丹後の地名

倉梯山(くらはしやま)
(青路山・砲台山)の
倉梯防空砲台跡
舞鶴市行永


倉梯山(舞鶴市与保呂)

↑左手の建物は与保呂小学校、その前の山が倉梯山(248.3M)である。府道の脇は与保呂川。市販の地図では倉梯山となっているが、たぶん本当は違うと思われる。この山は青路山、あるいは倉梯砲台山と呼ぶのがいいのではなかろうか。この山は古代の庫梯山ではなく、たぶんカッコをつけての「倉梯山」である。

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京都府舞鶴市行永


過去を忘れて、戦争へ行こう

 倉梯山はどの山?

《倉梯山の概要》

 倉梯山は古来の名山で、『丹後風土記残欠』には、
 〈 庫梯山、倉部山の別称也  〉 
とあって、倉部山が倉梯(庫梯)山である。歴史文献上の古代の本当の倉梯山とはその倉部山のことである
。ではその倉部山はどこにあるか。さらに『残欠』は言う、
 〈 高橋郷。本字高椅。高橋と号くる所以は天香語山命が倉部山の尾上に神庫をつくり、種々の神宝を収蔵し、長い梯を設けてその倉のしなと為したので、高橋と云う。今なお峰の頂に天蔵と称する神祠があり、天香語山命を祭る。また、その山口(二字虫食)国に祠があって、祖母祠と称する。此国に天道日女命と称する者があって、歳老いて此地に来居まして、麻を績ぎ、蚕を養い、人民に衣を製る道を教えたので、山口坐御衣知祖母祠と云う。  〉 
山頂が天藏神社の鎮座地であるが、今は麓へ移動していて、本来の鎮座山は決定しにくい。幸い黒部・黒符という地名が残っている、舞鶴市祖母谷の多門院の一番奥の村である。クロベ・クロフ・クロブなどと呼ばれるが、これが倉部の転訛したものと推測される。
そうすればその奥の今でいう三国岳(616M)こそが倉梯山と思うのである。私はそう推測してまず間違いはなかろうと思うが、私以外は誰もそんなことは考えてもいない、地図にあれば何も考えずに固く信じてしまうご様子。倉梯村などの麓の地名の元となったと思われる古代を解明する上では最も重要な山であるが、何も疑うことない郷土の古代史の現状では当面は何も解明されず発展しそうにもない。

 また黒部の「おまつ」という「蛇切岩」伝説の美女の里になるが、彼女は本来は黒部山=三国山=倉梯山のヘビではなかろうかと思われる。

↓本当の倉梯山。=祖母谷の奥の三国岳(616M)。先の集落は材木、さらに先が黒部。
三国岳

 私は三国岳に登ったことがなく、何時の日か改めて本当の倉梯山=三国岳や、そこの伝説を取り上げてみたいと思う。
このHPは本当の倉梯山ではなくて、ニセの倉梯山(失礼)、何かの誤りと思われる倉梯山、麓民が呼ぶ与保呂小学校の前の砲台山(青路山)を取り上げたものです。



