丹後の地名

大宮売神社(おおみやめじんじゃ)
京丹後市周枳


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京都府京丹後市周枳

京都府中郡大宮町周枳

京都府中郡周枳村

大宮売神社の概要




《大宮売神社の概要》

大宮売神社本殿
丹波郡は丹後国も含む古大丹波国の中心地と考えられている、そこでの唯一の名神大社で、しかも二座(大宮売・若宮売)である。与謝郡温江には名神大社が二社あるが、ここは一社二座である。のちの行政の中心地は、ここを避けて丹波郡丹波郷(峰山駅のあたり)であったろう、だから丹波国などとその地名が拡張され呼ばれてこちらが中心のように思われているが、丹波国の古代よりの、弥生よりの祭祀(また政治)の中心地はここで、そこで信仰された飛び抜けて大事な神様を祀る社であったと思われる、女神様である、古丹波国の大将は女性だったのかもなどと思われる。
豊受大神そのものを祀る神社は丹後の名神大社にはない、意外と豊受大神とは縁遠くなっていったものか、伊勢外宮の神様となられては恐れ多いのかのようで、この社も豊受大神を祀るより身近な巫女を祀った神社であろうか。
周枳社(宮)とも呼ばれるから、元々はその名ではなかったか。中央の支配者側も大丹波国の心臓を重要視しただろうと思われる、大宮売とかその祭神等が整備され、早くから国家の祭祀体制に組み込まれていったものと思われる。別に証拠もないので思うしかない。
しっかり国家的な枠組みに組み込まれてしまってからの話は私はあまり興味がない、もっと古い不明の時代が知りたい、古丹波王国の主神格ではなかったかと思われるの時代を考えてみたいと思うが、手に負えるか、まずは一般的に見ておこう。

祭神は大宮比売命・若宮比売命(大宮売・若宮売)とされる。「延喜式」神名帳に丹波郡「大宮売神社二座名神大」、同書神祇(臨時祭)にも「大宮売神社二座」とみえる。 売はメと読んで女の意味で、女神様を祀った社のようである。
大宮売神社の参道入口
間人街道に面する大鳥居から、長〜い参道、この奥に本殿がある。
大宮売神社参道
今も広い境内だが、神領は広く、中世はそれが荘園化していたようである。「新抄格勅符抄」に「大宮F神七戸丹波」、「三代実録」貞観元年(859)に「丹後国従五位下大川神、大宮売神並従五位上」。
平安時代末には社領を含めて弘誓院に施入され、安元2年(1176)八条院領目録に「弘誓院御庄ゝ」として「丹後国周枳」とみえ、承久4年(1222)太政官牒に弘誓院領八ヵ所の一として「壱処字周枳社在丹後国丹波郡大宮部大明神」と記される。
丹後国田数帳によれば、中世の周枳郷六四町四段二五〇歩のうちのほぼ半分にあたる三〇町五段一〇歩が大宮売神社の神領であった。
丹後二宮とされるが、いつからそう呼ばれるのかはわからない。丹後の場合は一宮も三宮も、長〜い松並木の参道を持っているよう。地図を見ていると、二宮の参道は本来はもっと続いていて、左坂の先端崖下あたりから続いているような、もう一本東側にあったような感じもする、ずいぶんと広大な境内があったのではなかろうか。

藤原時代を下らないとされる神像が2体あって、1体は男神坐像で高さ約50センチ、1体は女神坐像で高さ約41センチあり、木目に胡粉を施した跡が残り、白衣の残存とされる。
『丹哥府志』はこの神像の模写を載せていて↓、白衣で左褄=左前だといい、養老以前は皆そうだったという、その姿は貫頭衣の和式てはなく、また中国式でもなく、朝鮮式・騎馬民族式である、渡来人式である。

大宮売神社の神像大宮売神社の神像
『西丹波秘境の旅』は、「丹後二宮大宮売神社(通称新羅神社)にも、朝鮮風の服装の神像(オオミヤノメ)として祀られている」としているし、さらに大宮売神社は新羅神社とも呼ばれるというし、少し北になる荒山にも新羅神社があった(今は廃社)という。丹後の心臓部のさらにその心臓になる、この神社にはこうした歴史が隠されている、何も丹後だけではなく、日本の心臓中の心臓はどこもほぼすべてがそのようだが…
また『中郡誌槁』も、この神像を模写している。
 〈 按、此社に丹波道主命を祀るといふは非なり諸書の説に就て見るべし又神体を男女二体とするも誤れり共に女体なり地紋などあるなし胡粉のあとはあり又左衽にあらずといふも可ならず慥に一体は左衽の御姿なり本書の原図粗略にして大に誤れり今謹みて神像を拝模し茲に付す  〉 
高松塚古墳壁画の一部
死者に着せるのが「左前」、事業が「左前」とか、今では「成熟度が低い」、文明のレベルが低いと悪口を言っている中国式の右前に改められていて、「左前」は忌まれる。悪口を書いている文字はどこの国の物か、「歴史も知らない者」はどちらか、古い話となればヤブの中、古い話では中国相手では勝ち目はとうていない、頼りの新しい国のアメリカも横向いている、「天に向かってツバする」「やぶ蛇」のドシロートの一見カッコよさそうに見えた大愚かも知れない。
人物埴輪はすべて左前、高松塚古墳壁画も左前で↑、(4名の人物が描かれているが、この像が一番よくわかる。今の和服は男女とも右前だが、女性用洋服は左前である)。丹哥府志が言う通りのようである。
現在のシマチョゴリも右前のようである。白衣はそのままかも…
シマチョゴリシマチョゴリ
但東町の「日本・モンゴル民族博物館」でモンゴル辺りの民俗衣装を見てきた↓。
しかし、襟の合わせ方がわからない。この展示品の場合は、立襟は重ねようがないほどに小さく作られていて、重なっていない、それどころか左襟と右襟との間に隙間があり、どちら前にも重ねようがないように見える。伝統的には左前に合わせるそうである。着物そのものは右前に巻いているように見える。チャイナドレスのように見えるが、意外や、この服装を原型にしてチャイナドレスがつくられたという。カッコええのは騎馬服という軍服の血統を引くためか。
『丹哥府志』が養老以前はみな左前だった、というのは
『続日本紀』の養老三年(719)二月壬戌(三日)の条に、
初めて天下の百姓をして、襟を右にして、職事の主典已上に笏を把らしむ。…
と見える。右襟、右前にしたと記録している。前年帰国した遣唐使の知識で唐朝の制度を習い、古風を改めたものだろうとされている。だからそれ以前は左前であったことが正史によっても確かめられる。
舞鶴の平の八幡神社にも同じような木造が残されていて、『舞鶴の文化財』は女性像が左前としている。これは誤りだろう、どう見ても右前であるし、制作年代を平安後期としていて、言っていることが矛盾している、左前であろうとは思えない。


