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丹波の

中筋(なかすじ)
京都府綾部市中筋町


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京都府綾部市中筋町

京都府何鹿郡西八田村中筋



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中筋の概要




《中筋の概要》
西八田の真ん中あたりの開けたところ、府道484(渕垣上八田線)バイパスができているあたり。
江戸時代は西股村に含まれた。
中筋村は、明治9~22年の村。島間・大安・日ノ尾・西屋の4か村が合併して成立した。同22年西八田村の大字となる。
中筋は、明治22年~昭和28年の大字。はじめ西八田村、昭和25年からは綾部市の大字。同28年中筋町となる。
中筋町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。


《中筋の人口・世帯数》 265・120


《主な社寺など》

島万神社(式内社)


島万神社の大祭
島万神社の大祭

立派な神社。旧府道に向いた石の鳥居が巨大。広大な境内。鳥居はくぐったが社殿がない、しばらく走るとようやく見えてくる。氏子圏は広く、神宮寺は神宮山岩王寺でなかろうかと言われる。
舞鶴の浮島にも嶋満神社がある、こちらは当社に比べればホコラであるが、しかし「室尾山観音寺神名帳」には正二位嶋満明神とあって、その当時は神階が高かったのであった。同名なので何かお互いに関係があるのかも…

島万神社
所在 綾部市中筋町岩ケ下
祭神 須佐之男命・大穴牟遅命・少那彦名命・足名推神・手名推神・櫛名田比売神
由緒 社伝によると、天平九年、諸国に痘瘡が大流行し万民が苦しんでので、八田郷・吉見郷の人々が相はかり、社殿を造営して平癒を祈ったという。江戸時代まで当社に接して別当寺薬王山海蔵寺があって、本地仏薬王をまつり薬王大菩薩と称したという。
秋の大祭には大刀振りと太鼓おどりが奉納される。室町末期に源流をもつ神事がよく伝えられているもので、市の無形文化財に指定されている。  (『綾部市史』)

島萬神社
所在地 中筋岩ケ下
祭 神 須佐之男命 大穴牟遅命 少名比古郡命
    足名椎命 櫛名田比売命 手名推命
 由緒沿革
 昔人皇四十五代聖武天皇の御宇天平八年に初めて痘瘡発し、その伝染極めて猖獗、都鄙の別なく人多くその禍に罹る。
 是を以て翌九年朝廷諸国に令して、神社を大いに修造せしめらる。
 時に東股村(今の東八田村)西股村(今の西八田村)吉美郷(今の吉美村)の諸民相議りて疫病平癒祈願の為に本社を再建すと云う。(改築御造営記念誌)
歴代神職
能勢 正敏
福井延太郎
今井正三郎
渡辺善三血
 氏子 一五〇戸
 祭日 十月十一日  (『西八田村誌』)

島萬神社
 島間村の五社大明神を指定せらる。今、西八田村字中筋に鎮座。  (『何鹿郡誌』)

薬王大菩薩杜 式内神名  嶋間村
祭ル神      祭礼 八月朔日式アリ

フルト云 森凡四十間四方 宮寺薬王山海蔵寺 延喜式ニ嶋間ノ神社トハ是ナリ 社奥ノ山ニ大ナメラ岩岳サ四丈斗 立岩ノ上ニ松生テ盛ナリ 名木卜云 是ヲ嶋間ノ大岩ト崇ム 節分ノ夜ハ灯明上ルト云 往古薬王菩薩此岩ノ上ニ鎮座ト云 氏子嶋間 大安 日ノ尾 西屋 大日 平山 大町 岩王寺都合八ケ村ナリ
(『丹波志』)

