丹後の地名

周枳(すき)
京丹後市大宮町周枳


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京都府京丹後市大宮町周枳

京都府中郡大宮町周枳

京都府中郡周枳村



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周枳の概要




《周枳の概要》

丹後二宮・丹波郡名神大社の大宮売神社が鎮座する集落である。『和名抄』の「和名抄」丹後国丹波郡七郷の1つ周枳郷の地。
「日本書紀」安閑天皇2年紀に、丹波国に「蘇斯岐屯倉」を置いたとあり、その屯倉の所在地を周枳郷とする説(国郡沿革考)や、天皇即位の大嘗会に丹波を主基の国と定められた時、周枳郷が主基の里となったとし、この地に大宮売神社のあるのはその証という説(大日本地名辞書)もあるが、いずれもかなり怪しい話と思われる。どこかに「悠紀」といった地名が残ってれば、そうしたこともあるかとも考えられるが、そうした地名はない、悠紀田・主基田はそのつど卜定される一時的なものだから、地名となって残ることがないと思われるし、周枳に主基田が設けられたという確証もない。歴史的には弥生にさかのぼる大宮売神社や周辺の村々の成立よりも、天皇さんの屯倉や祭祀は500年は新しいものである。周枳の枳は甲音だが主基の基は乙音で、厳密には同じ発音ではなかったという人もある。
隠岐国に周吉(すき)郡がある、あるいは当地は隠岐島と関係あるのかも知れないが、白村江(はくすきのえ)の戦い(天智2年・663)のスキすなわち村・邑のことだと思われる。スキのキは城崎温泉のキで古代朝鮮語の城・柵を意味する、元々は峰とか峠とか?(山偏に見)の意味らしく、そこに作られた山城の意味というが、そうした城、軍事用とは限らないというが、そこから転じて村の意味になっていったという。周枳の背後の山に古代の山城があったかも知れない、中世の山城は調査もされているが、古代の城は何もデータがない。
沖縄はグスクが300以上もあるというが、城のことだが、同じ系統の言葉かも知れない。村主・村首・勝などはスグリと読む、これは朝鮮でいう村干(スキ・カヌ)のことで、このカが脱落、さらにヌがリと転訛したと言われる。
河内国志紀郡・大和国磯城郡とかのシキと同じ意味であろうか、日本に二つしかなかった大県、丹波大県並ぶ志幾大県があった河内の志紀郡、磐余と共に天皇氏の本貫地であった大和の磯城郡、古代日本の心臓にこの地名がある。稲荷山鉄剣の銘文に「斯鬼宮」とあるのは大和国磯城郡のこととされている。しかし鉄剣出土古墳の少し南に志木市があるから、そこのことかも知れまい。何でもすぐ皇国史観に結びつけるのはキケンであろう。

舞鶴市役所のある一帯は北吸(きたすい)と呼ぶが、古くは北汐・北宿と称したという。シュク、スク、シホ、スイ、スキというのは同じなのかも知れない。だから荒塩はあるいはアラスキではなかっただろうか。このあたりは、下流側の新山あたりまで広くアラあるいはアラスク、アラスとか荒塩、と呼んだのであろう、古く風土記の「荒塩村」は荒山(古名荒塩山)からこの周枳の一帯と一般には考えられている。

白村江の戦いでは唐と新羅の連合軍相手に歴史的大敗北を喫する。中国相手には勝てないと、この前の大戦の時も、御大将どもの寝言と違って、現場の将兵は語っているが、その通りにこの前も負けた。こんどは尖閣問題で勝てるのだろうか。頼りないうえに辺境などは完全に見捨てている日本政府にそんなことができれば歴史上の大奇跡だろうと私は思っている。尖閣諸島は5つばかりの島からなるが、そのなかの2つはすでにアメリカに取られている(米軍射爆場)が何も言おうともしないし、ずっと何十年とほったからかしにしてきた、中国が来るようになって今さらに大事な国土だと騒ぐだけである、本気で大事に思っているなら最初からキチッとしておけばよかろうが、田舎は見捨ててほったらかしにし守る気などはまったくなかった、これが政府が実際に伝統的にやってきたことである。やばいオスプレイも沖縄に押しつけて平気の神経である。真の独立とまともな政府や政治家をもたない限りは日本国民と国土の安全はないと誰もが感じざるを得なくなっている。せめて、アメリカあたりや右翼にたきつけられ、チャンコロ思想まるだしにして、愚かな行動だけはするな、勝とうなどとは考えず、引き分けに持って行けたら、まあ日本政府やその提灯持ちではそれ以上はのぞめまい。

『地名・苗字の起源99の謎』は、
 〈 指宿の「宿」、横須賀の「須賀」は、「村」の意味
前項の「シキ」に通じる朝鮮古代語に「村(スキ)」がある。六六三年に百済=倭の連合軍が新羅=唐の連合軍に大敗を喫した白村(ハクスキ)ノ江の「村(スキ)」は、その代表的な例である。そのほか、古代の姓の一つである「村主(スクリ)」も「村主(スクニム)」と意味を同じくする朝鮮古代語である。
「村(スキ)」は「須伎」または「須岐」、「村(スク)」は「須玖」または「宿(スク)」・「須久(スク)」とも書かれるが、そのほかに、「須賀」・「須加」・「周賀(スカ)」・「修家(スカ)」・「須可」・「須賀(スガ)」・「素賀(スガ)」・「須我(スガ)」などともしるされる。おそらくは「蘇我」(曽我・宗我)もこの一つであろう。
 スキ・スク・スカ・スガは「村」を表わす言葉であるから、当然、地名語尾としても用いられた。「加須賀」(春日。加羅村)、「阿須賀」(安宿・飛鳥。安羅村)、「白須賀」(新羅村)、佐須賀(沙羅村)などについてはすでに述べたところだが、そのほかにも指宿(イブスキ)(揖宿(イフスキ))がある。ただし、横須賀・高須賀・赤須賀・蜂須賀・大須賀などの「スカ」は海岸の「洲処(スカ)」かもしれない。 

大宮売神社は平安後期には、周枳社・主基社・須岐社などと称されて荘園化していた。康和2年6月2日付の卜部宿禰兼良解に「永暦四年六月御卜、坐丹後国須岐社」。永万元年6月日付の神祇官諸社年貢注文に「丹後国籠宮〈糸五十両〉主基〈同〉」と見え、承安4年3月3日付の周枳宮銅磐銘には「周枳宮」とあるという。

