丹後の地名

丹後一宮・元伊勢・吉佐宮
籠神社
(このじんじゃ)
宮津市大垣


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籠神社の概要

↓籠神社拝殿
籠神社・拝殿

 天橋立の付け根に鎮座する神社。傘松公園の登り口にある神社。橋立に来られたなら一度はお詣りされたことかと思う。
歴史以前にさかのぼる古社で、由来はさすがにチョーむつかしい!
ここではほんの概要のみです。

 籠神社は、丹後国の一宮で、「延喜式」神名帳の与謝郡「(コノ)神社(割注・名神大 月次新嘗)」。籠守権現・籠宮大明神とも称した。現在の籠神社では、天照大神・豊受大神・天水分神、それに海部祖神天火明神ならびに氏神の住吉神を祀るとする。旧国幣中社。

 「神道五部書」によれば、雄略天皇39年に天照大神を伊勢に遷す前に一時丹州与佐の地に遷し、これを与佐宮と称したという。それゆえ当社を「元伊勢」とも呼ぶ。
ここが元伊勢、なんでこんなとこが元伊勢なん、などと不思議がる方もありますが、ここは元伊勢さんの本命です。「伊勢神宮元宮」と書かれてあるでしょう。伊勢神宮の外宮は豊受大神を祀りますが、この神様は丹後の神様です。

籠神社本殿の下のような飾り物は他の神社にはなく、伊勢神宮とここだけのものといいます。

↓本殿の高欄の上の五色の座玉(すえだま)
座玉

↓妻飾りの鏡形木。(どれのことなのか私には正確にはわかりません。T字方の梁のようなものとも書かれているが、こんなものならどこにもありそうなものと、福知山市大江町の内宮さんへ行って見てきたが、こんな形ではなく+字形だった。)
鏡形木

↓十本の鰹木。(福知山市大江町の内宮も十本)
鰹木

案内板には、次のように書かれていた。

案内板
御由緒
富社は、古代には吉佐宮と云い、奥宮のある真名井原の霊地に、豊受大神と天照大神を共に祭った。両大神か伊勢にお遷りの後、天孫火明命を主祭神として、外に天照大神、豊受大神、海神、天水分神を共に祭り、籠宮と申した。以後、元伊勢と云われ、又、丹後国の一宮として名高い。神社創立の昔から、海部直が神主として累代奉仕し、今八十二代を数える。名勝天橋立は、昔は當社の参道として発拝し、又、神域であった。社殿は伊勢神宮と同じ、唯一神明造りであり、特に本殿高欄上の五色の座玉は、神宮と當社のみの高い格式を表している。

案内板
籠神社 (古称 吉佐宮)
御祭神 彦火明命
相殿 豊受大神 天照大神
   海神   天水分神
 神代の昔より奥宮真名井原に豊受大神をお祀りして来ましたが、その御縁故によって崇神天皇の御代は天照大神が大和国笠縫邑からおうつりになり、之を吉佐宮と申し、豊受大神と共に四年間お祀り致しました。
 その後天照大神は垂仁天皇の御代に、又豊受大神は雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢におうつりになりました。それに依って當社は元伊勢と云われております。
 両大神がおうつりの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮と改め、元伊勢の社、又丹後国一之宮として朝野の尊崇を集めてきました。





 社伝によれば諸岡(もろおか)を旧地とし、養老3年現在地に移したと伝える。
恵美須神社(籠神社)

現在、本殿の向かって右側に「恵美須(えびす)神社」が鎮座している。案内板には、



丹後一番えびす
拝殿の向かって右側に鎮座する恵美須神社は、奈良時代の養老三年(約一三〇〇年前)現在の御本宮が御鎮座された際に、それの前の主祭神であった彦火火出見命と倭宿禰命を別殿にお祭り申し上げたもので、丹後で最も古い歴史を持つえびす様と言う事が出来ます。
以来、商売繁昌や大漁満足を始めとする御神徳が聞こえ、遠近の商工業や漁業に携わる人々などから篤い信仰を受けて参りました。

もともとはここには彦火火出見(ひこほほでみ)命と倭宿祢(やまとすくね)を祭神とした「恵美須神社」があった。簡単に書けば、通説のように書けば、彦火火出見は山幸彦(やまさちひこ)のこと、彦火明の子。倭宿祢は、勘注系図注文に、
亦の名は天御蔭命、亦の名は天御蔭志楽別命、母は伊加里姫命なり。神日本磐余彦天皇の御宇に参赴て、祖神より伝来りし天津瑞の神宝(息津鏡・辺津鏡是なり)を献じ、以て仕え奉る。(弥加宜社、祭神天御蔭命は丹波道主王の祭り給う所なり)此の命、大和国に遷坐の時、白雲別神の女豊水富命を娶り、笠水彦命を生む。(笠水は宇介美都と訓めり)
いつの日にか、こうした古い祭神にもしっかりと取り組んでみたいとは考えておりますが、今はこの程度で勘弁して下さい。

