丹後の地名

与謝野鉄幹=寛
(よさのてっかん=ひろし)


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京都府与謝郡与謝野町温江

京都府与謝郡加悦町温江

京都府与謝郡桑飼村温江



 丹後が誇るキラキラ星、与謝野町出身の歌人。


  (同町の観光パンフより↓)

与謝野礼厳(1823〜1898)与謝野礼厳
鉄幹の父。文政6(1823)年に丹後与謝郡温江村(現与謝野町温江)の細見儀右衛門の二男として生まれ、幕末期には勤王活動に奔走し、維新後は各種事業に携わりました。歌号は「尚綱(しょうけい)」といい、八木静修(やぎせいしゅう)に歌を学び、大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)らと交友がありました。出家し、浄土真宗本願寺派の僧侶となったのち、「与謝野」を名乗ったといわれています。

与謝野鉄幹(1873〜1935)与謝野鉄幹
明治6(1873)年、礼厳の四男として京都市岡崎に生まれました。本名寛。短歌の革新を唱え、明治27(1894)年に歌論「亡国の音」を発表。明治32(1899)年に「新詩社」を設立し、翌年にはその機関誌である「明星」を創刊し、日本浪漫主義運動を主導しながら北坂白秋や石川啄木などの逸材を世に送り出しました。作風は質実剛健で、「ますらおぶり」として知られています。

与謝野晶子(1878〜1942)与謝野晶子
鉄幹と結婚し、六男六女の母となる晶子は、明治11(1878)年、堺市の老舗和菓子屋「駿河屋」の三女として生まれました。明治33(1900)年の「明星」創刊とともに新詩社同人となり、翌年に上京。処女歌集「みだれ髪」を刊行し、歌壇に一大センセーションを起こしました。また、日露戦争時、戦地へ赴く弟を想いうたった「君死にたまふことなかれ」なども有名です。



          

このページは鉄幹(=寛)だけの紹介です、しかし文学史を語れる知識がなく、鉄幹伝記の全般を正確に追ったものではなく、丹後から垣間見る鉄幹像の一部です。

与謝野鉄幹

妻をめとらば才たけて みめ麗 しく情けある
友をえらばば書を読みて 六分の侠気四分の熱

 人を恋ふる歌




17番までだったか、長編である。与謝野鉄幹といっても、一般に知られているものは、上の歌だけだろうか。
明治30(1897)年、京城(今のソフル)で作った。曲は三高(今の京大)寮歌という。24歳、朝鮮に渡っていて、チフスで入院していたころのもの。ハングリー風雲児明治若者の大きな意気込みを歌ったものだろうか、今からみれば遠い昔のことになってしまって、こうした気負い過ぎた感傷は理解もできない平成若者も多いかも知れない。しかしもし人として成長していくつもりならば「六分の侠気」は忘れないでもらいたいと思う、君たちが侠気を失えば、ダーダーの今のクソで墓場のような日本であり地域であり、もうすでに半分以上は滅び死んでいるし、まもなく本当に、ごく一部だけがウハウハでその他殆どが内部から終わってしまうことになろう…

明治6(1873)年〜昭和10(1935)年の歌人・詩人。与謝野晶子の夫君。オヤジが加悦の出身で、丹後とは縁が深く、与謝のあちこちに歌碑がある.。
↓これは天橋立にある歌碑
天橋立の与謝野夫婦の歌碑

与謝野寛・晶子夫婦の歌碑
 与謝野夫婦昭和五年五月天橋立にて詠める詩の自筆を拡大す

 小雨はれ みどりとあけの虹ながる
    与謝の細江の 朝のさざ波
    寛
 
 人おして 回旋橋のひらく時
    くろ雲うごく 天橋の立
     晶子

 与謝野寛・晶子夫婦は、寛の父礼厳が加悦出身ということもあり、天橋立にたびたび足を運びました。
 昭和五年五月、丹後に八泊のうち天橋立に二泊して、寛 四十五首 晶子 六十首の和歌を遺されています。案内板
 昭和十年寛逝去後、傷心の晶子が 天橋立を訪れたのが昭和十五年でして、帰京後発病し、以後旅をすることもなく昭和十七年逝去されました。
 最後の吟遊の旅が当地、天橋立でした。夫婦が多くの歌を遺されたこの天橋立に歌碑を建立することが私たちの責務でないかと考え、多くの天橋立を愛する人、与謝野夫婦に思いを寄せる人たちのご協力の下に、ここに歌碑を建立する運びとなりました。
寛・晶子夫婦の歌をよみ、お二人を偲んでいただければ嬉しく存じます。
平成十八年(二〇〇六)七月七日建立
天橋立を守る会
歌碑建立発起人会

京都市生れ。当時の山城国愛宕郡岡崎村の願成寺に浄土真宗(西本願寺)の僧・与謝野礼厳の4男として生まれた、本名は寛。
丸太町通りを東へ突き当たる手前に「岡崎神社」があるが、その前にあったという。寺というだけで、一戸の檀家もない破れ寺だったという。
寺や家庭を顧みずに事業に東奔西走する父であったが、その事業の失敗で寺を離れ、一時他家の養子になるなど苦労して育った。

明治22年(16歳)。山口県徳山市の次兄の照橦の許に身を寄せ、その兄が経営する徳山女学校で国語漢文を教えた。
生徒の書いた文章を中央の雑誌に発表させて、生徒の勉学心を高めるという積極的指導法も取ったようだという。
最初の妻・浅田サタ、第二の妻・林タキノはいずれも、この女学校の教え子である。どちらも良家の娘さんで、少しばかり才能があっても貧乏寺の小僧とは周囲が許さない。
教師と生徒の恋は醜聞として受けとられる時代であった、そうしたこともあり、父の許に返る。

