的な意味づけは現代人ならずともよく忘れてしまうが、もう一度思い起こして、どうかこの柱から各自の家々に続く道を掃き清めて亡くなったオジイちゃんオバアちゃんはじめ祖先の霊を迎えて頂きたいと願う。
 写真は城南会館(舞鶴市女布)に展示されていた。その説明に、「近々450年を迎える伝統行事の揚松明は、豊作を願う雨乞いと大蛇伝説を後世に引き継いでいこうという、城屋区民の思いに支えられている」とあった。
 450年とはかなりいいかげんなものであろう。もう一桁や二桁増やしてもいいだろう。各国各宗派の寺院の尖塔やイラクあたりのジッグラドなども、元はみなこの世界樹である。人類みな兄弟の感がある。これらが現在の世界樹である。魔法使いや仙人の持つ杖、僧侶の持つ錫杖なども世界樹である。彼らもまた遠い過去はシャーマンであったのであろうか。祇園祭の山と鉾もそうであろうか、ビル8階にもなるという高いホコは真柱とか真木と呼ばれている。小一の子は竹の短い棒を拾ってきて、何やら呪文を唱えていた。張りボテの見過ぎかも知れない。
 揚松明はそれら以上の古い起源を持つと考えていいだろう。揚松明よりも「上げ燈籠」と呼べば起源に近い呼び名となるだろうか。先端の燃えるところは稲ワラでなく大麻である、仏教以前の起源はまちがいないだろう、人類が最初に栽培したと言われる麻、あるいは初期農耕時代・稲作以前にさかのぼるものかも知れない。同種の行事は揚松明とか柱松、あるいは松上げとか呼ばれるのであるが、このマツは松の木というよりも火を意味した古語のようである。柳田国男はマツは火のことのようだ、と書いている(「妹の力」「火の昔」)。戦時中は松の根っこから松根油というものを取った、オクタン価が高く航空燃料として使ったそうである。若き特攻隊の兵士達は松根油を片道分だけ入れて貰い250キロ爆弾を抱いて飛び立った、そして二度と戻ることはなかった。ほんの60年ほど昔の事である。二度とあってはならない歴史である。今はイラクで若者がこれをやる。本当にテロかどうかはずいぶんと怪しい話である。檜は火の木で松の木も火の木だったのであろうか。
「アルバム・揚松明神事」
「丹後の伝説12」 「心のふるさと丹後」


大麻とシャーマニズムとの関係となると、古くはヘロドトスの時代までさかのぼるが、鉄を生んだスキタイ人が使っていたと彼は書く、もう少し下るとイラン人たちが使っていたという。トランスへ入るために大麻を燃やしその煙を吸い込み麻薬として使用したものである。あるいはその流れのなかにあるのかもわからないし関係ないかもわからない。
 大麻と言ったってここは茎のところだけを燃やしているので麻薬効果は期待できないと思われる。「大麻取締法」が出来たのは昭和23年であり、古来より大麻は麻薬でも覚醒剤でも何でもなく、この祭り用としておおぴらに栽培されてきたものである、その大麻はどんな種類でどんな経路でこの地に入ったのか興味があるが、私などがこんな事を書くと何か怪しまれるかも知れない。専門家の研究分析を待ちたい。「エアーグリーンの大麻製品」盆の迎火(我が家の場合)
 盆の迎火・送火に皆さんの所では何を燃やされるのであろうか。私は今以てそんな事をしたことがないのであるが、私の母は麻殻(苧殻)おがらおがらおがらというものを買ってきて燃やしている。玄関先に小川があり、そこで燃やしている、そこがもう霊界との接点のようである。スーパーで5本で百円くらいなものである。これは揚松明に使われる大麻とそっくりであり、大麻の皮を剥いで乾燥させた白い色の木のようなよく燃えそうなもので、同じ物でないかと思われる。麻殻は一般にはたぶん盆の火以外には使わないと思うのであるが、いつから何故に麻殻でないといけないのか。揚松明の大麻はこの系統をひくものかも知れない。
揚松明に使われる木の柱はこの広っぱの隅っこに不断は転がしてある。柱松と呼ぶ所も多いから、本来は松の木なのかも知れないしあるいは柱まつりで柱そのものをまつる行事であったかも知れないし柱火で柱そのものを燃やしたのかも知れない。この柱をトロ木と呼ぶ所もあり、トロは燈籠で、まさに上げ燈籠であったのかも知れない。
裏山の千石山だろうか、この山の聖なる樹を選び、その世界樹を伐って、本来はこの山の頂上で行われたものと想像するのであるが、その世界樹で作られた柱は「聖なる柱」とは意識されてない様子だが、こうした現世と天界・冥界を結ぶ柱はそれ自体が神であり、祖霊であったことは、神様や霊魂、遺骨や高貴なお方などを何柱と数えることで現在にも伝わっている。柱に繩、火や大麻ははるか太古の世界樹の思想やシャーマニズムとつながりがあると思われる。畑井氏によれば、柱も神も朝鮮語ではツルギというそうである。
「大蛇退治伝説」とも関係はあると思われる、「丹後の伝説」に引いておいたので参照して下さい。遠い過去から伝わる古い伝説体系を、その当時の常識に合うように再解釈・再構築・再合理化した第n次再編の伝説が伝わっている、このnはどれくらいの数字になるのか私には桁数の見当すらもつかないが、舞鶴には城屋と似たような伝説を持つ地は三箇所ばかりあると言う。舞鶴だけではなく、全世界から似た伝説を集めて、相互に比較して古いものへ古いものへとさかのぼると本来の伝説の意味が見えてくる。見えてくるはずである。私はできないからどなたか興味のある方がおられましたらやってみて下さい。
 このヘビや、その場所をたまたま通りかかった宗坡の娘は本来は神様であり、宇宙山・世界樹が動物の形をとったものであろう、世界樹に人間を生贄に捧げる時代もあったのであろうか、冥界から戻るのは祖霊ではなく、本来は穀霊であった過去があったかも知れない(それならこの祭は豊穣祈願祭となる)。実際に神の化身であるヘビか人間を殺してバラバラにし各地でその断片を食して豊穣神として祀った時代があったのであろうか、神が殺されてまたよみがえる、そんな太古の『金枝篇』の祭、そこまで行かなくてもイヨマンテの篝火になかに引き込まれていきそうな伝説である。あるいは太古は夏至の大篝火で、この日を堺に衰えゆく太陽に生気を吹き込むための行事であったかも知れない。我々のご先祖さまたちが寒くてよく日が照らない土地にいた時代の祭かも知れない。
(最近テレビを見ていたら、「バレンシアの火祭」あるいは「サン・ホセの火祭」と呼ばれるイベントが写っていた、どこの国なのか途中から見ていたのでわからないが、ラテン系のヨーロッパの国であろう、この祭のために一年かけてつくった巨大な人形を何体もえり抜きの美女、まだ中学生かそこらに見えたが、何人か女王様として撰ばれて彼女たちが火をつけて燃やしてしまうのである。これは『金枝篇』の世界だと思ってしまったのであるが、本当は人形でなく人間が燃やされたのであろう。その女王様が燃やされたのであろう。)

「写真に写されたりすると魂が抜かれるから御免だ」とか肉体から精神が分離しても生きていけると考えたりするのは、古代シャーマニズムの残滓であるそうである。どこかの国の将軍さま教、何とかいう新宗教の教祖さま、神が人の姿をして現れていると考える天皇教というのか、だいたいが天皇制というものがシャーマニズム抜きにはありえない。こんな国だからあちこちにこうした小天皇さまというか小カリスマさま小シャーマンさまがいて、どうも頼りなげな彼を信じ切って生きている日本の現代社会、何か立派な科学的現代人のつもりでいるが、実はたいして古代人から進化してはいないように思われたりする日が多いのだが皆様はいかがであろうか。個人が何を信じようがかまわないが、それで政治を動かされると困ることになろう。
花咲じいさんの昔話にポチが裏の畠でなくので、そこっを掘ってみると大判小判がザクザクだったという話がある。これは鉄の民の話であろうかと思われる。シャーマンとカジヤは同じ巣から生まれるともいわれる。尚、高橋という地名は丹後にはもうひとつあるべき所にある。その地いろいろと気になる地名があるが、そこに記述が進んだときにまた取り上げます。

各宗派の尖塔
寺院の尖塔だけでなく、クリスマスツリーや門松なども世界樹だと思う、キリストさんとは本来関係はない、キリストさんが生まれる10倍も古い古い民間信仰であろう。どちらもその祭日が気になるのだが本来は冬至祭であり、太陽が死んでまたよみがえる、世界が新たに生まれ代わる日である、世界システムがというのか秩序が再起動されて更新される日である。確か仏教徒であったと思ったのだが家々には美しいイルミネーションが飾られ、クリスマスケーキが売れて、この国はどんな国なのか見当もつかない混乱状態であるが、イエスの誕生日は本当はというか、歴史史料的には不明だそうである、今のような日になったのは4世紀にローマ法皇が決めたことだそうである。
神を殺して、さらにそれを食べなければ生きてはゆけない人間の悲しい宿命。しかしキリがないので、ここらで取りあえず終えよう。もし興味ある方はさらに研究してみて下さい。
 こんな事を書いていたら、舞鶴あたりでは婚礼の日に集まった近所の者たちに「嫁さん煎餅」という物がふるまわれることが多い。それを一枚貰ったのである。その煎餅には角隠しを結ったお嫁さんの横顔が描かれていた。こうなると嫁さんと煎餅は等価で、煎餅を喰うことは即ち嫁さんを喰うことになる。嫁さんというのか盛装した若い娘を喰った遠い過去の時代の名残ではないかと煎餅を食しながら考えたのであるが、如何であろう。
遠い過去までさかのぼらなくとも、ほんの少し前までは神の化身としての生きた人間を殺してバラバラにして食したという記録が全世界にあるそうである。今ある人類は皆そんな時代をくぐってきたのである、最初から今のように生活していたわけではない。日本人の祖先だけはそんなことはなかったというはずはない。「蛮人ども」がそうしたらしいが、現代人が彼らを蛮人と呼べるほどに成長しているかどうか厳しく点検してみようではないか。どちらが文字通りの蛮人で、どちらがろくでもない信仰の虜であるかわからなくなってくることであろう。蛮人などと何か現代人様からは理解の出来ない劣った種族のように考えてはなるまい、彼らは現代人の歩んできた遠い過去の生ける化石である。彼らは我らがとうの昔に忘れてしまった我らの遠い過去の姿なのであろう。
またついでに書いておけば、ヨーロッパのアーリア種族では、この世界樹はオークの木なのであろう。特にそこに生えた金枝(宿り木)にその世界霊が宿ると考えられたのではなかろうか。『金枝篇』は次のような導入部からはじまる。(吉川信訳・ちくま学芸文庫・原典の初版は1890)

 〈  古代、この森の風景は、繰り返される不思議な悲劇の現場であった。湖の北岸、現在のネミの村が位置する切り立った崖の真下に、ディアナ・ネモレンシスすなわち森のディアナの、聖なる木立と聖所があった。この湖と木立は、ときにアリキアの湖と木立と呼ばれた。だがアリキアの町(現在のラ・リッキア)〔現在の名はアリッチャ Ariccia〕は三マイル離れたアルバノの山の麓にあり、山腹の小さな噴火口のような窪みに横たわる湖からは、険しい勾配によって隔てられていた。この聖なる木立にはある種の木が生えており、その木の周りでは、昼日中、そしておそらくは夜中まで、奇妙な姿がうろついているのが日にされたことだろう。この男は抜き身の剣を手にし、いつ何時敵に襲われるかもしれないといった様子で、用心深くあたりを見回していた。彼は祭司であり殺人者であった。そして彼が探している男は、遅かれ早かれ彼を殺し、彼の代わりに祭司職に就くことだろう。これがこの聖所の捉であった。祭司職を志願する者は、現在の祭司を殺すことによってのみ、その職に就くことができる。そして殺してしまえば彼は、より強く校滑な男に彼自身が殺されるときまで、その職に就いていることができる。

 ネミの聖所の中には、枝を折ってはならないある種の木が生えていた。逃亡奴隷だけが、もし可能ならば、一本の枝を折ることが許されていた。この試みに成功すれば、祭司と決闘する権利が与えられ、もし彼が祭司を殺せば、代わりに彼が森の王(レクス・ネモレンシス)の称号を、得支配権を握った。伝説の主張するところによれば、この運命の枝は、アエネアスが黄泉の国への危険な旅に乗り出す前に、巫女の命により折り取った、黄金の枝であった。

 答えなければならない問いは二つある。第一に、なぜ祭司は前任者を殺さなければならないのか? そして第二に、なぜ殺す前に、「黄金の枝」を折り取らなければならないのか?  〉 

 イタリアに伝わる古い伝説である。この殺される王は、たぶん世界樹の化身としての資格であろう。

 〈 「森の王」はかって、われわれがすでに見てきたように、アリキアの木立で毎年行われた夏至の火祭りにおいて、生死にかかわらず焼かれたのだ、と仮定しさえすればよい。木立で焚かれた永遠の炎には、ロモヴのオークの木の下で焚かれた永遠の炎のように、おそらくは聖なるオーク材がくべられた。したがって、かつて「森の王」が終わりを迎えたのは、オークを燃やした大きな炎の中でのことであったろう。すでに指摘したとおり、後の時代になると、一年という彼の在職期間は延長され、あるいは縮められた。つまり、彼が自らの聖なる権利を、腕力で証明できる限りは生きていて良いという捉によって、延長されることもあれば短縮されることもあった。だがそれは、剣で倒されることにより、炎で焼かれることを免れた、というだけの話である。
 そうなると、遠い昔、イタリアの中心部、清らかなネミの湖の傍らでは、毎年同じ炎による悲劇が繰り返されていた、ということになりそうである。それは後にイタリアの商人や兵士たちが、彼らの野蛮な同類、ガリアのケルト人たちの間に目撃したものと同じであり、また、もしローマの鷹たちがノルウェーを急襲していたならば、北方の残忍なアーリヤ人たちの間に、ほとんど同じ形で繰り返されているのが目にできたはずの所業である。
その儀式はおそらく、未開のアーリヤ人たちによるオーク崇拝においては、もっとも重要なものであったろう。  〉 
 この辺りは、後に「国歌・君が代」を分析するのに役立ちそうなので、記憶に残しておいて下さい。
尚、一般には、というか、民俗学の諸学者先生の間では、揚松明的な行事は京都の愛宕信仰の伝播によるとされている。いくら読んでも納得できるような説明ではなく、そのような説は私としてはまったく信用する気にはなれない。夢も何もない、泣きたくなるような惨めなお話である。江戸期ぐらいに愛宕信仰と習合した土地もあったではあろうが、本来は火伏の行事といったようなものではないと思われる。マンドロの製作(舞鶴市吉原)同じ舞鶴の吉原のマンドロ(万燈籠。8月16日。オオガセ・大火勢とよぶ地方も多いようである。右写真)は愛宕山の愛宕神社の火で点火するそうなので、これならまだそうしたことがいえるかも知れないが、城屋にも揚松明の行われる広場のすぐ裏山に愛宕神社はあるが、そこから火を採るというような事は聞かない。
 吉原のマンドロは左の写真では少し形が見えにくいかもしれないが魚形をしていると説明されている。楕円形をしていてその外側に14個の松明が灯される。右の模型を見てもらいたい万燈籠(吉原のもの)・エルマール内
。これは何をかたちどっているのだろう。古代人に返ってよく見てみればいいだろう。これは太陽ではないのか。

