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丹波の

額田(ぬかた)
京都府福知山市夜久野町額田


額田のダシ

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京都府福知山市夜久野町額田

京都府天田郡夜久野町額田

京都府天田郡下夜久野村額田



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額田の概要


《額田の概要》


JR「下夜久野駅」のある所で、JR山陰本線と国道9号が東西に通っている。かつて額田宿のあった町場の様子が残る。国道の北側に下町・上町(かんまち)・且(だん)・奥、川向かいに向の集落がある。上町の一宮神社の祭礼は盛大、「額田のダシ」と呼ばれていて、それぞれの街角に作られる野菜・果物による趣向を凝らしての出し物は人気を集め、また額田太鼓も有名。東経13度の子午線の通過を示す子午線標柱が建つ。宿場町・市場町として開け、8月10日と12月25日に「額田市」が開かれたといい、上夜久野の山中などから特産のむしろなどを売りに来たという。
額田村は、江戸期~明治22年の村。福知山藩領。享保9年から向嶋地区の新田開発が水谷氏を中心に行われ、のち同氏は当村の「田祖」と称された。当村は夜久野随一の漆の産地で、また市場・宿場町として栄えた。
額田には早くから漆掻きに従事する者が多く、日置村には仲買人が多かった。近世末期には生漆は樽詰にして大坂の問屋に売却され、吉野漆に対する丹波漆の名をもって称された。漆の採集期間は六月から一〇月までとされ、かつては因州・長州・四国にも赴いたといわれる。明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年下夜久野村の大字となる。
額田は、明治22年~現在の大字。はじめ下夜久野村、昭和31年からは夜久野町の大字。平成18年から福知山市の大字。


《額田の人口・世帯数》 703・281


《主な社寺など》

瘤屋敷古墳・五宝山古墳群、月輪経塚

一宮神社(上町)
秋祭の「額田のダシ」で有名な神社。当社は隣町の但馬一宮ともされる粟鹿神社の祭神(彦火火出見命・龍神・豊玉姫)を祀るという。粟鹿神社は日子坐王終焉の地ともされ、その塚もあり、本来の祭神は彼ともされる。日子坐王=丹波道主命、いわば丹後王朝の神社である。もと夜久野の総社と伝える。夜久野は全体的に天田郡側からというよりも古くは西隣の但馬側から開発されたように感じられる。
以前は額田の内の旦と上町・下町・奥から若衆組の手で屋台が出たが、今は上町と下町の二基になっている、ニ階部分がグルグル回転する珍しい芸屋台である。この屋台を笛・太鼓・伊勢音頭ではやし、女の子が花笠をかぶって引き、さらに各小字で組ごとに作り物をする。これらはどちらもダシと呼ばれる。
額田のダシ
額田のダシ
御旅所が今の下町の八幡神社だから、元々はここにあったのかも知れない、集落北側の少し高いところだが、ここにはかつて舟岡山長福寺という寺があり、八幡社はその鎮守だが、それより古くはあるいは当社が祀られていたのかも知れない。
一宮神社(額田)

一宮大明神  額田村ニ建
祭神彦火火出見尊也  祭礼九月八日 産神
茂正謹而案ニ隣国但馬国一宮ハ朝来郡粟鹿ノ神社(一宮記)又一説ニ出石郡出石神社トモ云リ然トモ以一宮記ヲ證トス粟鹿神社彦火火出見尊上ノ社篭神中豊玉姫下ノ社以是考レハ但馬一宮ヲ移シ祭ルカ
境内東西十間南北十六間除地齋祭ル時末考
茂正按額田伝記云永禄年中回録ノ事ヲ載タルヲ見レハ凡二百余年ナリ其以前無知者五社ノ一
本社一間ニ一間二尺上家有 鳥居一丈二尺横六尺 社司夜久野石見
(『丹波志』)

