丹後の地名 若狭版

若狭

福谷(ふくたに)
福井県大飯郡おおい町福谷


お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。


福井県大飯郡おおい町福谷

福井県大飯郡大飯町福谷

福井県大飯郡佐分利村福谷


福谷の概要




《福谷の概要》
佐分利街道(県道1号)が通る谷筋でないので、少しわかりづらい所だが、支流福谷川流域の広い谷。県道1号(小浜綾部線)と16号(坂本高浜線)が合流する交通の要所で、今も高速のインター(大飯高浜IC)があり高架がギリギリマイマイしている所である。
ワタシが住んでいる所の近くにも当集落出のおバアちゃんがヨメに来られていたが、フクタンと呼んでおられた。今は谷はタニと呼んでいるが、ワタシらの親世代くらいまではすべてタンと呼んでいた。タンは渡来語の発音そのままである。福谷は吹く谷であろうか。銅を吹く、カネを吹くの意味でなかろうか。

福谷は、室町期に見える地名で、伊射奈伎神社所蔵の鰐口銘に「若州福谷天満大白在天神宮鰐口、応永十一年〈甲申〉九月九日、願主座衆〈敬白〉、大工遠敷郡金屋左近」とある。応永十一年は、1404年で、この鰐口は遠敷郡金屋鋳物師の初期の作品としても貴重であるという。また福谷天神宮社は式内社伊射奈伎神社のことと思われ、文永2年11月の若狭国惣田数帳案の国衙領佐分郷のなかで7反の免田を与えられている「福谷宮」を指すものと考えられている。
福谷村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年佐分利村の大字となる。
福谷は、明治22年~現在の大字名。はじめ佐分利村、昭和30年からは大飯町の大字。明治24年の幅員は東西10町余・南北4町余、戸数55、人口は男133 ・女157。


《福谷の人口・世帯数》 118・46


《福谷の主な社寺など》

古墳
地内に古墳が点在する。
伊射奈伎神社(式内社)

集落西端に鎮座する。境内は広く社叢が茂り社殿は南面する。祭神は伊奘諾尊。旧郷社。「延喜式」神名帳の伊射奈伎神社に比定される。また文永2年の「若狭国惣田数帳写」にみえる「福谷宮」にあてられる。
延宝3年(1675)の「若州管内社寺由緒記」には「福祥山際(隆)興寺天満天神、時代由緒不知、山林竹木祝屋敷御赦免、十七ヶ村の大社にて御座候」とあり、江戸時代初期には天満宮として栄えていた。また「若狭郡県志」は「福谷天神社」として、「在福谷村之内上村、為産神九月十五日祭日而有神事能、正保二年酒井忠勝公有祈願之事而修補神殿」と記す。氏子圏は福谷・石山・佐畑・小車田・川関・安井・久保の各村である。文化4年(1807)の氏子戸数は165。社宝として応永11年(1404)銘の鰐口がある。銘文に「若州福谷天満大自在天神宮鰐口 応永十一年甲申九月九日 願主座衆敬白大工遠敷下金屋左近」とある。また同13年の奥書のある大般若経もある。奥書には「于時応永十三丙戌閏六月七日於若州大飯郡佐分□(鄕カ)平岡善楽寺書焉 大願主比丘周文」とある。奥書中の善楽)寺はもと当社の別当をつとめていた真言宗寺院であったという。同寺のものであったと思われる懸仏が一面残るが、寺の詳細は不明。