男神像とはどうしたことであろうか、当社は男神は祀っていないはずなのだが、丹波道主命像か…、神像が男か女かは慥かにわかりにくい。
「何で朝鮮を拝む、オマエらは天皇陛下だけを拝んでおればよい」と官憲が怒ったというが、そんなバカはバカゆえに滅びた、これは日本の権力の古来からの思い上がった観念であり、一般の国民には関係のない見方で、朝鮮だろうが何も関係がない、当社を祀る氏子たちのご先祖だと見られる。

こうした事を書けば、あるいはここの神主さんが怒るのでは、といった心配はないようである。一般に神社は右翼で皇国史観に立ち、朝鮮などは根拠もなく見下しているのがアタリマエ、自分が祀る神がどこの神かとかは考えてみたこともないのがトウゼンのオカシナ世界のようだが、天皇側の神を祀る神社ならともかくも、そうでもない地元庶民の神を祀った神社まで、そんなことはマネしなくてもよかろう、当社はそうした王権側いいなり史観の立場ではないようである(エライ)。中央公論社の『朝鮮と古代日本文化』という書があって昭和53年に発行されている。巻頭言のための座談会というのがあって、上田正昭・金達寿・司馬遼太郎が座談会をしている。
 〈 「 丹後の国二宮の大宮売神社の七十を過ぎた御老人の神主さんから長い手紙がきて、「是非来い」と言うんです。ぼくが丹後のほうを書いた後なんです。城崎に行く途中寄ったんですが、その神主さんが言われるのには、「神主というのは皇国史観があたり前だったが、このごろはそれがばからしくなった」というので、びっくりしました。神社の由緒書も新しく東アジア的視点で書いてあるので、「これはだれが書いたんですか」と尋ねますと、御本人が書いたと言うんです。」  〉 
とある。だいたい大宮売と書いてどうしてオオミヤメなのか、「売」は「比売」とかいてヒメと、或いは「売布」と書いて「メフ」と読むが、「売」はどうして「メ」と読めるのか、中国式でも和式でも読めないではないか。古い万葉仮名の甲類のメで、日本ではそうした万葉時代だけの当時のたぶん渡来知識人(たぶん百済系)たちの用法、日本の漢字の一番初期の用法でいま読める人はめったにあるまい、あるいは朝鮮式でなかろうか、と考えているのだが、ワタシにはその知識はない。

「神名帳考証付考」には、
 〈 丹後大宮売神社神像二体(弘化二年四月二十二日自下野国芦野人戸村忠彌撥之、春村)丹後国丹波郡周枳村所祀神像二座(称二宮)(中略)相伝是崇神天皇之時、丹波道主来此邦而始祀之云(神像二体を図すは丹哥府志の図より可なり然れとも一体を立姿に描くなど頗る正確ならず但し一体は左袵に図けり二像の間に記して曰く一曰豊保食命長一尺八寸村人以為氏神と宮津稲荷祠官図する所也)  〉 

本殿前に鎌倉時代の石灯籠2基ある。製作は異なり、向かって右側は竿、足のところ、その中筋の上部に「徳治二年丁未三月七日」の刻銘と、中節の下に「大願主」「進」と判読されるという。花崗岩製だが それでも風化が激しくてどこに刻まれているのかもわからない、「歴史の風化」とは実際にこうしたものと目の前にするような気がしてくる…
石灯籠(大宮売神社)
鎌倉時代を下らないという「正弌位大宮売大明神 従一位若宮売大明神」と併記した古額があって、一説に小野道風の真跡と伝える。
銅製磬(幅28センチ、高さ15センチ)に「周枳宮 承安四年」の刻字がある。
「室尾山観音寺神名帳」「丹波郡二十九前」には、「正一位 大宮賣(ウリ)明神。「従一位 若宮賣(ウリ)明神」と見える。この時代でも神階は特別に高い。神名帳の時代にふられた訓かどうかはわからないが、「賣」に「ウリ」と誤訓をつけている。第一の知識人であった坊さんでも読めなかったようである。



大宮売神社祭祀遺跡
大宮売神社
大宮売神社の境内から弥生後期を中心とした遺物が出土した。
↑特にこの写真のあたりが多いという。
遺物?
↑社務所に並べてあったもの。これらがそうだろうか。
出土品のおもなものは、多数の弥生式土器(後期)と玉類・石製模造品・鉄刀身などである。このうち石製模造品は40余点あり、いずれも青灰色の滑石・蝋石でつくられ、勾玉・円形鏡形品・鏃形品・環状品・管玉・小玉などで、これらが粗製であり、模造品の性格をもっていることが指摘され、宗教的意味を有する遺跡とされる。また多くの土器が小型で土製模造品と思われ、少なくとも実用品でない点から祭器かと推定されている。