明治25年(19歳)。父は僧になれという。母は東京に出て苦学せよという。母は今までの生活から、疾くに僧の生活に見切りをつけていたのであろう。焦燥と苦悶の末に、活路を求めて、家を捨て東京に出奔した。或る百姓の子に五円借りて家を出たといわれる。
異母兄の大都城響天の世話になりながら、落合直文の門に入り、「あさ香社」に参加した。

落合直文は、文久1(1861)〜明治36(1903)、明治の歌人・国文学者。宮城県生れで、伊達藩の名門鮎貝家に生まれ、国学者落合直亮の養子となる。気仙沼には生家のすごい庭園が残っている。東大古典講習科中退。一高・国学院などで教鞭をとるかたわら国語国文学の普及に力をそそいだ。明治21(1888)年長編叙事詩「孝女白菊の歌」で名声を得て、明治26(199)93年4月に「あさ香社」を創立した。実弟の鮎貝槐園(=鮎貝房之進)や与謝野鉄幹らの俊秀を集めて新派和歌の基礎を築いたといわれる。
包容力にとみ、明治の革新歌人を育成した功績は大きい。「霜やけの小さき手して蜜柑むくわが子しのばゆ風の寒きに」などがある。

与謝野町男山の板列八幡神社に、その直文の歌碑がある。↓
男山八幡社の碑

ふるさとの我が松島とくらべ見む 朝霧晴れよ天の橋立  直文

この碑の裏に彫られている文によれば、直文が明治32年9月の参拝作歌という。
その隣に
み柱にわが師の名のみ残るにも ぬかづき申す岩滝の宮  寛
海の気と山の雫の石濡るゝ 八幡の神の与謝の御社   晶子

これは昭和5年5月の参拝作歌という。この時の歌が多く色紙に残されたり歌碑になっているが、この碑は昭和35年に建立されている。



この直文の影響とともに、その実弟の塊園(鮎貝房之進また盛影)の影響も強く受けた。
「言語学的なアプローチからの朝鮮古代の地名・王号などの考証を行い、また民俗学的な研究にも努めた。その成果は雑攷9集としてまとめられ、今日でも優れた先行研究として扱われている」とあるが、私などが知っているのも、こちらの面である(名前だけだが、代表的著作となる『雑攷』などが舞鶴の図書館ではあるはずもない)。この前の戦争の引揚げの際に、博多でなくなった。
寛より9歳年長で、宮城師範学校、東京外国語学校朝鮮語科を卒業し、明治25年宮城県会議員に当選し、一期勤めて後、再び上京して、直文宅に寄寓して、直文の仕事を助けていた。その豪放潤達、慷慨的性格、経世の志などは寛に大きな影響を与えたといわれる。寛を朝鮮にもさそっている。

直文の推挙で明治26年創刊の「二六新報」に入社。同志の者が無月給、無報酬で働いた。二六新報を通して、知名の文人学者に会うことが出来た。新報社内の、国家主義と東洋風豪傑ぶりにも染まったという。
明治27年、歌論「亡国の音」発表。女性的和歌を崇拝するのは、国を亡すもとだとして、一呼一吸が直ちに宇宙を呑吐するような大度量をもった大丈夫のますらをぶりの歌を提唱した。
古今伝授など喜んでいると地域が滅びる、といったかは知らないが、男性的もいいが、一面だけをあまり強調しすぎると軍国調、ヒットラー節になって、これも亡国に導く。
国内は行き詰まりで、外に活路を求めた時代だが、多くの国民も誘導されるように待望した、日清戦争が明治27年7月25日勃発し、8月1日清国に宣戦布告した。
鮎貝房之進は日清戦争が起ると直ちに朝鮮へ渡った。そして、京城の乙未義塾の総監督となり、寛を招いた。乙未義塾は小学校のようなもので、城内に七個所、生徒数は七百人余位で、貞洞にあった一校を寛に担任させた、という。
明治28年夏はコレラが大流行し、京城では数千人が死亡したという。寛は腸チブスにかかり、40余日病床に伏した。

日清戦争は一応日本の勝利。しかし、露・独・仏の三国干渉をうけ、清から奪った遼東半島を還付する、臥薪嘗胆という言葉が4000万国民の標語となった。清の影響が消えると、朝鮮を日・露が奪い合うことになった。
朝鮮も三国干渉を機に、態度を変え、露国と手を結び、日本の勢力を一掃しようとした。その中心は閔妃であった。
閔妃は高宗皇帝の皇后。国王・高宗という人はずいぶんと頼りない人なのではなかろうか、彼の父の大院君とか、そうした人がこの超大事な時期に政治を動かしていたようで、彼自身の名は見ないのである、そうしてとうとう国を失ってしまう。

