丹後の地名

建部山(たてべやま)
舞鶴市喜多


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京都府舞鶴市喜多

京都府加佐郡四所村喜多



 

建部山の地誌




《建部山の概要》


建部山(五老岳より)

 タテベサンよりもここでは普通はタケベサンと呼ばれている。舞鶴西湾に臨む山で西湾より西に見える。喜多と下東にまたがり標高は316m。石英斑岩よりなる白山火山帯の死火山である。山容がすぐれ、田辺富士(丹後富士とも)の名があり、詩歌によまれた。平安時代には笛原寺があったという。
舞鶴湾と田辺城下、由良川が俯瞰でき、宮津街道と由良川水運を扼する交通・軍事の要地を占めるため、中世には頂上に建部山城が築かれた。建武3年に築城され、天正6年に落城した。丹後国守・一色氏は、この山に城を築き居城としたが、細川・明智軍と戦って敗れた。
その後は三百年余り平和を保ったが、明治に軍港防御の砲台が備えられ、第二次大戦中には高射砲陣地にも使用された。
建部山と呼ばれる所以は不詳である。
建部山

《建部山登山》

 建部山は登山道が整備されていて、登山道というのかかつての軍道だろうが、それで麓より3キロばかりで頂上に立つことができる。比較的ゆるやかな広い道がある。五老岳に登るのと同じ距離である。ゆっくりと1時間ばかりで登れる。過日、新緑の中、喜多側から登ってみた。入り口だけは注意が必要。イノシシ除けのトタンで道が塞がれているため、見逃さないように、下の写真で言えばまっすぐ行った所でこの道は自然に左にカーブするが、そこからトタンを除けて入る。
建部山登山道喜多側入り口

建部山の麓には毘沙門天が祀られていた。何かこの山の歴史を秘めていそうである。この道からも登れる。すぐ合流する。
毘沙門堂登り口に毘沙門堂がある











案内板もあり迷うことなく登ることができる。所々に樹の名を書いている。この山の名物コブシ(タムシバ)の案内がない。
建部山登山道
下より1.5キロの中間点。下東側の登山道との合流点でもある。
中間点(下東側の登山道と合流する)
木々の梢の間より下界の様子がうかがえる。
かなり登ってきたのか、木々の間より下界が見えはじめる
さてもう少し。松類が全部立ち枯れしている。大きな樹はズダジイである。
もう少し
古そうな石垣がある。これは建部山城の遺構か。山城は詳しく調査されてはいない。砲台建設のためほとんどが破壊されたという。頂上近くはあちこち比較的に広い平面がある。
石垣が、あるいは建部山城の跡か
特別に展望台が作られている。西舞鶴市街が見える。建部山の頂上は荒れた砲台跡で、大量殺人、大量破壊の道具だけあって何とも無粋で不気味なものだし眺望もないベンチもない。湿気のある場所はマムシやムカデがいるという。「頂上がこれではなー」とこの子も失望していたが、さっそくに引き上げて、少し下ってここらで昼食にされるといいと思う。ただ空が開けている場所はトンビなどにゴッツォの弁当を失敬されぬよう注意して下さい。
展望台より西市街地
頂上は明治の陸軍砲台の跡である。何かわからない遺構がある。
頂上の砲台跡
地下弾薬庫。全国あちこちにある物と同じである。
砲台跡
由良川が見渡せる。
西側の由良川が見える
この山が田辺富士と呼ばれたのは平和な時代であった。戦争体験者は現在でもこの山を砲台山とか単に砲台とも呼ぶ。少し前までは戦争の山であった。
明日はどう呼ばれるか、それはわれわれ次第ということになる。

↓これは何と呼ぶのか、防爆壁とでも呼ぶのか、横墻と書かれているが、となりの爆発で誘爆しないようにした土壁と思われる。この中は砲側庫といってこれも弾薬庫になっている。4門の12センチカノン砲はこの壁と壁の間に据えられていて由良川の方向を向いていたようである。もちろんただの一回も発射されることはなかった。
堡塁跡(これが三つ並んでいる)