『大飯町誌』
伊射奈伎神社(旧社号・福祥山隆興寺天満天神・式内・元郷社)
祭神 伊弉諾尊
所在地 福谷字宮前(四八の七)
境内地 三、三二三・一平方㍍
氏子 福谷、石山、佐畑、小車田、安川、久保 一六五戸
例祭日 十月十五日
宮司 上原善太郎
主な建造物 本殿、拝殿、舞台、社務所、手水舎
特殊神事 豊年祭、神代祭、獅子舞、太刀舞、神楽、山・神事能
由緒・系統 九二七年以前の古社で多くの社宝がある。周文の写経。明治十六年、現社号に改めた。熊野系
〔合祀社〕(明治四十四年、次の九社を合祀)
熊野神社
祭神 事解男命、伊奘冉尊、速玉男命
由緒・系統 元久保、石山、福谷の三社 一六七五年以前創建 熊野系
八幡神社
祭神 応神天皇
由緒・系統 元安井、川関、小車田、佐畑の四社 安井・川関の八幡社は一六七五年以前、他は一五九〇年以前の創建 八幡系
姫宮神社
祭神 多紀理毘売命、狭依毘売命、多紀津毘売命
元地 小車田字宮前
由緒・系統 一五九〇年以前創建 姫宮信仰
山神社
祭神 大山祗命
元地 久保
由緒・系統 山神信仰
〔末社〕
稲荷神社
祭神 倉稲魂命、大田命、大宮姫命
由緒・系統 稲荷系
八幡神社
祭神 応神天皇
由緒・系統 八幡系
山神社
祭神 大山祗命
由緒・系統 山神信仰


伊射奈伎神社
 字宮前所在。中古天満宮(延宝三年の届出書には福祥山隆興寺天満天神とある)として栄えていたという史実がある。天神社を天満宮(菅原道真)と誤り伝えたという解釈が理由となって、式内伊射奈伎神社と認定されたのだという。もちろん、ほかにも熊野神社(同祭神)関係などの傍証があったかもしれないが、奈良県五条市字今井に鎮座の式内荒木神社も天神の森といっていたのを、祭神は菅原公でないと定められた例がある。
 鎌倉時代の『田数帳』に「福谷宮七反(不輸田-免税の田)」と出ていて、これには天神社とも天満宮とも書いてない。七反歩の田が免税地となったのだから田舎の宮としては中位の社であったと思われる。
 社宝中最も古いものは如来像(藤原時代?)一体であるが、これは元小車田の姫宮神社に祀られていたもので、同社の合祀に伴ってここに移されたものである。ほかに、鎌倉ないし南北朝ごろのものかと思われる十一面観音座像の掛仏(木造背板径五一・五センチメートル、仏像も木造)一面、ほかに青銅背板のものが六面ある。本殿を後方の山へ移した時山から出た壺があるが、鎌倉か室町ごろのものであろう。
 室町・足利時代と明瞭に分かるのは、応永十三年(一四〇六)と奥書のある画僧周文の古写経と、応永十一年の銘入りの鰐口である。この二点にょって室町時代の状況がうかがえるのであるが、当時伊射奈伎神社は天満宮として祀られ、社前にあったという善楽寺(真言宗)という別当寺に支配されていた。その寺に寄寓していたのが周文で、ここで数年間(三年ともいう)修行していたらしい。
 その間に五部大乗径二〇〇巻を写し奉納したのである。後その半分は京都府奥上林の君王山寺に移され、当社には一〇〇巻だけが残されていたという(今は虫食いのもの四一巻だけ残っている)。「時に応永十三年丙戌五月二十二日若州大飯郡佐分郷善楽寺に於て大願主周文謹んで焉を書す」と奥書してある。
 これが社頭の最も栄えたときで、『若州管内社寺由緒記』には「福祥山隆興寺天満天神時代由緒知れず、山林竹木祝屋敷御赦免十七ヶ村の大社にて御坐候。」、また『若狭国志』には「佐分利郷十ヶ村祭典を共にし、華表の礎石山村にあり、外華表(そとのとりい)と称す。」(この鳥居は石山西方寺付近)と記している。そのころから佐分利一七力村の郷社であったことが明らかである。
 宝永四年(一七〇七)の国中高付にも、「天神九月十六日能仕り候。但し鹿野、小車田、佐畑、石山、川関、安井、久保、三森、川上十ヶ村(福谷を入れて)立合」とあって、江戸時代には能舞を十力村立ち会いで奉納する例になっていたのである。今も散楽面二面が残っている。「正保二酒井忠勝社殿修補、寛政一一酒井忠貫同修築」して鎌倉以後江戸時代全期間にわたってこの神社の栄えていた様子がうかがわれる。
 隆興寺は天満天神の寺号であり、善楽寺は別当寺(鳥居前東側の畑地一反ばかりがその跡だという)であるといわれている。周文がいた応永十三年まではともかく寺運は衰えていなかったであろう。明治以後も「明治十六社号を現称に改む、大正十五郷社に昇格」と順調に進んでいる。


