吉原のマンドロ(舞鶴市吉原) |
お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから探索してください。超強力サーチエンジンをお試し下さい。 マンドロあるいはマンドルと呼ばれる伝統行事が吉原地区で毎年8月16日に行われている。漢字では万灯籠と書く。 ↑上の写真の竹製の大燈籠を川の中に立てて火をつけてグルグルと回す行事である。伊佐津川の河口、大和橋の少し上流である。 →大和橋から。中央の川の中に灯火が見えるが、そこにマンドロが立てられる。 いつの頃から何のためにそんなことをするのか。そうしたことはよくわからない。そもそも吉原という集落の歴史がよくわからない以上は、この行事もわかるわけもないし、最初の物がそのままに今に伝わってきたものでもなかろう。 途中でいろいろな要素も習合してきて性格も豊になり、というのか寄せ集めのゴッタまぜとなり、従来とは変化し多様化してきたと思われるので、どの部分に注目し、どこを取り上げるか、その部分によって、いろいろ解釈は分かれよう。どの説もそれなりに正しいし、どれもまた不十分なのである。 言い伝えによれば、享保年間から始まったという精霊送りのためのものとか、享保年間にくらげの異常発生が起きて不漁に陥ったので、海神の怒りを鎮めるために万燈籠を捧げたことに始まる、とかいわれている。 8月16日という時期から考えればお盆の精霊送りのための送り火と思われる。京都「五山の送り火」もこの日であるし、宮津市の「燈籠流し・花火大会」もこの日に同時に行われている。大文字焼きも花火も、これらは古き昔の送り火の変形であろう。だからマンドロも送り火の変形と見ても間違いではなかろう。 五山の送り火に「舟形」というのがある。これは精霊船をかたどっているのであろう。盆の供え物はナスに四本の足を付けて馬の形にするが、これは精霊の乗り物と思われる。 多少コジツケ的ではあるかも知れないが、小判型とか木の葉型ともされるが、吉原あたりでは魚の形をしているといわれる、その万灯籠の魚の形に注目すれば、この火でこの夜、川辺から舟ではなく魚に乗せて送ったのかも知れないなどと想像できる、精霊たちの乗り物の古い形は魚だったのかも知れない。 「川施餓鬼」や「盆踊り」が同時刻、同場所でとり行われているのも傍証になるかも知れない。 波の形の模様とかもう少しもっと何かこの行事の性格を考えるうえに参照できるものが残っていると、もう少し正しく推測できるが、探してみてもそうした物がないようである。いつの時代かに消失してしまったのかも知れない。私が気付かないだけでそのうちに誰かが見つけるかも知れない。 →伊佐津川のもう少し下で行われている「川施餓鬼」。ブロのお坊さんがたくさん集まっておられたが、精霊送りや盂蘭盆は本来は何も仏教と関係のない話のようで、もともとからあった民間信仰に仏教側が習合してきたものと思われる。 マンドロに点火するタネ火は、愛宕神社から貰ってくる。この点に注目して、この種の行事は愛宕火で火鎮め(防火)のためとも言われる。 旧6月24日が愛宕火で、もし7月24日や8月24日あたりに山の上で行われるなら愛宕の火祭の影響が強いと見てもよいだろう。(京都愛宕神社の祭日は現在は7月31日。千日詣の日である) マンドロの主たる性格ではないが、ついでにといえば言葉が悪いかも知れないが、防火のための行事も兼ねているとはいえよう。 →これは炭鉱節だろうか。舞鶴小唄なども踊られていた。 ご先祖様は海の彼方かあるいは空の彼方から訪れて、またそこへ去って行くと考えられていたようで、山の上へ向かえに行くこともあるので、少々時期のはずれる山の上の火祭でも必ずしも愛宕火とは限らない。 「魂の行くへ」(柳田国男全集)に、 〈 …秋田縣北部の一地域では、村の少年等が岡の上に登って、越前今立郡の村村とよく似た火祭を行ふのは、春の彼岸の中日の行事であった。