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丹波の

質志(しずし)
京都府船井郡京丹波町質志


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京都府船井郡京丹波町質志

京都府船井郡瑞穂町質志

京都府船井郡瑞穂村質志




質志の概要




《質志の概要》
質志鍾乳洞がある集落。志津師とも書く。由良川の支流高屋川最上流の谷間に位置する。その川沿いにわずかな耕地があり、集落が点在する。川に並行して国道173号(綾部街道)が南北に貫通する。
志津師村は、戦国期に見える村。丹波国船井郡山内荘のうち。「蜷川家文書」第23集中に、戦国期のものと推定される「御料所 丹波山内庄八ケ村 小川殿御領」と題する注文があり、その8か村の1つとして「志津師村」と見える。しかしその「志津師村」の村域が今の質志とぴったりと同じ範囲かは不明だが、おそらくは異なっていて、もっと広い範囲でなかったかと思われる。
近世の質志村は、江戸期~明治22年の村。船井郡のうち。綾部藩領。明治4年綾部県を経て京都府に所属。同22年三宮村の大字となる。
質志は、明治22年~現在の大字。はじめ三宮村、昭和26年瑞穂村、同30年からは瑞穂町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。
大正末期に猟師によって質志鍾乳洞が発見され、昭和34年国鉄バスが三ノ宮~鍾乳洞間に開通。路線の綾部瑞穂線は同39年主要地方道に昇格、同50年に国道173号となった。

質志は隣村・三ノ宮に鎮座の式内社・酒治志神社の酒治志のことだが、その社が今は当集落から外れてしまっている。おそらく遠い過去の村落編成改変以前の村名をそのまま残しているものと思われる。
明治22年~昭和26年間の三ノ宮村は、保井谷・粟野・妙楽寺・水呑・三ノ宮・質志・戸津川・猪鼻の8か村が合併して成立したものだが、この範囲が遠い過去の質志(酒治志)(志津師)村の範囲とだいたい重なるものであったと思われる。
質志は今は狭い範囲だが、恐らく旧三ノ宮村≒旧質志村で、酒治志神社の氏子圏であったと思われる。酒治村をシュチシキと渡来語で呼んでいて、そのキが落ちたものが酒治志かも。。
質志の本来の意味については、「須知郷」など参照。

《質志の人口・世帯数》 58・28


《質志の主な社寺など》
質志鍾乳洞

質志の一番北、国道173号のみずほトンネルの手前から入れる。



25メートルある竪穴、梯子をつたってまっすぐ降りていく。ドンゾコには宝物が一杯、それはウソ、別に何もない。
案内板がある。
質志鍾乳洞  瑞穂町指定文化財(天然記念物)
 質志鐘乳洞は、高屋川上流の標高約四〇〇メートルに位置し、洞の延長は約一二〇メートル、入口から最深部までマイナスニ五メートルと規模は大きくありませんが、京都府では唯一の鍾乳洞で、昭和二年(一九二七)に発見されました。当時は鍾乳石や石筍も多くありましたが、現在までにその多くは折損、破壊されました。
 はるか昔(約二億六〇〇〇~七〇〇〇万年前)このあたりは海の底にあり、貝殻やサンゴといった石灰質の生物の死骸がつもって堅い石灰岩がつくられました。その後陸地になると、二酸化炭素を含む雨水により、石灰岩は何万年もかかって溶かされ、この鍾乳洞ができました。
 このため、鍾乳洞やその付近には古い地層が露出しており、よく探すといろんな化石がみつかります。その代表的なものに、二億年以上昔のナソの化石であるコノドントや、フズリナ(紡錘虫…単細胞の原生動物)、ウミユリ(棘皮動物)などがあります。
 また洞内は洞窟動物の格好の住家で、昭和一四年には生物学者の吉井良三氏により、日本で初めての新種甲虫が発見され、「ヨシイメクラチビゴミムシ」と命名されました。ほかにトビムシ類も生息しており、昼間は天井にぶらさがるコウモリを見ることもできます。  瑞穂町教育委員会