↓籠神社には倭宿祢命の銅像が造られている。案内板には、
倭宿祢命像(籠神社)
倭宿禰命
別名・珍彦・椎根津彦・神知津彦
籠宮主祭神天孫彦火明命第四代
海部宮司家四代目の祖
神武東遷の途次、明石海峡(速吸門)に亀に乗って現われ、神武天皇を先導して浪速、河内、大和へと進み、幾多の献策に依り大和建国の第一の功労者として、神武天皇から倭宿禰の称号を賜る。
外に大倭国造、倭直とも云う。
大倭(おおやまと・だいわ)字書は、後の大和の(やまと)の国号に深い関係があると云われる。
亀に乗ったお姿は応神朝の海部の賜姓以前、海人族の始原の一面を語り、又海氏と天系との同一出自をも示唆するようである。
御神徳
人生先導、事業成就、健康長寿、平和招来、海上守護
元伊勢籠神社
八十二代宮司 海部光彦

彦火火出見命≒倭宿禰≒浦島太郎の式をワタシは考えている、浦島太郎というか丹後人の遠祖、彼が大和へ入り初代天皇になった、あるいは共同統治者になったという伝承がありそうに思われる。

産霊岩(籠神社)
↑この岩が昔からここにあったかどうかはわからないが、たぶんずっとここ禁足地にあって、この岩(天然記念物さざれ岩・産霊岩(むすひいわ)・一名、神生み岩)こそが「恵美須神社」であっただろう。
(現在の籠神社本殿の向かってすぐ左側にある。)


 さて、一方、籠神社は現在地ではなく、諸岡(真名井原)の真名井川の畔にあったという。

そんなに離れた場所ではなく、すぐ隣であるが、現在の真名井川↓。何百メートルか遡れば真名井神社があり、その神体山の天香語山の円い山頂部がここからでもわずかに見えている。左側(西側)は籠神社の駐車場でその左には籠神社の立派な社叢が見える。
真名井川(籠神社のすぐ東を流れる)

↓対岸へ渡れば天香語山がよく見える。天香語山こそが神体山であろう。この山の見える麓の一帯が聖地で弥生の墳丘墓や籠神社もここにあったものと思う。
真名井川

真名井川はずっとこの位置を流れていたわけではないだろうが、神体山の天香語山(あまのかごやま)から流れ出て、いずれこの付近を流れていたと思われる。
『元初の最高神と大和朝廷の元初』は、
真名井神社は、後に述べるように、古代の磐座を以て神座とし、その神座と、本殿内との両所に御神霊をお祭りされて来ているから、豊受大神伊勢国奉遷後も、祭祀は、それ以前と変りは無かったようである。一伝によると、伊勢御遷幸の豊受大神の御分霊を、此処に留められた由であるから、すると、奥宮真名井神社の御本殿内には、御分霊もお鎮まりになっていると窺われる。
 同神社の奥宮真名井神社の所在地は、低い山岳であって、真名井、もろおか、村岡山、比沼の真名井、藤岡山、天香語山、古社(コモリ)等の称があり、これら数種の名称が重なっていて、見(み)山という称号は、現在見えぬが、東側の谷を見谷(みだに)といい、西側の谷に流れる清流を、真名井川、又、粉(こ)川、古(こ)川、籠(こ)川といっている。
 慶長七年壬八月十日の御検地帳に、「真名井地六拾間四方、右ハ御除地也」と見える。
 伊勢の御鎮座本紀(記)に、
  丹波国与佐之小見比沼之魚井之原坐道主子八乎止女乃奉斎御饌都神
と見える真名井原の一部であって、その所在地が与佐郡であることは明らかであるが、小見及び比沼、特に小見に就ては、それが、雄略天皇の御代の御神勅に見える字句であって、古事記が撰進せられた和銅五年を遡ること二百三十余年にも及ぶ遠い上古のことであるので、その意が、相当難解となっているのである。小見も、比沼も、恐らくは、地名を意味すると考えられるのであるが、いずれも、その後、地名が沿革していて、公式の呼称としては、存続せられてはいない。

天香語山を水源とする真名井川は天香語(あまのかご)川、あるいはカゴ川と呼ばれていたと思われる。
そのカゴに籠の漢字を当てて、やがて音読みしてコ川と呼ばれたのではなかろう。
その川の畔の神社はカゴ神社なのではなかろうか。正式にには天香語神社なのではなかったかと思うのである。その香語に籠の漢字を当てて、やがて音読みするようになり、コ神社と呼ばれるようになった。川の呼び名も神社の呼び名も同じ変化があったのではなかろうか、一応そのように想像してみるのである。
「室尾山観音寺神名帳」の「与謝郡六十八前」には、
正一位 (カゴノ)大明神
とカゴと仮名がふってある。何時の時代の誰がつけた仮名かは不明だが、本当はカゴ神社がなのかも知れない。
籠神社はコノモリあるいはコモリとも呼ばれた。モリは神社の意味だろうから、コモリとは籠神社(コモリ)の意味と思われる。福知山市大江町河守(こうもり)もこの意味かも知れない。
カゴは銅を意味すると思われ、そんなことからこの神社の性格は本来は金属と関わると考えるが、どの神社もそうであるように、いろいろ要素が集合してきていて、もう何が何だかわからなくなってきている。




