丹後の地名

三重(みえ)
京丹後市大宮町三重


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京都府京丹後市大宮町三重

京都府中郡大宮町三重

京都府中郡三重村三重

三重の概要




《三重の概要》

宮津の方から行けば、国道312号やKTRの水戸谷峠を越えた所あたり一帯である。峠を下って、酒戸古の信号機のある三叉路をそのまま国道やKTRの進む方へは行かないで、右手(北側)の三重谷へ入ったところである。京丹後市の南東部、竹野川の上流部になる。この谷全体を三重谷と呼ぶ。
この谷間のあたりの水はいったいどう川が流れていたのだろうと思う不思議な場所である。古くは山田側へ水戸谷峠の場所を通って野田川側へ流れていたのではなかろうか。そうした向きの谷間である。ところが山田には山田断層があり、a−aの山脈は絶えず高くなる、そこにある水戸谷峠も高くなる'、水流が削る以上の速度で高くなっていったと思われる。従って三重谷は湖化していた時代があったのではなかろうか。三重とは水辺のことで、ちょっとした湖、湿地であったかも知れない。やがてb-bの山脈を開鑿してこちら側へ水を流した、たぶん人間がこの水路を設けたのではなかろうか。'
野田川に対してその下流側の位置から三重谷の支流が流れてくるというのは普通はなさそうなこと思われる。何か地形の変化があったかも知れない。赤い線の下側に山田断層があり、北側は隆起し、右ずれする、1回の地震で3メートルくらい右ずれするだろうと言われている。過去に2000回ばかり地震があって、三重谷を横切るような断層も何本かありそうだが、こちらがより多く移動したいたと仮定すれば、三重谷の方向は納得できる川筋になる。あるいは600万年くらいかけて丹後半島は若狭湾側へ張り出してきたのかも知れない。
三重谷(京丹後市)
この三重谷から野田川へ流れていた川を「イソガワ」と呼んでいたという説があるそうである。上流の地名「五十河」はイカガと読むが、そうではなくイソガワだというのである。与謝海・阿蘇海に流れ込むイソ川というのも面白い説だが、しかし五十河はやはりイカガではなかろうか。
↓水戸谷峠


 古代の丹波郡三重郷の地で、「和名抄」の丹後国丹波郡7郷の1つ。ここは古くは与謝郡に属していたという。三重は広くはこの谷の全域の総称であるが、また狭くその南辺の1つの集落、あるいは南辺のいくつかの集落を指す地名としても用いられる。
「地名辞書」は、今三重村及び五十河村なるべし、本郡の東偏にして、竹野川此に発源す。延喜式、与謝郡三重神社は今三重村の郡分(こおりわけ)と字する地に在り、同式同郡木積神社亦同村木積山に在り、此郷往昔与謝の域内なりしごとし」とする。
『中郡誌稿』は、「今の三重五十河両村の地は総称して三重谷といふて、昔は与謝郡であったのが、後に中郡にはいったのは地勢といひ確からしい」とする。
『丹後半島の旅』は、「この川は、さきにも述べた如く、その昔、現在の竹野川上流である五十河・延利・明田・森本・三重地区の水を集めて水戸谷を南流し、野田川に合流していた時代があった。ところがその後、竹野川と野田川の間に、いわゆる河川の争奪が行なわれ、その上流をチョン切られて現在に至った。古くは現在の大宮町三重から以北の森本・明田・延利・五十河の村々が与謝郡に属していたこともその傍証となるであろう。その三重郷(三重村と五十河)が与謝郡領から離れて丹波郡に編入されたのは、久安二年(一一四六)のことである」とする。
『和名抄』の時代(935年くらい)は丹波郡とするが、それよりわすが何十年くらいか早い『延喜式』の時代は与謝郡としている。

中世の三重郷で、室町期〜戦国期に見える郷名で丹波郡のうち。
「丹後国田数帳」には「一 三重郷 廿二町五段三百卅歩内」。「丹後御檀家帳」には「一 見えの里」と見える。
延徳2年8月1日付の高知県高知市妙国寺鐘第一次追銘に「丹後三重長寿寺」とあるそうである。これは正安元年但馬東楽寺鐘が長寿寺に移った際の追銘で、長寿寺は大宮町三重に所在したが廃絶した。久世戸文珠門前に石地蔵2体があるが、その1体の背銘に、
「願主三重郷大江越中守法名永松・ 奉彫刻一千躰内特取石等身同以・ 結永旨勝因者也・ 応永卅四年九月十七日」と見える。

三重村は、江戸期〜明治22年の村名。はじめ宮津藩領、以後寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年より宮津藩領となる。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年三重村の大字となる。
近代の三重村は、明治22年〜昭和26年の中郡の自治体名。近世の三重・森本・三坂・谷内の4か村が合併して成立した。旧村名を継承した4大字を編成。昭和26年大宮町の一部となる。村制時の4大字は大宮町の大字に継承された。
三重は、明治22年〜現在の大字名。はじめ三重村、昭和26年からは大宮町の大字。平成16年から京丹後市の大字。目下は、京都縦貫自動車道の工事が進んでいて、古墳や山城跡が発掘されている。

《三重の人口・世帯数》 372・172



《主な社寺など》

三重小学校校庭遺跡
『大宮町誌』
〈三重小学校校庭遺跡     三重小字岡鼻(三重保育所)
 岡鼻は昔は大内谷に続いた扇状地であったが、明治三年起工、同五年四月竣工の川替工事により中断せられて東側を新川が流れるにいたり地形が一変した。旧河川は低地の通称古川の所を流れていた。三重小学校遺跡は裏陰遺跡と同様の扇状地であり前に川を臨む高台で、三重谷を見渡せる台地である。
 遺物が発見されたのは大正一一年旧三重小学校敷地工事の際である。郷士史家永浜宇平その他工事関係者の語る所によれば、地下四、五尺の所に遺物包含層があり、それは黒色土壌でその中に主として土器片を発見したという。出土品は甕形土器・壷形土器・甑・器台須恵器等の弥生後期から古墳時代前期にかけての遺物が多い。その土器の一部は旧三重小学校に保管されている。〉