村社  一宮神社   下夜久野村字額田小字松本鎮座
 祭神 彦火々出見命  豊玉姫命   籠神
 草創 年代不詳なれども、もと夜久郷の大社にして村内五社の第一なり。永禄中火災に罹り仮殿に奉遷し、天正中石田、水谷の両氏社殿を再建し、貞享中水谷道範等石垣を築く。又元禄中華表を立て、宝永中正一位の額を掲げ。元文四年杉苗を四方の境界に植ゑ以て奉賽す。明治六年二月十日村社に列す。
社地東は山陰街道に面し、南は旧社地に連り、西は耕地、北は里道に接す。此面積四畝阻歩、杉、樅、槻等の老樹蓊欝たり。京都府庁を距る二十六里二十五町といふ。
(社殿) は本殿梁行六尺一寸、桁行六尺六寸、棟高十五尺七寸二分、軒高十四尺三寸、向拝の出五尺八寸。四方に椽あり、勾欄付。桧皮葺にして入母屋造、千鳥破風、棟に千木、鰹木あり。
(拝殿)梁行十尺、桁行十三尺一寸二分棟高十二尺九寸三分軒高九尺六寸八分、瓦葺切妻
(渡殿) 梁行六尺五寸六分桁行九尺一寸八分、棟高十一尺一寸六分。軒高九尺八寸。柿葺にして両流
 末社  神明神社  稲荷神社  蛭子神社
 祭日  十月十三日、紳幸式あり。    氏子  二百廿戸
  當社に一宮神社志ありて(大正三年四月十日印刷非賣品)寳物、建物、神田等詳細に記載せられたり。
  神職  役野正雄- 仝  信吉- 仝 勇
(『天田郡志資料』)

額田一宮神社由緒には
「該社ハ但馬国朝来郡栗鹿神社ト同神ニシテ祭神中社彦火火出見尊、上社豊玉媛命下社蛇神ト見エタり」とある。上古何等かのつながりを存したものか。
(『上夜久野村史』)

一宮神社(額田上町)祭神…ヒコホホデミノミコト、トヨタマヒメノミコトほか
除夜祭…宮司による祭典、氏子総代の世話で区長のほか、氏子が参拝。
節分祭…同上。
秋葉神社大祭…宮司役は一宮神社の氏子総代が当たる。
子ども奉納相撲がある。
秋祭り…宵宮は屋台2基、太鼓屋台、子ども御輿が巡行する。
当日は「御神木」と称するミコシの御幸神事が夜遅くまで続く。2間にわたり府登録無形文化財の野菜草木を素材とした「つくりもん」が展示される。
(『夜久野町史』)


高野山真言宗月光山東光寺
東光寺(額田)
東光寺は元和年間頃まで向嶋(向)にあったといわれ、温泉にまつわる伝承が残る。同寺が向嶋に所在した当時、境内より温泉が湧出していたが、ある時村人が子供のおしめを洗ったため、湯が涸れはじめた。その時湯の中から1羽の鴻が飛び立って西の彼方に消えてその鴻の落ちたところが城崎温泉であるという。
薬師如来は東方浄瑠璃界の教主とされていて、ここから薬師堂を東光寺と呼んだことが東国には多いという、東光寺は廃寺も含めて当地周辺にもけっこうあるが、寺号からして本尊は眼病に霊験あるという薬師だから、金属とそして東国との関係が古くから何波もあったかも知れない。
月輪山東光寺 真言宗 額田村
高野山自性院末開山権大僧都慶呼法印
天正十九年辛卯年草創境内上畑三反二畝廿三歩年貢地方丈六間半四間庫裏七間半四間 門 鐘楼 土藏
(『丹波志』)

月光山 東光寺   (真言宗) 同村字額田
 本 尊 不動明王(智證大師の作といふ)
 開 山 智証大師  中興 権大僧都慶呼法印
 創 建 元慶中(元慶は元亀の誤ならざるか) 元向島八王寺の南に在りしを以て今も同地は寺の所有たり、元和中慶呼法印今の地に移せり。爾来享保十三年文化八年の両度火 にかゝりしを以て旧記全く伝はらず。
(丹波志)天正十九年草創と見ゆ。境内に、千体堂、観音堂、薬師堂等あり。  (以上郷土史料)
  郡新四国第三十二番の札所なり。
(『天田郡志資料』)

はたらくの地蔵・額田東光寺には、「はたらくの地蔵Jと呼ばれる小祠がある。月輪山東光寺は、門前に観音堂があり、この地をフダラクという。この地名が訛ってやがて「はたらく」と呼ばれるようになり、幼児のカン虫や夜泣き、その他諸病に悩む人々の信仰を集めてきた。つまり、村人たちは日々を元気に働くことを願う地蔵として信仰し、今もここに参る人ば絶えない。ちなみに、この石仏には「寛政六寅年五月五日 願主 当村女講中」と刻まれている。
(『夜久野町史』)

月輪山東光寺 額田旦 『丹波志』・『寺院明細帳』によると真言宗高野派で、高野山自性院の末寺。『本末帳』によれば本坊一乗院。観音寺(井田)と長福寺(額田)を末寺とする。元は向嶋(向)に所在したと伝えられ天正十九年(一五九一)草創、権大僧都慶呼法印を開山とし、元和七年(一六二一)に現在地に移転したと伝える。本尊は智証大師作と伝える不動明王像で『下夜久野村誌』によると元慶元年(八七七)智証大師円珍の開基とする。
(『夜久野町史』)


