丹後の伝説:29集

泣き恵比寿、精霊船、永源山徳雲寺、鬼のクボ、他

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泣きエビス・丹後のエビス(舞鶴市三浜)

三浜(左)と小橋(右)
『わが郷土』(丸山校百周年記念誌・昭51)に、
泣きべすエベス  −三浜−

 昔々、三浜の浜辺に、木像のエベス(恵比寿)さんが流れつきました。
 これは、ありがたいお方がおいでだというわけで、祀っとりましたら、ある時この村を訪れた人がありまして、是非にというわけで所望されまして、とうとうあげることになりました。
 もろた人は、それを持ち帰りまして、今の西ノ宮あたりにお堂を作ってまつっとりましたら、なかなかおかげがあるということで、有名になりました。商売繁盛の神さんで、京や大阪の商人がようまいったといいます。ところが、ある時、突然、このエベスさんが、笑うのをやめて、めそめそ泣き始めなされました。「どないしましたんや。」いうて、わけきいたら、
「丹後へ帰りたい、丹後の三浜へ帰りたい。」というて、いっそうさめざめと泣きなさったそうです。
いつも笑うていなさるはずのオイベッさんが、泣きなさるというので、またまた有名になって、「丹後の泣きべす恵比須」といわれるようになりました。
 今でも、このエベッさんどこそで、泣いていなさるんでしょうが、三浜では、今でも子どもが泣きますと、
「泣きべす、こべす
      たんごのエベス。」
というて、はやしたてる言葉が残っとります。

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『舞鶴の民話5』に、

泣きエビス・丹後のエビス (三浜)

 年の暮になると、各商店は競うように店をかざり商いをする。それと共に、町のまわりの田舎の人が沢山買物にくる。これは全国的で、特に近畿はさかんである。商売の神様のえびすさんにちなんだ大売だしである。色とりどりのハンテン、はちまきの若者や女の人が、大きな声をはりあげて客を呼んでいる。特にエビスさんで全国的に名が知れているのは西宮のエビスだ。このエビスに関係あるエビスが、舞鶴にあったのだ。今の町の人たちは知っていないようだ。
 エビスについてきくために、三浜峠をこえ三浜にいった。大浦半島の三浜の老婆が、首をかしげながらお話をしてくださった。年は八十をこしている。年の割に元気な声である。
 むかしの話だが、三浜に幸助さんという人がいた。若いころは体が弱く、よく父母に心配をかけた。漁師になるころから自分の体に気を使い、毎朝健康のため浜を歩くことにした。
 三浜の浜は砂地で、波がうちよせては美しい砂模様をつくる。舞鶴は冬は寒く、雪もよく降る。
むかし三浜の峠は五尺もつもることがあり、カンジキ、ミノを着た村人は、町よりかえるときは、雪をかきわけかきわけ三浜にかえったものだ。だが浜べに近づくと雪が少ない。若狭湾は、十一月には暖流が流れているからだ。冬では、舞鶴で一番早く雪がとけるといわれている。
 ある日のこと幸助さんが浜をあるいていた。砂はきらきら光る。ふと先の方に光り方のちがうものがあった。幸助さんは今までこんなことがなかったと、近づくと小さなエビス様が波でうちあげられていたのだ。「ほう、なかなかりっぱなもんだなあ」幸助さんは、話に聞いていたエビス様を手にするのははじめてである。「これはもったいない」幸助さんは両手でつかみ、だくようにして家にいそいだ。家にまつってあげよう。家のかべのそばにおいた。やぶれた壁のところではどうにも様にならない。ねていても気になってならない。朝早くおきた幸助さんは、再び両手でだくようにして、村の氏神様へといそいだ。
 お宮さんにおくと、エビス様は何かニコニコと笑っていらっしゃるようだ。「これでいい。これでいい」と、一人ごとをいいながら両手をあわせた。何か心のわだかまりがなくなり、ホッとして、自分の家に帰った。
 それからしばらくして、この三浜の村にうらないをしたり、おがんだりする六部がやってきた。ながく歩いたので、つかれていた。白衣もうすよごれている。一夜やすませてもらおうとたのむが、村の人は誰も相手にしてくれない。宿するところもないので、氏神さんの社にとまることにしてやってきた。社のところに光るものがある。「おや、なんだろう」よくみると金色のエビス様である。「これはいいものだ。ここでは似合わないぞ」左右をみたが、誰もいる気配はない。
そっとエビス様をだき、背おっていた木箱の中に入れた。日の暮だが、早く村を離れねばと、もときた峠道をいそいだ。
 もう三浜の村も遠くなり、峠の頂上にきた。追ってくる人の気配もない。フウフウいいながら又いそいだ。「丹後へ、三浜へかえりたい」だれか小さい声で言っているようだ。うしろをみてもだれもいない。いそいだ。下りの道だ。少しらくになったので、ゆっくり歩いた。「丹後にかえりたい、丹後にかえりたい」小さい声だが、又きこえた。このあたりは、キツネがよくでるそうだが、再びいそいで歩いた。坂なので、自然に足が早くなる。「丹後へかえりたい、三浜にかえりたい」「ウォー。わしは善人だぞー」といいながら歩いた。だれのいたずらかな。まわりはくらやみで誰もいない。平へついた。海辺の山ぞいに歩いた。つかれてきたが休む気もしない。
 「丹後へかえりたい、丹後にかえりたい」声が大きくなった。耳をつむるようにいそいだ。浜村をこえ、峠をこえ、少し東の空があかるくなった。田辺の町並のあるところにきた。「丹後へかえりたい、丹後にかえりたい」しばらく立ちどまって耳をすました。「丹後にかえりたい」どうも背おっている木箱から声がする。そこにすわって木箱の中のエビス様をみた。「ウエン、ウエン」とないている。これはよわったな。とんでもないものをぬすんできたものだ。おいよいかげんに泣きやんでくれ。でも、今更三浜にかえるのも、ぬすびとですというようなものだ。
「えい、歩け歩け」と、再び南の方に向かって歩きだした。山こえ、坂こえ歩いた。「丹後にかえりたい、丹後にかえりたい」まだ声はする。
 三日間休まず歩いた。やがてなにわの西宮までやってきた。六部は「とんでもないものをぬすんできたものだ。エビス様を高く売るつもりだったのに、泣きエビスではだれも買ってくれないだろう」と仕方なく近くの神社におさめた。そして、ホッとすると共にあほらしいことだとくやしがった。泣きエビス、丹後のエビスと歌うようにいった。
 泣きエビス、丹後のエビスさようなら、この歌声をきいた人があるそうである。その後も六部は口ぐせのように、丹後のエビス、泣きエビス、といった。
 そのエビス様をまつってある宮が商人がよく参り、ご利やくのあるという、今では世に知られた西宮エビス神社だと。

