丹後の地名

丹波王国アンコール
丹波大王家・丹波氏(たんばし)


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丹波大王家の物語
丹波氏の概要


《丹波氏の概要》

大丹波国の大王家
赤坂今井墳丘墓出土の首飾りを復元したとか→

丹波国を冠した古代の丹波氏。タンバシと読むのではなく、タニハノウジなのかも知れないが、ここは丹波国の大王家一族を呼ぶもので、丹波王家の物語である。
今年は丹後建国1300年とか、記念に我田引水を承知で風呂敷を広げてみることとしよう。

丹波国といっても、古くさかのぼればさかのぼるほど、その領域はあいまいに広がり、今の丹波はもとより、本貫地の丹後、それに但馬、若狭、さらに山城や摂津の一部までも含み込んでいそうな広大なもの。
伴とし子さんの『応神と仁徳に隠された海人族の真相』より↓


スゴー、ずこいに決まっているのだが、↑この書は触れてないが、伊勢には丹後の比遅乃麻奈為の豊受大神を祀る伊勢の外宮が鎮座しているし、また三輪山の麓、天理市に丹波市(たんばいち)というところがある。丹波荘という荘園があってその中世市場ではないか、と言われている、しかし中世市場は三日市とかそうした名で、丹波市という名は何か古代的な名である。ここは布留の石上の地で何か古くから丹波と関係があったのかも知れない、一時丹波へ逃れていたオケヲケの父親・市辺押磐皇子が都していた地という伝承もあるし、崇神陵や景行陵も近くにある、古代大和の心臓部にも丹波の力がかなり強く伸びていて、一族は天皇だったかも知れないような地である。
今は天理市になるが、天理教の本部がここにあるからそう名付けられた、もしそれがなければ丹波市市、あるいは丹波市であったかも知れない。今は丹波市小学校がある。丹波市はもともとは単に丹波と呼ばれていたというから丹波小学校が丹後の中心と大和の中心にあることになる。どうした由来かは確かなことは不明ながら、当地の丹波王朝と深い関係があることは確かそうで、こここそが大丹波国の大和本店の地だったかも知れない、ともかくも名神大社・石上神宮や大和坐大國魂神社三座(大和神社)、さらに和爾氏の和爾下神社があり、古代の和爾坂というのはここ、穂積氏発祥の穂積邑(現前栽町に比定)もすぐ近くである、丹波市は鉄とや武器のマーケットだったかも、よくわからないがこうしたものも視野に入れながら、古代の大丹波国と呼んでいる。

丹波の本国はしかし広大なわりには、まんなかあたりに広い土地がなく、山ばかりで、たいして広くもない小盆地が飛び飛びにある。どうしても経済が、従って政治権力が集中しにくい土地である。相手もたいしたことがなく、大丹波国内が団結しているうちはいいが、それぞれが好き勝手にやりだしたら、もう消えてしまって終わりという大国である。

大王家・丹波氏といっても名は同じでも、昔から一系列につながるものなのか、それともどこかで断絶があり、血統的にはつながらないものなのか、誰にもシカとはわからない。たぶん直接一本にはつながらないだろうが、何も関係がないということもなかろう。まず古王朝から見ていこう。




旦波大縣主由碁理(たにわのおおあがたぬし・ゆごり)

『古事記』開化天皇条に、「この天皇、旦波の大県主、名は由碁理が女、竹野比売を娶りて生みたまへる御子、比古由牟須美命」とあり、また『日本書紀』開化天皇六年条に「天皇、丹波竹野媛を納れて妃としたまふ。彦湯産隅命を生む。」とある。