 アタゴというのはもともとは丹波の山で、別の側とか異なる側という意味であり、この世とは異界・別界、要するにあの世の山であり、神々と祖霊の集う山であったと思われる。まさに愛宕山自体が宇宙山だったと思われる。この山の山城側麓は化野あだしのあだしのあだしの(右京区嵯峨。仇野・徒野などとも書く)とよぶ古来より有名な葬送の地であった、死者はここへ運んで来て捨てた風葬の地のである。このアダシも同じ意味である。
地名から見る限りは本来は火伏などといったものであるはずもない土地柄である。愛宕神社の火には火伏だけではない、こうしたアタゴの葬地の歴史がある程度は無意識のうちにも反映されていると私は想像している。火伏の火こそこうした古い火からの分化・分流ではなかろうか。都が大きくなって都市問題として火災が出てきた、火伏はそうした大都市が形成されてからの話ではなかろうか。
別にここから伝播しなくても同じ山と同じ信仰を持つ土地がたくさんあった。京都人は京都が世界の中心、日本文化の中心と考えているのではなかろうかと思ってしまうような発想をすることがあるように、私はときたま感じているのであるが、そんなことはない。京都京都といってもたかだか1000年そこそこの歴史しかない。たったの1000年では世界の中心ではない。250年で世界の中心と思っている愚か者よりはちとましかも知れない程度の話に過ぎない。
その土地でそれぞれに同じような行事が、京都とは各個独立して行われていただろう。その地に古来より伝わる行事が後に一体何のための行事だったのか村の衆にもわからなくなり、再意義付けや再権威づけのために愛宕山の火伏をひっつけたものではなかろうか。

 私の向日市に住む従兄弟はこの愛宕山に千回も登ったといって記念の写真を見せてくれたことがある。私は一度も登ったことがない。
「愛宕山」 「愛宕山」 「化野念仏寺」 「化野念仏寺」 「化野念仏寺」
『丹波の話』(礒貝勇・昭和31)は、次のようにしている。 

 〈 今は全く客寄せの観光行事化しているが、京都の大文字も、それを真似た福知山の大文字もともに盆の行事につながる火焚き行事であることに間違いない。中部日本の各地には、山頂などで村共同で火を焚く例は多い。
 舞鶴地方で昔から行われたマンドロ(万燈籠)は、十六日夜、大きな竹の竿の上端に、ゴヘイ、左右に六本ずつ竹のタイマツをつけて、これを立てるのである。土地の人はくちげが沢山出ぬようにとか、海の獲物がよくとれるょうにとか説明しているが、これもあきちかに盆の火焚き行事の一つである。
 ぼくの郷里の広島では、盆には川砂をとってきて、これで家の戸口に山など作り、火のついた線香を無数にたてたものである。これなども盆の火焚きの一種であった。この線香山の情景は盆の行事の思い出として、ぼくには忘れられないものである。  〉 
この柱は本来は生の樹木で、大木であったろうと思われる。この大木の下の蘇塗そとそとそとと呼ばれる聖域について中国人は次のような有名な記事を残している。『後漢書』韓伝に、(訳と注は東洋文庫本による)

 〈 諸国の都では、それぞれ一人の人に、天神を祭らせている。〔この人を〕天君と名付けている。また、蘇塗(そと)を作っている。〔そこには〕大木をたてて、〔その木に〕鈴や鼓をかけている。〔ここにいる人たちは蘇塗の〕鬼神に仕えている。

  注・天君=原始社会には、広く神に仕える呪術者がおり、その呪術老が、神の意志を伝えるものとして、その社会で最も高い地位を与えられていることが多い。天皇制の起源をこの天君制に求めることもできるであろう。
  注・蘇塗=蘇塗については『三国志』に詳しく記述され、アジール(聖域)といわれるもので、日本では駆け込み寺として残った。これとは別に、蘇塗を竿木(卜ーテム・ポール)とみる説がある。  〉 
さてその『三国志』「魏志」韓伝には、

 〈 〔人々は〕鬼神を信仰していて、各国の都にはそれぞれ一人を立てて天神を祭らせている。この〔人物〕を名づけて天君といっている。また諸国には、それぞれ特別な地域があり、蘇塗(そと)とよばれている。〔そこでは〕大木を立てて、その木に鈴や鼓をかけて、鬼神に仕えている。さまざまな逃亡者がその地域に逃げ込めば、〔逃亡者を〕けっして外部に追い出したりはしない。〔このような風習があるので、この地方の人々は〕しばしば〔秩序に反し〕害になることを行なう。〔馬韓で〕蘇塗を作る意味は、仏教に似たところがあるが、行なっていることの善悪は異なるところがある。  〉 
この木が世界を産み出している世界樹であろう。そこは神聖な聖域と考えられていて、俗権力は近づけない。どういう事情で逃亡したかは別としてこの聖域にある者は過去の者ではなく新しく再生した新たな者なのであろうか。


大風呂南遺跡(岩滝町)


ブルーのガラス製釧が出土して、全国にその名を知られた、岩滝町岩滝の大風呂南弥生墳丘墓(弥生後期)はこの枯木浦を見下ろす位置に築かれている。加悦谷最古の王墓がここに築かれていた。大風呂南遺跡(岩滝町岩滝)岩滝のあたりからならどこからでも見えるが、山の中腹たいして高いところでもないところに携帯電話の中継アンテナが2基並んで立っている。その下の方の鉄塔の下が全国に衝撃を与えた大風呂南遺跡である。痩せた尾根上だから、廻りの竹林がなければ、よく枯木浦が見えると思われる。現地の案内板(クリックして下さい)
「大風呂南墳墓群 鉄の文化」 「丹後王権の経済力」 「大風呂南墳丘墓」

どこかで書いたと思うが岩滝町弓木ゆみきゆみきゆみきの木積神社や三輪神社もここに鎮座している。
与謝郡物部郷に属したと思われ、すぐ東に山田郷、そして多田神社(タタラか)、式内社物部神社、穴石神社(野田川町四辻・穴師だろうか)などもあり、銅鐸も出土している。鬼の住む大江山を水源として北流して橋立内海に注ぐ倉椅川、この鉄の川の流域は与謝郡というか古代丹後の心臓部であり、また最古の時代から現時点のものまで金属文化の中心でもあったと思われる。天下の奇勝・天橋立があるのもこの川が大江山の砂や小石を多量に流してくれたおかけである。倉橋山は古墳も多い。『丹後の宮津』(橋立観光協会・昭33)は、

 〈 …このように一地域に古墳を多くみられるところは、わが宮津市には他にないのではなかろうか。この点、市民として大いに注意すべきであり、由良の石浦附近とともに、今後さらに調査研究されねばならない。.
いずれにしても、この土地の古さを物語り、とくに前記の倉梯山周辺にちらばる古墳地域は、宮津市内におけるもっとも重要な対象として、観光客や研究者にも便利なように施設する必要があるのではなかろうか。  〉 
須津の江西寺(臨済宗)は元は天台宗だという。「江西寺と枯木浦」



大江町枯木川

阿良須神社(大江町北有路高畑。祭神は残欠に蟻道彦大食持命。現在は木花佐久夜毘売)の由良川を挟んでの対岸になる、昔は舟で渡ったそうであるが、現在は大雲橋という由良川に架橋される大江町随一の立派な橋がある。枯木川(大江町南有路)枯木峠(綾部市と大江町)
 大江町南有路の枯木川、蛍の名所だそうで、この川に沿って綾部市へ越す峠がある。丹後・丹波を結ぶ峠で、これを枯木からきからきからき峠と呼ぶ。峠の頂上に枯木延命地蔵が祀られている。『大江町誌』は、.

 〈 総工費2854円。…この工事は、明治二十五年.二十六年の二年がかりて、幅二間(三・六メートル)の道一、六八七間(約三、○六七メートル) を開削したものである。峠の頂上では一丈九尺(約六メートル) を切り下げ、北有路側は由良川船着場から宮津街道取付まで整備され、あとは架橋を待つのみとなった。
 (注) 旧道の枯木道は枯木川に沿って谷底を奥にはいり、最後に急坂の峠を西坂に越すものであった。急坂はとても荷車の越せる道ではなかった。  〉 
「枯木延命地蔵尊」
 絶えず洪水に脅かされる所で、この写真の場所もすぐにつかるが、近くから縄文・弥生の遺跡も出土している。
 すぐに水につかる所ではあるが、このあたり一帯には、古代の条里制の地割が残るそうである。枯木川の南有路は見つかってないようである、阿良須神社の南側の水田に見られるという。
「由良川考古学散歩」(河守地区の水田をよく見てください。東西・南北の方向に畦や水路が走っていることに気づくでしょう。特に大きな道路や用水路をなぞると、一町(約109m)四方の碁盤目のような土地区画が浮かび上がってきまず。条理地割です。大江町誌のなかで芦田忠司さんは、明治初年の地籍図や現地調査などをもとに河守地区で面積27町分の条理地割を復原しています。大江町内では金屋・波美、阿良須、二箇でも条理地割がみられます。由良川流域では綾部・福知山で部分的に残っているだけで、とても重要な景観です。とある。)

小字地名などから条里制を復元してみようという研究はみたことがあるが、古い地図から復元したようである。この川上の福知山市天津には条里制地割と地名が残るのは昔から知られている、一町四方の区画をを坪と呼ぶが、八ケ坪、下十九、十五、十九といったような小字が現在も残っている、これらは千年の昔の地名である。こうして両者が揃うと確実であるが、一方だけではあるいは後世の区画かも知れないことになる。
大江町にはこのような明確な条里地名が残っていないようである。大江町だけでなく、丹後全体にない、地図だけから復元しても地名が残っていないと条里制の遺構とはなかなか皆には認めてもらえないかも知れない。古代条里制地名が一つでも残っていたら決まりだろう。しかしこんな大事業は国家権力によるものであろうとしか私には思えない、土地の豪族クラスには無理だと思う。集権国家と鉄と土木技術が揃わないとできないと思われる。
 河守の由良川に建設省が巨大な堤防を建設中である、その一番高い所から見回してみたが、これ位の高さではわからない、坂根正喜氏にヘリからついでに見てもらおうか。国土地理院が最近この辺りの空中写真を試験公開している。これはまた高すぎて100メートルくらいのものの区別がつきにくい。「空中写真」
 同じ枯木の地名のある岩滝町の男山あたりから日置にかけても条里制が見つかるという。では舞鶴の枯木はどうか。母校・青葉中学校(舞鶴市行永)の北に「桜が坪公園」があり、この辺りは一町間隔の正南北の街路が何本も並ぶ、私は中学生の頃から不思議に思っていたのだが、誰も指摘する者はなかった。地図だけから復元するなら、これは条里制の遺構である。ただここも決め手の地名がない。しかしたぶん間違いなく条里制の遺構であろうと私は考えている。何も都だけに坊条があったのではなく、地方の各地にもあったと思われる、そうでなければ口分田制度が敷けないから、地方には古代がなかったことになってしまう。この古代国家の力のすごさが偲ばれる。丹後国には典型的な条里地名がみられない。丹後国はすべて一ノ坪とか二ノ坪とかよばない別の呼び方をしていたかも知れない。
由良川に堤防を作っているが、一体どうする気なのだろうと頭をひねった。河守あたりなら不断の水位よりも20メートルばかりは高い堤防が絶対に必要である。洪水の水位17メートルといった藩政期の記録が残る以上はそれ以上はないと何百年に一度といったような大洪水には対処できないと思われる。大野ダム一つくらいでは江戸時代のから治水上の対策はさして進歩はなく、せいぜい1メートル水位を下げられる程度と考えられる。20メートルというとふだんの水位からは信じられないような高さになる、あんな所まで水が来るか、と皆が言うような所まで来る、本当にそこまでは来る。由良川本流に堤防を作るのは簡単であろう、両岸へ20メートルを越す堤防を作ればいい。耕地をつぶして巨額の借金をして作れば作れないことはないと思われる。
問題はそこへ流れ込む支流である、そしてまたその支流へ流れ込む、孫支流というか、小さな川、それへ流れ込むまたまた小さな川、最期は無数の網の目の幅1メートルにも満たないミゾに到まで20メートルの堤防が必要となるではなかろうか。小川でもあればいいが、不断は川でもない所が突然に川となる。ものすごい水量と勢いで流れる。そんな想定外の所が無数にある。ここにも当然に堤防を。由良の川口部(坂根正喜氏のもの)
本流よりもこうした川が溢れるし被害は大きい。村中を堤防だらけにして、さらに至る所にものすごい強力なポンプでも据え付けて本流へポンプアップして流せるようにして、あっちにもこっちにも堤防だらけ、ポンプだらけにすれば洪水はあるいは防げるかもわからない。がしかし、こんなことが実際に実現できるのであろうか。
いっそうのこと村全体を20メートル土盛りして高くしたらどうだろう。しかしそれでも洪水は防げない、洪水時の由良川の水量はどこかで溢れないことには納まりがつかない。大江町で溢れなければ、他の場所で溢れるだろう。
 上流の福知山の市街地などはこうして洪水を防いでいるのだが、この堤防を由良川流域全部に作ったなら、どうなるのであろうか。一番低い古い堤防が切れるだろうから、福知山あたりで切れることだろう。
 堤防を作ると付近住民に説明会が舞鶴の該当地でも行われたという。それで参加した住民達が頭をかしげざるを得ない、みんなで大笑いしたりするのは、川口の上の写真の状態であるという。両側から砂嘴が伸びてきて川口を封鎖している。これでは水が流れん、ケツが糞詰まり状態だのになんぼ堤防を作ってもあかのとちゃうか。ケツは詰まっとる、上流からはどんどんどんどん水が流れてくる、この辺で溢れて当たり前でないか、上はどうしようもないかも知れんが、ケツを開かんと解決せん、これは取るのかと聞くと、これはこのままらしい。管轄が違うのだそうである。全国20位の大河である。どちらも国の管理であろう。どう違うのか知らないがこれは取らない。由良川改修の歴史は中洲や川中島を取って流れをよくするという方向だったと思われるが、この部分をチイとはなんとかするのが効果的でないのかと素人としては考えるのである。

