元伊勢
元伊勢(加佐郡分のみ) |
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お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから探索してください。超強力サーチエンジンをお試し下さい。 元伊勢と呼ばれてきた社は各地にあるが、丹後にも当然ながら多い、ここではまず加佐郡内のものを取り上げてみます。 このページの索引 伊勢神宮 伊去奈子嶽(=真名井山・比治山・足占山) 産屋(天田郡三和町大原) 大川神社(舞鶴市大川) 大原神社(天田郡三和町大原) 皇太神社(大江町内宮) 河守北遺跡と河守廃寺(大江町関) 坂根(姓) 高倉神社(綾部市高倉町) 天一社 豊宇加能売命 豊受大神 羽衣伝説(比治真奈井・奈具社) 天女伝説(余呉湖) 豊受太神社(大江町天田内) 元伊勢 八仙女の舞い(江華島の摩尼山頂) 真下飛泉歌碑(大江町関) 笶原神社(舞鶴市紺屋) 笶原神社棟札(慶長五年) 与佐宮 |
資料編の索引
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田邊郷には、もう一つ大切な社が鎮座してる。元伊勢ともされる、 とあるそうである。 〈 丹後州紳座郡田邊城外西嶺有笶原神宮焉、 豊受大神神幸之古跡而所謂爲眞名井原與佐宮三處之一而此嶺別有天香或藤岡之名焉、 崇神天皇即位世九壬戊歳使豊鋤入姫命遷天照太神草薙劔月夜見神于此地以奉齋一年三月矣然後鎭其、 御霊化又遷與謝九志渡島以奉齋此時始有與佐郡名焉夫當宮之有霊験者著于世也因記一二以示於後世社記曰、… 〉
〈 笶原神社 【考證】在野原村 【覈】矢原村ニマス 【明細】同 【豊】舞鶴町字神明山六月廿八日 【道】野原村 【式考】舞鶴ノ紺屋町神明社ヲ笶原神社ト舊神職ヨリ云出タルニ諸人之レヲ疑フ。僕之ヲ探考スルニ果シテ妄説ナリ斯クシテ笶原神社ハ野原村ニアルベク覚エ延喜式考異ニ案笶ノ俗矢字馴也正又有訓爲箆(竹冠に路)之箆、和名抄讃岐国香川郡笶原乃波良践祚大嘗式織神服具式作箆儀式作笶萬葉集仮名亦爲トミエタリサレバ笶原即チ野原ニシテ野原村ハ笶原村ナルベシサテ此村ニ社三ケ所アリ其内天神社ハ景境モ太古ク老樹今ニ森々タリ社ノ神體五柱マシ何レモ古ク千年以上ノ體トミ奉ル偖当社ニ一月一日(旧正月元旦也)栄柴(サカシバ)ト云フ神事アリ榊ヲ藁ニテタバネ稲ノ如クニシ群家各コレヲ持チ鷄明ニ参発シ柴ノ実ヲ入ト異口同音ニ唱フ殿内ニ祝一人礼服ヲ着シテ奉歌ス一抱苅テハ飯ノ山一抱苅テハ稲城ノ山三抱苅テハ酒造長柄杓テ汲テモ汲テモツキス長者萬束悦込(同音ニ噺)エイヤアエーヤーエーヤーア而シテ各彼ノ栄柴ヲ納メ柏手テ下参トアリ (【豊】は豊岡県式内神社取調書・【道】は丹後但馬神社道志留倍・【式考】は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志だそうである。) 〉
〈 田造郷。田造と号くる所以は、往昔、天孫の降臨の時に、豊宇気大神の教えに依って、天香語山命と天村雲命が伊去奈子嶽に天降った。天村雲命と天道姫命は共に豊宇気大神を祭り、新嘗しようとしたが、水がたちまち変わり神饌を炊ぐことができなかった。それで泥(ヒチ)の真名井と云う。ここで天道姫命が葦を抜いて豊宇気大神の心を占ったので葦占山と云う。ここに於て天道姫命は天香語山命に弓矢を授けて、その矢を三たび発つべし、矢の留る処は必ず清き地である、と述べた。天香語山命が矢を発つと、矢原山に到り、根が生え枝葉青々となった。それで其地を矢原(矢原訓屋布)と云う。それで其地に神籬を建てて豊宇気大神を遷し、始めて墾田を定めた。巽の方向三里ばかりに霊泉が湧出ている、天香語山命がその泉を潅ぎ〔虫食で読めないところ意味不明のところを飛ばす−引用者注〕その井を真名井と云う。亦その傍らに天吉葛が生え、その匏に真名井の水を盛り、神饌を調し、長く豊宇気大神を奉った。それで真名井原匏宮と称する。ここに於て、春秋、田を耕し、稲種を施し、四方に遍び、人々は豊になった。それで其地を田造と名づけた。(以下四行虫食)(原文漢文)