旦波大縣主由碁理-竹野比売-比古由牟須美命(彦湯産隅命)…

と続く丹波王家の系図が記紀には記されている。
旦波大縣というものがこの時代から本当にあったのか、どうかはわからない、大丹波国の王家を、大和が旦波大縣主家とそう勝手に記しただけのことかも知れない。最初から大和国というものがあってそれは旦波国よりも数段も格上かのごとき思い込みか信仰で記紀は記されるが、丹波と大和の対等か丹波が目上の同盟ができたようにも思われるのである。大和大王家の娘も交換として同様に丹波氏に嫁いだと思われるが、それは抹消されて、大和にとって都合のわるい歴史は消されているかも知れない、丹波側には記紀のような史書は残されていないから確認はできないが、丹波は大和までは確実に勢力を広げたようである。
大縣主は旦波と河内の志畿大縣主しか記紀に見えない。時代が下るが志畿大縣というのは河内大和の国堺、生駒山地の信貴山のあるあたりで、ここの大縣主は雄略天皇と変わらない立派な屋敷に住んでいたという。逆にいえば天皇といっても雄略時代ですら志畿大縣主とそうかわらない程度の大和の大縣主家であったということになりそう、彼は大和国磯城郡、のちに分かれて城上(しきのかみ)郡と城下郡になるが、初瀬川流域を領域とした大王というか、本当は磯城大縣主くらいだったと思われる。なぜか同じシキの名でおそらくは河内国志紀郡とは兄弟か親子ではなかろうか、舞鶴にも布敷の地名があるがシキは坑道を意味することもあるが、丹後でいえば周枳(すき)や岩木・船木・橋木・弓木・志楽とかもあるいは同じで元々は朝鮮語のキ(城・柵)のこと、転じてその麓の都邑や村のことか思われる。丹波氏もそうだと思われるが、ほかの二つもまた故国は同じかと思わざるを得ない。そうしたことで一般に大縣というところは渡来人が多く、というか渡来人ばかりで人口も多く経済文化政治の発達したところで当時の先進地である、後の国家が作られているユリカゴの地であったと思われる、こうしたところから大和のシキが頭を一つ分出してきたのではなかろうか。
雄略はワカタケルというが、こんな名はどこにもありそうな太郎さん花子さん的な名である、だから雄略は大泊瀬幼武尊、大長谷若建命と呼ばれていたので、単にワカタケルではない。オオハツセと限定されていればともかくも、埼玉稲荷山鉄剣の「獲加多支鹵大王」としたり、ましてや倭王・武とするにはどうも記の記事とあわないように思われる。
志畿大縣は後の河内国大県郡で、志畿大縣は大旦波と比べればたいした広さのない一郡程度の広さである、旦波大縣主も、おそらくは直接の支配地はそれほど大きな領土だったとも思えないのだが、一つか二つの郡(丹波・竹野郡)くらいではなかったろうか、しかしあちこちに小王様がいて、その連合王のようなものでなかっただろうか。
「室尾山観音寺神名帳」「竹野郡五十八前」に、正四位上 大懸明神が見える。尾張二宮の大縣神社は大懸神社とも書くようで、もし旦波大縣のことなら、この社あたりがその中心であったかも知れないが、残念にも今はどこにあったものかも不明である。竹野郡の東側宇川一帯は中世は与謝郡ともなっていて、旦波大縣主は竹野川流域に福田川流域を加えた範囲ではなかったかと思われる。加悦谷は小さな山を越せばすぐなので、こことも恐らくは関係が強かったと思われる。久美浜は後に姻戚で加わったよう。
由碁理は湯垢離、湯立ての神事から来たような名だが、むしろ湯凝りで、溶けた金属が冷えて凝り固まったものを呼ぶのではなかろうか。比古由牟須美命(彦湯産隅命)も湯がムスということで湯から生まれる神という意味ではなかろうか。いずれも溶けた金属から誕生する金属をいった名のようで、扇谷から鋳鉄製の斧が出ているが、フツーは鉄を溶かせるだけの技術はなかったとされ、銅精錬の技術者集団かと思われるが、はたして人なのか、それとも神なのかわからない名と思われる。


丹波道主命(たにわのみちぬしのみこと)
道主というのは国主のことで、丹波国王ということだが、ただの国主とは違う、北海道と「道」は今でもただの都府県とは違って広大だが、そうした感覚で、丹波方面に位置した幾つもの幾つもの国々を治めた広大な国々を治めた主といった意味か。「室尾山観音寺神名帳」には「国主明神」というのが何社か見られるが、これは大国主や天皇を祀ったものでなく、丹波道主命を祀った社のようである。
『書紀』崇神紀に、「丹波道主命を丹波に遣したまふ」とある、四道将軍の一人とされる、しかし『古事記』崇神記では、「日子坐王は、旦波国に遣し、玖賀耳御笠を殺らしめたまひき」とあって旦波国に遣わされたのは、道主命でなく、父の日子坐王であるとしている。
日子坐王の系統は和爾王朝と普通呼ばれていて丹波王朝とは区別されるが、丹波道主と日子坐王はあるいは同一人物であるかも知れないことになってくる。もしそうだすると、丹波はずいぶんと広くなり、和爾王朝も確実に含まれてしまう。
また垂仁紀の狭穂彦王謀叛の記事に、「道主王は稚大和根子彦大日日天皇の子孫、彦坐王の子なり。一に云はく、彦湯産隅王の子なりといふ」とあって、小さく書かれているがこれがどうやら本当かも知れないことにも思われる。そうだとすれば、丹波国王家系図は、

