丹後の地名

滝(たき)
京都府与謝郡与謝野町滝


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京都府与謝郡与謝野町滝

京都府与謝郡加悦町滝

京都府与謝郡与謝村滝



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滝の概要


《滝の概要》



加悦谷の南部で、SL広場や道の駅などがある一帯。加悦街道沿いおよび滝川沿いの狭長な谷間に集落が点在し、東西に連なる細長い地形で、口滝集落と奥滝集落に分かれている。
口滝集落の中央を南北に国道176号が走り、その両側に水田が広がる。旧与謝村の中心地で、旧国道沿いに与謝小学校がある。国道から西に分岐する府道加悦但東線が江笠山を源流とする滝川に沿って走る。沿道に奥滝集落が点在。地名の由来は鳴滝・大滝があることによるという。口滝にはかつて大江山ニッケル鉱山があり、加悦鉄道加悦駅から鉱山専用線が延びていた。

滝村は、江戸期〜明治22年の村名。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年以降宮津藩領。
明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年与謝村の大字となる。
滝は、明治22年〜現在の大字名。はじめ与謝村、昭和29年からは加悦町の大字、平成18年3月からは与謝野町の大字。与謝村の行政の中心地として与謝村役場があった。滝川の上流にはかつて大田和(おおたわ)、深山(みやま)、鹿熊(かのくま)の集落があった。


《滝の人口・世帯数》

《主な社寺など》

滝岡田古墳
滝岡田古墳(与謝野町与謝)

滝岡田古墳の玄室
この玄室の床は礫(20pもあるような礫だが)が敷き詰められているが、その下部には排水溝が通り、柱穴が四隅にあるという。
きれいに復元されている。加悦谷ではここより奥には古代遺跡や古墳は知られていないようである。

滝岡田古墳案内板現地の案内板↓
京都府指定史跡
滝岡田(たきおこだ)古墳
 指定日 平成二十一年三月二十四日
 加悦谷を見渡すことができる高台の端に構造された本墳は、土地区画整理事業に先立ち平成六年度に発掘調査が実施されました。
 調査前の本墳は、後世の開墾で墳丘の土が取られ、埋葬施設である横穴式石室の天井石などが露出していました。 発掘調査の結果、本墳は古墳時代後期末(六世紀末〜七世紀初)に構造された直径二〇bの円墳で、埋葬施設は加悦谷最大級の横穴式石室(現存全長九・八二b、玄室長四・一二b、同幅二・二六b、同高二・四四b、右方袖式)であることがわかりました。
 副葬品は、多数の須恵器などの器類の他に、鉄刀、鉄鏃などの武器類、轡などの乗馬用具、金環などの装身具が出土しました。中でも金張太刀は希少なもので、被葬者の地位をよく示す遺物です。
 以上から、本墳は丹後を代表する主要な首長達の一人の墓と推定される古墳であることがわかりました。
 なあ、本墳の歴史的重要性をかんがみ、関係者のご理解により、本墳は工事除外とされ、現地で復旧整備がなされました。
平成二十一年三月  与謝野町教育委員会

まとめ 滝岡田古墳は野田川流域では最大級の横穴式石室であるが、単独墳で、滝周辺にはこれまで有力な古墳がなく、周辺に群集境の発達もみない。
 墳丘規模 後期前半には、竹野川流域では、大型の前方後円墳は認められず、三〇b級の埴輪を有する円墳である太田二号墳(京丹後市弥栄町)が最大規模の古墳である。後期後半では、新戸古墳が丹後地域全体の中でも最後の前方後円墳である。野田川流域では、後期初頭の七面山古墳以降二〇bを大きく上回る古墳が築造されない中では、墳丘規模からも滝岡田古墳は、野田川流域のみならず、丹後地域の中でも円墳としては最大級の古墳のひとつとなる。
 玄室内の柱穴 丹後地域における横穴系埋葬施設玄室内の柱穴については、大成九号(京丹後市丹後町)及び大田鼻二号横穴(京丹後市大宮町)に類例がある。いずれも玄室内に四本の柱穴により構成される。石室の構築作業過程に関わるものである可能性もあるが、大田鼻二号横穴の場合は横穴であるので、石室の壁体を支えるなどの構造上の設置理由は見出せない。また、また横穴の天井高は低いので、玄室内に何らかの木造建築物の設置を考えるよりも、副葬品を仮置する棚状板を支える装置や何らかの埋葬の祭儀に関わる装置である可能性もある。滝岡田古墳の場合は石室初葬時の床面が敷石の施された第二次床面である可能性もあり、古墳完成時には、木柱は撤去されて敷石下に埋め戻されていることが、この施設の機能と性格を考える上で重要な要素となろう。
 敷石と排水溝 丹後地域で玄室床面に敷石が施されるものは、野田川流域では本境のほかに高浪二号墳(野田川町)が、川上谷川流域では、湯舟坂二号墳、畑大塚一・二号墳(京丹後市久美浜町)、竹野川流域では高山五号墳(京丹後市丹後町)の六例を数えるのみで、あまり敷石の分布の濃密な地域とはいえない。高浪一号墳のみ羨道部にも敷石を施すが、他は玄室のみである。本墳の敷石は等質的な用材を用いる点で丹後地域の敷石の中で最も整備なもので、特に排水溝上の用材は目地を通すなど独自性が注目される。排水溝については、さらに少なく、上野一号填、高山六号墳(京丹後市丹後町)では羨道部に素掘りの排水溝が施されているのみであり、敷石下部に排水溝を備えるものは本例のみである。丹後地域においては、敷石と排水溝の設置は、後期前半の導入期の石室には見当たらず、敷石・排水溝ともに、後期後半(TK43型式併行期)〜後期末(TK209型式併行期)に集中している。高山古墳群のように同時期に群形成が進む古墳群でも、敷石・排水溝の設置は一部に限定されるので、被葬者の出自を示す可能性もある。府内における敷石と排水溝の設置が濃密な分布を示す地域に亀岡盆地があるが、特にTK209(後期末型式併行期)には拝田古墳群、小金岐古墳群に見られるように、敷石の用材として、やや大型の板状石材を用いることが強い地域色を示しているが、床面下部まで調査が及んでいない未調査古墳が多い現状では、敷石と排水溝の系譜の検討は今後の課題である。
 片袖式石室の系譜 野田川流域では、畿内型両袖式石室の導入は、後期後半(TK43型式併行期)に、奥壁部に壇状の特異な施設を持つ高浪一号墳(野田川町)が古いが、以後、後期末(TK209型式併行期)には、河ノ辺古墳や本墳のように首長墓には単独墳に畿内型片袖式石室が採用され、竹野川流域や川上谷川流域とは様相が異なる。ところが滝岡田古墳や河ノ辺古墳の前壁幅はいずれも二・二bをこえ、同時期の桃谷一号墳(京丹後市峰山町)の前壁幅である二bを上回る。滝岡田古墳(径二〇b)、河ノ辺古墳(径一二・五b)、桃谷古墳の三基はいずれも墳丘規模が異なり、両袖と片袖の袖型式の違いが必ずしも階層性のみを反映したものではなく、被葬者の系譜、出自と階層、近畿中央を含めた他地域の特定勢力との密接な関係を含めた複雑な袖形式の決定律が存在した可能性もある。
 交通の要衝の立地 与謝地区には先行する有力古墳が見当たらず、本墳が単独墳で片袖式であることが注目される。本墳の立地が与謝峠に近い交通の要衝であることからは、この時期の外的要因により、与謝峠の交通が再び重要視された結果である可能性もあり、与謝峠の交通を掌握する必要性と掌握できる新興の勢力が生まれうる状況が生じたものとも考えられ、その背景を明らかにするためには石室系譜のさらに検討が必要である。
(『加悦町誌資料編』)