籠神社参道

籠神社神門

 現在地に鎮座する養老三年以降、元伊勢、丹後一宮、丹後国造家の祖神を祀る性格が強くなってくる。私としては興味がなくなってくるのだが、…
「続日本後紀」嘉祥2年(849)条に「此日、奉丹後国龍神従五位下」とみえるのをはじめとして、「三代実録」貞観6年(864)条に「授丹後国従五位上籠神正五位下」、同13年条に「授後国正五位下龍神従四位下」、元慶元年(877)条に「授丹後国従四位下籠神従四位上」などあり、籠神として早くより知られていたという。
承暦4年6月10日の「神祇官御体御卜奏」(朝野群載)に、白河天皇の病気の原因に伊勢神宮ほか諸国諸社の神事過穢があげられ、その中に当社の名も見える。この頃から丹後国一宮と称するようになったのであろう。という。
祭神は建武2年(1335)七月日付大谷寺衆徒勅願寺訴状に「所謂豊受太神宮之本宮籠宮大明神」とあり、天和年間(1681〜84)の写と称する籠大明神縁起秘伝(海部家蔵)にも「夫当社籠大明神ハ即豊受大神也」と記し、また「人王十代崇神天皇ノ御宇天照大神幸于与謝宮ニ、与謝宮ハ則是籠大明神也」とも記す。



「丹後国田数帳」によれば、中世には神田46町余・朔幣料田11町そのほかの社領を有している。
中世における社殿は雪舟筆「天橋立図」に描かれ、その有様を知ることができるが、弘化2年には3社殿の再建がなされ、現在の社殿はその時のものである。社蔵として同社祝部として古くから奉仕していた海部氏の古系図2巻(国宝)があり平安前期のもの。ほかに藤原佐理筆社号扁額(国重文)、境内出土の文治4年銘経筒および御正体等(国重文)、桃山期作石造狛犬1対(国重文)などがある。




葵祭


 籠社の祭礼は「宮津府志」に「宮津古記曰丹後の一宮は正一位籠大明神也、四月中の午の日葵の祭とて近郷の土民数多出て太刀振りと云ふ事を為す、又近国より牛を多く牽来て江尻村の口橋立の並木の中にて市を為す」とみえるように、かつては四月の牛の日を一宮葵祭としてこの地方の大祭であった。現在四月二四日を例祭日とし氏子の各集落から神楽・太刀振・笹ばやしが奉納される。

2012年の葵祭の様子↓
籠神社の葵祭(2012.4.24)

籠神社の葵祭(2012.4.24)
春の例大祭は葵祭とよばれているが、また藤祭とも呼ばれる。ちょうどその季節で髪や冠、太鼓屋台などに飾られていた。





籠神社の葵祭(2012/04/24)