国家の要職についた閔妃一族の総数は1000人にもなったといわれ、閔妃の発言力は非常に大きく、日韓併合を企む明治政府にとって目の上のたんこぶだが、彼女の反日政策に打つ手がなかった。
そこで、陸軍中将の三浦梧楼が特命全権公使として、2、30人の大陸浪人を率いて閔妃の寝所を襲って斬殺するという事件がおこる。しかも斬殺した屍体に石油をかけて、王宮の庭で焼いてしまうという蛮行を重ねた。
交友関係から寛も関与を疑われる、全くの無関係ではなかったであろう。予審判事の調ぺで、当日王宮に入らなかったことが明白になったので直ぐに釈放された、と言う。
ヤバイ話である。国家権力の陰謀が渦巻く場所で、憂国の壮士きどりで、思いつきでうろうろしていたら、何をでっち上げられて、どんな冤罪で死刑ということになるやも知れたものでない。もっとも国際的な大非難を受けて政府は大使以下を裁判にかけたが、証拠不十分として48名全員が無罪・免訴となった。まあまあ気持ちはわかるなどとして、処罰よりも再発防止だなどと考えていれば、こうした連中にズルズル泥沼に引き込まれ、引くに引けず、日本全体が引っ張られて、全世界の信頼を失い亡国となろう。厳しすぎるほどでいいのだ。
この時期に寛の顔を見た祖母が「悪党だ、みんな気つけなはれや」と思わず言ったそうで、大陸浪人か無頼漢の人相になっていたのかも知れない。当人はますらおぶりのつもりだったかも知れないが、そんな日本人の全員が悪党面をしていた時代だったのかもかも知れない。

明治29年詩歌集『東西南北』を発表し歌壇に颯爽と登壇する。23歳。江山文庫にもあるが、今の文庫本よりも小型のちいさなものである。
正岡子規は「今の世に歌ありやと云ふ者あらば心ならずも『東西南北』を示さん」「言語音調の上に一種の妙処を有せり。殊に豪壮なる感を起さしむるに適当なる調子を善くせり」という批評を寄せている。明治30年『天地玄黄』を出した。

明治31年、父礼厳が山口県徳山の照憧の養家で歿した。寛は父の病床に侍し、その命終を見守った。
この徳山で浅田サタとの恋が復活したという。寛の教鞭を執った徳山女学校の第一回の卒業生で、徳山の名家の出である。フキコが誕生したが、その後程なく別れたという
サタと別れて間もなく、明治32年、林家へ養子に入るという条件で、タキノの父小太郎の承諾を得てタキノをつれて上京した、萃が出生した。生活の貧しさと寛の生活基盤の不安定さの為に娘の将来を危惧していた父小太郎は離縁を強硬に言い渡した。

新詩社を結成して、明治33年、新聞半截型16頁の『明星』第1号が発行せられた。発行人兼編集人名儀が林滝野になっている。タキノのかげの経済的援助が多かったといわれている。
2号に始めて鳳晶子と山川登美子の作品が載り、晶子・登美子が先導して明星調を形成していく。寛はそれに追随していく。

山川登美子は、明治12年(1879)〜明治42年(1909)、本名・とみ、29歳でなくなった若狭小浜の人。多くの優れた人材を輩出した小浜藩旧家の、武家育ちの人である。生家は今は記念館になっているが、竹原侍屋敷跡であり、梅田雲浜や伴信友もこの侍屋敷に住んでいたという。舞鶴なら隣の若狭の乙女、小浜公園にある歌碑など見られたことがあろうかと思う。
地元の高等小学校卒業後、明治28(1895)年に母親の母校であった大阪の梅花女学校に入学、同30年卒業。同33(1900)年4月、母校の研究生となり英語を専修。本当は画家志望だったというが、同年『明星』に歌が掲載され、社友となる。鉄幹との出会いがある。晶子も同席していて、短歌の新しい潮流を生み出す原点となった、文学史的にも意味の大きな出会いの瞬間になったといわれる。
しかし翌年、父親の勧めた縁組により、一族の山川駐七郎と結婚、翌年死別した。同37(1904)年、日本女子大学英文科予備科に入学し同40年3月まで在学。その間、新詩社に接近し、「白百合」と題して短歌131首を収載した。同38年、晶子らと共著『恋衣』を刊行。同42年、夫の結核がうつり生家で死去した。
坊主育ちと商家育ちと武家育ちの、それぞれ違う才能が集まって、「明星派」と呼ばれる新しい短歌の潮流を生み出して、一世を風靡した。

明治34年、林タキノと別れ、晶子と結婚。タキノと晶子は同年である。
晶子とのめぐり合いと「灼熱の火の恋」、結婚によって、鉄幹のその後の文業も大きな飛躍を遂げ、実生活上でも大きな支えを得ることになった、晶子の側からみても同じで鉄幹なくして晶子も生まれなかっただろうと言われる。一心同体で、お互いに絶好の伴侶を得ることになった。

第3詩歌集の『鉄幹子』の発行は明治34年3月。第4詩歌集『紫』は同年4月の発行。「人を恋ふる歌」は『鉄幹子』に収載されている。

明治41年、『明星』百号をもって終刊。理由は、明治30年代末からの自然主義文学の抬頭と、41年の吉井勇、木下杢太郎、北原白秋脱退とに因るが、経済的困難が一番大きな理由であったという。
『明星』終刊後は、次第に歌壇の圏外に立つようになるが、超スーパーウーマンの晶子は依頼原稿の執筆などでで超多忙、それと比べると、カゲが薄くなり手持無沙汰の失意の鉄幹は、庭へ出て包丁で蟻を殺したりしていた。ココロがズタズタ状態だったようである。

明治44年、いたましい限りの鉄幹は晶子のすすめで欧州遊学にでる。大正2年帰国。ゼニの工面も晶子がしている、単に浪漫だけではない、現実生活感覚や能力も人並みを超えたすごいヨメはんだが、その晶子もあとを追って、シペリァ鉄道経由で、パリに着く。ロダンに会ったりしている、その後生まれた四男には彼の名を付けている。