鳴滝不動明王
鳴滝不動明王(与謝野町滝)

大江山西麓、一帯は鬼伝説の本場である、そうした伝説によれば、麻呂子親王の大江山鬼賊退治の際に大江山が鳴動し、土砂流出・山崩れで近寄れなかったので、親王が鳴滝に不動明王を祀り祈願したところ、山は鎮まり鬼賊退治ができたと伝える。現在は頭痛の神として有名。国道176号バイパス脇にある。
鳴滝不動 滝の鳴滝さんは、大江山の鬼が岩や土砂を投げおろしては橋をこわし、洪水をおこしたので、麻呂子親王はここに不動尊を祭って戦勝を祈願し、鬼の誅罰に向ったと伝えられる。
(『加悦町誌』)


七仏薬師のお寺:蕪村寺:高野山真言宗滝山施薬寺
施薬寺(与謝野町滝)

施薬寺薬師堂(与謝野町滝)
↑薬師堂
(伝説であって、本当に麻呂子親王の七仏があるわけではない。)

施薬寺はもと赤石ヶ岳にあった根本寺を前身とするといわれる、根本寺は麻呂子親王の創建と伝え、延暦7年空霊上人の祈祷により桓武天皇の病が平癒したことから、勅願寺として施薬寺の寺号を賜ったという。天和2年(1682)の丹後国寺社帳に寺名がみえる。本尊薬師如来で、麻呂子親王の鬼賊退治の祈願でつくられたと伝える七仏薬師の一つ。与謝蕪村ゆかりの寺としても知られ、蕪村の屏風一双を蔵する。

瀧山施薬寺
与謝村字瀧にあり。本尊七仏薬師の内第一善名称吉祥王如系、当時もと根本寺と称し大江山赤石岳の麓にあり、陽明天皇の朝大江山に妖賊跋扈し推古の皇子麿子親王誅滅の勅を奉じて征途に上り給ふ。丹波篠村にて駿馬を得て跨りて生野を過ぎ玉ふ時に、八旬の老翁皇子を迎へて白毛の犬を献ず、其犬頭に明鏡を戴き嚮ふ所皎々として面を向くべからず、皇子之れを嚮導として雲原村の仏谷に至り御手づから七仏の薬師を刻み、夷賊を平ぐるを得ば七ヶ寺を創建して此の七尊を祀らんと祈願を?め登山し絵ふ。妖鬼夷賊明鏡に照射されて遂に誅に伏し、犬は犬鏡大明神と称して大江山の麓に祭り、七仏は第一善名称吉祥王如来を根本寺に安置し、第二寶月智厳光音自在王如来を加佐郡河守庄清園寺に、第三金色寶光妙行成就如来を竹野郡竹野庄願興寺に、第四無憂最勝吉祥如来を同郷是安の神宮寺に、第五法界雷昔如来を同郡溝谷庄等薬寺に、第六法界勝恵遊戯神通如来を与謝部栗田庄成願寺に、第七薬師瑠璃光如来を加佐郡志楽庄多禰寺に夫れぞれ寺院を創建して祭り絵ふといふ。のち延暦七年桓武帝御悩みあり御平癒の勅使を当寺に差遣し給ふや、空霊上人秘法を巌修し加持を泰灑するによって帝忽ち御平癒あらせられ、空霊を僧正に陞叙し寺を施薬寺と名け絵ふ。のち戦風時代の兵焚に罹り堂塔烏有に帰するや本尊は難を炎上に避けて瀧村に飛び今の地に降臨し給ふと言伝ふ。天正七年二月良真上人中興寛政十七年快舜上人堂宇再建現在に到る。寺に寶暦の画家与謝蕪村の筆に成れる山水の屍風一双有名なり蓋し蕪村の母は本村の産にて(一説妻も本村の産といふ)従て後年比に住し当寺にも此他襖その他蕪村の画頗る多かりしといふ。小字鳴瀧に境外仏堂あり不動明王を祭り三月節句賽者多し。
(『与謝郡誌』)

本書瀧山施薬寺下補入
 当寺薬師如来者所謂麿子王子彫刻七仏中之一善−名称吉祥王如来是也。来由ハ誠二本編宿野村成願寺之下一。
 麿子王子之事諸寺所レ傳ル有二異同一見二ヘタリ本編一ニ。当寺縁起略ニ云。用明帝朝 一爲二推古天皇一 当国三上カ嶽ニ有二鬼賊一 鞭薬師縁起作二山賊一近レ是 英胡(エイコ) 伽樓夜叉(カルヤシャ) 土熊(ツチクマ)卜云三鬼ヲ魁首トシテ悪鬼多ク来ル。中略 帝憂之簡二フ諸王孫一有二金室皇子一 諸縁起作二金麿皇子一 帝命二メ金室一ニ征−二討セシム三鬼一。中略 当寺初ハ名二大江山根本寺一ト延暦七年空−霊上−人開−基。上人嘗テ祈二桓武帝之疾一ヲ有二奇験一勅シテ改二テ寺號一ヲ曰二フ施薬一。 下略
 当村有二鎌倉大明神一 見前段 社ニ納二ム大般若経一ヲ。傳此ノ経中古在二摂州某ノ地一有二霊異之事一再ヒ納二ム当社中一ニ従二当寺一議レス之ヲ。経巻之軸ニ題ノ曰ニ応永五戊丑年一。
(『宮津府志』)

滝山施薬寺  滝小字畑中
 真言宗高野山派に属し、敏達天皇の頃(五七二年)赤石ケ嶽に建立されて根本寺といった。その後七八八年(延暦七年)空霊上人が桓武天皇の病を祈願し、平癒されてから施薬寺という名が与えられたという。一説に麻呂子親王の建立ともいう。天正年間兵火にかかり、一五七九年(天正七年)二月良真上人によって現在地に建てられたが、慶長年間、慶応年間と再三改築されている。
 本尊は薬師如来、寺宝として、与謝蕪村のびょう風、愛染明王像、一六九七年(元禄十年)施薬寺縁起、蕪村ゆかりの寺ともいう。境外仏堂として鳴滝に不動堂、平林に権現堂がある。
檀家は約八○戸
(『加悦町誌』)

施薬寺の飛仏の話
根本寺が大火で焼けた時、その本尊は本堂が焼け落ちる前に飛びたって、今の滝の施薬寺の地へ降りたので、ここに寺を建てて祭ったという。この施薬寺は七八八年(延暦七年)に、空霊上人が恒武天皇の病気平癒を祈願して寺伝の霊薬をさし上げたところ、たちどころにして病が治まったので、施薬寺という寺名を与えられ、菊の紋章をつけることを許されたといい、今も本堂にその紋章が残されている。
(『加悦町誌』)

麻呂子親王の七仏薬師伝説。日子坐王の陸耳御笠退治の続きのような話で、やはり退治できずにいたのであろう。麻呂子親王は、用命天皇の第二皇子で聖徳太子の異母弟にあたり、大江山連峰の三上ヶ岳での鬼賊退治の伝承は、両丹地方全般に広く伝わり、福知山市大江町の「清園寺縁起」、「仏性寺如来院縁起」、福知山市の「無量寺縁起」、舞鶴市の「多祢寺縁起」、宮津市の「成願寺縁起」、京丹後市丹後町の「斎宮大明神縁起」、それにここ与謝野町滝の「施薬寺縁起」などがある。麻呂子親王は、また金室王子・金麿皇子・丸子親王・金丸親王・鞠子親王等と記されている。本当は何人もいたのかも知れないし、丹後の産鉄民に手を焼いたのかも知れないが、これもまた退治できたとは思えなく、後に酒呑童子伝説が生まれている。
施薬寺には三つの縁起が伝えられている。
一、施薬寺縁起(貞享年中(1684〜1688)に奥滝の助左衛門が祖父より聞いた施薬寺に関する伝承などを書留めたもの、下に引く)
二、薬師如来縁起之写(以下に引く)
三、略縁起(二、薬師如来縁起之写の麻呂子親王伝説部分の読下し文となっている。)