旦波大縣主由碁理-竹野比売-比古由牟須美命-丹波道主命(=日子坐王)-比婆須比売…



丹波王国の全盛期
『古事記』の開化天皇条の全文は、
 〈 若倭根子日子大毘毘命、春日の伊邪河宮に坐しまして、天の下治らしめしき。
此の天皇、旦波の大縣主、名は由碁理の女、竹野比売を娶して、生みませる御子、比古由牟須美命。又庶母伊迦賀色許売命を娶して、生みませる御子、御真木入日子印惠命。次に御真津比売命。二柱 又丸邇臣の祖、日子国意祁都命の妹、意祁都比売命を娶して、生みませる御子、日子坐王。一柱 又葛城の垂水宿祢の女、ワシ比売を娶して、生みませる御子、建豊波豆羅和気。此の天皇の御子等、并せて五柱なり。故、御真木入日子印恵命は、天の下治らしめしき。其の兄比古由牟須美王の子、大筒木垂根王。次に讃岐垂根王。此の二王の女、五柱坐しき。次に日子坐王、山代の荏名津比売、亦の名は苅幡戸弁を娶して、生める子、大俣王。次に小俣王。次に志夫美宿禰王。又春日の建国勝戸売の女、名は沙本之大闇見戸売を娶して、生める子、沙本毘古王。次に意邪本王。次に沙本毘売命、亦の名は佐波遅比売。次に室毘古王。又近淡海の御上の祝が以ち伊都玖、天之御影神の女、息長水依比売を娶して、生める子は、丹波比古多多須美知能宇斯王。次に水之穂真若王。次に神大根王。亦の名は八瓜入日子王。次に水穂五百依比売。次に御井津比売。又其の母の弟意祁都比売命を娶して、生める子、山代之大筒木真若王。次に比古意須王。次に伊理泥王。凡そ日子坐王の子、并せて十一王なり。故、兄大俣王の子、曙立王。亥に菟上王。此の曙立王は、伊勢の品遅部君、伊勢の佐那造の祖。菟上王は、比売陀君の祖。次に小俣王は、当麻の勾君の祖。次に志夫美宿禰王は、佐佐君の祖なり。次に沙本毘古王は、日下部連、甲斐国造の祖。次に意邪本率王は、葛野の別、近淡海の蚊野の別の祖なり。次に室毘真玉は、若狭の耳別の祖。其の美知能宇志王、丹波の河上の摩須郎女を娶して、生める子、比婆須比売命。次に真砥野比売命。次に弟比売命。次に朝廷別王。此の朝廷別王は、三川の穂別の祖。此の美知能宇斯王の弟、水穂真若王は、近淡海の安直の祖。次に神大根王は、三野国の本巣国造、長幡部連の祖。次に山代之大筒木真若王、同母弟伊理泥王の女、丹波能阿治佐波毘売を娶して、生める子、伽邇米雷王。此の王、丹波の遠津臣の女、名は高材比責売委して、生める子、息長宿禰王。此の王、葛城の高額比売を娶して、生める子、息長帯比売命。次に虚空津比売命。次に息長日子王。三柱。此の王は、吉備の品遅君、針間の阿宗君の祖。又息長宿禰王、河俣稲依毘売を娶して、生める子、大多牟坂王。此は多遅摩国造の祖なり。上に謂へる建豊波豆羅和気王は、道守臣、忍海部造、御名部造、稲羽の忍海部、丹波の竹野別、依網の阿毘古等の祖なり。天皇の御年、陸拾参歳。御陵は伊邪河の坂の上に在り。  〉 

まるで日子坐王条であり、日子坐王とは実は丹波道主命だとすれば、まるで丹波道主天皇条である。開化は竹野比売に取り込まれた道主命の傀儡王だったのかも知れない。
誰も認めないだろうが、こうした歴史が隠されているかも知れない。しかも竹野比売は開化妃、比婆須比売は垂仁妃である。

旦波大縣主由碁理-竹野比売(9開化妃)-比古由牟須美命-丹波道主命(日子坐王)-比婆須比売(11垂仁妃)-(12景行)-

まるっきりの超大丹波王朝のごとき観を呈した、もっと言えば大和国とは丹波国の出店のような観を呈した、日本国家の背骨がつくられてくる最初の時代の栄光の歴史というか伝説というのか。

もう少し系図が記紀によってたどれるが、もうやめ、としよう。神功皇后もつながってくるので大変な話、丹波なくして日本はなかろう。
丹波古王家の地元における拠点は多久神社→竹野神社と思われる。竹野川流域が彼らの拠点であったろう。日本海に開いた金属などの最先端技術の大国であったと思われる。
弥生~古墳中期頃にかけての時代ではなかろうか。



市辺押磐皇子(20?) 忍海天皇(22?) オケ(24仁賢)ヲケ(23顕宗)の中王朝

布留の石上、丹波市(たんばいち)に都したと伝承される、市辺押磐皇子というのもカジヤ的な名である。押磐は大岩のことでなかろうか、お岩さんという幽霊物語があるが、彼女の目はおかしい、あれはカジヤの目ではなかろうか、こうした名はカジヤでなかろうかと思われる。その子がオケヲケで丹波小子と呼ばれたというから、父親の市辺押磐皇子というのは丹波天皇と呼ばれていたかも知れない。丹波から播磨に逃れたヲケが歌う。顕宗紀に、