金座ヶ岳古墳
『大宮町誌』
〈金座ケ岳(きんざがだけ)古墳  三重通称金座ヶ岳
金座ヶ岳古墳は三重万歳寺の上、通称金座ヶ岳中腹にある。発見の動機は昭和二二年六月渡辺静夫家の人が墓の穴を掘ろうとした時、地表下約五○pから花崗岩を加工した厚さ約一○pの板石の組合せ式石棺を発見した。石棺は柔らかい砂粒を約一○p敷いた床上の上に縦石(長さ約二m、幅約六○p)が左右に二枚あり、前後を蓋する板石と上部の蓋石があったといい、上部の蓋石は二枚に分かれていたと伝える。この地が墓地に造成されたのは明治末年から大正初年にかけての頃である。
 組合せ式石棺の中にはうす黄色の人骨一体が伸展した形で葬られており、上下の歯は揃い虫歯はなく、東側に肋骨が床土に突き刺った状態であったという。棺内外の遺物の存在は不明である。
墳形は円墳と推定される。〉

比丘尼屋敷遺跡(三坂谷)
道路になってしまって今は何もないが、全国に4つしかないグリーンのガラス釧が出土している。
『京丹後市の考古資料』は(写真も)、
ガラス釧
〈比丘尼屋敷遺跡(びくにやしきいせき)
遺構『丹後国中郡誌稿』によれば、1900年に三坂峠の道路開鑿に際して発見されたものである。詳細な遺物の出土状況などは不明である。
遺物
『東京国立博物館図版目録』では「比丘尼屋敷古墳」として出土遣物が掲載されている。同書によれば、ガラス釧、ガラス勾玉、管玉、鉄剣、朱が出土したようである。ガラス釧は全体の1/2が残存する。表面は全体に風化による銀化が進むが、断面から本来は緑色であったことがわかる。釧、勾玉の材質は鉛ガラスであり、特に勾玉は風化が著しい。
意義 出土遺物の内容から見て本遺跡は、弥生時代後期後葉の墳墓と思われる。ガラス釧の出土事例は、全国で4例のみであり、貴重な資料である。〉


大内古墳群
西外古墳群
水戸谷遺跡

三重神社(字三重 荒神谷)
三重神社
「延喜式」神名帳の与謝郡三重神社に比定される。「室尾山観音寺神名帳」「丹波郡二十九前」には記載がなく、早く失われていたものと思われる。『丹哥府志』は、
〈【三重神社】(延喜式に与謝郡に在りとす)
三重の神社今酒戸古大明神と称す、伊勢酒殿の神とおなじ。〉
とする。『丹哥府志』の式内社比定はアテにならないことが多いが、『宮津府志』『丹後旧事記』も、この社だろうとしている、どうした根拠かは不明。

『大宮町誌』
〈三重神社は与謝郡の項に記されているが、与謝郡には該当する神社はない。三重郷(三重および五十河地区)は近衛天皇の久安二年(一一四六)丙寅二月、郡分(こおりわけ)があって従来与謝郡に属していたのが丹波郡に編入されたという。(丹後古事記伝・中郡誌稿・三重郷土志)
 現に三重の水戸谷峠頂上付近に郡分(こおりわけ)という地名が残っている。式内社三重神社は郡分の近くの酒戸古にあったので古くから酒戸古神社と称していた。三重区内には字上地に三谷神社、中町に諏訪神社、下地に酒戸古神社の三社があったが、三社合併の議がおこり、明治二二年一月二九日三社を合併して三重神社とするの許可を得て遷座合祀し、明治二四年九月九日より三重神社と呼び、酒戸古神社の祭神豊宇賀能売命を主神として奉祀している。〉

〈三重神社(元村社) 三重小字荒神谷
祭神 豊字賀能売命
相殿 建御名方命・訶具土命・興津彦命・興津姫命
 「延喜式神名帳」に三重神社は与謝郡にあるが、「丹哥府志」の「三重村 三重神社、延喜式に与謝郡に在りとす、三重の神社今酒戸古大明神と称す。」とあり、「宮津府志」などにも、三重神社を中郡三重村としている。延喜の時代には、三重谷は三重郷として与謝郡に属していた。
 三重神社は、小字宮の前通称酒戸古に鎮座し、戦国時代に衰退したが、祭神は酒造の神豊受大神であるので、酒殿の神、酒戸古大明神と称していた。明治六年二月逆鉾神社と称し村社に指定された。明治二四年に荒神谷に地に合祀した跡地に「延喜式内三重神社旧跡明治三五年八月」の碑が建立されている。九月二一日が祭日で下三重が祀っていた。
 しかし、三重には村社がなお二社あって、三谷神社、諏訪神社と称していた。三谷神社は、三坂谷の山林にあって古くから三宝荒神を祀っていたが、維新後に荒神の称を廃して地名をとり村社三谷神社と号し、祭神を軻具土神(防火の神)興津彦、興津姫(両神ともかまどの神)とした。明治二四年荒神谷の地に合祀した跡地に「三谷神社旧蹟祈念碑」が建っている。祭日は九月一六日であり、上三重が祀っていた。
 また、大内谷宮ヶ谷にあった諏訪明神は、嘉吉三年(一四四三)の大洪水に流失し。北垣の地に移った。(この地を小字御諏訪と称している。)寛政六年(一七九四)三月に、村の中央西方の当地地主荒神を祀る小谷口の山林の地に遷座した。明治の初め建御名方命を祭神として、村社諏訪神社と号した。祭日は八月二日であり、中三重が祀っていた。
 以上三村社は、明治中年ごろ合併の議がようやく熟し、諏訪神社の境内を拡張し、荒神谷通称小谷口を境内として、明治二四年三月二四日三社をここに合祀した。同年九月九日延喜式の神名を復興して、三重神社と称し、祭神を三社の祭神とし、主神を豊宇賀能売命とした。
 祭日が、三社とも別であったが、天明六年(一七八六)から九月二一日に統一し、明治一五年以来は秋分の日としたが、現在は一〇月一〇日である。祭の当日は合祀前の旧逆鉾神社、旧三谷神社の跡地に神籬を設けて、隔年毎に両跡地から三重神社へ神事の笹囃子と神楽が練りこむ。
神職 嶋谷旻夫(兼)(周枳大宮売神社神職)
 当社の一の鳥居(寛延四年(一七五一)は、旧逆鉾神社から、二の鳥居(寛政五年(一七九三)は旧三谷神社より、本殿(安政四年(一八五七)、上屋(安政二年)(一八五五)は、旧逆鉾神社の社殿を移したものである。
〔境内神社〕
稲荷神社
祭神 倉稲塊命・若宮比売命
旧三社の稲荷神社を合併し祀った。〉