『鴉と雨』は寛の最後の単行詩歌集。大正4年発行。

大正4年、与謝郡を地盤として、京都府選出の衆議院議員選挙に立候補。各地で演説会を40回も開き一生懸命だったようだが、得票は2ケタ、はかなくも落選。若い頃から政治家指向を持っていた。
ああ政治君四十路して恋人の名を聞くごとくあくがれて行く
と晶子は歌っている、嘆いているのかも。こうしたナイーブな少年が鉄幹なのかも、「駄獣の集まり」と議会を、いやいやどこかの市議会でなく、国会であるが、そう厳しく批判している晶子も応援はしてはくたれようだが…
大正8年、慶応義塾大学教授となり、昭和7年まで国文学、国文学史を教授した。
大正10年、第2次「明星」創刊。以後48冊発行。
昭和3年、晶子とともに満蒙旅行、昭和4年、鹿児島県下を歴遊。

昭和5年、晶子とともに山陰旅行の一環として丹後に入っている。与謝郡各地に残る鉄幹・晶子の直筆作品の多くはこのときのもの。

琴引浜の与謝野夫婦の歌碑
与謝野夫妻の歌碑
たのしみを 迎えかねたる 汝ならん
  行けば音をたつ 琴引の浜  (寛)

松三本 この陰にくる 喜びも
  共に音となる 琴引の浜    (晶子)

とあるそう。昭和5年ここに揃ってやってきたという。右から4人目5人目。この碑は晶子生誕百年記念に立てられたという。


昭和10年死去。62歳であった。


↓与謝野町金屋にある鉄幹の歌碑。背後の山は大江山。
鉄幹歌碑(与謝野町金屋)

鉄幹歌碑(与謝野町金屋)

与謝蕪村については、地元史家たちも多く論じているのだが、鉄幹は誰一人論じていない。そんなことはないだろうと、探すがない。
ああ我ダンテの奇才なく、バイロン・ハイネの熱なきも
石をいだきて野にうたう、 芭蕉のさびを、よろこばず

日本は一般には、鉄幹がよろこばない、「石をいだきて野にうたう、芭蕉のさび」がよろこばれる。ドロドロの世の中から隠遁した歌聖の生き方が理想のよう、しかし鉄幹は正反対を生きた。

われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子あゝもだえの子



          




与謝野鉄幹の主な歴史記録

落合直文碑
板列八幡神社の歌碑(与謝野町男山)
↑天橋立が向こうに見える場所にある。

『与謝野鉄幹』(中晧・桜楓社・昭56)
み柱に我師のみ名の残るにもぬかづき申す岩滝の宮
                   「与謝野寛短歌全集」昭和五年七月発表

 我師は落合直文。岩滝の宮は京都府与謝郡岩滝町男山にある板列八幡神社。当時萩之家門の毛呂清春が神主であった。直文は明治三十二年八月中旬、母の病気看護のため帰郷していた清春を訪問して金千疋を八幡社に奉納した。その折に社前から天の橋立を眺望して、

 ふるさとの我が松島にくらぺみむ朝霧晴れよ天の橋立

と詠んだ。寛は山陰旅行の途次、昭和五年五月二十日から二十四日にかけて宮津、天の橋立に滞在した。その間に清春を訪ね八幡神社に参拝した。その折の作で、直文敬慕の歌である。右の直文の歌とこの歌と晶子の次の歌とを刻んだ歌碑が板列八幡社の境内に立っている。

 海の気と山のしづくに石ぬるる八幡の神の与謝の御社

 昭和三十五年四月三日除幕式が行われた。その歌碑の費用が十万円であったが、清春にはその金がない。同情した高岡徳次郎が、自衛隊に入っていた二男の千賀円次郎氏の貯金を吐き出させて建立した。時に清春八十四歳、徳次郎七十六歳、円次郎氏四十三歳であった。

 山川登美子記念館(小浜市千種)
山川登美子の生家(小浜市千種)
↑彼女の生家が記念館になっている。貝殻で作ってあるのか、このあたりではよく見かける屏風があって、次の間は座敷、その先の中庭を挟んだ奥の部屋で亡くなったという。
山川登美子記念館