市辺宮に、天下治めたまひし、天万国万押磐尊の、御裔僕らま

市辺というのは、式内社・石上市神社のあたりとフツーいわれるが、丹波市のあたりの意味かも知れない。子のオケヲケは丹波小子と呼ばれていたから、父も丹波市に関係があるのではなかろうか。そこで天下治めたというのだから、記紀にはないが、天皇に即位していたように思われる、雄略前に丹波市あたりで天下を治めた押磐天皇ということになる。石上神社は物部氏の神社で、武器庫といわれるが、その武器を作っていた鍜冶王ではなかろうか。
子が暗殺を恐れて丹波へ逃れ保護されているには、何か丹波と繋がりがあったことは間違いがないと思う。古王朝の丹波・竹野ではなく、今回は与謝・加佐が舞台になる。穂積氏(私の推測では木積神社、山王神社)や日下部氏や忍海氏なども複雑にからんでいそう。
オケ・ヲケの伝説
また「丹波天皇」の姉は飯豊青皇女で、若狭高浜町青・青海神社と関係がある、また彼女は天皇であったらしい記録がある、忍海天皇、だから若狭風にいえば青海天皇・高浜天皇、加佐郡風に書けば凡海天皇・加佐天皇であったとも考えられる。
丹後に三大古墳が作られた時代ではなかろうか。丹後側にはこの王朝を影で支えた地元丹波王朝の歴史記録は残されてなく、伝説が残されているだけである。
全長145メートルの蛭子山古墳(与謝郡明石)↓
蛭子山古墳(加悦町明石)
文化や経済がさらに発達してくると、丹波の地形は不利である。小盆地しかない土地では日本のセンターにはなり得ない。そのうえ川上の鉄や水田開発のために川口の潟湖が閉じてきて、交易路の港が埋まり、川が埋まる。大丹波国の港が消え水路が消えた。

継体即位前紀に、丹波桑田郡にいた倭彦王を天皇に迎えようとしたとの記事がある。迎えの大行列に彼は驚いて逃げてしまったという。
ここにも丹波王朝があったのかも知れない、天皇に推挙されるほどの力を丹波はこの時代でももっていたようだが、これ以上はよくわからない。歴史の変わり目に必ずといっていいほど丹波が顔を出すようである。



金銅装環頭太刀

後に港は久美浜に移るのか、こちらの文化が高いようで、そこ出土の「金銅装飾環頭太刀」→

丹波国造家

その後の丹波国の新王朝。国といっても時代が下れば下るほどどどんどんと属国になって、やがて完全に消えてしまう。国造といっても伝統の実権はしだいに奪われて名だけのものとなっていく。(まるで現在のどこかの情けない、国の呈もなさないバクチしか能のない国のようである)。面白くも何もないロマンもクソもないが、史料が揃ってきて、この新王朝だけはよく郷土史書にも書かれている。王国の落日、残照の記録であるが、それでもだいたいの巨大さが復元できるかも…

後の丹波氏であるが、上↑の古・中王朝家とつながるというよりも、尾張氏の一族で、大きくいえば物部氏系の氏族と自称している。尾張へ移動し熱田神宮を祀り大繁栄する前であろうか、もともとは大和葛城高尾張にいたのであったが、その方面から移動してきたものかとも思われるようなことである。
先代旧事記の天孫本紀に、始祖・饒速日尊(天火明命)の三世孫・天忍人命が葛城出石姫を妻として二男を生んだとある、葛城にいた出石だから天日槍系の人だろう、角屋姫ともいい、異母妹ともあるので、尾張氏と日槍氏はかなり通婚が進んでいたと思われる。もっと言えば尾張氏ももとは日槍系(加羅系)なのかもわからないが、その子が天戸目命で、姓氏録には天礪目として但馬の朝来直の祖とある、但馬の元の一宮の粟鹿神社のあるあたりであろうといわれ、但馬国造家でなかろうかともいわれる。
天戸目の孫・建田背命は、神服連、海部直、丹波国造、但馬国造等の祖としている。
天日槍氏と尾張氏から丹波氏や海部氏が生まれたということのようである。当地のもともとの古王朝家である旦波大縣主由碁理の系も天日槍氏系と思われ、さほど軋轢もなく、入婿的にうまく定着できたのではなかろうか。

神服連(かんはとりのむらじ)
摂津国島上郡式内社に服部神社(大阪府高槻市服部)がある。式には、かむはとりの訓があるので、ここのあたりが本貫地か。神衣を織る氏族といわれる。
ところで、「神服連海部直」が『丹後旧事記』に見られる、
神服連海部直。日本古事記日本旧事記に曰く神服連海部直は皇孫六世旦波国造、但馬国造等の祖也、大日本根子彦太瓊尊治下御世(人皇七代孝霊天皇)此館跡今も川上庄海部の里に殿垣六宮廻といふ田地の字ありと細川少将忠興順国志にあり王代の人住を我名とせる事其例多し川上の庄は凡当国の国府の始なるべし。
とある。テキストは「海辺の亙」となっているが、なおしてある。
『丹哥府志』に、【磯砂山笛原寺】(真言宗)。神服連海部直(人皇七代孝霊天皇の御宇に熊野郡川上の庄に国府を造る)の子笛連王、母を節媛といふ、人皇八代孝元天皇の仕へ奉り丹波与謝郡比治の里笛原に国府を造る、比治は今丹波郡比治山の麓五箇の庄なり。
とある。
孝霊天皇の時代というが古すぎて怪しいし、連と直というカバネが二つもあるのもオカシイ。海部直といっても全国いっぱいいるので、神服連系の海部直ということかも知れない。それだってあちこちにいたようだが、久美浜にもいて、丹波国造に任じられたこともあったかも知れない。これが後の丹波直氏、丹波国造氏になっていったのかも知れない。
連(むらじ)は村主の意味で、神別すなわち皇室と祖先を異にする有力な氏族と、普通はされている。直(あたい)はだいたい国造や縣主とその一族の特有の姓といわれる。