『中郡誌稿』
〈(三重神社由緒)村社 三重神社
 祭神 豊宇賀能売命 健御名方命 軻偶槌命 興津彦命 興津姫命
当三重神社の主神と崇敬奉祀する所の旧逆鋒神社は延喜の聖朝の官簿に記載せらるる式内三重神社にて祭神は酒殿神豊宇賀能売命なる事国史野乗に散見す然而由緒徴証の一端は倭姫世記に酒殿神一座和久産霊神之神子豊宇賀能売命也云々清酒善醸云々とあり神楽歌に此神酒は誰の酒曾阿毛仁座豊岡姫の醸し神酒とあるも此大神の御功績を賞賛せし確証也抑三重神社の社号も訛伝せし原因を探に足利将軍義輝の政権を掌握せしとき兵乱年を累て神官氏子も離散し為に本社の古典旧式も殆んど地を払ひ社宇も破損し境内雑草の葎に変じたれども有繁に酒所神の音訛は口語に残りしまま旧幕府の治世に到て里老の口碑を文字に当殖て酒殿、酒?(缶編に尊)、逆鉾と国音親き方に係て字義に不抱叨に数百年の星霜を経たりき往古より三重郷三重村字平尻に神佐備乍御鎮座なりしを明治六年三月十日社格を村社に列せられ明治二十四年三月同村小字小谷口村社諏訪神社へ同村小字三坂谷村社三谷神社と合併祭祀の許可を得同年九月九日旧三社の社号を全廃し更に三重神社と改称し豊宇賀能売命を以て主神と尊崇すべき旨許可せられたりき旧三谷神社の祭神は軻偶槌命興津彦命興津姫命にして火食必用を守護の大神にして往古より崇敬を重じ来りしなりき明治六年三月十日村社の格に挙られき旧諏訪は祭神健御名方命にして造国に功労ありし大神なること皇典にも顕然たれば信仰し来りしなりき古昔は大内谷小字宮谷と云ふ所に凡二間に三間の白石あり此所に社頭ありしを嘉吉年間洪水の為に此霊石小字北垣迄転出し該地に留るに依て此地に社宇を建築したるより地名を御諏訪とも唱へり然るに寛政六年甲寅春現今の社域に遷座ありき明治六年三月十日社格に村社に列せられたり各神威の尊厳なるを惶みつるになん(要抄)
(三重神社旧地石碑銘文)明治二十四年三月奉レ遷三本社於二小谷口一已而遺跡今多帰二民有一因レ茲建レ碑永伝二後世一云
(村誌)三重神社社格は村社なり祭神者豊宇賀能売神也勧請は上古に係り其時代不詳抑も当社の祭神清酒醸造の事に功績あり故に其神徳を仰て酒殿大神と尊称す倭姫世紀に曰く酒殿神一重和久産霊神子豊宇賀能売神云云善醸清酒畢竟御徳号を以て神名の如くに称し慣し来る三重郷内崇敬の総社にして延喜式神名帳に栽する処の一社也
右三重神社社地東西四十四間南北十六間七分面積七百三十四坪本村より二町計南方の平にあり祭日は九月二十一日を以てす
 按、村誌引用する処の倭姫命世紀酒殿神の分註には「豊宇賀能売命、缶モタヒニ座、丹波竹野郡奈具社座神是也、天女善爲レ醸レ酒、飲二一杯一吉万病除之、形石坐也、」とあり丹波竹野郡云云万病除之は例の丹後風土記により文を成せしものなり而して豊宇賀能売神を和久産巣日神の子とするは御鎮座伝記御鎮座本記等に據る
(式内神社取調書)三重神社、三重谷(頭註)(覈)三重村(明細)丹波郡三重村九月二十一日称坂戸古明神又森本村大屋明神(考案記)森本三重両村とも三重郷内にて森本村は従来三重社の由唱居三重村の義は今般式社調に付村名より俄に申出たる也(道)森本村大屋大明神森本より奥口の村を三重谷と云和名抄丹波郡に三重郷あり案ずるに山田村彌刀谷より三重村、明田、延利、久住、五十河等の村々より野間谷迄與佐なりしなるべし与謝郡は大郡丹波郡は小郡なれば丹波郡に属しか地図を可考也(式考)森本村大屋明神を三重神社と宮本池臣書出しより混乱の基を醸せり云々森本村に元禄十一年寅十月十七日と記したる棟札に奉造三重神社大屋大明神とあり寛文八申年九月棟札に奉再興大屋大明神とあるのみにて式社に非ること明白也三重村の酒 (缶編に尊)明神は決めて三重神社なるへし(後略)(豊)森本村(今属丹波郡)字奥の谷十月二十八日
(神祇志)三重神社○今在中郡三重郷森本村、称大屋明神、或云在中郡三重村、称酒 (缶編に尊)明神、未知孰是、〉

酒戸古神社旧蹟(三重酒戸古)
水戸谷から下ってきて竹野川を渡る酒戸古橋↑。右は当時の神社の大榎。石柱には「延喜式内社三重神社旧蹟」と書かれている。酒戸古の三叉路である。
「酒戸古」と書いているが、『丹後旧事記』は坂戸古と書く。諏訪神社は近世の勧請になる、三谷神社も近世の改称で元は荒神。ここは坂門処で水戸谷坂の入口にある道祖神的なものではなかろうか。式内社三重神社に比定してツユ疑いなきものかどうか、しかし三重という地名は三重神社由来だろうから判断は何とも難しい。10月10日の秋祭には笹囃しと神楽が奉納された。