中世の周枳、周枳郷。平安末期から見える地名。安元2年2月日付の八条院領目録に「弘誓院御庄々」として「丹後国周枳」。鎌倉期の承久4年4月5日、弘誓院領荘園8か所の勅院事大小国役等諸役を停止すべき旨の太政官牒が弘誓院に宛てられたが、そこに「壱処〈字周枳社〉在丹後国丹波郡大宮部大明神」。嘉禄2年4月19日付の関東御教書に「入道権大納言家領間三箇条事」として「一 丹後周枳社地頭非法可停止事」と見えるという。
「丹後国田数帳」に「一 周枳郷 六十四町四段二百五十歩内…」、
ほかに田数帳には周枳郷とかかわると考えられる「光安周枳葛保 卅九町四段百八十六歩内 十九町七段百廿四歩慶光院、十九町七段百廿四歩藤田大郎左衛門」が記される。光安については元弘3年(1333)5月20日付熊谷直久軍忠状(に「同郡内光安地頭佐々木三郎判官代田幸町六郎焼城畢」と見えるという。
「丹後国御檀家帳」では「一 すきにて かうおや田中兵衛殿 かうおや杉山殿」と見える。
周枳庄は、周枳社(大宮売神社)およびその社領をいう。安元2年(1178)2月日付八条院領目録に「弘誓院御庄ゝ」として「丹後国周枳」とみえる。弘誓院は鳥羽天皇皇后美福門院の御願を得ているが、その縁で周枳社が弘誓院に施入されたものであろうという。

近世の周枳村は、江戸期〜明治22年の村名。はじめ宮津藩領、以後寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年より宮津藩領となる。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年市制町村制により単独で自治体を形成。
近代の周枳村は、明治22年〜昭和26年の中郡の自治体名。同26年大宮町の大字。
周枳は、昭和26年〜現在の大宮町の大字名。平成16年から京丹後市の大字。

《周枳の人口・世帯数》 1781・621


《主な社寺など》

左坂墳墓群
左坂古墳群の山(周枳)

左坂古墳群(『京丹後市の考古資料』より)
右手に延びる道路は左坂で今は立派な道路になっている、正面の山々に「左坂墳墓群」がある。山全体は小さな古墳だらけ、200余基で丹後NO.1、府下でも最大規模の古墳群がある。
左坂と右坂があるが、いつ頃の名なのかが不明であるが、あるいは左坂は古いかも知れない、サというのはこのあたりの地名だったかも知れない、サシスセソのサで、新羅の事であったかも知れない。大宮売神社は「お新羅さん」とも呼ばれるというからである。

『京都新聞(H7、3、2)』
 〈 円墳と方墳 整列し出土*古墳前期の首長と役人の墓?*階級社会を裏付け*当時流行の「土師棺」も*
大宮町周枳の左坂古墳群を発掘調査していた府埋蔵文化財調査研究センターは一日、同古墳群の一部から、古墳時代前期ごろの円墳と方墳が整列した状態で同時に出土した、と発表した。両古墳を築造できる階級が限られていることから同センターでは、「古墳時代前期(四世紀)の階級構成を明らかにする貴重な史料」としている。同古墳群は、古墳時代初期から同後期(四世紀前半−六世紀中ごろ)までの大小の古墳あわせて百十基以上をもつ府内でも最大規模の古墳群。中郡平野を見渡せる小高い丘陵上地にあり、東西五百b、南北三百bで、面積は約十五fある。今回、同古墳群の北側に位置する古墳五基を調査したところ、円墳と方墳がほぼ一列に並び、標高が高く見晴しの良い位置から円墳、標高の低い方から方墳が出土した。奈良県橿原市の新沢千塚古墳群などの例から、円墳は地域的な首長級の墓で、方墳はその首長に仕える役人クラスの人物の墓とされている。このことから同センターでは「奈良県など他地域で明らかになっていた円墳と方墳の序列が、丹後地方でも同じようにあることが分かった」と発表した。さらに「同古墳群は、現地から約九`北の前方後円墳である蛭子山古墳(加悦町明石)と同時代なので、円墳の主は同古墳の王の配下にあったことが考えられる。古墳時代前期の階級社会の構造が推測できる」と説明している。また方墳のうちの一つから、畿内で流行していたとされる、土師器を棺として用いる「土師棺」も出土した。 

丹波郡の郡衙はどこにあったは不明だが、丹波付近なのかはわからない、何もそうした確かな情報はない。丹後風土記には「郡家の西北の隅の方に比治の里あり。この里の比治の山の頂に井あり。その名を麻奈井と云ふ」。西北が西南の誤りであり、今の久次が比治だとすれば、郡家は丹波付近にあったことになる。しかしまた「比治里の荒塩村」とも書いていて、荒塩が新山や周枳あたりだとすると比治里はどこにあったのかわからくなってくる。

左坂横穴群・里ヶ谷横穴群

石明神古墳
石明神古墳(周枳向地)
石舞台古墳のようなもので、古墳の石室だけが残ったものだが、石は移動されもとの形は崩れていて、当時の石室を復元することはムリだろう。向かって右手に道があるが、向こう側へ500mに大宮売神社があり、その御旅所という、普通は御旅所はその社の元の鎮座地と考えられている、大宮売神社発祥に繋がり深い古墳と思われ、代々の大宮女、若宮女を葬る墳墓だったのかも知れない。
手前側の50mに荒塩神社がある。手前の道を右へ行けば周枳峠で、明田に出る、左に行けば役場や駅がある。

ちょっと周枳峠の伝説権兵衛の化物退治

現地の案内板
 〈 石明神 現在、大宮売神社の御旅所となっている石明神は、古墳時代後期の横穴式石室を埋葬施設とする古墳です。もともとは土で盛られていましたが、長い間に流れてしまい、石室だけが残っています。 

『大宮町誌』
 〈 石明神  周枳小字向地
一、標識塔 碑は「石明神遺跡」と刻む。明神古墳といい、横穴式石室が全壊したもの。古墳の巨石を積み重ねその上に小祠を祀る。現在は大宮売神社の御旅所。 

幾坂遺跡
左坂経塚
幾坂経塚

荒塩神社
荒塩神社(周枳)
小高くなった山の上である。左坂墳墓群の山であるが、この興味惹かれる神社は由緒がよくわからない、丹後風土記の羽衣伝説の「比治里なる荒塩村」の荒塩だから、あるいは大宮売神社よりも古いと思われる。たぶん大宮売・若宮売の前身かも。扉の格子戸の間からレンズだけは入りそう、しめしめと内部を盗撮、ごめんなさい。
幽斎の時代に一色氏の武将・荒須帯刀という武将がこのあたりの「荒須山」にいたが、だいたいこのあたりがそのアラスでありそう。
観音寺神名帳の丹波郡に「従五位上 有栖明神」が見えるが、この社だろうか。
阿良須神社が加佐郡には2社あるが、舞鶴志楽の阿良須神社は間違いなくここと何か繋がりがありそうである。『丹後旧事記』は、
 〈 阿良須神社。小倉村。祭神=大宮売大明神 若宮売大明神。延喜式竝小社。当国周枳村より将軍旦波道主命うつし奉る。旦波道主命者崇神天皇仕景行天皇至三代良臣也。 