さうしてやはり此火の燃えるときに、ヂイ様バア様お出やれを高唱して居た。… たとへば魂迎へから魂送りへの期間は、大体に短縮の傾向を示して居る。現在は迎へるのが十三日の夕刻を通例とし、送るのは十六日、それも午後であり、又は早朝であり、東京などではまだ十五日の深夜に、送ってしまふといふ家も多い。最初から斯うときまって居たのではないとすれば、迎へ火を山で焚く日が、七日であり五日であってる怪しむに足らず、或はそれよりもずっと早い日に迎へて来て、主要なる生活行事を、その祖霊の眼の前に於て、実行したといふ時代も無かったとまでは言へない。… 〉 城屋の揚松明にしても、一般に夏の夜の火祭の根本は古い時代の精霊迎え・精霊送りにあると考える方がいいのでなかろうか。 さて難しい話はおいて、… ↑これがマンドロ。上の方から見ている。これを向う側を下にして立てる。高さは16メートル、幅が5メートルくらい、野村寺から貰ってきたという太い真竹でできている。 横木が7本あって、その先に竹箒のように見えるが「 本堂さん(引土の円隆寺)の愛宕神社で神火を貰い、青年たちがワッショイワッショイのかけ声と太鼓を響かせながら帰ってくる。 あいにく、この夜は雨。 大降りにならねばいいが−− ←神火を小松明に分けて、川へ入っていく。 ↓そしてマンドロを入れる。 (まだ火は付いてはいない) ↓点火 そろそろと立てていく。 ←ドシャブリになってきた。ピンボケしたり何かソフトフィルターを入れているのではなくて、雨粒のために霞んできたためである。 ますます雨は強くなり、このカット以後は写せるような状態ではなくなった。 雨が降ってる方が幻想的でええでしょう、などと言う人もあったが、ここまで降るとどうにもならない。 川底に穴が掘られていて、そこに竹の根元を入れて、下に付けた横木でマンドロ全体を水平方向に回転させる。 上から熾った竹の燃え殻が頭の上に容赦なく落ちてくる、横手からはそれを消すために水がぶっかけられる、マンドロ全体は自重でどんどん沈んでいく、横木も沈むので、水の中まで入ってワッショイワッショイと回転させねばならない。 今夜はそんな火責め・水責めの修羅場のアップをねらえる条件ではないのであきらめよう。また来年にでも。 ↓坂根正喜氏の動画 ↓2013年の動画 (参考) 祖霊祭の迎え火や送り火は、本来は庶民の各家庭でささやかにしめやかに行われる行事であったと思われる。どこかの神社か寺院の行事であったものではない。村で集団で盛大に、などというのは、ずっと後の世も末の、出発の動機が忘れられた時代以降の話と思われる。そうしたことのためか、江戸期以前の文献はもとより、郡誌にもなく、最近の市町誌などにもさしたる記事は見られない。 そうしたものが何時の世かハデさを競うようにもなってきて、そのカッコづけのため、権威づけのため、ネウチづけのために愛宕火と習合したのではなかろうか。 最近のような、もっぱら客寄せのためや村おこしのためのドハデな行事とはもともとは違う性格のものであったと思われる。 『原日本考(続篇)』に、 〈 …今一つ言及せずに済まれぬ物がある。それはネブタと海の関係である。ネブタの人形を載せる台、即ち勾欄の台座には、装飾として波模様が多く描かれるが、これは此の種の作り物に傳はる根本的特徴として注意さるべきものである。京都の祇園会等の古い絵で見ると、その祇園ばやしの車は矢張り波が描かれてゐる。此の装飾の意味を徹底させればネブタの勾欄や台座の波模様は、人形を海に送るための舟を寓意したものである。事実また諸国に行はれる祇園祭やその他の神社の夏祭の飾り物、即ち山車や、山笠や、飾り屋台等には、此の種の波の模様、その他、波を現した所の装飾物が多い。 今一つ見免されぬのは、子供用のネブタとして弘前では専ら一人持ちの扇形の万燈、青森では金魚型の萬燈を用ひる。