舞鶴の嶋満神社は浮島という島にあるので、島の意味は島嶼の意味と思われるが、当社の場合はその意味のシマとは考えにくい。
島(嶋)というから、元々は海人の神社か、別当寺の海蔵寺の寺号に「海」がある。その島だけではなく、ヤクザの縄張り、勢力範囲をシマと言うが、一般俗社会と隔離された聖なる場所・区域が本来の意味と思われるが、逆にアンタッチアブルの意味に使われる場合もある。「島とは、凡てもと周廻に界限のありて一区なる城をいふ名にて、海中には限らざるなり」と本居宣長。城というか、元々は人が住んでいる区域がシマと呼ばれたようである。須磨というのも同じ意味かも知れない。住んでいる間(ま)、空間といった意味か。浦島太郎さんも島にいたわけではなく、浦に暮らしていた、浦といっても、浦島といっても同じ意味で、浦にある集落のことである。
本来は神社や寺院は聖なる場所だが、テラ銭とかヤクザのショバ代の意味にも使われたりもする。シマには色町、岡場所などの意味もある。聖と穢が、天国と地獄が(あくまでも当時の人々の意識から見てのハナシ)入り交じったような場所、村ではなく多様な人が集まるマチバと思われるがよそ者には、まして千年以上もずっと後の人間にはわかりにくい所なのかも知れない。
マではなく万(萬)であるが、それはマか、マンか、しかしマでもマンでも同じで、本来の意味は要は女神の円い穴の意味と思われ、豊饒の地母神、豊漁の女神、あるいは溶鉱炉か、創建当時の事情が不明のため、何とも判断が出来ない。
シマというのも、アヤシイと言えば、アヤシイ。網野町の島津(嶋庄)には床尾神社や早尾神社と産鉄神だろうと思われる社が鎮座している。
舞鶴の嶋満神社もこうした観点から見直してみる必要がありそうに思うが、創建当時の由緒は残らないため、推測に推測を重ねるより手もない。その性格を後には、今はフツーにはというか海の神社とされていて、その考えしかないようだが、その海人とは海の荒れる冬期には山に入って産鉄民でもあった。舞鶴は海人の漁師・海運・水軍・海賊面とたまに製塩面はよく言うが、産鉄民の面はいっさい言わないし目を向けたこともないようで、海人が鉄に元々から関係深いとは想像すらしたことすらもないようなので、当面は参考になりそうな話はまず聞けそうにもない。同社縁起に「吹戸ノ御碕浮嶋ノ嶺」と今の鎮座地・浮島を呼んでいて、「吹戸」という岬、今の新舞鶴小学校や白糸中学校あたりが海ヘ突き出していたと思われ、そこらから南の尾根筋一帯、国病の裏山一帯を「吹戸」と言ったようである。金属を吹いたトコロといった意味と思われ、嶋満は意外や溶鉱炉の岬に鎮座した神であったかも知れないと考えられないこともない。
古代同地は丹波国造・大倉岐命の領する地であったと見られ、彼の古墳はその岬の山(長谷山)にあるとされる。同命は舞鶴嶋満神社の創祀者ではなかろうか。また同命は天田郡の天照玉命神社の創始者とされるので、綾部島万神社もあるいは同命の創祀になるのかも知れない。同命にも桑田国大枝山で大蛇を退治したという伝承があり、同命自身がヘビであり、ツチグモであり、オニであったのであろうし、山城国国境まで、後の丹後・丹波は支配範囲であったと思われる。

奉納芸能

当社祭礼(秋祭)に太鼓踊と太刀振が奉納され、こちらが有名である。太鼓踊はシンブチ(新発意)1人、親ブチ1人、子ブチ2人の合わせて4人と音頭5人とからなる。子ブチの打つ太鼓の音調が特徴的で、この踊そのものを「テンテコテン」と呼ぶこともある。中世末期に流行した風流踊の流れを残すものといわれる。案内板に、
島万神社の太刀振・太鼓踊
社伝に、天平八年疱瘡が流行し、翌年(七三七)疫病平癒祈願のために本社を勧請したとしている。現在も安産、病気平癒の神として崇敬されている。祭礼は十月十日に行われ、氏子中から太刀振と太鼓踊が奉納される。これらは中世末期に流行した風流踊を伝えるものであって、昭和六十年京都府の無形民俗文化財に登録されている。
平成六年三月  綾部市教育委員会



バショウと呼ばれる旗のような物を持って踊る、これは神の依代か。来臨する神々に捧げた神事芸能であった痕跡であろうか。こうした過去は忘れられてしまい依代はなく単に芸だけになっていくが、これはそれ以前の型を残しているものか。古いものだと思われる。



大祭の朝9時くらいから奉納される。


真宗大谷派心証山明福寺


明福寺
所在地 中筋
山 号 真証山
宗 派 浄土真宗大谷派
本 尊 阿弥陀如来
由緒沿革
 寛永元年釈宗善法師によりて創立せられ、開基より現住職高岡賢龍師まで連綿として十五代の法燈をつないでいる。
檀家 一〇〇戸
什宝 「南無阿弥陀仏」と書かれた連如上人の真筆
   什物諸目録認証書
     山家藩谷氏家老筆
(『西八田村誌』)