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『京都の伝説・丹後を歩く』に、(伝承探訪)も

泣きべす恵比寿   伝承地 舞鶴市三浜

 昔むかし、三浜の浜辺に恵比寿の木像が流れ着いた。これはありがたいお方がおいでになったということで、祀っていた。
 その後、この村を訪れた人が是非にと所望し、とうとうあげることになった。もらった人は、それを持ち帰り、今の西宮あたりにお堂を造って祀っていたら、ご利益があるということで、有名になった。商売繁盛の神で、京大阪の商人がよく参ったという。
 ところが、ある時、突然、この恵比寿が、笑うのをやめて、めそめそ泣きはじめた。「どうなさいましたか」と、そのわけを尋ねたら、「丹後の三浜へ帰りたい」と言って、いっそうさめざめと泣いた。いつも笑っているはずの恵比寿が泣くというので、またまた有名になって、「丹後の泣きべす恵比寿」といわれるようになった。
 三浜では、今でも、子供が泣くと、「泣きべす、こべす、丹後のエベス」と言って、はやしたてる言葉が伝えられている。               (『わが郷土』)

〔伝承探訪〕
 三浜集落は、若狭湾内の西部、日本海に突き出した大浦半島中央部の海辺の村である。浜の東部は半島状に突き出し、そのすぐ先にはアンジャ島、そしてその一キロ先には二つの島が連なる。海は北に向かって大きく開けている。海流に乗ってさまざまな物が流れ着いてくるという。とりわけ、北西の季節風が強まってくると、漂着物はその数を増す。十一月から十二月にかけて、たくさんのタコブネが寄り着く。これが多く寄る年は不漁であるという。二つの島とアンジャ島との間も海が浅い。北西からの潮流はそれらの島々にさ
えぎられ、南下して浜へと向かい、さらに浜に沿って西へめぐる。
 三浜の梅田幾久枝さんはこの話を次のように語っておられる。三浜の浜辺で幸助という人が小さい金の恵比寿を拾い、氏神の松原神社で祀っていた、それを六部が背負って行ったところ、丹後に帰りたいと泣き出した、その後西宮に祀られたという。
西宮戎だったら、天照大神の荒御魂を祀る広田神社と一対である。神功皇后が祀ったということになっているが、そうなことよりもずっと古いあのあたりの人々の信仰であろうと思う。
エビスはヒルコであって、子であり、母はヒルメ=天照である。天照大神といえば天皇さんの先祖という話はあまりアテにはならない。そういうことになっているというハナシであって、おそらくそんなはずはない。明治の国家神道がそうしてきた、つい先まで国民の全員がそう信じ込まされていたということであって、江戸期には福知山から宮津まで宿という宿が人で埋まったという大江町内宮の人気から考えても本当はもっともっと庶民の神様であったと思われる。
子のヒルコ、キリストさんがいるのであれば、そうすれば三浜や小橋にも母神のマリアさんがいなければならない。母神はどこにいる。老人嶋の日子郎女神がそうだろうか。
老人嶋にもエビスさんが祀られているが、この島に祀られるのは本来は母と子であったかも知れない。


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あずきあらい (舞鶴市三浜)

『わが郷土』(丸山校百周年記念誌・昭51)に、

小豆あらい −小橋・三浜−

 日が西の海に落ちるてえと、しばらくしたら、うす暗うなりますやろ。そういう時が、小豆あらいの一番このむ時刻でしてな。
 また、家と家との間の狭い場が、一番小豆あらいの出やすい所ですなあ。
 子どもの時、外で遊びほうけてな、もう帰らなあかんいうてみんな帰ってしまいよる。自分だけ一人帰りおくれて、とぼとぼ、家の間、通りよりますと、
「ガッサラ、ガッサラ」
「ガッサラ、ガッサラ」
と、ほんまに小豆あらうような音が、うす暗がりから聞えてきます。歩いとるうしるから、ついてくるように聞えまして……。
 その時、ふりむいたりしたらいけまへんし、また、平気な顔して遊んどったら、これはまた、大へんなことになる。神かくしですな。
 昔は、どこぞいって帰ってこん子がおると、「神かくしにおうた」「小豆あらいにやられた」と、言うたもんですわ。
 家の間、通っとって、「ガッサラ、ガッサラ」と聞えてきても、こわてもじっとがまんして歩きます。耳、ふたしたりすると余計に、小豆あらいは調子にのって「ガッサラ、ガッサラ」とやるんで、とにかくがまんして歩いて、家につくなり、中から「バン」と戸をしめるともう、小豆あらいは聞えませんな。
 やれやれと胸なでおろしたら、おかあの作ってくれた、煮つけのにおいやなんかが、ふわーっとこう気時ちようしてましてな、「家はええなあ」と思たもんですわ。ようできてまして、まあ、小豆あらいは、子どもを
夕方家へ引き戻す役をしとったようですなあ。
 小豆あらいは、この近郷で、嫁にいけえで死んだりした娘の霊が、海から、浜を伝うて、小橋川をさかのぼって、さまよいでたとききますなあ。それで、半助と、源右エ門の間に昔、白壁の大きな家があって、「ぶり大敷」のもんが、とまっとりましたが、よう、この小豆あらいが出るもんで、みんなこわがっておらんようになり、家も、そのうちにのうなったときいとります。
(註)三浜では「市左ヱ門」の北隣にも家があったころその間によくでたという。

