丹後の地名

世屋山成相寺(なりあいじ)
西国33箇所28番札所
宮津市成相寺


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西国28番札所:成相寺(このページ)



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成相寺の概要

成相寺本堂



天橋立の北にある成相山(世屋山)中腹の標高330メートルの山の中にある。山号は成相山(古くは世野山)と号し、高野山真言宗、本尊聖観音菩薩。橋立の観音ともいう。西国33箇所観音霊場の28番札所。

シャクナゲ咲く成相寺

寺伝によれば慶雲元年(704)真応上人の開山、文武天皇の勅願所という。「華頂要略」「和漢三才図会」などは聖徳太子開基とし、施谷山成相寺とする。

本堂内ご本尊の前は人が一杯

本堂内
↑賽銭箱の横にある五色の布はご本尊・聖観音様の手に繋がっている。ご本尊を写すことはできませんが、この写真の中央に見える黒い仏像です。特別開帳だったとか。

「梁塵秘抄」(1180頃)に
四方の霊験所は、いつのはしりゐ、しなののとかくし、するかのふじのやま、はわきの大山、丹後のないあひとかや、とさのむろふと、さぬきのしとの道場とこそきけ
平安時代から修験の霊地として知られた。また観音霊場として知られた。
「今昔物語集」巻一六に「丹後国成合観音霊験語」として、
この寺に貧しい僧が籠って修行をしていたが、冬になって食物もなくなってしまった。なにぶん高山にあり、雪も深いので里に出ることもできない。死を覚悟して寺の観音に「只今日食シテ、命ヲ生ク許ノ物ヲ施シ給へ」と念じたところ、狼に食われた猪をみつけそのもも肉を鍋で煮て食い、餓死を免れた。村人が訪れたところ仏像のももが失われていたので、僧は事の次第を告げ、「若シ此ノ事、観音ノ示シ給フ所ナラバ、本ノ如クニ」というと、仏像はもとのようになった。これによって寺を成合寺と称するようになった
という。丹後の伝説44:成相寺の伝説

お伽草子の「梵天国」には、主人公は久世戸の文殊に、その妻の梵天国の姫が成相の観音になったという話を記す。同寺『案内パンフ』は、
民話の伝説のいきづく・「やすらぎの里」
美人観音由来
 五条の右大臣高藤の予は、観音所願の授かり子玉若君を大変可愛がり二歳の時甲佐の侍従の位を得て、丹後但馬の国を与えられた。小さい時から笛を上手に吹いて居られたが十三歳で父母を亡くし孝行な子であったので、一週間笛を吹いて供養していた。その笛の音を聞いた梵天国の王(仏教の主護神)が、「吾が姫を嫁に差上げよう」と云い、美しく心の優しい姫君を妻に迎え入れられた。此の話を聞かれた天皇が羨まれて「おまえの妻を内裏に参らせよ」それが出来ねば……と無理難題を申出されたが二人の力で総て叶えられた。最後の難題「梵天国王直々の御判が欲しい」との事。中納言は父君に当る梵天国に行き食事を与えられた時、側で人でも鬼でもない飢えた骸骨の様なものが食事を求めた。慈悲深い中納言は哀れに思い御飯を与えた。すると一粒千人力と云う米を食べて鎖を切り大空へ飛んで行った。これが羅刹国のはくもん王(悪鬼)であった。はくもん王は邪恋していた中納言の妻を奪い羅刹国へ帰った(中納言は御判を頂いて帰ったが、妻の居ない家や世の無常を感じお髭を切り出家して願を掛け妻を助けられる様祈った……。妻を救い出し都へ帰ったが、都の生活を嫌い丹後へ下られ妻は成相の観音様となり、中納言は久世戸の文珠となられた。そして一切の生物をお救いなされたと、成相観音は美人観音、美人になれる観音様として名高い。
(御伽草子梵天国より)

もとは上世屋(かみせや)の銚子の滝の傍らにあった、山号はこれより生ずという。今昔物語の有名な伝説などはそうした時代のものでないかと思われる。「丹後のチベット」などと今も呼ばれるが、修験道場にはふさわしい地かも知れない。

↓「今昔物語」の舞台。


↑何の案内板もなく、ちょっとわかりにくいかも、上世屋の村に入ったら動画のように行けばいいですよ。曲り道、一つ間違えると、迷い道クネクネ、先にはクマが待っておりますから気をつけて−
お寺は「臨済宗世谷山慈眼寺」。横手の道をそのまま行けば、「観音堂」に突き当たる、それが「成相寺の奥の院」である。成相観音はここにあったと思われる。
観音堂(突き当たり)


現在も日置には世屋川があり、その奥には下世屋・上世屋の地名、下世屋には世屋山松源寺、上世屋には世屋山慈眼寺や世屋姫神社がある。
これらと一体のセヤとの関わりが深く、そこから生まれたお寺だったと思われるが、さて、そのセヤとは何なのだろうか。ここの世屋姫こそが28番札所の成相観音の前身だったかも知れないわけになるし、成相の意味もこのあたりからあるいは理解できるのではなかろうか−
世屋姫神社(宮津市上世屋)
 その後、現在地より6〜700メートルばかり上の通称仙台(せんだい)の地にあったが、応永7年(1400)山崩れののちに、大宮町三重の成吉越中守の一族沙弥円菴が、同29年までかかって現在地に移転したと伝えるているという(成相寺蔵「古老伝」)。
現在の本堂横からパノラマ展望台へ登る道の傍らにそれら旧寺地の跡地がある。