日蓮宗長光山妙竜寺
妙龍寺(額田)
妙竜寺には豊臣秀吉によって境内地永代無年貢となったとの伝承がある。
長光山 妙龍寺 額田村
京本国寺末寺開山本龍院日易
境内十五間ニ廿間半東山下廿八間高サ二十二間
本堂五間ニ四間庫裏六間ニ三間門二宇 鐘楼 鎮守
(『丹波志』)

長光山 妙龍寺 (日蓮宗) 下夜久野村字額田
本尊 十界本尊  開基 酒屋和泉守  開山 本龍院日易上人
創建 文緑元年字由利に建立、地所は全部開基の寄附と云。寛文三年現今の地に移転。
    妙龍寺免状
  諸公事臨時課役等並に徳政令免除者也免航如件
    天正五年九月廿日   忠家
        酒屋  和泉
  其所屋敷云々太閤様御検地御奉行竹中伊豆守殿御宿ニ被成候故御許候由尤云々地子銭之不可有沙汰者也
    慶長十九年九月三日  桐村甚左ェ門(奉行)
        和泉殿
境内建物  妙見堂
寺宝    日蓮上人御木像(日法土人の作)  抹香ノ釈迦立像  大黒天(菅公ノ作)
檀家 百戸   財産 田八反八畝十三歩、畑二反二畝二十八歩、山林二反七畝四歩
(『天田郡志資料』)

長光山妙龍寺 額田上町
『丹波志』『寺院明細帳』によると日運宗で大本山本圀寺(京都市山科区)の末寺。「長光山妙龍寺由緒書」(近世十-二)等によると開山は本龍院日易上人、文禄元年(一五九二)字由利に創建と伝える。現在の妙龍寺がある場所は、もとは酒屋和泉の屋敷地で、天正五年(一五七七)赤井忠家によって諸公事・臨時課役および徳政を免除(中世五-二)、慶長十九年(一六一四)桐村甚右衛門より屋敷地子銭を免除されている(近世三-一)。寛永三年(一六二六)に至り先祖供養のためと称して土地が寄進され、現在地に移転したという。
(『夜久野町史』(写真↓も))
算額

下夜久野額田の妙龍寺に、複雑な図形が描かれた一枚の額が残されている。これは算額といい、和算家が難解な数学の問題もしくはその解答を添えて社寺へと奉納したものである。こうした算額は全国各地にみられ、近世に和算が関孝和らにより大成したのち、特に文化文政期に最盛期を迎えた。
妙龍寺の額は、明治二十年(一八八七)四月に板生村中川安太郎の追善として、佐藤善一郎貞次により奉納されたものである。佐藤善一郎は、備中(岡山県西部)出身で、測量士として備中・播磨・但馬地方の測量事業に従事し、またその一方、各地で和算の弟子をとっていた。各地に残された算額により、その足跡を追うことができる。佐藤善一郎の名が確認できる算額は現在残っているもので八面あり、明治八年の足次山神社(岡山県井原市)二面にはじまり、同九年生石神社(兵庫県高砂市〉、同年天満神社(同加古郡稲美町)、同十二年出石神社(同豊岡市出石町)と続く。明治十八年には丹波市青垣町の熊野神社にも算額を奉納しており、これには出題者として日置村の住人六名(中川新蔵正矩・中島倉之助宗行・中島徳治郎幸雄・荻野芳太郎義治・中島善之助雲郷・中島吉之助煕行)が名を連ねている。二年後には妙龍寺に算額を奉納していることから、この時期に夜久野周辺に住んでいたと推測される。翌年には、兵庫県養父市の地蔵堂に奉納しており、後述する佐藤小夜女の名もこれにみえる。
妙龍寺の算額にもどると、問題は全部で四間あり、出題者は板生村の「小林弐百蔵範誠」、福知山の「中田保吉謙成」、平野村の「高松周鼎正嵩」という近隣の門人のほか、備中後月郡井原(岡山県井原市)「佐藤小夜女」の名がある。これは佐藤善一郎の娘(戸籍名いま)であり、明治七年六月生まれのため、当時は一三歳にも満たない若さであった。才女であったようで、『繍技蝶蝶』という刺繍の図案書も上梓している。この書の題字は、同額に名前を連ねる平野村高松周鼎が手がけている。
一人娘であったようで、善一郎も愛情と薫陶を注いだものと思われだが、彼女は明治二十二年十二月に中夜久野の高内で亡くなってしまう。高内の共同墓地にその墓があり、碑文には「爰曰備中後月郡井原算者佐藤善一郎一子小夜女山陰富素授明治廿二己丑十二月八日清霜満月享年十九而鳴呼奇哉妙哉終病死法名贈縫算院殿弘教智妙大一字不説雪や霜いとはぬ越ゆる旅衣 正三位中将鳥尾小弥太吉」とある。享年に誤りがあり、また「一字不説」といった不可解な点や.当時枢密顧問官であった鳥尾小弥太との関係も不明であるが、若干一五歳の少女に送られる墓碑としては実に立派なものである。
佐藤善一郎は、小夜女の死後、備中の井原に戻り、明治三十五年に六一歳で亡くなった。故郷では、そろぽん塾を開いていたとされる。また善一郎は「一竹」という雅号を持っており、妙龍寺には一竹の名で描かれた蟹と蓮の掛け軸が残されている、夜久野に残る算額や墓碑は、岡山の和算家と夜久野の人々との交流を思い起こさせてくれるものである(岸加四郎「井原の和算家と算学」、桑原秀夫『美しい幾何図形シリーズ三七 丹波国熊野神社妙龍寺算学』)
(『夜久野町史』(写真も))