前者は舟に水路を示す零標である事は、弘前の民俗研究者一戸玲太郎氏がいみじくも明察した。後者の金魚に到っては、海一般の魚類を代表してゐる事は明白である。従ってこれは共に海に所縁あるものとし、海の象徴と考へる事が出来る。 〉 『京都新聞』(98・1・13)に、 〈 …吉原の万灯籠も、享保年間(一七一六−三六)にクラゲが大発生して漁ができなかった時、海神の怒りを鎮めるために始まった。盆行事と火の神・愛宕信仰が合体した格好だ。 高さ十六メートルの青竹に弓形の枠を左石につけ、十四カ所に割り竹の松明を差す。 愛宕権現をまつる円隆寺=同市引土=の神火をともし、約五十人で川底の穴に入れて立て、回す。 万灯籠の重さは約三百`。「うまく穴に入れないと水の浮力で万灯籠が倒れる。全員の呼吸が大切」と昨年参加した山田峰三六さん(48)=同市西吉原。火の粉でやけどしながら回す時間はわずか十分。だが「年配者も若者も一緒になれるのは万灯籠だけ。祭りの後は『今年も夏が終わったなあ』と思う」(山田さん)。 漁業者が減った吉原だが、万灯籠は、地域の連帯や季節の移り変わりを人々に呼びさましながら今も息づく。… 〉 『吉原百年誌』に、 〈 万灯ろう(まんどろ) 今から約二百六十年前の享保年間(一七一六〜一七三六)に大へんなくらげが発生したため、全く漁業ができなくなりました。漁師たちは餓死寸前に追い込まれて、非常に難儀なしたので、これは、「海神のいかり」と恐れ、海神の気持を和らげるため、若衆が大火を海の中で焚いて祈りを捧げたのが、万灯ろうの始まりであると、云い伝えられています。そののち、おかげで、くらげが海流に流されて退散し、やがて漁獲もだんだんよくなったと伝えています。 それ以来、毎年八月十六日に伊佐津川河口で、くらげ退散、魚(さかな)の供養、海難犠牲者の霊を慰さめるため、この行事を行っています。 青竹で、高さ約十米、巾四米の灯ろうを形どったものを作り、火の神様である愛宕さんの円隆寺(本堂さん)から、青年に守られて着いた御神火を灯ろうの両端数段に点火します。やがて垂直に立てられた万灯ろうは数十人の青年で、ぐるぐると廻わされます。 灯ろうの倒れかかった時の青年たちの協力かけ声の力強さ、夜空を焦がす炎の水面に映える美観は、まさに火の祭典といえましょう。 〉 『京都新聞』(99・6・24)に、 〈 先祖を送る火 竿から山の斜面に変化? 初盆を迎える新仏を除き、十三日頃から三伯四日の旅でこの世に迎えられた先祖の零は、団子、ささげの煮物、そうめん、あらめと揚げ豆腐などの特別な膳でもてなされる。先祖の霊も十五、六日になるといよいよ子孫たちに送られて、あの世へ帰っていく。 迎えた霊をあの世へ送る儀礼は、精霊送りとか精霊流しなどと呼ばれ、盆の一連の行事の中で、最も華やかに行われる。その習俗は地域によってさまざまで、若狭湾から丹後半島沿岸部では、竹や麦藁で作った精霊船に供え物を乗せ、沖へ流す精霊船行事が分布している。また海辺や川原、橋などへ供え物を持って行き麻幹などで送り火を焚き、その煙に乗せて精霊を送るところもある。供え物のナスやキュウリに麻幹の足をつけ、馬に見立てお精霊様はこれに乗って帰られるなどというところもある。 精霊送りには、万灯や万灯籠などと称して、たくさんの灯籠や松明に火をつけて先祖を供養し、送る習俗がある。先祖の霊が無事に戻るためにあの世を照らすあかりであったのであろうか。中でも先祖を送る火の行事の代表は、毎年八月十六日におこなわれる京都五山の送り火であろう。現在は、如意ケ獄の大文字、松ケ崎が西山(万灯籠山)・東山(大黒天山)の妙法、西賀茂の船形(船山)、金閣寺近く大北山の左大文字、嵯峨の鳥居形(曼陀羅山)からなる。 しかし、その創始は、平安時代初期に弘法大師が始めたとか、室町時代中期に足利義政が、紅炉時代初期に能書家の近衛信尹(ルビ・のぶただ)が、など諸説唱えられているが確証はない。