山川登美子記念館
記念館の案内板
人の駅 山川登美子
the tanka (a Japanese poem of 31 syllables) poetess
1879年(明治12)登美子は、遠敷郡雲浜村上竹原で父貞蔵、母ゑいの4女でこの家で生まれました。大阪ミッションスクール梅花女学校の研究生であった22歳のときに創刊の『明星』に心惹かれて社友となりました。『明星』には歌を寄せる女性たちのなかで、登美子(白百合) ・鳳晶子(白萩) ・増田雅子(白梅)の3人は特に注目されました。登美子は、大阪で与謝野鉄幹と初めて出会い、晶子と新しい歌の世界と鉄幹への恋心を抱いたのです。登美子は、恋も歌も一歩リードしていたようでしたが、親が決めた山川駐七郎と結婚。また、晶子は鉄幹と結婚します。しかし、夫が結核に冒され、2年足らずで他界。その後、日本女子大学で学びますが、夫から感染した呼吸器疾患のため、 1909年(明治42) 4月15日、29歳9ヵ月の若さで亡くなりまじた。
 小浜市では、山川登美子を顕彰するため、有志が集い「若狭を謳う実行委員会」が組織され、毎年記念短歌大会が盛大に開催されています。
髪ながき少女とうまれ しろ百合に 額は伏せつつ君をこそ思へ
『小浜市史』
山川登美子と『恋衣』事件
 この戦争(日露戦争)でうたわれた有名な軍歌「戦友」はこうした状況での 哀歌 でもあった。兵士を送り出した家族は、ひたすら無事に帰還することを願っていたし、まだそれを口に出していえる時代でもあった。この手紙の一年前の一九〇四年(明治三十七)九月に発表された、与謝野晶子が旅順口包囲軍の中にある弟を嘆いて謳った詩「君死にたまふことなかれ」は、それを率直に表現したものに過ぎなかった。この詩は一大センセーションを巻き起こし、開戦に反対したキリスト教徒や社会主義者が高唱した非戦論の主張とはその文脈をことにしたものであったが、しかしその直接的表現によってかえって、国家観念を誹謗する危険思想との非難が浴びせられた。それは晶子一人にとどまらなかった。
 山川登美子はこのとき、夫山川駐七郎と死別したあと、東京の日本女子大学に籍を置き、ふたたび『明星』に復帰し、登美子、晶子と、女子大での同級の増田雅子と三人による歌集『恋衣』を出版することになっていた。しかし、その噂を知った女子大は登美子と雅子の二人を停学処分にした。その理由は判然としないが、明星派の歌風に対する偏見と晶子の「君死にたまふことなかれ」の詩の掲載にあったのではないかと推測されている。この『恋衣』事件は十一月には解決されて、二人は復学している(坂本政親『山川登美子集』)。登美子は、晶子のようにとくに反戦的言辞を口にはしていなかったが、こうした大学や文学界の旧弊な権威主義的な、国家主義的な行為に対して抗議の声を発せざるをえなかった。翌年一月に発刊された『恋衣』の「白百合」の末尾にははじめの計画にはなかった一二首が「以下拾弐首さることありける時」と注されて掲載されていた。
  ぬれぎぬに瓦つつみて才はかる秤器の緒にはのぼされにけり
  歌よみて罪せられきと光ある今の世を見よ後の千とせに
 登美子(一八七九〜一九〇九)は、第二十五銀行頭取山川貞蔵の四女で、『明星』の代表的な女流歌人の一人であった。

駅前通りを海側へNTTの高いアンテナがある建物のすぐ下。小浜藩の侍屋敷地で、幾多の人材を生み出した地である、伴信友や梅田雲浜もこのあたりで生まれている。
少し時代がさかのぼるが雲浜の生誕地もすぐ近くにある。ついでだから…
梅田雲浜生誕地碑(小浜市千種)
ここの案内板↓
人の駅 梅田雲浜
the politician who advocated the reverence for the Emperor
and expulsion of foreigners in the last stage of Edo period

江戸幕末の尊王攘夷派(天皇権威を唱える封建的排外思想の倒幕派)の志士として活躍した梅田雲浜は、矢部岩十郎義比の次男で小浜町竹原三番町に生まれました。のち、祖父の実家である梅田姓を名乗り、山崎闇斎が提唱した朱子学(実践道徳の教え)の一つ崎門学を学び日本が対外関係で緊迫化するなか海防策に関する意見書を藩主に提出しました。これが藩主の忌諱に触れ、 1852年(嘉永5)、浪人となります。生活困難ながら尊王攘夷を唱え、志士の指導者となった雲浜は、 1856年(安政3年)より上方と長州(山口県)の物産交易に従事、将軍徳川家後継問題・条約締結問題では一橋慶喜を擁して勅許反対を推進しました。青蓮院宮への入説、戊午の蜜勅降下にも関係して安政大獄で捕まえられ、1559年(安政6)獄死しました。墓は小浜市北塩屋町松源寺に、銅像は中央児童公園に、顕彰碑が小浜公園にあります。
小浜市では、梅田雲浜先生を顕彰して毎年「梅田雲浜顕彰全国吟詠大会」を盛大に開催しています。