浄土真宗稲葉山善照寺
善照寺(額田向)

稲葉山善照寺 (真宗) 下夜久野村字額田小字向島
本尊 阿禰陀如来(立像)
脇立 聖徳太子、愚巒大師、善導大師、龍楼菩薩、天真菩薩、道綽禅師、源信僧都、円光大師、見真大師、慧燈大師
中興 慧燈大師
開山 見真大師
創建 宝暦元年額田村道村道場たり、明治十二年六月寺号下賜、明治廿九年十二月道場を廃し、一宇を再建す、
   此堂宇はもと福知山明覚寺本堂を買ひ受けたり。
(伝説)住昔鬼ヶ城山に在りし釈迦牢尼仏(ニグルベ)刑部と自称せる兇賊の祈願所たりしを、彼の賊滅亡の後、福知山に移したりと云
是れ当時の濫觴なり兇賊は天井裏にて斬り亡ぼされたれば今猶血天井の噂あり云々。
寺宝 宗祖見真大師御流罪当時の絵軸物一幅(参議橘友隆卿の筆と云)
檀家 六十余戸
教化事業 信仰会 婦人会
現住 …
(『天田郡志資料』)

稲葉山善照寺 額田向
『寺院明細帳』によると浄土真宗本願寺派西本願寺の末寺で、開基は不詳。『丹波志』には見えず、近世には道場であったと思われる。『下夜久野村誌』によると寛正年間(一四六一~一四六六)蓮如上人が北陸へ向かう途次に足をとどめられた際に道場が建立されたものと伝え、明治三十年(一八九七)八月福知山明覚寺の本堂を移築、大正十五年に住職を迎え開基とした。
(『夜久野町史』)


長福寺廃寺


舟岡山長福寺 古跡 額田村
十王堂一間四面
昔日当山繁栄而在数坊 尾崎坊 西之坊 文殊院等今成圃地在 旧蹟長福寺ハ其本坊ナリ
(『丹波志』)

船岡山長福寺 額田下町
「寺院明細帳」によると真言宗高野派で高野山自性院の末寺とするが、『本末帳』には東光寺(額田)の末寺とある。『寺院明綱帳』では信徒数五三人とみえ、下町を檀家圏としていたと思われる。『丹波志』巻之七寺院部にはみえず、巻之八古跡部に「舟岡山長福寺古跡(中略)昔日当山繁栄して数坊あり、尾崎坊、西之坊、文殊院等、(中略)旧跡長福寺はその本坊なり」(原漢文)と紹介されている。寛政年間以前にいったん廃絶し、寛政六年から明治十六年までの間に再興したものとみられるが、再び廃絶した。
(『夜久野町史』)


天文年間当地を支配した夜久相模の古城跡が旦ノ上にある。

《交通》


《産業》

下夜久野鉱山[夜久野町字額田(向)]
産出鉱物:陶石(石英・絹雲母・斜長石・ガラス質物質)
(『夜久野町史』)

額田市
額田は藩政時代より漆の取引ほか、油・日用雑貨・旅籠・飲食加工・染物などの商家があり、明治44年(1911)の鉄道開通、停車場設置以後は、山陰街道沿いに商家が軒を連ねるまでに発展して賑やかな商店街を形成してきた。
額田市の起源は詳らかでないが、それほど古いものでなく、明治に入ってからのようである。市の立つ日は年の暮れの12月25日であり、明治20年頃には一宮神社付近の上町と、それに近い下町付近に市が立ったのは確かだという。上夜久野方面からもワラムシロなどをもってきて大売り出しもした。取引決済が盆と暮れに行われる関係上、その後夏の盆にも行われるようになり8月10日にも市が立つようになったという。市の日に街頭に並んだ出店の賑わしさは、さながら縁日の観を呈したようである。また市の日に上町付近の町屋では「市餅」が売られ、名物になっていた。通行人からみえる場所で威勢よくつぎ上げられた餅にアンコを塗し、でき立てを売っていた。この額田市も太平洋戦争が拡大していく中で自然消滅していったのである。
(『夜久野町史』)