【二、薬師如来縁起之写の概要】
明治10年のものだが、漢文で、ロシア語を読むより大変かも、読み下しても大変なので、『加悦町誌資料編』の概要を見て下さい。
瑞穂国山陰路丹後洲与謝郡賀悦県滝山施薬寺に伝う。人皇三十二代(三十一代)用命天皇の時、当州の中に於て英胡、迦楼夜叉、土熊の魁鬼が穴に居て昼夜の別なく山野を恣しいままにして郡民を悩まし、皇化に順わなかった。
天皇は献議を運らした結果、勇略右に出ることなしと言われた金室の王子(麻呂子親王)を将帥として命じた。
 王子は彼兇暴を征するため日ならずして彼の鬼窟に戦に向う。ここで王子は思う、兇類を皆殺しにすることよりも、天に祈誓して三宝の威徳に頼って労せずして刃に血をぬらすことなく、彼自ら退く方がよいと。不思議なるかな空中に光明赫々として告げて曰く、我は東方薬師如来なり、汝を救わん為茲に出現す、汝恐る事なかれ、必ず汝を守護する。王子は東方を向いて祈誓し心中に堅く誓を立てる。霊応響きの如く王子震い怒んで魁鬼一つに僵し、鬼類兇党凡そ残す事なし。
 依て国、郡悉く泰く属し、王法仏法の威徳を輝くなり。備に当州の境に有ってすべて七区の伽藍を創立、医王菩薩の徳輝を崇める。勅して当国与謝村大山赤石ケ岳に伽藍を建立され、寺号を根本寺と号す。
 其後、人皇五十代桓武天皇が悩の病にかかられ住持空霊上人が帝都に向って加持したところ、忽ち平癒され勅をして寺号を施薬寺と改め給う。延暦七年であった。
 嘗て当寺の本尊は王子が異材を得て自ら彫刻した一寸の像であった。又、別に長さ七寸の銅像を鋳て一寸の像を胎内に収められた。この二像は善名称吉祥王如来である。後にまた長さ三尺五寸の大像を刻み、先の二体をこの区中に蔵めた。これは瑠璃光如来なり。
 雲原という郷は王子が誓祈の日、瑞雲が虚空にたなびいていたので、是は医王が覆護の祥として祝って名付けられた。又、仏谷は王子が彼の夙誓を酬わんが為に七つの尊像を自ら彫刻した地である。
 昔、本堂は七間四方であり、五間四方の観世音堂があった。池中に弁財天女の祠有り。三十間ばかり左に鎮守の霊壇ありて当寺の住持古今敬ってこれを修す。又、二十町ばかり西に鎌倉明神あり。大いなる岩を鑿りて水を湛えたり。更に奥の所に権現社あり。当寺より十町西に厳嶋社あり。この両所の遷社は当寺が勤めた。又、去ること五町ばかり巌山あり。かしこに小蛇あり、これを蛇石と為す。其の下に水の隈あり。当寺古は鴻鐘が架してあった。兵冦によって奪われたが、其の鐘が万倍と重くなったのでその霊異に恐れて之を投げ去った。鐘はこの水底に没したという。古来この所を弁財天と呼んでいる。その前面に安居の別所があったが、今は田になっている。今残っているのは本堂石段下の福智院、東之坊のみ。昔は院宇甍を比べていた所、今は皆里人の家になっているが寺地と言っている。その下、二天門の旧跡を二王堂坂と名付け、大門を去ること六町ばかり東を華表野と名付く。方石が有って人は石場と名付けた。昔は寺産免地(無税地)であったが、涅槃田、修理田、塔田、祭田、油田、地蔵田、壇供田等と今はその字は残っているが納税している。唯、寺後の堂山は除地となっている。中古に及んで群国兵革頻りに競ったため仏閣神廟に災いし、当寺伽藍も殆ど廃地となった。幸い住持良真権大僧都が天正七年(一五七九)に寺院再興を成し、又、快舜権大僧都が寛永十七年(一六四〇)本堂を再興(四間四方)、次いで快覚権大僧都が延宝四年(一六七六)更に院字を改め造らる。よって祝祷し之を誌す。
 薬師如来当国七区霊場
善名称吉祥王如来       賀悦県 施薬寺
宝月智厳光音自在王如来  河守県 清園寺
金色宝光妙行成就如来    竹野郡 願興寺
無憂最勝吉祥如来       同(神) 神宮寺
法界雷音如来          溝谷県 等楽寺
法海勝慧遊戯神通如来    常吉邑 日光寺(宿野荘成願寺)
薬師瑠璃光如来        白久県 多禰寺
 右当州七区霊趾伝えて曰く、用命天皇勅を以て之を創建、其の後次いで桓武聖主更に旧場によって其本尊を配り安んじ勅の寺号を賜う。併て之を記す
 法印権大僧都順良房快応改焉
  明治十年旧八月二十一日
    施薬寺住職 神野等海これを写し置く者也

「施薬寺縁起」
  目録
一 大門の下榊の塚の事
    附り鳥井野石場の由来
一 当所伽藍の事
    附り権現山祭の時七本の朱唐笠
一 当寺住持勅掟ニ恐レ逃給ふ事
    附り奥瀧杖立の由来の事
一 権現山ハ伽藍の鎮守ニ而空霊上人月参したまふ事
    附り鎌蔵并施薬寺始り年数の事
これもそのままでは読みにくいので、『加悦町誌資料編』より
【解説】
    大門の下榊の塚の事
 寛文年中(一六六一〜一六七三)当寺の弟子として子供の頃父と来た時、道連になった三河内村の甚助という人から聞いた滝口の田の中にある「畦柴の塚」の話。むかし西行法師(一一一八〜一一九〇)が諸国修行でこの地へ来た時、七歳の童子にこの国の人の心をためそうとして質問したがその答えに感心して入初めは六ケ敷と思い都へ帰った。其時西行が立てた杖のあと、田の中の榊の塚として語り伝えているという。その時の父の歌一首記す。
    滝山伽藍の事 附り鳥井野石場の由来
 延宝年中(一六七三〜一六八一)久右衛門という老人がその祖父さんの話に、施薬寺は昔は七堂伽藍で滝の往還(旧国道一七六号線の西側に平行する京都への旧街道)入口に鳥居のあと四角い石があり、石場という地名で鳥居野とも言う。そこより施薬寺へ向う道を大門という。本堂の地下を寺地とも寺中とも言う。いらか(瓦)茸の寺家多くあり入口に仁王門の跡あって今も仁王堂嵯峨という。但馬への往来の人は仁王堂屋敷より川を渡る道があり、七ツ下刻(午後五時)よりは閉じて人を入れなかった。
 滝山の西の嶺には施薬寺の鎮守権現あり。此権現山の昔に施薬寺の別当の寺跡あり。
    附り権現山祭の時七本の朱唐笠
 朱唐笠七十本というのは聞きまちがいで、七本七仏七社七珎七宝是に評すると覚えたり。
 此権現祭礼の時は施薬寺家中より笠鉾には長柄の朱唐笠七本出すと云伝える。
    当寺住持勅掟に恐れ逃給う事 附り奥滝杖立の由来の事
 此寺の縁起の外に先祖の語り伝えを聞及んだ事
 昔或時御門(桓武天皇のこと)御脳まし御悩まして博士が占ったところ御所より戌亥(北西)に加持(呪文を唱え仏の助けを祈り病気や災難を除くこと)を行う僧侶と申上げた処、施薬寺にあたると勅使を遣わされた。住職は驚いて十町(一・二粁)計逃げた。勅使は住職に追いついて何処へも逃ることは出来ないと言うと、住職は戯に杖を立て天に上るより外なしと言い、それより其の所を今も「杖立て」と言い伝えている。其後住職は恐ながら肝胆砕いて祈られたところ、御門(天皇)の御悩の病は忽ち御平癒になり寺領加増にて伽藍が再興された。(尚、寺号を施薬寺と賜り勅願寺となったという)
 其後数百年の間に寺家も荒果て俗人の屋敷となった。寺地の住人がお産をする時は川向に産屋があったという。
    権現山並びに鎌倉の事
 貞享年中(一六八四〜一六八八)に奥滝の助左衛門という老翁がその祖父よりの伝承。施薬寺伽藍繁生の時は此嶺に蔵王権現を勧請して社を建て寺の鎮守と崇めた。住持の空霊上人は毎月この峯に登り護摩修行して国土豊饒を祈ったという。
 鎌蔵明神(鎌倉神社)の神は人間の時は大福長者で所々屋敷多く、境内は広く、社の上には的場があった。社の脇に水舟あり。内のり縦四尺四寸、横二尺九寸、深さ一尺八寸(現存している)、権現山迄旧跡多くあるが不明である。


