丹後の地名

溝尻(みぞしり)
舞鶴市溝尻


付:嶋満神社


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京都府舞鶴市溝尻中町・溝尻中町南・溝尻新町・溝尻田口

京都府加佐郡倉梯村溝尻

溝尻の地誌




《溝尻の概要》

溝尻は舞鶴市の東部。東舞鶴市街地の東部になる。
溝尻は広くて、祖母谷川の中流域・貴布禰神社から海岸までを含む。東舞鶴図書館から市民病院、新舞鶴小学校も含む。

《人口》2166《世帯数》865(溝尻を冠する4町の合計。本当はもっと広い地域である。)

《主な社寺など》
嶋満神社。
長谷山は山城跡といわれ、溝尻1〜6号墳がある。
貴布禰神社。
臨済宗余部下村雲門寺末清光院
『加佐郡誌』
 〈 清光寺、臨済宗、新舞鶴町  〉 

『丹哥府志』
 〈 【月峰山清光庵】  〉 

『丹後国加佐郡寺社町在旧起』
 〈 溝尻村  〉 

 〈 清光庵雲門寺末寺なり。貴布祢大明神あり、産宮なり。  〉 



《交通》



《産業》

嶋満神社

海岸近くの今では周辺が埋め立てられたため陸地となってといるし、マンションが林立して見えなくなってきたが、その浮島(渕島)に祀られた神社である。嶋満神社(浮島)
「浮島の洋画専門の映画館はまだありますか」などと今でも問う人があるが、昔の人なら知っている「浮島洋画劇場」の裏山。もっとわかりやすく言えば全世界知らない人もない勇名を轟かせる「舞鶴市民病院」のすぐ裏側のちょっとした小山である。
その山の頂上に神社と呼ぶか、ホコラが立っている。「室尾山観音寺神名帳」では正二位嶋満明神とあって、当時は神階は高かったのであった。泉源寺村の神社であり海に浮かぶ島にあったという。嶋満八幡社とか渕島八幡社とも呼ばれた。祭神は誉田別尊。
昭和14年には海軍用地として接収され、神社も強制疎開を命じられ泉源寺小字宮奥に移転。昭和36年に復帰した。こんな小さな神社でも戦争の歴史がある。戦後復帰できただけ幸いであった。強制立退のままで復帰ではない土地はまだいくらでもある。再軍備でまたしてもこの地を追われるアホのないようにしたいもの。戦争して勝つということはもうない、もう二度とない、戦争すれば負ける、それもコテンパーに負ける、アメリカですら勝てない時代である、戦争はしないことである。
浮島は残欠の伝える枯木浦四島の一つで、おそらくは国引きというのか島引き神話というのか、そうした古代の国作り神話の主人公が祀られていたのではなかろうか、後には大倉岐命を祀る大倉木神社、あるいは枯木神社が祀られていたかも…。
嶋満は単にシマと読むのかも知れない。綾部市に式内社の島万神社があるが、こちらも単にシマともあるいはシママとも読まれている。
由来は、縁起書に、
 〈 由緒創立時代 創立時代不詳
由緒口伝ニ曰フ当社創立年代不詳ト雖モ此ノ白糸浜ハ北海ヨリ渡船ノ要港ニシテ妖賊侵入スルコトアリ依リテ往時宇佐大神専ラ之レヲ攘ヒ除ムカ為メニ吹戸ノ御碕浮嶋ノ嶺ニ鎮座シ玉ヒ諸人之レヲ八幡嶋満大神ト尊称ス其神威赫々タル故ニ貞観年中正二位ヲ賜リテヨリ上下ノ信仰大ヰニ加リタリキカクテ弘安四年蒙古来冦ノ国難ニ際シ敵国降伏加護ノ示現アリ降テ応仁ノ乱世ニ衰微セシヲ慶長五年領主細川越中守忠興大神ノ慰安ヲ修シ奉リ社殿ヲ再立シ海上守護ノ神トシテ公祭ヲ行セラレタリ茲ニ於テ国民モ崇敬ノ礼ヲ尽セリ爾来諸人信仰シテ海鎮ノ神ト尊称ス之レ誠ニ大神ノ御霊徳タリ例祭日ハ放生会ニシテ新穀奉進ノ神事アリ亦三月十五日海上安全祭アリテ両祭今ニ連綿セリ嘗テ当嶋ハ古ヘ海中ノ独嶋ニシテ潮ノ干満ニ随ヒ浮沈ノ神変アルヲ以テ浮嶋の称出テタル由而シテ中世長谷山ノ御碕今ハ海辺ノ一嶋ナリ穴賢  〉 