さて、「枯木」といった地名は古代の水銀採掘集団と何か関係があるだろうと、絶対にあると私は睨んでいるのであるが、しかしここでも途方に暮れる。
枯木川はあれど水銀らしきものがない。弱ったことである。しかしそんなはずはない。探せばあるに違いない。地名に教えられてここまで来たのだから、絶対にある、あるはずだ。かように私の本能は叫ぶ。「九日」のバス停(南有路)
 枯木川の上の写真の辺りにバス停がある(右写真)。「九日」。おお!おもしろい地名が見つかった。こんなことに一人感動しているのだが、九日は現在はココヌカと呼んでいるが、本来はクヒ、さらに本来はクシであろうか。バス停の後の姿いい山がクシフル山であろうか(今は十倉山と呼ぶ)。枯木川はこのバス停とその山の間を流れている。
九日バス停のすぐ近く、それを見下ろすちょっとした高台に来寿森くるすもりくるすもりくるすもり神社(南有路九日)がある。ちょっと高いのであるが、ここは洪水から安全であり、南有路の民家がみんなこの高台に集まっている。クルスモリ、クスモリ、クシモリ、クシフルであろうか。クシならカサだ。陸耳御笠の地、土蜘蛛の地だ。やはりここも水銀で当たっていたようだ。(もっともクルス森のクルスは隠れ切支丹のクルス(十字架)だという説もある。『大江町誌』もそんな説も取り上げている、京極家が切支丹ゆえにここに祀ったかというわけらしいが、.それはどうか知らないが、クルスという地名はあちこちにあるものでキリスト教とは無関係であろうし、ここは九日という地名とセットのものだろう。クレス・クレソ・クロス・クルソなどと江戸期の文献にはいろいろ記録されるがそれは古いということではなかろうか。切支丹は江戸期のものだろう、そんな近い時代の社であろうか。クルスマさんと呼ばれるというが、旧事記や町在旧記は十倉五社明神の御母神の由とする。)来寿森神社(南有路九日)
 枯木峠の頂上に枯木延命地蔵があるから、枯木とは崑崙木であり不死樹であるとする伝説があったのであろうか、私の想像を裏付けてくれそうな地蔵様である。倉橋山とかそんな名の山がありそうであるが、よくわからない。倉橋・高橋サンがこの辺りにもある。長橋寺というお寺がある。
峠を越えた向側(何鹿郡側。綾部市西坂)に九社くしゃくしゃくしゃ神社があり、枯木岼、公庄畷といった小地名もある。このあたりのかなり広い範囲、峠のこちらとむこうがクシあるいは枯木と呼ばれたと想像できる。
九社神社のすぐそばには、「赤目坂集会所」がある。古い住宅地図にはそう書かれていたのだが、今はないようである。赤目坂村が江戸期にはあった。何鹿郡西坂から大江町尾藤に越す峠を赤目坂と呼ぶ。「九社神社前」のバス停(綾部市西坂)赤目というのは赤く見える土の層をよぶのだが、鉄や水銀がありそうな地名である。赤目とは砂鉄だと書く書もある。この坂のあたりの山の斜面は何か掘ったのではなかろうかと思われるような跡があちこちで見られるが何か鉱山が最近まであったのではなかろうか。九社とか加佐の地名は水銀や金属と何か関係がありそうだということは舞鶴の例から想定できる。
 大江町側に戻ってみると有道ありじありじありじ(有道)郷の地名と、ひとつ上流に千原せんばらせんばらせんばら・下流に二箇にかにかにかの地名、さらに対岸に式内社・阿良須あらすあらすあらす神社がある。いよいよ水銀が見えてきたようである。ここは残欠に記事がある。まことに有り難い。『丹後風土記残欠』に、

 〈 有道ト称ル所以ハ、往昔、天火明命ガ飢テ此地ニ到ッタ時。往ニ随ヘテ、食ヲ求メテ螻蟻ニ連行サレタ所以ニ、穴巣国ニ在ル土神ヲ見タ。天火明神ハ食ヲ請フタ。土神ハ歓喜テ種々盛饌ヲ奉饗シタ。故ニ天火明命ハ土神ヲ賞シ、且、爾後ハ蟻道彦大食持命ヲ以テ称ト為スベシト詔シタ。故ニ蟻道ト曰フ也。亦、蟻巣ト云フ神祠ガ有ル。今、阿良須ト云フハ訛レルナリ。(以下七行虫食)  〉 


 〈 川守郷。川守ト号ル所以ハ、往昔、日子坐王土蜘陸耳匹女等ヲ遂ヒ、蟻道郷ノ血原ニ到ル。先ニ土蜘匹女ヲ殺ス也。故其地ヲ血原ト云フ。トキニ陸耳降出セント欲シ時、日本得玉命亦下流ヨリ之ヲ遂ヒ迫ラントス、陸耳急チ川ヲ越テ遁ル。即チ官軍楯ヲ列ネ川ヲ守リ、矢ヲ発ツコト蝗ノ飛ブガ如シ。陸耳党矢ニ中リ、死スルモノ多ク流テ去キ。故其地ヲ川守ト云フ也。亦官軍ノ頓所ノ地ヲ名ツケテ、今川守楯原ト云フ也。其時、舟一艘忽ニ(十三字虫食)其川ヲ降ル。以テ土蜘ヲ駆逐シ、遂ニ由良港ニ到リ、即チ土蜘ノ往ク所ヲ知ズ、是ニ於テ日子坐王陸地ニ立チ礫ヲ拾ヒ之ヲ占フ。以テ与佐大山ニ陸耳ノ登リタルヲ知覚シキ。因テ其地ヲ石占ト云フ。亦其舟ヲ祀リ楯原ニ名ツケテ舟戸神ト称ス。(以下三行虫食)  〉 

誠に不明なことであったのだが、丹後にはこの地に伝わる水銀地名を分析した文献などはないものとばかり思い込んでいた。私が読んだ物の中にはこのせっかくの文献にふれたものは一切なかった。だから愚かにも、ないと勘違いしてしまっていたのだが、実はちゃんとあった。
1988年1月発行の『郷土と美術』(91号)に、小牧進三氏が書いている。もうかれこれ20年も以前にすでに分析されていた。この雑誌は廃刊になっていて今入手することは無理と思われる。丹後の図書館ならあるかも知れないが、ほかでは無理であろう。ここにその全文を「丹後の伝説4」に引かせて貰った。私はごく最近に読んだばかり、読まれたい方はぜひ読んで下さい。
 そこではすでにここ有路の周辺についても触れられていた。こんな文献があるのなら今更たぶんさして変わらぬ似たような話をここに書いていくのも何か二番煎じの無駄な努力のような気もするが、しかしここも私なりに分析をしてみたい。何か氏とは異なる新たな知見が見つかるやも知れない。

さて、残欠の記事にもどろう。残欠は、有道とは蟻道であり、阿良須神社とは蟻巣・穴巣神社だという、こうした発想は、やってみろと言われても、普通はできないと思われる。いくら空想力豊かな人であっても、これは机上ででっち上げられるような話ではない。何でも無からでもでっち上げられるというわけにはいかない。でっち上げにもそれなりの限界が存在する。その限界を超えてでっち上げたりはできない。
 やはりこの話は何かそれなりにこの地のそうした歴史を元にしていない限り無理な説話である。この話は有る程度は歴史的根拠を反映していると考えるより、理解できないと思われる。
大江町の地名で考えれば、千原の上流の在田ありたありたありた、それに河守こうもりこうもりこうもり(川守)郷も、たぶん、こうした鉱山地名で、みなこの蟻ありありありと関係がありと思われる。在田は蟻田、河守は蟻子守か。式内社・阿良須神社(大江町北有路)
大江町は至る所、蟻だらけ、土蜘蛛だらけ、鬼だらけである。大江山の鬼伝説は本来は都の西側の老ノ坂のあたりの大枝山の話であった。それが何故にこの地にやってきたのか、亀岡でもなく、綾部でもなく、福知山でもなく、なにゆえにわざわざこのさして人も通わぬ、加佐郡の僻村でなければならなかったのか、誰も答えがないが、その秘密は大江町の地名が答えてくれそうである。しかしここで触れるのは枯木川の周辺だけである、面白くて引き返すのも惜しいが、何もかも一度には私にはできない。後日またの機会に立ち戻ることにしよう。阿良須神社案内板(クリックして下さい)
『和名抄』の加佐郡有道(訓・安里知)郷は、ここ現在の南有路・北有路なのだが、このアリチとは蟻道だという。アリンコの掘った道だという。これが鉱道の穴をいっているらしいと想像できる。至る所に蟻の道があったから有路なのである。
 式内社の阿良須とは穴巣、あるいは蟻巣であるという。「室尾山観音寺神名帳」には、正三位・有栖ありすありすありす明神とある。そうすると右京区の有栖川や、観光名所の嵐山も同じ意味であろう。仁賢紀の山城国葛野郡の歌荒樔田の地である。舞鶴市志楽の阿良須神社や、大宮町の大宮売神社の近くにもアラスの小地名があり、丹後風土記の荒塩の地ではなかろうかとも言われる。
『大江町誌』は、
(阿良須神社)
 〈 町内における唯一の延喜式内社であり、祭神は神吾田津姫命(別名・木花開耶姫)である。付近には古墳跡もあり、境内からは須恵器も出土し、前面の水田には条里制遺構も確認され、古い由緒を裏付けている。この阿良須神社のある有路地区には四つの十倉神社があって、いずれも神吾田津姫を祭神とし、十倉五社と呼んでいる。
  〉 

十倉神社が何故にこれほど一ケ所にと思われるほどにたくさん集中する地である、二箇矢ノ谷・南有路森安・南有路中矢津・北有路五日市といずれも神吾田津姫命を祀るが、十倉は鉱山とは関係が深いということになる。蟻巣・穴巣社の分社をこう呼んだのであろうか。舞鶴市の十倉もやはりそうであろうか。
 クラは磐座のクラで、クリ石と言うが、それは岩のこととされたり、馬の鞍で座る所の意味でもあるが、クラは刳るという語から出て、刳り貫いた所をクラと呼ぶのではなかろうか、従ってクラは穴の事をいうのかも知れない、穴蔵という言葉もある。こんな日本古語発見は私がたぶん最初であろうが、そうすると倉のつく地名は鉱山と関係がありそうだということになる。十倉は戸刳ラで恐らく、坑道の入口に祀られた神ではなかろうか。神を祀るのだから、本来の戸倉とはそうとしか考えようがない。これら現在の鎮座地がその坑口かとなれば、それはたぶんちがうだろう。場所は移動していると思われるが、恐らく付近に坑口があったに違いないと私は想定している。来寿森神社はこれら五社の御母神とも伝わるそうであるが、あるいは刳る巣守神社なのかも知れない。
 阿良須神社裏山古墳と呼ぶのだが、この古墳の被葬者がこの社の本来の祭神であろうと思われる。古墳から発達した神社であろう。何かもう日本的な話ではなくなってくる。彼の名は残欠から蟻道彦大食持命、アリジヒコオオウケモチという名である。保食神うけもちのかみうけもちのかみうけもちのかみは倉稲魂神うかのみたまのかみうかのみたまのかみうかのみたまのかみとも呼ばれる。ウケやウカは食物という意味だけではなく、鉱山と深い関係がありそうだということになる。祭神・大宇賀之売命の朝禰神社(舞鶴市倉谷)は鉱山の神社かも知れないということになる。大江町毛原、成生岬の毛島、越前一宮の気比神宮などのケ(カ)は鉄を言っているのではなかろうか。当たっていそうだと思うが正解ならば大発見である。加佐郡は古くはウケのコホリといったという残欠の記事が思い起こされる。
 ところで蟻道彦によく似た名が多いのが、渡来人系である。天日槍と言われる、都怒我阿羅斯等。任那王とされる阿利斯等。火の葦北国造阿利斯登。アリジはこんな渡来系の人名から出た地名かも知れない。丹後海部氏の救い神・蟻道彦大食持命は、たぶん天日槍のことではなかろうか。そうだとするなら、枯木地名の名付け親は天日槍だろうと思われる。
 大江町の南に福知山市、その南が兵庫県氷上郡青垣町であるが、その東芦田に蟻の宮(高座神社)がある。さて蟻通神社には全国的に有名な社が幾つかある。それらをいくつか見ておこう。
アリはミアレのアレや『古事記』の語部・稗田阿礼のアレと関係があるように説かれる事が多いが、風土記の述べるようにここは蟻、あるいは穴がいいのではなかろうか。そして水銀と関係が深そうである。

 蟻通神社(泉佐野市長滝・祭神大穴持神)。穴通とも書いた。紀貫之や清少納言の書でも有名だそうだが、それは紀州田辺だとも言われる。「蟻通神社の紹介」 「蟻通神社」 「蟻通神社」(泉佐野市)
 蟻通神社(田辺市湊)。 「蟻通神社」(田辺市)
 蟻通神社(伊都郡かつらぎ町東渋田)。 「蟻通神社」 「蟻通神社」
 蟻通神社(丹生川上神社中社) (東吉野町小)。『丹生の研究』は、

 〈 東吉野の小川/ 吉野郡東吉野村小川で、小川とはこの谷を流れる吉野川の一源流の名に因む。高見山への街道すじに生きる鷲家口から南の横谷に入ったところで、川に面して丹生川上神社の中社すなわち旧の蟻通神社がある。社前を過ぎて三尾川を蟻通橋で対岸に渡ると、すぐ右手の山側に摂社の丹生神社が杉の老樹に包まれている。これを本宮(もとみや)と称しているが、この呼称が明かにするように、摂社の方が古い沿革をもつ。その祭神はニウゾヒメであったが、対岸の蟻通神社が丹生川上神社に昇格したときに、その祭神のミズハノメが丹生神社をも侵してしまった。水銀含有0.002%(昭和35年11月5日採取)。  〉 
「丹生川上神社中社」 「丹生川上神社中社」
 
 蟻道と蟻通では違うではないかとも思われるが、道と通の字はよく同じ意味で通して使われる。現地ではアリツウなどとも呼ぶというが、蟻通は普通はアリトオシと呼んでいるが、本来はアリチかも知れない。その本来の祭神は丹生都比売だという。三尾川というのは二尾川か。大江町の地名から考えれば、納得できそうな話である。
 また『山城名勝志』に、紀伊国名勝図会云、高野山の鎮守天野四所明神は、一宮丹生神、二宮高野御子、三宮気比、四宮厳島なり、後の三所は承元中の勧請とぞ、其三宮を官符には蟻通明神とす。とあるそうである(地名辞書)。
気比と蟻通は同じ意味らしくなる。越前一宮、あるいは豊岡市の気比と関係があるのだろうかと考えていた舞鶴市岡田由里の気比神社などが面白くなってきた。

 小牧氏が取り上げる穴師坐兵主神社(桜井市穴師)、元は巻向山にあったという、社名から見て鉄の神社以外ではない。中世には穴瀬明神・穴世神・穴晴神とも記されたという。戒重(のち芝村)藩に残る記録に、当社は「蟻通明神」と誤り伝えていたこと、京都の吉田家に願出て、当社が穴師明神で三輪と一体の神であり、大己貴神を祀ったものとする縁起をもらいうけたことを記す。そうである。(奈良県の地名)。「穴師坐兵主神社」 

 和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野の丹生都比売神社(名神大社)も蟻通神社と呼んだそうであるが、ここは全国各地の丹生都比売を祀る社の本社である。現在は近くに別に上記の蟻通神社がある。「丹生都比売神社」  「丹生都比売神社」 


福井県小浜市の若狭彦神社の境内にも蟻通神社がある。お水送りの小丹生(遠敷)というのはこの辺りのことであり、丹生と「蟻通」には何か関係があるものと思われる。
『遠敷郡誌』(大11)は、蟻通神社  同村龍前字中西にあり、祭神不詳。.としている。
奈良県宇陀郡菟田野町の宇賀志うかしうかしうかしと血原。
 ウカや血原という地名と水銀が関係ありそうなことは『丹生の研究』が述べている。

 〈 血 原 の 伝 説
 宇陀の水銀地帯が早くから注目されていたことを立証する材料がもうひとつある。それは血原の伝説にほかならない。「古事記」中巻および「日本書紀」巻3に、神武天皇すなわちイワレヒコ(磐余彦)にまつわるウカシ(宇迦斯・猾)兄弟の話として、それは伝えられているくエウカシ(兄宇迦斯)すなわち兄のウカシがイワレヒコを謀略によって打取ろうとし、大股のなかに押機をしくむ。オトウカシ(弟宇迦斯)すなわち弟のウカシがその謀計を知って、これをイワレヒコに告げる。その結果エウカシは、自分の仕かけた押機に打たれて死ぬ。その死体を斬ったところ、したたり流れた血が踝を没するほどであり、いつまでもそれが消えなかったので“其地を宇陀之血原となん謂う”とある。…