『大宮町誌』
 〈 大宮売神社遺跡   周枳小字北村
 大宮売神社は延喜式にも「大宮売神社二座大名神」とある古い神社である。その所在地周枳もまた、往昔丹波を大嘗会の悠紀主基国に定められたことがあり、その時周枳を主基田とされた由緒から周枳の名を使うようになったであろうと言われる。和名抄にすでに周枳の郷名が載っている。
 その境内からは土器・玉類・石製模造品・鉄刀身等がすでに発見されている。明治四四年本社の手水鉢建設のための基礎工事の際土中から土器類を発掘したのが最初と云われ、その一部は神社に保管されている。土器類の出土範囲は境内の小溝を繞らした方形に近い特殊地域でそのどの部分にも存在するが、とくにその西半分に多く、拝殿の前の石鳥居の辺がもっとも著しいと云う。その出土状態は地表下一尺五、六寸は帯褐赤色の砂土層で、その下方約二尺は黒色土壌であり、この層の内に土器その他を包含しており、さらに下方の砂利を混じた粘土層には遺物はないと報告されている。この遺物出土層は左右前後に水平に続いていて、その状態は弥生式石器時代遺跡に見るのと甚だ似ており、大正一二年、梅原末治発掘の際にも鏡形石製品・璃瑠の勾玉各一個および土器多数を発見している。
 この報告書によると概略次のようである。
一、石製模造品は総数四十数点あり、何れも青灰色の滑石または鑞石で作られており、内に勾玉・円形鏡形品・鏃形品・環状品・管玉・小玉等がある。勾玉には長さ一寸五、六分の大形扁平の粗製品および磨研の度のやや高い丸味を帯びた精巧なものおよび小形の模造品がある。円形の扁平品には大きさ径一寸、厚さ一分内外両端に小孔各一を持つ鏡の模造品と認められるものがあり、環状品は二箇発見されており、磨研の度はやや良く表面に滑沢があり、中央に貫通する穴の周囲は一端高くやや紡錘車に近い断面を持ち、大きさは何れも径八分余り厚さは一分である。鏃形品は長さ一寸四分断面は三稜形で本に近く小孔を穿っている。
一、玉形の滑石製品には勾玉の外に管玉と小玉とがある。小玉は臼形の極めて粗製品であるが、管玉には長さ一寸二分、怪三分六厘の潟緑色で質堅牢、精巧に磨き実用に供したと思われるものがある。この外瑪瑙の勾玉および玻璃製小玉等も右の中に混って出土している。
一、土器の類は右にくらべ包含量も多く器形のほぼ完全なもの八十個を出土している。形式は一個の陶質のハソウの外は全部弥生式士器の系統である。これらの土器は高坏のようなものもあるが、大部分は皿・鉢・壷の類で器形は小さく大部分土くね厚手に属し、何れも実用の器としては不適当な品である。恐らく家具の模造品として作られたものと見られる。この種の特質を備えた遺品は大和国三輪馬場古墳に見られる外はその例少く珍らしい遺物であり、特に神社の境内より出士したことは特記すべきである。
 以上の出土品よりこの遺跡は古墳や住居址ではなく、大部分が祭祀用の模造器具であるとみられ、特殊な宗教的意味をもってこの古い神社の境内において製作されたものと推定される。
 右のように大宮売神社の境内遺跡は有名な大和国三輪神社と同じ祭祀用模造品を出士し、神社の古さとともにその由緒を物語るものとして今後も大いに注目研究すべきものである。 

神社社殿などない時代から、このあたりが祭祀の場であったようである。何を対象にして祀っていた場所なのか。山とか岩とか川とか、特にはそうしたものが見当たらない。高い樹木などでもう失われてしまったのか。どこへ神を迎えたのだろう。
本殿背後の禁足地
本殿背後は禁足地で、森になっているが、そこが祭祀の対象なのだろうか、祟りがありそうで発掘するわけにも行かないから正体は不明だが、出土したものと同じようなものがあるのではなかろうか。古代人はここに何か特別な霊威を感じたのかも知れない。「マムシに注意」と書かれているだけで、グルっと一回りしてみても何か特別に見当たりそうにもない、禁足の杜にはマムシが多いのか、あるいはそれが神体だろうか。
このあたりの広い全体が神域だったのか、それとも誰か巫女的な人物が住んでいて、その人を祀ったものだろうか。
あるいは降臨場所はここではなく、降臨地からここへ移動させて、ここは祭事を行っただけ場所なのか、その方があたっていそうに思えるが、それならここは「まつりごと」の地、古代の政治の地、行政府・立法府の地ということになる。

丹後は古いためか、こうした「エックス・ファイル」ばかりを私は作っているような気がするのではあるが、わずかばかりに持てる知識を総動員してもわかることは知れている、何でもわかってますよ風な顔をしたり、あきらめたりせずに一歩一歩と解明に取り組むより道はなかろう。迷宮に迷い込んだが最後、生きて出るのはムリかも知れない。絵馬
祭神の「大宮売神」は、記紀には名が見えないが、『先代旧事記』や『古語拾遺』の、→この時の記事にわずかに見える。
また延喜式の「宮中神卅六座」の「神祇官両院坐御巫等祭神廿三座」の「御巫祭神八座」に大宮売神と見え、「造酒司坐神六座」にも大宮売神社四座と見える。
ずいぶんと古そうな神様で、丹後のここと宮中でしか祀られてはいない神様である。保食神的で酒造りの神様のようで、豊宇加能売神と性格が似ることになる。こうしたことで、元々は丹後のここの神様が後に宮中に取り込まれたのではと考える史家もある。
『郷土と美術87』(1986.1)の「古代の酒と丹後」で小牧進三氏は、
 〈 丹後の大宮売神は、全国でも特異な弥生遺跡が集中性を見せる竹野川の中上流域に位置し社地から鏃、環状品管玉、小玉、瑪瑙、匂玉、ガラス小玉、出土の弥生の祭祀遺跡として著名で出土品からしてその祭祀は弥生後期にさかのぼり、吉田東伍が指摘するよう、丹後から宮中神として大宮売の神が取入れられた公算が極めて大きいこの重要な神が宮中と丹後にしか見えないこともその証左であるといえよう。  〉 