荒塩神社(周枳)

『大宮町誌』
 〈 荒塩神社 周枳小字左坂
祭神は不詳とされているが、享和二年(一八○二)一○月勧請、「丹哥府志」に荒塩大明神として、風土記の天女八人の一なりとある。

『中郡誌槁』
 〈 …字「アラス」といふは今城跡の形跡なし荒塩神社此所にあり或は神社より起りたる字名にあらざるか 

『丹哥府志』
 〈 【荒塩大明神】 風土記に所謂天女の八人の一なり。 


大宮売神社は別項
大宮売神社

名所賀(めいしょが)稲荷神社
名所賀稲荷神社(周枳)
『大宮町誌』
 〈 名所賀稲荷神社 周枳小字名所ケ
祭神 倉稲魂命
 天保五年(一八三四)に稲荷講の本村の直右衛門・金治郎の両人が、小字名所ケの持山を提供して社殿を建立し、弘化二年(一八四五)九月、伏見の日本稲荷総本宮の愛染寺に懇願して、安鎮の証書(勧請印可書)を受けて祀った稲荷大明神である。明治三五年に社殿を改築、毎月一三日を祭日とした。
 稲荷信仰の時運により、昭和五○年一二月一四日社殿・付属建物を新築、境内の整備をして面目を一新し、祭日を一月一日、三月と九月の第一日曜日と定めた。参拝客でにぎやかである。 


幾坂山城
木積山城
小杉山城
周枳山城は、一色氏の家臣荒須帯刀・横田伝太夫の居城とされ、小杉山城は一色氏の家臣田中助八の居城であったという。
周枳山城は大宮売神社のすぐ東側の山である。小杉山はその奥、木積山はさらにその奥になる。

『大宮町誌』
 〈 周枳城   周枳小字北村(通称本丸)
 周枳(主基)城は字北村に在り通称を本丸と呼ぶ。村の中央を東から西にのびる阜丘の上にあって、本丸とみられる高台は東西三二m、南北二五mあり、東の端には土盛り(古墳)が造られており、高さ一○m
の掘り割りの跡が認められる。二の丸はその西に延びて数個の台地から成り、三の九はさらにその西に長く続いている。三の丸は東西六五m、南北二五mの台地で大体二段に分れている。城の周囲三方はおよそ一○m内外の絶壁であるが、北側の斜面はややゆるやかである。井戸の跡は東南の隅の窪地にあったと言い、この城には武士達の屋敷があったと伝える。
 城主は荒須帯刀・横田伝太夫である。
(丹哥府志) 荒須帯刀城墟、荒須帯刀は足利の浪人なり。又横田伝大夫といふ者爰に居ることあり。
(丹後旧事記) 主基村 横田伝太夫、荒須帯刀、荒須は義輝公に仕へし人なり。一色に随ふ。
なお、字“あらす“には荒塩神社があるが、その附近に荒須帯刀の屋敷があったと伝えている。 


『大宮町誌』
 〈 周枳木積山城(別城木積山)  周枳小字外尾谷(とのおだに)
 外尾谷と栗の奥とにはさまれた山鼻に城墟がある。木積山の支脈に在る城であるから木積山城ではなかろうか。木積山には他に城墟がないから「丹後旧事記」の「同村別城木積山」はこの城にあたる。木積山頂上に近い薬師如来の古寺は天正の頃菊井・田中らが立て籠り戦火にかかったというので城の如くいわれるが、城の構えではない。木積山城は東北から南西に突出した尾根を利用した城で大体二段になっている。本丸にあたる台地は東西三○m、南北一五m、二の丸はその南西に連なり東西三二m、南北五mの細長い台地である。西側はけわしい数十mの崖となり、本丸の東北の端には第一掘り割り、第二掘り割りが作られている。
第一掘り割りは高さ三m、幅三m、第二掘り割りは高さ二m、幅一mほどで、山の支脈と城域とを区切って
いる。掘り割りには山道が通じていて村人はこれを“城の越“と呼び峠越しの道で栗が奥に通ずる。本丸の
東側の山腹に直径二mの古井戸があり、朽葉に埋もれているがなお二mの深さがある。
 城主は菊井兵庫頭・田中助八と伝える。
 (丹後旧事記) 主基村別城木積山  菊井兵庫頭田中助八
 (峰山案内)  主基村同城木精山  田中助八、菊井兵庫頭
 (村誌) 木積山に菊井兵庫城墟本村の丑寅にあり、一色家の麾下たりし由申伝ふ。
 「村誌」に記す周枳村の丑寅(東北)の木積山の城は前述の城にあたるが、この別城木積山は要害ではあるが、狭く二人の本城とは考えにくい。久住城の項で述べた如く本書所載の元亀天正時代の絵図面を見ると、周枳城は荒須横田で、久住城は菊井田中となっている。かように古書の記述が異なるのは木積と久住が発音が似ている所から混同したのであろうか。しかし、「峰山旧記」に「陣代田中助八は敵に降り云々」とあるから、菊井と田中は主副の関係にあり、木精と久住の二城に拠り協力関係にあったのではないかと思う。
 その他「村誌」に「小杉山に田中助八城墟本村北の方にあり。」と小杉城のことが見える。小杉山は通称“軍艦山“と呼び、古城趾らしい地形の山で木積山への登山道の途中に在る。調査した結果長さは六四mほどある山の尾根であるが、掘り割り・切り崖等人工の跡は全く認められない。周枳に関係が多い田中助八があるいは、利用したかも知れないが城跡とはいえない。 


『中郡誌槁』
 〈 (丹後旧事記)主基村、横田伝太夫、荒須帯刀、荒須帯刀は義輝公に仕へし人なり一色に随ふ」同村別城木積山、菊井兵庫頭(介イ)、田中助八、天正十年木積砦没落の後田中助八長岡の家臣となる一説菊井は切腹して薬師の伽藍に火を放ち主従五十三人火中へ飛込敵に首を不渡となり此人も将軍光源院(義輝)り臣下なり
(同上)木積嶽 往昔山上に大伽藍あり丈六立像の薬師如来を本尊とす行基菩薩の開基にて中昔は真言宗也又天正の頃一色義道ま部将荒須帯刀(菊井カ)此山に陣す今此薬師如来は麓の里主基村に有り
(村誌)古跡、木積山に菊井兵庫城墟本村の丑寅にあり一色家の麾下たりし由申伝ふ当今柴草山となる小杉山に田中助八城墟本村の北の方にあり前同断、荒須帯刀并に横田伝太夫等城墟本村の南にあり前同断今に此所字名アラスと云伝ふ当今宅地に属す
木積山高さ(六十丈二尺)周囲数村に亘るを以て不詳本村の東北にあり嶺上より三分して北は河辺村に接す東は明田村に界し西南は本村に属して嶺二合下れは字石田コウシヨ等と称し本村に属する山なり山脈河辺村の山岳に連帯す南は三坂村ありやけ谷等の山岳に連り地味悪敷過半兀山にして樹木生せす柴草山なり登路一条ありあざトノヲより上る二十五丁あり尤険なり渓水一条あり字トノヲ谷へ落る長さ凡二十町にして田地の?水に供す
(実地聞書)本村中央北村の山を本丸といひ城跡なりとも言伝ふ是右三ケ所の外なり又字「アラス」といふは今城跡の形跡なし荒塩神社此所にあり或は神社より起りたる字名にあらざるか小杉山にも城跡をとどめす云々 