但馬国造家
ここでいう但馬国造家がどこなのかよくわからないようである。粟鹿神社か養父神社のあたりか。国造本紀によれば、「成務朝の御世に、竹野君と同祖・彦坐王の五世孫の船穂足尼を国造に定め賜ふ」とある。
粟鹿神社の社伝では、船穂足尼に始まる但馬国造家ゆかりの神社と伝え、「粟鹿大明神之記」には大国主命を祖とする神直が粟鹿大明神の祭祀をつかさどり、但馬国造に定められたと見える。「粟鹿神社由来調書」「粟鹿大社紀伝集成」などでは、考徳天皇の皇子有間皇子の弟表米皇子が粟鹿に流され、のち粟鹿明神の助力で異国の賊の来襲を退けた功により表米皇子の子が日下部氏を名乗り粟鹿神社を奉祭したという。
また多遅摩(但馬)氏は養父神社を奉斎し、但馬国造として円山川流域を支配した氏族であるとされている。7世紀末頃になると、日下部氏が台頭し、但馬国造となり、以後日下部氏の一族は中世に至っても土豪として当地方に勢力を振るった。という。

海部直氏
先代旧事記がいう海部直氏がどこの地の海部直氏かがわからない、同名の氏族は全国に多い、この近く丹波但馬なら但馬海直氏かも知れないし、同族の籠神社の海部氏かも、あるいは久美浜海士の氏族かもわからない。籠神社の勘注系図では、火明命を祖としているから、ここかも知れない。代々「丹後国造海部直誰々」とは書かれているが、国宝だが系図だから、どこでもそうであるように売り込むための宣伝材料的な目的があったことは違いなかろう、大ボラもあるかも、系図一般の信用度は薄い。「ウチは天皇家の子孫でね…」とかの伝承系図は普通にもけっこう聞くし、日本は神国、一等国の皇民とかいまだ思い違いしている連中も多いのであって、どなたかメールを下さり「あれは9割はウソですな」とか、地元以外ではきびしい、そこまで私は云わないが、1割くらいはそうかも
歴史書とくに系図は大ボラ吹き。本当のことを書けば、あまりにもみじめに思うのか、ウソだ、日本はよい国正義だなどといいはじめる。交通事故などはどこでもありますがな、一人二人敷いて殺したといってワシだけを叩くな、ワシだけが悪いのではないとか、そうした理論で正当化できたりはすまい、被害者や第三者がいうのならともかく、加害者が口にするようなことではなかろう。
大ウソだと言っても何も始まらない、そんなことはわかっている話で、残された史料がそうしたものしかない以上は、仮にウソであったとしてもそこからでも歴史の真実をくみ取っていかねば、何も意味がないではないか。人間が書く物だから知っている者ならまったくのウソも書けないのである、まったく知らない者でなければポロポロとホントも入る、史家のつもりならウソにも真理を見つけねばなるまい。
歴史はウソだらけ、世の中は間違いだらけ、史家もやることはいっぱい、ということになる。真剣に噛みついて下さい、ナーナーで流されて黙っていれば世の中は決して住みよくはなりませんぞ。

丹波国造家・丹波直氏
国造本紀では、
「丹波国造
成務朝の御世に、尾張国造と同祖・建稲種命の四世孫の大倉岐命を国造に定め賜ふ」とある。

その後の史料も限られ、中王朝最後の時代のものしか見られないが、『続日本紀』に、「延暦二年(783)丹後国丹波郡の人で正六位上の丹波直真養を丹後の国造に任じた。」とあり、丹波直氏が丹波郡を本拠としていたのは確かかと思われる。
天平九年(737)の『但馬国正税帳』に「丹後国軍団の少毅であった无位の丹波直足島」但馬国駅伝使にも任命されたという。
延暦四年(785)正月 丹波国天田郡大領従六位下丹波直広麻呂に従五位下を授く」 (続日本紀)。貞観八年(866)閏三月、「丹波国丹波郡人左近将監従六位上丹波直副茂 本居を改めて山城国愛宕郡に貰附す」 (三代実録) などが見られ、丹波直氏が郡司として任じられている。
『丹後地域史へのいざない』から引かせてもらうと、
平城宮出土の木簡に与謝郡謁叡郷の丹波直?手。
『朝野群載』永祚二年「丹後国国司解」に采女従五位下丹波直勝子。桑田郡にも船井郡にも丹波直氏の記録が残る。(下の引用↓)
丹波・丹後・但馬で伝統的な在地豪族として勢力を保持したことが知られている。こうしたことから丹波郡を本拠にした丹波直氏が国造家であったと思われる。

