丹後の地名

与謝野礼厳
(よさのれいごん)


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京都府与謝郡与謝野町温江

京都府与謝郡加悦町温江

京都府与謝郡桑飼村温江



 丹後が誇るキラキラ星、与謝野町出身の歌人。


  (同町の観光パンフより↓)


与謝野礼厳(1823〜1898)与謝野礼厳
鉄幹の父。文政6(1823)年に丹後与謝郡温江村(現与謝野町温江)の細見儀右衛門の二男として生まれ、幕末期には勤王活動に奔走し、維新後は各種事業に携わりました。歌号は「尚綱(しょうけい)」といい、八木静修(やぎせいしゅう)に歌を学び、大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)らと交友がありました。出家し、浄土真宗本願寺派の僧侶となったのち、「与謝野」を名乗ったといわれています。

与謝野鉄幹(1873〜1935)与謝野鉄幹
明治6(1873)年、礼厳の四男として京都市岡崎に生まれました。本名寛。短歌の革新を唱え、明治27(1894)年に歌論「亡国の音」を発表。明治32(1899)年に「新詩社」を設立し、翌年にはその機関誌である「明星」を創刊し、日本浪漫主義運動を主導しながら北坂白秋や石川啄木などの逸材を世に送り出しました。作風は質実剛健で、「ますらおぶり」として知られています。

与謝野晶子(1878〜1942)与謝野晶子
鉄幹と結婚し、六男六女の母となる晶子は、明治11(1878)年、堺市の老舗和菓子屋「駿河屋」の三女として生まれました。明治33(1900)年の「明星」創刊とともに新詩社同人となり、翌年に上京。処女歌集「みだれ髪」を刊行し、歌壇に一大センセーションを起こしました。また、日露戦争時、戦地へ赴く弟を想いうたった「君死にたまふことなかれ」なども有名です。

 「与謝」と名乗るのはあと与謝蕪村だけ、礼厳は知られてないが、鉄幹の父である。鉄幹も知られているとは言いがたいが、♪妻を娶らば才たけて、みめうるわしく、情けあり… の歌は一度くらいは聞かれたことがあろう、その作詞者。その才たけて云々の嫁さんが晶子で、超有名歌人、名前くらいは知っているのではなかろうか。





          

このページは礼厳だけの紹介。

与謝野礼厳


礼厳碑前のバス停(与謝野町温江)
 温江の虫本集落の入口↑、大虫神社参道入口→

 大虫神社参道入口にある「与謝野礼厳追念碑」↓
与謝野礼厳碑(温江虫本)
与謝野礼厳追念碑
 礼厳は、一八二三年九月、丹後国与謝郡温江村(現加悦町)に生まれました。細見儀右衛門の次男として用明は長藏、後に与謝野礼厳と称しました。
 十三歳の年、加悦の浄福寺の仏門に入り修業、以後七十五年の生涯を優れた僧侶、歌人として倒幕運動を始め、開国後の西洋文明の諸事業を自ら挺身し清貧に甘んじながら常に社会進歩の先頭を歩みました。一九三一年、有志によりこの碑が建てられました。
 尚、四男鉄幹(寛)は、夫人晶子と共に浪漫派歌人として、近代日本文学史上に大きな足跡を残しました。加悦町 温江区

 ↓道の駅「シルクのまちかや」の入口
礼厳歌碑(与謝野町滝)

礼厳碑の説明


主に『与謝野鉄幹』(中晧・桜楓社・昭56)によりながら、若干年代などが書により異なるが、どちらが正しいとも私には検証もできないので、そのままにしてあるが、その略経歴を紹介すれば、だいたい次のようなことという…

 礼厳は文政6年(1823)9月13日、与謝郡温江村の細見家の二男として生まれた。幼名長蔵、元服後は儀十郎。
(礼厳が一時養子に入った福井県高浜町の専能寺の記録では、温江村細見七郎左衛門三男礼広、法名礼岩とあるとのことである)