周枳城
小杉山城


薬師堂
薬師堂(周枳)
↑周枳の薬師堂(左)。大宮売神社のすぐ東隣である。そこの山には周枳山城があった。内部には丈六の薬師さん↓手前の道をどちらからでも木積山(269.5m)に登れるようである。
薬師堂の薬師さん

『丹後旧事記』に、
 〈 木積山 丹波郡主基村の地なりむかし此山上に大伽藍有行基菩薩の開基にて丈六の立像の薬師如来を本尊とす。天正年中荒須帯刀といふ人楯籠り挑戦又伽藍破倒して今本尊麓の主基村に安置す。 


『中郡誌槁』
 〈 木積山の辺に大伽藍の旧跡あり本尊薬師如来行基菩薩の開基にして天正年中伽藍破倒して本尊のも残れり本村中央に小堂宇を建て安置す方今周徳寺より所管す 


周枳の薬師さんと呼ばれているが、本当は瑠璃山浄名庵という。
『大宮町誌』
 〈 瑠璃山浄名庵 曹洞宗(周枳周徳寺) 周枳小字北村
本尊 薬師如来・脇侍日光菩薩・月光菩薩
 「丹後旧事記」に、むかし木漬山上に行基菩薩を開基とし、丈六立像の薬師如来を本尊とする伽藍があり、天正年中 (一五七三−一五九一)の細川・一色の戦乱により破壊したので、麓の主基村に安置するとある。
 本尊を丈六の座像に改め、宝暦二年(一七五二)大光良円庵主(俗名小池勘右衛門)が首唱して寄進を募集し、現今の堂を建立した。周徳寺六世密玄和尚を開基とし瑠璃山浄名庵と名付けた。
 六月八日が祭日であったが七月二日とし、現在は七月第一土曜日とする。各地より参拝者も多くにぎやかな夏の夜祭である。
 薬師如来の眷族の一二神将(天明九年酉年の銘)を祭り、堂内 にもとの薬師像と伝えられる破損仏の一部が保存されている。 

 〈 木積山薬師跡 木積山上
 周枳小字北村の大宮売神社の傍に薬師如来を祀る浄名庵がある。この薬師はもと木積山上にあったが、明田との村境であったため、その所属につきとかく紛議が多かったので、伽藍が倒壊したのを機に麓の周枳に移し祀った。今その木精山の伽藍の跡は頂上より南約二○○mの所に礎石七個が残っており。別に離れて三個あり、合せて一○個が存在している。礎石の残る台地は南北約一二・七m、東西一八m余りの平地をなしている。(周枳郷土史)
 木積山薬師は由緒ある大寺といわれたが、兵火にも罹り時の変遷とともに麓に移され、本尊も新仏像に代り、安政六年堂宇も再建されて昔の面影は一変した。しかし、周枳においては信仰厚く、その縁日を七月の第一土曜と定め、にぎやかに祀られ遠近の参詣者を多く集めている。 


こんな伝説もあるという。『大宮町誌』
 〈 周枳の薬師さん
 周枳の薬師さんはもと木積山の山頂近くにあったもので、兎角明田村と境界についての紛争が絶えなかった。そこで協議の結果、一番鶏を合図にその早い方勝ちということにしようと決った。そこで周枳村の有志達は熟議の結果、鶏の止まり木を温めるのがよかろうということになり、止まり木を竹でこしらえ、その節を抜いてこれに湯を通し一晩中鶏の足を温めた。そのために鶏はゆっくり眠っていられず、早く鶏鳴をつげだしたので周枳の人々がいち早く堂へかけ上り、早速周枳村側へ薬師の仏像を崩した。それ以後周枳村の所属となったという。(周枳郷土史) 

薬師堂は周徳寺の所管になっている。↓も参照。

曹洞宗宮津智源寺末天橋山周徳寺
周徳寺(周枳)

『大宮町誌』
 〈 天橋山周徳寺 曹洞宗(永平寺)   周枳小字向地
 本尊 釈迦牟尼如来
  「当山の由緒の記」によると、往古は不詳、慶長二年(一五九七)小林庵(現外尾の小字小林庵の地)の住僧鉄山和尚は、同五年(一六○○)与謝郡天橋立の海中より、釈迦尊木像が現われる夢をみて、翌日その所在の地を訪ねると果して尊像があったという。
 その尊像が現今の本尊で、顔面の右ほほに傷あとがあり、金泥を塗っても修復ができず今も残っているという。これより小林山天橋寺と称した。
 慶安元年(一六四八)に久岩心宅和尚は、現在の向地に移転して天橋山周徳寺と改号する。
 元禄二年(一六八九)宮津智源寺八位法運寿節禅師を請じて開山とする。三重の万歳寺も同禅師を開山としている。宝永七年(一七一○)三月二世高門和尚は、庫裡・客殿を建立し、更に寛政九年(一七九七)六月、六世密玄和尚と、一○世卍之和尚は客殿を再建した。山門は文化一一年(一八一四)一○月に一二世学仙和尚の構築である。
 前記の「宝永七年当山建立」、「寛政九年客殿再建」、「文化一一年の山門」の梁札が所蔵されている。昭和五五年一○月隠寮を新築した。
 現住職 清水澄明
 〔境内仏堂〕
 秋葉堂
 本尊 秋葉三尺坊権現
 元文元年(一七三六)当山二世高門の代、当山鎮守と村中防火を祈願のため、遠州秋葉山秋葉寺の三尺坊権現を勧請して祭る。 