本堂跡と逆さ杉
逆スギ(市指定文化財)

 逆スギのある所は字成相寺小字白山後である。寺伝によると、かつての成柏寺はこのあたり「せんだい」と通称する地にあった。「せんだい」は白山台の謂で白山権現のあった所というのが「丹哥府志」の説である。寺伝は、応永七年(一四〇〇)山崩れの難ののち、中郡三重の成吉越中守のー族沙弥円庵が、同二十九年までかかって成相寺を現在地に移転したと伝える。逆スギの地は成相寺の故地ということになる。逆スギ(草ボウボウで近くまで行けなかった。道路からも見える)
 山崩れで堂宇廃頽の時、杭を打って崩れを防いだ、その杭より芽を出し、さかさに枝を出したのが大樹になったというのが近世地誌類の通説であるが「逆杉」伝説の起源はもっとほかのところにあるのかもしれない。
 樹高は約二五メートル、地上一・五メートルの幹まありは七・一メートルの巨大な杉である。地上一・五メートルの極めて低い樹幹の部分から三本に株分れして巨大な主幹となるが、その主幹から生じた枝もまた別の主軸となって、叢條する分枝の下部の大部分は下方に伸びているので甚だ奇観である。
 市内のスギ科の属では最大で風格・神韻性ともに抜群である。
宮津市教育委員会

元本堂跡地から出土した五輪塔など
旧本堂跡の下から多くの五輪塔(50)、石仏(60)、骨壺、写経筒、青磁小皿などが出土した。ここに移転したという。

日置から世屋山を越えて南の府中側へ移動してきたことになる。現在のお寺はほぼ三代目ということになる。
元五重塔跡地

 延文2年(1357)、丹波和知郷の地頭職をもつ片山虎松丸が成相寺城ほか丹後の城を攻略(片山文書)。その後の応永6年、足利義満が地蔵院道快をして、成相寺別当職および惣持院院務職、同寺領などを管領せしめてた。
 永正4年(1507)若狭の武田義純が当寺に陣して一色と戦い、6月一色勢殺倒し激戦して堂に火を放ち武田勢は敗北した。
のち一色諸堂を再興し旧観を復すという。
当時一山塔頭六ヶ院、山門の右に総持院、慈性院、左に聖智院、吉祥院、文聖院、明王院あって惣持院は其の本坊だったという。

 江戸時代はしだいに衰微して幕末には吉祥、慈性、文聖三院はすでに無住。
明治維新後はさらに衰え、塔頭寺院はことごとく廃れ本堂の外は阿弥陀堂、十王堂、鎮守堂などがわずかに残り、旧惣持院が庫裏として余命を繋いでいた。という。


↓成相寺山門
成相寺山門

世屋山成相寺成相寺案内(山門前)
ここ世屋山成相寺は、西国二十八番の霊場として、古くから有名であり、年中参詣人の絶えぬ山である。寺伝には文武天皇慶雲元年(七〇四)とあり、開基真応上人が何人あるか詳かでない。しかし、その一千年に余る歴史は、対岸文殊堂および特別名勝「天橋立」と併せて、実に三位一体的存在であるといってよい。
当山縁起に、無遠禅師鹿肉のことがあり、その他怪異の説話もあり、いずれも霊場にふさわしいが、殊にかの大江山鬼退治の源頼光が納めた願文を有し、それに「此の度当国大江山夷賊追討の爲勅令を豪る」云々とあって、赤青の鬼賊を想像させる何ものもない。下って足利期には一色対武田の戦いがくりかえされ、それはこの霊山の大きい悲しみであり、また償いうぬ損失であった。
なお当寺に数々の寺宝があって、なかでも、「丹後国諸荘郷保総田数帳録」および兆殿司筆と伝える「阿弥陀像」一幅は、ともに国の重要文化財に指定されている。なにはともあれ信仰と景観を併せえた当山は、まことに日本一の霊場である。
波の音 松のひびきも 成相の
風ふきわたす 天の橋立(御詠歌)
宮津市文化財保護委員会


本願寺3世覚如の行状を絵巻物にした「慕帰絵詞」に、貞和4年(1348)覚如が天橋立を訪れた際のこととして、 
仍次の十六日に彼寺へ詣で堂の正面の舞台の様なる所の柱に書付侍ける法印詠歌、
  雲のなみいくへともなきすさきよりながめをとおす天の橋たて
                       州県宗康
  をとにのみきゝわたりつるすゑ有て浪まにみゆるあまのはし立
 この寺の躰たらく、後に・嶺峨々として塵土聞をへ だて、前に蒼海漫々として雲涛眼にさへぎる。万物こゝに生て繁栄をのづから備れり。別当坊は金剛薩・院となづけて厳麗を宗とし奇妙を先とす、富有潤沢にして独歩世会せり。堂舎は餝に株玉珱洛をもてかゞやかし。床席は用に綾羅錦繍を装てこととす。
 こゝに垂髪を一両人相伴侍れば、都よりなどきゝて心悪や思けむ、寺務なにがしの僧都といふ七十有余に闌たるが、まことに威徳たうとく体法かしこき老者出会て、ひたすらやがて請じいれ、茶をけたみ八珍の肴をまうけ三清の酒をすゝめつゝ、同宿共もその事となく房中を走回り、すゞろに庭上に倒伏ておかしきさまに貴籠すれば、そゞろはしきかぎりなし。
と記され、天橋立とともに寺観が描かれているそうである。