すぐ隣藩だが、どこかの藩のように何もこうした逸材を生まなかった知の貧困はなに故であろうかのぉ。悲しい藩だのぉ。恥ずかしいのぉ。いくら城祭だとわさいでも、これでは来る者など知れていよう。晶子や登美子とは戦争のとらえ方も正反対の戦争賛美で、海軍レンガ倉庫などに何十億をつぎ込んで喜ぶばかり。平和を求める世界からひんしゅくを買い嗤われるということもわかっていない。現在の原発問題でも小浜市民はずば抜けてしっかりしてるのも、古い湊町、日本で最初に象がやってきたのはここだといわれるが、海のある奈良とも呼ばれる、そうしたことがこうした先人を生み出した元にあるのかも…
↓小浜公園の歌碑
山川登美子の歌碑(小浜公園)
ここの案内板↓
山川登美子女史 略傳山川登美子歌碑の案内板
山川登美子女史は「恋衣」の作者の一人として所謂新派和歌革新期の明星派の女流歌人であるがむしろ新詩社の主辛与謝野鉄幹をめぐる鳳晶子のライバルとして悲恋に涙した佳人として世に知られている登美子女史は旧酒井藩士山川貞藏の四女として明治十二年(一八七九)七月二十六日、小浜市上竹原の旧士族屋敷に生まれた高等小学校卒業後二十八年三月大阪梅花女学校に入学するため郷里を離れた、大阪で学校のかたわら旧派の和歌を習作するようになり「新声」「文庫」等への投稿を続け新詩社の社友となって与謝野鉄幹に師事するに及んで歌作は益々その浪漫的文学の華麗な世界に踏み入り女史の名はわが国歌壇を賑わせるに至った
三十三年山川駐七郎(元メルボルン領事館駐在書記当時銀座江頭煙草商会支配人)と結婚僅か一ヶ年にして夫君の肺患のため郷里に帰って夫君静養に尽くされたのであるが三十五年十二月夫君と死別子供が無かったので翌三十六年四月東京へ出て亡夫の実家東京牛込の邸に起居、翌年日本女子大学英文課に入学して寄宿舎に入るや新詩社を中心として与謝野晶子・茅野雅子等との交友益々親密となり歌作は再び熾烈化していった、そして合著歌集「恋衣」を発刊行しそれが原因で雅子と共に女子大より退学処分を受けるに及びさらに彼女らの友情と人間的信頼感を強固にしていったと傳えられる
その後登美子女史は亡夫と同じ肺患に罹り京都の義兄邸に寄寓静養していたが四十年末父君危篤の報を受け帰郷した然し父君(当時国立二十五銀行頭取)の病重く、四十一年一月父君の死去に逢う悲嘆にくれつつ自らも病益々重きを加え遂に四十二年四月十五日 三十一才の若さをもって永眠された。
墓地は、小浜市伏原の発心寺にある
「若狭のとみ子」の歌人としての名声を慕う郷里の有志によってこの海の見える公園に歌碑を造って女史の名を、とどめている
 (故 土田 教雄 の書)
 幾ひろの 波は帆を越す 雲に笑み
     北国人と うたはれにけり   小浜市
↓小浜公園にはもう一つ彼女の歌碑がある。
山川登美子歌碑(小浜公園)

『与謝野晶子』(新間進一・桜楓社・昭56)
挽歌(ひきうた)の中に一つのただならぬことをまじふる
友をとがむな   明沿四十二年五月発表歌集『佐保姫』

明治四十二年四月、小浜の実家で逝去した山川登美子を悼む歌十三首のうち。ただし、詞書がない。堺時代から心を許した友であり、同じ文学の途に志し、同じ「わかき師」鉄幹を慕うライバルでもあった。「それとなく紅き花みな友にゆづりそむきて泣きて忘れ草つむ」の歌を残して登美子は去り、友情のあかしは『みだれ髪』の白百合の章に結実しているが、その中にも才ある友への嫉妬的な気持ちも若干混っていた。その後未亡人となった登美子の上京、女子大生活に、新詩社への出入りがあって、晶子・登美子・寛三者の間に微妙な心の動きがあったしばしことは否めない。「常世物はなたちばなを嗅ぐ如し少時(しばし)絶えたる恋かへりきぬ」(相聞)などの歌や、「ふたなさけ」の長詩などが、その時期の寛の作に見えて、登美子との恋の再燃も考えられないではない。登美子没したあと、晶子の複雑な心境が吐露された連作であり、この歌もみ「一つのただならぬこと」、友への嫉妬の心を告白するのを許せと亡き人にいうのである。「三人して甕の中に封じつること」があったとも歌っており、弔歌としては型破りな面を持つ。


与謝野鉄幹

↓大江山の西麓、温江虫本の大虫神社入口
与謝野礼厳追念碑(与謝野町温江)

与謝野鉄幹・晶子の来訪
 そして礼厳の亡き後、息子である鉄幹は時に単独で、また時に晶子を伴い加悦を訪れた。
 今日確認される一つが大正四年(一九一五)春の来訪である。この年の三月には第十二回衆議院議員選挙が行われ、これに鉄幹は京都府郡部より立候補した。このとき鉄幹は与謝郡をはじめ中郡、愛宕郡などを訪れ各地で演説している。
 立候補にあたり鉄幹は以下の宣言文を寄せ、自らと加悦の繋がりを語っている。
    與謝野鉄幹氏の宣言
 一、私の尊敬する京都府十八郡の有権者諸君、聡明なる同郷の有権者諸君、私は純大隈伯後援者の一人として、爰に敢て自ら京都府郡部選出衆議院議員候補者たることを宣明し、諸君の熱烈なる御推薦を望みます。
   (中略)
 一、私は謂ゆる輸入候補者ではありません。私の一族は古の「与謝の浦島が子」以来丹後の両国に住んで細見氏を称し、私の父は与謝郡温江村より出で、私は京都市民の女を母として京都市岡崎町に生れ、現に愛宕郡修学院村に在籍して居ります。私は全く京都府の土が生んだ一文学者です。
 一、私は聡明なる十八郡の選挙人諸君が、新しい意味の候補者である私の為に、卓然として新しい意味の選挙人となられ、最も神聖なる一票を最も新しく活用せられることを熱望致します。
       (「大阪毎日新聞京都付録」大正四年三月九日)
 出馬当初より理想選挙を唱え、政策や党利党略にとらわれなかった鉄幹の学術的な演説は、行く先々で好評を博したという。その数は約四十回に及んだものの、これを得票数につなげることができず、鉄幹は立候補者中最低の得票数をもって落選した。
 このとき加悦での遊説活動に晶子が同行したかどうかは定かではない。文名はすでに夫を追い越し、短歌にとどまらず時代の人気女流作家となっていた晶子は、選挙応援者としては格好の人材であったが、ちょうどこの時期は五女エレンヌの出産(同三月。のちに紀子と改名)があり、応援活動が思うようでなかった。
 身重の身体を抱えながら選挙協力に出発しようとする姿が今日写真に残っているが、加悦で撮影されたものではない。晶子が同じように加悦を訪れたかどうかは今後の新資料の発見を待つほかにない。
 ただ町内には、この時期の晶子の短歌作品も若干ながら残っている。
 鉄幹・晶子夫妻が連れ立って訪れた例として最も有名なのは昭和五年(一九三〇)五月の来訪であろう。山陰旅行の一環として丹後に入った夫妻は、天橋立や大江山を題材に多くの短歌を詠んだ。
 このとき晶子は岩滝婦人会の求めに応じ講演会を行い、終了後には夫婦の揮毫作品の頒布会を開いた。
 現在加悦をはじめ与謝郡各地に残る鉄幹・晶子の直筆作品の多くは昭和五年五月発表の短歌であり、恐らくこのときに揮毫、頒布されたものを表装し、個々人宅で代々保存されてきたものと思われる。
 与謝郡あちえの里に鍬とりて世の嗤ひよりのがれなんかも  鉄幹
 帰り来て家は無けれど与謝郡ゆく方はみな父のふるさと
 与謝にある撞かずの鐘の寂しさよ撞く人無きや聞く人無きや
 いにしへの浦島ならず寛われ知る人ありぬ与謝のふるさと
 雲早し雲にあらはれ雲に消ゆ大江の山は天の大馬
 ふるさとの大江の山をこの日見てたふとぶこころわれも与謝びと