大きな石灰岩の固まりで、あちこちに支穴があるという、伝説には、
伝説
この鐘乳洞は昭和2年に発見されました。土地の古老達は果してこの鐘乳洞は何処まで続いているかと、話題になり取りあえず犬と鶏を洞内にいれたという。犬は途中で引返したが、鶏は3Km程はなれた大原神社の下のホラ穴にでて大きな声で鳴いたとの伝説が残っている。

珊瑚はいつからあるものか知らないが、珊瑚礁は軽いものなのだろう、地下へ沈むことなく、今は山になっている、このあたりにはかなり分布している。

曹洞宗遍照山光明寺

寛正元年創建の曹洞宗光明寺。維新前、北村徳之丞の寺子屋があり、村童を集め読書算を教授したという。
『郷土史三ノ宮』
遍照山 光明寺
所在地 字質志小字観音五十八番地
開 創 寛政元年(一七八九)
開 基 梅翁意春公首座 妙楽寺三世の住僧
    延宝四辰年(一六七六)三月二日示寂
宗 派 曹洞宗
本 山 永平寺、総持寺
木 尊 千手観世音菩薩
    脇仏 勢至菩薩 龍頭菩薩
本 寺 徳雲寺 園部町小山
歴代住職
 徳雲三世光明寺開山 朴堂桂淳大和尚

 信 徒 一〇戸
由緒・由来・伝説
 光明寺由来 慶安年間三ノ宮村字妙楽寺、妙楽寺三世梅翁意春公首座阿弥陀堂の傍に阿弥陀如来を祭祀するため堂宇を建立し、阿弥陀如来に囚み遍照山と号し光明寺と袮す。
 本尊は千手観世音菩薩にして、首座は光明寺の開基たり。又園部町大字小山徳雲寺三世朴堂桂淳大和尚を開山に勧請し徳雲寺の末寺となる。
 寛政三年当時前住哲悟透水大和尚伽藍を再建し、同暦六年法地に起立し本寺たる徳雲寺二十三世曹源哲了大和尚を法地開山に勧請し現在に至る。
阿弥陀如来由緒
 当寺に阿弥陀如来、脇立に不動明王、毘沙門天王の三尊仏を安置し祀る。この三尊佛は質志区の仏像にして口伝によれば、昔質志戸数七二戸の村落にして、隣邑に豊富の聞えありしも、或年不幸にして疫病に犯され、多数が死亡し、全滅同様の悲境に陥り、そのため戸数は余す所僅か十七戸に減少村民は大いに憂慮し、発願して阿弥陀堂を建立し、三尊仏を祀り、例祭七月十四日をもって村民は厳かに済戒沐浴し、一同堂宇に集い六斉念仏を唱え供養し讃歎し、存者のために福楽寿の無窮を祈り、亡者のために、離苦生安養の冥福を祈るところ信念浅からず、その功徳による広大なる霊験顕れ、漸次七十二戸に復元し、村民は大いに喜び、爾来此の三尊仏を氏神に次いでの守護神として信仰した。
 今尚七月十四日には部落年中行事に組まれ阿弥陀講が当寺で営まれている。
 阿弥陀堂は当寺境内北端に有った模様で、如来像は榧の大木をもって彫刻されたものという。
 阿弥陀堂の宗派、建立年月及何年頃堂がなくなり、当寺で祀るようになったのか又、仏像作者等総て不詳である。
 昔阿弥陀講には、南無阿弥陀仏と大珠数を繰り廻して、念仏を唱えたものだが現在では行われていない。
 その大珠数は現在も保管されている。
観音堂
 昔当寺参道入口横に観音堂が有ったという。現在も観音屋敷と言う人もあり之迄に台石が堀り出された事もある。堂が取り壊されたのは明治初年頃とのことで、三三体の観音仏像は観音講員各戸に分故祭祀せられている。
 当寺本堂横に「三界万靈」塔がある。この塔も観音堂境内に在ったものであるとか、この塔の下の土中には一石一字の法華経が埋めてあるとか古老の話を聞いている。
 質志村観音堂郡順礼第十三番の御詠歌牌が当寺にある。
行場
 当寺東方百米位の山麓に行場が有ったという十数坪位の平地がある。
 又境内地北端に池有り、昔水行を行づだ池だという古老の中には、子供の頃この池で体を清め行者参りをしたという人がある。
年間行事