暴れ獅子

暴れ獅子
神幸行列の先導を勤める「暴れ獅子」、拝殿前広場で待機していて、暴れているが、神門からは出してもらえない。

















籠神社の主な歴史記録


『丹哥府志』
【籠神社】(延喜式名神大月次新嘗)
籠神社は蓋表筒男命、中筒男命、底筒男命に豊受皇を合せ祀るなり、表筒男命、中筒男命、底筒男命は皆伊奘諾尊の皇子住江の三所大神と称す、所謂住吉明神なり。国史略云。彦火火出見尊自有山幸兄火闌降命有海幸…略…
或云。塩土老翁は住吉大神の別名なり、住吉大神彦火火出見尊の為に無目篭を造る、故ょ以て篭神社と称すといふ。豊受皇大神は伊奘諾尊の皇子和久産巣日神の皇子なり、始而人に衣食を教ゆ是以天照大御神豊受皇を以て吾御饌神と尊み玉ふ(日本記にいふ所は古事記と異る豊受皇を国常立尊とす二説いまだ何れが是なるを知らず、されども前賢多く古事記を以て正説とすよって今是に従ふ)。雄略帝廿二年大佐々尊を丹波吉佐に遣はし豊受皇を迎へ奉り、之を伊勢山田に移し祭る、號して外宮といふ、既にして豊受皇の故廟漸く衰ふ。夫豊受皇大神は住江の三所大神と叔姪なり故を以後の世に二社合せ祭る。先是元明皇帝毎州一宮を建つ、於是養老三年三月廿三日篭神社を丹後の一宮と定む、今の一宮是なり。諸社一覧に倭論語を引て豊受皇の神社を載て云。蓋人ノ身ヲ思ヘルカ如ク神明ヲウヤマイスへカミコトヲアカメ天ノ神ノヲシヘヲマモリヲラス一身ヲハツカシムル ナカルヘシト云云。社記云。王代以上は宮殿の造営今の伊勢両宮の如く朝廷より営み玉ひて社領二千五百石あり、武家に至て稍衰ふといへども猶古儀を存せしが応仁年中より久しく廃す(一宮の別当大聖院智海上人の筆記今成相寺に納まる其書に将軍義尚公宮殿を再建すといふ)今僅に古代の一を存す。本社の左右に末社五座、一は太神宮、一は春日、一は大世多、一は恵比寿、一は貴舟明神、本社の正面に拝殿あり拝殿の前に狛犬二対、其左に石の手水鉢あり銘に永亨五癸巳年八月願主忠益とあり、狛犬より華表に至る凡四五十間松樹左右に連る、其間に石灯篭凡五柱、其一柱は高灯篭といふ高サ一丈五尺余、華表の前に石の反橋あり石橋の前に石灯篭一柱あり、海浜に至て輪灯篭を建つ、輪灯篭より鳥居の前後に茶亭左右に連り自から市をなす、よく客の旅愁を散らす處なり、茶亭より右の方に社司海部氏の宅あり、蓋海部氏は海部直の子孫なりといふ。宮津歳時記云。一宮の祭は四月中の丑の日葵祭とて近国より多く牛を率て江尻村より橋立の間に牛市をなす、蓋祭も盛なる事と見へて其祭に用ひたる屋台の輪なりとて大なる車の輪今に残る、今は太刀振といふ事をなすのみ。
蔵宝
一、正一位篭之大明神之額(小野道風筆)。一、同(藤原佐理卿筆)。一、源頼光願文。一、児舞装束。一、蘭陵王の仮面(出図)

『丹後旧事記』
籠篭神社。板竝庄府中。祭神=籠篭守大明神。当国一宮(延喜式名神大社目次に在)。合神=豊受太神宮。
 社記曰当社籠大明神者神代之鎮座而往昔従朝廷造営又四月臨時祭有勅使其後国司此使蒙仰。
 養老年中迄造営度々あり延暦年中以後廃絶す。神社啓蒙曰篭神社有丹波国與佐郡府中大垣村一宮記曰篭守大明神と名づく住吉大明神同体なり。類聚国史曰貞観十三年六月八日従四位下賜。
同合神 豊受皇太神宮之事。
 天橋記曰雄略天皇廿二年秋九月当国與佐郡従真名井原伊勢国度会郡鎮座奉成時神而真名井原留祭是所謂與佐宮有神也其後年代遥隔社頭悉兵乱廃壊故篭守神社相殿祭建武年中以後事也大谷寺奏状見又篭神社額有正一位篭大明神是者小野道風筆也云伝然共貞観以後神位可有昇進恨国史不詳事。
 又神社に古き木偶仮面山鉾曳たる車の輪数多あり是皆往昔篭大明神の祭礼に用いたるものなり。
 後拾遺和歌集曰く俊綱朝臣丹後守にて侍る時彼国臨時祭の使にて藤花を(花波祭といふ事伝)かざして侍りけるを見て詠るとあって良暹法師の歌あり俊綱任国の所に記す。宮津増補府志曰く一宮正一位大明神の祭礼は四月中の牛の日なり(いかかの事にや民俗府中の癸祭といふ其訳志らず)又当所に古図あり僧雪舟と伝ふ田辺府志に曰く丹後五社の其一社なりとあり。 五社者 真名井 大川 熊野 奈具 篭守
 又或木に曰く篭守大明神者天水分神なり。
 前太平記に住吉同体とあり。
 武家評林に源頼光朝臣当国千丈ケ嶽に向ひ玉ひし時願書を篭られし故篭大明神とあり頼光家臣渡辺綱が筆記なりとて其願書今にありといふ其外古人名将名僧の願書等多し。
 神記曰く当村は往昔篭に乗て雪中に顕れ鎮座ありけるを以て神号とするとなり合神豊受皇太神は国常立尊別号なり。中昔與佐郡を魚井篭守社地に移事者往昔豊受気比売真名為原に通御饗奉捧神戸所在魚井原と云豊受太神宮に非ず社地者太神宮社地者天橋立今文珠堂の地。
 倭姫世記曰(略する)
 斯倭姫の世記にしるす余社といふ郡名の文字は豊受皇太神宮の垂跡此地に残りて與佐郡と祭るといふ事の心なり。又当国に真名為原と云所三カ所有事は丹波郡比治山の真名為は真名井大明神豊宇賀能売の天降の地にて天女の遊し池有故なり。余社の宮辺を魚井原といふ事は天女宇賀能売命此地に通ひ止由居皇太神へ御饗を奉捧し神戸所有が故に魚井原と伝ふて天女を飯役明神と祭る。又神座舞原は天岩戸の辺を云皇女豊鋤入姫の天照皇太神を祭りし跡なりこれにて当国に三カ所の真名為原ある事を知るべし。