曹洞宗永平寺末金峰山万歳寺
万歳寺(三重)

『大宮町誌』
〈金峰山万歳寺 曹洞宗(永平寺)  三重小字大賀
本尊 釈迦牟尼仏・脇侍 文珠菩薩・普賢菩薩
 創建年代は明らかでないが、もと小字家の奥にあったが嘉吉三年(一四四三)の大洪水に流失したと伝えられ、もと地に、方丈寺・鐘搗堂・大門の小字名及び万歳寺山の川名が名残をとどめている。貞享の前後(一六八○年ころ)海峰智恩和尚が当寺に住持の際、今の地に移し、金座ヶ獄の土地の名により金峰山と改称したという。
 宮津智源寺八世法運寿節禅師は、本寺を素明和尚に譲って当寺に隠棲、元禄一○年(一六九七)二月八日に開基したので、同師を中興開山としこれより智源寺を本寺とした。承応元年(一六五二)の、竹野郡木津村竜献寺の「永平寺御開山四百年御茶湯代指上候竜献寺末寺三十八箇寺」の中に、三重村万歳寺は、善王寺長福寺(現三要寺)・河辺村萬休院・久住村本光寺とともに、この竜献寺を本寺としていると記されている。
 文政四年(一八二一)一二月三日に炎上して、仏像・寺宝・諸記録を焼失したが、六年後の文政一○年(一八二七)三月一二日(同寺再建棟札)一○世後見本宗智達和尚が再建し現在に至っている。
 現住職 佐々木正嗣
 半鐘は開川前住門啓尼僧代の元禄十六年(一七○三)五月一五日の銘があり、三界万霊塔は、当寺をいまの地に移した開山前住海峰智恩和尚の元禄七年(一六九四)四月の建立である。
〔境外仏堂〕
 薬師堂 三重小字西ノ垣
 本尊 薬師如来座像
 万歳寺開山前任門啓尼が、元禄年間(一二六八八−一七○三)にこの地に庵を営んでいたというが、その以前のことは明らかでない。その後智賢庵と号したこともあるが、文化八年(一八一一)に火災により廃れ、わずか一間四方の草堂を建てて、薬師仏を再興した。明治三三年五月改築、昭和三七年三月、場所を下の地に移して再建(二間に三間)し、仏前の間は老人会の憩いの場となっている。
 仏前の鰐口に元禄十六年(一七○三)五月八日門啓の名があり、堂前に傘地蔵・五輪塔(正安三年(一三○一)がある。〉

三重城跡
『大宮町誌』
〈三重城   三重小字城山
 下三重の蔵谷と年座谷との中間に聾える山に三重城はあり俗に城山という。城は東北より南西に連なる四段の台地を利用して作られており、東北の高い台地から大門・当城・お台森・取手山と称したと「三重旧記帳」にある。里人の名付けたげび名であろうか。…
城主は一色家の陣代大江越中守である。…
 応永年中三重に築城した一色家の陣代大江越中守は熱心な仏教信者で、成相寺を復旧し一千体の仏像を造立した奇特の人であった。代々大江越中守を名のり、日置大和守と同族であって嗣子のない時は日置から後を継いだという。「一色軍記」には越中守は応永年中三重郷五ヶ村を領し、一色義俊の頃は四千石を領したとある。最後の大江越中守は弓木城の陣代として智謀にたけた武将であり、奮戦して天正一○年(一五八二)九月二八日弓木城で討死した。したがって三重城は応永年中より天正十年まで約一九○年間続いたのであり、大江氏は三重谷の豪族であった。…
 右のことから考えると、長年にわたって三重城森本城および森本城のすぐ北の明田城(森本城の支城か)の三城砦は大江越中守の占拠する所で、「御檀家帳」はそのうち三重・森本二城主をあげたものであり、また、「田数帳」はその二城主の領地を記したものと考えられる。「三重郷土志」は当城山(森本城)の条下に「ともかく我三重郷内に城居し附近をへいげいしたるを見れば有名なる大江越中は之(成吉越中)にあらざるか」と記している。この推論は恐らく正しいであろう。すなわち、「田数帳」の時代でいえば少くとも成古越中が正式には大江越中守と名乗っていたと思量される。
 かように考えると、丹後旧事記等でいう三重城とは三重・森本両城を含めた名称として用いられており、大江越中守一族はここに拠って与謝郡と中郡の境の要地三重谷を固めていたのである。
 なお、大江越中守造立の千躰地蔵の中二躰を当時の主要路(大内峠は弓木城の水源地であり搦手になるので一般の通行禁止)である周枳岩滝道の関門右坂と左坂に塞の神として祀り、三重郷の安全を祈ったことも自ら諒解されると思う。また、三重郷の中心地森本興勝寺墓地に地蔵一躰を祀るのは成吉保の安全を祈願したものといえよう。〉

大内峠を下ってきたところにあるようで、三重大内城


大内峠頂上に慶応2年築造と伝える御台場がある(三重郷土志)。



民俗行事・のぼりたて
『大宮町誌』
幟立て 三重には幟立てという奇習が伝わっている。若連中は宵節句の闇にまぎれて、此所彼所より竹・木・莚・縄その他の雑多なものを集めて来て、新婚の家の前に大きな莚幟を立てる風習が、百年ほど前からつづいている。これは男子の生れることをあらかじめ祝ってのことである。その晩には当主は顔を出さずに酒肴を用意してこれを待ち、縁側などに出しておくと若者たちは夜闇にこれを呑み食いして解散する。もし幟をよろこばないか、あるいは酒肴を惜んで振舞わないけちんぼうの家にはずい分乱暴したというが、今では無茶なことはしなくなった。谷内にもこの風習があったと「三重郷土志」にあるが、大正の終り頃までですたれた。〉
祭日が書かれてないが、下の写真↓は坂根正喜氏の写真集『心のふるさと丹後U』、それによれば、5月4日〜5日。今も続いているようで、莚幟りというよりも傘や自転車とかタイヤなど柱にぶら下げる、これは「メイ・ポール」(五月柱・五月樹・五月祭)ではなかろうか。メイ・デー(労働祭)というのも元は同じ。
スラブ民族では山から木をとってきて立てるのはその年成年に達した若者で、柱を立てることによって成人と認められるという、柱に付けられたものは本来は花で、これが生命樹であることを表していないか、新たな生命をさずかること願うのではなかろうか、誰も気づかないかも知れないが、あるいは太古の生命樹信仰・世界樹信仰が今に引き継がれているのでは…
幟たて