高射砲陣地が知りたかったのであるが、草ぼうぼうでどこかわからない。

《建部山の戦争遺跡》
↓市教委のたてた現地の案内板(部分)。これら人殺し砲台が何か地元の宝物とでも思い違いしているようで笑えてくる。亡国の軍隊をいまさらに賛美して舞鶴市教委は国を滅ぼすおつもりのご様子に見えるぞ。
ならば女子高生殺人事件のいまだつかまらぬ殺人鬼の住んでいた家なども舞鶴の宝物とするとよいであろうに。
案内板(部分)

 見方によっては「貴重な」戦争遺跡ではあるが、勘違いをしないようにしなければならない。
「貴重な」戦争遺跡は、いくらあろうが、いかに立派であろうが、ありがたくもないもの、いいものを残してくれて感謝したいという気持ちになれる物ではないし、「良い物でしょう、これを人に向けてブッ放して人殺しをするんですよ」などと何処へ向けても誇れるという物でもない。これらは人類史の負の遺産で、原爆ドームのようなもの、ないに越したことはない、人類史には存在しなかった方がよいものなのだが、過去には悲しいことであるが確かに存在したのだという證である。場合によってはかくも愚かにもなれるのが人間であり、二度とこうした物を人間様ともあろうものが作ることがあってはなりませんよ、と後世の戒めとして残すネウチがあるということである。そうした意味で貴重とか、大切にしようというのである。嬉しげに誇らしげに喜びとともに伝承できるものではなく、深い悲しみに沈みながら泣き泣きに受け継ぐ、「同じ残すのならもうちいとエエもんを残してほしかったな−。こんな不気味なものではかなしい−」などとぼやきながら受け継がないと仕方がなかろう、というものであろう。
だから普通にいう宝ものとは性格がまるで違う。そのあたりを心得ないで「地元の誇りの貴重な宝もの」とか「世界遺産級の建物」などと軽々しいのが舞鶴であり、はては市や市教委までが言い出したのであった。地域づくりの専門家とかいう何々大先生どもでもそうした程度なのだから田舎町では無理もないかも知れないが、これらは日本だけでも三百万の無念の戦死者を生んだ戦争の遺跡である、その悲しき過去を実物で語り伝える遺跡である、何よりもそれを第一の任務とする遺跡群である、そう使われるしか意味のない遺跡である。もう一度よく「貴重な遺跡」の意味を考えてもらいたい。そうしないとこれらをどう保存活用すべきかの正解は出てこまい。

15センチ砲天橋立の磯清水の近くに15センチ口径の大砲の砲身が置かれている。これは「軍艦春日」のものという。あるいは日本海海戦で活躍したものかも知れない、多分舷側の副砲の1つではないのかと思う。英アームストロング社製で16.000円だったという。
この砲身に車輪が二つついて、後側に二本の伸びた脚(砲架)がつく。砲身は大変に重量のあるもので、これは5トンという。
8センチ砲は馬8頭で引っ張るそうである。10センチ砲になると馬10頭でも引けない。戦車のようなキャタピラのある機械で引くか、これを台座とともに積んだキャタピラのつきの自走砲にするか、そうでもしないと動かないそうである。もっとも旧日本陸軍がそのように機械化していたわけてはない。戦争末期でも、日清・日露戦争時代と同じで、やはり馬で引っ張ったのである。たとえば大正4年式15センチ榴弾砲は砲身と砲架の二つに分解して、それぞれ6頭の馬で引っ張ったという。砲兵一個中隊は砲4門で編成されていたので、観測車や段列(弾薬・糧秣)車なども引かねばならず、114頭の曳馬と、乗馬40頭、合計150頭もの馬がいたのであった。必要であったという事で実際にそれだけがいたわけではない、実際はその3分1くらいしか貰えずに、ソ連やアメリカの縦横に走りまくる機械化砲兵相手に戦ったのである。上のような砲を馬2頭で曳いて山を越え、川を渡り長距離を何度も何度も移動したのであった。精強を誇る日本軍は兵隊の喰う物はなく、馬の糧秣もなかった。敵のタマで死んだのでなく、軍馬も兵隊と同じで飢えと疲労のなかで数多く死んでいったという。亡国へと導いた日本軍が殺したのである。
12センチともなると、はたしてどうやってこの山の上まであの道を引き上げたのであろう。また引き下ろしたのであろう。ひょっとするとこのあたりにまだ埋めてあるかも。金属探知機で調べるみるネウチはあると思う。