 礼厳が生まれた温江村小字虫本は、名神大社・大虫神社が鎮座する、その参道入口に追念碑↑があるが、大江山西麓、鬼の岩窟への登り口の小集落で、急斜面に棚田を設けて、車もあまりの斜面のために転げ落ちそうになりそうな(失礼)と私などは思った地の零細農業が専門、家内がちりめん機業に携わるというふうなところであったという。この集落は細見サンだらけである。
元はさらに山腹の上の、大虫・小虫の両名神大社の元の鎮座地と同じ池ヶ成という場所にあったと思われる、この集落は農業ではなさそうに思う、与謝郡神戸郷はたぶんここだろうと私は推測する。

 礼厳は利発であったから、僧にさせたという言い伝えがあり、十三歳の冬、加悦村の西本願寺派紫雲山浄福寺↓の礼洞に養われた。
浄福寺(与謝野町加悦)

 礼厳の戸籍では、与謝野礼道、母不詳二男となっているとか、「与謝野」という姓は礼厳が立てた明治になってからの新姓で、この姓は今の政治家の与謝野馨氏など、この家族だけである。

(馨氏は礼厳のひ孫に当たられる、別にこんなところで悪口を言おうというのでもないが、元は日本原子力発電の社員だけあって、原発推進派、福島の原発事故は神様の仕業としか説明できない、津波対策は人間としては最高の知恵を働かせたと思っていると超無責任発言をした。神や悪魔や黒犬や変な声の仕業などと本気で言うとすればこれまで通産大臣などとして原発の責任を負ってきた正気の者の言葉とも思えず背筋も凍る、この分野の信じられないレベルの頽廃ぶりをうかがわせ、天罰だ知事とか、10万人以上の避難民はもちろんとして、おおかたの国民の顰蹙を買って記憶には新しい…。二度もの被爆国の背筋も凍る政治屋やゼニ儲け屋は何もこの二人だけに限られているのではない、口先は別として本心で国民の命を守ろうとする者はまずいないと見ておかねばならない、いよいよ危ない肝心な事実は隠してしまう日本になってしまったという感じが強い。防潮堤などハード面安全ばかりに目が向いているようにも見えるのだが、技術は本来中立で、何事も使う者の心得次第の面もあり、たとえ防潮堤やベントなどハード面の安全対策が万全だとしても、日本原発は今のままの管理体制では安全ではあるまい、何度も同じ失敗を繰り返し過去の惨事に学ばないのが日本人の体質DNAで簡単には安全にものに変革できない、メルトダウンは原発のハード面だけではなかった、わずかをのぞいて日本人のほとんどもメルトダウンを引き起こしていた、津波をきっかけにその背筋も凍る裂け目が表面に表れたのであるが、早急にやらねばならないことは多くある、日本だけの原子力ムラなどの解体を急ごう、原発ハードと政治や地方の政治経済などの財界に支配されたままだが、そうしたソフトの両面を厳しくチェックしていかなければ、経済だってよくなったりはしない。安全でもない原発を安全ですと専門家でもない政治屋(後に財界)が判断して再稼働させる国、政治屋(背後に財界)の勝手な「現実判断」が専門家の安全判断の現実より優先する国、そんな国の経済がよくなり、本当に国民の幸せを実現できたりするわけは本当はありえない。国民はエネルギーも大事だがそれ以上に日本の政治をどうするのか、の問題に真剣に取り組まねばなるまい)

ついでながら「与謝野」は今では町名にもなっていて、2006年3月1日、与謝郡の岩滝町・野田川町・加悦町が合併し与謝野町が誕生した。その由来は、「3町ともに与謝郡に属しており、「野」は豊かな自然を表している。また、日本を代表する俳人歌人の与謝蕪村、与謝野晶子、与謝野鉄幹ゆかりの地でもあり、「与謝野」という名称とすることで、文化豊かで心豊かな町というイメージアップが図れる」ということという。