『大飯郡誌』
〔若狭国神名帳〕正五位伊射奈木明神
〔若狭郡県志〕〔若狭国史〕未知其處
〔稚狭考〕伊射奈伎 長井萬願寺神崎篠谷石山久保此六ケ村熊野明神とて祭る是なり紀の国熊野伊射奈伎神を移すなり何れも左分利谷也。
〔神社私考〕(杉本)委道云加斗荘飯盛村の内荒木といふ處に伊射の森といふが在り森中に大なる椎二株に注連繩を曳き山ノ神と称して正月と十月の九日に祭る比古伊射奈伎神社の在所と聞伝たり。
参考〔飯盛寺文書〕応永三十年寺社目録 湯屋の森
(按に佐分利谷福谷にも伊射奈伎の無格社あり、合考の要あり矣)


郷社伊射奈伎神社 祭神伊弉諾尊外六神(合祀) 福谷字宮前に在り  境内千七坪 氏子五十五戸 境外所有地四町一反七畝二十四歩 社殿〔〕拜殿〔〕社務所〔〕鳥居一基 制札〔〕石燈籠獅子狛犬手水鉢水舎〔〕
由緒〔明細帳〕元亀年間焼失由緒不詳と雖古老傳ふ延喜式内伊射奈大明神是なりと中古以来天神社と稱せし處明治十六年三月二十二日現稱に改む(大正元年八月二十一日指定村社となり、同十五年二月十五日郷社に昇格せり()()
〔文永二年太田文〕 神田の内 福谷宮七反 佐分郷。
〔鰐口銘〕 若州福谷天満大自在天神宮鰐口応永十一年甲申九月九日願主座衆敬白大工遠藤下金屋左近。
〔若狭郡縣志〕 福谷天神社 在福谷村爲産神九月十五日祭日而有神事能正保二年酒井忠勝公有祈願之事而修補神殿
〔若狭國志〕 佐分利郷十村共祭典華表礎在石山村稱外華表路(ソトノトリヰバ)
〔寛永四年國中高附〕 天神九月十六日能仕候但し鹿野小車田佐畑石山川関安井久保三森川上拾ヶ村立合。
神域内に古木老樹〔〕多く 神賓中記す可きもの不尠 (一)鰐〔〕は本郡内に於る最古の金石文たリ (二)古寫經〔〕亦意居寺の國寶應徳の寫經に次げる最きものたり兩部習合の時代の遺物にして大般若經も全部ありしに排佛毀釋餘響として等閑視され保存不完全にして其多くは朽腐手を下し難きは可惜 (三)掛佛口上時代の木製〔〕、銅製〔〕五枚、(四)古能面二あり。境内社三社稲荷神社祭神倉稻魂尊 社殿〔〕 八幡神社同應紳天皇 社殿〔〕山神社同大山祗尊 社殿〔〕
明治四十四年三月十日左の九社を合併せり。
村社 熊野神社祭神伊奘冊尊 久保 字南村中 境内社山神社同大山祇尊
〔寛永四年國中高附〕 熊野権現九月八日面當仕候 〔若狭郡縣志〕在久保村林中。
〔稚狭考〕式内伊射奈伎 長井萬順寺篠谷石山久保此六ヶ村熊野明神とて祭る是なり紀の國熊野伊射奈伎神を移すなり何も左分里谷也 〔按に福谷にも無格社の此社あり何けとは定め難けれど此設可然乎〕
 同 八幤神社  同 応神天皇 安川  字東奥谷
 同 同      同      同   字北関川原
〔若狭郡縣志〕 若宮八幡社 在川関村爲産神九月八日有祭禮。
〔文永二年太田文〕 神田ノ内 若宮二反百二十歩(内)佐分郷一反
 同 熊野神社  同伊奘冊尊  石山  字宮前
 同 姫宮神社  同多紀理毘売命狭依毘売命多紀津毘売命 小車田 字宮前
 同 八幡神社 同大山祇命 応神天皇 佐畑 字四谷
 無格社 八幡神社 同応神天皇 小車田 字大谷
 同   能野神社 同伊奘冊尊 福谷  字君前.