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『舞鶴の民話4』に、

あずきあらい (三浜)

 友は自分の書いた本の一節を話してくれた。
 私が務めていた三浜の小学校のあたりは昔話がいっぱいあり、この話もその一つだ。
 お日様が西の海に沈むと、辺りはしばらくすると薄暗ぁなりますやろ。そういう時にあずき洗いが出てくるのですわ。あずきあらいはそういう時がいちばん好きらしい。又、家と家のあいだの路地が出やすい所でさあ、子どもたちは外で遊びほうけて、みんなが帰ってしまって、ただ一人とぼとぼと家のあいだを通りよりますと
「ガッサラ、ガッサラ、ガガッサラ」
と、本当にあずきをあらう音が、うす暗い路地から聞えてきます。おずおずと歩いていますと、後ろからついてくるように聞こえますのじゃ。その時はふりむいたらいけませんのだ。またこんな音が聞こえてくるまで、遊んどったら、神がくしにあうのです。
 むかしは、どこぞへいって帰ってこん子がいたら「神がくしにおうた」「あずきあらいにやられた」と言うたものですわ。
 家の間を通つとって「ガサッサ、ガサッサ」と聞こえても、恐ぁてもがまんして歩きます。音がこわくて耳をふさぎますと、あずきあらいは、おもしろがって「ガッサラ、ガッサラ」とやるんで、とにかくがまんして歩いて、家に入るなり「バタン」と戸を閉めるのです。そうするとあずきあらいの音はしなくなります。
 おかあが心配顔で家の前で待っていてくれることもあった。その時は本当に胸をなでおろす気持やった。家に入って夕飯をたべる味はかくべつやった。
 あずきあらいは、子供が日の暮になると、家へ引きもどす役をやっていたんやな。小豆あらいは、むかし嫁にいけえで死んだ娘の霊が、海から浜つたってさまよい出てきますのじゃ。
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精霊船(舞鶴市小橋)

『舞鶴市史』に、


小橋の子供組「ショウライブネ」

 子供組が、盆行事の精霊船を作ることから生まれた。小橋の若衆組はこの子供組の組織の上に連なっている。年齢階層はおよそ次の通りである。「カコノカコ( 一○歳)、「カコ」(一一歳)、「小センドウ」(一二歳)、「中センドウ」(一三歳)、「大センドウ」(一四歳)。
 精霊船作りは次のような順序で行われる。まず「帆縫い」といって、これは八月十三日までに親が縫っておく。子供組の活動は、十三日早朝二時から開始される。「竹きり」は大センドウ、中センドウと大センドウの親が、ワカシラヤブヘ行って必要な竹を切り出す。「川ほり」は小センドウ以下が川へ行って、川底に(胸がつかるほどの深さまで)穴を掘り、俵で川をせき止める。この穴に持って帰った竹をつけ、石で重しをする(竹を細工しやすいようになめすためである)。小橋の浜
「小屋つくり」は盆の行事をするための小屋で、大センドウの親が浜に作る。小センドウ以下を持つ家は、一戸についてむしろ一○枚、タツ(稲木のこと)一本、縄一○尋、麦藁を提供する。
「ボンナゼ」(盆撫でか)は十三、十四日小センドウ以下が二尺×一尺の板を用意し、浜に作った小屋の前に置き、その上にうしろ浜の汚れない白砂を取って来て載せ、手でカマボコ形に固める。この砂が少しでも汚れていたり、また形づくる時一度でもたたいたりすると、砂を棄てさせられ、やり直しとなる(たたくことは禁忌とされた)。出来上がると村の人が参りに来て、これに線香を立てる。
 その後、ショウライブネの子供だけの相撲が浜で行われる。「ショウライ船流し」は八月十五日に行われる。
その他、ショウライブネの組織の活動としては、毎夜八時ごろ、当番を決めて火の用心の夜回りをする。若宮神社での肝だめし(月のない夜−新月−)を選んで一人で宮へ上がり鐘を鳴らす。他の者は下で待ち、鐘が聞こえないと何度でもやり直す。そのほか、若宮神社の清掃、村の中の道の清掃などがある。

小橋の精霊船
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小橋出土の有舌尖頭器

『わが郷土』(昭51・11・18。丸山校百周年記念)に、(図も)


小橋の石器時代人

 昭和三十七年、小橋川の改良工事が行なわれた。夏休みも明けた九月十日、工事関係者が、川床の粘土層の中から、人工と思われる槍か矢の先に似た石片を拾い上げたのである。これが、京都府文化財保護課の調査で、今を去る一万年前の打製石器「有舌尖頭器」であることが判明した。小橋有舌尖頭器
(註1)
これは戦前の国史観からしても、日本建国から二千六百数十年、それよりも遥かに古い事実を示すものである。
 わざわざ海からやって来た話で古さを説く必要がない極めて古い生活の証拠が、この校区に転っていたということであった。
 一万年前とは、どんな頃か、どんな人がここに住んでいたのか。
 考古学上の時代区分で洪積世、先土器時代にあたり、縄文文化が幕を上げようとする前のことである。かって日本海が内海であって日本列島がシベリアと陸続きであった頃(一万五千〜一万七千年前)までに陸伝いに移り住んだ人達が、第四氷河期の試練を経て、進化発展し、一万年くらい前は、細石器や、サヌカイトなどのすぐれた尖頭器を作り出す新石器文化のにない手となっていった。夜は岩陰や洞穴にひそみ、昼は、石器をつけた槍等をふるって獣を追うくらしをしていた。
 この校区での人のくらしは、こうして始ったのである。
  (註2)
   しかしこの人たちが、私達の直接の先祖かどうかは、わからない。
 狩猟生活は、土地への定着性が弱い。その土地に、何代もの生活を定着することが可能になったのは、農耕文化以降であろう。
 縄文早期の時代、今から七千年程前に、日本列島に暖期が到来する。この頃、温帯性の植物の北上と共に、照葉樹林文化をもたらした人達があった。この太陽と黒潮の影響をもつ人達が、独特の文様を持つ土器を作る縄文時代を開いていったのではないかとも云われている。
 仮に名づける〃小橋石器人〃が、北上して来たこの新人たちを避けて移動したか、丹後半島に石器を残した人々と同一種族で、この地方での移動だけで、採集・狩猟の生活を送り、縄文文化を受け入れていったかどうかは謎である。
 しかし、一万年前に人が住んでいたことと、その後、人そのものの移住か、文化の移植が何回か重ねられたのが、縄文弥生の時代の丸山校区であったろうということは、充分推測できる。