浄土真宗本願寺派放光山教願寺


教願寺
所在地 中筋清水
山 号 放光山
宗 派 浄土真宗西本願寺派
本 尊 阿弥陀如来
由緒沿革
 俗名佐々半之丞、大阪城落城の翌年、私かに逃れて当地に来り、出家して教恵と名のり、(正保十二年寂)開基となる。それより血脈相承で法燈つぐこと、現住職佐々木恵雲師で十一代、文政元年堂宇全焼す。
 現在建築は、文政十年三月十八日の再建正かかるものである。
檀家 四〇戸  (『西八田村誌』)

この2寺は、隣同士に建っている。


《交通》


《産業》


《姓氏》


中筋の主な歴史記録


綾部市、島萬神社の太鼓踊について
梅原三郎

民俗芸能の保存が最近大きくとりあげられはじめたことは喜ばしいことてあります。NHKが毎週ふるさとの歌まつりで埋もれた民俗芸能を全国に紹介していることもこの機運をもり上げていると思います。去る十月十三日福知山より放送されたものを見まして、 私たちの地域にすぐれた芸能が伝承されていることを改めて知りました。各地域で無形文化財の指定をして保存につとめて居られますが、一般に伝承者が少くなり、すたれて行く傾向にあることは否定できません。私たちはこの伝承された芸能を出来るだけ詳しく調査し、各芸能の関係と明らかにして行くと共に、これが保存に努めなければならないと思います。こゝで紹介する島萬神社の太鼓踊もその一つであります。
島萬神社は綾部市中筋町にある式内社で、祭神は素戔嗚尊であります。この神社の例祭は十月十一日でその日に太鼓踊と大刀振りが奉納されます。今日は太鼓踊について紹介をいたします。
太鼓踊は新発意(シンブチ)一人親発意一人子発意の四人で踊り、歌は五~六名の六人の男子が歌います。新発意は大人の男子で、着物にたつけ袴、陣笠をかぶり、左手に芭蕉と呼ぶ竹に三本の羽二重の旗を指したものを持ち、右手に軍配をもち、全体の踊りをリードします。親発意は中学生男子で紺かすりの着物にたつけ袴、左脇に太鼓をかりえ、右手に撥をもってトン・トンとリズムをとりながら踊ります。手発意は小学生の女子で、腰に太鼓をつけ、両手に撥をもって、テンテコテンと打ちながら動作します。このリズムが特徴的なので、踊りのことをテンテコテンとも呼びます。
踊りの番数は元は十三番ありましたが、明治の頃からは六番だけ行なわれ、現在に至っております。
 一ばん 長者おどり
長者へまいりて 御門がかりを見てやれば 黒金往に 白金扉 黄金の海老錠おろされた 長者おどりを一おどり
 四ばん 花見おどり
さて三月にや 桜花 これも花のはじめ咲いて 月に花見はおもしろや
 六ばん 忍びおどり
 おれを忍ばば 茶園の中にお持ちやれ
もしかも誰ぞと人問はば 新茶をとると 答えさしよ
とろとろとけさの朝霧 一度は落ちよて よるものに
三つの踊の歌詞の一節だけを記しましたが、これを見てもわかる通り、いずれも農民の間に生れた労働歌ではなくて、流行した歌であります。流行したものであることは、他の神社の奉納踊りにも、これとよく似たものがあることによっても知られます。例えば、丹後本庄浜の宇良神社の花の踊に
 おれを忍ばば これの茶園の根に忍べ もし露われて人問ばば 新茶を摘をと答えさせ 忍び踊はひと踊
 このように歌詞が殆ど同じであり、踊手のもつ物も、左手に花と称し竹に四・五本の紙花をつけた依代をもち、右手に白扇をもっているところ、島萬神社の真発意と同巧であります。
また綾部市金河内町の阿須々伎神社の祭礼にも花の踊の奉納があり
 さて三月には 桜花 りんりんつぼみで花が咲く 花のおどリはおもしろや
という島萬神社のそれに殆ど同じ歌詞があり、踊手の持物は左手に笹の枝、右手に白扇と前の両社のそれと類似しています。
このように踊が類似し歌詞が共通していることは、この踊りが流行したものであることを明らかに示しています。
このような踊がどの時代に流行したものかの比定はむずかしいことですが、この踊が念仏踊の要素を多分にもっていること、歌詞・音由・更には阿国歌舞伎に忍び踊があり、一おどリ一おどりと返すところなどからして歌舞伎発生前のものごあると考えられます。
その当時流行し、祭礼の娯しみとされたものが引きつづき伝承されて、神社への奉納踊となったものと考えられます。
踊の形態、歌詞はこの三社のものはよく似ていますが、歌の曲は島萬、阿須々夜の両社のものが非常に異なったものなのです。全然曲の系統がちがうという感じです。
この辺にも歌詞なり踊りなりの比較研究と共に曲の比較研究の必要が痛感されます。両丹地方に伝承されているこの形態の踊について皆様の御報告がつづけられ、比較を通しての研究が進められると共に、これらの保存が今後更に進められる事を期待しております。
尚島萬神社太鼓踊の詳細ついては芸能史研究15号へ立命館大学日本史研究室内 芸能史研究会判)に載せてありますのでご覧下さい。  (『両丹地方史』)