 臨済宗妙心寺派岩松山光明寺
光明寺(与謝野町滝)

岩松山光明寺
 与謝村字瀧の畠中にあり本尊聖観世音、寛政二年一笑和尚開基明治十二年五月焼失十三年十一月再建。
(『与謝郡誌』)

岩松山光明寺  滝小字畑中
 一七九〇年(寛政二年)一笑恵慶禅師によって開山されたが、一八七九年(明治十二年)五月火災にあい翌一八八O年(明治十三年)再建した。
 本尊は聖観世音菩薩、寺宝として涅槃像、開山像、地蔵尊などがある。
境内仏堂として善光寺堂がある。
檀家は約四八戸
(『加悦町誌』)


施薬寺の鎮守として文明2年勧請された畠中神社
畠中神社(与謝野町滝)

畠中神社
 與謝村字瀧小字畠中、村社、祭神天照皇大神、往昔瀧山施薬寺の鎮守として文明二年勧請鎮守明神と称し寛政十一己未年九月再興明治維新別當寺院を離れ畠中神社と號し村称に列せらる。氏子九十七戸、祭同日、境内末称若宮神社、金刀比羅神社、石場神社、岡田神社。
(『与謝郡誌』)

畠中神社  滝小字畑ヶ中
 天照大神を祭る。
 真言宗瀧山施薬寺の鎮守として、一四七〇年(文明二年)に勧請する、鎮守明神という。一七九九年(寛政十一年)九月に再建、明治維新、神仏分離令によって、別当寺院の施薬寺から離れて、畠中神社と改称した。
 境内社に、若宮神社、金刀比羅神社、石場神社、岡田神社がある。
(『加悦町誌』)


厳島神社
厳島神社(与謝野町滝)

嚴島神社
 與謝村字瀧小字下之段、村称、祭神市杵島姫命、建仁三年藝州嚴島より勧請し元禄十年十一月再興、当社府志に弁財天とあり蓋し辮財天女を祀りしなるべく維新の剖判により神社となし明治六年村称に列せらる氏子七十五戸、祭典同上。
 此他小字鎌倉に無格称鎌倉神社あり、丹哥府志には瀧村鎌倉大明神と劈頭に掲げ却て鎮守明紳、辮財天、荒神等を附録に載す或は當杜の方が前各称より崇敬ありしにや、又荒神は石場荒神岡田荒神等ありしも明治四年に畠中神社境内に遷座せり、なほ只山に無格社稻荷神社あり。
(『与謝郡誌』)

巌島神社 滝小字下ノ段
 市杵島姫命を祭る。
 一二○三年(建仁三年)広島の厳島から勧請し、一六九七年(元禄十年)、十一月再建し、もと辨財天女を祭っていたところに奉祀する。
 明治維新になって神社と号した。
(『加悦町誌』)


鎌倉神社
鎌倉神社(与謝野町滝)

案内板大般若経の案内(鎌倉神社)
加悦町指定文化財(典籍)
指定日 平成17年2月28日
鎌倉神社の大般若経
 大般若経は、西遊記でおなじみの三蔵法師が663年に漢訳を完成させた経典で、日本では奈良時代以降、国家安寧を祈念して諸大寺で書写・読誦されたが、鎌倉時代頃から各地の村々の鎮守の宮の神前においても、村落住民の安泰や五穀豊穣を祈るため読誦されるようになった。
 この鎌倉神社の大般若経の識語(経典中の書き付け) には、「応永三年」「応永五年」「丹後州与佐郡賀悦庄一宮鎌倉大明神」「天与明祐」「資助彦六」などの記載があり、これは本経典が1396〜1398年に書写され、滝地区が賀悦庄に属したこと」鎌倉神社が賀悦庄の一宮であったこと、その制作に天与明祐という禅僧が関与したこと、地元の人物らしい彦六が資金を提供したことなど新事実が明らかになった。また、「摂州多田庄かしはら村御経也」との記述もあり、丹後の賀悦圧と摂津の多田庄との関わりもみることができる。なお、当時、大般若経の経典は大変に高価で、その入手には相当な資金が必要であった。
 以上のように、本品は加悦町の歴史上、高い価値を有するものである。
平成17年 加悦町教育委員会

「室尾山観音寺神名帳」「与謝郡六十八前」
従二位 鎌(カマ)倉明神

鎌倉神社  滝小字鎌倉
 祭神は鎌倉大明神、鎮守明神、弁財天荒神、日本武尊、一六七九年(延宝七年)再建された。
(『加悦町誌』)

『京都新聞97.3.14』大般若経の案内板
*鎌倉神社保存・中世経典に兵庫「柏原」の地名*加悦のかかわり探る*資料館訪れ・由来など意見交換*
 加悦町滝の鎌倉神社に伝わる中世の経典の裏表紙に「柏原」 (現在の兵庫県川辺郡猪名川町柏原)の地名が記されており、猪名川町の田中正夫・柏原副自治会長(六二)ら七人が十三日、加悦町明石の古墳公園はにわ資料館を訪れ、経典を見ながら加悦町とのかかわりのなぞ解きに挑んだ。
 この経典は、大般若経の写経約六百巻。同神社の天井裏に、四個の木箱に入った状態で眠っていた。昨年十月に同町が、府丹後郷土資料館などの協力を得て、保存状態のよい二十五巻を調査。経典の巻末に記してある識語(しきご)には経典の最も古い年号は応永五(一三九八)年で、「柏原村御経也」と墨書されたものが含まれていた。
 今回の訪問は、加悦町から猪名川町へ、地名などを手紙で問い合わせたのがきっかけ。この日は、互いに地名や社寺の由来について、知識や意見を交換したほか、鎌倉神社も見学した。
意見交換では、鎌倉という地名が両町にあることが判明した。
 中前磐・猪名川町文化財審議委員(66)は「約九十`離れた両町の間にどのような行き来があったのかなど分からないことが多いが、今後も情報交換をしていきたい」と、深まるなぞに興味を持った様子。加悦町も「調査を進めて、中世の加悦の歴史を探っていきたい」と楽しげに頭を悩ませていた。
 今年六月には、加悦町から猪名川町へ出掛けて調査を行う予定。