建部山に実際はどんな砲があったのかは超軍事機密だからよくはわからない。そんなことを知ろうとすればスパイで死刑である。山をスケッチしても法に触れた。市教委は12センチ砲4門としているがそれは明治時代の話か、役にも立たない古い情報か。終戦時の「朝日新聞」記事によれば、8センチ連装砲2門となっていて、高射砲などの記事はない、しかし麓の人の記憶によれば、建部山には日本でも指折りのよい高射砲があったんやでという。
たぶん12センチ砲×4は早く撤去されていて、その空いた場所に8センチ2連装の高射砲×2が置かれていたのでなかろうか。
ここも掩蓋(天井)があったような様子はなく、青天井である。日清・日露戦争時代の野戦ならそんなことでよかったかも知れないが、飛行機の時代にはこれでは砲爆撃にどう耐えるのか。要塞のくせに掩蓋がないということはたぶん新しい要塞砲などはなく要塞としては機能していなかったのではなかろうか。攻められるとか負けるなどとは必勝の陸軍は考えもしなかったであろうから、防衛陣地はないようなものではなかったかと思われる。
キスカ島で8センチ高射砲を標高200メートルばかりの島の丘頂上に引き揚げた舞鶴工廠軍属者の手記によれば、2本のロープをかけて400人で引き上げたという。ゆるやかな丘で樹木なんぞは生えてないコケだけの山だそうであるから、仮に8センチ砲だったとしても、建部山の場合は大変な難作業になったと思われる。


『京都の戦争遺跡をめぐる』(京都戦争展実行委・91.11)は、

 〈 舞鶴要塞の建設
 要塞とは、日本の沿岸および重要軍港の防衛のため、全国に設けられた防禦地帯のことです。要塞には沿岸に近づいた敵の艦船を攻撃するための砲台が、いくつも配備されました。日本国内には十ヵ所の要塞が設けられましたが、舞鶴の要塞が完成したのは一九○二(明治三十五)年十一月でした。
 当初、砲台(または堡塁砲台)は舞鶴湾東側に葦谷、浦入の二ヵ所、西側に金岬、槙山、建部山の三ヵ所、さらに舞鶴の東の吉坂峠に一ヵ所、そして舞鶴湾の最先端にあたる博奕岬には電灯(探照灯)が設けられました。また、これらの砲台に弾薬を供給するために、湾東側の下安久地区、西側の白杉地区にそれぞれ弾薬庫がつくられました。日中戦争がはじまり太平洋戦争へと拡大する中で砲台は次々に増設されますが、これらの砲台の管理や運用、また要塞内の防衛は陸軍が担当し、陸軍舞鶴要塞司令部と重砲兵聯隊が西舞鶴に設けられました。