「実隆公記」延徳3年(1491)に、
師富朝臣来、丹後国与佐郡世野山成相寺鳥井修造勧進帳清書事所望、彼聖名字真盛云々、草師富朝臣先年書之云々、再三之命難黙止之間領状、及晩則染筆遺之了
この頃鳥居修造の勧進が行われている。

寺領は丹後国田数帳に、与佐郡のうち散在28町4段96歩、豊富保に2町1反54歩(無知行)、波見保に11町3段248歩、細工所保に3役、日置郷に成相寺惣持院2町7段302歩が記される。近世には寺領22・369石であった(天和元年の宮津領村高帳)。

文化2年(1814)配札と修行の途次当地を通った野田泉光院の「日本九峰修行日記」
樋置村出立、朝辰の上刻。直ちに一の宮へ詣づ。本体豊受大明神也。納経す。当村より西国順礼廿八番成相寺へ参る。山中へ登る事十八丁、因て此村へ笈頼み置き登る、門前茶屋二軒あり。本堂未申向、納経す。真言宗。当山に稀有の事あり。申の極月廿五日より寺の床の下山割れ掛り、段々広くなる故早速寺を毀ち二丁程下の方へ移す、割れたる土地は長さ二丁計り、広さ二間計り也、地震にてもあらぎるに如斯は珍らしき事とぞ
と記し、日置村を出て籠神社へ参詣後成相寺に参っている。

撞かずの鐘(成相寺)
 山門を入り本堂への石段の登り口、左手にある鐘楼は天文17年(1548)建造とされ、俗に「撞かずの鐘」とよばれる鐘には「于時慶長十三年戊中年九月廿四日、本願当時惣持院賢長」と記される。
撞かずの鐘古来撞かすの鐘の案内板
 慶長十四年(一六〇九)、山主賢長は、古い梵鐘にかえ新しい鐘を鋳造する為、近郷近在に浄財を求め喜捨を募った。一回、二回と鋳造に失敗し、三回目の寄進を募った時、裕福そうな女房が「子供は沢山おるがお寺へ寄附するお金はない」と険しい目の色で断った。
 やがて鐘鋳造の日、大勢の人の中に例の女房も乳呑み児を抱いて見物していた。そして銅湯となったルツボの中に誤って乳呑み児を落としてしまった。
此の様な悲劇を秘めて出来上がった鐘を撞くと山々に美しい音色を響かせていた。しかし耳をすますと子供の泣き声、母親を呼ぶ声、聞いている人々はあまりの哀れさに子供の成仏を願って、一切この鐘を撞く事をやめ、撞かずの鐘となった。

成相寺鎮守堂
 鎮守は熊野三所権現で、寺伝によると延宝4年(1678)堂を建立したという。現本堂は安永年間の建立で、そのほかの建築物はそれ以降のものである。

復元された五重塔(成相寺)

 寺蔵の丹後国諸庄郷保惣田数帳目録(丹後国田数帳、1冊)は重要文化財。
袋綴、縦24・7センチ、横18・3センチ、38紙。
丹後5郡の大田文で荘園・公領の面積・領有関係などを記している。
最初に「合 正応元年八月日」とあるが、注記のなかに嘉吉三年(1433)・享徳元年(1452)などの記事がある。正応元年(1288)の大田文を基礎にして15世紀中頃の状況を記したものと考えられている。
奥書には長禄三年(1458)五月三日に「国富兵庫助帳写□」としている。国富兵庫助は本帳丹波郡三重郷のうちに7町3段119歩を領有する国人層である。この三重郷は成吉氏の一拠点。本帳丹波郡国富保11町は成吉三良左衛門が領有するが、のちに成相寺所領となる所である(成相寺文書)。一方成相寺は成吉氏と古くから親密な関係をもっていたことは、応永の山崩れのあと、現在地にこの寺を再興したのが成吉一族と伝えられていることからもわかる。


 成相寺の盛時をしのばせる成相寺参詣曼荼羅図。紙本著色、縦149センチ、横127センチ。中央に本堂を、上部左右に日月を描き、画面上半分に50棟ほどの堂舎を、下方に民家・店棚・船・籠神社・天橋立・文殊堂などを描いている。桃山時代の作。(↓『宮津市史』より・市指定文化財)



 絹本著色紅玻璃阿弥陀像(1幅・重要文化財)。縦112・3センチ、横60・2センチ。肉身部が金泥で、衣の上に袈裟をまとっている。裏に天文九年の尊呈寄進状が貼りつけてあり、この図像は伊根の安養寺の宗恵円宣が所持し、宗恵投後国分寺の直弟重円にわたり、永享13年(1441)重円が早世したので、修復したのち宗恵・重円両人の菩提のために国分寺に寄付したことがわかる。南北朝時代。


