丹後の地名  資料編

成生
(なりゅう・なりう)
京都府舞鶴市成生


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成生の地誌


《成生の概要》


成生は舞鶴市の北東部。大浦半島の東北・成生岬の付け根の東部、若狭湾に面した海岸にある。成生漁港があり漁業地域。
若狭湾へ北へ伸びる成生岬の突端には灯台があり、海岸は海食崖が発達しほとんどが花崗岩の絶壁。平地は少なく、北部の黒地(くろち)湾の周辺にわずかに見られる。



成生岬の突端
↑ 成生岬の突端(灯台があるが見えるかな)

毛島と奈島
↑ 奈島(そこの岩)と後の大きな島は毛島

黒地湾(成生岬の東側)
↑ 黒地湾

風島
↑ お結びのような島が風島(葛島)

成生岬の東の海上に毛島(けしま)、黒地湾の入口海岸に奈島(なしま)風島(かざしま)がある。黒地湾は風待ち港として使われ、また漁業の基地であった。

礒島(成生)
↑成生湾口の礒島


南部の小さな成生湾内の中央突堤を中心に集落がある。
成生
↑成生の集落(海上から)

成生漁港
↑ 成生漁港に着岸

成生の漁船団
↑ 漁船がズラリ

波が道をきれいに洗う
↑ お盆過ぎになれば潮が高くなり、こうなるそう


竹屋町通×八幡通(西舞鶴市街地)
↑この時期は別に成生だけ潮が高くなるのではなく、ここは西舞鶴の市街地(竹屋町通×八幡通)であるが、こんな状態になる。もっと高くなると車が通れない、この通りは通行止めになる。なめると薄い塩味がある。この味は観光になるのでは−


村の中の通路は狭い
↑ 漁村といえばどこでもそうだけれども、路が狭い(失礼)。ここの路は狭いがきれい両側のお家は超立派な「ブリ御殿」

成生神社の鳥居
↑ どんどんと行きますと成生神社



成生窯・高井晴美さんのアトリエ訪問(突然に)

せっかく来たのだからと、この村出身の女性が話をしてくれまして、大勢が訪問しました。
新聞などでもよく目にする方、でも知らぬという人も多いかも−−
高井晴美さんは成生うまれ、海をテーマに制作を続けておられる気鋭の陶芸家。
日展に9回入賞、国内で数多くの足跡を残し、パリでヴァン・ドーム賞を受賞、今秋にはニューヨークで個展を開く予定だそうです。


↑ 村に入った所がご自宅で、ここで製作しておられる。大正期の「ブリ御殿」。縁の下にも作品がゴロゴロとほうりこんである。


↑御殿の中はこんな様子映画でしか見られないようなお家。向側の窓の外は海。油絵がたくさん掛かっている、お父さんが描かれたものだそう。

↑ 遠慮もなくドカドカ。このようなオブジェが、メーンみたい。
今度来るときはリックに一万円札詰めて来ないといけませんね。


↑ こんなので飲んだらおいしいでしょう小作品に女ぽい感覚が感じられる。


↑ 海を見ながら飲めたらもう最高、ブリなんかもちょっとあったりするといいでしょうね。
高尚な芸術品をそこに見ながらも、喰うことと飲むことしか話題にならんようでした。

高井晴美陶芸ギャラリー



《人口》59。《世帯数》21。

《主な社寺など》
小字(たいら)三柱(みはしら)神社
小字成生谷(なりうだに)鳴生(なりう)神社(祭神:日子坐王)鎮座(江戸時代の名前は大将軍社)。
鳴生神社
↑鳴生神社

鳴生葛島神社
↑鳴生葛島神社(こちらもずいぶんと古社だが鳴生神社の境内社のかたちで祀られている)


西徳(さいとく)(臨済宗東福寺派)永享元年(一四二九)の開山と伝える。
西徳寺(成生)
↑ 西徳寺

『加佐郡誌』
 〈 明雲山西徳寺、臨済宗、文安二年創立、東大浦村  〉 

『丹哥府志』
 〈 【明雲山西徳寺】  〉 

『丹後国加佐郡寺社町在旧起』
 〈 成生村。本寺海臨寺明雲山西徳寺。大将軍社氏神なり。  〉 


市指定天然記念物の、スダジイの巨木がある。

《交通》府道舞鶴野原港高浜線が田井から成生集落まで続く。

《産業》古来ブリ漁を行い、明治39年からブリ大敷網漁法を導入、南の隣接地田井とともに丹後ブリとして有名。



成生の主な歴史記録


《丹後風土記残欠》
 〈 鳴生葛島社
同将軍社

甲岩。甲岩ハ古老伝テ曰ク、御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)ノ御代ニ、当国ノ青葉山中ニ陸耳御笠ト曰フ土蜘ノ者有リ。其ノ状人民ヲ賊フ。故日子坐王、勅ヲ奉テ来テ之ヲ伐ツ。即チ丹後国若狭国ノ境ニ到ニ、鳴動シテ光燿ヲ顕シ忽チニシテ巌岩有リ。形貌ハ甚ダ金甲ニ似タリ。因テ之ヲ将軍ノ甲岩ト名ツク也。亦其地ヲ鳴生ト号ク
  〉 


