丹後の地名  資料編

三浜(みはま)
京都府舞鶴市三浜

付:三浜の民宿案内


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三浜の地誌


《三浜の概要》


三浜は舞鶴市の北部。大浦半島の中央北部。若狭湾に面する。
南に三浜峠、三浜峠からはアンジャ島・磯葛島・沖葛島、沖には冠島・沓島が眺望される。東隣の小橋とはかつて1村であったともいう。
海岸は小橋とともに竜宮浜海水浴場として、夏季には海水浴・磯釣でにぎわう観光地、民宿16軒がある。
文政8年異国船打払令に伴い、海岸に大筒仕懸場が設定された。

《人口》193。《世帯数》55。

《主な社寺》
野原・小橋と共同で冠島の老人島明神(老人島神社)を祀った。村の氏神として松原大明神(現松原神社)があった。山神社。
田井海臨寺末臨済宗東福寺派得雲山海蔵寺。もと三浜にあった徳雲寺の寺基を継いだ寺と伝える。徳雲寺は冠島の老人島明神の奥院あるいは別当として老人島明神の鍵をもち、その後、鍵取は海蔵寺に受け継がれている。
『丹後国加佐郡旧語集』
海蔵寺、得徳山、海臨寺末。

『加佐郡誌』
得雲山海蔵寺、臨済宗、建久二年創立、西大浦村

『丹哥府志』
【徳雲山海蔵寺】(臨済宗)

『丹後国加佐郡寺社町在旧起』
三浜村。本寺同断、得雲山海蔵寺。


海岸から約50mの民家敷地に、製塩土器の支脚や破片が出土した奈良期〜平安期の複合遺跡がある。
松原神社東側の小丘に丸山古墳がある。横穴式。出土品は須恵器(完存一、破片多数)・鉄剣、古墳時代後期。
天文一五年(一五四六)三浜村の住僧、聯叟周芳が田畑を風砂から守るために、社前の川の東西に松を植えた。現在の松原神社の松林はその名残とされる。

三浜の集落


《交通》
海岸線に沿って走る府道21号線が集落の北で屈曲して三浜峠の傾斜面を南行する。

《産業》
半農半漁。


三浜の主な歴史記録


《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
三浜村
本寺同断、得雲山海蔵寺。氏神松原神社。


《丹後国加佐郡旧語集》
若宮大明神。松原大明神、氏神、鍵取、藤左衛門。海蔵寺…。三浜小橋ノ前ニ桂嶋トテ見事成島有此両村ニテ鱸取ル。


《丹哥府志》
◎三浜村(小橋村の次)
【松原大明神】
【徳雲山海蔵寺】(臨済宗)
【付録】(若宮、荒神二社、長床、山之神、愛宕、大日堂、辻堂)


《丸山校閉校記念誌》
三浜峠を開く   四年生児童
 三浜峠は、昔、道がとてもでこぼこで、細い道だったのです。その道は、六キロメートルもの距離がありました。とても細くて急な坂道だったので自転車や車は通れまんでした。だから、歩くしかなかったのです。それが、ブルドーザーによる工事で、バスも通れる広い道ができました。
 今のおじいさんやおばあさんたちは、三浜や小橋から平まで歩いて峠を越えて行きました。平からは、船の定期便に乗って東舞鶴の町に行って、物を買ったそうです。直接、小橋から船が出ていたのですが、波の高いときは小橋からは船は出ません。だから、波の高いときは、平まで歩いて行って船に乗って買い物をしました。小橋から出る船は「きょうしん丸」、平から出る船は「ひのえ丸」という名前でした。急病で、急いで病院に行くときは、自分の家のモーター船を使って行ったそうです。あるおばあさんは、赤ちゃんが生まれそうになったとき、モーター船に乗って病院に行こうとしました。しかし、霧がこくて、みさきの方まで出てしまったので、間に合わなくなり船の中で赤ちゃんを産んだそうです。また、粟野さんのおじいさんは、魚を町に売りに行くのに船で行ったそうです。
 それで、人々は峠がせまいから、道を広くすることを願うようになりました。
 三浜峠の工事は、昭和三十年に始まりました。工事には、村の人が大さんせいでした。地域の人は、冬の間病気になってもすぐに病院に行けず、お医者さんの診断が受けられなかったので、このことを、にな川京都府知事にうったえると、京都府がブルドーザーを初めて使った工事を行ったそうです。昭和三十三年に工事が終わりました。昭和三十三年から三十四年の一年間は、三浜と小橋が京都交通からバスを借りて走らせていたけれど、昭和三十五年から京都交通のバスが通ることを市議会が認めました。
 三浜峠ができてから、自動車が通るようになり、みんな歩かなくてすむようになりました。そして、他府県からも車で来る人が多くなり、そのころから民宿が多くなっていったそうです。わたしの家もそのころから民宿を始めたそうです。今じゃ、民宿をしている家が多いです。毎年、夏は、小さい子が迷子になるような観光客や海水浴客が来て、とてもにぎやかになりました。やっぱり工事をして人がたくさん来るようになり、便利になってよかったです。
 開通の記念碑は、大浦ハイランドの近くに建っています。
 わたしは、昔の工事前は、歩くのにとても大変だっただろうなと思っています。今は、車やバスが通れるようになってとても便利になったとおじいさんやおばあさんたちが言っています。工事のおかげで今の生活ができるんだと思います。三浜峠ができたのは、村の人の願いや努力だったと思います。