県天然記念物のウラジロガシ     ↑


曹洞宗徳松山長福寺

『大飯町誌』
徳松山長福寺
宗派 曹洞宗(海元寺末)
本尊 馬頭観世音菩薩
所在地 福谷字宮本(五〇の一)
主な建物 本堂、庫裡
境内地その他 境内七〇七平方㍍、境外一五、〇二八平方㍍
住職 原田龍幸
檀徒数 五一戸
創建年代 天正十三年(一五八五)
開山 海元三世、周巌大和尚


長福寺
 江戸時代の幕藩制下では『若州管内社寺由緒記』に天満天神のほかに長福寺の件が現れている。「禅宗相国寺末長福寺本尊馬頭観音作者知れず、開基開山も知れず。長福寺住持周伝」とある。この寺は「父子海元寺三世周家和尚が天正十三年(一五八五)に創立した」と、明細帳に出ているので、武藤氏滅亡後に建てられたことが分かる。所在地は字宮本で、境外所有地が昔は一町五反余もあった。


『大飯町誌』
長福寺 同 同  福谷字宮本に在り 寺地二百十四坪 境外所有地一町五反一畝十六歩 檀徒五十八戸 本尊馬頭觀音 堂宇〔〕由緒〔明細帳〕天正十三年甲申三月海元寺三世周家和掏創立。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


福谷の主な歴史記録



『大飯町誌』
福谷
 石山橋を渡って北西の谷へ入って行くと、福谷の集落である。役場からは一二キロメートル、人家は湯ノ谷、上町(上条)、佐野地に集まっている。
 この集落にも古墳があった(見城久兵衛家の付近)が、大方は石材を利用するために破壊されてしまった。須恵器も出土したという。また、中川長右衛門家元屋敷の泉水跡といっていた石組を当主が破壊したところ、下に栗石を敷き並べ、その中から須恵器の高坏、ハソウ、直刀などが出土した。入口と思われる方は東であったという。
 専門家の確認はないが、これらの口碑によって明らかに古墳と思われ、古墳時代からの集落と見るべきであろう。
武藤氏との関係
 武田信栄が一色義貫(義範)を滅ぼして、翌嘉吉元年(一四四一)に武田信賢が若狭の守護となって初めて入国する時、十月二十二日に佐分郷で合戦があったと『吉川記』に記してある。武田の臣吉川経信が佐分利にいた一色の残党(一色五郎守邦ら)を討ったのであろう。
 このとき武田軍に従っていた武藤上野介(初代)もここで戦功を立てたと思われる。この戦乱は一色を掃討するための戦いで、善楽寺は一色氏の拠点となり、境内のウラジロガシ(現在県指定の天然記念物)の焼痕はその兵火の際に受けたものだという。
 武藤上野介が石山城に威を振るっていたころ、高浜の逸見駿河守との間にしばしば死闘が繰り返された。そのとき逸見軍が足だまりとして、福谷坂の弓射場という所(峠から一〇〇㍍余り下った平坦な場所)を選び、そこから武藤方の陣地へ弓を射たという伝説が残っている。
 安川境の寺谷という所に礎石や五輪や古い墓石が累々として残存しているという。ここに武藤上野介の寺院があったのだと伝えているが、それを証するものは残っていない。同じく味噌谷山という谷に(寺谷ともいう)その分寺があったのだという。
 また、速田谷(そうだだん)という所は住屋荘司という者の屋敷跡で、代々神職をして村の上座を占め、佐分利谷一七力村の取り締まりをしていたというが、これは祝部屋敷が免許になっていたという『若州管内社寺由緒記』の上掲記事によってある程度の真実性がみられる(岩崎左近家文書三号)。
薬師堂
 見城久右衛門家の下に薬師堂がある。石山城の正面にあるので、城を見るという意味からか、見城薬師と言っている。元の本尊は四七〇年ほど前に高浜の宮崎へ移し、そこでも見城薬師と言っている。現仏像はその代わりに祀ったものである。
大火勢
 当集落には「大火勢」と称する県指定の火祭り行事がある。毎年八月二十三日と二十四日の夜、火勢山で集落の青壮年総がかりで行われるまことに豪壮なものである。三〇〇年来の伝統行事といわれ、昨今は町外からの観光客の見物も多くなっている。