《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 成生村
本寺海臨寺明雲山西徳寺。大将軍社氏神なり。
  〉 


《丹哥府志》
 〈 ◎成生村(田井村の次)
【大将軍社】
文治年中平氏亡び後其大将遁れて爰に匿るものあり、蓋大将軍社は其礼を祀るなり、今其姓氏を詳にせず村の北に倉内といふ處あり、田井、成生の二村に倉内氏を冒するもの其苗裔なりといふ。
【明雲山西徳寺】
【毛嶋】
毛嶋、馬立の二島田井成生の前にあり、島の形各略相似たり。
【倉内】
成生村の北に湾あり倉内といふ、湾の広サ十六、七町、懸崖左右に聳える、前に島あり所謂毛島なり風波の侵さざる處なり、航海の者此處に入りて風波を凌ぐ、風を見合て発す是を風待といふ。
【成生崎】(倉内の北、出図)
丹後より若州へ渡る凡十七、八里、其間の一大見崎なり。
 【付録】(荒神、山之神、愛宕、弁財天、薬師堂)
  〉 


《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 山神。荒神。大将軍、氏神、鍵取、五兵衛。西徳寺、明雲山、海臨寺末。当村ニテ鰤鱈或ハ鱸ヲ取。宝永戌年大地震夫ヨリ不捕近年又多取上ナシ、御用次第第一本本匁三分ヅツ。
  〉 


《加佐郡誌》
 〈 成生は昔志楽郷河辺庄の部内であったといふことである。旧名鳴生、氏神は大将軍神社である。地名の起源は風土記によると左の記事がある。(前略)御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)の御代に当田国青葉の山中に陸耳御笠といふ土蜘がいたが無情であって人民を苦しめた。そこで日子坐王は勅命をうけて親しくご征伐になった。丹後の国と若狭の国との境に到られた時に甲冑が鳴動(なりどよ)んで光をあらはすことは火の燃えているやうであった。所がそこに一つの巌石があってその形が非常に甲に似ていたから将軍の甲岩と名づけられ、また其地を鳴生と号けられた。(後略)古来鰤を漁するの地であるとして其名が宣伝せらている。之を旧記(嶽氏所蔵)によって調べて見ると東山天皇の寛永三年(将軍徳川綱吉)に大地震があった。之から土民が鰤の祟であるといって恐れてあまり漁をせぬ様になったとのことである。
  〉 

《京都府の地名》
 〈 慶長一二、三年(一六〇七、八)頃、多くの村人が出漁中海難のために全員が死亡。一挙に働き手を失った成生は、小成生をなくし成生村に集まった。遭難から十数年後の寛永年間(一六二四−四四)には成生村の戸数はわずか七戸であり、元禄一六年(一七〇三)でも一五戸にすぎなかった(「指上ケ申証文之事」水島歓一家蔵文書)。
  〉 


『民俗志林(成生総合調査報告・仏教大学民俗学研究会)』(1988)
 〈 明徳山西徳寺
宗旨は臨済宗東福寺派、本尊阿弥陀如来である。田井の海臨寺の末寺となっている。現在無住であるため、成生全戸家持廻り2名の寺係り(宮係りと兼務)で管理に当たっている。境内には観音堂(現在葬具置場)を備える。この堂は、観音講に使われていたそうである。
 寺関係の行事は、年中行事の項を参照していただきたい。ここでは、センボウと称する行事について述べておきたい。
 この行事は、田井・成生・野原・三浜・千歳・平・中村・栃尾・大山・原の10村が毎年各村持ち廻りで住職ならびに各村1名の代表をもてなすものである。
 この時当番の村では、各村の代表に木版刷りの札、鏡餅、米粒を配る。この内鏡餅については、田井・野原3個、三浜・千歳・平・中村・栃尾・原各2個、成生・大山各1個と数が決まっている。成生が当番にあたった時は西徳寺でおこなわれ、準備のため各家1人毎に手伝いを出していた。当番が終わると財産箱を次の当番に渡す。
 また、西徳寺には、舞鶴市指定文化財の絹本著色仏涅槃図一幅(鎌倉時代)があり貴重なものである。  〉 




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京都府福知山市
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京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市


成生(舞鶴市)


成生(舞鶴市)







成生の小字


成生 岬水走 黒地 桜浜 中崎 ササイクリ ハミ 水走 溝尻 桃崎 鼻杉 梨ノ木 棒幹 福浦 猪越 竹ノ空 平 石ケ浜 宮ノ奥 成生谷 愛宕 観音崎 小成生 中小成生 上小成生 葦ケ谷 地蔵谷 ソリハシ サカキ 大松 葛島 冠島 長九良棚 下小成生 大杢 磯島 糟崎 袋 比良石 堀切

関連項目

成生岬 田井 大山 野原 鳴生神社 大浦半島
葛島神社(成生)
甲岩
成生
成生葛島神社
成生村の映画化
西徳寺
倉内
大将軍社



小字地図・成生地域
《田井校区のすがた》



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