私には血原と朱砂の露頭とを関係づける義務が負わされたようである。いま古市場とともに菟田野町の中心街となっている松井の部落から宇賀志川について南に3kmほど遡った山あいに宇賀志神社がある。神武天皇に忠節をつくしたオトウカシを祀った社といわれるが、おそらくウカシ族の祖神の祠であろう。ここは旧の宇賀志村の上宇賀志で、社のあるところを森の堂と呼び、社側を流れる宇賀志川に架けられた橋を血原橋と称している。橋名からしても、この土地に血原という呼び名があったことは、ほとんど疑いをいれないし一方、私が現地から採取した土壌試料は水銀含有0.0001%を示した。
 従来の史家の多くが記紀の血原を宇賀志村に比定した通説は、このように裏付けられる。しかし、もう一歩進んでみると、血原の名が逆に伝説から、ウカシの名をもつこの土地に附会されたという疑いもでてくる。したがって「大日本史」の注釈者がこれを別地に比定したのも、むげに排斥はできない。その第2の血原は同じ宇陀郡の上田口に見出される。すなわち宇陀郡室生村大字上田口小字血原にほかならない。女人高野として有名な室生寺から、同名の河がほりさげた深渓を、流れなりに曲りくねって6kmほど遡ると、急に視界が開けて、山間の小盆地が現われる。これを血原と呼び、室生川に架る橋を血原橋という。神武天皇伝説とはおよそ縁のなさそうな僻地であるが、その附近一帯は室生寺の周辺のような石英粗面岩ではない。ちょうどこの小盆地の手前で岩相は前記の宇賀志村と同じ花崗岩に変っている。そして、ここから私が採取した試料は、水銀含有0.0002%の分析値を示した。
 大日本史の注釈者は、むろん朱砂の件は全然考慮しないで、ただ血原の名が宇賀志村の字名になく、却って上田口村に残っていたところから、単純に異説を唱えたのであろうが、とにかく血原伝説の候補地は宇陀郡内に2か所あり、しかも2つながら表土にほぼ同値の水銀含有を告げるのである。矢嶋澄策博士の学説によれば、地表に水銀0.000x%以上の含有を示す土地は、地下に水銀鉱床の存在を認められるという。また私はこの学説を呑みこむために、先年大和水銀鉱山に滞在中、同鉱山の坑道中でも良質部を選んで、その表土を採って分析してもらった。ところがその品位は、地下に高品位の朱砂を埋蔵しながら、水銀含有0.0002%ないし0.0006%であるにすぎなかった。もちろん母岩の傾斜を考慮しての上であるが、地下調査というような大規模な作業が許されない私たちにとっては、実に重要なキメテといわねばならない。こうなると、血原の比定は、イワレヒコの話が結びっきそうな土地であることと、太古に同地のどちらに朱砂の露頭がありえたか、という2点に帰する。前者からすれば菟田野町宇賀意が断然有力であり、この地点が吉野や伊勢と大和の国中(くになか)とを結ぶ交通の要衝に立っていた点も、大いにそれを助ける。しかし後者の自然科学からする裏付けは、もはや私には手が出せない。そこで私は井上純一所長に依頼して宇陀地方の朱砂鉱の偏位や母岩の傾斜度からの所見を求めたが、その結果、鉱床学からの軍配もまた宇賀志村にあがった。上宇賀志には辰砂の露頭が充分にありえたというのである。
 宇陀の水銀が太古いらい衆目を浴び、かつそれが利用されていた形跡は、このようにして明かになった。宇陀地方のうちでも水銀地帯の主要部と認められる今の菟田野町の地域が、古代史の舞台としていろいろな伝えを残したのは、むしろ当然ではないか。
 この地域が朱砂の産地として、いわば古代鉱業の一中心地として断然光っていたことは、「万葉集」巻7・雑歌に、…  〉 
大宇賀神社(網野町郷)大宇賀神社(網野町郷)。小牧氏が触れられていることであるが、その鎮座地名を入道という。丹生土である。このほかにも宇賀神社は弥栄町(竹野郡鳥取郷)などの境内社に見られるが、ここは、この辺りに筆が進んでからみたみようかと考えている。
 ウカと金属が関係あるなら、ウケも同じであろうか。カとケはよく通音で用いられる。丹後の竹野郡、最近消滅したが、タケノグンと読んでいた、本来はタカノ(タカヌ)である。現在も海沿いの竹野集落はタカノと呼ぶし、竹野神社もタカノ神社である。開化妃の竹野媛の古里である。、竹野遺跡もタカノ遺跡と読む。ここのカやケもたぶん金属を意味するのであろう。その他を簡単に見ておこう。
豊宇賀能売命・豊受大神。言わずもと知れた丹後一の大神であり、伊勢外宮の神様である。この神は鉄と関係があるのではなかろうか、とはよく論じられるところであった。
舞鶴女布近辺のウケミズ神社とウケミズ彦命。舞鶴市公文名の笠水神社。やはり鉄らしいものに見えてくる。
「室尾山観音寺神名帳」加佐郡の大宇賀明神。加佐郡内で大宇賀神を祀るのは朝禰神社(舞鶴市倉谷)だけであるらしく、これはその神社であろうと言われる。やはりアサは鉄を意味していたのでろあうか。

大江町の千原せんばらせんばらせんばら、ここは残欠では蟻道とセットになっているし、ウケウカや水銀とも見られるので、ぜひ触れておこう。
 現在はセンバラと呼んでいるが、本来はチハラであり、それは血原、血のように赤い原の意味である。河守の対岸になり、有路のひとつ川上に位置する、広い川原のある所である。少し前まではずいぶんと恐ろしげな道路であったが、今はよくなっている。現在この地を見ても、どこが血原なのかさっぱりわからない。何も赤くはない。
しかしかつては赤かったのであろうか。尾藤びとうびとうびとう谷あたりから流れ出した赤土が川原を赤く染めていたのではなかろうか。そうすると尾藤とは火峠ひとうひとうひとう、火のように赤い峠の意味かも知れない、或いは丹峠にとうにとうにとうか。峠を越えた何鹿郡側では赤目坂と呼ぶようである。
しかし尾藤はたぶん人の姓ではなかろうか。南側に陣取山という山があるが、その山城の大将が尾藤某なのではなかろうか。そう思って岡野允『丹後の山城』を開いてみると、尾藤城に、「城主は長野市正、四百石とも五百石とも記し、姓も尾藤との説もある」としている。たぶんそれに違いないと思う、尾藤はたぶん尾張の藤原でなかろうか。中世史は詳しくないので、これくらいしか書きようがない。


 チハラは加佐郡式内大社の大川神社の鎮座地(舞鶴市大川)が千原であった。『岡田下村誌』は、

 〈 大川は、顕宗天皇以前は千原村と唱へていたが、大川神社鎮座せられてより大川村と改称したものと伝えられている。  〉 
それも当然かも知れない。ここは碇山の麓である。この山のすぐ麓で問うても、この山の名を知らない。さあ知らんナ、そうかも知れんナ、このあたりの地名は碇山というナ。この麓にガソリンスタンドがあって碇石油という、オーナーが碇サンなのでそうなのか、この地の名を取ったのかわからない。出光石油だったと思うが、これもイカリだろう。
舞鶴市の阿良須神社の鎮座地(小倉)にも、千原がある。『加佐郡誌』は、

 〈 小倉には小倉木王の領であったから王を慕ふて小倉と称したとのことである。小字に血原と称する所がある。崇神天皇の十年青葉の賊を此処に追ひ詰めて射殺した時、血の流れたのを以て後血原といふと伝へられている。  〉 
『古代の鉄と神々』は、

 〈 大阪府南河内郡千早赤阪村の千早は血原である。辰砂を含み、鉄も豊富…  〉 
忠臣・楠木正成もやはり蟻か土蜘蛛か鬼であったか。そうでもなければあんなには強くなかったかも知れない。忠臣と呼ばれたり、鬼であったり、土蜘蛛と呼ばれたり、まあ好き勝手に呼ばれるようである。波美も気になるが、これもキリがない、頭が痛くなってきたので、ここらで切り上げて先に進もう。


枯木浦の四島

 残欠の枯木浦の四島は次のようなものである。

浮島(=淵島。舞鶴市溝尻浜田)

四島の一番の枯木浜寄りは、浮島である。現在は写真の通りに島ではなくなっている。周囲の海面が埋め立てられたからである。浮山であるが、浮島の地名が残り、かつては島であったことがわかる。医師のいない病院として有名な「舞鶴市民病院」のすぐ北側である。舞鶴も頼りないことではその勇名をよく全国に轟かせる町となってしまった。一日も早く安心して住める町にしたいものと願う。浮島
 この島の頂上には嶋満しまましまましまま神社が祀られている。現在は八幡神社となって誉田別命と市杵島姫命を祀るが、「室尾山観音寺神名帳」の正二位嶋満明神である。当時の社格は高かった。羽衣伝説も残る。
 浮島は現在は溝尻であるが、元々は泉源寺村に属していた。泉源寺村は志楽川の河口部に位置していた湊であったと思われる、元は波多村という。中世の中心地の市場は枝村である。恐らく志楽の地名はこの泉源寺村と思われる。慶長郷村帳に端村として志楽の名がある。現在も志楽畑という小字がある。たぶん本来の地の志楽は現在の市場のあたりではなかろうかと思う。古代は枯木里が中心であったが、その後は志楽市場が中心となっていく。
そこで祀られた神社であろうかと思われる。
「浮島と嶋満神社」



浮島丸事件(昭和20.8.24)

烏島と蛇島(舞鶴市佐波賀)



烏島と蛇島(浮島丸殉難者追悼碑から)
大浦半島の下佐波賀にある「浮島丸殉難の碑」から、烏島からすじまからすじまからすじま(左側の丸い島)と蛇島じゃじまじゃじまじゃじま島(右側の島)を見ている。

終戦直後の8月24日に、この像が見つめる蛇島の方向、300メートル沖合で「浮島丸事件」が起きた。
 ここを航行中の海軍の輸送艦・浮島丸(4730トン)が突然に爆発沈没し、乗船していた朝鮮からの労働者(強制連行も含む)とその家族ら500余名(政府発表)が死亡した事件であった。

波穏やかな枯木浦では信じられないような戦後日本の海難史上二番目に大きな犠牲者を出したのであった。
こんな大変な数の犠牲者を出したにもかかわらず、きちっとした爆発原因や犠牲者数の調査は行われていないし、そのとき一行も報道されなかったので、舞鶴市民の間ですらよくその真相は知られてはいない。誰に問うても「さあ、よく知りません」と返事される。

舞鶴は軍港なので、朝起きたら我が家の玄関先に米軍の投下したパラシュート付きの巨大な機雷が落ちいて肝を潰したという話を聞く。
世界最高の技術を誇るという現在の掃海艇の乗組員も、掃海といっても何も100%掃海できるものでもない、もし生きた機雷が残っていても不思議ではないという。『両丹地方史』(96.4)に、

 〈 日本の近海は、日本とアメリカ両国が敷設した機雷の海でした。掃海した安全な航路を示す海図もなく、釜山航路ははじめての航路でした。
  戦争が済んで危険な機雷の海に、手探りで航海することに乗組員が抵抗しました。戦争がすんでからは死にたくない、ということです。
  司令部から参謀が乗り込み、 軍刀を抜いて威嚇して、やっと船は出港しました。二十二日午後十時のことです。  〉 
そうした触雷説(政府発表)がある。実際には船体の調査も一度もしないで、何故に事故の原因がわかるのであろうか。
 あほらしい話である。日本政府役人は神様かあるいはペテン師か。はじめから信用する気持ちにはなれないが、そんな驚くような責任逃れと保身と思われて仕方のないような空疎な一般説と、また一方、機雷の海を渡って朝鮮へ行くのが嫌だし、向こうでどんな目に遭うやら不安で、乗組員が自爆させたのだという、驚くような証言と物的証拠を持つ説もある。

(尼ヶ崎事故のJR西の首脳部のようなものである。まだ事故原因も調査されず、それどころか電車の中には死傷者が数も確認できないほどに多数が閉じこめられているにもかかわらず、さっそく置き石写真や運転手の資質を持ちだした。私どもには関係ありませんよ、悪いのはよその人でしょう、証拠はこれです、私どもこそ被害者ですよ。他国の人のことだといいかげんに考えていると、こんなこととなって復讐される。何も終わってしまった事故ではない。きびしく追求し続けなければならない。
もっとも彼らだけの責任でもないだろう、民営化の当然の行き着く帰結であろう。私は無関係ですよといった涼しげな顔をしているが、政府の安全無視した監督責任は少なくともある。又、安全無視は現代の社会現象になっている。安全よりも儲けが優先される。ゼニ・ゼニと惚け、時間・時間と惚けている。それが世界で一番大事な値打ちあるもののように。「安全第一」といった標語がどこの事業所にも掲げてあったものだが、今では見ることがなくなった。
KTR西舞鶴駅構内写真は北近畿丹後鉄道車庫(西舞鶴)であるが、安全の標語が消えかけている。「運転傷害事故の絶滅」(?)とも書かれているようだが、日本語であろうか。何か近頃はこんな変な日本語(?)の安全標語が多い。
 さらに「合理化」で、人員が事業所に正常に確保されていない、どこの事業所でも似たようなところが見られるが、私ども定年間近の世代は多いがその下の世代がいないのである。その下はぐっと若くなる。将来を見ない人員削減の悪い回りがきている、私どもの世代は警鐘を鳴らしてきた、無理な削減をするなと、15年ほど以前には事業所は違っても同世代が集まるとこの話であった。さておかげで今は肝心の大黒柱の世代がいないこととなった。アホの資本主義的「合理化」である。インビュジュアル・ハンドが全能であるはずがない。人間の叡智でカバーすべき所なのだが、ゼニしか眼中にないアホ資本にそれはわからない。安上がりが本当にいいのなら、何故に自衛隊を民営化しないのか、警察も民営化すべきではないか。宮内庁や外務省などは一番に民営化すべきものであろう。安ければいいといったものではないのだ。要するに遊んで暮らせる大金持ちどもの安全は税金で守るが、ナンボきばってもアカンわいと嘆く社会の下っ端の安全安心は、どんどうと切り捨てようというのが政府の考え方・やり方である。経験のない若い世代がいきなり大きな責任ある仕事を任されることになる。たった11ヶ月の訓練で秒単位の運転をしているのは何もJRだけではない。何でこんな運転手に…と、あるいは思われたかも知れないが、高い賃金を出さねばならない経験豊かな人はいない、安給料の彼しか人がいないのである。経済界の責任である。
そんなことで社会の共同責任も大きい。そうした社会の代表選手である彼らJR首脳だけに反省させても問題は決して解決できない。もっと根深い社会的下地があろう。JRは変わるのか。社会は変わるのか。事故のない安全な社会にするためには何が求めらているのであろうか。)

私としては悲しいことだが、どうも低国海軍(浮島丸に乗り組んでいた一部の低国軍人だが)が犯人でなかろうかの説に傾いている。そう考える説も多いので、彼らのために私見をたてて弁護してやれば、本来は船を沈めるとか、朝鮮人達を殺すという意図はなかったであろう、エンジンだけを爆破・破壊して動かなくしようとしたのでないかと思われるのである。エンジンの三箇所ばかりに爆薬を仕掛けたのだが、計算違いで火薬の分量が多すぎた、目的に反して船底までも破壊してしまったのでなかろうか。

すでに出港地の青森県大湊市内(現むつ市)では、浮島丸はどこかの海で自爆する、爆沈するというウワサが市民達の間にかなり広範囲に流れていた。船内の朝鮮人たちのあいだでも、この船は自爆するというウワサが流れていたという。

機密漏洩の話ではないが、「七夕の夜に何かが起こる」とウワサが流れていた。上部が奢りたかぶって、たるみきっていれば、謀略の機密などが保てるはずがない。そして実際にそれは起こった。盧溝橋事件である。日中の全面戦争の始まりであった。演習中に中国側から攻撃を受けたと発表されたが、真犯人は誰にもはっきりしている。出先の軍部の勝手な謀略であった。
 では、浮島丸の場合はどうであったか。『浮島丸 釜山港へ向かわず』(金賛汀・かもがわ出版・1994)は、