 弘化2年(1845)五月西本願寺において得度。仏典、漢学のみでなく、国書、歌文をも学んだ。八木立礼が師であった。
八木立礼は幕臣、国学を本居春庭に学んで、国語および音韻の学に造詣が深く、和歌にもすぐれていた。一方、陽明学を学び、慷慨家で、気節を尚び、常に皇道の衰えを嘆いていた。梅田雲浜等の志士と交り、志を得ずして彦根で客死、亨年四十七歳であった、という。
礼厳はこの八木立礼から学問だけでなく、人格的にも深い感化を受げたようである。立礼夫妻を奉じて、丹後国に帰り、岩滝村の西光寺↓で講席を開いたという。
西光寺(与謝野町岩滝)

 礼厳が若狭高浜町の専能寺七代の住職是讃の四女衣枝(絹枝)と結婚して、八代住職となったのは、嘉永元年(1848)のこととされている。↓
衣枝との間には、二歳で天折した峰野と大都城響天とを儲けたが、嘉永3年(1850)離婚したそうである。高浜はわずか2年間だった。だから鉄幹には異母兄がいる。
専能寺(福井県大飯郡高浜町)

真宗本願寺派 西雲山専能寺
 一所 在 地 高浜町宮崎(赤尾町)
 一開  創 天正元年 (一五七三)
 一開  基 親鸞上人
 一本  尊 阿弥陀如来
 一檀信徒数 一九戸
 一由緒沿革 天正元年小浜市神田妙光寺の男、この地に来って小庵を結び、慶長八年二代了明、本堂を建立して専能寺と称した。以来多少の興廃があったが、延宝八年住職是讃、宗祖上人の御木像、及び実如上人の影像を本山より下附されて以来、内外、頓に完備するに至った。第十世響天諸国遊学の旅に出てから、先代最勝上人に至る約百年間無住となり、小浜妙光寺住職が代務を執っていたことがある。
 当寺第九世の住持に与謝野禮巌あり、国学を本居系の八木立禮に就いて学び、勤王の志士と交り、特に黒田嘉右衛門、高崎正風、西郷吉之助等とともに常に京都に在って、天下の形勢、諸藩の動静をうかがい、時の朝廷に建言するなど王政復古に寄与した。晩年京都府下本派本願寺支院に隠栖して後進に国学を講じ、和歌に親しみ、その遺詠三万余首ともいい、与謝野家の歌風を興した。
 大正七年、上人に従五位を追贈してその遣功を顕彰せられた。
 前住宮崎最勝師は、高浜発展に寄与する事蹟多く、中にも小冊子『高浜案内』を自費出版して郷土の紹介につとめた。
 大正一五年一○月、当地方初の幼児保育園を創設して、幼児教育に併せて社会事業振興の範を示した。
 境内に、蓮如上人旧跡の「植竹」と称するものあり。詳しくは別項伝説と民話に紹介してある。
(『高浜町誌』)

若狭小鯛
 今からずいぶん昔のこと。神功皇后は、三韓征伐に出かけるため、龍首の船を仕立て、敦賀気比の港を出発し、高浜沖にさしかかっていた。その時のことである。
 ひとりの漁師が魚を釣っている光景が、皇后さまの目にとまった。
  「あの者は、何を釣っておるのじゃ」
皇后さまは、わざわざ船を止めさせて聞いた。
  「あれは小鯛でござりまする」
  「ほほぅ」
皇后さまはたいへん興味深くご覧になり、時の経つのをお忘れになるほどだった。
 お座近くに控えていた武内大臣は、皇后さまのあまりの熱意に圧倒され、とうとう漁師に近づいていき、
 「その小鯛を皇后さまに献上したまえ」
と命じた。
「はっ、喜んで献上いたします」
漁師はかしこみ承って、小鯛を五匹お手元に捧げた。
 武内大臣は、その小鯛を逆さに取り、小柄を持って腹をさき割り、焼き物として献じた。
皇后さまは、さっそくお召し上がりになり、
「この味は古今に類なし」
と賞味された。これが若狭小鯛が世に出た始まりである。
 今でも天皇陛下ご即位の大典には、「神撰若狭小鯛」としてご用命がある。
 与謝野鉄幹の父、与謝野礼厳は次のように詠んでいる。