島万神社の太鼓踊と太刀振
島万神社は素戔嗚尊を祭神とする式内社である。社伝によると、「天平八年天下に疱瘡発シテソノ伝染極メテ猖獗 都鄙ノ別ナク人多ク其禍ニ罹ル 是ヲモッテ翌九年朝廷諸国ニ命シテ神社ヲ大ニ修造セシメラル 時ニ東股村西股村吉美郷ノ諸民相議リテ 疫病平癒祈願ノ為ニ本社ヲ再建ストイフ」とあり、現在でも安産・病気平癒の神として崇敬されている。
この神社の祭礼には氏子中より「太鼓踊」と「太刀振」を奉納している。この奉納は古来から引きつづいており、大正年間に一度休んだこともあったが、その後は毎年欠かさず奉納している。
 踊を伝承する人は中年以上の人達で、若い人々が熟達してくれないという悩みはあるが、氏子中のこの芸能保存の熱意は高く、昭和四十一年九月、綾部市指定文化財第一号として指定された。
祭礼の当日は、朝からそれぞれ役の服装を整えて神社鳥居前に集まり、それより傘鉾をおし立て、裃姿に青竹の杖をついた警固の先導のもとに、拝殿まで約三〇〇メートルの参道を大太鼓の音に合わせて練り込む。明治のころまでは練り込みの囃子があったが現在は行われていない。拝殿前には舞堂があり、その中で左側は太鼓踊、右側は太刀振と分かれて奉納する。太鼓桶は十三番あったが、現在は六番だけを奉納し、太刀振は六種類を奉納し、両方同時にはじめて同時に終わるように調整する。所要時間は約一時間である。
明治のころまではこの踊の間に狂言をはさみ、踊と狂言を交互に演じて半日がかりであり、村中あげての祭礼で、近郷からの参拝者も多くずいぶんにぎわったものだという。このほかいま行われなくなったものに鼻長(猿田彦)と刀踊がある。鼻長は天狗の面をつけて練り込みの先導をするものであり、刀踊は二人が長刀を肩にかつぎ、扇子で柄を叩いてまわる踊で、どちらも恰好がおかしいというので受け手がなく、いまは行わなくなった。
台にのせてかつがれていく傘鉾には、花嫁の丸帯・しごき・嫁入りに持参した菓子袋・花婿の角帯を必ずつるすという面白いならわしがある。この社が安産の神として信仰を集めたこととかかわりがあるものであろう。