 〈 …大湊市内では市民たちの間に、浮島丸について奇妙な噂が流れていた。
それは、浮島丸がどこかの海で��自爆″するという噂なのである。
敗戦当時、むつ市で農業団体の役員をしていた伊勢広太郎氏は、その噂についてこう語っている。
「浮島丸は新潟まで行けば爆沈されるのだ、という噂を聞いたことがあります。それでうちの娘たちが朝鮮の友だちに、爆沈の噂があるから行かないで、と言って止めたようですが、なにしろ、帰国できるというので喜んで『マンセー!マンセー!』と叫んでいる状態ですから、言うことは聞きませんでしたよ」(NHK『爆沈』より)
さらに、日本通運で強制連行してきた朝鮮人を送り返す、引率責任の役を割り当てられた日通労務係高橋嘉一郎氏も、
「浮島丸に乗って行こうとすると弟が来て、浮島丸は爆沈されるということだから乗らない方がいいのじゃないかと言っていたが、そんな馬鹿な、ということで乗った」(同『爆沈』より)
と語っている。
むつ市で長く教鞭を取っていた秋元良治氏は、かつて同僚であった教員が、
「私は浮島丸事件があった時、田名部国民学校の五年生でしたが、私の家と懇意にしていた海軍の下士官が遊びに来て、『俺たちは釜山に着いたら銃殺される。浮島丸は没収されてしまうのであろう。だから、釜山に着くまでには自爆させるんだ』と言って、自爆させる場所まで話しておったのを記憶しております」と語っていたと言う。
浮島丸の出港前から大湊では、浮島丸が日本海で��自爆″するという噂が市民の間に流れていたのである。
それは、大湊市内の地元の人々が浮島丸の乗組員から聞いた話として、伝えられていった。その噂を聞いた人は一人や二人でなく、きわめて多くの人々の口にのぼっていた。
この浮島丸��自爆″の噂は、少数の朝鮮人乗客たちも知人の日本人から聞いたようだが、帰国の喜びに沸く朝鮮人労務者たちは一笑に付して取り合わなかったようである。
朝鮮人労務者とその家族、各土建会社の引率責任者らが乗船を終えると、浮島丸は大湊港を後にした。
  〉 
こんなウワサは、当の朝鮮人たちさえ一笑に付して取り合わなかったとあるが、しかし一般に「ウワサはホンマやで」とも言われる。
実際に事前の謀略のウワサの通りに事件が発生したならば、まずここを疑うのが解明の本筋ではなかろうか。触雷説はその次であろうかと思う。そうでなければ、「そんな事はするはずがないで」の人のいい身びいきの日本人の多くは認めても、被害者は黙ってはいまい。何は置いてもまずは早急に国際調査チームをいくつかつくるべきだろう。
戦争は要するに一種の気違状態ですな、ワシらもそうやったです。気違いですらな、何をやるやらわかりまへんで、と体験者は言う。平常の神経ではない。平常な人には自爆などは考えられなくとも洗ってみなければなるまい。500余名もの命が失われた悲劇であった。二度と繰り返すまいの固い反省と決意、強い信念と責任感なしに、爆沈の原因を探っても、どこぞの鉄道会社の「空疎な反省文」のようなものとなろう。そんなことならやってみても、何の意味もないのである。やる気もないような者や、何も困らないヨソ者が「検討委員会」を立てて、地域の活性化とか再建するとか言っているような話である。


釜山に向かって大湊を出港したはずの浮島丸が何故に舞鶴軍港に入港したのかということも謎である。はじめから釜山には行く予定はなかったとも言われている。
『浮島丸事件の記録』(かもがわ出版1989)は、田村敬男氏(日朝協会京都府理事)の資料を掲げている、
 〈 八月二十二日大湊出港と同時に、この船が無事朝鮮につくか否かわからないと言い出しました。その話は、日本人将校や水兵は殺され船は没収されるだろうとまことしやかに話されていたのです。船では幹部船員による秘密会議が持たれ、船内には重々しい空気が充ちていました。そして乗船者に配給されるために船に積みこんであった毛布や衣類などの必要物質を、海中に投棄したのを目撃した人々が不思議なことをするものだと語っていました。 やがて船が舞鶴に近づく頃、朝鮮人憲兵の白氏は、同船底に爆発物が仕掛けられ電線がつないであるのを知って驚き、湾に入るや船から海にとびこんで逃げ出しました。これを追跡する三人の水兵の手をのがれて、朝鮮同胞の家にかくれて助かったということです。 以上の話は、一九五四年の四月十三日われわれが第一回の浮島丸殉難者追悼慰霊祭を挙行するにあたり、現地調査を朝鮮人解放救援会の諸君とした折りに、老人達の記憶から引き出したものです。  〉 
また、ジャーナリスト金哲秀氏の記事もある。テキストは朝鮮語、新聞労連が翻訳したようである。

 〈 記者は、西舞鶴の大森海岸通りに居住する○○○(当年六十四歳)同胞を訪ねた。この老婆は、浮島丸爆破を体験した生き証人である。
 さきの「事件」の項は、この婆さんよりの「聞きとり」に基づいたものである。
 徐婆さんは、四十年前に日本にやって来て、土木労働者であった夫のシン・ヨングック(死亡)に従って、各地の土木工事現場を回ったあげく、一九四五年六月には大湊に至り、解放の日まで防空壕掘りをしていた。
 解放の喜びを抱いて徐さんの家族六名は、浮島丸に乗船した。このとき、夫が病気であったので甲板に載せられていたことが幸いして、爆破されたとき泳ぐか、日本の漁民の舟に救助されて全員が助かった。
 徐婆さんは、当時を回顧して、「白某は日本の憲兵となって、朝鮮人に多くの悪事を働いた。しかしやはり同じ朝鮮人であったから、そうしたと思うのだが、白某から、そのときはっきりと「日帝の奴らが、火薬を仕掛け、船を沈めようとしている」と知らされた。その直後、突然「ドカーン」という爆発音とともに、船体が真ん中から裂けたようになり、乗っていた同胞達は、まちまちに活路を求めて必死に走り回り始めた。このとき、白某が船の甲板に飛び出してきて「いま、船は沈む、これは日本の奴らが、われわれを皆殺しにするために、意識的に爆弾を仕掛けたものだ」と、叫びながら海へ身を投げていった。すぐに後を追って、日本の水兵達が「奴を殺せ」と、わめきながら海に飛び込んでいった。
 事実、「爆破されたとき、どのように助かったのか、よくわからないが、いま、あの船のことを思うと身の毛がよだつ」と、○婆さんは、当時の様子を歯ぎしりをしながら語っている。  〉 
証人は実名で書かれているが、ここでは伏せておいた。
浮島丸
左写真は『浮島丸釜山港に向かわず』による。沈む前の姿である。舞鶴入港時、軍港を管理する防備隊(現在の保安学校の地か)から「掃海ズミ」の手旗信号を受けた浮島丸は、この像が見つめる海をエンジンを切ったような状態で惰性でゆっくりと航行していた、機雷を警戒して船橋には見張りがいた。浮島丸の先には二隻の海軍小艦艇が航行していた、その跡を忠実になぞりながらであった。

この水路は舞鶴軍港の心臓部へ続く最重要な喉元であり、ここに機雷があっては軍港は機能しない、死んだも同然となる、掃海部隊が懸命になって作業を終えていたはずの水域である。
もっとも相手は掃海を逃れる仕掛けだらけの機械であるし、故障や誤動作が絶対にないとはいえない、そうした非常に希な生き残りがあったか、機械的な米機雷の故障でもないかぎりは、ここには機雷はなかったとも言われる。

船体を引き上げた時に傷跡を見れば素人でもわかりそうなものだが、そんなことすら調査されていない。国は一人の検査官も専門家も送ってこなかった。先の『両丹地方史』の同じ記事に、

 〈 一九五四年(昭二九)浮島丸前半部を引き揚げた際、遺骨の収集を取材した国際新聞(大阪市)の記事に、爆破口が外側に鉄板が曲がっていたという記事と写真が掲載されており、自爆説の有力な根拠になっています。  〉 

犠牲者数も不明である、乗客名簿がないからである。乗り込んでいた家族全員が死亡して、知り合いもいないような場合はカウントされていないことがあり得る。婦人や乳幼児も含む少なくとも549名は確実だということである。カウントされていてもいいかげんなものであった、後に死没者名簿にのっとり韓国政府が調査したところ半数は該当者がなかった。日本政府が勝手に名前を作ったものがかなりふくまれているようである。沈んだままの浮島丸と引き揚げ船・興安丸

左上の写真は『浮島丸事件の記録』にあるもの。「沈没し電探を海上にさらしている浮島丸(手前)の向こうを通る船はソ連からの引揚船興安丸」と説明がついている。
左下は『浮島丸釜山港へ向かわず』(金賛汀、かもがわ出版1994)のもの。「1954年2月まで沈んでいた浮島丸」とある。
 巨大な超時代もののレーダーと三連装機銃、マストが海面から姿をみせている。ご覧のごとく何もそれほど深い海ではない、このあたりは水深20メートルもない。重要なことを書き落としているようであるが、この船の中には遺体がそのままになっている。何百の遺体が船と共に沈んでいる。すぐに引き上げるという気さえあればいつでも引き上げられたであろう。浮島丸
いつの話かは不明だが、私の親父は現在の前島埠頭の入口付近の護岸石の上に、引き上げられた犠牲者の頭蓋骨が幾つも幾つも並べられていたのを見たと話していた。これは第一次の引き上げ作業の時なのだろうか。ここに並べてあったと指さしたのだからウソではなかろうが、いろいろ書にあたってみたが、そのような話はない。
 この時(1950.3.13)の引き上げの目的は船のエンジンがまだ使えるかどうかを確認するためのものであった。浮島丸は1937年の建造で10年も経てない新鋭船であった、エンジンは日本製ディーゼルで当時としては優秀で効率がよかったそうである。このまま錆びさせておくのはもったいない。引き上げてもう一度リサイクルできないだろうか。
結果は破壊がひどく使い物にならないことがわかり、引き上げは中止された。触雷ならエンジンまでも破壊されることはないという。船体のリサイクルであってもとよりそのような高尚なというか当前の遺体を引き上げるというような目的はなかった。
5年間も500体を越す遺体をほったらかしにしていたのかと不思議に思われるかも知れない、しかしその後も3年間もまだ放置されていたのである。
昭和28年にスクラップとして船全体が引き上げられた。もっともこの時も遺体を収容するためではない。スクラップにして金儲けするためである。28年といえば私が小学校に入学した年であるが、その当時の日本人どもは朝鮮人は人間と思ってはいないのである。もしかして今も思ってはいないかも知れない、中国人も朝鮮人も人間ではない、日本人だけが人間なのだ、金持ちの日本人だけが人間なのだ、何をぬかすか…、とはさすが言わないが、そういったも同然の「妄言」がよく日本の政治家たちから飛び出す。いうだけならまだしも行動に出る、閣僚の靖国参拝、教科書などもそのよき例であろう。石を投げられても当然のようなことである。こんな政府だから東アジア外交は四面楚歌・八方ふさがり、常任理事国入りも夢と消えた、そんなものに入って何ができるというのだ。そのうちに自国民からも投げられよう。
遺骨収容に当たった日本人は4名だけであったという、知らぬ顔をして突っ立っている日本人作業員や援護局役人どもの間を70名ほどの舞鶴や京都に住む朝鮮人がかけつけて一体一体収容していったという。
左の写真は舞鶴市民ならおなじみになっているものである。引揚桟橋(これはたぶん白糸浜の五条桟橋)の突端に立ちつくし、帰らぬ父を待つ妻と子の写真である。幼い兄弟のあどけない、待ちくたびれた様子が心を打って、舞鶴の岩壁の石すら皆泣いたという。
 上の引揚船・興安丸は拡大して見ると引揚者で一杯である。この中に彼らの父の姿はあったであろうか。どうかあってもらいたいと願うが、どうであったかはわからない。
 この写真は200ミリくらいの望遠で撮影している。対岸が写っているが、そこが平の引揚港の入口になっている、引揚船は毎回この親子が見つめる水面に停泊したであろう。
写真からはでるがもう少し左側にはこの時点ではまだ沈んでいた浮島丸があった。その浮島丸には、この時もかの国の父たちが沈んだままであった。かの国でも帰らぬ父を待つ同じ岩壁の母や妻や子の姿があったことであろう。
一体いつになったら引き上げるのだろうと、佐波賀あたりの住民達はおもっていた。日本政府は人間の条件は言うまでもなく、舞鶴の岩壁の石の条件すらも満たしてはいない。
全世界に誇れる日本人の立派な歴史がここにはある。もう日本人をやめたいくらいだが、そんなわけにもいかない。私はここに写っている子供よりも更に年下であろうが、そんな戦後生まれにも戦争責任はある。その大きな負の遺産もしっかり背負っていかねばならない。これからの日本人は戦争世代と超借金世代のツケをしっかりと支払わなければならない。戦争犠牲者数はアジア太平洋地域でだいたい2000万人といわれているし、借金の額はまもなく1000兆円にもなるだろう。誠にアホらしい話であろう、私などは一人も殺していないし、高額の賃金をもらっているわけでもないが、そろそろ退役である、こんな物を残したままというのは何とも心苦しい。このごろの若い者はなどと偉そうにいう気にはなれない。これからの日本人はどうすれば、石を投げられずに国際社会で生きていけるのだろうか。借金に押しつぶされずに未来を開くのだろうか。
 あまりに天文学的な数字のために、さらにその殺戮内容があまりにめちゃくちゃにすぎるために内容がこれを信じない人も多い。いやもっと少ないだろう、いやもっともっと少ないはずや。それは日本国内にいたってわかる訳がない。殺害の現地へ行って見てくればいいだろう。日本にいて日本国内だけを見ていれば、国内にもある浮島丸などは全部無視していれば、何か日本人は被害者のような錯覚にとらわれるかも知れない。
私のオジさんが立命館を出ましてね、主計少尉になったそうです、主計ですから戦地でもいい目だけをしたようですよ。少尉になったら刀がいるそうなんですよ、親類中をさがしたら、どこかで家宝の刀がでてきたそうです、それをぶら下げて中国へ行ったそうなんです。よしこの伝家の宝刀がどんなに切れるものか、ひとつ試し切りだと、ブタの首を落としたそうです、ストッと落ちたといってました。まあ私らはそんな話を聞いたときはまだ子供でしたから、ブタといっていただけで、本当はブタだったかどうかわかりませんな。立命館を出てるくらいですから、私らの親類ではインテリ、頭のいいエリートなんです、いつも本を読んでいるおとなしいアホなことはせん子やったそうですが、それがそれですから、日本軍なんか何をしとるかわかりませんな。と、反日デモにゆれる中国のニュース番組をみながらはかく語りき。
 一方大テレビ局は、これは中国の教科書が悪い、中国政府が悪い、インターネットが悪いといいだげな口調であった。中国では罪もない人々をおそらく1000万人、東京都の人口くらいは殺したでしょう、こんな恨みが簡単に消えるわけがありません、西ドイツなどがどれほどそうした負の遺産の克服のため努力を積み重ねてきたか、これまでの日本政府の対応と比べてみましょうなどという正気のテレビはない。
石を投げてはいけませんと、猿でも知っているようなことで、お説教しているつもりの大新聞社。くだらない、誠につまらない、数万のデモ隊の全員が石を投げたか、石を投げるような者はデモ隊とは関係がない者かも知れない、どちらにしてもごく一部のはねかえり者である、こんな者はどこにでもいるがさほど問題ではない。テレビもゼニもうけなので、こんなところばかりを写すが、石を投げなかった数万のデモ隊にこそ目を注がねばならないだろう。どこの国の新聞社なのだ。そんな事を書いてるヒマがあれば、なぜそんな分かり切った道理も通らなくなりつつあるかも知れないその原因を探れ、現地へ取材班を送れ。
 外務大臣さん、何枚割られたか知らないが、損害賠償などと子供のようなことは言ってはならない。過去に我国が中国で何枚のガラスを割ったか御存知か、そして賠償したかどうかをご存知か。歴史認識の頼りなさが、すぐに現れる。つまらぬ者がおりましてご迷惑をおかけ申した、今回のガラス代は弁償いたしましょう。過去60年以前に我国のガラスも割られました、我国も大変な時期でしたが、あなたのお国も当時は大変でした、隣国のよしみ賠償まではいいませんでしたが、たいへん豊におなりになったようです、そこまでおっしゃるのなら、それは当然に弁償していただける用意をお持ちでしょう。まさか立派な貴国が過去をお忘れではありますまい。我が政府が調査できた範囲のこれは非常に少なめの額なのですが…、大人と子供の差が感じられるて、これ以上を書くのは恥ずかしい、やめよう。
 現在の日本人には大昔の中国人や朝鮮人に対する根拠のない差別意識が残っている、こんなものは早く克服しないと大変だと思う。私より少し年上になると、私にも信じられないほどに差別感情を持っている。何も中国・朝鮮ばかりではない、南の国々の人たちを土人と呼んでいる。どれほどに日本人が立派だというのだろう。政治屋さんばかりが駄目なのではないようである。アメリカ人やヨーロッパの西側の人たちだけを人間だと思っている。自分がどこに住んでいるのかもわかってはいないようである。人間でないのはどちらであろうか。我々を一番よく知っている隣国の叫びに耳を謙虚に傾けないと自分自身が駄目になろう。
これは好意にとれば加害者意識・加害責任感の裏返った反応なのかも知れない。政治屋さんたちの裏返った加害者コンプレックスが靖国参拝なら、国民のそれが差別意識を温存させているのかも知れない。しっかりと過去が認識できるためには、子供は卒業して大人の精神の強さが必要のようであるが、甘やかされた人間にはそれができない。