鉄湯船(成相寺)
 境内手水鉢に使用している鋳鉄製「鉄湯船」一口。(重要文化財)、径上端169・5センチ、高さ65・5センチ。文殊堂にあるのと同様のつくりで鋳鉄製。正応3年(1290)竹野郡等楽寺のものとして物部家重が願主となり、山河貞清が鋳造したものである。
内側面に次の鋳出銘がある。
 丹後国船木庄
 等楽寺温屋
 御鋳大工山河
    貞清
 正応三年
 庚寅卯月日
 大願主
 物部家重


慶長期には賢長阿闍梨が金堂を建立し、覚永期には憲裕阿闍梨が再興に尽力した。
昭和2年庫裏と客殿を焼失し、のち再建された。

現在は本堂・地蔵堂・鐘楼・奥の院慈眼堂・仁王門・宝蔵・鎮守堂などの建物がある。
寺宝の絹本著色紅玻璃阿弥陀像・紙本墨書丹後国諸荘郷保総田数帳目録は国重文。
そのほか八字文殊曼荼羅図・成相寺古伽藍図・与謝之大絵図(享保9年4月)などがあり、明智光秀はじめ細川・京極氏など各領主の制札や古文書を所蔵する。
↓飛騨の匠・左甚五郎作「真向きの龍」という。本堂にある。
真向きの龍

《交通》
天橋立観光を兼ねて来られるなら、表参道を行って下さい。
天橋立→籠神社→ケーブル・リフト→傘松公園→バス→成相寺。

自家用車でお寺のすぐ近くまで行きたい、歩きたくない、ということなら、郷土資料館の脇から登って下さい。↓

古くはいろいろあったようで、『京都府の地名』は、
成相寺道
 西国三十三所観音霊場二八番札所の成相寺への参詣道である。府中地区の各所から通じているが、最も多く用いられたのが中野から登る本坂道であったと思われる。永禄13年(1570)7月のこととして連歌師里村紹巴は「天橋立紀行」に、「けふは又成相寺へあがりて、夕月夜待つゝ十八町府中よりのぼりて嶺山殿よりの宿坊に入て」と記すが、現在も本坂18町と称するのでこの道であろう。ここには延文3年(1358)、貞治4年(1365)、明徳3年(1392)など南北朝年紀銘のある板碑や、古い町石などがある。
 成相寺道はそのほか東から東谷道・真名井道・傘松道があり、本坂道の西へお大師道・西谷道などがあった。傘松道は今も通じており、西谷道は拡幅されているが、そのほかは通行困難あるいは不能となっている。

御詠歌は
波の音 松のひびきも 成相の
 風ふきわたす 天の橋立

↓成相寺境内の「弁天山」より、天橋立をのぞむ。
天橋立

↓成相寺の裏山「日本一のパノラマ展望台」より、
天橋立

↓坂根正喜氏の航空写真。
右下が成相寺。五重塔などが見える。

成相寺の上空より





千日まいり
8月9日は「千日さん」といって、この日にお参りすると千日分のご利益を観音様より授かると伝わる超オトクな日。たとえて言うなら、この日1万円持って買い物に行けば1000万円分の商品が買えるという超超超超…プレミアムな日である、10%オトクとか言う、クソコスイ商人や官僚どもとは、根がちがってさすがに仏様。こんな日に詣でないのはよほどに科学とか万能主義のアホか、不信心なバチアタリだけ、かと思い猛暑のなか出かけてみた↓。
この日の催しとしては、大施餓鬼供養(本堂・11:00↓)、柴燈護摩祈祷(五重塔前・12:00↓)、千日法会(16:00)、柴燈護摩祈祷(17:00)、火渡り修業(17:30)などがある。
大施餓鬼供養