Web上の「ウィキペディア」など辞書類によれば、5月1日に、豊穣の女神マイアを祭り供物が捧げられた。夏の豊穣を予祝する祭りと考えられている。現在では、ヨーロッパ各地で、キリスト教伝来以前にさかのぼる起源をもつ、春の訪れを祝う日として定着している。may-pole1
ヨーロッパの各地では、精霊によって農作物が育つと考えられており、その精霊は、女王や乙女のかたちで表現されていた。春、地域によっては夏といった、生育・繁殖の季節を迎える季節の祭りで、乙女たちや男女の結婚は象徴的なものとされ、それが五月女王(メイクィーン)や、子どもたちによる疑似的な結婚式へとつながって行ったという。
この日の前夜はヴァルプルギスの夜と呼ばれ、魔女たちがサバトを行うと言われている。あるいはヨーロッパにおける民衆的な春の祭りで、古い時代の樹木信仰に由来する。当時、人々は樹木の霊魂が雨と太陽の光をもたらし農作物を生育させ家畜をふやすと信じていた。このため、春になってよみがえった樹木の霊魂の恩恵にあずかろうとして、5月1日に「五月の樹」や「五月の柱」を立てて五月祭を祝ったという。may-pole2
地方によってその祝い方はさまざまで、この習慣はイギリス、フランス、ドイツなどヨーロッパ各地に最近まで残り、所によっては今日まで続いているという。
前夜に森へ行って切り出した若葉のついた小枝を自分の家の前に飾る地方もあれば、この小枝を花で飾り、五月の歌をうたいながら、みんなで家々を祝福してまわる地方もあった。森から切り出したモミや松の大木の枝をはらい、町や村の広場に立て、その先端に掲げた緑の葉に結びつけた紐を手に持って、みんなで柱のまわりを踊り、豊作・豊饒を祈る地方もあるという。may-pole3
↑↓これら世界のあちこちのWeb上の画像を見比べてみれば、世界は一つの感がある。これらは世界樹だろう、ヘビだろう。
のぼりたては、メー・ポールの丹後三重版ではなかろうか。
may pole(I think)とある
幟立ては、特に5月4日の夜がミソのようだが、この日は日本でも全国的にかつては「女の夜」と呼ばれていたことが知られている、何か強い女権と関係がある日のようである。ポールを取り囲むのは女性ばかりの様子だし、元々は日本版「ヴァルプルギスの夜」かも知れない。『ファウスト』でしか知らないかも知らない、ハリー・ポッターの世界なら「魔女の夜」か、こうした民俗は実際に今も残されている。
普段は女性が家の全権を握っているのだが、この日は特にそうであったのかも知れない。権力者側の家ではなく、庶民の農家の家の話であるが、遙か遠い古い人類の慣習を残していて、何でも知ってるつもりの現代人に挑戦するかのように問いかけてくるが、何が何だかわからない。資料などあるはずもなく詳しくは不明で、誰もたいして興味を示していないが、奇跡的に残された超古代であるのかも。
細川ガラシャさんや丹後七姫ばかりでなく、どこの女かもシカとわからないようなことよりも、もっともっと身近な自分の村の民俗も掘り下げてみると意外な女の確かな歴史があるのかも…。
walpurgis bonfire→ヴァルプルギスの大かがり火
「ヴァルプルギスの大かがり火」とある。こうなると城屋の揚松明とそっくり。
現在にまでつながるこうした伝統行事が記録されたものがないからといってたったの400年前からとか100年前からとかいった底の浅いものであるはずがないことが理解できよう。理解力が足りないからかも知れないが、対象を甘くみてはよくあるまい。