五山の送り火の当初の形態については今のところ、十六世紀後半ころに万灯籠か大規模化したものと考えるのが定説となっている。 この五山のほかにも各所で送り火がみられたことが、江戸時代の文献からわかる。いずれもすべて廃絶しているが、市原の「い」の字、嶋滝の「一」、八木町和田の「二層の塔」、瑞穂町鎌谷の「鯨鐘(つりがねの意)」などである。また、明治期の日出新聞にはこの他に現在の嵯峨の鳥居とは別に、水尾村の「華表(鳥居の意)」、西山の「竿の先に鈴」の記事が見られる。ここでおもしろいのは「竿の先に鈴」である。明治四十四年八月十七日付の日出新聞には「まだも一つ竿に鈴という奇体な火があった筈であったが一向見当らぬ、多分一昨夜の暴風雨で竿が折れて鈴が何処かへ飛んで終ったんだろうと思ふが保証の限りでない」とある。 この記事から「竿の先に鈴」は、「大」や「妙法」のように山の斜面に火床を設け、松割木を井桁に組んで燃やす現在の方式ではなく、長い竿に粋を組み、その枠をキャンバスとして松明を鈴の形のように差し込み、それに着火して竿を直立にさせたものであろうと想像できる。これは現在も行われている雲ケ畑の松上げ(八月二十四日)や久美浜町河梨の十二灯(八月二十三日)などと同型であると思われる。雲ケ畑は文字が、河梨は左右六木ずつの松明が点火される。 京都学園大の植木行宣教授は「火の風流」で五山の送り火は、キャンバスとする粋から山の斜面への形態変化であり、「趣向を凝らす風流には、人の意表をつきそこに面白さをみる傾向がある。巨大化もその一つの方法であった」「方式の変化は巨大化に伴う自然の流れであった」という。 他の地域に負けないという競合の意識が働き、キャンバスとする枠を大きくするには自ずと限界があり、直立させている竿を倒置して、点火するように展開し五山の送り火になったと考えられる。あの世へと去りゆく精霊になごりを惜しむために、大きな送り火を焚く精霊供養のひとつとして、地域に根付いていったのだろう。(亀岡市市史編さん室主任 鵜飼 均) 〉 『丹波の話』に、 〈 今は全く客寄せの観光行事化しているが、京都の大文字も、それを真似た福知山の大文字もともに盆の行事につながる火焚き行事であることに間違いない。中部日本の各地には、山頂などで村共同で火を焚く例は多い。 舞鶴地方で昔から行われたマンドロ(万燈籠)は、十六日夜、大きな竹の竿の上端に、ゴヘイ、左右に六本ずつ竹のタイマツをつけて、これを立てるのである。土地の人はくちげが沢山出ぬようにとか、海の獲物がよくとれるようにとか説明しているが、これもあきらかに盆の火焚き行事の一つである。 ぼくの郷里の広島では、盆には川砂をとってきて、これで家の戸口に山など作り、火のついた線香を無数にたてたものである。これなども盆の火焚きの一種であった。この線香山の情景は盆の行事の思い出として、ぼくには忘れられないものである。 〉 吉原のマンドロに似た行事は、丹後では現在は久美浜町河梨の万灯山十二灯だけ。これは愛宕火そのもののようにも見える。 『京都府の地名』に、 〈 久美浜町 舞鶴でも、そうしたことは昔はあっちの山でも、いや、こっちの山でも、あったと言うで、と聞くが、小字を調べてみると−、 京都府京丹後市久美浜町坂井、万燈山 京都府京丹後市網野町木津元和田上野分、万燈山 京都府京丹後市弥栄町来見谷、マントウノオ。(万灯の尾か) 京都府宮津市万年、マントリ山。(万灯山か) 京都府宮津市滝馬、マントル山。(これも万灯山か) 京都府宮津市今福、マンドリヲ。(万灯尾か) 京都府宮津市日置、万東谷 京都府綾部市釜輪町、万燈山 京都府福知山市三和町台頭、マンドウ山。(万灯山だろう) 京都府福知山市三和町大身、万土山 京都府福知山市小牧、万燈 京都府福知山市厚、火振山。 