  里ならば 花とも見えて手折るらむ
     若狭小鯛を高浜に来て
(『若狭高浜むかしばなし』)

 再び京都に出て、本願寺の役僧となり、次いで、岡崎の願成寺に入り、山崎惣兵衛長女ハツヱと安政5年(1858)に結婚する。ハツヱは天保10年(1839)生まれで19歳であった。礼厳は35歳であった。



          


与謝野町立江山文庫に与謝野鉄幹が著した『礼厳法師歌集』復刻版などが販売されているが、中に「礼厳法師歌集の初めにしるしおく文」が納められていて、彼の動向が語られている。このあたりからは丹後と関係がなくなってくるが、時には生まれ故郷へ姿を見せることもあったという。その後の動向などを簡単に触れておけば…

 こうした直後に安政の大獄(安政5年・1858)が起こり、吉田松陰や梅田雲浜などが刑死した。尊王と、佐幕運動の対立相剋は一挙に激化し、国内は騒然となった。
 幕末の情勢急迫の中で、本願寺は教団維持のために、新しい政治勢力として拾頭してきた勤王側に付いて、朝廷支持に精力を傾注するようになる。
安政3年(1856)には、勤皇僧月性を登用し、文久3年(1863)朝廷へ一万両を献じたのをはじめ、慶応・明治初年にかけて多額の献金を行い、朝廷の命によって荒神口に御幸橋を架橋し、また、僧俗数百名で宮廷の守護に当った。さらに、門末にも屡々勤王報国の直諭を発した。
勤王側の中心勢力であった薩摩藩との和親には心を砕いた。従来、薩摩藩では真宗を嫌って、布教を禁止するなど本願寺とは友好的でなかったから、特に和親に努めたといい、末寺の中には勤王運動に直接挺身するものも輩出した。
そのような本願寺の動向を背に負うて礼厳の活動が行われたのであろう。という。

 礼厳は薩摩藩邸に常に出入して、京都の形勢、諸藩の動静を内報し、薩摩藩のために種々の周旋をし、策を授ける、など薩摩の利便を図り、薩藩との和親を図ることが、その主なものであったという。
礼厳の勤王事蹟中、最も花々しかったのは北陸鎮撫使に随従して、宣撫工作に当るとともに、北陸諸国の情勢を探り、あわせて、軍用金の献納を勧め、大きな成果を挙げた、ということである。

 西本願寺は真宗大谷派の本山で、親鸞の子孫である大谷家が代々継承してきた。鉄幹の『史談速記録』は、「愚父は即ち京都本願寺の申さば役僧と申しますが云々」「其時の本願寺は御承知の通り門閥の式法でありましたから、親爺は俗家から起つて僧侶となつたものであるから、僧侶としての身分は極く低いので云々」と書きしるす。そうエライさんの高僧であったわけでなかった、ごく低いもののようで、今で言えば身分保障もないパートやアルバイト、派遣や契約といった扱いのようなものか。
礼厳は、平日は機務にあずからないが、臨時、あるいは地方に出て御用を勤め、御用僧と称せられ、別院を主管して、輪番と名づけられ、本山の禄を食むをもって家来僧とよばれた、「呼び寺号」階層の僧であったとされる。
礼厳の勤王事蹟というのは本願寺の御用僧としての事蹟であったらしいが、修羅場での接衝役のこととて、胆力と事態を迅速明晰に把握し、的確な予測を立てる才智とを必要としたであろう。さらに、誠実さと勤王報仏の信念とを必要としたであろう。礼厳はそれらのものを十分に備えていた、有能な優れた人物であったようであるという。

 明治になってからは、療病院、小学校、舎密局、博覧会、鉱泉場等の創設に卒先して尽力した、という。
しかし明治12年には、礼厳が公益のために計画した諸種の事業に失敗して、その為に寺院と家財は競売に附せられ、土地は悉く債権者に帰し、礼厳は家族をつれて願成寺を去らねばならなくなった。
明治13年4月、開教師として鹿児島へ下った。礼厳57歳であった。
明治17年一家は礼厳の病気を機に京都に帰った。宇治に入り、宇治から一乗寺村の養源寺に入った、本願寺掛所養源寺の留守居となったのは、62歳である。
明治27年、養源院を去り、愛宕郡田中村に仮住し、29年の冬洛東の清閑寺に寓居したという。
明治31年8月17日、山ロ県徳山村の照橦(二男)の養家にて歿す。亨年75歳。大正6年、生前の功により従五位を贈られた。