重ね重ね誠に相済まぬ、恥ずかしい限り、穴があったら隠れたい気持ちがするが、日本人のためにわずかばかりの弁護をしておけば、浮島丸殉難の碑の碑文(クリックして下さい大きくなります)こんな「悪魔的所業の毒牙をむき出しにする日本人」ばかりではなかったようである。左の碑文を読まれよ、他のHPも読まれよ。「浮島丸事件」
無責任な政府の態度に腹を立てた遺族たちも遺骨を引きとらないので、引き取り手のない遺骨が今現在も多く残されているという。
この碑はもちろん日本政府が立てたものではない。500余名の犠牲者を出しておきながらビタ一文の金も出していない。こんな事件は早く風化してほしいようである。先の23号台風でこの木製の碑文に損害が出たそうだが、それを修復する銭すらこの「会」にはない。観光や映画のロケ地提供に力を入れるという国際平和を標榜する自治体も口先だけで災害見舞金を出したというような話も聞かない。たぶん潰れて喜んでいるのかも知れない。

 こうした事件は氷山のごく一角でしかない。実際にはもっともっとある。さて逆に強制連行、現在の言葉でいえば拉致被害者の少なくとも500余の日本人が、仮にその国でこうした事件の巻き込まれ死亡したと考えてみよう。そこの政府、どう言い逃れをしようとまちがいなく拉致の張本人である政府、その政府がこんな、ロクに調べもしない態度をとったとしたら、皆さんならその国はどんな国と判断されるだろうか。経済制裁くらいはされるのでなかろうか。
しかしこんな制裁はやめよう、効果がないであろう、肝心の問題は何も解決しないであろうし、貧しい国への経済制裁は悪質な戦争と同じである、人を殺すことである。飢死するのは何の関係もない子供や年寄りであろう、罪もない子供たちを餓死させる権利は私たちにはない。経済制裁をするくらいなら戦争をしなさいと、私はいいたい、宣戦布告するに値する理由なしには軽々しく経済制裁すべきものではない。舞鶴港の北朝鮮船。沖にはアンカー待ちしている船もあった我国だって少し前までは貧しかったではないか。私は戦後の少し余裕ができた時代に生まれたので体験としてはないが、私より少し年上になれば体験しているはずだ、その時代に隣国が助けてくれず経済制裁をしかれたらどうなるかくらいの想像力は持ちたいものである。政府与党外務省のケツを叩け。もっともっと叩いてやれ。
 経済は持ちつ持たれつの関係である。一方的にどちらかが制裁されるというものでもない、制裁をかけた方にも同じ大きさの制裁は及ぶ、どちらが制裁されているのかわからなくもなる。戦争と同じで双方の大損になる超愚かな行為である。積み込まれる放置自転車彼らはカニやヒラメなどを降ろして、古自転車や古冷蔵庫などを積んで帰る。カニやヒラメが食えなくなるし、放置自転車が自治体の倉庫に溢れよう。誰が痛い目に遭うのか、誰が補償してくれるのであろう。
 保険には加入しない、高い物に加入していては割に合わないらしい。トラック満杯の自転車の山がもう見られないかと思うと寂しいな。もうあの船員たちと合うこともないな。子供好きでね、孫を連れて散歩していると船から手を振っていた。今度は中国へ行くと言っていた。彼らは痛くもかゆくもない。カニを喰うのは日本人だけではないから。損をするのは日本の中小企業だけだ。腐ったテレビがヘンなことばかり言うから。とは言う。
 ABCDだったかそうした経済包囲網を敷かれて当時の日本がどんなにヤケクソな態度をとったかを思い起こしてみよう。「経済封鎖され、うまくハメられて、帝国はやむにやまれず正義の正当な戦争を始めた。悪いのはルーズベルトだ」と主張する論者は今でも後を絶たない。どこかの国はそのようには考えないと、自らの行動に照らして考えてみてはどうか。
 日本国憲法を改「正」して、自主憲法にしたいという。その案を見てみれば、どこかの国とそっくりではないか。とは言う。他国の批判は後でもよいだろう。良いところもあれば悪いところもある。ごくごく一部の大金持ちだけには天国、大多数のビンボー人には地獄、そんな傾斜を強める自国をしっかりさせようではないか。
06年七月になってとうとう一隻も舞鶴港には入港できなくなったという。先のミサイル発射を受けての荷役業界の自粛だという。舞鶴だけでもないらしく全国すべての港がそうだという。そんな話をすると「かわいそうに」と隣にいた元自衛隊員はつぶやいた。制裁処置のつもりかも知れないがあまりやり過ぎてはなるまい。昔から村八分といって人間ができる最強の制裁は八分までであろう。残りの二分は残しておかねばなるまい。迂回貿易という第三国経由でも必要なら可能であり、実際的な効果はないであろう。
靖国参拝や軍拡、憲法改正にとうとう先制攻撃論までも飛び出す日本の支配者どもではあるが、何も全ての日本人がそう馬鹿なことを考えているわけではない。同じようにかの国とてすべての人々が時の支配者のやり方に賛成しているわけではなかろう。表向きは賛成のフリはしてるいるかも知れないが、そうミソクソを一緒くたにしてはなるまい。まして日本国内の北朝鮮人の学校へ通う生徒までリンチが及ぶといわれるがそこまで行くともう犯罪である。自分の勝手な信念だけで行動するのではなく、お互いに隣国の事情もよく考えようではないか。何の利益ももたらさないであろう。
 いよいよ朝鮮と戦争ですよ。口先ばかりのアホどもは正気ですかね。どんな武器で先制攻撃するんでしょう。そんな武器があるのですかね、私は興味があるんですよ、きっと自衛隊に竹槍持たせるんでしょうね。竹槍で先制攻撃。たぶん戦史上はじめてのことでしょう。どうしますか。と問うてみると。ワシはな、家の庭に穴を掘って、一年分の食糧なんかを持って、そこへ逃げる。それでアカンかな。なにせ核が相手だ。一年分ではアカンやろうかな。ということであった。

蛇島には天正年間に、若狭高浜の城主・逸見駿河守の城があった。若狭勢力がここまで伸びていた時代もあった。この逸見がヘビとなりジャ島となったとも言われる。
また次のような伝説も残る。
「蛇島と烏島」



戸島(舞鶴市白杉・長浜)

舞鶴湾の入口にある島が戸島である。この島の南側に少しばかり平らな所があり、そこが「青少年の島」として、いろいろな団体がキャンプをしている。タヌキがいる島でマスコットになっている。
 角川日本地名大辞典は、戸島

 〈 戸島(舞鶴市)
 舞鶴市、舞鶴港の東・西港分岐点に位置する島。湾内最大の島で東西約900m・南北約400m、全島山地で標高101m・白杉の地籍で、南部の小低地にかって畑地があった。島名の由来は、この島が湾口より約3.5km南にあって、湾内を日本海の風波からさえぎる門戸の役割を果たしていることによる。特に西港はこの島の恩恵を受ける。全島森林で、海軍用地になるまでは長浜・白杉両地区の入会地であった。明治30年舞鶴軍港2区に含まれたため、全島が買収され、同42年に火薬温室・海軍病院消毒所、昭和4年海軍工廠大砲発射場が設置された。第2次大戦後も国有地として残されていたが、現在は京都府へ貸し付けられ、「京都府青少年の島」として、夏季のキャンプに利用される。  〉 

「狸の写真」(戸島の狸) 「ぽんぽこ島キャンプ」 「青少年の島・戸島」



白糸浜(舞鶴市浜)

枯木浦というのは残欠の時代の呼び名であったと思われる。後には白糸浦とか白糸浜、白糸湾と呼ばれたようである。現在でも港湾関係では使われている名である。
天橋立は別名が多くあり白糸浜とも呼ばれるが、これは美称的な呼び名であろうかと思う。舞鶴の白糸浜は白糸という小地名があり、実体があってそう呼ばれるのである。白糸橋
右の写真はその白糸に架かる橋「白糸橋」である。国道27号線を西から東へ写している。陸橋の向側に白糸橋があるのだが、よく見えない。左の写真は川の上手から写しているが小さなトラックが走っているのが白糸橋である。東舞鶴市街地の入り口、寺川にこの橋が架かっている、この辺りを白糸と呼ぶ。白糸中学校や白糸浜神社が名を伝えるが、それらが現在ある場所が白糸なのではない。白糸橋(国道27号線・浜)
 現在の東舞鶴市街地は行政地名としては「浜」である。江戸期の浜村で、ずいぶんと広い地域であるが、この浜はフルネームで呼べば白糸浜であろう、もっと正確に言えば志楽糸浜であろうか。(写真の道をこのまま行くとすぐに与保呂川に架かる万代橋に達する、この辺りを万代浜とも呼んだそうであるが、それはたぶんかなり後世の美称的な呼び名であって歴史的地名ではなかろう)白糸橋(国道27号線)
 舞鶴市役所のある所は北吸きたすいきたすいきたすい糸という所である。地図を見てもらうと市役所がすぐ左手に見える。ここが糸という所である。市役所から下(南)へ左手へカーブしながら入る谷が糸谷とも呼ばれる。
その谷の東側の飛び地のようにあるのが白糸である。この辺り江戸末期から明治にかけて素麺の生産が盛んであった、従って白糸とはその素麺のことだと、地元の史家達はおっしゃる。私はとても信じる気持ちにはなれない。
 糸は倭人伝の伊都いといといと国のイトである。筑前国怡土郡、紀伊国伊都郡のイトである。素麺の糸ではない、弥生期にも遡る地名である。これらのイトの地名の語源についてはいろいろと解釈が昔からあるが、素麺説は聞かない。『書紀』のイソがイトになったという地名説話もある。石生いそういそういそう(兵庫県氷上郡氷上町)とか静岡県伊東市などの地名もこのイトであろうか。ひょっとすると本当に伊都国からやってきた人々の開発になるかも知れない。そんな馬鹿なと思われるかも知れないが、伊都郡は天日槍の裔・五十迹手(いとで)の故地であり、天日槍集団の根拠地であるが、伊都国と関係のある彼らが持ち来た地名なのかも知れない。北吸は古くは北宿とも書かれる。宿(すく)は朝鮮語の村(すき)であろうと思う。
現在の白糸浜
私は白糸は志楽糸だと考えている。志楽の領分の糸という意味である。何かどこかでそんな復元地図を見た記憶があるが、どこにあったのかもう思い出せない。現在は写真にある通りに陸地となっているが、古くは枯木浦が入り込んでいた。陸橋から先は海であり、その先に志楽が見えたと思われる。この地は本来は倉梯村のものであろうが、どうした関係か志楽村が領していたと思われる。倉梯糸と分けて志楽糸と呼んだと考えるのである。



志楽(舞鶴市)

上の写真で言えば、赤い車の跡をつけてこのままどんどんと東へ向かっていけば、すぐ市街地を抜けて、志楽にいきつく。現在は志楽という地はないが、志楽小学校や志楽川がある。志楽・設楽・白楽などとも書かれたが、いずれもシラクと読む。『和名抄』の志楽郷である、高山寺本に之良之の訓注があるが、之良久の誤りと思われる。先にも書いたが志楽の郷域はかなり広かったと思われるが、普通は志楽と言えば、もう少し狭く、志楽川の流域一帯の谷間を呼んでいる。海から若狭国境までである。写真は志楽川の河口である、これから左側(東側)が志楽と呼ばれる。後の形のいい山の麓に設楽神社がある。志楽川川口
シラクとは何の事であろうか。これは日本語なのだろうかと、疑いたくもなりそうな地名である。全国には同じ地名がある。
設楽しらくしらくしらく (岡山県邑久郡牛窓町牛窓)。村の前にあった海が埋め立てられてしまい、現在もこの地名が残っているのかどうか知らないが、有名な製塩土器の出る遺跡がある。角川日本地名大辞典は、

 〈  師楽遺跡 〈牛窓町〉
古代土器製塩の遺跡。邑久郡牛窓町師楽に所在。牛窓湾の北側、東より湾入した錦海湾の南側にある。昭和4年水原岩太郎が発掘調査を行った。出土した大量の土器は叩き目を有する独特な特徴から、遺跡名をとって師楽式土器と命名され、本遺跡は備讃瀬戸における製塩土器の型式名称のもととなった。また、この大量土器は、灰・炭を共伴したことから、当初は特殊な窯跡と考えられたが、現在では土器を使用して製塩煎熬を行った遺跡と考えられるようになった。遺跡は現在、住宅や畑の下になっているが、良好な包含層と土器層が残っている。周辺の錦海湾沿岸にも同様な製塩遺跡が分布している。  〉 
『続日本紀』の巻15の天平15年(743)5月28日条に、面白い記事がある。
 

 〈 備前国言さく、「邑久郡新羅邑久浦に大魚五十二隻漂着す。長さ二丈三尺已下一丈二尺已上なり。皮薄きこと紙の如く、眼は米粒に似たり。声鹿の鳴くが如し。故老皆云はく、゛「嘗て聞かず」といふ」とまうす。  〉 
一丈は10尺で3.3メートルくらいである。クジラかイルカの類であろうか。邑久郡の新羅の邑久浦は錦海湾のことであり、新羅の遺称が設楽であるとされている。

 こんな事で舞鶴の志楽も新羅なのかも知れないことになる。新羅と志楽は違うだろうと思われる向きもあろうかと思うが、たとえば、新羅の隣国の加耶は、カヤ(伽耶)、はカラ(加羅・伽羅・迦羅)、カラク(駕洛・伽落)などと出典・時代・地方によってさまざまな呼称や表記がみられるわけで、新羅しらしらしらが設楽・志楽となっても不思議ではないのである。

白久しらくしらくしらく (栃木県那須郡小川町・烏山町)。ここにこの地名があることは知っているが、これ以上は不勉強につき知らないので書けない。白久(栃木県那須郡小川町・烏山町)

