丹後の地名  資料編


鳴生神社
(なりゅう・なりうじんじゃ)
鳴生葛島神社
(なりうかつらじまじんじゃ)
舞鶴市成生


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 鳴生神社


鳴生神社

鳴生神社

《概要》
成生に鎮座する丹後風土記残欠の記録する神社。村の中央にある。
 残欠は「鳴生将軍社」とするが、「大」が落ちているのではなかろうか。鳴生大将軍社なのではないかと思う。江戸期の記録には大将軍社とある。
《祭神》日子坐王。

境内には、これも残欠記載の鳴生葛島社がある。
鳴生葛島神社

鳴生神社は前庭が立派で広い、何かあったのではないのかと考えていたのであるが、ここでかつては笹踊りが行われたという。
鳴生神社の境内
『丹後の笹ばやし調査報告』(府教委・昭52)に、
成生・踊
       名称 踊
       所在地 舞鶴市成生
       時期 十月第三日曜日(休止)
 成生では、氏神の鳴生神社の秋の例祭に、踊を太刀振とともに奉納した。成生は若狭湾につき出た成生岬の根っこに位置する、わずか二十戸の小さな漁村である。昔からブリの定置網で栄えた裕福な在所として知られている。
 踊は、太鼓打 一名、音頭とり 二名、踊子 大勢という構成で、家主(戸主)の役とされる。すべて着物の着流しで白足袋をはき、大太鼓のほかは扇子を持つ。家主全員か参加するが、ケガレができたときは役につけないしきたりである。太鼓打は習得するのが難しく、見習い期間として二年ほども師匠がついて練習し、このためこの役につくのを皆いやがったという。音頭とりは歌の上手な者にほぼ定まっていた。これらの役割は区長がとりまとめる。
 これに対し振物(太刀振)は、少青年の役であり、その所役は青年が集って決めた。ここの太刀振はいわゆる組太刀型で、大太鼓と笛のはやして、二人ずつ組んで刀や棒を振り切組みを演じる。演目には、一、露はらい(棒振)、二、小太刀 三、中太刀 四、大太刀 五、小ナギナタ 六、大ナギナタ 七、野太刀があり、それらをその順に、年少の者から次第に年長に及ぷ形式で演じる。やはり、年令階梯的な構造をもっている。
 祭礼当日は、ネギの宅から神社へ練込み、コモリ堂において踊−太刀振の順に奉納し、それが終ると、ネギ宅、区長、荒神さんと回ってそれぞれで同様に行う例である。踊の場合は、氏神で「大踊」「姫子踊」「帷踊」の三曲、ネギでは「うちみ踊」、区長では「つくし踊」、荒神では「虚無僧踊」と奉納曲が定まっていた。
 踊は、コモリ堂(舞台様式)の中央に大太鼓一丁を据え、音頭とりと踊子がそのまわりをとり囲むかたちで行う。音頭とりは踊子にまじって適当に位置する。音頭は踊子もうたう。はじめ全員が坐る。音頭とりが「ひんやおもしるしはャァ春日の森は」と音頭を出すと太鼓が打ち出され、「鹿が紅葉にたわむれておもしるやャァハハ」と踊子が唱和し、ヤアハハで立ち「ひんやあ春の……」とうたいつつ右廻りに踊る(「大踊」)。位置を変えながら踊るのはこの曲だけという。「大踊」につづく「姫子踊」の場合は、「ひんやそろたか姫子踊はひとおどり」と音頭が出されると「ひんやひとおどり」と踊子が唱和し、「ヤァハア テンテコテン」と太鼓が入り、全員が立ち上って踊りはじめる。踊りは扇をひらめかせつつただ足を交互に出すだけといい、「大踊」以外はすべてこの形式だとされる。
 シンポチや東西の姿は見えないが、この踊は神崎の笹ばやしと類型をなすと考えられる。とくに「大踊」は周辺地で「庭入り」とか「宮入り」と呼ばれるものであり、踊り場にねり込む古態を考えるうえで注意すべきであろう。昭和三十二年いらい休止となっているのは残念である。
 この踊は今回の調査でとりあげることができなかった。しかし、昭和四十六年に当時の区長川中義久氏からお聞きしたノートがあるので、それによってあえてここに記すことにした。