『宮津府志』
一ノ宮     在與謝郡府中大垣村
 祭神 豊受皇太神  社人 海部越後
 祭日 四月中午日
       天照皇太神
  末社三座 蛭子社
       春日大明神
 社記二曰與謝郡一ノ宮籠ノ神社ハ者神代之鎮座二而御神體国常立尊也。則チ奉レリ称シ二豊受皇太神ト一人皇二十二代雄略天皇之御宇依リテ二天照皇太神御託宣ニ一奉ルレ遷シ二當宮ヲ於勢州ノ山田ノ原ニ一。則チ外宮之御本所也。御本宮之間数一丈二尺之神明造有リ二。千木鰹木一末社二十餘座有リ之由見ユ二舊記ニ一雖レ然リト及ビ二大破ニ一只今ハ者漸ク四社残レリ此ノ内真名井神社一座ノ社地ハ在リ二別所ニ一是レ則チ神代真名井ノ古跡也。當宮造営之例往古三十年二一度造替有レ之則チ従リ二将軍家一一萬餘貫ノ用脚被二下置カ一之旨見ユ二舊記ニ一云云。
 已上社記之文
  右社記之説如此往古より祭神は豊受太神とし籠の神社同體とする者古来の説と異なり。古記の説左にしるす
神社感蒙二曰籠神社ハ在リ二。丹国後與謝郡ニ一宮記云一ニ名ナ二籠守ト一住吉同體也。類聚国史云貞観十三年六月八日神階従四位下。此後未考
天橋立図記曰此社元籠の神社也、雄略天皇二十二年九月豊受神を當国真名井ヶ原より伊勢山田原へ鎮座なし奉りし時神告にて真名井ヶ原に留め祭る是れ所謂與謝の宮也、其後年代はるかに隔たりて社頭廃壊す故に籠神社へ相殿に祭奉る。相殿に祭る事建武より後也事は大谷寺の奏状に見へたり、然るをいつの頃よりか籠の神社を外へ移し祭る今社の右の方にある小社是れなり、故に今の本社は豊受太神と知るべし。籠神社国史に貞観十三年六月従四位下とあり、今社内に正一位籠大明神と額あり小野道風筆なりと云ふ、然れば貞観以後神位昇進あるべしと云々。
宮津古記曰丹後の一宮は正一位籠大明神也、四月中の午の日葵の祭とて近郷の土民数多出て太刀振りと云ふ事を爲す、又近国より牛を多く牽来て江尻村の口橋立の並木の中にて市を爲す。社人海部氏が許に神宝の中正一位籠太明神の額あり小野道風筆といふ四方に彫刻あり、中古迄鳥居にかけありしを下して今は豊受太神宮の額をかけたり、此事は當社の近辺真名井原に豊受太神鎮座ありしに雄略帝の時神告に依て此所より伊勢へ移し祭る、此時當社へも合せ祭りしものなるべしと云々。
 謹按已上の古説に依れば往古の一宮は籠の大明神にて豊受太神宮を祭るは中古以来の事なるべし、延喜式神名帳にも與謝郡籠神社名神大月次新嘗とあり是れ正しき證なり。

本書當國一宮社傳條下補入
 諸社一覧引ニ倭論語一載二當社一籠大明神神託曰。益人ノ身ヲ恩へル如ク。神明ヲウヤマヒ。スヘラミコトヲ
アカメ。長ヲ長トシテ。天ノ神ノ教ヲ守リヲラハ。一身ヲ辱力シムルコトナカルヘシ。
  當社神宝
 正一位籠大明神額  小野道風筆
 猿田彦仮面
 児舞装束
 雄劔   阿部正盛公寄附  中川陸奥守作 長三尺
    以上
手水鉢銘  永享五丑年願主忠益
神職海部氏所蔵古系風一巻  古代之筆記而雖二文意多クハ難解ナイト一今略取二要文一載レ之
 丹後国與謝郡従四位下籠神社従元至今所齋奉仕海部氏直等之氏
 養老三年己未三月三十二日 籠宮天下給
始祖  彦火明命 押穂耳第三子
三世  品田天皇御宇若州木津高向宮爾海部直姓定賜弖楯杵賜国造仕奉支
      従白鳳壬午年養老元年合三十五年
児海部直伍佰道祝奉仕○考籠神降下在二于養老三一然則如上数代奉二仕豊受太神一可レ知レ焉乎
児海部直愛志祝 始爲二籠神宮神主一也
児海部直田雄祝 右系図一巻至二田雄祝下
海部直國雄   海部直重勝祝 徒明応至氷正年中
中興 徒五位下美濃海部直久 天和年中人
  右 略 取
 按養老三年雖三始可籠社兼二司豊受乎一當年豊受廃壊以リ故応仁年間祭二豊受神於今社内一而爲二相殿一爾以来特称二豊受太神宮神職一。
              天 野 房 成 考
按前太平記武家評林等ニ源頼光當国千丈ヶ獄鬼賊征討トシテ下向ノ時當社へ納ル所ノ願書ヲ載ス、信偽可レ疑者アリ、今當社神宝ノ中ニ無レ之、但馬丹後丹波三国ノ境ニ三国ケ獄ノ神社ニ納メアル由ニテ近来之ヲ見ル、文義前太平記等ニ載スル所ノ如シ。又成相寺ニ頼光願書也トテ近来印行シテ傳レ之文義前書卜大ニ異ナリ、下段佛閣之部拾遺成州寺之下ニ一載レ之。