『中郡誌稿』
 〈 (村誌)周徳寺(東西二十四間半南北十八間)面積四百四十五坪、曹洞宗、宮津智源寺末、民有地第一種にして本村東南にあり開基僧久岩心宅慶安元(壬子)年創立
(実地調査)木積山の薬師は明田村境にて両村間其所属に付きて兎角紛議を免れざりしにより村内に下したりと言伝ふ現今大宮売神社の東北に其堂あり本尊薬師は本来の者にあらずして後に作りたる者なりといふさもあるべし仏体は大なれども新らしく拙作なり堂棟札堂内に落散りありたり曰く当村薬師如来者往古恵心僧都御作仏也年来及数百年致大破尤難捨置故周徳二世鳳山和尚再興思立有之檀下請方致勧化米二十石程相集村役人預置及再興処村役人身上没落付勧物及失却漸半分相残田地相成近来明和八辰年徳助庄屋代領主エ再興之願書指出公辺相済其後庄屋半左衛門右之以田徳三間四間之建本堂者也矣 維時安永六年酉冬
(村誌)字地、本村東、トウノヲ(東西九丁四十間南北五十五間)(木積山の下なり同山薬師の塔の尾の義にあらざるか)本村西、アミダ堂(東西六町三十間南北五十五間)(蓋古寺院の跡か) 


日蓮宗京要法寺末久成山妙受寺
妙受寺(周枳)

『大宮町誌』
 〈 久成山妙受寺 日蓮本宗(京都要法寺) 周枳小字向地
本尊 大曼荼羅
 元和元年(一六一五)当村吉岡九郎衛門の娘眼病にかかり、本宗を信仰して平癒したので、発心改宗して妙受尼となり(「妙受寺財産明細誌」本山要法寺蔵)久成庵を開創し、後、慶安三年(一六五○)口大野常徳寺五世日達師は当寺を開基して、寺号を久成山妙受寺と改める。
 当寺五世日吟師の元禄年間(一六八八−一七○三)に本堂を建立したが、二一世日励の代、文政年間(一八一八−一八二九)に番神堂を残して、火災にて焼失した。同年中本堂を再建し寺門の復興をはかった。
 昭和二年三日七日丹後地震の際、本堂、山門は倒壊し、庫裡内に仏間を設けて本尊を祭る。同四○年一一月以来は無住となり、口大野常徳寺が当寺の住僧を兼務する。
 現住職 原 智功(兼)(口大野常徳寺住職)
 〔境内仏堂〕
 番神堂
 日蓮宗の守護神三十番神を祀る。享保一七年(一七三二)二月六日の題目板を掲げる。 


『中郡誌槁』
 〈 妙受寺(東西二十二間南北十二間)面積二百六十三坪(民有第一種)日蓮宗興門派京都要法寺末、本村南の方にあり開基僧一要院日達慶安三(庚寅)年創立 


浄土真宗本願寺派石城山願成寺
願成寺(周枳)

『大宮町誌』
 〈 石城山願成寺 浄土真宗本願寺派(西本願寺) 周枳小字谷ヶ奥
 本尊 阿弥陀如来
 明治四五年五月二四日西治哲随師の提出書によると、往古は不明であるが、元禄元年(一六八八)当村の雅亮が発起して、道場(説教所)を開き阿弥陀画像を安置するとあり、「中郡寺院明細帳」には、安永二年(一七七三)僧雅亮開基すとある。
 摂津(大阪府)富田の本照寺蓮光坊の開山は確かであるので、同師入寂の延享二年(一七四五)より考えると元禄元年(一六八八)に、雅亮が蓮光坊を請じ、同師を開山としたと思われる。昭和一○年一一月佐和寛敏住職の報告書には、開山を蓮光坊としている。
 宝永二年(一七○五)に本堂を建築し、文政三年(一八二○)一二月一五日現阿弥陀如来像を安置した。文政一二年(一八二九)に庫裡・客殿を増築し、嘉永二年(一八四九)楼門構築、明治一三年二月現本堂を再建した。
 昭和二年三月七日丹後地震に客殿倒壊したが、同年一○月再建する。
 同四六年一月庫裡を社会教育集会所として改築した。
 現住職 岡見一行 


『中郡誌槁』
 〈 願成寺(東西六間半南北八間)面積五十二坪(民謡第一種)真宗、西京西本願寺末本村の北にあり開基僧雅亮安永元(壬辰)年創立 


《交通》


《産業》


周枳の主な歴史記録


『丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
 〈 丹波郡
一 周枳郷  六十四町四段二百五十歩内
  卅町五段十歩        御神領
  十町三段二百六十歩    成相寺
  七町八段二百卅五歩    瑞心院
  八町九段二歩        松田三良左衛門
  六町八段百八歩       松田彦八郎

一 光安周枳葛保  卅九町四段百八十六歩内
  十九町七段百廿四歩    慶寿院
  十九町七段百廿四歩    藤田大郎左衛門 


『丹後国御檀家帳』
 〈 一 すきにふ
かうおや      かうおや
 田中兵衛殿     杉山殿
一 かうへにて
城主也一宮のおとな也  御そうしや
 民  部  殿        毛呂孫左衛門殿
  〆 


『丹哥府志』
 〈 ◎周枳村(河辺村の次、古名主基、今周枳に作る)
【大宮売神社】(名神、大)
延喜式に載せたる大宮売神社今正一位大宮売大明神、従一位若宮売大明神と称し、二神を合せ祭る。職員令曰。正一位の神は八町四方の神田あり今高二千五百石に当る、此神は二神合せて高四千石の神田ありといふ。額の文字は小野道風の筆なり、今に存す。抑此神社は何の神を祀るや伝記詳ならず、竹野郡黒部村に大宇賀神社あり、今大宮売大明神若宮売大明神と称す、社記に云丹波郡主基村より勧請して丹波道主命を祀るといふ、是によってこれを見れば此神社に丹波道主命を祀るや明なり。今茲辛丑の夏恭しく開扉してこれを拝するに、誠に古代の尊像なり、二躰相並びて一は男神なり一は女神なり、右裳に地紋ありや其有無明ならずといへども、木理に胡粉の染みたる處あればまづ白衣かとも覚ゆ、唯色のよく分りたる處は鬘つらの黒色なり、実に古代の様を今日親しくこれを見る。先是養老以前は皆左様なりといふ説往々これを聞く、既に主基の宮の神躰は左様なりとて是を以て証とするものあり、今其尊像を拝して初て其感を解きぬ、これを写すもかしこけれども其感を解かんが為に略御影をかたどり考証の一助とす。
【荒塩大明神】
風土記に所謂天女の八人の一なり。
【天橋山周徳寺】(曹洞宗)
【久成山妙受寺】(日蓮宗)
【荒須帯刀城墟】
荒須帯刀は足利の浪人なり、又横田伝太夫といふもの爰に居る事あり。
 【付録】(弁財天社、石明神、八幡宮、荒神、薬師堂 ) 


『大日本地名辞書』
 〈 【周枳郷】和名抄、丹波郡周枳郷。今周枳村存す、大野郷の北に接す、河辺カハベ村も之に属す。国郡沿革考に周枳郷は安閑紀に見ゆる蘇斯岐屯倉の地なるべしと曰へり、疑ふべし。周枳は往代大嘗祭の卜定にあたり、主基方の里にあらずや、大宮売社の本郷に在るは、以て之を証するに足る。