『京丹後市の伝承と方言』は、
 〈 …ところが、大宮売神社(大宮町周枳)だけは、祭神が「大宮売神・若宮売神」という女神二座である。丹後国全体から見ても、大宮売神を祀る神社は珍しい。阿良須神社(舞鶴市)が例外の一つ(『丹後旧事記』による)。伏見稲荷大社の主祭神「倉稲魂」の相殿神の一柱でもある。『二十二社註式』では、「水の神」としている。何より注目すべきは、大宮売神は、宮廷で祭祀される神であったことである。
 大宮売神は、宮廷の神として造酒司六座の中の四座を占めている。やはり酒の神であった。「水の神」とされるのもその故であろう。では、豊宇賀能売命と大宮売神とは、どういう関係であったのか。伏見稲荷大社の倉稲魂(穀物神)と大宮売神(造酒神)という関係と類似していることが注目される。
 宮中の祭祀において、御食津神などの大膳職坐神と、大宮売神や酒殿神などの造酒司坐神とが区別されているが、豊字賀能売命(豊受大神)は前者の神で、大宮売神は後者の神という関係にあったのであろう。
 両者は、丹後において祀られる神と祀る神の関係にあったと考えられる。門脇禎二は「『旦波(丹後)王国』と『倭王国』−丹後の大宮売神・羽衣天女−」 (『古代日本の「地域王国」と「ヤマト王国」上』)で、周枳郷の大宮売神社の近くに女性を単独で葬っていた大谷古墳や素環頭鉄刀が出土した古墳などが存在することを重視し、大宮売神は土着の女王的な女神で、国魂の神(国つ神)であったとし、豊宇賀能売命は真名井に天より降臨した神(天つ神)という違いがあったと説いている。  〉 



大宮売神社の祭礼

 祭礼は旧暦8月2の午の日であったが、丹波郡一円が10月10日になり、最近は10月の最初の土・日で、笹ばやし・神楽・三番叟・太刀振などが奉納される。
↓「エーイ」と気合いを入れて御輿が出るのは1時くらい。
御輿出発
石明神までの渡御。神様は最初にこの神殿から御輿に乗り移られるが、本当は逆なのだと思われる、石明神から神様を迎えて、ここでお祭りをして、そしてもう一度渡御をして、今度は石明神まで送る、それが本来と思われ、御輿の巡行は二度あったろう。『大宮町誌』は、
 〈 祭の日には御旅所(石明神)へ神輿の渡御が行われる。振鈴の合図により集合し神川で禊を行い、御旅所に到着して供饌・祝詞奏上・撤饌等の儀が行われ、終って本殿に還御、社前で各種催物が演出される。神輿をかつぐ人の服装は神社備え付けの木綿の白衣に(○の中に二)の定紋入りのものを着、白布の鉢巻白足袋の装束である。担ぎ棒に文久三年とありこの時の新調と考えられる。  〉 
子供御輿もある。
子供御輿
子供御輿
子供御輿

↓この子たちは朝早くから広い氏子圏を決められた順路で巡行してくるわけだが、平成24年は一時はどしゃ降りになった、「子供が風邪ひかへんか」と心配する人もあったが、見れば濡れてない、どこかで雨宿りできたのかも…
巡行

巡行
↓長い巡行が終わり、皆が長い行列になって本殿前へ戻ってくる。3時過ぎである。
巡行が終わり皆が神社へ戻ってくる
笹囃し↑。太刀振り↓。
本殿へ戻ってくる
↑綺麗な和服の出迎え。さすがに縮緬どころ。
御弊の奉納
↑一軒一軒が御弊を奉納しにやってくる。祭に参加する人はみな背中に一本さしている。
↓家々には「御神燈」が灯される。親類縁者が集まり、にぎやかな家もあるよう…
御神燈


本殿左手にある舞殿で奉納神事が始まる。大人数が登壇するには舞殿は少し手狭まなのか、前部に座敷がつけ加えられている。3時30分くらいからである。ちょっと見ものが並ぶ、境内はこのころになると人が混んでくる。

笹囃し
笹囃し
鼓笛隊のように祭礼全体の雰囲気をずっと盛り上げている、華やかな笹囃子の奉納から始まる。『大宮町誌』は、
 〈 笹ばやし
 笹ばやしは一一〜一二才の少年の新発意一名、太鼓打一○数名と大人の囃し方(歌い方)二○数名で構成される。しんぼち太鼓打の服装は和服・筒袖・袴・白足袋・厚歯下駄に白縮緬の襷をかけ襟に御幣を一本さす。太鼓打は白布で締太鼓を前につけ桴には金紙を巻き五色の総をつけて、それを一本ずつ左右の手に特つ。しんぼちは布の袋入りの棒先に笹二、三○本を束ねてつけ、それに小鈴・瓢箪・鍋つかみをつけたものをかつぎ、五色の短冊で飾りつけた丸団扇を右手に持ち飾り編笠をかむる。囃し方の大人は羽織、袴で御幣を襟にさす。笹ばやしの演目は弁慶踊・上様踊・月待ち踊である。芸能祭等に度々出演している。…  〉 


もともとは大人が行ったものと思われるが、笹囃しは丹後では、このあたりと舞鶴あたりに分布の中心があり(花おどりと呼ばれるものが伊根町あたりにある)、今に伝わる最も古い中世の風流踊り系の芸能文化である。本来笹囃子は太刀振りとセットのものとも考えられているが、大宮売神社の太刀振りは後に籠神社から学んだものといわれる。

神楽
噛み獅子(大宮売神社)

噛み獅子(大宮売神社)
ここの獅子はよく噛む。座敷から乗り出してきて子供達の頭を噛む。噛み(神か)獅子か、噛んで酒を造った神様の社の獅子からか、噛まれるとなにがしかの神徳を授けられるので、親御さんは子供を噛ませようとする、子供はおびえて泣く。
『大宮町誌』
 〈 神楽
 二番目に神楽が奉納される。由来は不詳であるが、昭和四三年府立勤労会館で行われた京都府主催第一回「ふるさとの芸能まつり」をはじめ、諸所に出演している。この演技は大人の役で、剣の舞・鈴の舞は一人(尻取りの子供がつく)、おこりの舞は二人(一人は尻にはいる)で演ずる。他に囃し方があり、俗におやじ又は、親方と呼ぶ人の指導に従って演ぜられる。親方は三つ巴の紋付で大鼓と締太鼓を細い桴で巧みに打ち調子をとる。囃し方の中に笛方六、七人があり、横笛を吹き演技を助ける。なお、周枳の神楽には天狗はつかない。獅子頭は金色の眼と歯を持ち木製朱塗の大型のもので、それに紺地に紅白の円い小紋のついた布のゆたんをつけ、その襟首には紙の白毛がついている。
 舞は剣の舞・鈴の舞・おこりの舞である。剣の舞は祓いの舞・清めの舞で、錦の袋入りの宝刀を口にくわえ四方舞をし次いで剣を抜いて大被いをし四方を清める演技をする。鈴の舞は獅子頭を頭上にのせゆたんを首までたくし上げて巻き、右手に鈴左手に御幣を持ちリズムに合わせて演技を行う優雅な舞である。おこりの舞は怒り狂う舞で、両眼を怒らし大口を開け毛を逆立て全身をふるわせて乱舞する舞
である。  〉 