「丹後国式内神社取調書」
籠神社一
○【続後記】嘉祥二年奉レ授二丹後国籠神従五位下一
〇貞親六年十二月廿一日授二徒立位上籠神正五位下一
○同十三年六月八日授二丹後国正五位下籠神従四位下一
〇元慶元年十二月十四日授二従四位下籠神従四位上一
○【三実】貞観元年正月廿七日従五位下勳八等大依羅神従四位下
○按自二住吉一十五町在二鷹日村辺一而住吉摂社也
○摂津国住吉郡大依羅神社一宮也
〇帳古本書入一名籠守権現
○【永萬紀】籠宮主基トアリ
○板屋氏稚狭考ニ云丹後訶佐郡ノ方ヘ開キテ海中ニ周廻三里ニ及ブ島アリ小島ト云フ云々社アリテ老人島大明神ト云フヲジマト云ヘルハ老人島ノ転ゼルニヤ同国河守里大神宮ノ社人此社ヲ預レリ河守ハ昔故アリテノ社也

正右元年田数帳云籠宮田四十六町二百十歩一宮御領トアリ一宮ノ證トスベシ又朔幣料田十一町一宮御領
【覈】丹後旧事記板列庄府中村【明細】府中大垣村祭天之水分神祭日四月二ノ午ノ日【道】所在同上籠ハ和名抄ニ籠和名古トアリコモリノ義ニ非ズ社ノ東ノ川ヲコガワトモコノ川トモ云籠ノ川ナリ【巡詣記】田辺ヨリ五里余ノ外宮村云々ニ留ル潔齋シテ豊受大神宮ヲ拝ス西ノ方日浦岳見ユル林下ニ眞名井原アリ土俗アヤマチテマイケ原ト云又外宮ハ河守村ノ近所籠守村ト云元ハ丹波丹後一国也【和爾雅】天水分神【宮津志】一宮府中江尻料ニアリ神主海部氏住吉三神ヲ祭レリ四月中酉ノ日祭礼アリ葵祭ト云郷民数多出デヽ太刀振ト云事ヲナス神宝云々右少弁奉書一軸永享十二年四月神主哥重熊葵祭之勘文一通系図一巻神主海部直祖天火明命品田天皇御宇定海部直姓【巡詣記】一宮参詣ニ船ヨリヒシテ天橋立切渡ヲ通リ府中ニ至リ神主ノモトヘ立寄縁起等ヲ見侍レドモ神名慥カナラズ古老云傳ヘタルハ豊受大神宮モト籠ノ神社ノ後ノ山上ニ眞名井原アリ此所ニ小社アリ鶺鴒石トテ二ツアリー投下ノ竹原也今ハ松生繁リ森トナレリ一宮ノ立玉フ處迄ヲ眞名井原ト云傳フ一宮ノ右方粉川ト云流アリ是日本酒ヲ造ル始メニ用ヒタル水也ト土俗ニイフ此川上ヲ満井ト云此ヲ村岡山トモ藤岡トモ云宮津トハ伊勢エ遷幸ノ船着タルユエ宮津ト云フ也ト云フ此地出崎五里程隔テ於島大明神ハ出見尊ヲ齋フ又塩土翁トモ云向ノ地ニ久利田神社アリ海神九柱ヲ齋フ今住吉ト云フ【道】祭神ハ度会延経考証マタ神名記ナドニ天水分神トアリ又一説住吉同體ト云ナドハ論モナキ事ナリ扨水分紳トハ祝詞ニモ見エタル如ク山々ノ口ヨリ下シ玉フ水トアルニ非ズヤ此社ハ前ハ直ニ海ナリ後ハ成相山ナリ府中七ケ村ハ田面少クアル處ハ旱所ノミ也水分神ノ有ベキ所ニアラズ云々此神社ヲ水分神ト云フ事ハ籠守トシ其ヲミコモリト心得遂ニ水分トシヲ誤リテ遂シナリ云々此神社ハ風土記ニ見エタル天橋立ノ縁起ニヨリテ其神霊ヲ鎮祭リタルナルベシ)(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志)