鉄幹は父の才能と気慨とを承け、その薫陶をうけた、礼厳は歌人としての原点であった。次のような詩歌がある。
父はやく我に誨へて歌よめと叱るばかりにのたまひしかな
今にしてつくづく知るは歌よめと誨へたまひし父のみこころ
世に圧され時に醜くまどへども父を思へば一すぢとなる

礼厳の妻=鉄幹の母ハツヱは、天保10年(1839)生まれ、明治29年歿。享年57歳。
檀家のない寺の住職であり、極度に貧しい家であった、「母は加茂川から沙を拾って来て、剥げた膳にそれを入れ、その上でいろはを書くことを教えてくれた。筆の代りに箸、紙の代りに沙であった。膳を揺すって沙を平にして、くりかえしくりかえし字を習うのであった」と、鉄幹は書いている。
貧しさにくじけて卑屈になることなく、独立独歩の気概をもつようにと子供たちを身をもって厳しく育てたようである。
貧しい家に生まれた者は、人よりも早く、はっきりとした生活目標・態度を確立することや気力が必要なことを厳しく教えている。賢明な婦人であったようだという。

礼厳の子たち=鉄幹の兄弟たちは、いずれも文才に長けている。
長男は和田大円、諱は心鏡。安政6年(1859)生まれた。六歳の夏、礼厳とハツヱとも親交のあった蓮月尼の斡旋で随心院門跡和田智満の室に入り、剃髪。若年にして泉涌寺の執事となる。
その頃与謝野は極度の貧困の中にあり、若い大円が父母弟妹を養った。後、岡山市安住院住職を兼ね、真言宗法務支所長に任じ、学林の長をも兼ねて育英に従った。この安住院には、養家から脱出した鉄幹が一時身を寄せていたことがある。その後、高松市の真言宗法務支所長、日清戦争の従軍布教師、宗会議長、真言宗布教練習所長、高野山大師教会本部長を経て、大正6年真言宗山階派管長勧修寺門跡に挙げられ、翌7年真言宗八宗管長総代としてシベリア出征軍を慰問し、朝鮮各地を数ヵ月にたって布教して歩いた。本山において伝法灌頂、受明灌頂を再三修行し、久しく中絶していた具支灌頂、瑜灌頂を再興し、その他、勧流、随流、安流、諸法流等伝授の開筵数回に及び、その熱心さ古大徳の面影ありと評せられた。また大円は、書、和歌、漢詩もよくしたという。

鉄幹の次兄は赤松照憧。24歳で赤松連城の長女安子と結婚し、山口県徳山市徳応寺に住んだ。照憧は山口県積善会を設立し、また、妻安子とともに徳山婦人講習会を創設し、さらに、それを拡張して、私立白蓮女学校を創立した。明治23年私立徳山女学校と改称拡張されたが、この女学校で若き鉄幹が教壇に立ったことがある。
また、育児所を設け、主として女囚のかかえていた乳児および孤児の保育に当り、女学校附属鳳雛幼稚園を設立する等、仏教の布教活動のみならず、教育、社会奉仕活動を積極的に行った。
大正10年急逝。亨年五十九歳であった。
照憧も漢詩を好み、漢詩を作ることを楽しみとし、また、和歌も折にふれて詠んだ。

弟は与謝野修、鉄幹より三歳年下、早くから文才を発揮し、明治26年ごろから30年にかけて、「婦女雑誌」「少年文庫」「文庫」、少年園発行の『詩藻』・『新体詩集』等に和歌、漢詩、新体詩、評論、考証等をしきりに発表し、多彩な創作活動をしている。