額田宿
額田は、国道九号から北西へ分岐する幅四・五メートルほどの細い道をメインルートとして、額田宿その道の両脇に軒を接して家々が立ち並んでいる、いうまでもなく旧宿場町の景観で、近世から近代にかけては旅籠や商売店が軒を並べ、八月十日と十二月二十五日には額田市が開かれたというが、市の起源は明らかではなく、近世期にはその記録もないため、近代以降に開始されたものなのかもしれない。前出『福知山預全村村絵図』によると、福知山藩領内における町場は城下町のほかには額田町・土師町・立原町の三ヵ所を数えるにすぎず、近世初期の十七世紀半ばにはすでに町場の体をなしていたらしい。
近世期の商売の様子は詳らかでないが、幕末期から明治初期にかけて、そう大きな変動があったとも考えにくいので、明治初期の資料を参考にすると(「夜久野町史」)油卸二、漆仲買二、旅籠屋四、煮売店五、肉店三、その他小売り雑商合わせて三二と、なかなかの繁盛ぶりを呈していた。続いて明治十三年の資料によると(「諸鑑札記」塩見家文書)、旅籠渡世として衣川八蔵・夜久吉五郎・塩見文右衛門・三浦弥兵衛の四軒が知られ、その他清酒醸造二軒、同小売四軒、煮売店六軒などが見える。小売業などは出入が激しいので正確な数や変遷は把握しづらいものの、卸・仲買や、旅籠屋・清酒醸造など一定の店舗規模を構えた商売については近世以来大きな変動は無いと考えてもよいだろう。
近世の高割帳などを見ると、額田村のうち宿場町のあるところは「町分」とされ、現在は上町、下町に分かれる。宿場といっても、近世期の宿場町としては一般的な街村状の集落を形成しており、町場は額田村全体のうち、現在の上町・下町に集中し、それ以外は他の農村と変わらない田園地域である。
村の産業としては、隣接する井田村と共に当地の特産品である漆掻きに従事する者が多く、仲買も行われていた。また繭玉を煮ほぐして絹糸を取り出す糸釜を設けて絹糸の生産も行っていたようで、主として丹後方面へ販売していた。文化八年(一八一一)には額田村板屋与平次から与謝郡弓木村(京都府与謝野町岩滝〉米屋清左衛門に糸一六貫五九六匁を納め、代銀五貫五二三匁四分を受け取っている。天保十一年(一八四〇)の記録では、繭玉の取れる旧暦五月末から六月末までの一ヵ月間に一三名が稼働し、しめて一一匁九分の糸釜運上金を納めていたようで)、額田は夜久郷南北の出入り口である千原峠と仏坂峠を繁ぐ糸街道の要地で、生糸生産は村の主産業のひとつであった。また額田は山陰街道と糸街道が交わる地点に位置しているが、山陰街道は前述のように、国境を跨いだ広域交通については重要度が低かった可能性もある。この地域の生糸生産の盛んな様からは、むしろ生糸産業を支えた糸街道のほうにこそ重要度が高かったように考えられる。
(『夜久野町史』)
田舎にしては町並みの雰囲気が何となく都市的で風通しがよく感じられるのもこうした歴史があったからか。どこかの町のような強権的な所は感じられず庶民の町の感じがある。やはり歴史は生きているようである。


額田の主な歴史記録


額田村  右同
高五百五十三石五斗貳升五合
額田村ニ水谷氏五六家有其一家幸七百秀ト云者享保年中ヨリ村長タリ素性好書既ニ額田伝記ニ書于時寛延元辰年書成民間ニ在テ英傑タリ其書最実ナノ其先ハ天津児屋根ノ末胤ニテ家系正シ系譜ノ部ニ出之
享保九甲辰年今開闢於向島圃地為田租ノ古来幾回雖志不果可謂当邑古今第一之大功水節ヲ付田地ト云
庄屋水谷与三左エ門組頭石田太郎兵衛同畑弥三兵衛同石田次郎兵衛其外十七人尽精力水谷幸七作文今爰ニ略

(『丹波志』)