「剣の舞」「鈴の舞」は太神楽系だろうが、「怒りの舞」は何だろう。ここの余興ではじまったものかも…

このころ御輿も帰ってくる。
御輿が帰ってきた




三番叟





少年たち三名によって演じられる。この社ばかりでなく三番叟はよく少年によって演じられるのを目にする。小学校の学芸会でもあるまいし何で未熟な子供に演じさせるのかと、あるいは現代人らしく疑問に思われるかも知れないが、この年齢の子供は神様に近い存在で、稚児は神様の化身、生き神様であると考えられていたものと思われる。祇園祭にはかつてはすべて山鉾に稚児が乗っていたそうだが、その稚児たちは神として、あるいは神の使いとして乗っていた神的なものであった、祭礼行事には稚児は欠かせなかったようである。ここでもこの少年たちは生き神として演じているものと見なければなるまい。選ばれた時から彼らは神として何か特別な社参や物忌みなどが課せられているのかは不明である。『大宮町誌』もあまり突っ込んではいないが、
 〈 三番叟
 演技は七、八才から一二、三才までの少年三人で行われる。一番叟は最年少者で二番叟、三番叟の順に年長になる。創始期は不明であるが、最も古代の俤を伝えていて床しい芸能である。昭和四四年三月、府立勤労会館における府主催の「芸能まつり」にここの三番叟が出演しその様子は近畿テレビから放送された。
 一番叟は花かづら(舟かづら)をかむって額に黛をつけた稚子姿であり、二番叟、三番叟は共に狩衣に烏帽子をかむり白布以て鉢巻をして長く後に垂らし、扇子を持ち白足袋をはき、かつ三人とも紫紺色の股上げの高い袴をはく。演技の時は二番叟は白い翁面をつけ、三番叟は黒い翁面をつけ、かぐら鈴を持つ。囃し方は大人の役で鼓と拍子木を打ち、次の歌詞で演出する。…
右の一番叟二番叟の歌詞は謡曲「翁」と殆ど同一で、前半が一番叟、後半が二番叟の歌詞となっている。謡曲 「翁」の中には延年の舞の歌
 鳴るは滝の水 日は照るとも 絶えずとうたり とうとうたり
があり、又催馬楽の「総角」
 あげまきや とうとう 尋ばかりや とうとう
 離りて寝たれど 転びあひにけり とうとう
 通ひあひにけり とうとう
が取り入れられている。又「とうとうたらりら………」は笛の譜ともあるいは翁昇天の意の語とも言うが、古い伝統を持つ言葉らしく詳しくは不明である。
 三番目の三番叟はかけ合いを交えた狂言風の軽みがり余興的な面を持つが、舞そのものは伝統をもつすぐれたものである。  〉 



太刀振り
太刀振り
最後に太刀振りが奉納される。もう5時をまわっている。これは籠神社などで見るものと同じもののようである、太刀というのかなぎなたのような刀である、同じ刀身でも柄の長さが違えば剣にも槍にも、刀にも薙刀にもなるもののよう。年少から何組かに分かれて本殿前広場で奉納される本振り、太刀を足下をくぐらせるジャンプ↑を繰り返しできるのは、一番年長組熟練者だけである。『大宮町誌』は、
 〈 太刀振り
 太刀振りは以上の三神事よりおくれて取り入れられた。昭和五一年八月奈良県文化会館で催された第一回「全国子供郷士芸能大会」をはじめ他にも出演した。
 少年三○名程で構成され、袖付きの着物、たつつけ袴・白足袋・白襷・草履ばきの若々しい姿で行われる。二尺の刀を四尺程の棒に仕込み紙飾りを巻いた太刀を振りかざし、楽台の太鼓・笛に合わせて跳びかわす演舞は勇ましく美しい 種目は道振り・宮振り・本振りの三種で、道振りは道中、宮振りは宮の入口、本振りは本殿前でそれぞれ奉納される。
このように周枳では笹ばやし・神楽・三番叟・太刀振りの四種目が奉納される。このように祭礼に四種目も演ずる所は全国的にも珍しく、さすが古い歴史と伝統を持つ丹後二の宮の堂々たる貫禄を示すものである。  〉 


郷土文化の基盤が厚くてずいぶんとしっかりしている感じを受ける、さすが丹波郡きっての神社と思わされる。拍手!



大宮売神社の主な歴史記録


『大日本地名辞書』
 〈 【大宮売神社】神祇志料云、今倉垣庄主基村にあり、〔神社覈録〕蓋天太玉命の久志備に生坐る大宮売、及び若宮売を祭る、此は天照大神の御前に侍ひ仕奉る神なり、〔古語拾遺並本社伝説〕大同元年、大宮(口編に羊)神に神封七戸を充奉り。〔新抄格勅符〕貞観元年、大宮売神授位、〔三代実録〕延喜式名神大社に列る、按に延喜式神祇官西院に、大宮売神また櫛石窓神豊石窓神を祭れるに丹波国に櫛石窓神二座あり、此を仲資王記に神祇官に坐神の本社也といへるに拠る時は、かの大宮売神も此国より遷し奉れるにやあらむ、此神等何れも天神天窟戸に隠れ給へる時、御功烈ます神にして、此二国に斎き奉らるるを、又神祇官に遷祭るも、深き故ある事なるべし。
補【大宮売神社】○神祇志料〔重出〕二座、今、倉垣庄主基村にあり(神社覈録・神社明細帳・宮津藩神社調書)蓋天太玉命の久志備に居坐る神大宮売神及若宮売神を祀る(古語拾遺・延喜式・若宮売神拠社伝説)此は天照大神の御前に侍て仕奉る神なり(古語拾遺)  〉 