太鼓踊
太鼓おどりは、シンブチ(新発意)一人・親ブチ一人・子ブチ二人の合わせて四人と音頭五人で構成する。新ブチは大人の役で、その服装は着物に紺がすりのタッツケ袴、白たすきをかけ赤い腰紐をしめ、結び端を長く垂らす。頭には陣笠をかぶり、右手に軍配、左手に芭蕉とよぶ二メートルほどの竹に三本の芭蕉の葉の形をした羽二重の旗をさしたものを持つ。親ブチ・子ブチは子どもの役で、紺がすりの着物にタッツケ袴、手甲をつけ、たすきがけで、親ブチは左脇に太鼓を抱えて右手にバチを持ち、子ブチは腰に太鼓をつけ両手にバチをもつ。四人とも白たびはだしである。この四人が新ブチと子ブチ、子ブチと親ブチというように二人づつ向い合い、およそ畳一帖の範囲で動き踊るのである。
どの踊も、はじめは二人ずつ向い合って右立膝の姿勢をとる。まず新ブチが立って、「ズイと姫子達、この新ブチが教えおいたる長者蹄を一おどり所望申そう。中でもよかろう音頭を頼み、その音頭の裏声につき、この新ブチもハッパとはやし申そう。太教の頭をシッティティ」と語りながら親ブチ・子ブチのまわりを一回りする。長者踊というのは踊の題名である。足の運びは重心を後足にかけ、片足を一度前へ出し、それを足の裏が見えるまで後にハネ上げてまた前へ出す運び方である。一廻りして元の座へかえって語り言葉を終わり、サァーッ、サァーッと尻上がりの音頭で掛声をかけ歌の出をうながす。このパターンは新ブチと子ブチの太鼓の呼吸が合い、歌の出がうまく乗るまで繰り返される。子ブチの打つテンテコテンの音調が特徴的なので、太鼓踊そのものを「テンテコテン」とも呼んでいる。

    壱ばん 長者踊
   ヤァ長者おどりを一おどり 一おどり
   ヤァオンサッ サァーツ サァーツ
   ヤァ長者へまいりて御門がかりを見てやれば 黒金柱に白金とびら こがねのえび錠おろされた 長者おどりをひとおどり ひとおどり
動作ははじめのヤァオンサッで立ち上がり、歌がはじまると向い合っていた者が、太鼓を打ちながらリズムに合わせて前へ歩き場所を入れ替り、また元へかえる。新ブチはサァーッサァーッと掛声をかけてリズムをリードする。太鼓に合わせて動作するときはリズムは整然としているが、囃になると言葉によってリズムは変わってくる。どの踊もザンザラザンニャザンで終わる。
このように“テンテコテン″のリズムに乗って踊るこの踊は、次に述べる坊口町の花の踊と同じ系統のもので、中世末期に流行した風流踊を伝えるものである。芭蕉の葉をかたどった旗差物が、三枚の旗に生け花の図を染めて花の意識をあらわしているのは花踊との関連をしめすものであろう。
次に現在奉納されている桶の歌詞を記す。
   一ばん 長者おどり
 一、長者へまいりて 御門がかりを見てやれば 黒金柱に白金とびら こがねのえびじょうおろされた 長者おどりを一おどり
 二、長者へまいりて 馬屋がかりを見てやれば 七間馬屋に駒たてて 胸の毛色は何々そろ 一に栗毛二に鹿毛かわら毛 三さげ月毛とまず見えた 長者おどりを一おどり
 三、長者へまいりて 書院がかりを見てやれば 諸国の侍集まりて 弓まりはうじょう うたれしが 長者おどりを一おどり
 四、長者へまいりて おていがかりを見てやれば 青貝づくりのお手槍が 千本そろえてまず見えた 長者おどりを一おどり

    二ばん かすみ踊
 一、愛宕の山にふるかすみ かすみがかりて降る雨は さあらりさあらりとう六月や 雨のあしあと
 二、富士の山にふるかすみ (以下同じ)
 三、鬼ケ城山にふるかすみ (以下同じ)
 四、比叡の山にふるかすみ (以下同じ)

   三ばん 具足おどり
一、おれが弟の虎松は まだ十五にはならねども 武者を一じと好まれた 具足おどりを一おどり
二、具足は何と好まれた かみ六番は紫ひとよ しも七番はからくれないにほろかけた 具足おどりを一おどり
三、かぶとは何と好まれた 四方島田に 八方白帆の冠に 濃いくれないにほろかけた あやのはずしで十三番とおろされた 具足おどりを一おどり
四、刀は何と好まれた かんの塗鞘むくのこうがい うらのしょつけてささせた 具足踊はこれまでよ
   四ばん 花見おどり
一、さて三月にや桜花 これも花のはじめ咲いて 月に花見はおもしろや
二、さて四月にやつつじ花 (以下同じ)
三、さて五月にや百合の花 (以下同じ)
四、さて六月にや桔梗の花 (以下同じ)
五、さて七月にやぼんげの花(以下同じ)
六、さて八月にや萩の花  (以下同じ)
  花見おどりはこれまでそろ おどりの姫はみなつぼみ