 大江山たゞみる房の色ながら与謝の入江をおほはんに過ぐ  晶子
 大江山王朝の鬼ありぬべし比治の山より若やかにして
 山多し与謝の大江かわたつみの青にかよふもあはれなりけれ
 大江山遠く青かり比治山は心のごとく襞多くして
 裾野をば雲霧の座にも与へつゝ大江の山は天にそびやぐ
 大江山孔雀の色を作るなり奥の丹後の夕風の中
 いたゞきにかりねするべく寄る雲がやがて大江の山をおはへる

 さて、こうした鉄幹・晶子夫妻の足跡を追って、昭和八年(一九三三)二月には鉄幹のかつての弟子であった歌人、吉井勇が加悦を訪れた。
 吉井勇は明治十九年(一八八六)東京生まれ。鉄幹の新詩社同人となり、『明星』に短歌を続々と発表。北原白秋とともに新進歌人として注目されるが、のちに新詩社を脱退。明治四十二年(一九〇九)、『スバル』創刊に参加し、かつて同じく鉄幹に師事した平野万里、石川啄木とその編集に携った。
 吉井勇はこのとき北陸−山陰旅行の一環として加悦を訪れたのであるが、当地では丹後縮緬や加悦谷祭りの他、かつての師の影を色濃く映した短歌を残しており、行程における加悦来訪は彼にとって大きな比重を占めたことが推測される。
 舞ごろも着るべき人をなつかしみ縮緬町の加悦谷に来ぬ  勇
 丹後なる桑飼村はかしこしや与謝野の大人(うし)の生まれましゝ里
 縮緬の祭り見に来と書きおこす丹後だよりの待たれぬるかな
 吾妹子の衣や織るらむ縮緬の機の音きけば胸のときめく
 丹後路の旅に読まんと思はめやあはれ吾妹子先生の歌 

 時期が前後するが話を鉄幹に戻す。夫婦で来訪した昭和五年の翌年、昭和六年十一月にも、鉄幹は再度加悦を訪れている。この訪問は、大正六年に従五位に叙せられた礼厳の功績を讃える、桑飼村長尾藤留蔵を発起人総代とする地元有志の手によってこの年に建立された「礼厳法師追念碑」の除幕式に出席するためであった。
 同追念碑裏面に刻まれた碑文の文面は、『礼厳法師歌集』冒頭に掲載された鉄幹が執筆した「礼厳法師歌集の初にしるしおく文」が下敷きとなっている。
 ちなみに、追念碑自体は同年四月に設置されていたが、碑文作成に当たっての経緯などから、地域では鉄幹を招いての除幕式を切望していた。そこで再三にわたる鉄幹との往復書簡による調整の結果、設置から約半年を経た十一月七日の除幕式開催となった。
追念碑除幕式
 写真は除幕式当日のもので、画面左手の洋装の人物が鉄幹。ちなみにこのとき鉄幹は晶子を伴わず、単独で加悦を訪れている。
 除幕式の後、夏用庵鉄山ら地元の俳人たちに歓待された鉄幹は多くの歌を詠んだ。
 岩に彫り我父の名を光らしむ情けあるかな与謝の里人  鉄幹
 ふるさとの与謝の山辺の岩に彫り萬づ代ならん我父の名は
 寛われ父に酬ゆる力無しこのいしぶみも人の建てけり
 父は猶こはき顔をもしたまへど唯だやさしきは母の思出
 飛ぶ雲に秋の日ひかりそのもとに大江の山のもれるうすべに
 