 倉梯砲台跡



 この山には「倉梯防空砲台」が築かれた。陸軍の鎮守府防衛のための「明治の砲台」でなく、海軍の防空砲台で、昭和16年くらいから建設されたという。「昭和の砲台」と呼ばれる。舞Iには海軍の防空砲台は7つあり、機銃砲台は11あったがその1つ。
退役の古い軍艦から降ろされた時代物の高角砲や機銃が何門か据えられたのでなかろうかと想像する。多くの武器は米軍の最新鋭軍用機を相手にする実戦の役に立つような代物ではなく、気休めにすらなるものでもなかったのかも知れない。タイマーで爆発点を合わせる式、撃墜できたらおかしいの代物、しかし枯木も山のにぎわい。
資料によっていろいろあってどれが本当なのかわからないのだが、ある資料によれば、89式12.8p高角砲が4門あったという、戦艦大和はじめほとんどの軍艦に搭載されていた連装砲だろうか、それとも単装だろうか、たぶん単装高角砲ではなかろうか、装填砲という同砲の演習砲が1門あったという。12.8センチ高角砲は昭和7年に正式採用されたもので海軍最優秀高角砲とされ、各種軍艦に搭載された、1分に14発発射できた。最大射高9439m。発射速度が大きく操縦性良好で命中精度も高かったため使用実績は良好であり、対空戦闘のみならず対水上艦戦闘においても高い評価を得ていたという両用砲。さらに13ミリ対空機銃が4基、25ミリ対空機銃が8基あったという。117名の将兵が配備されていた。ちょっとした駆逐艦か軽巡が1隻、この山の頂上に登ったようなものである。高角砲というのは海軍の呼び方で、陸軍では高射砲と呼ぶ、仰角を下げると水平撃ちもできる高射砲ということである。水平撃ちをした日本陸軍の高射砲というハナシは聞いたことがないが、他国の高射砲ではこれができて、日本軍を悩ませたという。
ここの砲台は一発も撃たなんだんやってぇ、などと名誉なウワサが今以てささやかれている。能ある鷹は爪隠す、というでしょ。海軍さんは平和を愛するのです。記録によれば10発は撃ったよう。飛行機は特に軍用機は速い、指揮系統がしっかりしてないと軍艦が山の上にあるだけでは対応できない、レーダー装置で、どの方向から何機が近づいているといった事前の情報がなければ戦争にもならないだろう。こんなモンで当たるわけないだろう、タマもない、兵員の訓練も未熟、あんな早いものが落とせるか、見えたと思い砲を向けて照準に合わせている間に、もう向こうへ飛んでいっていないでないか、ええいアホくさい、ヤメタヤメタと頭の良い海軍さんですから、さっさとあきらめたのか、それとも腕前世界一の海軍さんですから、ザコ相手にめったやたらに撃ったりはしませんのでしょ。オオモノだけをねらってんでしょ。わざわざこの砲台の真上を飛行するような大胆不敵な頭のおかしいオオモノがいれば、武器はタケヤリに毛が生えた程度でもウデがいいですから、撃墜してかもですよ。
それはわかりませんが恐らく「倉梯砲台山」がいつの日にか誤り「倉梯山」となったかも知れない。

 与保呂小学校の正門前に与保呂川に架かる「青路橋」があり、ここからずっと「倉梯砲台山」の頂上まで立派な軍用道が続いている。巾は5Mくらいあろうか、自動車が十分登れる道である。昔は子供達も遠足で登ったと記録にはあり、今も登れる。


 過日、新緑に誘われて登ってみる。特に砲台跡が見たかったわけではない。

倉梯砲台山

倉梯砲台山
↑砲台への軍用道は倒木が道を塞ぐ。一面シャガに覆われてお花畑になったり。道幅は5Mばかり、勾配は気にならない程度。

倉梯砲台山
↑ 切り通し。道はしっかりした作り。土台が違う、カネのかけ方が違う。さすがに海軍さん、の感じがある。

↓眺望。舞鶴若狭道の東舞鶴インターの真上。
倉梯砲台山

倉梯砲台山

↓砲台の遺構。何なのかは不明。道路脇にある。
倉梯砲台遺構

倉梯砲台遺構

倉梯砲台遺構

倉梯砲台遺構
↑何やらわからぬが、いろいろあって、この周辺が基地の心臓部かも、この辺りの稜線にメーンの砲台があるのでは…
しかしそこへ登る道が見つけられない。


↓もう少し行けば、かなり広い平坦な場所にでた、たぶん兵舎跡?
倉梯砲台遺構

 道はここで途切れた。兵舎か何か建物群の跡地のような平坦な広い場所である。
このあたりも稜線上に砲台跡があるのではないかと考えるが、そこへ登る道を探せども探せどもさっぱりとわからない。稜線はすぐそこなのだが…。
シャニムに上向けて登ればこれしきは登れるが、ムリはしない、軽装備だし腹も減ってきたので下山、次の機会にした。