【中郡】…略…○〔国郡沿革考〕丹波即丹波国名り出て起る所なり、安閑天皇の時蘇斯岐屯倉を置、郡名始て桓武天皇紀に見ゆ、
 安閑天皇二年五月丙午朔甲寅、置丹波国蘇斯岐屯倉、和名抄丹波郡周枳郷あり、即蘇斯岐の地、今周枳村存す、〔続紀〕延暦二年三月庚寅、丹後国丹波郡人正六位上丹波直真養、任国造、此郡後改て中郡と称す、
 按、何年に在るを詳にせず、蓋亦中世国号を同き者を改めし時なるべし、正保図以後皆中郡に作り、今之に仍る。 


『京丹後市の考古資料』(写真も)
 〈 左坂墳墓群(ささかふんぼぐん)
所在地:大宮町周枳小字左坂
立 地:竹野川中流域右岸丘陵上
時 代:弥生時代後期前半
調査年次:1992年(府教委)、1993年(大宮町教委)、
    1995年(府センター)
現 状:調査範囲は消滅(国営農地周枳団地、ライスセンター)
出土保管:丹後郷土資料館、市教委
文 献:B115、ClO6
遺構・遺物
 大宮町周枳の集落の東南の丘陵上には、総数200余基の弥生時代墳墓および古墳からなる丹後地域最大の左坂古墳群(74)が所在する。この左坂古墳群の北西の一角、G支群には、弥生時代後期前半の墳墓群が営まれていた(巻頭図版8−1)。調査は、国営農地「周枳団地」の造成および併設するライスセンターの建設に伴い3つの機関で実施された。墳墓群は、南向きの尾根と西向きの尾根をもつ東丘陵部と、主に府センターが調査した小さな独立丘陵上をなす西丘陵からなる。東丘陵南尾根の先端部こあたる27〜29号墓および西丘陵の33号墓以南が調査されていないものの概ね全容のわかる墳墓群である。調査の結果、19墳墓(埋葬空間)から148基の埋葬施設が検出された。尾根上の多くの墳墓は、方形もしくは三日月状に埋葬空間としての平坦面を削り出して1基から19基の埋葬施設を営んでいる。また、21号墓や32号墓のように尾根からはずれた丘陵斜面においても、起伏を利用して小型の台状墓を築き1〜5基の埋葬施設を営んでいる。ほぼ同時期に南西約1qの位置で営まれている三坂神社墳墓群(54)が比較的墳丘区画の明瞭な台状墓群であるのに対して、当墳墓群は、墳丘区画が不明瞭で土壙墓群として捉える考え方もある。
 最も古い台上墓は、東丘陵西尾根の先端に位置する18号墓で、中期末に営まれたものである。大小6基の埋葬施設内には、小口板を側板で挟み込む形の組み合わせ木棺が据え置かれていた。いずれの埋葬施設でも、棺の蓋をしたのち、棺蓋ならびに裏込め上に割った土器をばらまく「墓壙内破砕土器供献」が行われている。墳丘の中心近くに位置し、大型の墓壙を持ち墳丘中央部付近に成人を埋葬する第2主体部、第6主体部が古く、二つの埋葬施設に寄り添うように配置された4基の埋葬施設は後出する。以後、いずれの墳丘でも墳丘中央部付近の埋葬施設が古く、周辺に行くほど新しいという傾向は繰り返される。18号墓以降、造墓活動は東丘陵西尾根を丘陵上に向かって展開するのと合わせて西丘陵でも開始される。後期初頭に位置づけられる17号墓などでは、鉄鏃や玉類の副葬が開始される。後期前葉から中葉にかけで造墓活動は東丘陵南尾根で爆発的に展開する。1号墳下唇墓、14−1号墓、14−2号墓、15号墓、24−1号墓、24−2号墓、25号墓、26号墓で一斉に造墓活動が始まり、中葉まで継続的に埋葬が行われている。副葬品の質・量ともにこの時期が最も充実し、1号墳下層墓第5主体、26号墓第2主体部では、鉄刀などが、24−1号墓第9主体部、26号墓第1主体部らはガラス勾玉が副葬されるようになる。
 左坂墳墓群の埋葬施設148基の内訳は、木棺墓114、土壙墓28、上器棺墓2、構造不明4である。木棺墓は、小児棺と思われる小型のものを含む。墓壙規模の最大のものは、18号墓第6主体部で、長さ4.07m、幅2.33m、深さ1.25mを測る。木棺規模も18号墓第6主体が最大級で、外寸で長さ2.69m、帽0.89mを測る。同規模の木棺は、西丘陵の34号墓に3基ほど見られる。しかし、多くの成人棺は、長さ1.8m前後、幅0.6m前後のものである。土壙墓は、いずれも木棺墓に較べて小型のものが多く小児用の埋葬施設と考えられる。土器棺は、西丘陵の34号墓と東丘陵の斜面にある32号墓でのみ見つかっており、37基の埋葬施設の内4基が土器棺であり土壙墓がない三坂神社墳墓群とは様相が異なる。木棺墓、土壙墓計142のうち、墓壙内破砕土器供献は89の埋葬施設で見られる。最も古い18号墓ではすべての木棺墓で墓壙内破砕土葬供献が行われていたのが、時期を経て減少傾向にある。墓壙内破砕土器供献が行われた89基の埋葬施設のうち、2種類以上の土器を供献している埋葬施設は16基で、多くが壷、甕を1個体供献しているものである。墓壙上の土器供献については、表土の流出などを考えると存否の認定には難しい点が残るが39の埋葬施設で確認できた。後期の前葉までは、墓壙内破砕土器供献が主体で、墓壙上の土器供献は前葉以降の埋葬施設で墓壙内破砕土器供献とともに行われている。副葬品を持つ埋葬施殻は言木棺墓62基、土坑墓1基の計63基である。多くが成人棺であるが、24−1号墓第9主体部のように、小児棺で勾玉4、ガラス小玉343、ヤリガンナ1を持つものもある。1号墳下層墓の中心的な埋葬施設では、鉄刀1、鉄鏃2、ヤリガンナ1を、26号墓の中心的な埋葬施設である第2主体部には、素環頭鉄刀1、鉄鏃2を副葬している。墳墓群全体の副葬品の総数は、武器として、鉄刀2、鉄剣1、鉄鏃26、銅鏃1、鉄製工具として、ヤリガンナ11、刀子4、装身具としてガラス勾玉7、ガラス管玉21、緑色凝灰岩製管玉31、ガラス小玉6、584である。赤色顔料が棺内から出土した埋葬施設は、木棺墓38基、土坑墓1基の計39の埋葬施設である。分析の結果、多くが水銀朱であるがベンガラも含まれることがわかっている。
意義
 大宮町内では弥生時代後期前半の墳墓群が、三坂神社墳墓群、左坂墳墓群、今市墳墓群(56)、大谷墳墓(71)と4遺跡調査されている。この4遺跡は、いずれも、丘陵上に築かれた台状墓であること、墳丘上に大小の埋葬施設を持つこと、墓壙内破砕土器供献を行うこと、そして鉄製武器、工具類および装身具などの副葬品を持つことなどの共通点が認められる。一方、群構成の在り方、埋葬施設の配置や数、副葬品の量などにおいては差が認められ、被葬者集団になんらかの差異があったことを示している。造墓期間が長く丹後地域で最大の墳墓群である左坂墳墓群では、副葬品が途中から用いられるようになること、三坂神社墳墓群の時期には三坂神社墳墓群に比べて副葬品の量が少ないこと、その後、大陸製と考えられる鉄刀やガラス勾玉を副葬する埋葬施設が誕生するなど、墳墓群の被葬者集団が時間とともに発展していく姿がうかがえる。しかし、発展後も副葬品豊かな中心的な被葬者と他の被葬者の間の格差は小さい。左坂墳墓群全体では膨大な副葬品が秘められる一方、首長墓が集団基の中に埋没している姿は、当時の社会構成を考える上で重要な情報を提供している。 