(註1)
 小橋川の有舌尖頭器発見現場
 昭和三七年九月一○日、小橋川の川岸増強工事を行っていた工事人が、今の粟野孫七宅前の川岸下の粘土層の中から発見、発見者の轟秀雄氏によって京都府へ届け出された。
 小橋川は、小橋東部の山に源を発する下流巾二メートル程の小川であり、小橋の家並に入る少し上で二つの流れが合流して、日本海に注いでいる。全長一キロメートル前後のこの川は、周囲に少々の山田があるが、土質は、殆んど古期花崗岩であり、海岸にまでせまった山の裾を抱く形で流れている。
 発見地帯は、東側が当時田であった所が、宅地になり、粟野孫七家の民宿が建っている。その民宿北角横の石垣を下に見おろして、一・五メートル程の部分が、出土地点である。
 この有舌尖頭器は、現存の長さ一○・四センチ、最大幅二・九センチ、厚さ一センチほどであるが、先端部と舌部を少し欠損しており、完全な形にすればおそらく一二センチ余の長さのものであろう。川床から発見された資料であるため、全体に転磨を受けて磨滅しており、剥離痕の明確でない部分も多い。細身の作りで、両側縁はほぼ直線を成し、尖端は鋭かったものと思われる。逆刺を作るほどではないが、舌部は両側が、やや抉り気味に整形されている。
実測図に示した面には比較的丁寧な押圧剥離による斜縞状の剥離痕がみられる。しかし背面は、かなり不規則で、中央に第一次剥離面が残されているようにもみえるが、磨滅が特にいちじるしく、明らかでない。石質はサヌカイトである。
 近畿地方の有舌尖頭器は、すでに五○例が知られており、型式分類も可能かと思われる。
 小橋のものは、綴喜郡井手町のものと、形態、大きさ、その他の点で最も近いようである。
 −古代文化24−19(片岡肇)−

 小橋の有舌尖頭器は、その石質が瀬戸内地方の先土器石質である讃岐、二上山に原産地を持つサヌカイト原石である。その製作技法が、果して瀬戸内技法によるものか、又、宮田山型の製法によるものであるかは、未だ結論がでていないようである。
 −日本の考古学(杉原荘介編)−
(註2)
 日本と大陸との切断は、一説には一万五千年ともいうが、明石原人は推定五十万年前、牛川人は二十万年ぐらい前。三か日人は、旧石器時代後期で、人類学上ホモ・サピエンスあるいは新人とよばれるもので、現代人の直接の祖先と考えられる。新石器時代の縄文時代人とは、骨に含まれるフッ素量が多いので、明瞭に分類される。
この頃の新人は、寒冷地に強い北方人の傾向が強く、背も低い。
 −岩波講座日本歴史等参考−
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幻のエゲ寺=永源山徳雲寺(舞鶴市三浜)

『わが郷土』(昭51・11・18。丸山校百周年記念)に、

幻のエゲ寺、永源山徳雲寺

 三浜峠東方、重野(しげの)山の中腹に、今もエゲ平という所があり、その西山麓に「エゲノ口(くち)」東山麓に「出口」という地名を残す寺跡がある。寺があったという場所は、今は一面の竹薮と化し、入ることは難しいが、土地は、野面積みの石垣によって二乃至三段に分かれ、一番下の寺跡という場所は、かなりの広さを持っていて、石垣下には、明らかに泉水跡と見える石組も残っている。エゲ平に入る道にある石の地蔵尊が唯一の石像品で、他はすべて、現在の海蔵寺下か「シノ森」に移ったといわれている。今でも、この廃寺跡から鐘の音が聞えることがあるとか、様々な伝承に包まれている。
椎の巨木に囲まれた海蔵寺(舞鶴市三浜)
 海蔵寺縁起(寛延三年一七五○記)に、(註1)徳雲山海蔵寺は、かって天台宗で、永源山徳雲寺といい、このエゲ平に三町余りの土地を持っていたが、建久二年(一一九一)に焼失し、同年七月上旬に再建し、山号寺号を改めて、徳雲山海蔵寺と称し、今の村の端に再建し、その後、禅宗と成り、田井海臨寺の末寺となったとある。
 今の海蔵寺に大日堂があることから、かって、密教寺院であることはうかがえるが天台であることの確証はない。小橋の海嵩寺(臨済宗海臨寺末)がまた、かって、天台宗永源山徳雲寺の末寺であって、現在のケジワ谷にあって「桂昌庵」と称したという。(註2)
 永禄五年(一五六二)の寺屋敷寄進状に徳雲寺とあり、海蔵寺過去帳の初めに、貞享五年(一六九三)に、開山の子孫にあたる京都の上長者町通本土御門町丸屋善兵衛が、本尊聖釈伽像を寄進したことが出ているので、その間に山号寺号を改めたのが事実であろう。
 海蔵寺縁起にあるように、建久二年に徳雲山海蔵寺となったとは思えない。むしろ、海蔵寺は、海嵩寺と同様、田井の海臨寺の末寺として、禅宗臨済東福寺派に組み込まれていく時「海」字を海臨寺にあやかつてつけたと考えるべきであり、その背後には、或は中世土豪の力が働いたと推測される。とすると、その改名は、やはり、中世末から近世初頭と思われるのであり、その頃また山の上から、密教寺院の姿を捨て下りて来て、村の中に、民衆の傍に場を構えたと考える方があたっているのではなかろうか。
 山降りの原因となった火事には、様々な伝承がある。「観音寺花蔵院の手配で焼打ちされ、住職と小僧は焼死、寺宝は持ちさられた。」「市左ヱ門は、 大日如来を運び出そうとしたら、如来が自分で立ち上り背中におぶさった。如来を火事から救った礼として、寺田を分け与えられた。」「火災時に持ち出した寺宝は、多祢寺に預けた。その礼として、正月の祈念には、今でも多祢寺から僧がくる。」
「シノ森」の、ハカジルシ(墓石)群の中に宝篋印塔が三基、他にくずれたものもあり、台座と九輪などから、中世末か、近世初頭のものであり、五輪塔も「シノ森」から、寺の下までに数多い。移動し集められたものであることは明瞭で、この石塔群が永源山徳雲寺と関係があろうことが推測される。