 最後の歌は「西山荘即事」の後書とともに書かれた色紙が、夏川庵鉄山の家に現在も残っている(巻頭写真)。西山荘とは鉄山の自邸内に設けられた隠居所のことで、ここで催された宴の中で生まれた歌であることがわかる。のちに「飛ぶ雲に秋の日あたりそのもとに大江の山の盛れるうす紅」と改められ、雑誌『冬柏』や、鉄幹が自身のそれまでの短歌を編纂した『与謝野寛短歌全集』(昭和八年 明治書院)に掲載されている。
 ところで、この時に鉄幹が詠んだ短歌の中には、右に挙げたほかに次のようなものがある。
 わが蕪村はやく心の楽めり与謝の屏風のうす墨と白  鉄幹
 この短歌には制作舞台となった個人宅が但し書きされており、これを当時の「与謝の屏風」の所蔵者宅と考えれば、その作品名がほぼ特定できる。そこで「うす墨と白」 の箇所に鉄幹の蕪村画に対する評価の片鱗をうかがうこともできるが、本稿では第一句「わが蕪村」の箇所に注目したい。
 丹後での約三年の月日を経たのちに「与謝」姓を名乗るようになった蕪村と、父親が出身地にちなんで付けた「与謝野」の姓を継いだ鉄幹。加悦の地に足跡を残した先人を「わが蕪村」とあたかも身内であるかのように呼んだ鉄幹は、同じ「与謝」の地名をその名に冠した蕪村に対し、血縁は無くとも並ならぬ親近感をもっていたのかも知れない。
 父の故郷として加悦と緑があり、このときもあくまで父の迫念碑除幕式出席のために加悦を訪れた鉄幹であったが、過去に加悦を訪れた近代俳人たちのように蕪村の足跡をたどる側面をもち、また彼が蕪村を自らになぞらえるような短歌を残したということは、蕪村の来訪が近代の加悦の俳句にとどまらず、短歌の世界にまで与えた大きな影響を思わせてやまない。

四 結  語
 古くから加悦は蕪村の母親のふるさとと伝えられている。与謝村に生まれたという「谷口げん」が摂津国東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)に出稼ぎに赴き、そこで蕪村をいわゆる私生児としてもうけたというのである。さらには身籠った彼女がこの地に戻り蕪村を産んだとも、あるいは蕪村が少年時代の一時期をこの地で過ごしたとも伝えられ、げんが眠るとされる墓が今も加悦町与謝に残っている。
 このような伝承から、今日まで蕪村が加悦を詠んだ句として著名な「夏河を越すうれしさよ手に草履」の句は、母と過ごした少年時代への郷愁とともに語られることが多い。
 もっとも、これらはあくまで口碑伝承である。第一節で言及されているように、決して資料的裏付けを持つものではないが、この伝承には河東碧梧桐も『画人蕪村』中でその一部について触れており、近代においては俳人たちをはじめとする人口にひろく膾炙したものだったといえる。
 近代俳句の父正岡子規が蕪村の俳句を再評価して以降、蕪村は近代の俳人たちの憧憬の対象であった。生前に蕪村がその出自を詳らかにしていないことと相まって、こうした地域伝承が近代の俳人たちにとって偉大な先達である蕪村のルーツを追い求める探究心を刺激し、彼らが加悦の地を訪れる原動力となったことは想像に難くない。
 蕪村のルーツとしての加悦。その信憑性の如何に関わらず、いやむしろ歴史的には曖昧な部分を持っていたからこそ、近代の俳人たちは内なる浪漫的心情に駆られて次々と加悦に来訪し、それぞれ俳句を残したのではないだろうか。また一方で加悦の俳人たちは、蕪村の足跡を追って訪れるこうした俳人や文人墨客らを次々と迎えるなかで、「蕪村ゆかりの地」の住人としての誇りを自身の心に培い、高めていったのではないだろうか。
 そして、加悦に生まれた与謝野礼厳を父親に持った与謝野鉄幹は、この地に縁を持ちつつも東京−外部に暮らす人間であるという、ほかの文人たちには無い二面性をもっていた。
 すなわち、短歌の世界にありながら明治の知識人としてやはり蕪村に関心をもっていたであろう鉄幹は、中央の俳人たちが抱いた浪漫的心情と、加悦の俳人たちが抱いた土地への誇りの両方を併せ持ち、それらを胸に加悦をたびたび訪れ、この地を詠んだ短歌を数多く作り、蕪村と自らの結びつきを思わせる短歌を残したのではないかと考えられるのである。
 先にふれた「谷口げんの墓」を現在管理されている加悦町与謝の谷口家には、何冊ものスケッチブックがある。表紙がかなり色褪せ、年代を感じさせる物から、まだ紙の匂いも新しい物まで、新旧さまざまな様相を呈している。
 これらは蕪村の母親の墓を訪ねてやってきた人々の記念に同家が残している芳名録であり、ひもとくと一般の人々や俳句愛好家に混じって、現代の著名な俳人や蕪村研究家、文学者などの名が連綿と書き記されているのである。
 蕪村の足跡をたどって加悦を訪れる人々と、彼らをあたたかく迎える人々の系譜が、近代から今日に至るまで脈々と続いていることを示して、本稿の結びとしたい。(竹下浩二)
 

一与謝野鉄幹はその雅号を明治三十七年に廃して以来、昭和十年に没するまで本名の「寛」を名乗ったが、本稿では「鉄幹」で統一した。
二 「礼厳」は法号であり、与謝野礼厳は短歌揮毫の際には常に歌号の「尚絅」を用いたが、本稿では「礼厳」で統一した。
三 「比治の山」を「比沼の山」とするテキストも存在する。いずれも京丹後市の磯砂山のこと。
四 歌群中の 「舞ごろも着るべき人」や「吾妹子」は晶子を、「与謝野の大人」は鉄幹をさすものと思われる。
(『加悦町誌資料編』)




関連情報

与謝野礼厳
与謝野晶子



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『加悦町誌』
『加悦町誌資料編』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん



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