鎌倉長者の水船(与謝野町滝)
↑ 鎌倉神社のすぐ近にある「鎌倉長者の水船。中世の信仰に関わる品の可能性が高い」とある。施薬寺の略縁起に書かれているもの、自然の花崗岩を彫って長辺1メートル深さ50センチくらいの長方形の穴が掘られている。千年近くもここに動かずにあるのだろうか。

大般若経は600巻で1セットだが、ここには今は400巻ばかりが残されているらしい。当時こうした高価なものが手に入れられたのは金属関係者だけと思われるが、地元の伝承によれば、祭神は鎌倉権五郎景正、彼は全国あちこちで祀られるが、片目の伝承を持ち、祭日は3月18日とされることが多いという。鎌倉神社は鉄の神社である。



椿原上屋敷に石川豊後守の滝城址


千年椿と椿文化資料館
椿文化資料館(与謝野町滝)
千年椿への入り口に「椿文化資料館」やツバキ園がある。平成8年に開館したという。
千年椿のある「大田和」集落の案内もある。(同館のパンフより)
「ツバキが見てきた人びとの暮らし」
 京都府指定文化財「滝のツバキ」の付近には、かつて大田和(おおたわ)という小さな集落があり、人々の暮らしがありました。
 大田和の歴史は古く、集落西側には中世期の城跡が残っています。
 江戸時代、元禄10年(1697)作成の村々明細帳には「大たわ村」としてその地名が初めて登場します。現在大田和に至る谷筋は植林に覆われていますが、この一帯はもともと開墾された棚田で、当時は水田耕作が盛んに行われていました。「滝のツバキ」の幹に田を耕す牛が繋がれることもあったといいます。
 こうした生活は昭和30年代に離村するまで数百年も続きました。その後、放棄された棚田に植林が進み、現在のような姿になっていきました。
 ほんの50年ほど前まで、ツバキは人々の暮らしを見つめてきたのです。
滝の千年椿については、滝の千年椿


加悦SL広場など

国道176号脇にある。当初は加悦駅跡(今の与謝野町庁舎のあるところ)にあったが、その用地を譲渡するたため、平成8年11月に現在地に移動した。ここは元は大江山鉱山駅があった。当時の「加悦駅」舎や加悦鉄道のSLなどが移転されて展示されている。
加悦SL広場(与謝野町滝)

加悦SL広場
加悦鉄道
加悦鉄道は、加悦谷の私鉄で、大正14年、ちりめん産業を通じての都市部との交流と、地域住民の交通の便を図ることを目的に設立された。翌年には当時の国鉄連絡駅・丹後山田駅(現KTR野田川駅)〜加悦駅間5.7qが開業し、地域住民の長年の願いが実現したそうである。駅は丹後山田・水戸谷・丹後四辻・加悦谷高校前・三河内口・丹後三河内・加悦があった。
私は乗ったことはないが、タンボの中を走っているのは見たことがある。「坊ちゃん鉄道」と、その当時は呼ばれていたよう、「坊ちゃん」という映画のロケに使われたそうでそんな呼び名があった。1車両だけで、のんびりと土手のうえを走っていった。1日2往復だけだったそうである。
国鉄路線すらめくってしまう時代の到来で、廃線となり、路線はサイクル・ロードとして再利用されている。KTRも同じ運命となれねばいいが…
加悦鉄道は村民823名の出資金30万円により敷設されたそうで、市民主導で生まれた地方鉄道は全国的にも極めて稀だそうで、ほかにもまち単一の銀行や電力会社などもあったそうである。ちりめん産業で隆盛していたによせ、鉄道も銀行も電気も自分で作ってしまうたいへんな勢い。
その後、ニッケルの採掘が開始されたため、昭和15年に大江山ニッケル鉱山への貨物専用線が開業。
昭和17年には丹後山田駅から日本冶金工業大江山製造所への専用線も開通し、大江山で採掘されたニッケル鉱石を運んだ。
陸軍の強い要請下の採算無視鉱山だったので、戦後はすぐ採掘は中止となり、加悦 〜 大江山間の専用線も撤去された。岩滝工場への専用線は同工場で精錬する輸入ニッケル鉱を輸送するため存続したが、昭和60年の国鉄ダイヤ改正で宮津線の貨物輸送が廃止され、ニッケル鉱輸送が不可能となったため、丹後山田〜 工場間の専用線も廃止。これにより収入の6割を占めていた専用線の輸送業務委託料が失われ、赤字額の大幅な増大が見込まれたため、同年5月1日に全線が廃止となった、そうである。

広場のすぐ西側に続く野田川流域は親水公園で、桜の名所。

国道をはさんで大江山側には「道の駅シルクのまちかや」がある。


そこから見ると「日本中国悠久平和友好之碑」と、そのうしろに3本の巨大煙突が見える。
日本中国悠久平和友好之碑と煙突

↑写真の左下の案内板には、案内板
「三本の煙突と日中友好の碑」
 ここは丹後地方の秀峰・大江山のふもとです。
この地から一九三〇年代初頭に良質のニッケル鉱が発見され、民間企業による採掘が始まりました。そして、第二次世界大戦中の最盛期には国策として軍の指揮下でおよそ三、四〇〇人が働き、その中には一、〇〇〇人を超す外国人の人たちが強制連行きれて労働に従事していました。
 終戦後まもなくこの鉱山は閉鎖となり、広大な跡地や大規模な施設・設備は年次的に解体され、一九九三年の積み出し場を最後に取り壊しが終了。そして、山手に残る乾煉場であった三本の煙突だけは、鉱山跡の証とともに、戦争の傷跡として、ここを訪れる人たちに当時のことを風化させないようにと残されたのです。
 また、右手の石碑は、前記の強制労働に従事していた中国人およそ二〇〇人のうち、この地で不慮の死を遂げられた十二人の慰霊のために京都府日本中国友好協会が一九九四年に建立した「日本中国悠久友好平和之碑」で、世界平和と日中友好の願いが込められており、毎年碑前において平和祈願祭が行われています。 与謝野町
碑の右にある石には次のように刻まれている。
趣意書
趣意書
 この碑は、去る太平洋戦争において、当地・旧大江山ニッケル鉱山に強制連行され、苛酷な労働に従事した二百名あまりの中国人青年の労をねぎらうとともに、この地で帰らぬ人となった十二名を偲び、再び戦争の惨禍が起こらぬようみんなで誓い合うため、日本中国悠久友好平和の願いを込めて建立するものである。
一九九四年九月
京都府日本中国友好協会


こうした言葉で容易ならざる歴史の実態と謝罪が語られているかは置くとして、ここにはこんな鉱山があった↑。(SL広場の資料館蔵)

大江山ニッケル鉱山(与謝野町滝)
↑昭和9年から終戦まで操業していた大江山ニッケル鉱山の乾燥場の煙突。

↓ 少し離れた場所に…
碑文
「私の同僚を偲んで…」 元戦争の捕虜 フランク・エバンス 英国・アバリスツイス在住
この碑は、 第二次世界大戦時の一九四二年から一九四五まで大江山鉱山で軍の捕虜として、労働された英国のフランク・エバンス氏が、この地に眠る当時の同僚を偲ぶとともに、二度と再び戦火の起こらないよう平和を祈願して建立しようと発起されたもので、加悦町と日本冶金工業株株式会社も賛同協力しました。
一九八四年十一月 加悦町長 細井択一