↓笹踊は休止の境内だけれども、その代わりにこんなゴッツォが…、「野草の揚げたて天婦羅」。
ある日の鳴生神社境内



鳴生神社の主な歴史記録


《丹後風土記残欠》
鳴生葛島社
同将軍社

甲岩。甲岩ハ古老伝テ曰ク、御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)ノ御代ニ、当国ノ青葉山中ニ陸耳御笠ト曰フ土蜘ノ者有リ。其ノ状人民ヲ賊フ。故日子坐王、勅ヲ奉テ来テ之ヲ伐ツ。即チ丹後国若狭国ノ境ニ到ニ、鳴動シテ光燿ヲ顕シ忽チニシテ巌岩有リ。形貌ハ甚ダ金甲ニ似タリ。因テ之ヲ将軍ノ甲岩ト名ツク也。亦其地ヲ鳴生ト号ク


《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
成生村
本寺海臨寺明雲山西徳寺。大将軍社氏神なり。


《丹哥府志》
◎成生村(田井村の次)
【大将軍社】
文治年中平氏亡び後其大将遁れて爰に匿るものあり、蓋大将軍社は其礼を祀るなり、今其姓氏を詳にせず村の北に倉内といふ處あり、田井、成生の二村に倉内氏を冒するもの其苗裔なりといふ。…


《成生の生ひたち記》
鳴生神社は当成生部落の中央なる山腹に位して老杉古柏鬱蒼として自ら森厳の気に満てる清浄の地に鎮座まします村社鳴生神社は明治維新の大政迄は社号を大将軍神宮と号し奉り祭神は人皇十代崇神天皇の皇子日子坐王を祭祀し当成生部落の産土神なりとす本社の由緒は古事紀によりて明瞭なり然るに維新以後は宮号を廃せられ鳴生神社と改称せり

由緒

抑も当村大将軍神の来由を?るに社記に曰く 人皇十代崇神天皇の御宇に当国志楽の郷の山中に土蜘御笠と言ふ者其の匹女と共に棲?し多くの眷属を引率し数十里の間に衝行し人民を賊し財貨を掠奪すると十有余年に及べり遂に叡聞に達し皇子日子坐王に勅して征せられ土蜘御笠は其の光景を見るや小賊を率ゐて浦辺の海上へ逃げ去りぬ皇子之を追撃して若狭と当国の国界なる海上の?岸に到り給ふ此時御身の甲冑鳴動し光輝を発し土蜘御笠の潜匿を照せりとかや故に近傍の?石を将軍の甲岩と云へり又其地を鳴生と云ふ此の処に馬立射手の両嶼あり是れ皇子の馬を立ち留め箭を射立給ふ古跡なりと斯くて土蜘御笠は其の匹女と共に右往左往に狼狽し遂に船に??乗りて凡海の鯨浪を凌ぎ志詫の郷へ?延す皇子之れを追ひて大に戦ひ小賊過半を討ち給ふ御笠匹女は其の川上なる血原の郷に遁篭る茲に日本得魂命と謀りて大雲川の上下より挟み攻むるに漸く匹女を退治し給ふに御笠は身を逃れて遁去り行く処を知らず独り身を脱して川下なる由良の港を泳り名具の嶺を攀り遂に何国ともなく逃げ去りぬ斯して皇子は再び青葉の山中なる賊巣を駆落し破據の蹤を絶つ依って人民は安堵の?を為し父子夫婦相賀して皇子の御威徳を仰ぎ御肖像を此地に祭祀して大将軍神宮と崇め云々(丹後風土記)

神宝
斯て皇子の御佩せ玉ふ御太刀は今猶神祠に納め神宝として保存し来るなり

社殿
神祠は優に一千四百余年の星霜を経て応安七年に至り民火の為め烏有に帰したるも幸なるかな御神神体及び宝劒等は其災害を免れぬ降って永和五年官人比丘尼妙忍と云ふ人帝都より来り御神体の尊崇なるを敬仰し神祠の廃蕪を嘆き宮殿を新築せられたり其後宝暦八年に再建し尚又明治四十三年に至り鰤大敷大漁記念として本社拝殿共に改築せり
本社大鳥居の掛額従前の大将軍神宮は皇族殿下の御宸筆なりとも伝ふ又本光院殿下の御宸筆を下賜されたる者とも伝へ来るなり明治維新に際し伊勢大廟の外官国幣社共宮号廃止の当時御祭神の御由緒を墓ふて鳴生神社と改称し現今の御額は公爵近衛篤麿公の御??なり