「丹後国式内神社取調書」
 〈 大宮売神社二座 名神大
○【三実】貞観元年正月廿七日甲申丹後国従五位下大宮売神従五位上 一本次第 大宮売神社 波彌神社 咋岡神社 稲代神社 名木神社 矢田神社 比治麻奈爲神社
【格勅符】大宮@神封七戸丹波 寛按波疑後之訛【覈】主基村【明細】周枳村祭神大宮売命若宮売命祭日八月二午日【豊】同【道】所在同【式考】大宮能売神ノ霊璽モ崇神天皇ノ御代ニ天照大神ト共ニ此国ニ入御シテ周枳村ニ長久ニ鎮座マシタルナラン丹後旧事記ニ丹波郡主基地神戸村大宮売明神ノ地領二千五百石ノ内ニテ御饗所ノ宮ト云是ヨリ主基ノ社マデノ地ヲ神野ト云則祭祖ノトキノ旅所ニテ行宮マタ幸宮トモ云社アリ若宮売神領ト合セテ四千石トアリ和名抄神戸トアルハコノ神戸ヲ云ナラン)(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志)  〉 

『丹後旧事記』
 〈 延喜式に曰く丹後国年中元本の貢物廿四種(其品略之)。同書に曰く神社六十五座、内大社七座、小社五十八座。往昔丹後国は神田仏閣領多し丹波郡主基の里に正一位大宮売大明神従一位若宮売大明神と號る神社あり、此神は当天降の二神にして延喜式の大社也、崇神天皇治天下御世依勅諚田を定む。職員令に曰く正一位の神は地方八十町四方を給るの法例にして則二千石の領名なり従五位の下は八町四方の格にして二百五十石を給るの領名なり六位以下の神は切米なり王代の掟如斯なる丹波郡主基の里は四千石の神田あり。
大宮売神社(名神の大二座)(主基村)。祭神=正一位大宮売大明神、天稲倉豊宇気持神也。従一位若宮売大明神、豊宇賀能(口編に羊)命也。丹波郡九座一神の大社なり正一位大宮売神往昔神田八十町四方にして二千五百石賜る。従一位若宮売神領千五百石合て四千石の惣伝也。  〉 

『丹哥府志』
 〈 ◎周枳村(河辺村の次、古名主基、今周枳に作る)
【大宮売神社】(名神、大)
延喜式に載せたる大宮売神社今正一位大宮売大明神、従一位若宮売大明神と称し、二神を合せ祭る。職員令曰。正一位の神は八町四方の神田あり今高二千五百石に当る、此神は二神合せて高四千石の神田ありといふ。額の文字は小野道風の筆なり、今に存す。抑此神社は何の神を祀るや伝記詳ならず、竹野郡黒部村に大宇賀神社あり、今大宮売大明神若宮売大明神と称す、社記に云丹波郡主基村より勧請して丹波道主命を祀るといふ、是によってこれを見れば此神社に丹波道主命を祀るや明なり。今茲辛丑の夏恭しく開扉してこれを拝するに、誠に古代の尊像なり、二躰相並びて一は男神なり一は女神なり、右裳に地紋ありや其有無明ならずといへども、木理に胡粉の染みたる處あればまづ白衣かとも覚ゆ、唯色のよく分りたる處は鬘つらの黒色なり、実に古代の様を今日親しくこれを見る。先是養老以前は皆左褄なりといふ説往々これを聞く、既に主基の宮の神躰は左褄なりとて是を以て証とするものあり、今其尊像を拝して初て其感を解きぬ、これを写すもかしこけれども其感を解かんが為に略御影をかたどり考証の一助とす。
【荒塩大明神】
風土記に所謂天女の八人の一なり。
【天橋山周徳寺】(曹洞宗)
【久成山妙受寺】(日蓮宗)
【荒須帯刀城墟】
荒須帯刀は足利の浪人なり、又横田伝太夫といふもの爰に居る事あり。
 【付録】(弁財天社、石明神、八幡宮、荒神、薬師堂)  〉 