『京丹後市の考古資料』(図も)
 〈 左坂横穴群・里ケ谷楼穴群(ささかおうけつぐん・さとがたにおうげつぐん)
所在地:大宮町周枳字左坂、里ケ谷
立 地:竹野川中流域右岸丘陵斜面
時 代:古墳時代後期〜奈良時代
調査年次:1991年(府教委)、1992、1993、1995年(府センター)
現 状:国営農地
遺物保管:丹後郷土資料館、市教委
文  献:C089、C091、C099、C106
遺構
 左坂横穴郡、里ケ谷横穴群は、左坂古墳群(74)の営まれた丘陵の南斜面に営まれた古墳時代後期から奈良時代中葉にかけての横穴墓群である。
 左坂横穴群は、左坂古墳群G文辞の南斜面に立地し、7世紀中葉にA支群で6基が営まれる。次いで、7世紀後半から8世紀前半かけてB支群で13基の横穴墓が営まれ、8世紀中葉に火葬墓1基が営まれて造墓活動が終了している。A支群は、4号横穴に代表されるように、長い墓道をもつものが目立つ。供膳用の土器類は玄室内から出土するが、横瓶、提瓶、大型の甕などは、玄門部の外側に供えられているものが多い。8世紀前半になると、11号横穴のように玄室床面積が1uに満たないものも築かれている。床面槌が1.3uのB6号横穴からは焼骨が出土しているので、火葬骨を埋葬するために横穴が小型化したことを調査担当者は報告書で述べている。
 A5号横穴は、天井部が完存していたこと、天井高が1.0mと低いこと、8世紀前半まで迫葬が行われるが、その後再利用されなかったことが影響してか人骨の遺存状況が極めて良好であった。出土した人骨は、9体もしくは10体である。7人の成人と2人の小児確認されている。成人の内、性別の判明するのは男性3名と女性1名である。どの遺体も2次的移動を受け、埋葬後しばらくしてかたづけを行っていたことが予想されている。
 左坂古墳群G支群の北側、左坂古墳群B支群の南斜面には、里ケ谷横穴墓が存在する。6基が確認され、左坂横穴墓同様、7世紀前半に造墓活動を開始し、7世紀後葉に造墓活動を終了している。
遺物
 土師器、須恵器および金属製品が出土している。金属製品は量的に少なく、刀子、鏃が主体である。耳環が出土した横穴は、左坂A4号、里ケ谷3、4号横穴のみである。
意義
 大宮町周枳および三坂では北から里ケ谷、左坂、大田鼻、有明の4つの横穴墓群、計72基の横穴墓が調査された。いずれも概ね7世紀前半に造墓活動が開始され、8世紀前半まで造墓活動が続けられる。被葬者数は300を超えるものと考えられよう。8世紀前半には火葬へと変化することもうかがわれ、造墓集団を考える上で非常に貴重な資料である。 


『京丹後市の考古資料』
 〈 左坂経塚(ささかきょうづか)
所在地:大宮町周枳小字幾坂
立 地:竹野川中流域右岸丘陵上
時 代:平安時代後期〜鎌倉時代前期
調査年次:1993年(府センター)
現 状:消滅(国営農地)
遺物保管:市教委
文 献:F200
遺構
 標高79mの左坂B1、2号境の墳項部から検出された経塚である。B1号境の墳丘上で検出された経塚は4基ある。SX01は、径1.2mの土壙の西壁に横穴を掘るものである。横穴内には、土師製筒形容器を外容器とする鉄製経筒1口が埋納されていた。SX02、03は、SX01を切って造成された経塚であり、いずれも土師製筒形容器1口を埋納する。SX04は、土壙東側に横穴が設けられ、木製容器が置き換わったと推定される粘土塊が出土している。なおSX01〜04の横穴部分は、容器埋納後に石で塞がれていた。
 B2号墳と重複して検出された経塚SX05は、径1.3mを測る土壙の北壁に横穴を掘るものである。横穴内には、土師製筒形容器を外容器とする銅製経筒1口が埋納されていた。土壙埋土は、締まりの悪い土が堆積しており、一定期間空間が維持されたものと推定されている。
遺物
 各経塚より、土師製筒形容器が各1口出土しているほか、SX01では鉄製経筒が、SX05では銅製経筒が出土している。鉄製経筒は、鉄板を鋲留するものである。銅製経筒は、銅板を鋲留するものであり、蓋には花弁つまみがある。ほかにSX01土壙内より淳煕元宝(1174年初鋳)を下限とする銅銭23枚、SXO5土壙より元祐開宝(1086年初鋳)を下限とする銅銭3枚、青白磁合子のほか、鏡背部に「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と墨書する双鳥網文鏡が出土している。
意義
 本経塚は、権現山遺跡(144)とともに、鉄製経筒を埋納する教少ない事例として貴重である。また銅製経筒を埋納するSX05から出土した墨書を有する双鳥網文鏡は、珍しい事例である。 