倉梯砲台山の主な歴史記録


過ぎた昔を思い出しても楽しかったことは、あまり思い出としてはありません
『与保呂小学校百年誌』(1974年)より

 〈 運動場はいも畑に
昭和十四年度高等科卒業 田中 真澄
            (旧姓井元)
 大東亜戦争も真最中、一億総動員の掛声も高い昭和十九年四月、四年前に希望に満ちて巣立ちをした
懐かしい母校に就職する事が出来ました。卒業時と異なり校名も国民学校と改められ、すべてに戦時体制下の息吹きが感じられ何か身も心もひきしまる思いでございました。
 戦況が日々悪化するにつれて学校のうける影響も大きく、体育の遊びに児童達の唯一のより所であった運動場が自給自足の名の下に半分程はさつまいも畑に開墾される事になりました。貫重な授業時間をさいて、小さな手に大きな鍬を握り、手の平に豆をつくりながら掘り返された赤土に植え付けられたさつまいもの苗も夏の暑さにも枯れず青々と生いしげり、秋には見事なさつまいもの収穫をみる事が出来ました。辛かった開墾の苦しさも忘れて試食に舌つづみをうったものでございました。
 又戦争も敗戦色が濃くなり本土決戦が噂される様になりますと、疎開児童の受入れも激しくなり連日の編入生で校舎も段々と手ぜまになって来ましたが「欲しがりません、勝つまでは」のスローガンの下に「月月火水木金金」と土、日曜も又夏休みも返上しての頑張りでございました。然し戦利なくして敗戦となり、終戦と共に教育方針その他のすべてが百八十度の転換を余儀なくされ、教師は勿論児童達も又生きる目標を見失なった思いでございました。


与保呂の里
前職員 前田 あさ
 私が、与保呂小学校におせわになったのは昭和十七年、十八年度でした。当時は、三国山のふもとに点々と数地区村落があり、与保呂川の流れは平和そのものでした。
 登校するとき四季おりおりの農作物を積んだ売物のリヤカーの出合いが、朝の挨拶でした。通勤は家から約一時間かかります。自転車を購入しようとしたが空気入りのは容易に手に入らず、やっと婦人乗りが入手出来たが前輪は丸タイヤ、後輪のみチューブのタイヤで、高下駄と草履の感じで、しっくりした車ではありません。
 当時の学校長は、今は亡き田中修一校長先生をはじめ、家族的な和やかな学校でした。用務員さんは羽賀さんのおばさんで、冬季は昼食のときに温い味噌汁をつくって下さったその味の美味しかったこと。
 校舎は木造平屋建で玄関を入り、隅々までぬか磨きされた上履不用位の廊下教室、どこからどこまでも心を磨く様に、児童は一個づつぬか袋を持参し清掃時に磨き上げられ師弟同行という言葉がぴったりでした。
 毎月八日は大詔奉載日、国旗弁当持参。講堂へ入ってくる前は各教室の廊下に整列無駄口を言う者はなく、みがき上げられた講堂へ。食前の言葉、雨土の恵み今ここに……一粒の米粒も感謝して頂く心。中庭に池があり、数多くのひごい、まごいが藤の花の咲く頃の風情は一副の絵の様でした。
 学校の前の青路山より用水汲みにおりて来られる兵隊さんが、四斗樽を二人でになって学校までの道を往復していました。衣服は国防色で、チョマで識った布のようです。私共の生活にも、欠乏の色が出はじめて来ました。戦に勝つまでは、何としても頑張らなくては、お互いの心に言いきかせていますが教科書の用紙も今までの様にはいかなくなりました。学校裏の畑を学校職員で耕し、野菜を大豆を慣れぬ手つきで土を耕し種をまくこともしました。