『語り継ぐ 京都の戦争と平和』には、
…大江山の捕虜たちの中にイギリス人のフランク・エバンスがいました。彼は、四一年末の香港陥落で日本軍の捕虜になり、現地の捕虜収容所で約二年間を過ごした後、四四年初めに大江山へ連れて来られました。エバンス氏は、捕虜生活の間、粗末な紙切れを利用しては日記を書き、それをもとに当時の思い出を『Roll Call at Oeyama』(大江山の点呼)』という本にして、八五年にイギリスで出版しましたが、その中で「戦争が長引いたら、もう一回大江山で冬を越すことはできなかったろう」と書いています。
 彼は、老境に入った時、人生のしめくくりとして一九八四年に大江山を再訪しました。加悦町では細井拓一町長をはじめ町の人々が彼を大歓迎し温かく迎えました。そして、町の協力で、加悦町の運動公園にイギリス兵の慰霊碑が建てられ、桜の木が植えられました。これをきっかけに、彼の出身地であるイギリスのウェールズのアペリスツィス市と加悦町の間では友好関係が結ばれ、子どもたちの手紙や絵の交換、町の手工芸品や木の交換、高校生使節の相互訪問などによる交流が続いています。

証言 骸骨みたいにやせていた捕虜 元憲兵 ○○○○さん (京都市伏見区在住・一九一九年生まれ)
 私は一九四二年一一月に舞鶴地区憲兵隊の宮津憲兵分隊に配属になりました。一九四三年に、大江山ニッケル鉱山で捕虜の死者が多く発生しているので調査に行けとの命令を受けました。捕虜収容所周辺は日本兵の職員の他に、敦賀の連隊からも二〇人の兵士が応援に来て警戒していました。作業現場では日本冶金の労務係が監視に当たっていました。捕虜たちは作業着のかわりにドンゴロスの袋に穴をあけて頭と手を出して、縄を帯のようにして縛っていました。骸骨みたいにやせていて、これでは仕事にならんなと思いました。
 戦争が終わってからアメリカ軍の飛行機が飛んで来てパラシュートで救援物資を投下しました。開けてみると、見たことのないような食料品が詰まっていました。少しはもらいましたが、収容所へ届けました。

大江山鉱山を経営していたのは日本冶金工業、今はナスダックという家庭用流し台などの製品を作っている会社になっているとか。
昔に習ったが忘れてしまったが、ニッケルクロムモリブデン鋼だったか、高硬度の兵器用鉄鋼を作るためには不可欠の超重要素材で、今でいえばレアメタルのようなものであった。ノモンハンでもソ連戦車を打ち抜く弾がなかったが、ここが開発した装甲弾が優秀であったので、政府は国策として資金を大々的に投入し開発を促進させた、附近の田畑は強制的に買収、山林は借り上げられた。
今でいえば劣化ウラン弾のごときものだったか、たとえ弾丸が優秀で敵戦車をぶち抜いても戦争には勝てないよう、みかたの大将の腐った脳みそでもぶち抜いた方がましだったかも…
昭和17年に須津に精錬工場(今の日本冶金工業大江山製造所)が完成すると、加悦鉄道の経営も握り路線を延長させ、ニッケル採掘から鋼の製造までの一貫体制を作った。
第2次大戦の進展とともに、重要戦略物資ニッケル増産に拍車がかかり、国家総動員でも物資と労働力は不足し、多数の徴用工、朝鮮人労務者、勤労学徒、京都刑務所囚人など労働力の投入が進められたが、それでも手は足りなかった。政府と会社は不足を補うために連合軍捕虜 (アメリカ人、カナダ人、イギリス人など) 約700人、強制連行の中国人200人、強制連行の朝鮮人383人などを投入した。その結果、ピーク時の昭和20年春には約3400人の労働者が生産に従事していたという。(↓現在の日本冶金工業大江山製造所の様子。大内峠より)
現在の日本冶金工業大江山製造所

しかし国策原発と同じ、ムリしてもそのうちに破綻がくる。想定外のとんでもない事態は不可避となる。

大江山ニッケル鉱山
量は無尽蔵だそうだが、質は鉄分20〜30%・ニッケル0.6〜0.7%の貧鉱であったため終戦と同時に廃鉱。今はこの煙突が残されている。跡地一帯は道の駅やグランド、体育館などが建てられ目立つが、多少は鉱山当時をしのぶ碑や跡地が草むらの中にある。

拉致や連行のどこかの国も震え、大江山のオニもおびえる国であったようで、被害は言うが都合の悪い加害には目をつむる身勝手な我々のこと、もう少し見ておくと…

↓『中国人強制連行 大江山訴訟の10年』より
以下の図や引用文は同書による。


大江山の鬼とは何かがどうやらここでも見えてくる。
大江山ばかりでもなかった。中国人はどのような所へ連行されたか↓
このようにして敗戦に至るまでに35の企業の135事業所へ38935人が強制連行されたが、そのうち6830人が死亡している(ただし、この数字には日本へ連行途中の死者は含まれていない)




大江山での苦難の日々
 加悦へ着いた中国人たちは四つの小隊に分けられ、各小隊には三つの班が置かれ、全員に番号がつけられた。何さんの番号は一八一番、呂さんは一三五番、劉さんは一〇七番であった。全体の隊長は山東省出身の孟広恩、副隊長は候という姓の人物で、両方とも元国民党軍の捕虜であった。小隊長には陳運得や牛維子らがいたらしい。
 宿舎は、鉱山の鉱石積み出し場から南四〇〇メートルほどの野田川の右岸にあった。隙間だらけの粗末な木造平屋の小屋二棟と倉庫一棟で、周囲は鉄条網のついた板塀で囲まれていた。五人ほどの監視員が昼夜を問わず監視にあたり、中国人たちは敷地内から出ることを許されず、夜は小屋の入口に鍵がかけられた。小屋の内部は、中央に通路があり、その両側に二段に板を渡しただけの、敷物もない寝床があった。ノミやシラミが沢山わいていて疥癬にかかる者が続出した。痺いので、あちこちかいているうちに、かき傷が化膿して体中が膿だらけになった。便所は部屋の隅に桶が置いてあった。湿気の多い日本での重労働にもかかわらず、風呂にも入れてもらえず、中国人たちは屋外で草をむしって体を拭いた。
 中国人宿舎については、当時、日本冶金工業の社員だった永田宗一さん(宇治市在住)の以下のような証言がある。
 「一九四四年一〇月、与謝郡加悦村にある日本冶金工業大江山支社鉱山部に二〇〇人の中国人が強制連行されて来ました。当時、私は入社九ヵ月目で、営繕課測量係の職員として大江山の測量に従事していました。そのような仕事柄、どこへでも立ち入りできたし、また、中国人を収容する宿舎も建てたりしました。トタン茸の屋根の掘っ建て小屋でした。たまたま私は学校で正課として中国語を学んだこともあって、そこで中国人に話しかけたりしました。彼らは雪に覆われ塞風が肌をさす冬も、酷熱にうだる夏も、満足な食事も与えられず、ムチで追われながら酷使されていました。一度、彼らの食事の海草麺というのを試食したことがありますが、とても食べられたものではありませんでした。
 その後、私は兵隊にとられ、終戦後またもどって来ましたが、中国人たちは進駐軍から支給された食料などをもっていて、今度は私たちがおすそ分けにあずかったことがあります。彼らが帰国する日、見送りに行った私に再会を呼びかけていたのが記憶に残っています。その後、私は日本冶金工業を退社しました。」
 なお、大江山鉱山には朝鮮人労働者も大勢働いていて、初期に来た人たちは家族連れで鉱山の周辺に住み着いており、そのため、与射小学校には、朝鮮人の子供たちか大勢入学して学校が一杯になったとのことである。その後、一九四四年になって三八三人の朝鮮人が強制連行されて来て、鉱山の北側に住まいがありました。鉱山の近くに住んでおられた郷土史家の故・杉本利一氏によると、「後から連行されて来た朝鮮人の宿舎は平屋で、真ん中に通路があり、両側が寝床になっているような所で寝起きしていた。ふとんがあったが、柔らかくて眠れないと、味に新聞紙を敷いて寝ていた人もいた。いつも国民服と帽子姿で、中国人とは違い、塀の中に閉じ込められるようなことはなく、月に一、二回は外出して映画なども見に行っていた」とのことである。また、彼らのために慰安所がつくられており、勒鮮人の慰安婦が四人いたことも分かっている。…