要塞地帯法と軍機保護法

 要塞の防備状況は軍の最重要機密でした。各砲台の位置や性能、形式、また付属施設の大きさなどが知られてしまうと、要塞としての価値がなくなってしまうからです。そこで、要塞の設けられている地域一帯を「要塞地帯」と定め、その地域の中での人々の行動を厳しく制限し機密を守る必要がありました。
 一八九九(明治三十二)年七月、「要塞地帯法」と「軍機保護法」が制定され、要塞地帯内での測量、撮影、模写、記録筆記、あるいは開墾、灌漑、公園設置などの土木工事、また堤防、運河、鉄道、トンネルなどの建設工事を無許可で行うことが厳しく禁じられました。舞鶴の場合、現在の舞鶴市はもちろん、東は福井県の和田、南は和知北部、西は宮津をおおう広大な地域が要塞地帯として定められ、中舞鶴におかれた憲兵分隊が、写真撮影やスケッチなどの禁止行為を厳しく取り締まりました。  〉 

これらは自衛隊や米軍や戦争大好き政治屋どもがぜひとも復活させたいと願う法である。漁船とぶつかったり、鯨を中国潜水艦と間違えたり、頼りないゼニばかりくう軍隊に限って秘密、秘密とさも重要なことでもあるかのようにいうもののようである。スケッチするな、観測もするななどと子供だましのようなことをして隠してみても相手もプロである、重要な軍機などはことごとく見抜かれてしまうことであろう。

 建部山には市教委の説明では12センチ加濃砲が4門としているが、『日本の要塞』(学習研究社・2003)は、それにプラスして9センチ臼砲が2〜4門としている。市教委の説明板ではも一つよくわからないから、同書から写真を引用させてもらうと↓下のような砲であった。
由良川を遡り藤津峠から侵入してくると想定したロシア軍をこれで迎え撃つということである。
9センチ臼砲と12センチ加濃砲
ご覧のようなとてもアンチークな姿の明治の物で、日清・日露戦争では活躍した砲という。9センチ砲は鋼銅製だという。幕末の頃の刀や槍、弓矢が武器の戦争なら役立つかも知れないが本格的な近代戦には無理な代物のようである。しかし市教委の宝物としてならば、とてもふさわしいのかも−。


『八雲のれきし』より。建部砲台から発射した高射砲弾の破片↓
高射砲弾の破片


建部山の主な歴史記録


《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 当所と喜多村の間に有る山を建部山といふ(是を田辺富士山と云ならハす)高山なり。八分目に小池あり雨強き時は水谷江流れ滝を見るが如し。下福井ヨリ川口江越道難所蔵王峠と云。峠の上に到れハ建部山絶頂も近く身ゆる也。  〉 