この島には羽衣伝説もある。
『舞鶴の民話2』に、
 〈 羽衣の松 (新舞鶴)
 大木が翼をのばしたように繁っている。浮島、頂上には嶋満神社がある。
この社は元冦のとき天皇が勅使をここにつかわし、戦勝を祈願されたという。小さい社だがこんないわれがあった。
 海の中に浮ぶのでこの島を浮島という、島には松の木しいの木等がおいしげっている。
ここから浜辺をみると、白砂に、さざ波がうちよせ、すばらしい眺めであった。細川幽斉もこの浜をうたって白糸浜といっている。現在の八島通りも浜であり、漁家がぼつんぼつんと建っていたそうだ。
 母と子二人で住んでいる漁家があった。息子は魚つりを業としていた。
浜から浮島は浅いところがあり、歩いて浮島にいっては魚を釣っていた。ある日のこと、いくらたっても魚が釣れない、たいくつして草むらに寝ころがっていた。
春のぽかぽか陽気で、海の方から気持いい風がふいてきて、木々の葉がさらさらなっていた。いつのまにかねむってしまった。浜辺に波がしゃばしゃばとうち寄せる、潮が満ちてきたのか、彼のほほに海水がかかり、びっくりしてとびおきた。と、なんともいえぬ香が風にのってやってきた、ふと北側の松の木を見上げた。ひらひらともも色と白いものがみえる、いまだ見たこともない、やらかい布である。夢をみているのかと、目をこすったが白い布がひらひらしているのがみえる。彼は立ちあがりその方に歩を進めた、こんな香はかいだ事がない、近づくと、においが強くなる、ひらひらしている布の下にきた。手をのばせばとどく、ばしゃばしゃ音がする、みると毛の長い女が岩の上にすわって足を海の水につけたたいている、みたこともない女だ、白いはだがみえるようなうすい衣をきている。
ふっくらとした乳房がみえる、楽しそうだ、男はそばに近よった、女はびっくりしたようにこちらをじっとみている。男はあとすざりして白い布のところに来た。松の緑に布はゆれている、手をのばしてさわった、やらかい、枝からするすると落ちてきた、両手でかかえた、じゃこうのような香が鼻をつく。軽くて持っている感じもない、家に持って帰って家の宝にしようかと思った。と、女が小走りにやってきて、手合図で何かそれを返してくれという様なしぐさをする。男が両手で布をささげるようにすると、女は嬉しそうにやってきた。男はおしいけれど女の物に違いないと両手でもちあげるとふわりと浮いて女の手の方にいってしまった。女はそれを着るなり岩かげにかくれてしまった。
 とたん魚がぴしゃんと飛びあがった。男は釣りざおをつかみその方に糸をたらした。つれるは釣れるは魚が次から次へとあがる。男はさき程の女のことも忘れて魚を釣った。
岩かげから白い煙があがったと思ったら白いものが空めがけてあがり、煙はすーと消えてしまった。
それからは魚がつぎつぎに釣れて沢山の魚をもちかえった。
その話を家に帰って話すと「それ羽衣だ、いいことしたね。」
これから布のたれていた松を羽衣の松と人々はいうようになった  〉 

溝尻は宮津市の阿蘇海の沿岸にもある。舞鶴溝尻も海と接している、多くはないが漁師さんもおられた、今はどうか知らないが、ワタシの子供の頃には東舞鶴湾内で漁師をしておられた。当地の貴布禰神社境内に浦嶋神社があるので、浦嶋太郎さん系の村であろうか。古くは日下部系、日子坐王・丹波道主系の村かと思われる、嶋満神社もこの系統の神社かも。





溝尻の主な歴史記録

《丹後風土記残欠》
 〈 枯木浦 本字彼来
枯木浦は、往昔、少彦名大神と大己貴大神、この二柱神、国造り坐さなとするの時に当たり、海路の順次に所在する諸島を集合しめんと欲し、便ち笠松山之嶺に登り、息限りに号呼んで曰く、彼々来々と。則ち四嶼自ずから来て列り。故に彼来と曰う也。  〉 

《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 溝尻村
清光庵雲門寺末寺なり。貴布祢大明神あり、産宮なり。  〉 

《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 定免六ツ九分
溝尻村 高四百七十二石八斗
    内二十三石五升六合九勺 万定引
    四十五石御用捨高
  清光庵 菴中ニ地蔵有 七月廿四日角力有

              雲門寺末
  貴布弥明神
 氏神元来正一位の宮成しか或百性京江上り貴布祢
の神を勧請申帰村に祠を建たり 後々村中尊敬し正
月に者家々に松にて嶋の形を作り藁ニて鬼を拵祝ふ
也 昔鎮西八郎為朝嶋江渡り鬼を退治平安成なせし
因縁を云伝ふ
 此事ハ貴船勧請せしものの縁者の者に聞たり  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎溝尻村(以下祖母谷といふ、与保呂谷の東谷)
【貴布祢大明神】
【月峰山清光庵】  〉 




溝尻の小字


溝尻 宮谷 梅谷 清水田 六反田 風追 越行 森陰 祭掛 田口 長谷山 浜田 石ケ迫 力田 左近殿 後ガサコ 大林

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