連合軍捕虜の管埋は日本軍が行なっており、戦後、横浜でのBC級戦犯裁判で捕虜虐待行為が裁かれ、収容所長の羽間耕作中尉など四人の日本兵が懲役一〜二〇年の有罪判決を受けている。これに対して、中国人や朝鮮人に対する虐待行為を裁く戦犯裁判は行われなかった。


無責任なこと、今の原発と同じである。基本の基本なしで、「私が責任を持ちます」の素人総理の大ハッタリだけで再稼働させる超無責任さ、兆円単位の国と国策独占企業体よほどにガンガンと言い続けないと明日は10万倍して我が身にふりかかろう。
尚、昭和20年7月30日の舞鶴空襲と同じ日、加悦谷でも空襲を受けている。『語りつぐ 京都の戦争と平和』
午前一〇時過ぎ、宮津湾や峰山飛行場の攻撃に向かった米軍の艦上機群の一部が、加悦谷の農村に機銃掃射(ロケット弾攻撃の可能性もある)を加え、桑飼村(現・与謝野町加悦)香河地区で四戸、石川村(現・与謝野町野田川) の大宮地区で一二戸、上地地区で一四戸が焼かれました。


《交通》

《産業》




滝の主な歴史記録


『丹哥府志』
◎滝村(金屋村より西へ入る、是より但馬へ道あり)
【鎌倉大明神】
【滝山施薬寺】(真言宗)
【薬師堂】(施薬寺境内)
 本尊薬師如来は所謂七仏薬師の一なり、縁記は同郡栗田の庄成願寺条下に出す。
【岩松山光明寺】(臨済宗)
【石河彌左衛門城墟】
 【付録】(鎮守明神、荒神、弁財天、地蔵堂)

『郷土と美術2』(昭和15.2)
『施薬寺に蕪村の画を訪れて』
     塩 見 青 嵐
 吾々画修業の者が寄り集ると或者は大雅が一番好きだといひ、或男は蕪村が偉いといふ。両人共私達のいつも話題にのぼるのです。
 今から五六年前私は丹後与謝村の施薬寺に蕪村の六曲屏風があるのを聞いて早速拝見に出掛けました、新緑の初夏静かな村道を昔を偲びつつ山ふところにある禅寺の様な施薬寺を訪れました、住職にたのんで蔵から屏風を出してもらひ一目見るなりその偉大さに毅然としました、屏風は粗末ですが画面にみなざる生気は生ける蕪村その人に対するが如く思はず襟をたゞし、いつまでもいつまでも見入ってゐました。画は支那の孝子が病める親のため山中に霊薬を求めて疲れ、うたゝねしてゐる夢枕に仙人が孝心を感じ薬壺を岩の上におきあたへるといふ物語なのです。
 しみじみ見入ってゐた私は何だか蕪村その人の心中を読むやうな気がしました。聞くところによれば画聖蕪村も淋しい妾腹の子だと伝へられます。その生みの母がこの与謝村に住んでゐたので母を恋ってこの施薬寺に来りお寺の屏風や襖を書いたさうです。又自分が姓を与謝と名づけたと聞きます。私は感慨無量二百年以前この寒村にあの蕪村が絵筆を友に旅泊したのかと思へば踏む土にも親しみを覚へ足もとを見つめるのでした。夕日を浴びて帰る牛を追う老夫の姿にも薮かげの草屋にも見るものすべて蕪村の画その儘です。今でこそ蕪村々々と崇められ一枚の絵も随分高値ですが、当時は随分貧乏で困ってゐた蕪村の姿を心に思ひ浮べ、今かうしてその蕪村を偲ぶ自介を思ひかへる時、あゝどうか自分も蕪村の様に何百年の後にすら世人にかく慕はれる様な名画が残したいものだと胸がおしつまりました。
 施薬寺には六曲屏風のほか、この本堂の襖全部も蕪村の画だったさうですが二三代前さる表具屋にうまく交替されたとの事、惜いことをしたとこぼしてゐます、但馬の応挙寺、九州の大雅寺のやうにこの丹後与謝村にも蕪村寺があってもぃゝものにとしみじみ思ひましに。
 寒気身にしむ深夜をかうしてペンとる私の追憶は、私の脳裏には、見ぬ蕪村の姿が蕪村の霊が真近に髣髴と現る思ひして、年四十代にして、かくも名画を描いた古人を偲び今正に同齢に至らんとする自分の如何に恥づべきか思はず涙膝に落つ。

『鬼伝説の研究−金工史の視点から−』(若尾五雄)
…この地方には鉱山がないかと聞くと、大林さんの答えは、次のようなものであった。
 佐々木には、古い銅山があった言われ、たしか、そこは鋪(シキ)谷といい、銅の鉱滓が出る。したがってそこから出る水は硫酸銅を含んでいて、呑めない。この鋪谷のほかにも銅坑はあったらしく、また三岳の反対側、つまり大江山と佐々木の間は金山郷というくらいで、野条、行積、長尾、小野原、天田、登尾などに鉱山跡があると聞いている。
大江山というのは、千丈岳(大江山)だけでなく、千丈岳を中心とする全体の山系が大江山であり、赤石山もその一つで、そこから出るのは銅、金、ニッケル等である。福知山の北方近くにも、鬼ヶ城という山がある。ここも、裏表ともに銅山があったところである。
もともとこの辺りには、酒呑童子の話をぬいても、その昔から鬼の話があり、今のべた福知山市の近くの鬼ヶ城(猪崎)には洞窟があり、そこにも鬼神が住んだという。またそれは茨木童子であって、平将門の子供だとも伝えており、古いものには、千丈岳の北、与佐郡加悦町滝本の施薬寺に英胡、カルーラ、土蜘妹の三鬼を金屋王子が退治したという縁起がある。また同郡栗田郷の成願寺縁起にも、同様に三鬼を退治し、そのうちの土蜘銑(土熊)を来世の証に岩屋に封じたが、この岩屋が鬼の岩屋といわれるものだという。さらに加佐郡仏性寺にも、ほぼこれと同様の三鬼を退治した話がある。たしかその施薬寺の付近にカナホリ、カナヤマといわれる地名があり、仏性寺にも銅山跡があると聞いている。
大林さん、というのは大江町元伊勢の宮司さんだそう。