《丹哥府志》
 〈 【足利泰氏の城墟】
日本史に東鑑を引て曰。足利義氏の子足利泰氏丹後守に任ぜられ宮内少輔に遷る、素より遁世の志あり建長三年剃髪して僧となる、文永七年卒す平石殿と称すると云々。是を一色氏の祖とす、加佐郡建部山に城郭を築き代々是に居る。祖父の義康は鎮守府の将軍源義家の孫式部大輔義国の長子なり。兄を新田義金といふ。泰氏に八男子あり、其四男一色宮内卿公深家を嗣ぐ初て一色氏を冒す、次を一色次郎範氏といふ、次を一色左馬の頭修理太夫範光といふ。建武三年正月足利尊氏兵を率ひて京師に入る、楠公の為に敗走して西国へ遁る、是時一色範光之に従ふて西国に下り菊池の兵と戦ひ之に克つ、遂に八代の城を落す、於是九州の兵皆尊氏に属す、此歳の五月足利尊氏西国の兵を率ひて再び京師に入らんとす、湊川に於て楠公と戦ひ楠公遂に討死す、一色範光尊氏の為に功ありといふ(丹後旧記に建武三年一色範光初めて丹後に封ぜらると云は誤なり)。次を一色兵部少輔詮範といふ、嘉慶三年山名氏清の為に押領せらる、よって姓名を吉原左京太夫詮範とあらため城を丹波郡吉原に築き山名の陣代となる、居焉四年其子一色修理太夫満範と同じく山名氏清を討てこれに克つ、明徳三年一色修理太夫満範再び丹後に封ぜらる、於是吉原城より又建部山の城に帰る。次を一色兵部少輔義範といふ、将軍義宜公に従ふ、永享元年伊勢の国司北畠氏と戦ひこれに克つ、嘉吉三年洪水陵に登る、国人殆ど餓ゆ、義範これが為に貢をゆるす、是時の觸書加佐郡志楽の庄の民家にありと順国志に記す。次を義直といふ、応仁年中山名宗全に属し御敵となる、永正五年七月九日卒す竜勝寺殿天?衍公大居士、加佐郡行永村竜勝寺に葬る、義直の長子義春応仁の乱に討死す、よって義直の弟義遠の子義季を以て嗣子とす、義季始め一色松丸といふ左京太夫といふ、永正四年若州の国司武田大膳太夫元信と成相山に戦ふ、是時小笠原澤蔵軒討死す(天橋記に永正年中に武田元信と成相山に戦ふを一色義有とす、然れども義有といふもの系譜に見えず、永正の頃は一色五郎義季の代なり、後に左京太夫といふ丹後の守松丸といふ、足利義昭公に従ふて若狭越前に赴く人なり)。丹後旧記に曰。義季より以下義俊に至る凡四代其間一百余年、是時に当りて八十五ケ處の城塁あり、皆一色氏に属すといへども或は従ひ従はざるものも亦あり、多くは足利の諸将遁れて丹後に来るものなり、是を以て義季より以下丹後の国主とせずと云。次を左京太夫義幸といふ、次を左京太夫義道といふ(義道一に義通に作る)天正五年冬十一月細川藤孝将軍信長の命を以て丹後に入る、一色義道是と戦ふ、一色の随将小倉播磨守、野村将監、河島備前、井上佐渡守、小倉筑前守、日置弾正、仝小次郎、千賀常陸介、仝山城守等追々馳集り細川藤孝殆ど危し、於是救を明智光秀に乞ふ、明智光秀使を日置の城主松井四郎左衛門及算所の城主有吉将監に嘱す、是より藤孝に属する者多しよって遂に克つ事を得たり、翌年の春正月廿日建部山城落城、一色義道中山村に走り其臣沼田幸兵衛の城に入る、仝廿四日中山村を出て討死す、其子五郎義俊中山より遁れて与謝郡弓木の城に篭る、細川藤孝数々是を攻めけれども克たず、仝十年義俊故ありて田辺の城に於て死す先是義道の弟吉原越前守義清吉原にあり、姪義俊の死するを聞て吉原より弓木の城に移り細川藤孝と戦ふ仝五月廿八日義清宮津に於て討死す、於是一色氏坊ぶ、足利泰氏より義俊に至る凡十三代、其年暦殆ど三百五十年。
 或の説に、一色の本城は今の田辺なり、田辺の城細川藤孝の草創にあらず、といふ。然れども(一色の末葉といふ者の記録に建部山を以て一色の本城とす今之に従ふ抑も天保武鑑に一色の本城は宮津にありといふ蓋一色義俊建部山落城の後弓木の城によるこれを以てなり)吾丹後に城跡と称するもの凡八十五ケ處皆山城にて一も平城ある事なし是元亀天正以前は山城なりと見えたり、信長公起りてより城郭なり甲冑なり刀釼なり凡天下の武備一変せり、吾丹後も亦然り、細川藤孝の来りてより皆平城とぞなりぬ  〉 