成相寺の主な歴史記録


『丹哥府志』
【世屋山成相寺】(真言宗、寺領廿三石、塔頭五院末寺四ケ寺、西国第廿八番)
開基略曰。丹後国與佐郡中邑郷世屋山成相寺者本尊観世音。文武天皇十三年建立当国世屋山移于此處。開山真応上人也真応上人一號無遠禅師。異場記云。真応上人は其伝詳ならず、無遠禅師といふは元享釈書に見えたり。其伝云。無遠は周防の国の人なり、始は本寺に居る後に故郷に帰り三井寺といふ寺に住せらる、其寺は蓋観音の異場なり。無遠常に法花を誦し香火を供す年既に久し、或年の冬雪大に積りて数日の間人の往還絶えたり、此時無遠一鉢の貯なく殆ど飢に及ぶ、され共誦経怠らず、折節堂の庭に鹿肉あり無遠之を見て是誠に三浄肉なりとて煮て之を食ふ、初而耳聞事ありよって法花を誦す。先是里人定て法師は飢たりとす、雪の晴るるに及て食物を携へ法師を訪へば故の如く法花を誦す、よって怪て其故を問ふ、法師の曰、元より一鉢の貯なく殆ど飢に及びしが幸に天の助を得て食を獲たり、所謂三浄肉是なりてと其鍋を出せば、前に鹿肉なりと思ひしもの桧木の削屑なり、於是一座吃驚愕然たり誠に観音の妙智力なりとて尊像の前に至り礼拝すれば腰間に削りたる痕あり、よって試に其鍋にある削屑を以て合せてみれば元の如くなれあいたり、是以遂に成相の観音と称すといふ。
 愚按ずるに、三才図会に成相寺は聖徳太子の開基なりとす、霊場記にも略其事を載せたり、今寺記に云ふ所は元享釈書にいふ所と異ならず、されども元享釈書にいふ所は丹後の国にあらず周防の国なり、抑元享釈書は丹後を誤りて周防とするや事は同しけれども人は別なり、寺記既に古記を失ふ、よって元享釈書により其縁起を撰するや詳ならず、今の寺記は近世の撰なり、其古記といふものは永正四年一色義有武田元信と戦ふ時伽藍と共に烏有となる、三才図会の如きは元より妄誕たるの証とするに足らず、されども今の寺記により前に撰するものなり恐らくは是に庶幾からんか。聖徳太子の母を間人皇后といふ間人皇后は丹後竹野郡間人邑より貢を奉る、故を以て丹後に太子の作仏及開基の寺あり浦島の来迎寺の如き是なり、是等も参考の一助となる。
本堂より麓に下りて渡頭に至る凡十八丁、毎町石地蔵を安置す、渡頭より前を通り二丁斗行て微妙橋あり此橋は汚穢不浄のもの渡るべからず渡れば必ず怪異の事ありといふ。微妙の橋より一丁余り登りて初て天橋を見る、三丁斗登る處は松樹など茂りて望によろしからず、四丁の間は外の海一面に見ゆる、五丁の處に辻堂あり辻堂の前後より内の海を見る、六丁の間尤もさかし、七丁の處に至て内外共に見ゆ実に天橋快観の處なり、八丁より右の方斜に道あり略平地となり十丁に至る、其間左右に山ありて望を失ふ、十丁より少し行て岐路あり右を不動阪といふ、不動阪より四五丁下る、其間は右の方に山ありて與佐の風色をみず只北海の渺々たるをみる、六丁斗行て初而天橋快観を處に至る所謂登臨三絶の一なり、是より麓に至る凡七八丁尤急なり、其間所の遮るものなし一歩一歩の奇観なり、貞室の『十六夜や成相阪を下る月』といふは蓋是處ならん、岐路の上に茶堂あり俗に接待茶屋といふ、北海を眺望するによろし、是より真名井ケ原へ下る道あり、十一丁より少し行て道左右に分れて十二丁に至て相合す、十三丁の辺に一堂あり自然石の大黒天を祭る、この堂より少し行て茶亭あり餅田楽酒などを売る、又名物の芋あり亭の眺望又奇とするに足る、十四丁斗の處より石階十二三段を上り山門に至る、門の左に下馬札を建つ、山門より一丁余り行て石階十七八段を上る、右の方に鐘楼あり、鐘楼の下に鉄磐あり智恩寺の鉄磐と同じ、其前に接待所あり、是より又石階三十段斗上りて本堂の前に至る、本堂の左に観音堂あり、本堂の右に熊野権現及び小社三座あり、其右に常陸坊皆尊廟あり、其廟の下より本坊総持院に至る。
総持院宝蔵目録
一、波切不動(弘法大師)波切不動の伝にいふ。真海帰朝の頃風波大に起り将に船を覆さんとす、時に真海心中に不動を念ず、忽ち不動形を現し剣を以て風波を切り払ふ、故を以て舟中皆恙なきを得たり、後に真海其像を書く凡三幅これは其一なりといふ。余の像と異なる、傍に脇士童子を図す。
一、源頼光願書。源頼光の願書実は渡辺綱の筆なりと語り伝ふ、今隻鈎して左に出す。一、弁財天(伝教大師)。一、倶波利彌陀(兆殿司)。一、後土御門勅號永明院。一、弘法大師肖像(真如親王)。一、不動明王(鳥羽僧正)。一、十六善神(智友)。一、八字文珠(伝教大師)。一、弥陀如来(恵心僧都)。一、弥陀如来(兆殿司)。一、制札(足利尊氏及明智細川京極の三氏皆あり)。一、色紙二枚(寺伝云永明院より皇太后へ菖奉らせければ皇子大納言の歌などそへて賜りけるといふ其色紙左に記す)…略…
一、古図
 愚按ずるに、天橋に雪舟の古図といふもの蓋是なり、其図今ある所と大に異なり、本堂(十間四方)の上に金剛童子並求聞持堂あり、堂の後山に白山権現熊野権現の二社あり、白山権現の前には拝殿あり、熊野権現の宮殿は所謂舞台なるものあり、堂の右に阿弥陀堂、地蔵堂、祈祷所、鐘楼あり、又堂の左に地主権現、薬師堂、護摩堂、文珠堂、御供所あり、御供所の下に札堂といふ堂あり、札堂の傍に五重の塔あり、塔の下より塔頭左右に連り仁王門惣門に至る、門の左右に茶店あり、麓に下りて府中の町より真名井ケ原、豊受皇の社、大谷寺、国分寺、千手堂、千手堂の傍に二重の塔あり、二重の塔より総持院に至た又五重の塔あり、其南に宇佐八幡の宮あり、又府中の町に浜堂といふあり、浜堂の傍より天橋起る、是より橋立明神及九世戸の文珠堂に至る。

『宮津府志』
世谷山 成相寺  在同郡成相寺村
 真言宗古義派無本寺 三宝院憲深法流
 本尊 聖観音 立像長二尺五寸
        西国三十三所観音第二十八番
  文武天皇勅願所 慶雲元年開基
  開山真応上人