福谷の伝説、民俗など


大火勢
大火勢は県無形民俗文化財に指定されている。迦具土神を迎える火祭りという。
『大飯町誌』(写真も)
大火勢 福谷
県指定
 福谷の大火勢は三〇〇年の伝統があるといわれ、区長や大火勢保存会の人々により今日まで受け継がれてきた迦具土神をお迎えする誠に豪壮な火祭りである。 八月二十三日夜は伊射奈伎神社へ、二十四日夜は熊野神社へ、火災鎮護と五穀豊穣を祈願のため奉納される。二夜とも区の入口に近い火勢山(桟敷山)三、四十メートル頂で上げられる。
 長さ一四メートルくらいの檜の棹に横木を五段輪状に結束、昔は麻がら、今はないので、川土手のアシやススキを刈り取り、日によく乾燥して置いたものを棹の先端と五段の横木に結び山上に用意しておく。
 当夜は区の入口、地蔵前に集まり、愛宕神社でお受けした火の高張提灯を先頭に、笛・鉦・大太鼓ではやしながら、各自松明をかざし、火勢山へ登りそこで素朴な山踊りを踊り終わって、大火勢に点火、力自慢の人が棹に肩を入れると雨笠(今はヘルメット)をかぶった数人が叉のついた突かい棒で支え起こす、と同時に一本のロープを引き、直立させる。
 暗い山の頂に大火勢がパチパチ音をたてて燃え上がる様は遠い佐分利川堤防道からもよく見える。やがて火勢棹を回転させ、また倒し起こしては回す、これを数回繰り返す。火の勢いが衰えれば、結束の縄の一部を切り、重油を注いだりもする。この間、笛・鉦・大太鼓のはやしは止むことなく、火勢棹の動きはすべて大太鼓の合図に従う。乱舞する大火勢の勇壮・豪快・壮厳さには、思わず嘆声を発し身の引き締まる思いがする。
 燃え尽きると、高張提灯を掲げ麓に出迎えている大勢の男女と共に氏神前へ行進、山おろしの踊り・ばんば踊り・民謡踊り等夜の白むまで踊り続ける。