妹のシヅは、鉄幹より六歳下で、歌こころのある婦人であった。「婦人雑誌」などに投稿している。


与謝野礼厳の主な歴史記録

『与謝野町史資料編』
与謝野礼巌(れいごん)
 そもそも加悦は鉄幹の父である僧侶歌人与謝野礼厳の出身地であった。文政六年(一八二三)に加悦町温江(当時は丹後国与謝郡温江村)の細見家の次男として生まれた礼厳は加悦町加悦の浄福寺で修行し、京都に出て西本願寺で得度、京都市岡崎の西本願寺掛所、願成寺(がんじょうじ)の住職となった。
 幕末の動乱期には薩摩藩との和親を進める本願寺の指令の下で御用僧として勤王活動に従事し、維新後は明治新政府による療病院の設立等、各種事業に従事したのである。
 この岡崎願成寺在任のおり、礼厳は妻ハツヱとの間に四男寛(のちの鉄幹)をもうけた。ちなみにこの頃、尼僧歌人の大田垣蓮月と歌により私事により交流の深かった礼厳は命名を蓮月に依頼し、彼女によって寛と名付けられた。
 願成寺が廃寺となった後は鹿児島や山口などに身を寄せ、その生涯を終えるまで生まれ故郷の加悦に定住することはついに無かったが、晩年には当地を度々訪れ、平易率直な詠風で望郷の歌を多く残している。
  二度は越じとおもへばふる里の温江のさとのなつかしきかな  禮厳
  いにしへをしのぶ夢路にかをるかな温江のさとの花のあけぼの
 大江山くもりもなつの朝風にかをるやさとのうばら卯花
 うまれいでし国のなごりか帰るさに心の残る加悦の里かな
 鷺の声をしをりにとめ来れば加悦のさとわの梅咲にけり
 梅はまだつぼみながらに鷺の鳴ぬさえゆくうしろ野の里
 見も聞きも涙ぐまれて帰るにも心ぞ残る与謝のふるさと

 その生涯において一万七千首を詠んだとされる礼厳の短歌は、明治四十三年(一九一〇)に鉄幹が編集した『礼厳法師歌集』(新詩社)で見ることができるほか、「円本」 と呼ばれた改造社版 『現代日本文学全集』 の三十八巻『現代短歌集』 に与謝野尚絅(しょうけい)の名で二十首が収められている(尚絅は礼厳の歌号)。この巻末に斉藤茂吉が執筆した「明治大正短歌史概観」において、同時代の歌人丸山作楽(さくら)、天田愚庵(あまだぐあん)の歌風と比較して以下のように評している。
  三人のうち、礼厳が最も才気が見える。字句を細かく運ぶあたりは、鉄幹の歌風に通ふところがある。鉄幹が、かういふ父の歌風を学ばずに、『東西南北』 の如きを処女歌集として世に出したのはをかしい程であるが、明治二十九年あたりは父の歌風を顧みる暇は無かったものとおもふ。

 すなわち茂吉は、作楽、愚庵、礼厳の三人で礼厳がもっとも優れているとし、父子間に歌風の共通点を見出しながらも処女歌集『東西南北』刊行時の鉄幹と礼厳の実力の大きな隔たりを述べ、礼厳の歌を非常に高く評しているのである。
 明治三十一年(一八九八)に七十五歳で寂した礼厳は、その生前の功績により大正六年(一九一七)、従五位に叙せられた。

『丹後路の史跡めぐり』
大虫神社の鳥居の所に「礼厳法師の碑」が立っているが、与謝野礼厳は与謝野晶子の夫鉄幹の父であり、文政六年(一八二三)温江の虫本に生れて出家したが、俳人でもあり政治家でもありまた事業家でもあり、京都にあって大いに活躍した。特に明治五年九月植村正直知事の応援を得て療養院を建てたが、これがいまの府立病院や府立医大の前身である。
 明治三一年八月十七日七六才で京都に没し大谷廟に葬った。
    与謝郡阿知江の村に鍬とりて
       世の笑いより逃れなんかも





関連情報

与謝野鉄幹
与謝野晶子



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『加悦町誌』
『加悦町誌資料編』
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん



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