京都府福知山市夜久野町千原、万道山 こうした所でもかつて万灯が行われたとみてよいであろう。 盆の当たり前の行事で、さして珍しい盛大なものでもなく、後世のためにと特に書き残されることもなかったものと思われる。 万灯籠は、「虫送り」のような多くの人々が松明を持って行列したり集まったりする行事で、最後は水に流す松明行列と呼ぶようなものである。吉原のマンドロでも、最初に若者の松明行列や川中に松明が集まるが、あれが本来の当初の「吉原のマンドロ」の姿であろう。 それに後に若狭の大火勢が加えられたのではなかろうか。そうして全体が再編成されると、大火勢ばかりに注目が集まり、今では「大火勢」の方がマンドロと呼ばれるようになったと思われる。 おおい町のスーパー大火勢にも松明行列が見られるし、城屋の揚松明でも提燈行列が見られる。いずれも万灯籠行事とどこか重なるのかも知れない。 カセ**といった地名もあるが、大火勢と関係あるかどうか− 若狭へ行くと 『大飯町誌』に、(写真も) 〈 福谷の大火勢は三〇〇年の伝統があるといわれ、区長や大火勢保存会の人々により今日まで受け継がれてきた迦具土神をお迎えする誠に豪壮な火祭りである。 八月二十三日夜は伊射奈伎神社へ、二十四日夜は熊野神社へ、火災鎮護と五穀豊穣を祈願のため奉納される。二夜とも区の入口に近い火勢山(桟敷山)三、四十メートル頂で上げられる。 長さ一四メートルくらいの檜の棹に横木を五段輪状に結束、昔は麻がら、今はないので、川土手のアシやススキを刈り取り、日によく乾燥して置いたものを棹の先端と五段の横木に結び山上に用意しておく。 当夜は区の入口、地蔵前に集まり、愛宕神社でお受けした火の高張提灯を先頭に、笛・鉦・大太鼓ではやしながら、各自松明をかざし、火勢山へ登りそこで素朴な山踊りを踊り終わって、大火勢に点火、力自慢の人が棹に肩を入れると雨笠(今はヘルメット)をかぶった数人が叉のついた突かい棒で支え起こす、と同時に一本のロープを引き、直立させる。 暗い山の頂に大火勢がパチパチ音をたてて燃え上がる様は遠い佐分利川堤防道からもよく見える。やがて火勢棹を回転させ、また倒し起こしては回す、これを数回繰り返す。火の勢いが衰えれば、結束の縄の一部を切り、重油を注いだりもする。この間、笛・鉦・大太鼓のはやしは止むことなく、火勢棹の動きはすべて大太鼓の合図に従う。乱舞する大火勢の勇壮・豪快・壮厳さには、思わず嘆声を発し身の引き締まる思いがする。 燃え尽きると、高張提灯を掲げ麓に出迎えている大勢の男女と共に氏神前へ行進、山おろしの踊り・ばんば踊り・民謡踊り等夜の白むまで踊り続ける。 山おろし 鹿野 町指定 おどりナーばんばの 小砂となりテーヨーヨイサッサー 踏れたいわの二十一じヤーヤレコリャスイナノエンヤ エンヤワエンヤアレワイサーエ娘ノー かぐ(ご)やの娘よ−−組んでみせましょ花かごを(反復) 花かごを−組んでみせましょ花かごを− どこにも見られない独特な二つの踊りを持つ「山おろし」は、火祭りということでは福谷の「大火勢」と同じ形式のものであるが、そのルーツについても、歴史的なことについても、定かなものは何も残っていない。踊り歌の素朴な節回しを聞いていると、恐らく鹿野の祖先が生み育ててきたものと考えられる。 八月十六日の夜、小車田との境いの竹の越地籍の火勢山で火勢を上げた後、山おろしの太鼓を打ちながら降り、平道まで来ると六つの高張の迎えを受けて、大太鼓と中太鼓の打ち合いの行列が続く。 その後、練り込みの太鼓を打ちながら仏燈寺境内に入り、火勢上げの白装束のまま踊る。「山おろしばんば踊り」と「山おろしかぐや踊り」の二つが五分間ずつの短い時間で打ち切られる。 これは、全員が戻っているかどうかを確かめ合うための踊りであるとも言われ、五分ずつという短い時間もその意味から定めたもののようである。いわば凱旋の雄叫びのように思われるのである。