 本堂 南向  二王門 二王運慶作
 休堂 二ケ所在坂中  鐘楼   地蔵堂
 鎮守 熊野権現    地主 小社三座
 不動堂 松阪之書像相伝云
     常陸坊皆尊之筆    接待所
 鉄水鉢 即洗手盤與下在二文
     珠一上同器也
 本 坊
 惣持院

 塔頭
吉祥院  慈性院  聖智院
文聖院  明王院
末寺   四ヶ寺
寺領   二十二石餘
当寺什宝
波切不動書像  弘法大師筆
弁財天書像   傳教大師筆
倶玻璃彌陀書像 兆殿司筆
伽藍之図    筆者未詳
 当寺往古一山伽藍諸堂の図也甚だ古書と見ゆ。
足利尊氏公制札 或は云頼朝公制札也
 此外古代制札ありしに永正年中兵火に焼失し此制札一枚焼残ると云、雨端焦て年號等見へず花押半ば見ゆ。
細川父子明智氏連名制札
 奉書紙に書し板に張付あり、天正八年八月十七日
同父子連名制札
 天正八年九月 日
京極高知公制札
 慶長十六年十一月 日
   以  上
   当寺縁起   寺記略取
 当寺は人皇四十二代文武天皇慶雲元年勅願として真応上人を以て開基とす、上人慶雲元年九月十一日霊夢を感じ此山に分け登り奇異の老翁に逢て聖観音の像を授かり堂宇を建て安置す。後元明天皇養老二年の冬大雪山岳を埋む上人堂より出んとするに道なし、連日外に出る事能わずして飢餓に苦しむ時に一の鹿ありて上人の前に来り忽ち仆れ死す、上人思へらく此鹿自然に死門に入て既に見聞の疑を離る、此れ三種の浄肉にあらずや、我徒らに餓死して所願成就せざらんよりは一命を持て道心を遂んにはと、其鹿を屠りて食するに忽飢を忘れ精神爽かなる事を覚ゆ。夫れより本堂に至らんとするに彼鹿忽見へず、不思議に思ひて雪を分けて本堂に至るに前路鹿蹄の跡あり、堂に入て観音を拝するに佛身傷きて血流れたり上人感涙に堪へず、暫く謝徳念誦するに佛身の刀痕頓にいへて相好を再び成就し玉ふ、故に当寺を成相と名く。又俗には佛身の疵もとの如くなりあひ玉へばとて、成相の字を訓してなりあいと呼なり。
 右の総起は元禄十丑年閏二月成相寺住僧秀寛記する所也、今省略し之を載す。
天橋記に云、成相山は中村より十六町坂道なり町石あり、其坂の間休堂二ヶ所あり、貞窒が発句に「十六夜や成相坂を下り月」と吟せり。二王門左に本坊惣持院、此書院より眺望すれば與佐の海目の下にありて天下無双の絶景也 当院今焼失。本堂応永以前故屋敷にあり、応永七年山崩れ地裂て堂塔傾倒る、此時三重村の大江越中守家族沙彌圓庵力を合て今の所へ引移すなり。永正四年若州武田と戦ふ、武田は本堂に陣す、一色火を放て之を焼く、武田敗走す、陣後一色改め造る諸堂舊観に減せず、寺に古図あり大伽藍なり。天文十四年二月炎上諸堂久く絶ゆ、永禄年中に到りて皆尊法師と云人建立、其後慶長に至りて惣持院賢長法師建立す今の堂也、古図の十が一二のみ。本堂より二町余よぢ登れば故の堂なり、倒杉あり昔崩砂を防たる杭倒に生たりと云々
奥院
 同記に曰く、日置村より一里字下世屋村松尾村を経て上世屋村三町許り山奥に三間四面の茅堂あり、是れ成相の奥の院なり、堂後に五六丈の瀑布あり幽谷岑寂として塵外の霊境なり寺を慈眠寺と云ふ。慈眼寺今智恩寺に属す。