『中郡誌槁』
 〈 (丹後旧事記)大宮売神社(名神大二座)主基村
祭神 正一位大宮売大明神 天稲倉豊宇気持神也
   従一位若宮売大明神 豊宇賀能(口編に羊)命也
丹波郡九座一神の大社なり往昔神田八十町四方にして二千五百石賜ふ従一位若宮売神領千五百石合四千石也総伝也(一本神名の額小野道風の真筆なり)
神戸里丹波 主基地神戸所大宮売大明神の神田二千五百石の内にて御饗所を神供ノ宮と云是より主基の社地を神野(かんの)と云是祭礼の旅所となりとて行宮幸宮(こうのみや)など伝へし社あり若宮売神領と合せて四千石の神領と伝ふ幸宮は周枳と河辺の間にありて河辺分の地にて川の辺りにある小社なり
(丹波丹後式内神社取調書)大宮売神社(名神大)○(三実)貞観元年正月二十七日甲申丹後国従五位下大宮売神従五位上、(格勅符)大宮(口編に羊)神(封カ)七戸(丹波)、(寛按波疑後之誤)(覈)主基村(明細)周枳村祭神大宮売命若宮売命 祭日八月二午日 (豊)?(?)所在同(式名)大宮能売神の霊璽も崇神天皇の御代に天照大神と共に此国に入御して周枳村に長久に鎮座ましたるならん丹後旧事記に云々(前出)
(古風土記逸文考証)奈具社の条に(古事記伝を引き)古へは丹後も一つにて丹波なりきさて其国同郡に(豊受り神と同郡に)大宮売神社二座名神大と式になり此神も神祇官に祭る八神社内にて同国同郡に鎮座し又丹波国多紀郡櫛石窓二座并名神大これ神祇官に同く祭る神にして同国に鎮座と共に名神大社なる抔を思へば豊受神も本此神たちと共に彼神籬に祭る列なりしを後に所以ありて三神共に丹波国に遷し祭りて神祇官には又別に各其御霊実タマシロを遷座ウツシマウケて祭賜へるにやあらん
(古語拾遺)…略…鈴木重胤云祈年祭祝詞に大宮売神(延喜式祈年祭祝詞に神祇官八神を挙ぐ大宮売命也)とあるは豊受大神の亦御名なり式に造酒司坐神六座とある中に大宮売神四座とあるを以て見れば此神の造酒を司し食津御魂を称申す御名なり鳧同式丹後国丹波郡大宮売神社二座と有を社伝に豊宇気持命豊宇賀能売命と伝たる同神の御名を二つに分てなりといふは審しき様なれど尚能々思ふに二柱に分て斎祠れるにぞありける右にて大宮売神社は豊宇賀売命なるが酒を知食す事を明らむべし
 按、此説いかが古語拾遺の通り侍前内侍の義にて可ならん神祇官八神中にも別に御食津神並ひあるものを
(社記)中郡周枳村字北村之社大宮売神社
一祭神 大宮比売命若宮比売命
一由緒、(前略)山城国葛野郡梅宮御神徳記に大嘗会行ひ玉ふ已前に国郡を卜ひ玉ひて其卜の方に当りし国郡之内にて目出度名の郷の田に稲を作らせ給ふ云云国者丹波近江の両国なり其田に作りし稲を以て酒を造り又御饌にも用ひ給ひて悠紀主基之二殿にて 天子自ら天津神国津神を祭り給ふ云云とあり是によりて之を見れば古へ当国者丹波国之丹波郡にして主基郷なる故御酒饌に用ひ給ふ稲は此里より出でたることあらん延喜帝之御宇少内記小野道風に書せしめ正弌位大宮売大明神従一位若宮売大明神と申す鳥居の御額一面賜り候由竪四尺一寸横二尺六寸あり(方今中?計り存在して内殿におさむ)往古者氏子十ケ村余も之れあり総産土神と申し伝へ祭礼之節社内三方より練り込み今に道筋あり現今社地之正面に字馬場と申す耕地あり祭典の節競馬ありし由なり隣村神戸の里(方今は河辺とかく)是より当社地迄を神野と云ふ其中間に祭典之節神輿御旅所なりとて行宮又は幸宮と云ふ社あり(方今は河辺黌野社に革る)黌野社傍に今市と云ふ所ありて当社祭日牛馬市をなしたる地又同辺之耕地に字鋒立太鼓と云ふ所ありて同祭日神器を立てし地なりと云ふ本社正面に幅四間半長さ七十五間余の松並木中に大鳥居沓石六個あり其二個は直径三尺二寸其の余の四個は直径二尺なり其の後嘉吉年間大洪水の際右鳥居顛倒して流失し当村より二里半余北方竹野郡堤村に止る由廼ち同村鳥居ケ窪と申す耕地あり往昔は当村は宮百姓と称へて三里四方山々勝手に入り込み相働き候由に付ては社家二十戸余も在りし由にて当社より東南に当り禰宜殿垣と云ふ字あり是社家之住所地と云ふ然りと雖其後年代屡変遷し終に村持となり由緒社記等悉皆紛失して唯古老之言に伝ふるのみ去る明治六年二月十日郷社に建て置かれ同年五月二十二日村社に列せらる
現在境内坪数二千○七坪 官有地第一種
(村誌)大宮売神社、村社、社地(東西十六間半南北三十四間)面積五百六十一坪 祭神大宮比売命若宮比売命式内名神大社なり祭日陰暦八月中ノ午ノ日官有地第一種にして本村中央にあり由緒に曰く人王五十六代の朝貞観元年己卯正月二十七日大宮売神に従五位上を賜はる其後神位不詳と雖も小野道風真蹟と申伝る古額面に正弌位大宮宜大明神従一位若宮売大明神と記載あり往古より本村の産土神にして勧請年月不詳字地、本村西スギノ田(東西五町十間南北一町三十間)(按、主基田歟本社の南西に当る)
(実地調査)御神体のこと前に述べたり額文字は村誌の通りにして字様は大師流にして筆績見事なり又社前馬場の大門礎の石と称するあり径四尺余あり昔日の盛大を想ふべし周枳村の鳥居は海瀟のために流れて竹野郡に止りしといふ蓋し竹野郡黒部村に同じ神を祀る大宇賀神社あるより起りたる俚伝か然れども海瀟洪水などの伝説は郡内所々に伝り字ノ森又口大野丹波の字鯨等に付会す
 すきの二の宮あさねするソレデ氏子があさねする
あさねは早苗にかけて歌ひたるならんといふ
(丹哥府志)荒塩大明神、風土記に所謂天女八人の一なり
 按、此伝本村にては今はいはずなほ荒山村の条参看すべし
 付録 弁財天社、石明神、八幡宮、荒神  〉 