『舞鶴市史』
 〈 建部山堡塁砲台
 舞鶴湾の西岸喜多から、東雲村打越に至る山道(軍道)の峠が、標高三一三メートルの建部山である。舞鶴軍港の側面防御のために、明治三十二年九月、築城工事を起工し、同三十四年八月竣工した。備砲は一二センチカノソ砲四門で、三十四年十月据付工事を始め、十二月これを完了した。備砲費は二万円であった。二門を一砲座とし、砲座中心間隔は二五メートに 砲床および胸墻はコンクリート造りで、胸墻の高さは一・○四メートルである。火砲の首線はNW八○度、射界は一二○度である。両砲座中間と両翼に積土の横墻があり、その下に砲側庫を設けた。砲座通路の後方にも積土し、その下に幅三・八メートに 奥行一○メートルの地下掩蔽部を設けた。第一砲座の傍に、砲台長位置がある。山頂の狭小な地域を巧みに利用して、監守衛舎・弾廠・砲兵庫・厠・貯水所を構築し、戦備に当っては道路の屈曲部にコンクリート造の水溜を造ることになっていた(日露戦争時完成)。喜多には繋船場と倉庫を設けた。  〉 

広報まいづる・平成9.12.1
 〈 ふるさとの文化財と伝承第12回
松林寺の聖観音菩薩立像
ワシにさらわれた名僧
親子再会を願う対面観音

 西地区の松林寺(西町)にある聖観音菩薩立像は、”対面観音”と呼ばれ、子供と離ればなれになつた親が再会の願をかけるものとして信仰されてきました。
 対面観音と呼ばれる理由には、祭良時代の東大寺創建に携わった名僧・良弁(ろうべん)の伝説が深く関わっています。
【良弁伝説】
 近江の国に生まれた良弁は、二歳のときワシにさらわれましたが、祭良の都で僧・義淵(ぎえん)に助けられ、やがて名僧となっていきます。
 良弁の母親は、子供を探すため三十年余り諸国を巡礼。祭良にワシにさらわれたことがある名僧がいると聞さ、その地を訪れ、劇的な再会を果たします。そのとき親子の証拠なったものが、良弁が幼時から身につけていた観音像であるとされています。
【伝説の原型は舞鶴か】
 平安時代初期にまとめられた仏教説話集(日本霊異記の上巻第九=六、七世紀)には、ワシにさらわれた女児が、丹波の北方の加佐郡(現在の舞鶴市)で父親に再会した話が収録されています。
 この説話と良弁の伝説には「女児と男の子」「父親と母覿」などの違いはありますが、「ワシにさらわれる」と「親子の再会」とは同じであり、良弁の伝説は、霊異記の説話が原型となっているとも考えられます。
【東大寺から移す】
 松林寺の縁起によると、良弁が身につけていた覿音像は東大寺、平安寺を経て松林寺に移されました。現在は、聖観音菩薩立像内に納められているのではないかといわれています。
 松林寺の本堂には良弁伝説の欄間や”絵巻”が残されており、江戸時代には対面観音に切なる願いをかけた母親たちが、いかに多かったかを語っています。
《協力 舞鶴市文化財保護委員会会長の高橋卓郎さん》
【松林寺】
松林寺の前身は、平安時代に建部山(たけべ)に建てられた笛原寺(てきげんじ)とされ、十五世紀に現在の地に移り、松原寺となる。十七世紀初頭に松林寺となり現在に至る。観音像は高さ一b二aで一木造り。
制作年代は鎌倉時代以前とみられる。  〉 