『大日本地名辞書』
【籠コモリ・コ神社】今府中村大字大垣に在り、国幣中社に列す、此社は真井原に隣接するを以て後世真井原に座す御饌都神を配祀し、遂に本末を転じて、今本殿に豊受皇太神を斎き、篭神を別殿とすと云。(延喜式、名神大と注せり)
宮津府志云、神社啓蒙曰、丹後一宮、篭コ神社一名篭守、住吉同体也、続後記、承和二年、類聚国史、貞観十三年授位。天橋立図記曰、雄略天皇の時、豊受神を真名井が原より伊勢山田が原へ遷座なし奉りし後、分霊を此に留めたり、謂ゆる与謝宮なり、其後与謝宮廃壊しければ、篭神社の相殿に祭りぬ、是は建武二年より後の事なるべき証は、大谷寺奏状に見ゆるごとし、近世何故にか、云ら豊受神を崇め、篭神を卑小にしたり。
古事記伝云、記曰「速秋津日子神、生天之水分神、注訓分云久麻理」久麻理とは配りと云ふに同じ、丹後の篭神も此神なり、古今六帖に「みこもりの神」とよみ、清少納言の冊子にもみこもりの神あり、吉野河内等にも此社あり。
○神祇志料云、篭神は正応元年神田四十六町朔幣田十一町ありし由、彼国田数帳に見ゆ、世々海部直氏を以て神主とし、毎年四月の祭を葵と云ふ、按に、姓氏録、但馬海直は火明命の後也、旧事本紀に、海部直は同神六世孫建田背命より出づと見えて、津守連同祖也、さて本社祭神は火々出見尊、また海神また天水分神などいふ説もあれど、一宮記又土人伝説に、住吉三神を祭ると云は、拠あるに似たり、昔海部直氏なりし者、丹波国造の同族の由縁に因て、此国に住しが、其祖天火明命を本社に祭りたれけむを、後に同祖なる津守氏の住吉神主たりしいはれを以て、住吉神をも合せ祭りしより、終に住吉神を主神の如く言伝しなるべし、又後拾遺和歌集に、俊綱丹後守に侍ける頃、彼国臨時祭の使にて藤の花を頭挿て侍けるを見て詠る、良運法師「千年を経ん君がかざせる藤の花松にかかれる心地こそすれ」とある、藤花を頭挿にせるが、加茂の葵に似たるより、俗に葵祭と云しなるべし。
今篭神社の北なる松林を指して真井原マナイハラと云ふ、与謝宮址は原の南天橋立を隔て三十町の距離にあり、然れども古書に徴拠するに、真井原比治山は今中郡に在り、此なるは蓋国府の盛代に彼地なる豊受神社を移して、拝礼に便宜したるならん、斯る例は諸国に多し。
補【籠神社】○神祇志料、今府中庄大垣村にあり、籠守大明神といふ(湯島道之記・丹波宮津志・神名帳考・神社明細帳)即丹後の一宮也(正応元年田数帳・一宮記)仁明天皇嘉祥二年二月庚戌従五位下を授奉り、(続日本後記)正応元年に至て本社神田凡四十六町、朔幣田十一町ありき(丹後田数帳)凡毎年四月中酉日祭を行ふ、之を葵祭と云ふ、世々海部直氏を以て神主とす(丹後宮津志)