昔の火勢上げは、それほど過酷なものであったらしいが、今日では規模を縮めてモウソウ竹のさおで行っている。 どの家からも一人以上の男子が参加するので、踊りは素朴ななかにも勇壮さがある。この踊りを最後に山おろしの行事が締めくくられる。 山おろしは、今日では仏の供養のためとされており、その昔、今の火勢山より更に高い山の頂上(現在テレビ塔がある)で火勢を上げていたが、小浜城からその火があかあかと見えて山火事かと思われ、小浜の殿様からおしかりを受けたので、今の場所まで下りて行うようになったという逸話が残っている。 この山の頂上には、その昔愛宕神社が勧請してあったと伝えられているから、山おろしは、火災鎮護を祈った愛宕信仰でなかったかと思われる。それを裏付けするものとして、忌みのかかっている人は山の途中の決められた場所から上へは登れず、そこで、鉦と笛を奏でることになっている。今日、祖先への供養であり、その送り火と考えられているこの火祭りも、昔の信仰の姿が残され、うまく溶け込んでいるのである。 こうして、素朴に伝統を守り続ける信仰と連帯の力が区の安泰をも守り続けてきたのである。 〉 佐分利川沿いが本場で、かぐや姫が出てくる、これはずいぶんと古く、盆の行事よりも古いのではなかろうか。ここでしっかり研究すれば何か面白い知見が得られるかも− JR若狭本郷駅の駅前広場には、そのミニチュアが建てられているが、最近は町おこしのイベントにもなっている。 おおい町の観光パンフに、 〈 圧巻!天を焦がす炎の崇典 若狭おおいの スーパー大火勢 開催=8月上旬土曜日 会場=プレーパーク大飯 昼のプレイベントが終りあたりが暗くなった頃、松明行列が幻想的な太鼓と笛の音にあわせて火の河となって進みはじめます。続いて「悠久の炎」が大火勢に採火されると、いよいよクライマックス。重さ300貫(約1125キログラム)、高さ60尺(約20メートル)もの燃えさかるスーパー大火勢を若衆が「ヤッサー、ヤッサー」の勇ましい掛け声に合わせて立ち上げ、舞い散る火の粉を振り払いながら回転させると、場内からは悲鳴にも似た喚声と拍手の嵐。闇夜に浮かび上がる炎の輪は、とても力強く幻想的な風景です。大歓声の中、スーパー大火勢を倒すと同時に音楽と連動した3000発以上の花火が青戸の入江を照らし出し、熱気に包まれた会場の観衆を魅了し、「スーパー大火勢」を締めくくります。 〉 「スーパー大火勢」 「福谷の大火勢」 「スーパー大火勢」 観光化するというのは一面では地域の伝統文化の破壊にもつながる点があり、町おこしと言いながらも町破壊にもなってくる。 上から言ってくる「町おこし」は、なぜいまさら「町おこし」をしなければならないほどに、町が疲弊してしまったのかという根本問題が無視されているという、まやかしや誤魔化しがある。病の根本に目も向けず手も着けずに、よその人たちを一時的に集めただけで本当に町は立ち直れるのかどうか。 こうした事を始める時にいつも問題になる深刻な所であるが、この深刻な所をよくよく考えないと、ロクでもないものとなるだろう。 ステージに登ってテレビに出たといって喜んでいるようなのはニセモノですよ。こんなことしているヒマがあるならボクらは早く地域へ帰り頑張りたい。といった、スーパースター級の演技を見せたどこかの青年団員たちが私にはいつも思い出される。帰りなんいざ、田園まさに荒れなんとす…。の矢も楯もたまらない気持ちなのだろうか。 地方の農業・農村が荒れはてた後に、ゼニ儲け本意の資本主義企業が進出してきて、儲けにならない事業を始めたりするものであろうか。儲け話以外に企業は乗るわけがない。間違ってもあり得ない将来話と私には思われる。荒れたらそれでもう終わり、国民は飢えるのでなかろうか。 |
資料編の索引
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