現地の案内板↓
周枳の地図

 〈 周枳(すき)
周枳はどんなところ?
 この看板がある大宮売神社は、平安時代の『延喜式』にすでに記載のある古い神社です。この神社のある場所は、弥生時代前期から生活の痕跡が確認でき、古墳時代中期は祭祀を行ったと思われる遺跡が出土しています。古墳時代に祭祀を行った場所が大宮売神社へとつながるようです。本殿前の石灯籠2基のうち1基は、徳治2(1307)年銘をもち、国重要文化財になっています。また境内地が京都府指定史跡に指定されているほか、神社の旧本殿は、江戸時代前記の建物であり、大宮町指定建造物に指定しています。
「周枳」とい地名は、平安時代に編纂された『和名類従抄』という書物に記された「周枳郷」がもとになっています。弥生時代には、多数のガラス玉や鉄製品を出土した左坂墳墓群が、古墳時代には丹後地域有数の密集度をほこる左坂古墳群が造られます。また飛鳥・奈良時代には、横穴墓が密集して造られます。
 寺は、江戸時代後期の山門をもつ周徳寺(曹洞宗)のほか、妙受寺(日蓮宗)・願成寺(浄土真宗)・薬師堂(浄名庵:曹洞宗)があります。神社は、大宮売神社のほかに荒塩神社・名所賀稲荷神社などがあります。また大宮売神社のお旅所となっている石明神は、もともとは古墳であったものです。 


いまだこれ以上の書は見当たらない、まったくもって皇国史観からは無視されたまま、彼らは黙殺せざるを得ないのだが、ワレラとしては一応は読んでおくべ書であろう。
『日韓古地名の研究』(金沢庄三郎)に、
キ、シキと類音の語尾を有するもの
 朝鮮の古地名中に又キ、シキと類音のもの多し、例へば達己(Tar-kui)、熱兮(Yor-hyoi)、熊只(Ung-ki)、斤烏支(Kuno-ki)、玉岐(Ok-ki)、阿尺兮(A-sihyoi)、多斯只(Ta-saki)、伐首只(Por-syuki)の如く又日本紀中の朝鮮地名にも斯二岐(シコキ)、布弥支(ホムキ)、沙鼻岐(サビキ)、枕服岐(シフキ)、都久斯(ツクシ)、伊斯枳(イシキ)、牟雌枳(ムシキ)等あり。此のキ、シキの語、もと亦都城山塞の義にして、新羅にて改称せし新旧地名を比較するに左の如く。
闕城 本 闕支(Kuor-ki)    悦城  本 悦只(Yor-ki)
潔城 本 結己(Kyor-ki)    儒城  本 奴斯只(No-saki)
何れも之を城と改めたり。日本紀にも朝鮮地名に意流村(ヲルスキ)あり、辟支(ヘキ)の山(ムレ)あり、百済の地名州流須岐(ツルスキ)を天智紀に州柔城(サキ)と記せる等其の例証多し。
国語に於て亦城をキ又はシキと訓じ、塹壕を穿ち塁壁を廻らしたる防備地を表せり。牧(ムマキ)(馬城)、棺(ヒトキ)(人城)、塹(ホリキ)(堀城)、柵(カキ)のキ、塞(ソコ)、塁(ソコ)、防守(サキモリ)のソコ、サキは即ち此の義にして、沖縄にて城をGu-Sukuと謂ふも亦同語なり。蓋し往古の都邑は一種の避難所にして必ず之を高地に設け、又は塁壁を繞らしたることは言語の上に徴して知るべく、英語Town(市)はもと墻壁の義にして、露語Grod(市)の原義亦柵なり。我国に於ける往時の皇都は何れも此種の防備ありたるものなれば、都の名にも瑞籬(ミズガキ)宮あり、柴籬(シバガキ)宮あり、広く称し百敷(モモシキ)の大宮と曰ふ。
磯城に都を遷されたるは崇神、欽明の二朝なれど、志芸山津見(シギヤマツミ)の神、敷山(シキヤマ)主、大倭彦スキ友の命、阿遅スキ高日子根の神、師木津日子命、豊城入彦命、淳名城入姫命等の御名の中にキ、シキの見えたるは都城を領し給へるよりの美称にして、往古よりキ、シキの存在せし証とすべく。敷島が大和国の冠辞より転じて我が帝国の別号となれる亦故ありと謂ふべし。さればキ、シキは日鮮共通の古語にして都城の義あるものと知らる。新羅を訓じてシラギと謂ひ、相楽を古くサガラキと謂ふは地名の下にキ(城)を加へたるものにして左記の如き類音の地名亦之と同例なり。…

このキ、シキといふ国語も、亜細亜大陸に於で、共同系譜を発見することが出来る。
   saha 小囲也。(全史語解巻一)
   saki-mui 守。   (蒙文彙書巻八)
   saka 城牆上女牆之口
   to-sku  荘地。(同巻十一)
   to-sku Ein Dorf、ein Ort wo Ackerleute wohnen.(Schmidt、Mongolisch-deutsch-russisches Worterbunch)
以上の蒙古語 saha、saki、saka、skuに通じて牆壁・荘園・防備の意義があって、国語のシキと一致する。…



こんな伝説も知られている。
吉六話
赤茶びん
雷を退治した話

周枳の小字一覧


左坂(ささか) セイゴ 里ケ谷 セバト 吹越(ふっこし) 中ノ井根 里山 猫ケ鼻 岡ケ鼻 岡ノヲテ 下川(したがわ)クゴ 下川(したがわ) 善福寺 向地(むかいじ) シミド ヨト 細谷 クボウ コモ谷 城ノ越 四十田(しじゅうだ) バショカ タバタ 土手下 幾坂(いくさか) 苗代谷 ドウド 堤谷 堤谷口 幾坂奥 妙寺(みょうじ) 寺ノ下 猪之尻(いのしり) 朝町(あさまち) 鯛ノ盛(タイノモリ) ホドワラ 岡ノ下 ユリガハナ 飛谷口 飛谷(とびだに) ユウゴ 湧田(わくだ) 松林庵(しょうりんあん) 涼田(すずみでん) 西(し)ケ谷 ビクニ 椎木谷(しいのきだに) コウショ 石田 石田口 栗ケ奥 天橋寺(てんきょうじ) 岡ノ宮 小仲 仲畑 外尾(とのお) 屋敷ノ下 ヲサ 辻の前 北村 岡ケ鼻 大石 小金堂(こきんどう) 寒水(かんずい) ヲイタ シミズ 小杉 トノゴ市 シヤダ谷 河辺内(こうべうち) 深田 谷ケ奥 馬場 宮ノ下 下森(したもり) 堀の谷 堀の谷奥 片倉奥 片倉 棚田 谷口 薄田(うすだ) 今安 ソワ 今市(いまち) 田井垣 片木 トイデ 下沖(しもき) 下窪(しもくご) 亀ケ窪(かめがくご) 亀ケ池 平田 ヲンバリ 長田(ちょうだ) 餅田 下鶴川 ヤゴ モトレ 八反田 中溝 古屋敷 川向 鶴川 ヒマキ アミダ堂 丸田 草田 芦田 高縄手窪(たかなわてくご) 高縄手 六反田 主基田(すぎんだ) ツトデ 鹿島田 藤内 三十田(さんじゅうだ) 向田 本丸 内神(うちかみ)


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『大宮町誌』
その他たくさん



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