ブラウンラーゲのヴァルプルギスの夜↓





三重地名に潜むか、意外な重金属公害の先例。

「どちらにお住まいですか」と問うと、「三重ですわ」とか「鳥取ですわ」などといった答えが返ってくることがあるが、丹後人でもこう聞けば、三重県の人かとか、鳥取県の人かと勘違いする人が多い。別にこうした地名はそうした県名に限らず全国に多く見られる地名で、丹後にもある地名である。どこの三重ですか、とか、どこの鳥取ですかと聞き返さないと、とんでもない間違いが起こる。
そして地名が同じということはその地の来歴もほぼ同じではなかろうかと考えられるのである。三重は水辺だというのは現代人の一部がそう考えるというハナシであって、チグリス・ユーフラテスとか四大古代都市文明とか持ち出すまでもなく、はるか古代から人が住み、まして水田耕作しているのならどの地も水辺に決まっているではないか、なぜここだけを特に三重などと呼ぶのか、本当に水辺の意味だけかどうかは何も自明なわけではない。どうしても水辺だと言うなら、この水は飲料あるいは農業用ではないかも知れない、鉱業の精錬に使われていたほかには見ない水のあたりという意味かも知れない。
古い記録としては『古事記』倭武命の記事。
「其地より幸でまして、三重村に到りましし時、亦詔りたまひしく、「吾が足は三重の勾の如くして甚疲れたり。」とのりたまひき。故、其地を説けて三重と謂ふ。」
ここは難解らしくて、自分の足は、ねじり曲がって、三つ重ねにした餅のようになっている」とか「道が三曲りしたように」いったことから、その村を三重と呼ぶようになったという。伊勢国三重郡の地である。
また、『播磨国風土記』、賀毛郡の三重里について次のような由来が記載されている。
「賀毛郡三重の里。土は中の中。三重と云ふ所以は、昔、一女在りき。タカムナを抜きて、布以て裹み食らふに、三重に居てえ起立たざりき。故れ、三重と曰ふ。」この地のタケノコを食べて体が三重に曲がり立ち上がれなかったという。ここは東隣の滝野町には穂積がある。但馬にも若狭にも三重はあるが、古い記録はない。
伊勢と播磨は離れていて、どちらかが真似したとも思えないし、地名説話の思いつきが、普通なら思い付きもしないものであるし、しかも両者がかくも偶然に一致し過ぎたということもないように思われる、何か実際のそうした過去が語り継がれていたのではとも思われるのだが、もしこうしたことが起こるとすれば、それは何かその地に公害、重金属があるということではなかろうか。日本では、公害が避けられるようになり幸いにも体が三重に曲がった悲惨な人は見なくなったが、頭や心が三重に九重に曲がったのはゴロゴロいる、まともでシャンとした人を探すのに苦労するくらいであるが、自分でも周囲も気がついてないようだが、気の毒に日本の悪しき社会制度公害の深刻な犠牲者たちかも…
若草山に木が生えないのは大仏造立で使った水銀だ、平城京が棄てられたのはこのためだとか、近くは水俣病、これも水銀である、最も近くは「想定外でした」のレベル7放射能汚染、そんなわずか千年単位の自然の動きも想定できなかった超低脳どもに10万年間の放射性廃棄物の安全な管理ができるのか、100パーセント以上に決してありえない話であることは子供でもわかる、この国は狂っていると誰もが感じたことであろう。
丹後三重には何か鉱山があって重金属公害があった地であったかも知れない、ウラン鉱石の地でもあり、あるいは放射能汚染だったかも知れない、下流の丹後王国はそれによって滅びた、といった超意外な歴史が隠されていたかも…。
歴史は繰り返して、超愚かにも想定外でしたと、原発を大爆発させて、人類は地球を棄てなければならなくなるのかも、あるいはそんな歴史の先例となるのかも知れない三重である。
なお『丹後半島の旅』(澤潔著)は、少し北になる明田について、
〈明田南方に入(にゅう)谷がある。「ニフ」・「ニウ」には、入り込んだ谷の外に赤土の意がある。また「ニュウ」は丹生で水銀の意であり、徳川時代五十河を含めたこのあたり一円の土地が久美浜天領であり、年貢の三割を米の代りに銀納していたことからも、入谷が水銀産地であった可能性もある。〉
明田には確かに入谷の小字がある、付け足せば明田は赤田であった可能性もある、水銀朱の赤い処の意味かも知れない。水銀汚染で体が三重に曲がった地であったかも知れないような話になってきて、古い伝説もまんざら荒唐無稽と切り捨ててしまうこともできないのである。


三重は丹後の郷土史家としてよく知られる永浜宇平氏の里である。


《交通》



《産業》




三重の主な歴史記録



智恩寺(文珠堂)境内の「案内板」
〈宮津市指定有形文化財(彫刻)
石造地蔵菩薩立像(室町時代)
宮津市字文珠 智恩寺
 ここには、南に並んで二躯、その北に離れて一躯の、等身の地裁菩薩像が立っている。いずれも右手を握って錫杖を執る形を示し、左手には宝珠をささげている。
 二躯が並ぶ内の向かって右側のものは、最も保存状態が良く作風的にも優れている。背面の銘文によると、応永三十四年(一四二七)に、三重郷(現中郡大宮町)の、大江越中守(法名永松)の発願により造立された一千体地蔵の内のひとつとなるが、他に同類の作は知られていない。
 離れて立つ北の一躯は、斜めに流れる体部衣文の的確な彫法などに、優れた技法をみせるが、頭部を失い現在は後補のものと替わっている。背面銘文から、三上因幡守(因州太守沙弥祐長)の発願により、永享四年(一四三ニ)に造立されたことがわかる。
 また南のもう一躯についても、両手先ほかに欠損を受けているが、他二躯と制作年代が隔たるものではないであろう。
 これらの地蔵像については、雪舟筆の国宝「天橋立図」に、それらしい姿が描かれており、智恩寺の歴史とも関わりが深い。
 とくに、願主、造立年代を記す先の二躯については、資料的価値も高く、平成五年に宮津市指定文化財に指定されている。
宮津市教育委員会〉

『宮津市史』
〈智恩寺境内石仏  三躯 字文珠 智恩寺
石造  (南)一八四・八  (中)一六四・五センチ
    (北)一六九・七センチ
室町時代(十五世紀)    宮津市指定文化財
 智恩寺境内の、多宝塔と向かい合うところに立つ、等身の地蔵菩薩である。三躯とも右手を握って錫杖を執る形を示し(持物は別製であったとみられ現在は欠失している)、左手は宝珠をささげている。
 南の一躯は、三躯の中で保存のよいもので、また作風的にも優れている。背面に次の刻銘がある。
   願主三重郷大江越中守法名永松
   奉彫刻一千躰内特取石等身同以
   結永旨勝因者也
    応永卅四年九月十七日
 これによると、これが応永三十四年(一四二七)に三重郷(中郡大宮町)の大江永松の発願により造立された一千体地蔵の一体ということになるが、同類作は知られていない。
 中の一躯は、相好部分を割損するほか、両手先も損傷を受けている。他二躯と制作年代が隔たるものではないとみられるが、腹前の衣文を山形に作るなど、やや素人的な趣がある。背面に
  施主
    新治村清心
の銘がある。
 北の一躯は、斜めに流れる体部衣文の的確な彫法などに優れた技術をみせるが、首から上、頭部を失い、現在は後補のものとかわっていることが惜しまれる。背面に  願主因州大守沙弥祐長
   永享四年壬子四月廿七日
の銘がある。この因州大守沙弥祐長は、竹野郡恒枝保の三上因幡守で、彼の発願で、永享四年(一四三二)に造立されたものである。〉

『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
〈丹波郡
一 三重郷  廿二町五段三百卅歩内
  一町七段二百九十三歩   禅居寺
  六町一段卅六歩      竹藤右京進
  二町卅歩         榎並隼人
  一町八段二百九拾一歩   斎藤三郎左衛門
  八段九十歩        成吉越中
  八段九十歩        同三郎左衛門
  九段廿五歩        国冨兵庫助
  一町           郡使給〉