《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


質志の主な歴史記録


『郷土史三ノ宮』
丹波質志鍾乳洞
 この鍾乳洞は、三ノ宮村字質志小字大崩三十一番地に標高四一〇米上に、洞口を東向に開いて存在している。
 発見 昭和二年(一九二七)十一月下旬、三ノ宮村字戸津川後藤與一郎氏が猟に出た際、犬の姿が見えなくなったので探しているうちこの洞口を発見したものである。
 この洞口は以前から小穴があった由にて、古えから伝説があった。即ち①往昔大崩山の山腹の風穴から鷄を入れたら、天田郡川合村の府社大原神社の末社水門神社附近の洞穴へ出て來た。②この風穴は大原神社迄続いている。③大崩山の水は何病にでもよく効く。④大崩山の水は如何なる大旱魃にも水量が減らない、等昔から言われて未だものである。
 鍾乳洞の大きさ等 洞内は五室に別れているが、発見当時は三室(三洞)に分れていた。第一洞は最初に発見された分で、昔から小さい穴があり小児がここへ石を落して遊んでいたこともあり、洞中最も広いものである。即ち全長二二・九五米で、高さ約六米、巾平均四米である。この洞には数多の見事な鍾乳石、石筍、石柱等が出来ていたが、現在では折損破壊せられて、漸くその一部を高所僻隅に残すのみとなっている。
 第二洞は、第一洞発見より稍々後れているが、一洞に続く部分で、前田孫太郎、井口亀吉両氏が、第一洞より探索中発見したもので、昭和三年(一九二八)二月二日の発見である。大きさは縦一二米、横一〇米、高さ二米である。第一洞から第二洞へ通ずる部分は、辛うじて通れる位のトンネルがあって第二洞に通じている。高さは低いが鍾乳石石筍の美しい点では第一洞に勝って居り、特に二児岩と名付けられている二個の石筍は非常に大きくて奇観を呈している。
 第三洞は、第二洞と同時同人によって発見されたもので第二洞の一隅に直径約五米、深さ約六十五米の井戸とも言うべき洞で発見当時は約三十米は縄梯子によって下り、余は歩いて降りる。底には粘土が約一・五米程積って居り周囲の壁には酸化鉄が折出して附着している。
 この鍾乳洞の壁には小孔があるも、その後これらについての探索は行われていない。三洞に入りて静かに聞くと水の流れる音がかすかに聞えているように思われる。探索すれば他にも洞があるのではないかと思われる。
 昭和三十四年(一九五九)頃大朴貞守一二郎氏が洞の下方五○米の山麓の水源出口附近から石を砕いて探索をしたが、洞は発見されなかった。
 発見当時は洞内の鍾乳石類の美観と珍らしさのため有名となり、数年間は地元民の観光誘致策によって、売店も三戸出来、乂観洞者のために上衣、ローソク等が用意されたため、多数の人が列をなし従って洞内外の施設もよく整備され、一日三〇〇人内外の観光客のある日も少くなかったが、四、五年目頃より次第に客足が減少したため、洞内の監視も行われなくなり、そのため鍾乳石を悪戯に破毀するもの續出して、今日ではその偉容を高位僻所に残すのみとなった。観客も現在では殆んどなく夏休み等に学生が時たま訪れる程度である。
 昔からの伝説もあり、探索すれば尚洞の発見が可能と思われるので、この探索を地元では希望している。


質志の伝説






質志の小字一覧


質志(しづし)
弥ノ谷(いやのたに) 大崩(おおくずれ) 欠戸(かけと) 桂(かつら) 観音(くわんおん) 里ノ内(さとのうち) 瀬戸本(せとのもと) 峠(とうげ) 鳥谷(とりだに) 縄手(なわて) 前田(まえだ) 若宮(わかみや)

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『船井郡誌』
その他たくさん



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