『郷土誌大飯』
愛宕まつり(カセ上ゲ)
旧来は殆どの部落で愛宕まつりを行った。火事による損害意識は永年の経験で農村民を文句なく一致せしめた。昔の家には必ず火の用心用の拍子木が手の届きやすい所に吊してあった。勿論今日もあるにはあるが、昔程の必要性を認められていない。今日のは多く間に合せの品物で、中には子供の作ったようなしろものも少くない。昔の拍子木はかしの木などの嗚りのよい立派なものであった。それ程に火事を恐れたのである。一部落中にボヤがあると、忽ちに部落中の大火となる例が少くなかった。交通の不便が他所からの応援をおくらせていたからである。こうした大火頻発の傾向は自然に愛宕信神に結び付いて、一村異論をとなえるものなどはなかった。神社としての施設は出来ていない処も少くなかったが、愛宕神社に対する信仰は厚かった。今はカセ山などといってしまって、愛宕の御神号を知らぬ人もないとは云えない状態である。こうして各村々の小高い山上が愛宕神社を祀る処、又は遥拝する処と定まっているのである。祭日は元は旧二十三又四日の夜行われていた。それが新暦七月となり、盆の月おくれで又一ヶ月のびて八月二十三又四日と変って来たように考えられる。全部落同一日になると互に交流して楽しむに都合が悪くなるので互に日をゆずり合って一、二日ずつずらしているのが現状である。
 本郷では現在は日枝神社の末社として愛宕神社を奉祀し毎年七月二十三日の夜お百灯を奉献して氏子思い思いに参拝することとなっている。併し元は長覚寺山の山頂(館山の山頂とも)にあって、他部落の場合と同じような火祭りが行われていたようにも聞いている。年代は不明であるが山上からお移して日枝神社の境内社としてからは火祭の行事がお百灯におき替えられたらしい。他部落では山上のカセ上げ神事が主体であっで参拝と云う形は見られなくなっている。併しこの一大火祭りは青少年を中心とする民衆の手で行われて、非常な危険を冒して斎行される。ここに真剣な祈りがあり、火による心身の粛清がある。各部落でそれぞれ特色を持っているが、
例えば
 鹿野の場合--鹿野のカセ山は元愛宕神社の境内であった。或年カセ上げの火が小浜から見えて火事と間違えられると云う事件があった。それで現在はその山より相当下った中腹で行うことになっている。以後愛宕神社は岡安へ移されて現在は跡地だけが残っている。
 カセの棒は長さ六、七間、上部に七段の横木をつけ、それに麦稈(昔は麻殻)を結びつける。これに点火してから引綱などで棒をおこすのである。カセの火種には昔からの伝統がある。山崎又右エ衛家がそれで、同家では予め胡麻殻を燃やして作った黒いホクチを火打箱に入れてある。当夜火打石で火を打ち出しホクチにつけよく熾ったとき、之を藁を二つ折りにして作ったつとに包んでカセ山に登り、これでカセに点火する。カセ上げが終ると又その火を又右エ門家へ返し、そこで消す。同家が忌中の時には寺で炭火をもらって、これで点火する。この処置は少し理に合わぬように思うが、止むを得ぬ時のことで仕方がなかったのが慣例となったのであろう。
 カセ上げは皆白装束に鞋ばき、酒を慎み水で口を注ぎ身を清浄にして従事する(只今では地下足袋の者もある)。道中は高張一、各自たいまつに火を点けて行く、囃しは大太鼓、鐘、横笛で、山おろし、カセ上げ、道中(ねり込み)の三種類の曲がある。
 このカセのはやしの行事は鹿野と小車田が合同で行う例になっている。山へは鹿野側から上り鹿野側へ下りる。小車田は山麓まで迎えに出て共に又右エ門家の庭先へねり込む。ここで太鼓の打合いが三、四十分も続く。小車田組は分れて帰り、鹿野組は寺庭へ移って〝山おろし〟の踊りを踊る。カセ装束のままで他部落の者は加えない。男性的でカセ上げの勢が自然にほとばしっている感じだと云う。山おろしが終ると、〝ばんは踊り〟次は民謡踊りと緊張がほぐれて行く。終るのは午前三時頃にもなる。昔は徹夜で踊り明かしたそうである。(鹿野区 笛左、平右エ門両氏談)
 父子の場合--八月十四、五日(本日は十五日)、カセ棒長さ六、七間、横木五段(昔は多くつけたらしい。横木をつけたあとがある)。いね山の峰(二十坪位の広さ)でカセ上げをする。はやしは大太鼓と鐘で、大太鼓は地蔵堂に据置いてそこではやす。高張提灯を地蔵堂の前、山麓、中腹、山上等の四、五ケ所におく。服装はシャツ、ゴム長で忌中の者と女子とは禁止。
 登る時は「目出度目出度の若松さまよ」の歌ではやしながら上る。たいまつの材料は部落を廻って寄せ集める。カセ上げは夜九時すぎから十時頃までに始める。山上で三回位倒したり起したりする。これには随分くたびれる。一時間~二時間位はこれにかかる。終ると消防小屋の前で踊が始る。ばんば踊り、レコード踊りをおそくまで踊る。
 たいまつ上げは別に二十四日、十八日不動山で、あたごさんでは三回、七~八月に凡そ六回程ある。又小学四~中学生で小型のカセ上げを行う。三間の棒に三段のカセを「しじく」と云う処で上げる。この時はたいまつも各自持寄りである。(父子田中広氏 談)
 福谷の場合--火種は前以て、京都の愛宕さんへ詣り、マッチを供えて御祈祷をしてもらって、それを持帰って火をつける。
 石山の場合--石山と佐畑の合同行事。火種は茂平か左エ門。捧をおさめる時に賑わうから棒まつりともいう。