『丹後路の史跡めぐり』
蕪村の寺として知られている施薬寺は、もと赤石嶽にあった根本寺をうつしたもので、桓武天皇の病気に薬湯を献上して全快しられたので、寺号を下賜されたという。真言宗の寺で本堂のらん間には金色に輝く紋章がつけられている。この寺には蕪村の画いた「方士求不死薬図」の大屏風が二双あり、四明の名が入っている。これは秦の始皇帝の臣徐福が不老不死の薬を求めにやってきた故事を画いたものである。
 蕪村についてはいろいろな伝説があるが、地元で語り伝えるには、母げんが与謝の人で、大阪毛馬村の丹門屋に奉公していたところ、絶世の美人であったために主人の手がつき、享保元年(一七一六)帰郷して蕪村をうみ、その後蕪村を連れ子して宮津の畳屋へ再婚したという。与謝にげんの墓が残っている。若い頃は貧乏をしていて借金のかたによく絵を画いて渡したが、後に京都より帰った時に「書きなおす」といって集めてみな焼いてしまったという。また借金取りが来ると、
    首くくる縄もなし年の暮
と障子に張り出してあったので、みなあきれはてて帰ったという話も残っている。母が再婚した先の養父となじまなくて家をとび出したというから、この頃与謝に戻って施薬寺に小僧として入ったのではなかろうかと思われる。というのは後年の彼の知識天才ぶりからみて、幼い頃からみっちりと学問をしこまれた基礎がなくてはならないからである。おそらくこの寺の和尚は相当博学の人であったであろう。そうして十七才の時京都へ出て苦学し、その後江戸へ出て俳諧と南画を学び全国各地を巡り歩いている。ともかく宝暦四年(一七五四)から七年までの四年間丹後へ来ていた事は事実で、その間与謝の谷口反七方に滞在している。本来谷口という姓であるが丹後へ来てから与謝姓に改め「生丹后子」などという名をつかったりしている。
    夏川を越すうれしさよ手にぞうり
この有名な句も加悦に句友僧を訪ねた時につくられたものである。丹後から京都へ帰る時妻をめとってつれて帰っているが、蕪村はこの時四二才であった。
  蕪村は天明三年(一七八三)十二月二五日六八才で没し、妻ともは文化十一年(一八一四)三月五日に没しており、法名を与謝清了尼という。洛北金福寺には夫妻の墓が江森月居や高弟の芦蔭舎大魯、松村月渓(呉春)、寺村百池などの墓に囲まれて立っている。


『加悦町誌資料編』
身替わり薬師の由来 (滝)
 むかし、滝の里はずれに、老婆と娘が住んでおりました。その娘は、老婆が根本寺へお参りした時、門前に捨てられていたのを上人様の許しを得て連れ帰り「あなたは、薬師様から戴いた子じゃ」と、それは大切に大切に育ててきたのです。
 その頃、滝の里の人々は一生懸命働いてもくらしは貧しくて年貢を納めることもできないありさまで年貢の替わりに娘を売ったり、また、分限者(ぶげんしゃ・お金持ちのこと)の家の軒下に娘を捨てて育てて貰うようにしなければならなかったのです。
 さて、その娘は老婆を助けて仕事に精を出し、近所に腹を減らしている子があれば自分の食べ物を分けてやるという心やさしい娘でした。
 ある年の夏のこと、来る日も来る日も霜が降りたり、大きな雹が降ったりしてその年はこれまでにない不作となって、この老婆の家もどうにもならず年貢の替わりにこの娘も京へ売られていきました。
 老婆は、娘のことが心配で夜も眠られず、食べ物も喉を通らず間もなく死んでしまいました。
 年明けて万物が生きかえる春の季節になったというのに、京では帝が病気になられ医者よ、薬よ、と八方手をつくしましたが、病はますます重くなるばかりでした。
 そんなある夜のこと帝は「薬師如来が現れて、あなたの病は、滝の里から売られてきた娘の智恵を借りるとよい」との夢をみました。そこで探しだされた娘は、「薬師如来のお告げでございます。わたしの里の根本寺の上人様がご祈祷なされば帝の病はたちどころに良くなります」と、申しました。
 早速、帝の勅使は京から早馬に乗って根本寺の上人にことの次第を告げて祈祷を頼みました。上人は「娘を滝の里に帰すこと」、「滝の貧しい人々を救うため、年貢を免除すること」を約束してもらえばとの条件で早速「ご祈祷」をしました。するとあんなに重かった帝の病はたちどころに治ったのです。大喜びの帝は、上人の申し出は勿論のこと、お寺の新築寄進すると、仰せられました。
 お寺の新築のとき、ご本尊の薬師如来を仮本堂に移すのを手伝った村人はあまりの軽さに驚きました。
 娘は帝から戴いたたくさんのご褒美を持ち、大勢の都人に送られて滝の里に戻ってきましたが、老婆が亡くなったことを大変嘆き悲しみ、薬師如来の安置されている仮本堂へ入って行きました。それからは誰ひとり娘の姿を見た者はありませんでした。やがてお寺が出来上がり、その名も「施薬寺」と改められ勅願所となり、新しい本堂に移し替えるときその薬師如来はズッシリと重くなっていました。里人たちは、薬師さまが娘に姿を替えられて村人を救ってくださった、有り難いことだと喜び合いました。
 このことが里から村へと伝わり、誰いうことなく「身替わり薬師」と親しまれ、いまなお信仰されているのです。 皆さん、今一度お参りされては如何でしょうか。      (後野寿会 文集『後楽三号』を一部改変)

『子どもがつづる丹後の歴史』
大江山のほりょ
大宮町・倉垣小 五年 門田昌一郎
常吉のおじいちゃんは今六十四才です。昔のことを話してくれたことがあります。
「昭和十八年ごろは、まんだ戦争に勝っとって、おじいちゃんは大江山のニッケルをほる仕事をしとった。その仕事場には中国軍やアメリカ軍のほりょの人たちや、朝鮮の人たちが働かされとった」といろいろ話してくれました。
ほりょや朝鮮の人は、日本人と同じようにちゃんと働いていたのに、日本人は白いパン、朝鮮人は黒いパンというふうに、差別をつけて与えられていたそうです。そしてよく働かされて、たおれて死んだり、石が落ちてきて死んなったり、ばくはつさせる時にしんなったり、病気になったらくすりも食べるものももらえなんだりして、地ごくのようなようすだったそうです。ぼくは、日本人がほりょや朝鮮の人を連れてきてこんなひどい事をしていたとは知りませんでした。
大江山の土には、ニッケルがまじっとったから、山から土を出してかんそうさせる所に持って行って、かんそうさせてから、鉄やニッケルに分けていたそうです。ニッケルではてっぽうの玉を作ったり、てっぽうをつくったり、飛行機の部ひんを作ったりしたんだろう。ニッケルはさびない金ぞくですから、いろいろなことに使ったんだと思います。
昭和二十年の終戦の前、敵の飛行機が二〇も三〇も大江山にやってきて、仕事をしている所を海とまちがえて、機雷を落としたそうです。機雷でばく発されたあと、
「それをとりかえすためにその分ようけはたらかんなん」
とざんねんだっただろう。ほりょの人たちは、あんまり口もしゃべらん人で、さみしいような人だっただろう。ほりょの人が日本人に連れてこられて、日本人はおそろしい人種だと思っていたのかも知れない。
ぼくは、死んだ外国のほりょや朝鮮の人たちがかわいそうだと思いました。日本人も「お母さんの木」にあるような話と同じように、すごく悲しいめにあった人がたくさんおったのだろうし、くん章も何ももらえんと死んだ人もようけあったように、外国でも子どもをころされたお母さんがたくさんいることがわかりました。ぼくは、戦争というものはつらくて悲しくて、えらくてきびしいことだったことがわかりました。
今ごろまた、道のふちに「有事立法反対!戦争への道」と書いたかん板が立ててあります。戦争は敵も味方もみんなひどいことになるのだと知っているんだ。ぼくも戦争への道は大反対だ。おじいちゃんは戦争のかなしみをぼくに知ってほしかったから話をしてくれたんだと思います。



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『加悦町誌』
『加悦町誌資料編』
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん



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