『大宮町誌』
 〈 大宮売神社(元府社) 周枳小字北村
祭神 大宮売神・若宮売神
延喜式内の名神大二座で、丹後の大七座の中二座の神社である。祭神大宮売神は、天鈿女命であるといわれている。大宮売神は、「延喜式」神名の宮中神祇官の巫の祀る神八座の中の神であり、若宮売神は豊受大神であり、この二神を祀る名神大二座である。
 崇神天皇の時、四道将軍丹波道主命がこの地に始めて祀るといわれ、「新抄格勅符」には大同元年(八○六)に神封七戸を充てるとあり、「三代実録」に清和天皇の貞観元年(八五九)従五位上に授位されている。成相寺の「丹後国諸庄郷保総田数帳目録」には、周枳郷の中に御神領三○町五反一○歩とあり、古くから祭儀も盛大であった。戦国時代には衰微を極めていたが、徳川時代宮津藩主の崇敬も厚く、祭儀も隆昌になってきた。
 当社の正面に約一四○mの松並木が続き、その先の小字馬場の地は、祭典の時に競馬が行われたといわれ、隣村河辺より当社までに神野(ルビ・こうの)という所があって、祭典の際神輿の御旅所があり、その近くの今市(ルビ・いまち)と呼ぶ地は、祭日に牛馬市の開かれた所と伝えられる。
 宮津市府中の明神大社寵神社を、丹後の一の宮といに 当社を二の宮と称するのは、社格も高く祭神の名神大二座によるものである。
 二、一○○余坪の平地の社地は、周枳のほぼ中央の地で、古くからの神域である。明治四四年には、境内から多数の勾玉・管玉や各種の祭祀土器が出土した。
 明治六年三月一○日郷社に、大正一三年四月五日府社となる。
 昭和二年の丹後大地震に、本殿・拝殿など相当の被害があったので、本殿・拝殿・祝詞舎・神饌所・絵馬舎の改築が進められ、同五年四月一一日に落成した。
 神職 島谷旻夫
 例祭は八月二午日であったが、明胎より一○月三日、現在は一○月一○日であり、当日は神輿が御旅所(石明神)から当社まで練り歩き、神事の笹囃子・神楽・三番叟・太刀振りは、宵祭とともににぎやかである。
 なお、石灯龍の二基は、一基に「徳治二年(一三〇七)丁未三月七日」の銘刻があり、昭和三七年二月二日重要文化財に指定され、神体の二女神像は、藤原時代の作と伝えられている。改築後の旧本殿は、現在忠霊社であるが元禄八年(一六九五)の建築で、端麗な様式を残している。松並木中の大鳥居の沓(ルビ・くつ)石六個は、嘉吉三年(一四四三)の大洪水により流出したという鳥居の礎石である。
 昭和二六年大宮町誕生の町名は、この由緒のある神社名を採用した。
 〔境内神社〕
 大歳神社(大歳命 御年命) 秋葉神社(訶具土命) 武大神社(素戔嗚命) 大川神社(保食命) 稲荷神社(倉稲魂命) 八幡神社(誉田別命) 天照皇神社(天照大神) 春日神社(天児屋根命) 天満神社(菅原道真) 佐田彦神社(猿田彦命、事代主命)

 八幡神社
 祭神 誉田別命(応神天皇)
もと八幡山に鎮座されていたが、昭和四七年大宮売神社境内に移した。当社は鎌倉八幡宮を勧請したと伝えられているのは、本村の耕地の水不足のため、竹野川からの用水の井溝について、享保一○年(一七二五)に、井溝の通路の谷内・三坂向村との紛争が起り、翌一一年江戸寺社奉行の裁定を受けることになり、その解決の祈願のために、勧請したものだといわれている。氏神祭典の際は、神事を奉納し昭和初期まで続いた。祭日は八月一五日であったが、九月一五日となった。
 昭和二年丹後大地震に倒壊し、同一一年一二月新築した。同四七年保育所設置に際し、社地をその敷地としたため、同年九月一四日に大宮売神社に懇請して、同社の東に社殿を移した。
  厳島神社
  祭神 市杵島姫命
  大宮売神社の四鎮として、文化一四年(一八一七)ころまで、四方の地に神社守護神を祀っていたが、現在は南の当社のみが残っている。弁才(財)天と呼ばれている。弁財天は、七福神の中の神で、水の神であり、文芸・音楽・愛嬌・智恵の女神である。  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 大宮売神社遺跡(おみやめじんじゃいせき)
所在地:大宮町周枳小字北村
立 地:竹野川中流域右岸段丘上
時 代:弥生時代前期〜室町時代後期
調査年次:1923年(京都府史蹟勝地調査会)1988、2001年(立会調査)
現 状:立会調査範囲は全壊(下水道、駐車場擁壁)、大宮売神社境内(府指定史跡)
遣物保管:大宮売神社(一部は京都国立博物館、丹後郷土資料館寄託)、市教委
文  献:C022、F054、F081、F145、F215
遺構
 大宮売神社境内地内は、古くは大正時代より祭祀関係の遺物が出土することで知られていた。1922年には、京都府史蹟勝地調査会の梅原末治委員により、遺跡の状況を確認するために、境内地内の試掘調査が実施されている。
 戦後に入ると、神社境内周辺の開発事業に伴って遺物が出土した。神社参道西側に位置する駐車場擁壁設置に伴う1988年の立会調査や、神社境内地周辺における2001年の下水道工事に伴う立会調査では、神社境内地周辺の遺跡の広がりを確認することができた。特に下水道工事による立会調査によって確認された複数の流路跡からは、弥生時代前期〜奈良時代、室町時代に至る大量の遺物が出土している。このほか神社西側では、安定した地盤が確認でき、地山を掘り込んだ柱穴などの遺構が見つかっている。この土層は、梅原による試掘調査に際して確認されたものと同様のものであり、神社境内地から西側に向けて集落が立地しやすい安定した地形が展開していたことがうかがえる。なお下水道路線幅の立会調査のため、遺跡の全容解明は課題を覆している。
遺物
 神社周辺の流路跡からは、弥生時代前期〜奈良時代にかけての遺物が大量に出土している。特に弥生時代中〜後期の遺物が多く見られ、神社周辺に当該期の拠点集落があったことをうかがわせるものとなっている。
 神社境内地から出土した資料は、吉村正親により図化、報告されている。吉村の報告によると、境内地出土資料には、滑石製勾玉、管玉、臼玉、鏡形石製品、鏃形石製品、環状石製品、ミニチュア土器などの祭祀遺物が見られる。これらの資料は、一緒に採取された須恵器の形式から見て、古墳時代中期後葉と水底される。
意義
 これまでの出土遣物の内容から神社周辺では、弥生時代前期より集落が始まり、中〜後期には大規模な拠点集落として発展したものと推定される。その後、古墳時代中期後葉には、神社境内地を中心に祭祀遺跡が成立し、奈良時代には神社として発展するものと推定される。祭祀遺跡が場所を変えずに神社へと発展した遺跡として貴重なものである。  〉 




龍の彫り物

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『大宮町誌』
その他たくさん



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