『大日本地名辞書』
〈【三重郷】和名抄、丹波郡三重郷。○今三重村及び五十河村なるべし、本郡の東偏にして、竹野川此に発源す。延喜式、与謝郡三重神社は今三重村の郡分コホリブンと字する地に在り、同式同郡木積コヅミ神社亦同村木積山に在り、此郷往昔与謝の域内なりしごとし。
宮津府志云、成相寺観音堂は、古へは二町余山上にあり、応永七年、山崩れ地裂堂塔傾倒す、此時三重の城主大江越中守家族沙弥円庵力を合て本堂を今の処へ引移すと、又九世戸文珠堂門前に石地蔵二体あり、西の方は此越中が造る処、背に銘あり「奉彫仏一千体内、等身願主、三重大江越中、法名永松、応永二十四年」とあり、又内の海菩薩岩(俗云不見猿)右坂の石像(不聞猿)男山の石像(不言猿)何れも大江氏造る所一千体の内なりと云。○或云、五十河村に長者屋敷と云ふ所ありて、大計小計二王子の牛飼の遺伝ありと、真否不詳。〉

『丹後御檀家帳』
〈中郡  たんばの郡とも申
一 見ゑの里     成吉孫治郎殿 大なる城主也
成吉殿御そうしや
 伊佐蔵人殿    城主也
           成吉新左衛門尉殿
新左衛門殿御そうしや
 野村十郎左衛門殿  榎並殿 大なる城主也
榎並弥七郎殿
〆〉

『丹哥府志』
〈◎三重村(三阪村の次、是より大内峠を越へて岩滝村へ出る)
【三重神社】(延喜式に与謝郡に在りとす)
三重の神社今酒戸古大明神と称す、伊勢酒殿の神とおなじ。
【金峯山万歳寺】(曹洞宗)
【三重長者五十日真黒人】
億計、弘計の二皇孫父を市辺押磐といふ、市辺押磐は履中天皇の皇子なり、安康天皇の崩ずるに及で雄略帝市辺押磐を殺し立つて天子となる、是時に当て市辺押磐の臣日下部使臣億計、弘計の二皇孫を奉じ、丹波余社に遁れ五十日真黒人の家に匿る、清寧天皇の御宇に播磨国司来目小楯其よしを以聞す、よって億計弘計の二皇孫初て都へ帰る、於是五十日真黒人を以て三重の長者とす。
愚按ずるに、日下部使臣は水の江浦島の人也、二皇孫皆五十日真黒人の家を居とするにあらず、蓋分れて両家におるなり、事は浦島条下に審なり。
【大江越中守城墟】
大江越中守は代々一色氏に仕へて其陣代となる。応永年中成相山崩れて諸堂傾倒せり、是時に当りて三重城主大江越中守沙弥円庵と力を合せ堂宇を再建す、九世戸文珠堂の前に等身の石地蔵二躰あり、一は沙弥祐長の所作、一は大江越中守の所作なり。天橋記の云。内海の菩薩石(俗に見ざるといふ)、右阪の石地蔵(俗に聞かざるといふ)、並に左阪の石地蔵(俗に言はざるといふ)、皆大江越中守一千躰仏の一なりといふ。
 【付録】(愛宕、荒神)〉

『京丹後市の考古資料』(図も)
大内1号墳(おおうちいちごうふん)
所在地:大宮町三重小字大内
立 地:竹野川上流域左岸丘陵上
時 代:古墳時代前期末〜中期前葉
調査年次:1982年(大宮町教委)
現 状:全壊(三重地区簡易水道配水池)
遺物保管:市教委
文 献:B019
遺構
 大内1号墳は、三重地区から与謝野町弓木へと通じる大内峠越の道に面して分布する大内古墳群(16基)、大内東古墳群(3基)のうち、丘陵の先端部分に立地する最も規模の大きい古墳である。
 墳丘は、地山整形の長径25m、短径20mを測る楕円形であり、中央に割石を用いた竪穴式石室が造られている。石室は、長辺4.7m、短辺2.9m、深0.5mを測る墓壙内に設けられており、内法で長辺2.7m短辺0.7m、高0.45mを測る。石室内には、割竹形木棺または直葬で北枕に被葬者を埋葬したと推定される。
遺物
 石室内北側よりヤリガンナ1、鉄斧1、鉄嫌2、刀子1、砥石1、京側壁際より鉄鏃3、西側より鉄剣1が出土している。
意義
 大内1号墳の竪穴式石室は、権現山古墳(144)と同様に、棺のまわりを石で囲い蓋石を架ける形態と報告されており特異なものである。網野銚子山古墳(109)や神明山古墳(15)とほぼ同時期に築造されたと推定され、当該期の三重地区を支配した首長墓と評価できる。〉

『京丹後市の考古資料』
西外古墳群(にしがいこふんぐん)
所在地:大宮町三重小字西外
立 地:竹野川上流域右岸丘陵裾
時 代:古墳時代後期
調査年次:なし
現 状:半壊(1、2号墳)、全壊(3号墳)
遺物保管:峰山高校・個人(丹後郷土資料館寄託)、市教委
文  献:E020
遺構
 西外古墳群は、南流する竹野川が北へ方向を変える変化点の右岸丘陵裾に立地する3基からなる古墳群である。いずれも横穴式石室を埋葬施設とするものと思われる。1号墳は、峰山高校の坪舎利正教諭を中心に遺物の採集が行われた。
遺物
 1号墳からは、鏡板、杏葉などの馬具のほか、須恵器平瓶が出土している。3号墳からは須恵器の出土が知られる。
意義
 西外古墳群は、丹波(中)郡では数少ない横穴式石室を埋葬施設とする古墳である。この地域には、竹野川が方向変換する狭隘部に谷内1〜4号墳、竹野川が北流する右岸丘陵に小林B1〜3号墳(228)があり、横穴式石室をもつ古墳が集中して分布する。
 古墳時代優男後葉の築造と考えられる西外1号墳は、馬具を副葬品としており、これらの中でも有力な首長墓と評価することができる。〉