『丹後の宮津』
世屋山成相寺
 傘松公園から成相寺行きのバスに乗り、中世の府中城址・阿弥陀ケ峯のすそをまわって十分、バスガールの説明をきくまでもなく、その視界のひらけるにつれて、眼下の宮津湾から丹後海、そして若狭湾のリアス式海岸線のむこうに、越前崎から能登半島まで、よく晴れた日には加賀の白山連峰までが視界の景観となる雄大さ。いまさっき、あの箱庭的景観に、股のぞきを加えてようやく「はしだて」の美しさを感じてきたこの目に、この雄大な景観はまったく予想されぬすばらしさである。山門まえでバスを降り、目指す世屋山成相寺へ約四○○メートル、石段の上にのしかかるように拝殿をのぞかせる成相寺本堂まで、実にすがすがしい深山の参道である。時に巡礼姿の一人二人を見受けるのも典深い。
 この寺はいうまでもなく西国二十八番成相寺で、その創建は寺伝にまつまでもなく、はなはだ古く奈良朝以前の慶雲年間といわれている。宗旨は真言宗、山内に塔頭五ヶ寺があって、寺領と門前村をもつ有力な寺であったが、明治維新によりすっかり変ってしまった。そして現在は成相寺本坊のみとなり、塔頭五ケ寺はことごとく荒廃したのである。
 さてこの寺で見るべきは、本堂下の鐘楼からはじまる。この鐘は俗に「撞かずの鐘」といって、鐘鋳供養にまつわる一片の哀話を伝えているが、もとより単なる話で、銘に慶長十九年とあるから、大東亜戦の徴発にあやうく難をまぬがれたわけで、その音色はあまり好いとはいえず、「撞かすの鏡」のわけがこの辺にあるように思われる。それから本坊に願って一見の要があるのは、あの有名な「丹後国諸荘郷保総田数帳目録」(重文)であるが、これは地方史研究の重要資料であるばかりでなく、往古の田制を知る上にも大切で、だからすでに明治三十七年に旧国宝に指定ずみである。また何時に、伝・兆殿可筆の阿弥陀像一幅(重文)、これも旧国宝とされており、ほかに源頼光の大江山鬼退治にさいしての願文一札、その真偽は別として、少年時代の夢につながる資料として面白い。ただ惜しみてあまりあるのは、かってここに所蔵された雪舟の「天橋立図」であるが、これがいつのほどか寺を出て高知県山内家に入り、更に国家の文化財保護委員会に所蔵されて、すでに早く国宝として雪舟の代表作とされている。このほか、なお寺宝に類する什器書画は少なくないが省く。
 寺宝の拝観を終って堂外に出ると、ふたたび目をおどろかせる雄大な景観。若狭湾から遠く越前・加賀・能登の海岸線は、ことごとく脚下に展開してくる。もし許されてここに一泊し、朝はやく暁雲をついてあらわれる巨大な太陽の昇天を見うるならば、その清浄感と壮観さは、おそらく前日来の疲労を一瞬にして消しざるであろう。
 寺を後に山門を出ると、バス駅の右手に眺望台「弁天山」への道があり、その道の下に「底なし池」といって、怪談をつたえる池がある。目的の弁天山は成相寺とほぼ同じ高さで、ここには展望台が設けられ、外海は見えないが、「天橋立」から目前に名山大江山、それから遠く京都の愛宕山までが一望のうちにひらけ、その景観の雄大さは外海を見た目にもなお壮快の感を禁じえない。けれども一面、この山々の歴史を知る人ならば、かって室町時代の永正四年(一五○七)前後、若狭の武田元信が一色の丹後を狙い、この山に雌雄を決しようとして利なく、小笠原沢蔵軒の援軍もまた及ばず、ついに一山七堂伽藍を焼きたてられて敗退したことなどを追想するとき、歴史における人間世界のおろかさを、しみじみと感じないわけにいかぬであろう。かくてバスはまたもとの道をくだり、傘松公園からはふたたびケーブルカーの人となって、だんだんと平面に近づく「はしだて」観賞もまた捨てがたい面白さを味わいつゝ、もとの府中の土に立つのである。

『丹後路の史跡めぐり』
世屋山成相寺
 成相寺は天橋立観光コースの中ではなくてはならない場所で、一の宮からケーブ・リフト・バスなどが通じ、便利になっている。西国二八番の札所としられ、天武天皇の慶雲年間(七○四−七○八)に建てられ、かつては惣持院・慈性院・吉祥院・文聖院・明王院・聖智院等を有する大寺であったこととは古図でもうかがうことがでさる。一色氏が丹後守護として入国した時も、丹後にいた多くの宮方の武士は成相山に立て籠って戦ったし、僧兵も多くいて丹後の大乱の時はたいてい出陣している。要害の地にあったためしばしば古戦場となった所である
 福知山市印内の田辺家文書に
    日置弥次郎久季申、今月十八日発向加悦庄、抽軍忠、同二二日凶徒等乱入成相寺云々
      建武五年六月二二日 久治久季
    進上御奉行所
とあり、この凶徒というのは南朝方のことである。
 特に氷正三年(一五○六)の七月二七日には若狭の武田元信の大軍が攻めこんで成相寺へ入って越冬をした。急をきいて急ぎ帰国した一色義有は攻めあぐねて翌四年五月二日成相寺に火を放って攻撃したので、武田勢は総くずれとなり、元信は命からがら船で小浜へ逃げ帰った。寺はその後義有が再建したが、兵火や火事のために次々と堂宇を失い、いまは本堂と惣持院が残るのみである。
 一色氏は代々府中に館を構えて一の宮様とよばれていた。
 重文級の寺宝も多く、もと大島の顕孝寺にあったという兆殿司筆の「阿弥陀像」、雪舟筆の「天橋立図」正応元年(一二八八)につくられた「丹後国諸荘郷保総田数目録帳」、山川貞清が正応三年(一二九○)竹野郡等楽寺のために鋳作した湯舟、これは文珠智恩院にあるものと同類である。
 この山川貞清は正応五年(一二九二)河内国慈光寺に梵鐘をつくり、また元応(一三二〇)周防国遠石宮の焚鐘も鋳造しており、ともに重文となっている。
 田数帳の写しは長縁三年(一四五九)五月三日、三重村の郷士国富兵庫助長がその写しを納めたもので、室町時代の庄園・公領の田畑の面積や領有関係、耕作の状況を知る上の貴重な資料である。
 そのほか源頼光が寛仁元年(一○一七)に納めた鬼退治の願文、頼光背負櫃、成相寺伽藍古図などがある。
 本堂前登り口の「つかずの鐘」は鋳造の際宮津の女の人があやまって抱いた赤ん坊を落してしまったので鐘をつくと、赤子の泣き声がして母親が狂気のようになるため、ついにつくことを禁じてしまったということである。上世屋の銚子の滝はこの寺の奥の院といわれている。天気のよい日には惣持院の庭から遠く越前、加賀、能登を眺めることができる。