額田村   高 五百五十三石五斗二升五合 仝上(福知山領)
此村に水谷を氏とせらもの数戸あり、其一家幸七百秀といふ者、享保年中より、村長たり、寛延元年に成れる額田伝記に、其系図委しく記せりと云、享保九年甲辰年向島の地を開く、是より先幾回か之れを企てしが其望みを達する者なかりき、さるにかの水谷氏は能く其功を成せり、実に当村の田祖といふべし、後溝渠を通じて潅漑に便し、漸く良田となれり、これは庄屋水谷興三右ェ門、組頭石旧太郎兵衛、同城畠彌三兵衛、同石田次郎兵エ、其他廿七人合力して成就せるものなりと云、
(『天田郡志資料』)

地名考察・額田とは古代にみられる由緒ある人名、地名で平安時代の人物では額田今足や才女額田大王が有名である。和名抄には「奴加太」と記されている。愛知県に額田郡があり、ここは帰化人にゆかりある土地である。夜久郷額田は古くは今日の奥、旦あたりを指し、現在の上町、下町、向一帯は中世以降に開発された新田地帯とみられる。この辺がヌカルミであったので「ヌカダ」の地名を生じたのではとの考え方もなされるが、特に根拠のあるわけではない。

◎鳴岩(旧下夜久野村額田)額田東光寺の裏手の山が南側に崖をつくるところは、牧川がせまっていて、国鉄山陰線と国道九号線が押合って東西に走る隆路である。この崖は国道の整備されない以前には、現在の鉄道の位置まで下ったところまでその壁面をあらわしていて、下から仰ぐと頭上にせり出した絶壁をなしていた。その昔から山陰道を通る人たちは誰しもここを通ったものであるが雨の夜等、この岩がゴーと音をたてているので随分とおそろしがられたものである。あたりに人家のない村はずれの、この気味の悪いところを村人は鳴岩と呼んで難よけの供養に地蔵さんをまつったり、五輪塔を建てたりしている。今に残る石塔群はこの名残りである。
☆☆☆
「岩が鳴るとは恐ろしや」、その頃岩はたしかに鳴っていたのであるが、科学の進んだ今の世の人はその原因をどう考えたらよいのであろうか。鳴岩にせまる牧川は、ここのところで瀬をつくり、下手の八王寺の淵に落ちこんでいる。この瀬の音が水量を増した雨の夜には一層大きくなり、この鳴岩の絶壁に当りこだまするのが岩鳴りの音と考えれば自然である。丁度崖が凹面の皿状であり、旧国道を歩く人は反射してくる焦点に位置することになっていたらしい。或はまた、この岩質が鍾乳洞をつくる石灰岩なので中に空洞が出来ていて地下水の落下する音かも知れないと耳をあててみたこともあったが、その気配は感ぜられなかったので、前の説が正しいようである。何れにしても今日の鳴岩は元の姿を大半地中に没していて、今日その音は聞かれず間断なく通過する車の轟音の方がかしましい。

◎洞れた温泉(旧下夜久野村額田向嶋)江戸初期の元和(一六一五~一六二四)の頃まで、東光寺は向嶋の八王寺にあったと伝えでいる。その頃に薬師如来をまつったお堂があり、そこに温泉が涌き出していたが、或とき村人が子供のおしめを洗ったために涸れてしまったという。このときお湯の中から一羽の鴻の鳥が飛び立って西の彼方に消えていった。その鳥の落ちついたところが今の城崎だというからこちらが元祖の温泉というもの。
観音堂(東光寺)
  ☆☆☆

額田の東光寺門前に向嶋から移したと伝える薬師如来をまつる御堂がある。東光寺は向嶋八王寺にあった頃、天台宗寺院であったかも知れないとの説もあり、その頃盛んだった薬師信仰の様を伝えた伝説とおもわれる。
(『上夜久野村史』)

「補陀洛」の額がある八角形のお堂。補陀洛渡海とかチベットのポタラ宮殿などを思いおこすが、東方海上の八角形の島に薬師様はいらっしゃるという。

長谷(ながたに)古墳
所在地 額田(長谷)
遺跡・遺物 古墳は、五宝(峰)山の東南側山裾に位置する。
水路工事に伴う法面掘削工事によって発見されたが、工事終了後、教育委員会への通報であつたため詳細は不明である。ただ採集遺物はハソウ、横瓶、抔等の須恵器類や土師器、鉄器がある。

五宝山古墳群
所在地 額田(五宝(峰)山)
遣跡 五宝山の山頂に近い鞍部に位置する。古墳群は五基の円墳から構成されている。

北天井古墳群
所在地 額田(北天井)
遺跡 額田集落の北西、奥集落の北東の丘陵上に位置し、四基の円墳から構成されている。

瘤屋敷古墳
所在地 額田(瘤榎)
遺跡・遺物 JR山陰本線、第四牧川矯梁から東へ約二〇〇メートルの丘陵裾部に位置する。昭和四十年代、国道九号線の拡幅工事で破壊された。墳丘や埋葬主体等不明。遺物は須恵器や土師器、刀、鍔等が出土したと伝えられている。
(『夜久野町史』)