  五ばん 綾のおどり
一、因幡の国の長者の三郎 諸国の大工呼び並べさしょ 綾はたたたしょ 綾織らしょ
二、綾織る姫がいなかに無うて 京から姫を呼び下す
三、明神星は七つにさがる いでから起きて綾織らしょ
四、大事にかけて織りそろ綾を よそとや人のねずなきを
五、柳の下に水つるおなご 足白手白まい黒目黒 あれこそ人の殿とりよ
六、柳の葉よりせまいことおっしゃる こなたの殿御はとるまいに
  綾のおどりはこれまでそろ おどりの姫はみなつぼみ

  六ばん 忍びおどり
一、おれを忍ばば上野の道にお待ちやれ もしかも誰ぞと人問はば うぐいすとろと答えさしょ
  とろとろとけさの朝つゆ 一度は落ちよてよるものに
二、おれを忍ばば茶園の中にお待ちやれ もしかもたぞと人問はば 新茶をとると答えさしょ
三、おれを忍ばば小薮の中にお待ちやれ もしかもたぞと人問はば 矢の竹切ると答えさしょ
四、おれを忍ばは細谷川にお待ちやれ もしかもたぞと人問はば 洗濯すると答えさしょ
    忍びおどりはこれまでそろ おどりの姫はみなつぼみ
上記六番が現在奉納されているもので、昔は更に七番あり、計十三番奉納されていた。
七番の題名だけ記す。
 松虫・つばくら・あられ・寺・腰元・名所・花の手拍子


太刀振
太鼓踊に並行して行われる太刀振は、オンヤー オンヤーと掛声をかけながら動作をするので「オンヤー」と呼ばれる。練り込みの行列には「太鼓踊」の役者よりも先に行く。振り物は六種があって次の順序で行われる。
     露払い
「太鼓踊」の子ブチと同じ服装の小学校三、四年位の男子が二人、赤・青・白の色紙を巻いた長さ一・五メートルほどの棒(サンヤレとよぶ)を振り、打ち合うものである。棒の振り方は・礼太刀・かさの下・こし車・やり手・ほらがやの五通り(五クサリという)がある。
     妻隠し
約三〇センチメートルの刀を小学校四、五年の男子二人で振り合う。礼太刀・木の返葉し・きまた・かすみの四クサリある。
    小太刀
頭に猩々の毛をかぶり、小学校六年か中学生が小太刀を振る。礼太刀・つば止め・とぬけ・よけみち・木の葉返し・ほらがやの六クサリある。

    野太刀
前と同じ服装をした青年二人で太刀を振るもので、最も勇壮な振り物である。しばいなぎ・かすみ・しころ落とし・たますだれ・けしや流し・ほらかやしの六クサリある。

    小長刀
大人二人で長刀を振る。振りながら長刀の石突きにつけてある色紙を互いに切り落す。礼太刀・ごぼう・やばらい・まえおとし・こておとし・とぬけ・ほらかやしの七クサリある。

     大長刀
同様に大人二人で振る。礼太刀・ひざぶり・やりの手・きりかつぎ・まえぶろ・こておとし・ほらかやしの七クサリある。
太刀はすべて真剣で刃がつけてあるから、よく練習して二人の呼吸が合わないと危険である。特に野太刀は勇壮で、動作が荒いため注意をしている。
このように島万神社の祭礼芸能は、いまも確実に行われている。
(『綾部市史』)