郷土資料館のパンフ
三浜丸山古墳群・三浜遺跡
古代海辺のムラと墓
場所:舞鶴市字三浜
舞鶴市の北東、大浦半島の日本海に面する三浜地区の集落と重複するように縄文時代から続く三浜遺跡があります。その古墳時代の墓域は、集落東側にある山の麓に営まれた三浜丸山古墳群と考えられます。
この地区は若狭湾に面し、東西南の三方向を山稜に囲まれた1km四方の平野部です。古墳群に葬られた人が生活していた三浜遺跡は、今の集落と重複するように浜に沿って広がりを見せます。集落の山側に広がる後背地は集落より一段低くなっており、昔はラグーンが形成されていたとも言われています。古墳群は三浜・小橋地区の中央に位置する独立丘陵の西側山裾に所在し、現在は神社境内や旧丸山小学校となっています。平成13年に実施した調査では墳丘そのものが砂質土で造られていることが確認され、古墳群は過去の記録や調査によって約600uの中に少なくとも7基以上の横穴式石室・小石室で構成される古墳群であることが確認されました。調査地の東側に所在する旧丸山小学校を造る時に人骨が出土したと伝えることから、周辺部にも古墳が存在していたことが窺えます。
古墳群は木棺を納める玄室とそこへの入り口である羨道部という構造を持つ横穴式石室が3基(1・2・4号墳)、羨道部が無く玄室部のみの小石室の4基(3・5・6・7号墳)の合計7基で現在は構成されます。土の堆積状況から横穴式石室の後に小石室へと埋葬の場が変化し、縮小しながら変化していったことが分かっています。石室もしくは過去に出土した遺物からは7世紀前半の特徴を持つものがあり、小石室の築造年代が他の調査事例によると7世紀中頃であることから7世紀の前半から中頃にかけての古墳の変遷がわかる事例としても貴重な古墳群です。石室内を調査した1号墳は玄室の一部と羨道部が道路の下に延びていたため全体は分かりませんでしたが玄室内の最後の埋葬面の様子を確認しました。玄室の全長は残存部で4.4mを測ります。幅は元々の大きさが1.4mのものに、さらに小さくするため側壁を作り直し0.9mにしています。石室内の埋まった土には全長1.6m、幅0.45m深さ0.16mの木棺の痕跡が確認され、木棺内には3箇所に集中して人骨が見つかりました。人骨の全部が見当たらないことから、一度別の場所で死後の儀式が行われた後に再度埋葬されたものと考えられ、7世紀前半におけるこの地方の葬送儀礼を知るうえで貴重な資料と考えられます。その後に造られた小石室は数が増え、木棺を納めるのがやっとの大きさとなり埋葬品も無くなります。このことから三浜丸山古墳群の石室構造や埋葬の時の儀礼も簡素なものへと変化していく様子が分かるとともに、古墳を造ることが出来る人達が特定の家族から多くの個人へと集落内の構成が変化していくこともわかります。
この古墳群を造った集団と考えられる三浜遺跡からは、古墳群が造られた頃から、当時使われていた土器の他に製塩土器や鉄加工を行う際に必要なフイゴの羽口や鍛冶滓が出土することから海辺の人々が製塩や鍛冶をおこなう技術者集団へと変化していく様子がわかっています。製塩古墳群の変化と同時に集落内の様子も変化していくことが分かる遺跡は少なく、舞鶴における当時の海辺の集落の様子を示す貴重な遺跡群であるといえます。
7世紀には隣国である若狭国から製塩技術が導入された頃で、石室墳から小石室への変遷時期に対応すると考えられていることから、製塩遺跡における集落内の動向を知ることが出来る重要な遺跡と位置づけられます。





三浜の小字

《舞鶴市史》

三浜 里道 ハニワ 上野々 猪ノ鼻 仲後 墓ノ前 中薮 森ノ越 堂ノ上 坂ノ尻 後田 川端 五反田 渕川 塚中サ 出口 種田 畑頭 重野 フルス 仲田 宮ノ後 ナワテ 休場 コショ田 丸山 村中 川端中瀬 ワキ 一ノ坂 中道 ヒラ崎 鴻ノ巣 浜橋 重野山 大平 桜ケ谷 相角 経塚 青空 豆ケ平 磯山 坂カゲ 想山


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関連項目

大浦半島 小橋 西大浦
あずきあらい
おぶさった大日様
お駒坂
エゲの宝と壷屋
ニショモン
ミトジ
ワカシラ
永源山徳雲寺
冠島の女神
泣きエビス
三浜峠の千匹狼
船ゆうれい



↓旧丸山校区の絵地図(『丸山校閉校記念誌』より)







《三浜・小橋の民宿案内》
夏の海水浴の民宿の問い合わせが当HPにも多数寄せられます。当HPはそうしたことを目的とするものではないのですが、知らぬ顔も何となく心苦しいため、今年(2016)の市並びに観光ステーション発行のパンフをそのままコピーさせてもらいアップしました。




三浜・今井民宿」(当サイトへのリンクをたくさん張ってもらっております)





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