海部氏の本系図では、健振熊宿禰の注文に「此若狭木津高向宮ニ海部直ノ姓ヲ定メ賜テ、楯桙賜リ国造ニ仕エ奉キ品田天皇御宇」とある。勘注系図には「十八世孫丹波国造健振熊宿禰」の注文に「息長足姫皇后が新羅国を征伐之時、丹波・但馬・若狭之海人三百人を率、水主と為すを以て奉仕。凱旋之后、勲功に依って、若狭木津高向宮に海部直の姓を定め賜り、桙楯等賜り国造に奉仕、品田天皇御宇、ゆえに海部直は亦、丹波直と云う、亦但馬直と云う。熊野郡川上郷安田に葬る」とある。しかしその前の十六世孫にも「丹波国造大倉岐命」とあり、注文に桑田郡大枝山で大蛇退治をして丹波国造を定め賜ったとある。十七世孫も「丹波国造明国彦命」とあり、系図そのものの丹波国造の肩書きが矛盾している。国造というのは一代限りの一期間の職名というよりも、この時代なら世襲するものであろう。じいさんが国造なら孫も国造でなかろうか。丹波国造の肩書きはそもそも本系図にはいっさい書かれていない、こうした大事な肩書きを忘れたりはすます、勘注系図にかかれているだけである。
後の養老の頃に海部直氏が三氏に分かれて、弟が丹波直氏となるまで丹波国造の肩書きは続くと系図は言う。
海部氏からは自分たちが本流としてそう書くのだろうが、しかし本当は最も大きい丹波氏が本流で海部氏はそこから分かれたものかも知れない。ともかくも三家に分かれ、海部氏と丹波氏と舞鶴笶原神社の社家に分かれた、坂根氏などがその子孫のようである。
丹波氏の祖を「海部直千足」その子を「海部直足嶋」と系図は記している。海部直足嶋は「正税帳」の人であろうが、海部直千足は、ひょっとすれば『続日本紀』の和銅四年の「大初位上の丹波史千足ら八人は、外印(太政官の印)を偽造し、人に位を偽って与えたので、信濃国に流罪にした」の人を書いたのではなかろうか。時代的には合うがしかしこの人は丹波史氏であって、丹波直氏や海部直氏とは系統がまったく違う、後漢の霊帝を祖とする。『新撰姓氏録』に「丹波史。後漢霊帝八世孫孝日王之後也」とある氏族で漢氏系の百済渡来系の人と思われる。千足は本系図にも見える名で、↑の人物と偶然に同名だったかもわからない。
丹波直氏はどうも系図は伝わらないようである。たぶん丹波郡丹波郷のあたりに治所を置いた伝統的在地豪族で、丹後だけでなく、天田郡や船井郡、桑田郡あたりまでは一族が治めていたようだ。くらいか。

逸文風土記は丹波郡家の位置を示す。
「丹後国丹波郡。郡家が西北の隅の方に比治の里あり。此の里の比治山の頂に井あり。其の名を真奈井と云ふ。今は既に沼と成れり。此の井に天女八人降り来て水浴みき…」
これが正しく書かれているなら、比治山とは久次山で、郡家は五箇あたりにあったことになる。そうした伝承も伝わり、このあたりこそが栄光の丹波王家の発祥の地・本貫の地だったのかも知れない。郡家といっても大和がそう呼んでいるだけで、この地にあった丹波直氏本宗家の邸宅をそれに当てていただけかも知れない。
大路の安達家のような谷間に突き出た低い尾根の先端上をさがせば遺跡が出てくるかも知れない。鍜冶屋ではなかろうか。私は笛原寺のあたりを疑っているのだが、そこはまた王家が信仰した豊受大神の故地でもあった。
そうでなければ本命候補を探せば、今の船岡神社のある所、丹波道主命の館があったと伝わる「府の丘」が「郡家」でなかろうか。丹波王家は代々丹波道主を襲名していたのかも…。古代の「比治の里」は今の久次の里だろうが、もうすこし谷の下側にあったのかも知れない。


 

丹波氏の主な歴史文献



『丹後地方史へのいざない』
 〈 (丹波国の丹波直)
○桑田郡
(六) 〔保証刀禰署名〕丹波直、〔郡判署名〕検校丹波直有数、郡老丹波直門宗、擬大領丹波直豊岑・丹波直興世
  (寛平元年〔八八九〕一二月二五日「川人郷長解写」『平安遺文』一一、補二五六号)
 売券(土地売買の証文)の保証人や郡の役人としての署名に丹波直氏の者がみえる。

(七)「丹波国の人、右近衛従八位下丹波直有数・兄従七位下丹波直有貞・正八位下丹波直数宗・従八位上丹波直有核穎・弟従八位上丹波直有通等は、故外従五位下丹波直人足の孫、清雄の子なり。しかるに偽りて蔭孫と称し、奸りに図籍に著して、蔭孫に貢挙し、選叙位階数有り。男秀助・惟影・惟恒三人は、位子に入貢し、共に徭役を免ぜらる。国司、実によりて改正せんことを申請す。詔してこれに従わしむ」
 (『日本三代実録』元慶六年〔八八二〕 四月八日条)
四位以上の貴族の孫や内六位~八位の宮人の子は、それぞれ蔭孫や位子といって、成人すると自動的に一定の位を得たり、出仕して徭役を免除されたりする特権を有していた。丹波直氏出身者の中に、その地位を詐称して特権にあずかっていた者がおり、摘発されたことが記されている。磯野氏が指摘するように、ここにみえる右近衛の丹波直有数を(六)の(郡)検校としてみえる丹波直有数と同一人物とすれば、この(七)の記事にみえる丹波直は桑田郡の者ということになる。なお、ここに出てくる兄弟の祖父丹波直人足
は、『続日本紀』延暦四年(七八五)八月一四日条に外正六位上から外従五位下に叙された記事がみえる。(七)の丹波直を桑田郡の人々とすれば、外従五位下に叙された丹波直人足は、桑田郡の郡領家の者であったと考えられる。