薬師さんの出湯(額田)
それはずいぶん昔のこと、額田向嶋の地に温泉が湧き出ていた。雪の多い夜久野の里に冬でもポカポカと湯気ののぼる温泉のまわりには、土地の人は勿論、ずいぶん遠くの人たちも聞きつけて集まってぎた。こんこんと湧き出る清らかな温泉で人々は自然の恵みに感謝しつつ、あるいは沐浴し、あるいはその湯を持ち帰って炊事や洗濯にまで役立てた。誰がたたえだしたか「薬師様の出湯」とその名もゆかしく呼ばれるようになり、名声はますます高まって一つの霊域とまでなった。
「めっぽう今日は冷え込むわい」「ほんとに寒いことじゃ」「どれそれじゃお薬師様まで出かけようかいの」寒い日に里人はかくいい、温湯に浸っては吾身の果報とお互いの冥加を喜び合い、また暑い旧には暑い日で、「ほんとに今日はくたびれたわい」「毎目こう暑くてはやり切れんな」「どれそれじゃ、お薬師様で一汗流してくるか」かくて折にふれて「お薬師様の出湯」は里人と共にあり、彼らの心の慰めでもあった。そして温泉に対する信仰の念を増したのであった。いつしか温泉のそばには薬師堂が建立されてあり、その薬師堂を一劃とする大伽藍が威容を誇っていた。
平穏な幾日かが過ぎ、幾月かが去りそして幾年かが流れた。
「お薬師様の出湯」は一日も変わらず清い湧出を続けていたが、時の流れがお薬師様に対する感謝の念を薄れさせたのであったろうか。或いは恵みがあまりに大きかったがために、恩に気づかなくなったのかもしれない。ある日一里人が何気なくこの霊湯で赤ん坊のおむつを洗った。あらあら不思議や。透き通った「出湯」の中から突如として羽ばたきが起こり、真っ白なコウノトりが舞い上がり、薬師堂を越えて西北の方角へと飛び立って行った。里人は驚き慌てた。ポカポカと湯気の上がる温泉が次第に涸れて行くではないか。霊域を汚したためについに温泉は出なくなってしまった。今更ながら自然やみ仏の大きさに気づいた里人は、今後自分たちの行いと心がけさえ正しければ、何時の日か白いコウノトリはこの地に舞い戻り昔の美しく清い温泉が湧くものとこの期待を捨てはしなかった。それどころか語り継ぎ言い継ぎして、里人は御仏や自然の恵みに対してもますます感謝の気持ちを強めつつ日々の生業に勤しんでいるのであった。
この伝説に好感を覚え涸れた温泉になごりを惜しむ人たちの中には、コウノトリが飛び去った西北の海の方角に眼をやって、その行きついたところが今の城崎の地ではあるまいかと案じたり、涸れた温泉の古跡をあれこれ探索して、今の向嶋のその辺りとおぼしぎところに雪解けの早い場所を選び、こここそかつての霊泉の箇所ではなかろうかと豊かな想像をめぐらしたりする。
伝承に依れば、今の東光寺は990年前向嶋にあったといい、現在、門前の観音堂に温泉に関係の深い薬師堂の本尊が合祀してある。
あれやこれやと話を発展させれば、かつての額田温泉は、城崎温泉の元祖というべきか。(下夜久野村誌刊行会『下夜久野村誌』)
(『夜久野町史』)

西舞鶴の喜多は慶長の頃はヌカタベ(糠田部)村と言ったが、その北側の青井に似たような伝説が伝わる。
額田とは、「ぬかるみのタンボ」か。そうかも知れないが、しかしタンボにぬかるみに決まっている。当地も周辺地も鉱山帯であるので、もう少し考えみなければなるまい。
天田鉱山[夜久野町字額田 奥山(本谷)東綾杉谷]
産出鉱物:閃亜鉛鉱・黄銅鉱・磁硫鉄鉱・方鉛鉱・黄鉄鉱・硫砒鉄鉱・石英(水晶)・方解石・菱鉄鉱・緑泥石・縁色次成鉱物
下夜久野鉱山[夜久野町字額田(向)]
産出鉱物:陶石(石英・絹雲母・斜長石・ガラス質物質)
(『夜久野町史』)
舞鶴にもヌカタベ(今の喜多)、福知山市天田にも額田、木津町木津にも糠田がある。額田は鋳物の鋳型を作った者で、土型(ヌカタ)の事だともいわれる。牧川を挟んだ対岸は末で須恵器の生産地であったと思われ、一帯は土が良質で土扱いが得意な人々がいた所なのかも知れない。
あかねさす、むらさきのゆき、しめのゆき、…の万葉集で知られる額田王(ぬかたのおおきみ)の額田という古代氏族の名が地名となったものと推測するが、額田といっても全国に分布していて、当地はどの系統なのかわからない。渡来系の額田村主氏と伊香我色雄命の後という物部氏系、それに無姓系や国造系もある。土形(ひじかた)の里と丹後風土記にあり、『田数帳』の丹波郷則松保に、土方次良左衛門の名が見えるが、ヌカタとも読めて、あるいは丹波王家系ヌカタもあったのかもと思わせられる。