(註1)
○海蔵寺縁起
一徳雲山海蔵寺ハ過ル建久歳より往古は天台宗ニ而山号寺号ハ永源山徳雲寺と申寺領とも少々有之候 山林境地は三町余り此所ニ徳雲寺たいらと申所只今ラ有之 其節寺中ニ修剣行者吉元坊と申山伏有之候
一海中ニ老人嶋明神と申し社有之往古より徳雲寺の鎮守ニ而修覆之節は徳雲寺より致し神前之鍵は右之山伏ニ預
  ケ置又は祭礼之節は神庭の掃除迄徳雲寺より可申付候事先例也
一水源山徳雲寺過ル建久二年ニ焼失致し此時寺中吉元坊も類焼ニ而村江下り住居仕候 右徳雲寺は即チ建久二年
  七月上旬再建致 山号寺号改而徳雲寺之二字を取て徳雲山と称し寺号を海蔵寺と名づけ新村之端ニ再建致し夫
  より徳雲山海蔵寺也 其後禅宗と成り只今は海臨寺之末流也 右之吉元坊病死ニ付修験之法属も無之候故右明
  神之鍵寺え取上ゲ候事 然処無住又は他出時は 村鍵無之候えば諸事間欠ケ仕候と雄嶋講中より 申来リ候故
  鍵は藤左ヱ門ニ預ケ置候 是時延享二之年四月下旬ニ而候 右御嶋講ニ五シ之立願あり 第一ニ四海安静を祷
  り第二ニ国土豊饒第三ニ社頭繁栄第四ニ万民快楽第五ニ氏子息災延命諸願成就祈祷致事先規之吉元坊同前ニ致
  候講之当番は一年ニ弐人宛毎年之通り正月元旦より三月三日迄其身長髪ニ而不浄肥灰は不及申候 右五シ之立
願仕候故鍵之儀は講中ニ頂ケ置候事。
一老人嶋明神之別当者根本三浜村徳雲寺より只今之海蔵寺也 前々とは貧地ニ相成候故明神之修覆迄も三ヶ材氏
  子中廻り致し御移宮とも無住之節は廻り致し海蔵寺最初之印ニは明神之鍵を残し置候。
  永源山徳雲寺より記録とも有之候得共寛延三午年十一月ニ夜之出火ニ不残焼却致し候後代之住持心得之為メ謹
  而記録致置候以上
  于時寛延三庚歳孟冬吉祥日
                      月峰厘元書
      徳雲山海蔵寺住持

(註2)
○海嵩庵縁起
 本尊薬師如来 建立、開基共に不詳
 初め天台宗永源山徳雲寺末桂昌庵と号し、「ケジワ谷」に在った。元禄年間臨済宗東福寺派の僧静山和尚現在の堂宇の上手にある畑地に移転新築し、臨済宗に改宗して、光霽山海嵩庵と号し東福寺派の中本山海臨末に属せしめ之が中興となった。現在寺属田の大部分は静山和尚の生家が死滅したので、その遺産の田地を祠堂として静山和尚が寺属させたのである。
 山伏祝部は、ケジワ谷より移転後も当寺の末坊であった。静山和尚から第四世敦山和尚傍医を以て衆人を救う。
又倹にして蓄積をなし私財を投じて現在の堂宇を建立し、更に総門中門等をも完備せしめて再中興となった。
           (二門明治初年荒廃)
   御詠歌
    「小橋なるかねの響にたどりしを
          もらさですくう寺の御仏」
 明治二十八年東福寺派寺班例公布、参等地の寺格を稟承す。  現住月川
 明治三十三年やむを得ざる事情に依り、中本山海臨寺を離末、大本山東福寺直末となる。現住月川
  (昭和八年版、丸山校〃私たちの校区〃)
  寓霊塔は弘化年間の造、海臨実州大和尚の書である。

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エゲ山とは永源山のことであろうか。たぶん永源は当字と思われる。エゲがもともとの呼び名ではなかろうか。寺だけがポツンとあっとも思えぬので村もたぶんそのエゲの地にあったのではなかろうか。たぶんたぶんで申し訳ないが、資料がないので仕方がない。これは何か震えてきそうなこの地の歴史が隠されていそうに思われる。
恵解山(えげのやま)古墳という700点にも及ぶ鉄器が出土した長岡京市の前方後円墳(120m・五世紀中)がある。綾部市金河内町エゲ、福知山市三和町岼エゲ、舞鶴市大丹生エゲ、福知山市天田エゲノ段。舞鶴市大波上エグリ谷、まだまだあるが…
 エゲは会下とも書いて会下という地名は現在もあちこちに残されている。会下寺は普通は自分の寺を持たない学問僧(会下僧)の集まる所だそうで禅宗などでそう呼ぶという。しかしここは禅宗よりも古いのでそのままには当てはまらないと思われる。
 穢気とも書くようで、穢れた場所という意味にも使われる。もっとも穢れたといっても権力から見て勝手にそうと呼んだという意味であって何も本当に穢れていたという訳ではない。ここはたぶん権力にまつろわぬ鬼や土蜘蛛、もっともこれも時の権力から呼んでということであるが、そうした金属生産者たちの寺、徳雲寺とちゃんとクモが残されているが、徳も()かも知れない、穢の土蜘蛛の寺、あるいはそうしたお寺だったのではなかろうか。すごい名前がついているように感じられる。
 このエゲ寺は老人嶋神社の別当であったといい、老人嶋信仰と深くかかわると思われる。老人嶋の信仰は金属との関係が隠されていると私は考えている。幻の凡海郷の信仰の中心地でもあったとも思われる。すごい伝説を残して、ぜひ後世の人々は解明に努力されたしと呼びかけている。
エゲ寺には古代中央権力との闘争の歴史、敗残の歴史が隠れているのではなかろうか。両村は漁や製塩もしたけれども本職は半分以上は金属にあったのかも知れない、そう私は見ているのである。
 このエの言葉はたぶんずいぶんと古いと思われる。平安期には意味が忘れられていたとも思われ、まさに日子坐王や麻呂子の時代、古墳から飛鳥の時代であったかも知れない。伝説が伝える日子坐王や麻呂子の侵略を受けたこの地の産鉄敗残者たちがこのように呼ばれたかも知れない。伝説上で土蜘蛛、社会上とかはエゲとか呼ばれ、差別され人間の扱いは受けなかったのかも知れない。「えげつない」とか「えぐい」という言葉が今もあるが、何か古くは関係があるのかも知れない。そんなえげつない被差別があったかも知れない。
 エビスさんにしてみても三浜や小橋の地はずいぶんと古い、天皇さんよりもずっと古い古代史があると思われる。三浜小橋はたいへんな古代が眠っているようで面白い。