御寄贈品  文久元年帝都本光院宮殿下より左の御品々を御寄贈せられたり
一御紋付紫?幕 一張
一御紋付高張 二対
一御紋付幟 五本
 但し菊花御紋章共
右品々御寄贈に対する御書下れ写左の如し
   御書下げ
一御紋付紫幕 一張
一御紋付高張 貮対
一御紋付幟 五本
右は大将軍神社兼ねて御信仰相成御祈願被仰付候処速に霊験在之候に付今般神前へ右之品々御寄附相成候間永世大切に相用可申依而執達如件
         蔵人?所
          御役所 印
文久元辛四年五月
        丹後嘉佐郡大浦成生村
         神主 上野大輔江
 前書之通り相違無之?印依而如件
     御寮司
      藤田隼人
         延元
一大祭日  九月廿八日
一小祭日  三月廿八日
一境内地  四百参拾八坪

境内末社
一葛島神社  (一名山神社とも云ふ)
  祭神  大穴持神 少彦名神 大山祗命
一吉田神社
  祭神  武雷神 経津主神 天児屋根命 天照皇大神
一大川神社
  祭神不詳
   境内建造物
一拝殿  梁行十三尺 桁行二十九尺
一神馬舎 梁行五尺  桁行七尺
一宝蔵  梁行九尺八寸 桁行十三尺
一篭屋  梁行十三尺 桁行四十八尺
一水屋  梁行五尺 桁行七尺
一三柱神社

本社地は成生より艮方に位する小字平に鎮座す境内地は僅に百坪未満なるも此境内地には数千年を経過せしとも思はるる常磐の古木森々として生ひ茂り自ら古跡を偲ばしむものあり祭神は不詳なりと雖も古老の伝に曰く往昔此地に葛島神社祭祀しありしに何時の頃よりか本社を鳴生神社境内に移転せしもの也と伝へ来るなり此三柱神社と号し奉るはいつの頃よりか知らざるも大穴持神少彦名神大山抵命の三神を祭り来る由緒によりて三柱神社と社号を附けたるものなるかと聞き伝ふ?又旧幕府の御時代に神社由緒御取調ありしとかや慶応四年四月社寺奉行所へ差出たる其当時の写に依れば左の如し

成生葛嶋神社由緒
抑も当所葛嶋神社と申し来るは古老の伝に事代主命大穴持命の二座を斎き祀る所なり此の嶋に平地もありしに昔大宝元年三月の大地震に東方二丁あまり平地の分ゆり流れ社は黒地(成生の地の名)の端に?ひ上り其の処今に宮が崎と号す其より村に引き移し屋摩の神とあがめ祭るものなりとかや


『民俗志林(成生総合調査報告・仏教大学民俗学研究会)』(1988)
成生神社
 地元では、大将軍社と称し、日子坐王(ヒコイマスノミコ)を祭神とする。そしてその由来はつぎのように書かれている。(註1)
 
 崇神天皇の十年丹波道主丹波を御平定の際、青葉山の凶賊土蜘蛛陸耳御討伐に命の御父彦座王御親往、遂に賊の臣魁を追払い給い、ここに国内御平定の事成る。彦座王御討伐の祭、王岳岸に至り給うや、召される甲胃鳴り動き光輝を発し、賊の潜匿を照らし、御討伐を速やかならしめれば、岳岸を甲岩と称し其地を名づけて鳴生と称し現在尚この称を伝う。其の地の住民は王の徳を尊仰し、祠を建て王の霊を祈り鳴生大将軍の宮と称へたり。
 