酒呑童子と関係のある茨木童子について考えてみたい。
酒呑童子は、その前には大阪府三島郡であった茨木市付近の出身で、茨木童子と言っていたとされており、今でも茨木市には茨木童子のいた伝説地が残っている。その伝説地の近くに、近年弥生式時代の鋳型とフイゴが発見された奈良という所がある。
茨木市付近もどうしたことか、古代の金工に関係が深い所で、火明命を祭神とする天照御魂屋社という式内社が三社もある。この地の、福井の天照御魂社付近で、私は鉄のカナクソがたくさん出ることを発見した。諸国にも天照御魂とか天照大神という神社があり、伊勢の皇大神官を含めてこうした神社は金工に関連がある神社と考えられ、案外、皇室の最初の職業は金工業の疑いもなきにしもあらずだが、とにかく茨木という地名や人の姓氏は、金工に関係があるようである。
 茨木という地名は大阪府だけでなく、このほか茨城県の茨城とか、伊豆国田方郡韮山町に昔の茨木郷があり、前者の茨城にも有名な伝説があり、民俗学者によってよくとりあげられる所であるが、後者の伊豆の茨木郷にも式内社が三社もあり、一つは金村五百君和気命神社といい、一つは剣刀石床別命といい、いずれも金工神を思わせ、もう一つの荒木神社には糠田というところが近くにあり、これは額田など鋳抜を示す抜戸神という鋳物神に関連のある地名である。
このように茨木童子の茨木や酒呑童子の酒呑--幸の実など、いずれも金工と密接な関連のあることは興味が深い。
 以上が、大江山という鬼の住んでいた所の話であって、この地の鬼が金工に関係があることは間違いなく、鬼と金工の関係はたんに楽々福神、吉備津神だけに特有のものでないことは、この大江山のことからも証明されたわけである。
(『鬼伝説の研究-金工史の視点から-』)

三重県桑名市の)式内額田神社は、額田部氏の始祖天津彦根命の孫意富伊我都命を祀ったものである。天津彦根命の子は天目一箇神で、鍛冶祖であることはいうまでもない。
(『鉄と浮囚の古代史-蝦夷「征伐」と別所-』)

額田部湯坐連が天目一箇神の末裔であるとおなじく、芦田首も天目一箇神の後裔である。荒田直は高魂命五世の孫である剱根命の後である。このように、菅田、額田、芦田、荒田などの氏族は、語尾に田をつけているが、それはあとでつけたもので、ヌカ、スカ、アシ、アラという語に銅や鉄あるいはその精錬の意味がこめられていると私はみる。また、天目一箇神が麻の葉で目をついて片目になったという伝承があり、一方、『鉄山秘書』に金屋子神が麻に足をとられて倒れたという話があることから、アサもまた、金属精錬に関連すると私はみる。

『続日本紀』の養老六年(七一三)の条に、金作部、忍海部、弓削部、飽波、鎧作の五つの氏族名がみられるが、弓削部と鎧作をのぞく三つが、さきの阿知使主が呼びよせた三十の集落の村主の中にふくまれていることである。
このほか、三十の集落の村主の中には、高宮、佐味、桑原、額田、牟佐などの名もみえる。「神功紀」には、桑原、佐糜、高宮、忍海の四つの村の漢人たちを、葛城襲津彦がつれてきて住まわせたとある。これらは新羅の俘虜のように記されているが、それは事実でなく、加羅から日本に渡来した鍛冶職人であったと思われる。額田は金属精錬の職業に従事し、牟佐村主青もまた鍛冶神を祀っている。ということからして、三十の集落のうち、じつに八つの集落の村主が銅や鉄の技術をもって移り住み、またその職業にしたがっていたということになる。
(『青銅の神の足跡』)





額田の小字一覧


額田(ぬかた)
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『夜久野町史』各巻
その他たくさん



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