船井郡
(八)〔四至記載〕郡老丹波直秀良、〔日下署名〕郷長丹波直永古、〔保証人署名〕従八位下丹波直、〔郡判署名〕検校従七位上丹波直、擬大領従八位上丹波直、擬主帳従七位下丹波直常直(延喜一七年〔九一七〕 四月二七日「丹波国某郷長解」『平安遺文』一、二一五号)
 これも売券であり、郡の役人や郷長、保証人の署名に丹波直氏がみえる。郡名が記されていないが、売買されている畠の所在地記載の一つに「木前郷私部村にあり」とあり、『和名類聚抄』によれば丹波国船井郡に木前郷があるので、船井郡に関する文書であると考えられている。

○天田郡
(九) 「…、丹波国天田郡大領外従六位下丹波直広麻呂、…等、職に居りて懈らず、民を撫づるに方あり(行ないが道にかなっている)。ここに詔して並びに外従五位下を授く」
       (『続日本紀』延暦四年〔七八五〕正月二七日条)
天田郡の長官として丹波直氏がみえる。

○郡不明
(一〇) 「丹波国の人、左近衛将監従六位上丹波直副茂、本居を改め、山城国愛宕郡に貰す」
       (『日本三代実録』貞観一四年〔八七二〕八月一日条)
 この記事の傍線部(副)を国史大系本は「嗣」に改めるが、底本の記載による。先の(二)の記事と同一人物と考えられるが、このことについては後述する。

(丹後・丹波以外の丹波直)
○山城国葛野郡カ
(一一) 〔家地旧主〕 丹波直屎麿
 (斉衡二年〔八五五〕(閏)四月一一日「秦永成家地相博券文」 『平安遺文』一、一一八号)

○その他(国郡不詳)
(一二)「金銀長上工正六位上丹波直広主、年老いて郷に還る。勅して正税穀五十碩を給う」
 (『続日本後紀』 承和四年 「八三七」 九月二九日条)

(一三) 「……、右近衛将監丹波直助麻呂等に並びに外従五位下(を授く)」
(『日本三代実録』 元慶三年〔八七九〕 正月七日条)
 以上、丹波直氏は丹後・丹波両地域に広く分布しており、地元では国造や郡司などの支配的地位を有し、都に出ては近衛府の宮人や兵衛、采女等としての地位を得ていたことが知られる。その本拠地は、丹波の地名の発祥の地でもある丹後国丹波郡 (のちの中郡) であったと考えられており、(一)に挙げたように、そこには令制下においても国造に任じられた者がいたことが根拠とされる。…  〉 

『京丹後市の伝承・方言』
 〈 彦坐王と丹波道主命・河上摩須郎女
 大和の王権が日本列島全域へとその支配権を拡大していった過程の一つを伝える伝承が「記紀」に記されている。崇神天皇の時代、いわゆる「四道将軍」を各地へ派遣し、大和の王権に「まつろはぬ」地方の勢力を「ことむけ (服従)」させたという伝承である。
 『古事記』では、大毘古命を「高志(越)道」へ、その子の建沼河別命を東方の「十二道」(伊勢から東の国々)へ、そして日子坐王を「旦波国」に遣わして、「玖賀耳之御笠」を殺させたという。
 『日本書紀』では、大彦命を「北陸」に、武渟川別命を「東海」に、吉備津彦命を「西道」に、そして丹波道主命を「丹波」に遣わしたとある。これを「四道将軍」と称した。「記」にはこの称がないが、同じ伝承とみてよい。しかし、いくつか異なるところがある。
 ①「記」には、「西道(山陽道か)」に相当する
  地域がみられない。
 ②丹波に遣わされた王が、「記」では日子坐王(開
  化天皇と意祁津比売命との間に生まれた皇子)
  とし、「紀」では彦坐王(日子坐王)の子の丹
  波道主命となっている。丹波に将軍として遣
  わされる前から、名に「丹波」が付いていた
  のは、丹波の竹野媛が開化天皇に繋いでいる
  ことが関係しているか。
 ③四方(道)の地域名で、丹波(あるいは旦波国)
  だけが国名であるが、「丹波」とは、他の「道」
  名に相当する広域を表す地名であったことを
  物語っているのではないか。丹波道主命も「道
  (主)」と命名されている。但馬国やその周辺
  地域(山陰方面)、さらには若狭までも含んだ
  「丹波道」であったかと思われる。
 さらに、「記」によると、丹波比古多々須美知能宇斯王(丹波道主命)が丹波の河上摩須郎女を娶って生んだ子が比婆須比売ら垂仁天皇の妃などになった「丹波の五女」(紀)と呼ばれた姫たちである(大和の王権との婚姻関係を結んだ姫たちのことは第一節-2参照)。
 「河上」は、熊野郡川上郷(『和名抄』)の川上(現久美浜町)と見られている。川上谷川の上流に位置する郷で、海部直(海人族)の根拠地であったと伝えられる海士地区(海部郷)よりずっと上流である。郎女の父河上摩須が率いる豪族は、川上谷川の支流の伯耆谷川にある須田地区を拠点としていたという。『丹後旧事記』が川上摩須について「当国熊野郡川上の庄須郎の庄に館を造る。開化天皇より崇神、垂仁の朝に至る」と記す「須郎の庄」が須田地区のことと思われる(『京都府熊野郡誌』)。その谷の湯舟坂二号墳からは、金銅装環頭大刀や金具、馬具などが出土して注目を浴びた。
 伯耆谷川の流域の谷間は、「王者の谷」と呼ばれるほど、多くの古墳群など古代のこの地区には力のある豪族が存在したことを思わせる遺跡が多い。また金谷という地名や湯舟、カンナ山の名が存在することから、製鉄工房の存在を推定する向きもある。川上郷に郡衙が置かれていたと言われ、熊野郡の政治的中心だったとも見られている。
 なお、「記」によると、丹波道主命と河上摩須郎女の間には朝廷別命という子もいた。地元の地誌では、父とともに丹波の統治に当たったと言われ、日下部氏の祖とする伝承がある。  〉 