 十六夜成相 坂を下り月    貞室

『与謝郡誌』
世谷山成相寺
 府中村字成相寺にあり、本尊聖観昔菩薩、寺傳によれば文武天皇十三年の建立と伝へらる、開山は眞応上人一に斉遠禅師と號す。眞応上人は其傳詳ならず、元享釈書には周防の人なりとあり郷里三井寺にあり或年大雪にて交通杜絶し殆んご飢餓に瀕す偶ゝ寺庭に於て鹿の肉を得て漸く餓死を免る、然るに後寺庭を見れば血痕點々雪に印す、良くよく見れば鹿の鮮血にあらで檜の削り屑なるに驚き観音像を拝するに其の肉削取られたる痍痕あり、試みに雲上に散乱せる削屑を集めて尊像を填充するに容貌もとの如く拝するを得たるに依りて成相の観音と称すといふ。併し斯は周防の三井寺の傳説にて丹後のことならず、或越聖徳太子の開基なりといふも詳かならず、要するに寺の縁起など妄誕の多きものにて只傳説として記する外なし、故と世屋村の瀧の傍らにあり山號之れより生ずといふも年暦を知らず、後今の地より六七町山奥にあり応永七年山崩れ地裂けて堂塔傾倒せるを中部三重の城主大江越中守一族今の地に引き移し後永正四年二月若州武田義純當寺に陣して一色と戦ひ六月二十日一色勢殺倒し激戦三日二十三日堂に火を放ち武田勢敗北す、のち一色諸堂を再興し舊観を復すといふ、當時一山塔頭六ヶ院、山門の右に総持院、慈性院、左に聖智院、吉祥院、文聖院、明王院あって惣持院は其の本坊なり、江戸時代漸次衰微して幕末には吉祥、慈性、文聖三院は既に無住となり居れり、明治維新後更に衰へて塔頭寺院悉く廃れ本堂の外は阿弥陀堂、十王堂、鎮守堂など纔かに残り、舊惣持院が庫裏として今余命を繋ぎ鐘楼は天文十七年の建造梵鐘は慶長十五年の鋳造のまゝ依然たりと、但し此の焚鐘は一の傳説流布し俗に撞かずの鐘といふ、そは鐘鋳奉加の喜捨を請ひしとき嬰児を抱きし一婦人、寺院に寄附すべきもの一物もなし若し連れ帰れば此の児を與へんとありしより世話方驚て去り、鐘鋳の當日右の婦人踏鞴の傍を通行し過って倒れ嬰児を湯壷に投じたりとて其焚鐘恰かも嬰児の泣聲に似たる音韻ありと、爾来参詣の士女鐘聲を試さんとて小石を投じ鐘楼内外石礫山を為す、寺蔵宝物の内丹後国諸荘園郷保総田数帳壹冊、兆殿司筆阿禰陀如来書像壹幅は共に国宝たり、其他寺宝出山の禰陀像(慧心僧都筆)一幅、十六善神(唐知及筆)一幅、不動明王像(常陸坊皆尊筆)一幅、波切不動書像(空海筆)一幅、及び傳教大師の八字文珠、探幽、永信、真如親・運敬、沢庵、鳥羽僧正の書図、霊元の普門品、道政、賢眞等の法華経、銅の菊香爐、後土御門院の勅書、頼光の願文古代制札等其数尚少からず。

『??新聞』(070315記録が失われて何新聞か不明)
成相寺の創建時期裏付け
本堂跡や遺物発見
宮津市教委 奈良時代後半か
 宮津市教委は十四日、西国三十三ヵ所観音霊場の二十八番札所・成相寺の旧境内発掘調査で、かつての本堂とみられる建物跡や奈良時代から室町時代にかけての遺物が見つかった、と発表した。不明だった旧伽藍の規模や、八世紀初頭とされる創建時期を裏付ける貴重な資料としている。
 成相寺は、天橋立を眼下に望む成相山の標高約三三○bにある真言宗の寺。同寺に伝わる「成相寺古記」によると、七○四(慶雲元)年に文武天皇の勅願で創建され、一四○○(応永七)年に山崩れのため旧伽藍が壊滅したとあるが、詳細な裏付け資料はなかった。
 今回の調査では、発掘や測量などで旧伽藍が約六万平方bと広大であることが分かり、現在の本
堂から北へ約三百b(標高約四○○b)に設けられた平たん地に、東西約二十二メートル、南北約十四bの建物跡が見つかった。建物跡は土器破片などの遺物の状況から、十−十四世紀に造営された本堂と推察されるという。
 また、同地からは八世紀後半とされる須恵器や土師器の杯も出土し、創建時期が遅くとも奈良時代後半であることが立証されたという。
 さらに、敷地内には七十ヵ所を超える平らな段地形があり、建物の基礎となる石列や井戸跡などが発掘され、古記にある塔や僧坊などの存在もうかがえるという。
 同市教委は「三井寺の覚忠や本願寺の覚如ら高僧が参詣していたという歴史資料の通り、眺望に恵まれた成相寺は昔から、多くの人のあこがれの聖地だった」としている。
 現地説明会は十八日午後一時半から。問い合わせは同市歴史資料館




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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