『新わかさ探訪』(写真も)
福谷の大火勢 若狭のふれあい第46号掲載(昭和52年9月30日発行)
炎と火の粉が乱れ舞う男たちの豪快な火祭り
 高さ約15mの大松明を、回転させては倒し、また引き起こして回す--300年余りの伝統を持つおおい町福谷の大火勢(県指定無形民俗文化財)は、荒々しく勇壮な火祭りです。火災鎮護と五穀豊穣を願い、毎年8月14日と15日(平成6年までは8月23・24日に実施)の2晩続けて行われます。
 午後8時、福谷の男衆が高張提灯を先頭に、笛や鉦、太鼓を鳴らし、手に松明を掲げて近くの火勢山へ。山の上には、火勢棹(高さ約15mの桧の丸太に5本の横木をつけ、その端に萱の束がくくりつけてある大松明)が準備してあり、山踊りと呼ばれる踊りのあと、区長が火勢棹の周りに清めの塩をまき、点火します。
 男たちは総がかりで、先が二股になった棒を使って下から支え起こしたり、反対側から綱を引いたりして、降りかかる火の粉をものともせず、火勢掉を懸命に立てていきます。垂直に起こすと、今度は「回せよー」の掛け声とともに桧丸太を軸にして回転させます。5回ほど回して、火が渦を巻き炎が勢いを増したころ、これを倒すのがさらに圧巻。火勢掉が地面に倒れ込むのと同時に、火の粉が数mの高さまで舞い上がります。起こしては回し、倒してはまた起こす。それを幾度となく繰り返します。大火勢の名前通り、炎と火の粉が乱れ舞う火祭りです。
 この間約1時間。その進行に重要な役割を果たしているのが大太鼓です。4通りの打ち方があって、大火勢の動きはすべて大太鼓の合図に従っています。男たちが次々と交替で、思いのたけを大太鼓に叩きつけます。
 福谷の大火勢は男だけの祭り。今なお女人禁制で、女性は火勢山に登ることを許されず、麓で眺めます。火がほぼ燃え尽きると、山を下りて伊射奈伎神社まで歩き、境内で夜遅くまで踊り続けます。初日は福谷の氏神である同神社へ、2日目は熊野神社(伊射奈伎神社に合祀)へ奉納するもので、必ず2晩続けて行わなければならないとのこと。
 この大火勢は、愛宕信仰に基づく火災鎮護の祭りと、盆の精霊送りの火が一緒になったもので、江戸初期に始められたといわれています。戦時中も欠かさずに、この火祭りが続けられてきたのは、村を火災から守り、豊作を願う福谷の人たちの思いとともに、その胸がすくような激しさ、豪快さが男たちをとりこにしてきたからではないかと思いました。


今のスーパー大火勢や舞鶴吉原のマンドルの元になったいるものと思われる。
後にいろいろな要素が習合して何が目的の催しか不明になっているが、元々は火の神を迎える鍜冶屋の行事でなかっただろうか。
スーパー大火勢
マンドル

『越前若狭の伝説』
弓射場 (福谷)
 福谷坂峠より約百メートルあまり下にやや平坦な所がある。そこが弓射場である。石山城の正面にあたっていて、むかし逸見の軍が高浜より石山城を攻めた時に、ここから弓を射たというのでこの名がある。(福井県の伝説)




福谷の小字一覧


福谷  伯母谷 滝ケ谷 上野瀬 田水口 野瀬 伯丘 水無口 水無 岩ケ口 奥淒口 淒谷 中淒谷 淒谷口 奥市ケ谷 壱ケ谷 丸山 越首 角那 角那口 大田 炭釜 篭坂口 篭坂 野々谷 上滝鼻 ヘロコ 滝鼻 小野谷 堂本 崩谷 北谷 迫脇 市迫 味噌谷 味噌谷口 松ケ鼻 迫谷 上条 白谷 角谷 早田谷 別当奥 別当 少尻 下早田 宮前 上早田 寺下 寺迫 薬師 中条 君前口 君前 権現 梅木谷 東谷 村中 坂尻 村前 堂山 栗田 中間 小山尻 湯下 湯り谷 湯り中 湯奥 真奧 湯口 小新堂 奥新堂 新堂 新堂口 深田 長竹 橋堂 奥谷 奥小谷 寺谷 山鼻 長迫 奥北谷

関連情報





資料編のトップへ
丹後の地名へ


資料編の索引

50音順


若狭・越前
    市町村別
 
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
三方上中郡若狭町
三方郡美浜町
福井県敦賀市

丹後・丹波
 市町村別
 
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市






【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『大飯町誌』
その他たくさん



Link Free
Copyright © 2020 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com
All Rights Reserved