 丹後町の依遅ケ尾山の東麓に遠下(おんげ)という地名がある。あるいはここもエゲなのかも知れない。エゲはその本来の意味通りの漢字で書くならば穢下(えげ)でなかろうか。穢れた下賤の者どもという意味と私は解釈している。私の安物の古語辞典にもそんな言葉がないが、たぶん当たっていると私は考えている。何度も言うがこれは権力から見てそうだったということで、税金が取れないから死人も同様の者、死人は穢れている。聖なる中央王権に叛いた穢れた者ということである。
では権力はどうだったかといえば五位以上は無税という社会であった。彼らこそ穢れているのである。その上税金の無駄遣いにバカ遣いクソ遣いまでしくさる。何時の世も権力とはそんなもののように思われる。自分らの無駄遣いは棚に上げたまま手もうたず、増税などとぬかす。ド汚い連中である。そのなれのはての現在のクソ政治屋どもも低所得者をしぼることしか頭にはない。
 こんな連中に穢者扱いされるのは、否定の否定で、誠に名誉な誇りとしていい話なのである。後の世になればそれを忘れてしまい、一般の者も何か権力と同じように考えて、同じように差別者になったりしているが、馬鹿げた話である。
 福来東自治会発行の『丹後福来史花くらべ』というのは面白い書で、私はこうした方面の歴史に疎いので、たいへんに勉強になる。長浜の長江寺や各地の江の戸、江の元といった地名に古い時代の差別がうかがえる、古い時代私たちのようにたいへん厳しい差別を受けた地と推測できるといったことを書いておられた。
なかなか考えさせられる言葉と思う。江と書かれているが本当は
()なのだと思う。そうすれば大江山(大枝山)とは大穢(おおえ)山の意味であったことがわかる。穢の代表のような鬼ドモが籠もる山、だから大穢山、これでドンピシャリ、これが正解と私は考えている。それでは大江選手も大穢選手なのか。それはわからない。江戸村はじめ江のつく地に住む方やそうした苗字の方から叱られるかも知れないが、必ずしもこうした意味の江でないかも知れないしそうであるかも知れません。私は何とも申しかねますのでご自分で研究してみて下さい。

網野町三津にはイギという地名がある。エビスさんはイビスさんとも呼ばれるので、あるいはこれもエゲではなかろうか。
大浦半島の大丹生川はイギス川とも呼ばれる、イギス山もある。イキやオキもあるいはそうか、息津島(冠島)もイケやウケもそうかも知れない、池姫や池内もそうか。金属生産に関係したと思われるような地には賤民あつかいしたようなずいぶんと古そうな名がなぜか残っているように思われる。今では鉄工業といえば神様みたいな扱いだが、勝手なもので、古くは産鉄集団は賤民の扱いだったのでなかろうかと思われる。
差別をなくそうなどというのはいいし当然すぎるのであるが、なぜそんな非人間的な差別社会が生まれたのか、その社会を解明していかないと、というのか、過去に差別をした張本人ども、そのA級戦犯どもをあぶり出していかないと、なかなか差別は解消されないのではなかろうか。
誰が差別の主犯かは簡単なことで、逆に神様、仏様、天上の人と持ち上げられ、崇められていた者、というかそう強制していた者どもがそれなのである。
これらを解消することなくして本当の差別はなくならない。天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらなかったのである。
人の下の人だけを解消することはできないと思われる。同時に人の上の人も解消すべきであろう。


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エゲの宝と壷屋(舞鶴市小橋)

『わが郷土』(丸山校百周年記念誌・昭51)に、

エゲの宝と壷屋   −小橋−

 この村の、重野(しげの)という山の中腹に、エゲ平という所があります。もう寺跡らしいものは石垣ぐらいしか残っていませんが、ここには昔、りっぱなお寺があって、小ぼうずさん二人とおしょうさんの三人が住んでいました。
 世の中がみだれていたころ、この寺にも、「焼き打ち」がありそうだとか、敵におそわれるかも知れないとか、ぶつそうな話が伝わって来ました。
 ある晩、和尚さんは、二人の小ぼうずを呼ぶと、「これは、寺の宝物やで、人にとられんようにかくして来てくれ。わしが、かくしたのでは、敵にとらわれて責められでもした時、つごうがわるいでの。」
といって、宝物の入った壷を渡しました。
 小坊主は、こわごわ寺から出ていったのですが、
「おしょうさんが、寺の宝物といったけど、遠くへ行くには、夜のことでむずかしい。めんどうやから、どこぞ近くにかくそ。」
と言って、近くの大木の下にかくして、寺へ帰っていきました。
 ちょうど、その近くに、他の国から落ちぶれて迷いこんだ男がかくれていました。
 この男は、小坊主たちのすることを全部みていましたから、その後で、早速大木の下から、壷を掘り出し、両手でかかえて、どこへともなく姿をかくしてしまいました。
 世の中の、ぶっそうな話が、ようやくおさまったある日、おしょうさんは
「さあ、もうそろそろいいじゃろう。宝物を寺へ迎えたいから、あり場所まで、案内しておくれ。」
と、小ぼうずに聞きました。
 小坊主は、男がとったとも知らず、けんめいにさがしたけど、もちろん出てくるわけがありません。
和尚さんは、とうとう、宝物は小坊主達が取ったに違いないと思い込んで、二人を殺してしまったのです。
 一方、盗んだ男は、その金をもとにして、田辺の御城下へ出て、大きな店を開いたのです。名前は、それでも「壷屋」とつけて、呉服などを売る店でありました。
 男は、エゲの寺のことも忘れてしまうほど一心に働きましたから、店はたいそう繁盛いたしました。
 ある日、諸国を廻っている坊さんが、この壷屋の表に立っていいました。
「この家には、二人の小坊主の霊が、さまよっている。」
 壷屋の主人となった、よその国からまよいこんだ男は、それを聞くと、びっくりして昔のことを思い出し、熱を出して寝こんでしまいました。
 この壷屋は、そのうちに、だんだん客も少なくなり、働く人も逃げ出したりして、とうとうつぶれてしまいました。
 この話は、本当に昔舞鶴にあった「つぼや」の話でございます。