『丹後路の史跡めぐり』(梅本政幸・昭47)
 〈 猪岡山砦址
 猪岡山は八幡山ともいい、宮津の入口を扼する要害の地である。一色氏は普甲寺−小倉城−猪岡山と丹後を守るために重層の防備を固めていた。一色義道はここに豪勇の名高い一子義俊を配し、高屋駿河守(網野下岡城主)を附けて守らせた。
 一色氏は八田の建部山を本城とし、宮津猪岡山に血縁をおいて重臣小倉氏をつけ、加悦谷石川城に血縁をおいて重臣石河氏をつけ、峰山吉原城に血縁をおいて松田越中守をつけ、府中の館に延永氏をおいて守護代として丹後八五か城を支配し、自身は室町幕府に常駐して足利将軍を援けた。
 しかし若狭武田氏の侵攻にあうや、度々馳せ帰って自ら兵を指揮して防戦している。室町幕府が倒れた後は建部山へ帰り、細川氏の侵攻を防戦している。
 天正六年(一五七八)十月十七日、織田信長の命を受け丹後征討のため山城国勝竜寺城を出た長岡(細川)藤孝は、長男与一郎忠興、二男頓五郎興元らを卒い普甲峠を越えて猪岡山へ攻めこみ、丹後征覇のくさびを打ちこもうとしたが、急を聞いてかけつけた一色勢にはばまれて敗退した。この時上宮津の小倉一族は殆んど討死している。ひとたび園部まで引きあげた藤孝は、丹波征討に赴いていた明智光秀と合流し、信長のすすめで光秀三女の玉と忠興とをめあわせ、光秀の援けを得て翌七年七月八田へ攻めこんで建部山を陥し入れた。一色義道は中山城で城主沼田幸兵衛の裏切りにより城を出て大雲川で自刃し、援兵として出陣をしていた義俊は生き残った一党とともに稲留一夢の守る岩滝の弓木城へ引き籠った。天正九年三月両家は和睦し、藤孝の娘菊を弓木城の義俊に嫁し、ようやく猪岡山へ入城した。
 一色氏滅亡の後はこの城に藤孝は家臣篠原五右衛門を配し(菊はこの五右衛門に再嫁したともいう)、自分もここで風月を楽しんだ。
 しかし慶長五年(一六○○)七月十六日小野木縫殿介の乱の際、藤孝は猪岡山と大久保の城を焼き捨てて、漁民の助けを借りて船で田辺へ脱した。
 いま城址には八幡社の社が建っている。このあたり上宮津へかけ松縄手となっており、宮津藩の参勤交代の通路であったが、松が交通をさまたげるのと松蝕虫の害とで全部切られてしまったのは惜しい限りである。  〉 


『舞鶴地方史研究』(71.12) (図も)
 〈 中世山城について
岡野 允  〉 

建部山城


 〈 各城略譜
一、建部山城(又は八田城)字下東 当城草創に関しては丹後諸旧記は挙って、初代一色修理大夫範光、建武三年八月丹後守護職となり入国直ちに築城し、丹後八十五ヶ城の総帥として威を振ったと記されておるが私は範光は足利尊氏の九州より東上に際し鎮西総探題として残留した一色範氏の二男であって、兄直氏と共に父を輔けて九州経営に身を挺して働き後延文年頃帰京し暫くして貞治二年若狭守護として同国に入部し身を終えたとの説を採っておるので旧記によらない事にする。
 そこで最初に丹後一色氏として建部山城に拠ったのは誰かと云うと明徳の乱の大功により仝三年正月丹後守護とをった範光の孫、一色修理大夫満範その人である。満範は将軍義満とは真に君臣水魚もただならぬ仲であったらしく将軍一代の間四五回も丹後に来遊しておる事は宮津玄妙庵由来記にもある通りである。
 尚此の城は高山なるに拘わらず用水は実に豊富で大雨の節は池溢れて下東谷へ滝をなしたと云う。又大手口は字喜多で丹後諸所よりの物資の搬入並びに諸将の登場等の為かなりの船付場があった由。  〉 

『京都の戦争遺跡をめぐる』(京都戦争展実行委・91.11)
 〈 建部山塗塁砲台
 安寿と厨子王の伝説で、安寿姫が非業の最期を遂げたと伝えられる祠が残る建部山の頂上には、一九○一(明治三十四)年、塗塁砲台が設けられました。山頂の地形を巧みに利用して営舎、弾薬庫などが設けられ、十二センチカノン砲四門が据えられていました。いまでも砲座跡などを見ることができます。  〉 




関連項目

「槙山」
「舞鶴要塞」
舞I空襲



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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