志楽谷の海からの入り口が泉源寺であるが、この村は古くは波多村といった。波多は新羅系渡来人の秦氏のハタだろうと思われる。そうすれば、志楽はたぶん現在の市場付近であり、そこは波多村だったのだから、志楽が新羅であっても別段不思議でもないことになる。西舞鶴も八田であり、どちらも新羅系の海人の力がつよかったと思われる。
『丹後風土記残欠』は、

 〈 志楽郷 本字領知
志楽と号つくる所以は、往昔、少彦名命と大穴持命が天下治しめす所を巡覧し、悉く此国を巡行畢おえおえおえて、更に高志国に致り坐す時に当たり、天火明神を召して、汝命は此国を領知しらすしらすしらすべしと詔りたまう。火明神は大歓喜して、すなわち永母也青雲乃志良久国と曰く。故に志楽と云う也。(原漢文。永母也のところは少しおかしいようである。母を国とする写本もあるそうである) 少彦名と大穴持はさらに東の越の国へ去ってしまう、去ったのか追放されたのかわからないが、ともかく此の地は海部氏の祖・火明命が領知することになったようである。大穴持命・少彦名命と火明命の関係を示した注目すべき記事であろう。播磨風土記に、大汝命の御子を火明命とする所伝があり、偽作だ、混乱だではすませそうにもない記事である。とにかく志楽は海部氏の領知する土地となった。

『舞鶴市史』は、

 〈 志楽郷
 高山寺本は「之良之」(しらし)と万葉仮名で和訓を付しているが、これは「之良久」(しらく)の誤写であろう。刊本には訓はない。また、藤原京跡右京一坊内の古井戸より出土した、同京へ輸納の大贄木簡に書かれている「白薬」里は、その訓「しらくす」が音韻脱落すれば「しらく」となりうるから、白薬は当郷の古名であったとしてよい。ちなみに、白薬とは桔梗の異名である。なお、右記木簡の大賛「久己利(くこり)」魚はカワハギの一種で、丹後地方では現在でもクンコリ・コンコリ・コングリと呼んでいる。
 志楽は現在では志楽谷(志楽川流域)だけを指す地名となっているけれども、白薬里の貢納した大贄が水産加工品であることは、郷域に海辺が含まれていたことを示していること、さらに時代は下るが、観応元年(一三五○)、足利尊氏が山城国醍醐寺に修造料所として寄進した朝来村地頭職や、正平七年(一三五二)、足利義詮が醍醐寺三宝院に給与した河部村地頭職が、寄進状・書状(「三宝院文書」)に「丹後国志楽庄内朝来村地頭職事」・「丹後国志楽庄河部村地頭職事」と記されていることなどは、本郷が志楽谷のみならず、朝来谷(朝来川流域)・河辺谷(河辺川流域)およびその谷口周辺の海岸部にまでまたがる地域、旧志楽村・朝来村と旧東大浦村・西大浦村の一部を郷域にしていたと推定できる。
 なお、「福井県史」(史料編一 古代二六七頁)は平城宮跡出土木簡「□敷郡青郷川邊里、庸米六斗秦□ 天平二年十一月」の川辺里を、舞鶴市字河辺原・河辺由里付近に比定し、若狭国遠敷郡青郷の郷域が東大浦地区に深く入り込んでいたとしているが、地勢を度外視した丹後・若狭両国境界の推測は如何なものか。また、同県史は、文永二年(一二六五)の「若狭国惣田数帳」(「東寺百合文書」)に記載のある同国青郷の「田井浦」を舞鶴市田井に比定し、古代の青郷域とする。右の田数帳には「田井浦二町八反四卜 被押領丹後国志楽庄畢」とも記されている。なお最近、平城宮跡から青郷「田結]と書かれた木簡が出土して、この田結を田井とする説も出ている。  〉 
 私メのたぶん未発表の原稿に、この反論がある。もう5年以上以前のものだが、そのまま引用しておく。


キャ太郎「志楽とは桔梗だそうです、新説ですね。」
火美子「すぐに誤写と判断するのはよくないと思うけど、『和名抄』は他でも久とすべきところを之としている、訓注はいつの時代のものかわからないけど、志楽はシラシとは読めない、ここも誤写の可能性は高い。『平凡』は勝手に之良久と読み変えてる。
 桔梗は紫か白かの花が咲いて、根がお薬になるわ、何の薬かは知らないけど。たぶんのど飴に入っていたと思うけど。
桔梗の意味かしら。ここはそんなことにはならない。」
キャ太郎「広辞苑によりますと、桔梗の根は、去痰・鎮咳薬だそうです。桔梗の古名は、オカトトキ、キチコウです。平凡社の世界大百科辞典なども、万葉集に詠まれる秋の七草のアサガオが桔梗だとする説があるとしてますが、僕が調べた範囲には、現在の辞典類には、桔梗に白薬なんて古名や異名を記したものはありません。
牧野富太郎『植物知識』(学術文庫版)がずいぶん詳しいですが、《キキョウは漢名、すなわち中国名である桔梗の音読で、これが今日わが邦での通名となっている。昔はこれをアリノヒフキと称えたが、この名ははやくに廃れて今はいわない。また古くは桔梗をオカトトキといったが、これもはやく廃語となった。このオカトトキのオカは岡で、その生えている場所を示し、トトキは朝鮮語でその草を示している。このトトキの語が、今日なお日本の農民に残って、ツリガネソウ一名ツリガネニンジン、すなわちいわゆる沙参をそういっている。
 右のオカトトキを昔はアサガオと呼んだとみえて、それが僧昌住の著したわが邦最古の辞書である『新撰字鏡』に載っている。ゆえにこれを根拠として、山上憶良の詠んだ万葉集の秋の七草の中のアサガオは、桔梗だといわれている。今人家に栽培いている蔓草のアサガオは、ずっと後に牽牛子として中国から来たもので、秋の七草中のアサガオではけっしてないことを知っていなければならない。…》
 『万葉集』巻八、山上臣憶良の秋野の花を詠む歌二首に、秋の野に咲きたる花を指折りてかき数ふれば七種の花(1538)
萩の花尾花葛花なでしこの花 女郎花また藤袴朝顔の花(1539)
この朝顔については、岩波文庫版(伊藤博校注)は、《いかなる花か未詳。桔梗か。》としてます。
川口氏の「萬葉集植物帖」(十二)は、《朝顔は諸説の別れるところであるが、桔梗説が強力である》としてはります。
 貧窮問答歌など、憶良という人は今で言う社会正義派ですね。誰もとりあげないテーマをただ一人で詠んでます、『万葉集』が光るのは、だいぶにこの人のお陰です。現代でもこんなテーマが詠める人はめったにない。花だ夢だと歌ってる時かと誰か言ってましたが、でもわかっていてもこんな歌はなかなか歌えない。
憶良なんていう名ですから、この人も間違いなく百済系渡来人でしょう。」
 憶良四才のとき渡来したとされている。
キャ太郎「江戸時代の『和漢三才図絵)『和漢三才図絵』。寺島良安の著。正徳二年。1712。図説百科辞典百五巻。』の、桔梗の項に、白薬、梗草、薺?。和名は阿里乃比布木。とあります。
白薬にはルビが振ってありませんが、これはハクヤクと読むのでないですか。漢方薬の本草学上の異名を列挙してるらしき中にあり、和名は別に書いているのですから、まずこれはシラクスとは読まないと、僕は判断します。
志楽=白薬=桔梗説の市史が典拠としているものを明らかにしていませんが、あるいはこれかもわかりません。もしそうなら仮にこれをシラクスと読んだとしても、それをそれよりも千年以上さかのぼる昔の地名に当てはめるのは無理でないでしょうか。
 『出雲風土記』神門郡・飯石郡・大原郡条の草木、これは薬草に用いられたものを挙げているようですが、そこに「桔梗」が挙げられてます。これに岩波古典文学大系本などはすべてアリノヒフキとルビを振っています。風土記自体には訓注がありませんから、本当は何と呼んだか明確でありませんが、大系本など学問的権威のある本はみなそう読んでいます。
 また木簡の白薬里とは音借表記であって、土地の呼び名に無理に漢字を当てただけの当字ですから、本来表記された漢字には意味がないものでしょう。舞鶴シラクは現に志楽、設楽、白楽、白久と表記する文献が残ります。
白薬と書いてあっても、その漢字の意味を取ってはならない。万葉仮名として読まなければならない。これは地名学の常識です。
『丹後国加佐郡寺社町在旧記』は、志楽を白楽の谷とか、白楽の庄と書いています。
木簡の白薬里は白楽里の書き誤りでないのか、はたしてシラクスノサトと読むのか、今ともなれば誰にも正確にはわからないことです。角川はシラクリと読んでます。
 それから面白いですが、福井県史が、平城京出土木簡に、□敷郡青郷川辺里とあるので、若狭国青郷が東大浦地区に深く入り込んでいたとしているが、地勢を度外視した丹後・若狭両国境界の推測は如何なるものか、「若狭国惣田数帳」(1265)記載の青郷田井浦を、現在の舞鶴市田井とするのもどうか、としてます。
ずいぶん愛郷心のあるがんばる人ですね。」
火美子「自分の故郷を少しでも大きく立派に考えたいのかもわからない、そのホットなハートは愛すべきものだと思うけど、強過ぎると対象に対する正確な判断を誤るかもわからない。
本当は郷土史というものは、その郷土に生まれ育った人でなくて、できるだけ誰か遠くのクールに考えることのできる人に頼むのがいいのかもわからない。
 川辺とか田井などはどこにもある地名だから、それがただちに現在の舞鶴に含まれる地名なのかどうかはわからないけど、でもその可能性は高い、高浜にはそんな地名はない。違うと言うのなら、川辺里・田井浦が高浜の何処だといわなければならない。
境界線が現在と千年以上も以前も同じだとはいえない。
山や谷が複雑に入り組んだ所で、地勢なんてこと言っても、ほとんど主観的なもので、古代を考える客観的根拠にならない。地勢論なんて、そんなものをもちだすのは侵略主義者たちの侵略のための、苦しまぎれの時代遅れのエセ論理くらいのものでしょう。」
キャ太郎「田井や河辺より西の蛇島には高浜城主の逸見駿河守の城がありました。」



つまらぬ小説などを紹介して申し訳なく恐縮、シラクは金達寿の『日本の中の朝鮮文化』に詳しいので、幾つかを引いておく。

 〈 今村鞆氏の「朝鮮の国名に因める名詞考』によると、「志楽シラクシラクシラク郷・設楽シラクシラクシラク庄・志楽村」というのがあってこう書かれている。
   丹後国加佐郡の東部新舞鶴町の東に接す。『和名抄』加佐郡志楽郷。『東鑑』建久六年、丹後国設楽庄。今の志楽村は舞鶴の東若狭街道に当る。
志楽・設楽とは三河(愛知県)の設楽したらしたらしたら郷・設楽郡、また設楽神・志多良神とも関係あるもので、これが『朝鮮の国名に因める名詞考』のなかにあるのは、もちろん新羅しらぎしらぎしらぎということの転訛したものと考えられているからである。新羅がそれとなった例としては、武蔵(埼玉県)のもと新羅郡だったところに志楽郷・志木しきしきしきがある。
 尚、『和名抄』の武蔵国新座にいくらにいくらにいくら郡の志木郷(刊本)・志未郷(高山寺本)の未は、楽の草体で、志楽郷とする説がある、「之良岐」と訓むとする(地名辞書・志料)。現在の埼玉県新座にいざにいざにいざ市、和光市、志木市の辺りという。
「志木市のホームページ」

 〈 私はまずそのような「吉備王国」の周辺部となっている、「邑久おくおくおく郡の牛窓うしまどうしまどうしまど町からみて行くことにした。牛窓といえば、江戸時代の朝鮮通信使が通りがかりにのこした「唐子踊からこおどりからこおどりからこおどり」で有名なところであるが、ここにはもと志楽しらくしらくしらく、設楽しらくしらくしらく設楽ともいったところで、『吉備群書集成』にそのことがこうある。
   設楽(牛窓村)。是、新羅の文字なるべし。古いにしいにしいにしえ新羅の人多くおきけるよし、古木書に見えたり。新羅をしらきと訓せし故、しらくと転せしにや東片岡村に義経状に、しらこすしと有も、此所なるべし。みな通韻也。
 さらにまた、ここには新羅浦・新羅邑というところもあって、今村鞆氏の『朝鮮の国名に因める名詞考』にこう書かれている。
   備前国邑久郡。今の牛窓附近。『続日本紀』天平十五年備前国書う、邑久郡新羅邑久浦に大魚五十二……。  〉 
 
 氏が牛窓町長からもらったという、『牛窓風土物語』、貰っておきながらこういうのもナニながら、一見したところ皇国史観のかたまりであったそうなのだが、

 〈 その「師楽」の項をみるとこうなって、からおもしろい。
 師楽は牛窓半島の中部、阿弥陀山東北の麓で、錦海湾に臨む一集落であって、上古新羅人が土着開墾した土地と伝えられている。……
   新羅人は欽明天皇の二十三年、持統天皇の元年並に四年、次いで天平五年、天平宝字二年及び四年、貞観十二年及び十五年、霊亀元年及び天平神護二年等、相次いで彼等の移住が行なわれた。その為に牛窓附近は是等新羅人の根拠地として、開拓経営せられたらしく、古師楽(古新羅)・新羅浦・邑久浦等の地名を遺したのみで、文献の徴すべきものはないが、只ひとつ彼等が土着した証跡として、朝鮮の古代土器と同質の師楽式土器と、その窯跡が発見せられた事は、これを証明する唯一の資料として貴重である。  〉 
愛知県北設楽郡・愛知県南設楽郡。京都府相楽郡相楽郷。信楽…などの地名も気になるが、又の機会に考えてみたい。



設楽神社(市場八幡神社・舞鶴市市場市場)

舞鶴市大字市場の小字市場に設楽神社とも称された八幡神社が鎮座している。この鳥居の向こう側にJR小浜線の線路がある。本殿へ行くには線路を渡らなければならない。
私はそれだから、中世の市場の地こそが古代の志楽だろうと推定するわけである。もとよりそれを証明する書はないが、この神社名が証拠になるかも知れない。本来の祭神は新羅の神様か天日槍あるいは秦氏の祖であったであろう。
 市場は地名の通りに東舞鶴のかつての経済の中心地であった。明治になり舞鶴鎮守府ができ軍港都市建設で市場の西側の浜村が整備されて、こちらに中心は移った。明治30年代くらいまでは、いろいろな商店が軒を並べ一応は揃っていたのはここの市場だけで、中舞鶴以東の村々の人たちはここで物を買った。市場八幡神社
 舞鶴市は大きな町であった、現在では舞鶴といっても通用しない、ああ大分県でしたか、などと云われる。しかし戦争たけなわ時には人口15万以上にふくれあがり、その時点では人口においては日本海側第二の都市となっていた。(当時の人口の確かな統計はない)
 『神社調査書』に、
(市場八幡神社)
 〈 一、神社所在地 京都府加佐郡新舞鶴町大字市場小字市場鎮座