 (註)「壷屋」は田辺城下の豪商で、江戸中期以後の農村の困窮期に、金貸しもしていた。この校区にも「壷屋」から庄屋、村方役連名で金を借りた文書が残っている。
エゲの地はこのように宝の地であったとも伝わる。黄金であったか朱であったか、何かはわからないが、そうした豊かな地であったことがわかる。本来が豊かな地でなければ、日子坐王も麻呂子親王もわざわざ大軍を派遣したりはしない。彼等はそれを奪いにやってきたのである。「不朽の自由作戦」とかの名前をつけて。
 アホ丸出しの作戦名を見ただけでも、これが敗北するだろうことが予想される。こうした傲慢すぎる認識と態度とやり方が「テロ」を産み出しているという認識がまずない。ワシらは正義だ、現地人は悪だと頭から思い込んでいる。ホンマはワシらは他国の大油田の地へ何のために送り込まれているのかの疑惑のカケラもない。そんなことで勝てたりはしまい。現代史はもうそれほどには甘くはない。
 現在はそうなのだが、過去の郷土は、中央王権有志連合に負けたのであろうと思われる。いまでは侵略を受けて負けてしまったことも忘れられているのではなかろうか。そうして侵略サイドの見方にのみたって土蜘蛛という悪い奴がいて、人民に害するので退治にやってきたとしか考えてもみない。本当はその土蜘蛛や鬼と呼ばれている者が自分たち大方の先祖だということも忘れている。
子孫達がきれいさっぱりと忘れても伝説や地名をたんねんに拾えば、まだ遠い過去の記憶がかすかに残り、それを手掛りに復元できるかも知れない。そんな事は中央史の御用学者はしてはくれない。これは郷土史家や郷土の人々の仕事になる。


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鬼のクボ(舞鶴市小橋)

『わが郷土』(丸山校百周年記念誌・昭51)に、


鬼のクボ  −小橋−

 今の村の墓は、浜のドンドラを上った横に集っとるが、昔は、浜には墓はなかった。その頃のことや。丸山小学校跡(市内では唯一木造だとか)
 源の頼光江さんが、大江山の鬼退治をした時、酒顛童子という鬼の大将は殺されたが、その手下の鬼が逃げに逃げて、とうとうこの小橋の浜に逃げこんだ。
 村のもんは、さあ、えらいこっちゃとびっくりしたが、みんなで力を合わして、九匹まで殺してしもうた。
一匹は、海をもぐりよってどこぞへ逃げてしもうたが、鬼を浜でころしてしもたもんやさかい、
 「鬼の墓は、やっぱり浜につくっといたろ。」と、浜に鬼の墓を作った。この墓のことを、「クボ」と呼ぶようになり、この浜を「九鬼か浜」と呼ぶようになったんや。
 それから、だんだん、村のもんは、自分の家の墓もここに作るようになったそうや。
 鬼のクボは、今もあるさかい、時々まいらなあかんな。
学校の裏山は左手の山で、ここがドンドラのようだ

(註)ドンドラ…小学校裏山の浜側、砂丘により形成された山で、砂地でくずれやすい。
(註)後浜ノ伝説  −昭和八年版「私ノ校区」より−
後浜ノ別名ヲ九鬼ノ浜トモ言フ。昔其所ニ十匹ノ鬼棲メリ。ソノ中九匹ヲ後浜ニテ退治タルヲ以テ九鬼ノ浜卜称ス。中ニ一匹特ニ水ヲ潜ルコト頗ル巧ニシテ 海ヲ渡リテ 今ノ竹野郡間人町高野ノ斉宮ニ逃亡セリト言フ。今モ尚 高野ノ斉宮ニテ旧十一月三日、鬼祭ノ神事行ハルト言フ。

やはり鬼がいる。この伝説はどこか他でも引いているが、齋神社系の鬼のようだ。大浦半島の村の成り立ちに深くかかわる伝説と思われる。大浦半島も元々は竹野神社系の鬼たちの地であった、鉄と海運で古くは大和大王家に皇后を送り込むほどの強大国であったが、強すぎるのでのちに中央の侵略をうけた。竹野系をうまく分裂させその先頭に立たせた、夷を以て夷を制す作戦、これが高浜あたりにいた「国際社会の一員として」の海部氏系なのではなかろうかとまず見ているのだが、さてどうだろうか。

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おぶさった大日様(舞鶴市三浜)