 以上の由来は、日子坐王による土蜘蛛討伐によって鳴生の地名、甲岩の由来ならびに鳴生神社の由来の3点を説明したものである。これと同様の記述は、記・紀と「丹後風土記残缺」(註2)に記されている。なお、甲岩の伝承地は現在の漁協倉庫の裏の海岸岩礁であるという。
 さて、現在の成生神社の祭祀について報告する。
 まず、神社の管理は「宮係り」2名で行なわれている。選出方式ではなく、「家廻り」で1年、現在は寺の管理を行なう「寺係り」と兼務となっている。主な「宮係り」の仕事は、神社ならびに漁協2階のシキビの管理、祭りの準備、宝物の管理等にあたる。不幸のあった場合は当年の係りを止め、次に廻る家にかわる。かっては、毎晩風呂に入り神社へ参拝したそうであるが、現在はおこなわれていない。ネギ(ネギドン)は、大正7・8年頃まで1家が世襲してきたが、その後廃止された。神社の祭礼は7年前までは新暦10月17日であったが、現在は10月の第2日曜に決められた。
 次に祭礼について述べたい。祭礼の準備は、だいたい2日前で職を7本立て、各々に提燈をつけた。これは若い者がしたという。祭礼当日に使う矢倉(車輪がついており、高さ1間ほどで屋根がついている)も、この日浜で組み立てる。祭礼前日の晩はヨイミヤで、各家の戸主が宮係りか区長の家に集まる。
 この時は祭の当日同様、紋付き袴で集まり、祭礼の打ち合わせや練習をして酒を飲む。祭礼当日は、ネリコミといって、現在の漁協倉庫もしくは集落の南側の坂道付近から、行列をつくって神社に「ねりこむ」。道順は決まっており(図4)、行列の順序も神主→ネギ→宮係り→矢倉となる。矢倉には、太鼓をのせ笛を吹きながら進む。太鼓を叩く人は特に決まっていないが、老人は「太鼓を叩かなかったら、漁がなくなる」といっていたそうである。
 神社に着くと、神饌物(白米・玄米・酒・餅・海のもの・川のもの・山のもの・昆布・するめ・菓子・塩・洗米・水・果物の14種類。13種類はいけないという)を供え、神主が祝詞をあげる。これには戸主が全員参加する。祝詞が終わると、戸主は御神酒をいただく。祭典が済むと、踊りがある。(タチフリのこと。註2)
 踊りは、神社境内→荒神堂→ネギドン宅前→庄屋前の順で移動しながらおこなわれる。踊りが終ると祭礼も終る。矢倉を壊し、寺で保管する。
 なお、以上述べたのは10年以上前の祭礼の姿で、若年層が減少している現在では、ネリコミ・踊りは中止されている。
 この他春祭りがあるが、これは戸主が集まって神饌物を神社にそなえるだけである。
 最後に成生神社の境内社について述べたい。
 成生神社は現在、大川神社・山神社・吉田神社・葛嶋神社等の境内社をもっている。(註3)
 葛嶋(カツラシマ)神社は、かって成生の浜へ社殿が漂着したのを祀ったという。管理は宮係りがおこない、祭礼は成生神社と同じ日である。当日は供物をする程度であり特に行事はない。
 山神社はヤマノカミと称し、明治40年頃まで秋に15・6才までの子供が各戸持廻のヤドに集まり、大草履と生きたオコゼ1匹を社に供え、一晩すごしたという。その時ヤドでは各人の年の数だけ鰻頭を配っていた。現在でも有志がオオトシまでにオコゼ1匹を供えているそうである。
 吉田神社・大川神社については伝承を得られなかった。

成生神社に関する一考察
現在成生では、生業を主として漁業によっていることはいうまでもない。しかし、その割に成生神社の漁業神としての性格が薄いこのことについて考察しておきたい。
 もちろん、成生神社と海との関連もいくつかの面で指摘できる。例えば神社に参拝する時は、成生神社より浜を通じるホンドウリを必ず通る。また、初詣には必ず浜へ降り額に海水をつけ清めた後に参拝するとの事例もある。しかし、それを直ちに漁業神としては結びつけ難い。むしろ本来の氏神としての性格が支配的ではなかろうか。
 漁業神として祭祀は、礒島の弁天、冠島の老人島神社・出雲大社等の外部の神社に向けられたようである。礒島の弁天と冠島の老人島神社については、本章第5節の「雄島詣り」に詳しいので参照されたい。出雲大社についてのみ述べると、第2次大戦頃に漁でへビが大敷網にかかり、これを出雲大社使いではないかと、出雲大社まで出向きみてもらったところ、まちがいないとのいうことであったので、代参講を出し大漁祈願をしているとのことである。





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成生
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