 〈 億計・弘計の兄弟王子
 億計・弘計は後、顕宗・仁賢天皇になった兄弟王子である。この二人にまつわる伝承が丹後の地に関わっている。
 『日本書紀』 によると、億計・弘計は、父の市辺押磐皇子が雄略天皇に殺された後、日下部連使主とその子吾田彦に助けられて丹波国余佐(与謝)郡に避難した。さらに追っ手を恐れて、播磨国赤石郡に移り住み、名も「丹波小子(たにわのわらわ)」 と改めて潜んでいた。後に都に戻ることができ、弟、兄の順に天皇の座についたのである。
 以上都の文献の伝える伝承に加えて、地元丹後にもなお色々な伝承がある。兄弟を護衛した日下部氏は、丹後の海人族で浦嶋子を祖とする氏族である(浦嶋伝承)。与謝郡にまず身を寄せたのもその線であろう。与謝郡の日置郷難波野であったという。そこから大内峠を越えて三重郷(『和名抄』)に至る。与謝野町から大宮町に越える大内峠、それは王落峠に由来するという。『丹後旧事記』 によると、三重郷では五十日(五十河のこと)真黒人と言う長者が久住の地にかくまった。そこで牛飼いに身をやつしていた。久住を古くは皇住と書くのはその由来で、当地の式内社木積神社は二人の皇子を祭神としている。木積(こづみ)は、久住(くすみ)の音訛形と考えられる。五十河を含む三重郷は「延書式神名帳」によると、もと与謝郡に属していたらしく、「紀」のいう「余佐郡」も三重郷のことであったという伝えもある。
 皇統譜に関わる、億計・弘計兄弟の伝承には、丹後の日下部氏が重要な役割を果たしていたことが分かる。古代丹波(丹後)が、大和の豪族、葛城氏や和邇氏と深い関わりを持っていたことが注目されているが、「記紀」などの系譜伝承からもそのことは読み取れる。
 日下部氏は、『新撰姓氏録』によると、彦坐王を祖としていることがわかる。彦坐王は開化天皇と和邇民の意祁都比売命との間に生まれた王子である。また、開化天皇は、丹波大県主由碁理の娘・竹野媛を妃として迎えていて丹波との関わりが強いが、さらに葛城垂見宿禰の娘・ワシ比売をも妃としていて、その間に、建豊波豆良和気王が生まれている。この王子は、彦坐王と異母兄弟に当たるが、式内社竹野神社の摂社斎宮神社の祭神の一柱でもある。『古事記』によると、建豊波豆良和気王は、「丹波の竹野別」の祖とされている。竹野別の実態は不明であるが、おそらく竹野郡竹野郷にゆかりの一族であったものと思われる。
 二王子の逃避伝承は、葛城氏、または和邇氏が、あるいはその配下にあった日下部氏が語り伝えていた伝承であったかも知れない。二王子は、葛城襲津彦の子鹿田宿禰の系譜に位置づけられる。  〉 

『宮津市史(史料編1)』に、「丹波氏系図」が掲載されているが、これは東漢氏系の丹波史氏のもので、当ページに取り上げている丹波氏とは系統が異なり関係はない。
市史が丹波氏としているのは『医心方』の丹波康頼の丹波氏のことで、この氏は名は同じだが実は丹波史氏の裔で百済系渡来人の裔になる、東漢氏(→坂上氏)の同族になる。
允恭紀3年条に、「使を遣して良い醫(くすし)を新羅に求む」とあり、康頼よりもずっと以前から、日本医学は百済系や新羅系渡来人たちの名医により切り開かれたといえようか。


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『峰山郷土志』
その他たくさん



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