てんてこてんとオンヤーおどり
 綾部市・西八田小 三年 沢田三和
ある日、学校から帰ったら名前が書いた細長い紙がおいてありました。その紙にこう書いてありました。一まい目は、沢田省吾、もう一まいは、沢田三和と書いてありました。私は、それを見て「はっ」と思いました。
お祭りに出る人に紙がくるのを知っていたからです。
私がやるのは、てんてこてんのたいこおどりで、四年のみゆきさんと、五年の小林君と、もとき君のおとうさんとの四人です。秋の大運動会が終わってから、毎日練習に行きました。手足を動かしてばっかりの練習だから、手や足がだるく、つらい日もありました。むこうのへやでは、たちふりのけいこをやっています。練習している人たちは、小学校一年生の男の子から、おじさんたち十二人でオンヤーおどりのけいこをやっています。
私たちがするたいこおどりは、①長者おどり②かすみおどり③具足おどり④花見おどり⑤綾のおどり⑥しのびおどりを小だいこと大だいこで、トットットーチャキリキ、トットットーチャキリキ、テンテコテン、テンテコテン、ヤンオンヤー、ヤンオンヤーとおんどに合わせてたたくのです。だんだん上手にできるようになると、少しつつ早く帰れるようになります。
とうとう十月十日のお祭りの日がきてしまいました。朝早くからお父さんとお母さんにしたくをしてもらいました。かすりの着物にかすりのたっつけをはいて赤いたすきに白はちまきをして白たびにげたをはいて、おみやさんまで歩いて行きました。いよいよ神様の前でおどるのです。私たちのまわりにおともだちやら、学校の先生や近所のおばさんたちが、私たちを見ておられるのではずかしかったです。まちがえんようにと思いました。おどりが終わったとき私は、ほっとため息をつき、やれやれという気持ちですわりました。ほかのたちふりの男の子たちや、大だいこをたたかれたお父さんたちもほっとしたような顔をしておられました。
このお祭りをする神社は、私たちの村にある島万神社で、今から千二百年前にほうそうという病気がはやって大ぜいの人が死んだ時に、今の東八田と西八田と吉美の人がよって病気をなおすためにこの中筋にお宮さんを建てたそうです。まつってある神様は、すさのおのみことというあまてらすおおみ神の弟で、やまたのおろちを退治された勇気のある神様だそうです。
たちふりは、その時に病気をなぎたおす時にしたかっこうをして神様に病気がはやらんようにおねがいしたそうです。
私たちがしたたいこおどりゃたちふりは、今から四百五十年前の室町時代から人の口から口へ言い伝えられて、毎年十月十日のお祭りに神様の前でおどっておさめるのです。大正七年に一度だけ休んだらその年に悪い病気がはやって大ぜいの人が死んだそうです。このおどりは、昭和四十一年に綾部市でははじめて無形文化財にえらばれたそうです。
こういうお話をお宮さんの神主さんから聞いてよくわかったので、もし来年も紙がきたらいっしょうけんめいてんてこてんをおどりたいと思います。  (『由良川子ども風土記』)


伝説






中筋の小字一覧


中筋町
朽ノ木 西屋 立柄 家ノ谷 迫 溜戸 今田 桜ケ迫 西ノ坪 川上 坪ノ上 中道 深田 迫ノ尻 保条谷岐 下リ 鳥尾 向山 仲田 堂ノ前 西ケ迫 西ノ谷 八幡畠 石原谷 小南 柿迫 原田 井根ノ上 西谷坪 小谷坪 西ノ段 土居付 小谷鼻 吉代稲葉 殿垣 上リ坂 八名谷 大栗迫 三引 九斗田 小路ケ迫 日尾 薮ノ下 下茶臼 上茶臼 荒峠 幽谷 小谷 大門 若宮谷 村中 島ノ奥 中ケ谷 菖蒲谷 峠谷 北仲 上ノ段 谷仲 家ノ下 椿原 関戸文珠 大安 番田 岩本 宮ノ下 二瀬川 和田ケ鼻 西ノ畑 清水 野 稲場 山鼻 明治 流田 塚石 甲斐田 五斗田 長田 山下 城ノ下 アゴ田 仲ノ坪 山ノ神 野ノ下 阿ホ谷 小西 大稲葉 大畑 中谷 野ノ谷 妙見 自ノ田 安井谷 渡リ畦 高柳 井根淵 堂本 緩□ 下田 大坪 土井ノ上 角田 鶴ケ岡 亀井 鳥居岡 城ノ腰 二ノ段 宮ノ前 宮ノ谷 岩ケ下 タチ 八幡 島萬 杉ノ木 庵ノ谷 大林 西谷 東谷 学田 塚ノ本 日ノ本 ヤブロ 寄合田 向掛 川南 向山中 清水迫 西ノ岡 北畑 南畑 北買田 中買田 下買田 辻 大工田 平林 妙見 宮ノ谷 西ケ迫 安井谷 大林 中谷 西谷


関連情報






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資料編の索引

50音順

市町村別
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市









【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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