戦中の子供
旧職員 荻野 義雄
 私が与保呂校に勤めたのは、昭和十八年四月から二十一年三月までの三年間−戦局が日ましに苛烈さを加え、やがて敗戦に到った時代です。(戦後にもう一度勤めています。)
 はじめて出勤した時、掃除の時間で、きびきびとした作業ぶりや、古い校舎の床が光っているのに感心したことを覚えています。担任は五年生で十四名でした。十八年頃は団体訓練などよくやりました。
 十九年にはいって、倉梯山砲台の下に兵舎が建ちそこの兵隊が訓練のため校庭を使っていました。放課後の使用がやがて授業中にも拡大されるようになって、子供達も訓練を直接見るようになったものですから、大分その影響を受けました。雪合戦などをすると、六年の子がゴムの長靴をぬいで、それを振り廻して殴り合うような場面も見られました。
 私も一度数人の男子を、教室の机の前に一列横隊に並べておいて、一発ずつビンタをくらわしたことがあります。その後圭一君が耳を押えて顔をしかめていますので、訊ねると「痛い」という。すっかりうろたえて自習を命じておいて、圭一君を自転車の荷台に載せ、五条の鈴木医院まで走りました。幸い異常はないということで、胸をなでおろしました。戦後窮乏生活をしていた時代に、タシジャコを一袋持って圭一君が拙宅を訪ねて来てくれたことがあり、今も年賀状をくれることなど思うと、教え子との結びつきについて考えさせられます。
 圭一君達を卒業させて、二十年に引原先生応召の後をうけて六年生を担任しました。その頃常部落に五二五戸でしたか、徴用された方の住宅が建ったものですから、後から後から転入生が続き、教室はふくれ上っていきました。それに教室の授業は半分ぐらいで、後は増産作業という有様。校庭を全面的に掘りおこして大豆畑にしたばかりか、与保呂川沿いの道に一メートルおきぐらいに穴を掘って豆つくり。しまいには川原の中洲や、水源地の近くの山の裾まで開墾して食糧増産という国家の要請にこたえようと努めました。学校の近くの山で炭焼きもしましたが、あまりうまく出来ず一、二回で止めてしまいました。その頃の子供は実によく働き、町育ちで病後の私などより、ずっとよく間にあったものです。
 そんなことで敗戦を迎えた私は、無知なままに軍国主義教育をしていた自分を願りみ、二十一年三月に逃げるような思いで与保呂校を去ったのでした。


思い出すままに
昭和十九年度卒業 武田 徳男
 出征兵士の見送りや、武運長久を祈って白鳥峠を歩いて金比羅神社へお参りに度々行きました。学校では奉安殿の前に整列して難かしい話を聞き、男の先生は国民服、女の先生はモンペ姿、個人の失敗は全員の責任と校長先生にアゴをつかんでしゃくり上げられ(タコつりの異名あり)先生に連れられ青路山で皆一緒に〃若い血汐の〃と軍歌を歌った事等憶えています。
 小学生も、春秋田畠仕事の忙しい時は学校は休みとなり手伝った様に思います。たまに海軍の車が水源池へ来る位で、バスも走らず田には牛だけ、本当に与保呂は静かでした。青路山には高射砲が時折向きを変えていましたし、珍しい車(今考えると戦利品のジープ)に機関銃を積んで登るのも見ました。
 空気のすぐ抜けてしまう軟球で野球をしたり、大人の自転車に横から足を入れて、変な恰好で走り廻ったりもしたものです。
 野小屋へ皆で石を投げて叱られた事もあり、雨上りには赤いカニが道へ出るのを取って遊び、川に木を投げ入れ一緒に走ったりしたのが思い出せます。寒い朝は雪が凍って田の上を走れた時もありましたし、長靴にワラを入れ竹のスキーで坂道を大人の人に叱られ乍らつるつるになる迄すべって遊びました。
 いよいよ卒業、内地空襲が激しくなり修学旅行は無く、下級生の掃除の仕方が悪いと叱りつけ、男の先生と女の先生が一緒に帰えるのを見てひやかし、戦争映画を見せて貰って、子供心に胸をおどらせ、先生に六年卒で受験出来る航空機乗員養成所があると聞き乍ら(おそらく期待されていたろうに)どう云う理由か判らないまま、誰も受験せずに卒業してしまいました。

よくがんばった四年生時代
昭和二十二年度卒業 木下 康義
 昭和二十年この年、私は小学校四年生になっていたの日本国の状態がどのようになっているのかが、なんとなくわかっているような気がしていた。
 学校で勉強を習う時間が、だんだんと少なくなってきた。校舎も軍が使用し、勉強する場所もなく午前中にお宮の木蔭で、ある時は橋の下で勉強を行なったこともある。朝から農場の開墾にも行った。食糧増産のため利用できる場所は、全部使用して増産にはげんだ。道の両わきにも、大豆をまいた。夏休み中も薬草取り、あるいは野生の「あさ」の皮をはぎ、乾燥させ学校に出したのをおぼえている。
 今、過ぎた昔を思い出しても楽しかったことは、あまり思い出としてはありません。しかし、苦しかった時のことも、今にして思えば小学校四年生でよく頑張ったと、自分でも考える時があります。  〉 



関連情報

舞I空襲
舞I要塞



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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