『与謝郡誌』
籠神社
 府中村字大垣鎮座、國幣中社、祭神天水分命、神代の鎮座にしてもと諸岡にありしを、元正天皇の朝毎州一の宮を立て給ふや、養老三年今の地に移して籠神社と號し丹後國一の宮と定め給ふといふ。六國史顕存社にして続日本後紀嘉祥二年二月庚戌此日奉レ授二丹後國籠神社五位下一とあり、また三代實録清和天皇貞観六年十二月二十一日甲戌授二丹後國從五位上籠神正五位下一、又同書貞観十三年六月八日癸未授二丹後國正五位下籠神從四位下一、同書陽成天皇元慶元年十二月十四日庚辰授二丹後國從四位下籠神從四位上一の記事あり、延喜の制名紳大社に列せられ式に丹後國與謝郡籠神社名紳大月次新嘗とありて、式内大社山陰道三十七座の内にて月次新嘗案上の官幣に預らせ給ふは当社のみなり。
 朝野群載に承暦四年六月御トに籠神の祭事を穢せる祟あるを以て社司に中祓を科せしむる記事あり。社記によれば延長七年七月小野道風醍醐天皇の勅を奉じて正一位籠之大明神の額を賜ひ、貞元元年五月参議佐理卿融圓天皇の勅を奉じて同上の額を賜ひしといへり、皇太神四年鎮座考には崇神の朝皇女豊鋤入姫命が皇太神の御霊代を四年間当社に奉安せられたりと記載す。当社の祭神に就ては異説紛々として殆んざ定説なく、丹後風土記及び丹後國式社證實考には伊奘奈岐大神一座と云ひ、和漢三才図会、丹哥府志及び日本地理志料等には住吉同体三神を祀ると云ひ、大日本國一宮記及び古事類苑には籠守権現住吉一体なりと云ひ丹後與謝海図誌、籠太明神縁起秘伝、大谷寺奏状等には豊受大紳を祀ると爲し丹後細見録、丹後旧事記等皆国恒立命を祀るとし籠神社誌、阿蘇校編纂府中村誌等には大綿津見命一座を祀ると載せ古事記伝古史伝等には天水分命京都府及ぴ内務省の神社明細帳には之れに則りて天水分命を祀るとせり。若し栗田博士の神社志料によれば「祭神は火出見命また海神また天水分命など云ふ説もあれど一宮記又土人伝説に住吉三神を祀ると云ふも根拠あるに似たり昔海部直氏なるもの丹波國造の同族の由縁にて此國に住せしが其祖天火明命を本社に祀りけむを後に同祖なる津守氏の住吉神主たりしいわれを以て住吉神をも合せ祭りしより終に住吉神を主神の如く言伝へしなるべし云々」ごなせるが萬葉集の「すみの江のこはまのしゝみあけもみす<、こもりのみやハこひわたりなん」の歌は蓋し此を詠みたるにはあらざるか萬葉略解他に異説を掲げたるも惟ふにすみの江は江の隅即ち江尻にて籠川の注ぐ濱には赭も見さるも籠の宮はとかけたるより察すれば若しや丹後国府に於ける当社を当時皇郡の難波に於ける住吉に擬したるにはあらざるか難波野の地今に存す由かりめるに似たり。
 延暦以前朝廷より御造営ありし由なるも其後絶えしと社記にあり。神領は丹後田数帳に籠宮田四十六丁二百十歩一宮御料朔幣料田十一丁一宮御領、拝師郷細工所保一丁一宮御領石川庄光岡保三反一宮御領の記事あれば鎌倉より室町時代に亙りては嚴然たる大社なりしなるべく、社號も永萬記、諸社根元記等に籠宮権現、大日本國一宮記に籠守権現とあり、随って奉仕の佛寺も別當大聖院圓壽院の社僧の外大谷寺金剛薩?院以下一山四ヶ院成相寺、惣持院以下一山六ケ院等参列して頗る荘嚴を極め又社家は海部家の系譜に養老三年以來當社の祝を動むとあり、江戸時代に降りては寺社領の削減に伴ひ別當寺院次第に減じ僅かに神領八斗四升四合となり寺院の奉仕は自然廃絶す。弘化二年三社殿再建明治四年六月國幣中社に列せられ爾來同社に關する経費は國費支弁となり例祭、祈年祭、新嘗祭には京都府卸事代理として府の高等官又は郡長を供進使として神社に参向せしめらる。

       神服連海部直の系圖
 今の興謝郡府中村なる丹後一の宮國弊中社宮司海部武富氏は日本古事記日本旧事記及扶桑略記等に見えたる神服連海部直の後裔にして海部氏と籠神社の由縁は遠く養老年間以來綿々として、今日に及べること同氏所藏の貞観年中作籠神社祝部氏系図に明なり左にその写を掲ぐ。


『丹後路の史跡めぐり』
籠神社
 観光船で一の宮を上がると目の前に立派な神社が見える。府中の中心で観光客の年中あふれている所である。この籠神社は延喜式名神大社にあげられている元国幣中社で格式が高く、丹後国の総社で丹後随一の名社である。養老元年(七一九)海部直(あまくのあたえ)に上って豊受大神の神体が丹波郡の比治真名井原から与佐拝師の里にうつされ、養老三年には丹後一の宮に定められて代々海部直によって奉斉されてきた。
 豊鍬入媛によって四年間祀られた吉佐宮はここであったといい、天照大神を合祀している。それで元伊勢ともよばれている。この社は神守神社、籠の宮、河守神社などともいわれるので、河守の元伊勢とも縁がありそうである。神明造りの代表的な社で古来庶民の崇敬篤く、江戸時代の天保元年(一八三○)の五月頃からそれまで流行した伊勢の抜け詣りにかわって籠神社への「お蔭詣り」が盛んとなり、年中参拝者がごったがえしたという。
 神額は藤原佐理(すけまさ)の筆、文治四年(一一八八)の経筒、菊花双雀鏡の和鏡二枚は共に重文、神前の石造の阿形(あぎよう)と吽形(うんぎよう)の一対の狗犬は鎌倉時代の作で重文、昔夜な夜な天僑立へさまよい出て人をおびやかしたので、岩見重太郎が前足を斬り、鎖でつないだといい、いまもそのあとがある。
 宮司の海部(あまべ)氏は天平九年(七三七)より与謝の大領をつとめ、国司の下で郡司(ぐうじ)の任にあった名家で、おそらく丹後最古のものであろうといわれている系図が残っている。
 天平九年の但馬正税帳に「丹後国与謝都大領 海直忍立」とある。
海部は熊野・竹野がその本拠であり、豊受大神が降止したのちはこれに仕え、海外の交易に任じていた。海部直はその統領である。








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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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