二、社格神社名 村社 八幡神社

三、祭神 誉田別尊 相殿市姫大神
四、由緒 創立時代 創立後ノ沿革 皇室及武将トノ関係及地方トノ関係口碑伝説列格並ニ幣帛供進及会計法通用ノ指定年月日
 当社祭神誉田別尊市姫大神ヲ奉祀ス亦ノ御名八幡大神市杵嶋姫命ト称ス古老伝ニ曰ク創立年代不詳ト雖モ朝日刺ス当港白糸浜ハ北海鎮護ノ要港ニシテ市姫大神往昔巌嶋ヨリ市場宮ノ谷ノ御碕白糸浜ノ辺東面ニ鎮座シ専ラ海上ヲ守リ賜フニヨリ其御神威赫矣日ニ月ニ奇瑞ノ霊験ヲ蒙ムル者不少依而世人大神ヲ設楽神社亦海鎮座明神ト尊称スルニ至レリ斯トテ中世姫大神ノ神託ニヨリテ宇佐大神を合殿ニ奉祀シテヨリ其神験益々高ク神徳永シヘニ揮キ冥旻シ?シサシ玉フコト最モ顕著タリ而シテ諸人大神ヲ尊崇シテ自然八幡神社ト一社号ヲ表スルニ至レリ爾来当社繁栄シタシガ応仁ノ乱世ニ大ヰニ衰微セシヲ天正年中市場城主逸見駿河守是ヲ歎キ神殿ヲ修造ス慶長年間田辺城主細川越中守特ニ当社を敬シ海防ノ神トシテ神田ヲ寄セ拾壹月八日御火焚神事ヲ復古セラレタリ元文四己未年拾壹月?田辺城主牧野家??御殿ヨリ木造ノ鳥居御寄進アリ天明貮年五月貮拾六日領主牧野豊前守棟梁トシテ神殿ヲ御造営セラル明治六年村社ニ列セラル明治参拾貮年壹月貮拾八日八幡神社市姫神社ニ?ノ御額字正三位伯爵油小路隆薫殿ヨリ御下賜則チ今ノ御額字也
大正貮年拾月貮拾四日神饌幣帛供進及会計法適用ノ指定セラル  〉 
志楽川の河口から設楽山(?)を望む兵主神社や箭取神社が境内にある。これは鉄の神社のようである。天御影志楽別命の神社であるかも知れない。この神社の裏山には中世、設楽五郎左衛門の城があり、のち彼を破った若狭高浜城主・逸見駿河守の市場城があったという。市場は志楽市場と中世以降の古文書に書かれるようである、その志楽市場は現在の市場と竜宮や愛宕等を含む地であった。
嘉永五年(嘉永1852)に『田辺旧記』を著す田辺竹屋町の重鎮・逸見与市左衛門久堅は逸見駿河守の裔という。



天御影志楽別命

本系図にも三世孫倭宿禰命として見えるのであるが、勘注系図の三世孫・倭宿禰命についての注文に、次のようにあるそうである。『古代海部氏の系図(新版)』に、

 〈 亦の名は天御蔭命、亦の名は天御蔭志楽別命、母は伊加里姫命なり。神日本磐余彦天皇の御宇に参赴て、祖神より伝来りし天津瑞の神宝(息津鏡・辺津鏡是なり)を献じ、以て仕え奉る。(弥加宜社、祭神天御蔭命は丹波道主王の祭り給う所なり)此の命、大和国に遷坐の時、白雲別神の女豊水富命を娶り、笠水彦命を生む。(笠水は宇介美都と訓めり).(原漢文)  さて大変な所に来てしまった。まず鏡から始めてみようかと思う。辺津鏡
鏡の記事は勘注系図の巻首にもあるが、ここでもう一度でてくる。息津鏡は直径175ミリ、内行花文長宜子孫鏡で後漢時代のもの、辺津鏡は直径95ミリ、内行花文昭明鏡で前漢時代のものである。当主の代替わりごとに口伝ををもって厳重に伝世されてきたものという。この時代の鏡は墳墓の副葬品として土の中から見つかることはあるが、伝世したものはないといわれる。昭和62年に公表されて、国宝となっている。
 始祖火明命が弓矢を副えて天祖から授かったものであると巻首にはある。これらの鏡については、他の古文書の類にはいっさい記載がなく、籠神社当主くらいしか知らなかった鏡であろうと思われる。従って秘蔵の鏡についての記事がある勘注系図を偽書とするわけにも、その勘注系図に引用される『丹後風土記』残欠を偽書と決めつけるわけにもいかなくなる物証のようなものとなる。息津鏡
 前漢鏡は日本では北九州の甕棺墓くらいしか出土しないものである。海部氏の遠い祖もその辺りに出るのであろうか。伊都国の王墓ともいわれる三雲遺跡(福岡県糸島郡前原町)の一つの甕棺から江戸期に35面の鏡が出土したが、そのほとんどが前漢鏡だったといわれる。奴国王墓ともいわれる春日市須玖の岡本遺跡の甕棺から23面の鏡が出土したが、大半が前漢鏡であった。この時代は「王墓」といっても他の甕棺と一緒に埋められており、特別に大きな立派な甕棺というわけではない。ごく普通の周囲の甕棺と同じものである。そこからピカピカの前漢鏡がこれだけも出土する。
栗太郡栗東町の下マガリ遺跡(弥生後期)から前漢鏡の小さな破片が出土した。近畿地方では4例目となり、ここが前漢鏡出土の国内東限だそうである。五十ばかりの遺跡から百三十面はがりの前漢鏡が出土してそうであるが、ほとんど九州北部の弥生中期の王墓からのものである。

「前漢鏡」 。どこのニュース記事なのかわからないのであるが、Web上に、

 〈 福井県福井市花野谷町の古墳時代前期の円墳、花野谷1号墳(径18m)の木棺跡から、前漢鏡である連弧文銘帯鏡(径9.6cm)と三角縁神獣鏡(径22cm)がそろって出土したと、同市教委が発表した。九州以外の古墳から前漢鏡が出土したのは初めて。また、連弧文銘帯鏡は摩耗が著しいことなどから、長年に渡って祭祀に用いられた伝世鏡と見られる。三角縁神獣鏡は四神四獣鏡で、黒塚古墳出土鏡と同型。   〉 
とある。2000/8/31に福井市の花野谷1号墳(古墳前期・4世紀前半、円墳18m)に西漢(前漢)の連弧文銘帯鏡と三角縁神獣鏡(天王・日月獣文帯四神四獣鏡)副葬。西漢鏡は伝世品。三角縁神獣鏡は黒塚古墳などに同型鏡が発掘されている。船井郡園部町の今林6号墳から後漢鏡が出土した。「薗部・古墳周辺」
これらを根拠に『宮津市史』は、これら籠神社の二面は近くの古墳から出土したものでないかとしている。弥生期から伝世してきた二面の鏡を古墳時代になってから副葬して、そして又後世に発掘されるなどして伝世し続けたことになる。これは不可を二乗するものであろうと私は考える。
 古事記に記載される、天乃日矛の持ち渡りし来し八種の神宝の奥津鏡・辺津鏡であろうかとも考えられる。
 日本最古の伝世鏡を伝える籠神社が元伊勢と名乗るのは故があるのである。
 籠神社の現在のご当主は82代目だそうで、82代×25在位年数=2050年となり、前漢鏡が伝わっていてもおかしくはない計算にはなる。

その鏡についての記事がある、大事な注文なのだが、天御蔭や志楽別や白雲別や豊水冨(伊加里姫)や笠水彦など、すべて舞鶴の名称に関係のありそうな人物ばかりが登場する。舞鶴とはどういった所なのだろう。舞鶴人でありながら、エッそんなに大事な所なのと、とまどうのである。この注文はそのままが史実であるのかどうか疑問ではある、伝説や神話的なものになっているのであろうが、まったくの捏造というわけでもあるまい。いくらかはいつの時代かの史実を反映しているであろう。
 倭宿禰は神武その人だとする説もある。この注文のように神武に鏡を献じて仕えたとするものもある。それならなぜにその鏡が籠神社にあるのであろうか。いずれにしてもそれなら鏡はないはずである。
もし倭宿禰が神武なら、神武は舞鶴から大和へ入ったことになる。おおかたの古代史家が腹をかかえ泣いて笑ころげるかもしれないような話になる。
しかしこの話は完全にでっち上げとばかりも言えない。9代の開化に丹後の竹野媛が嫁いでいる。それまでは大和政権といってもただ大和とその周辺だけの狭い地域であったが、この頃から丹後(丹波)と連立政権となり、ようやく国らしいものとなってくる。丹後の勢力が大挙して大和へ入っていることは否定はできないだろう。当然に「物々交換」であって、記録からは抹殺されているが、丹後の竹野媛が嫁いだのなら、大和天皇氏からも誰かが竹野へ嫁いだことであろう。征服したとか支配下においたとかいったものでなく、大和からも人がきたであろうし、丹後からも人がいっているのである。その一人が倭宿禰であったかも知れない。伊勢の外宮に丹後の神が祀られるのはこんな故ではなかろうか。
亦名を天御蔭命という。これは森の式内社・弥加宜神社に祀られる祭神である。ここも勢力範囲であったと思われる、元々は近江の御上神社の片目の製鉄神である。大岩山銅鐸や最近の下ノ郷弥生遺跡の発掘で有名な所である。
 亦名の天御蔭志楽別命、これはシラクワケと読んでいいのだろうか。それともシラワケとでも読むのだろうか。新羅からの渡来神で製鉄の神様という意味だろうか。まさに天日槍という感じがする。



大倉岐命


倭宿禰は尾張氏系図にはない。海部氏でも倭宿禰は大倉岐命や十四世孫川上真稚命の亦名でもあるという。大和宿祢は大和国造家の祖でもある。いよいよ何が何だか頼りない頭脳にはわからなくなる。誰にも確かなことはわからない。勘注系図を書いた人にもよくわからなかったのだろうか。
 大倉岐命は志楽谷の小倉地名の元であるともいわれ、現在は志楽小学校向かいの阿良須神社の布留山神社がそれであるといわれる。勘注系図の注文に、

 〈 亦名を大楯縫命。稚足彦天皇(=成務)御宇癸丑年夏五月、桑田郡大枝山辺に大蛇有り、而人民被害を為す。則此命直方市愁い、群臣を率い之の征伐を将いた時、大山咋命が現れて之を助けた。群臣と之を斬る。此時孤独窮口を憐撫する状が天聴に達した。故楯桙等を賜り而して丹波国造を賜った。加佐郡志楽郷長谷山に葬った。(原漢文) 風土記残欠にも、

 〈 長谷山墓大倉木(以下虫食)  残欠の大倉木社は現在の阿良須神社境内の布留山神社であるという。右手の少し高いところにある社である(左手は阿良須神社)。阿良須神社(舞鶴市小倉)
「室尾山観音寺神名帳」の正三位大倉明神にあたる。
なお同帳の正三位津夫良明神は、『元初…』によれば大倉岐命の配偶女神であるという。どこかこの辺りに祀られていたのではなかろうか。ツブラというのは稲積のことで穀霊をまつる女王であったかとも思われる。あるいは穀霊そのものかも知れない。
 一方大枝山(老ノ坂のある山。丹波・山城を分ける山)での大蛇退治伝説を持つ大倉岐命はやはり鉄の人であろうか。八岐大蛇退治伝説を思い起こすが、丹後の鬼退治伝説の大もと的な説話であろう。
 鎮座地の裏山がフル山である。布留の大神とか石上神宮(天理市)を呼ぶが、フルは朝鮮語の火や日、光明のことで、ここは製鉄の火を意味していようか。布都御魂とも呼び、武器であろう。鉄とか武器に関係する地名である。『神社資料集』は、当地のフル地名について、

 〈 小字布留は古のお旅所と云ふが「フル」とは「クシフル」とか「ソフル」などでも判るとおり韓語の首邑との意であって新羅来(シラキ)に縁由するのではなかろうか。  〉 
フルには二つ意味があって、村を意味する言葉でもある。ソフルのフルであり、フルは現在でも村を意味する日本語でもある。思いもよらぬ故に気がつかないだけで結構な数、日本にもあるのである。触といったりもする。フルがムルとなり村となったのではなかろうか。ここがクシフルの地であってもおかしくはない。春日・草下・ヤスカ・アスカ、あるいはカハラとも呼ばれ、カサとも呼ばれた地であり、玖賀耳御笠の地である。これらの地名はすべてクシの転訛とも思える。「古代のフル地名」(金沢庄三郎はかく語るが、これは村の意味である。)
 しかしここのフルは火であろうか私は考えている。「おまつ神事」という火祭が伝わる。いつの時代のものか知らないが窯趾があるという。長谷山
 舞鶴市内でも「風呂」という小地名があちこちに見られる、岩滝町弓木の大風呂南墳丘墓、多量の鉄剣などが出土した、まさか銭湯があったわけではあるまいと思われるような山の中にもある。これについては諸説あるが、丹後の多くの論者がいうように寺院の本当のお風呂があったのかも知れないが、案外にこのフルの転訛かも知れない。このページ上の方で書いたが、テポドンのドンとも同じ洞穴のホラの転訛かも知れない。何か穴があった、竪穴であろうか。フル・フロは鉱山の竪穴である可能性も高いし、あるいは開口した墳墓の地であるかも知れない。フネ・フナという地名もこれに似ているかも知れない。下の写真にあるような水受けは現在でもフネと呼んでいる。漢字で「舟」と書く場合は「丹」である可能性もある。朱の産地にもなる。
 舞鶴の岡田地方へ行くと、富室ふむろふむろふむろ、長之室ちょのむろちょのむろちょのむろ、滝ケ宇呂たきがうろたきがうろたきがうろといった地名がある。フムロはフロムロでフロもムロも同じということではなかろうか。ムロ・フロ・ウロというのは同じことのように思われる。こうした地名は溶鉱炉のことを意味する場合が多く、フルもあるいは溶鉱炉の可能性があろう。

葬られたという「志楽郷長谷山」はどこだろう。ここは現在でも長谷山と呼ばれるが、白糸浜神社の南側の山である、新舞鶴小学校裏山で、倉梯郷ではないかと思えるが、ここも志楽郷であったのだろう。国鉄の小浜線敷設工事中に古墳が発見され破壊された。その石材は近くの両国橋や白糸浜神社の手水鉢に使われたという。
 上の画像は長谷山、下を流れるのが与保呂川、両国橋がかかる。その後の高架線はJR小浜線である。白糸浜神社の手水鉢(現在のもの)両国橋は古の若狭街道であり、松尾寺巡りの巡礼道でもあった。

 大倉岐命の石棺ではないかと、白糸浜神社へ行ってみたが、現在は新しい物となっていた(右画像)。私が子供の頃はこれではなかった、場所も違ったと記憶しているが、もうわからない。大倉岐命は実在したかどうかもわからない。惜しいことをした。被葬者が明確な丹後では唯一の古墳であったのに。

白糸浜神社(舞鶴市浜)は府社ではあったが、歴史は新しい神社である。軍港整備とともに出来た神社である。『ふるさとのやしろ』に、

 〈 浜地区が軍港の町となる前、白糸湾に面したこの地には三つの社があった。寺川尻には水無月神社、七条通八島南には蛭子(えびす)神社、八島児童公園のあたりに稲荷神社。大正の初め、水無月神社境内が軍用地になるのを機会に。この三社を合祀した「白糸浜神社」として、新舞鶴町の氏神とすることになり、河川改修、区画整理された与保呂川東岸の現在地に、大正二年移転、同四年に社殿建築、同七年に村社、同一三年に郷社と社格が上がり、昭和十九年三月には大森神社と肩を並べる府社となった。秋祭は戦後「だるま祭」の初日、十一月一日としていたが、最近神輿のかつぎ手の集めやすい十月下旬の日曜日に変った。
 拝殿にはベルリン・オリンピックの棒高跳で西田修平選手とともに二、三位を分けた大江季雄選手奉納の竹棒が、長押(なげし)にかかっている。  〉 
舞鶴の出身、この神社の氏子ですぐ近くに住んでいて、この社前を通りすぐ近くの新舞鶴小学校に通ったであろう、大江季雄選手についてはコラムでとりあげています。
「コラム」。
志楽は次のページ(「志楽つづき」)へ続きます。






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