『わが郷土』(丸山校百周年記念誌・昭51)に、

おぶさった大日様   −三浜−

 今から二百年ほど前、三浜に大火事があった。
 今のすずのところにあるイチョウの木のうらにまつってある大日様が、そのころは、村の中に、まつってあったげな。
 火事のとき、大日様の方へ、火が近づいてきよった。村のもんは、大日様はもやされんいうて、気ィもんだが、あのとおりおっけな仏さんじゃ、どないもならん。
 ちょうどその時、いっちゃいもに、力持ちのおっさんがおった。
 おっさんは、ほんならもう、なんとしてもと、大日様に手をあわすと、
「だいにちさんよ。もうすぐ、ここにも火がまわってくるさかい、えんりょせいて、おらにおぶさってくだされ。」
いうて、くるりと背なかを向けたそうな。そしたら、なんと、あの大日様が、ゆさっとひとゆすりしてな、立ち上りなって、いっちゃいもの背なかに、おぶられなさった。いっちゃいもは、「やっ。」と声かけて、死にものぐるいで立ち上ったげな。が、これがまたどうじゃ、すっと、とってもかるかったげな。大日様は、自分の重さをかけなさらなんだんじゃ。いっちゃいもは、お寺にあがって、そこに大日様をおろしもうした。それから、村では、寺に、大日様をまつっといたが、いつまでもはいかん、ということで、今のところに、大日堂を建てて、まつるようになった。
 いっちゃいもは、そのお礼にと、大日様の目のとどく村の田をもろたんじゃ。今、たがやしとる田が、その田なんじゃげな。ありがたいなあ。

  (註1)寛延三年(一七五○)の大火をさす。
  (註2)いっちゃいも=市左衛門(家号)

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大谷山の竜神様(舞鶴市小橋)

『わが郷土』(丸山校百周年記念誌・昭51)に、

大谷山の竜神様    −小橋−

 大谷山には、昔々、竜が住んどりまして、大雨の時には、山のてっぺんから、天へ昇ったりすることがあったといいまして……。
 ある時、この村に、日照りが続いて、田んぼや畑の作物は枯れだすし、どもならん。
 村のもんは、いろんな神さんに雨ごいしたけど、何のききめもありませなんだ。
 ある、もの知りのばさんがおりまして、
「うらの考えでは、竜は水の神さんじゃげな。いっぺん、大谷山の竜にたのんだらどやろ。」
 それがよいということになりまして、村の者は、くわとなたをもって、大谷山へ上りましたげな。
 いちばんちょう上の、村山ざかいに、川の形をほりまして、持ってきたお供えもんおいて、みんなあで、
「竜神さん、たのむで、雨ふらしておくんなされ。」
いうてな、それから帰りは、うしろふりかえることならんというので、みんなあじっと前むいたままで帰りました。
 そしたら、その次の日にはもう、大雨がふって、村は助かったそうですわ。
 今でも、年よりは、よっぽど日照りが続いたら、何いうたかて、大谷山へ水切りに行くのが一番ええといいますな。

 (註)大谷山の水切りは、観音寺との水争いの元でもあった。空山の水が分水嶺からどちら側へ流れるかで、観音寺と小橋
の田の生死が分かれた。この伝承は、この水切り争いが形をかえて伝えられているものである。

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お駒坂(舞鶴市三浜)

『わが郷土』(丸山校百周年記念誌・昭51)に、

お駒坂由来   −三浜−

 今、長坂と申しています所は、「お駒坂」とも申しております。
 昔、三浜の村に、太郎左ヱ門という家がございました。
 太郎左ヱ門夫婦には、お駒という、それはかわいらしい女の子がありまして、この三人の家族の仲むずましさは、村でも評判でございました。
 太郎左ヱ門は、百姓と申しましても、どっちかいうと、山仕事の方でございまして、山へ行っては、木を切りまして、薪たばつくり、船にのっては、これをあちこちの海辺の村々に売りさばくかせぎでございました。
 貧しくとも、 この夫婦は幸せでございました。海へ行くにも、山へ行くにも、いつも三人いっしょでございまして、時にはお駒まで、小さな腕に、薪をかかえて、親孝行を絵にかいたような姿を、いつも村の者は見かけておりました。
 ある日のことでございますく今日も三人は長坂の山へ、木売りのための木ィ樵りにやってまいりました。空はどんよりとたれさがり、うすら寒い日でございましたが、この三人の行くところ、そこだけが春の日がさしていますような明るい笑い声が、山の木々の葉をふるわせておりました。
 一日の、山での仕事が終りまして、山をおりることになりました。大きな木は、上で薪にするわけではありませんで、下へおろすのでございます。これがまたなかなか骨の折れるしごとでございます。夫婦は、しごとと遊びに疲れたお駒を先に山から下ろしまして、この骨な仕事にかかろうとしたわけでございます。お駒は、女の子でもけっこうすばしこい子でございましたから、両親に手をふりながら、木々の間をぬうておりていったようでございます。かなり下におりていったろうと思えた頃に、太郎左ヱ門は叫びました。
「おりたこー。」
 ところが、お駒は、まだおりていなかったのでございます。後にのこっておる両親に後がみひかれて、おりる足取りがだんだんにぶっておりましたのは、親思いのお駒なら当り前のことでございます。
「まんだやー。」
 お駒の細い声が、かん高く、上へ這い上っていきましたが、両親の耳には、……これが魔がさしたとでもいうのでしょうか、「下りたよー」と聞えたのでございます。
 太郎左ヱ門夫婦は、二人して、大きな木を用心深くずりおろしながら下山していきました。この後は、私も話づろうございます。
 二人してやっと大木をずらしおろし、お駒の影をさがしましたがおりませなんだ、ようやく大事に気づいた二人が、今おろした大木をのぞきこむと、あわれ血染めのお駒の着物が木の下からのぞいていたのでございます。
 二人の嘆きは、それは大へんなものでございました。この話の後、やがて夫婦の姿は、この村では見られんようになりまして、太郎左ヱ門の家名は絶えたのでございます。
 そのかわりと申しますもあわれでございますが、この「長坂」が、村の者から「お駒坂」となづけられまし
て、今日のような、うら寒い雲のたれさがる日は、黒い北の海に向かって「おとうよー、おかあよー。」と呼びさけんでいるようでございます。合掌。

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精霊船(舞鶴市小橋)
有舌尖頭器(小橋)
永源山徳雲寺廃寺(三浜)
エゲの宝と壷屋(舞鶴市小橋)
鬼のクボ(舞鶴市小橋)
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お駒坂(舞鶴市三浜)


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