『京丹後市の考古資料』
水戸谷遺跡(みとだにいせき)
所在地:大宮町三重小字水戸谷
立地:竹野川上流域左岸丘陵裾
時代:鎌倉時代後期〜室町時代
調査年次:2003年(大宮町教委)
現状:半壊(調査範囲は全壊、林道)
遺物保管:市教委 文献:B009、F261
遺構
 水戸谷遺跡は、竹野川上流左岸の比高差約20mを測る丘陵斜面に立地する中世墓地遺跡である(巻頭図版32−3)。長辺約20m、短辺約6mの平坦面上には、区画墓、集石墓のほか経塚が分布する。墓地が展開する丘陵裾には、原位置を保つものであるかは不明であるが一石五輪塔が所在する。
 調査地北東側には、経塚(SX10)があり、石組内に土師製筒形容器1口を埋納する。容器上側には、土師器鍋を蓋とする越前焼壺が置かれる。経塚両側には、拳大から人頭大の石を置く集石基SX11と拳大の川原石を置く集石基SX09がある。これらは未調査のため、造成時期、内容は不明である。経塚南西側には、自然石を用いて方形区画を造る区画墓7基が見られる。いずれも斜面を削って平坦面を造り、そこに自然石を配置する。区画墓の大半は、区画内中央に火葬骨を埋納する小土壙を持つ。火葬骨埋納地点の上面に五輪塔地輪(SX03)、像容形板碑(SXOl、04)を置くものがある。また墓の周囲には像容形板碑が散在している。
遺物
 多くの区画墓には、像容形板碑、石仏などの石造物が立てられている。石材の大部分は安山岩質のものであり、わずかに花崗岩製のものが含まれる。出土遺物には土師器皿(6、7)がある。経塚は、越前焼壷、土師製筒形容器が用いられ、土師岩皿を共伴する。
意義
 出土土器がきわめて少ないため、詳細な造墓時期は不明である。経塚は伴出した土師器皿から鎌倉時代後期の造営と思われ、これを契機に経塚周辺に墓地が展開したと思われる。区画墓に立てられた像容形板碑等の石造物は室町時代後期(15〜16世紀)のものと考えられるため、経塚→未調査の集石墓→区画墓へと変化したものと思われる。中世の墓制の実態を示す数少ない資料として貴重なものである。〉


↓こんな案内板に地図がつけられていた。
案内板(三重)
〈三重(みえ)
三重区はどんなところ?

この看板がある建物は、三重生活改善センターです。
「三重」という地名は、平安時代に編纂された『和名類従抄』という書物に記された「三重郷」がもとになっています。
この地区では、三重遺跡において弥生時代から生活をしていた痕跡がみられます。東京国立博物館所蔵の「ビクニ屋敷古墳」のガラス釧は、この地区がら明治33年に出土したものであり、全国で3例しがない貴重なものです。戦国寺代にこの地を治めていた三重城主成吉(大江)越中守は、宮津市文珠堂境内にある等身大地蔵の銘よると応永34(1427)年に千体の地蔵を造ったと伝えています。
寺は、万歳寺(曹洞宗)、薬師堂があります。薬師堂境内には、鎌倉時代〜室町時代の銘文をもつ古い石造物がみられます。また神社は、三重神社・大川神社・愛宕神社があります。
三重地区から岩滝へ抜ける大内峠は、江戸時代に参勤交代で使われた道です。幕末の黒船来航に伴う動乱期には、峠に関所と胸壁が設けられました。〉

天狗にさらわれた話

三重の小字一覧


家の奥(えのおく) 家の尻(えのしり) 大門(だいもん) 中坪(なかつぼ) 椿山(つばきやま) 法浄寺(ほうじょうじ) 兎谷(うさぎだに) 三坂谷口(みさかたにぐち) 千丈畑(せんじょうばた) ノサ 上川原(かみがわら) 内畔(うちぐろ) トチ本(とちもと) 新町地(しんまちじ) 大賀(おおが) 荒神谷(こうじんだに) をそわ 中町(なかまち) まくわ をとわ 藏谷(くらたに) 西垣(にしのかき) 後地(あとち) 年座(ねんざ) コヲナ 中島(なかじま) 宮ノ腰(みやのこし) 西ガイ(にしがい) すが谷 向嶋(むかいじま) 山辺奥(やまべおく) 山辺(やまべ) 山辺口(やまべぐち) 池田(いけだ) 片山 シデ谷 コゲ松 林ノ谷 袋ケ谷 ホノ谷 ハシカ谷 スエカ谷 ナナシガ谷 池ノ谷 ラガ鱈 桃木(ももき)ケ谷 庄(しょう)シ谷 中ケ谷 柿木谷(かきのきだに) 庄(しょう)し谷口 小ゆふね口 弘法谷口 清水(しみず)の上 大まがり 大谷口 沼ケ谷 宮ケ谷道の上 大内峠谷奥 イタダキ 宮ケ谷 大まがり すみかま 清水(しみず) かご谷 杉谷口 弘法谷 米山口(こめやまぐち) 米山(こめやま) ウシヤ 松ケ谷 松花(まつがはな) 岡花(おかばな) 五反田 渡り川 とよ詰(づめ) 向田(むかいだ) ぶし谷 ひゑのみ 火谷(ひだに) さな畑(はた) 金(かな)ふけ 深田 峠谷(とうげだに) 峠 山神(やまのかみ) 一ノ谷口 二ノ谷口 三ノ谷 四ノ谷 四ノ谷口 くわさこ口 三ノ谷奥 三ノ谷滝ノ下 三ノ谷 三ノ谷口 二ノ谷 よしそ 郡分(こおりわけ) なる 小ゆぶね ゆかり下 ユフ子(ね) 向ふ谷 ゆり 畑谷(はたけだに) ふとう 亀谷 ウラダテ 小うら立(だて) うらだて 北谷 中が谷 南谷 大石谷 ほどがさわ 石バシリ ふじの木 石原 宮ノ向 大志(たいし)やく 蛇谷(じゃだに) 西外(にしがい) 大地(おおち) 大内 水戸谷 大下 下垣 宮の前 平尻(ひらじり) 宮腰(みやこし) 宮前 中島 向島 山辺奥 山辺 山辺小谷(やまべおだに) 山辺口


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『大宮町誌』
その他たくさん



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