〈 尚、加佐郡の国造氏人は、籠名神社祝部氏系図に見える海部直千嶋、及び千足の弟千成の後裔と伝えられる。この氏は、近世、姓を坂根と改めたが、歴世相ついで、今尚存続して、同郡にある。 〉 従って、式内社・笶原神社は加佐郡の中心地で、郡衙に近く、かつ坂根・嵯峨根サンの分布する地であろう。 すべての資料はここ笶原神社を指す。坂根氏は現在は白糸浜神社(舞鶴市浜)の宮司であるが、元はこの笶原神社のご神職だそうで、海部氏とも名乗っていたようである。隣の桂林寺の寺領を寄進したと伝わる佐武ケ岳城の坂根修理亮、坂根氏はやはり元々このあたりの領主であったと思われる。 この時に再生した笶原神社は普通の村々の神社ではない。人民のイデオロギー面での支配と国家の安泰を祈願するための、新生した中央集権国家のための郡家と並ぶ、あるいはそれ以上のようやく分断したばかりのこの地の支配の拠点としての、国家による国家の国家のための笶原神社である。そうした国家使命を負った戦略的政治的神社である。式内社の笶原神社は加佐郡の心臓であった当地をおいてはない。人もめったには行かないような所に、大事な支配のくさびをなぜおいたりするだろう。私は政治は嫌いだが、もし当時の政治家なら当然ここに置くだろう。 大宝元年(701年)の丹波に三日続いた大地震があった。残欠に凡海郷が沈んだという記事がある。翌年に日本という国号が初めて使われている。その12年後に丹後国が生まれた。また同年には風土記言上の勅が出ている。笶原神社はその21年後に再出発している。残欠もだいたいこの時期の作成かと思われる。現在の日本国につながるような国の背骨が作られていった時代であった。 さて吉田東伍は、堀の地名はコホリ(郡衙)を意味しているとどこから書いていた。福知山市堀(一宮神社の鎮座地)や、城崎郡日高町堀(国府村役場があった)は、確かにそうである。笶原神社のすぐ下が堀上(堀之上。もしこれが古代地名ならばひょっとして郡の神だろうか)。池内の式内社・倭文神社のすぐ隣が堀である。この堀もあるいは郡衙のことかも知れない。 「坂根情報網」(全国の坂根の姓・地名を調べまくっています。この調べによると、丹後、特に野田川町が坂根姓の中心地のようです、率から言えば島根県)
式内社の笶原神社を野原に比定する書は『丹後旧事記』『神社旧辞録』『特選神名帳』もそうであるそうである。旧事記以外は私は見たことはない。 しかしこの吉佐宮というのがどこかわからない。そんな名の神社は、古記録には見られない。与謝郡のどこかにあったのだろうというくらいの推測しかできない。伝としてならばいろいろとたくさんある。
『元初の最高神と大和朝廷の元始』は、 〈 現在に於いて、否、江戸時代以降は、与謝郡と丹波郡(中郡)と加佐郡の三郡に亘って、同大神(豊受大神−引用者注)の故地といわれる処が存在していて、甚だ明解を欠くものがある… 〉 ここには竹野郡が落ちている。しかもそれらの郡内に於いてもまた何ケ所かの故地とする神社がある。 ではどこが本当の元伊勢か、と探すのはたぶん無益であろう。実際の話はどこだかわからないのである。わかるものなら、もうとっくの昔にわかっていただろう。 ざっと大筋を書いてみると、丹波郡が本来の豊受大神の故地であろう。ここから加佐郡の笶原山に移り、その後与謝郡に移動して、与謝郡から伊勢へ遷座したのだろうかと、現在に残る文献から見る限りは考えられると私は考えている。まあしかし私がそう考えるということであるし、事は文献通りとは何も限らない。 だからあるいは元伊勢は与謝郡であり、元元伊勢は加佐郡であり、元元元伊勢が丹波郡であるかも知れない。何も元伊勢は一社とも限らない。まあ要するに全部元伊勢である。ではさらに元元元元伊勢はどこだろうか。そんな事も考えながら、進めていこう。
さて難しい問題を考えなければならない。逸文風土記の比治の真奈井・奈具の社である。丹後風土記の伝承記事は長い。以下に引くものが日本最古の有名な羽衣伝説の全文である。 〈 比治の真奈井 奈具の社 (丹後の国の風土記に曰ふ) 丹後の国。 丹波の郡。 郡家の西北の隅の方に比治の里あり。 この里の比治の山の頂に井あり。その名を麻奈井と云ふ。今は既に沼と成れり。 この井に天つ女八人降り来て浴水む。時に老夫婦あり。その名を和奈佐老夫・和奈佐老婦と曰ふ。この老らこの井に至り、窃かに天つ女一人の衣と裳を取蔵しつ。即ち衣と裳あるは皆天に飛び上がり、ただ衣も裳もなき女娘一人留まりぬ。身を水に隠して独懐愧ぢ居り。 ここに老夫、天つ女に謂りて曰はく「吾に児なし、請はくは天つ女娘、汝、児とならむや」といふ。天つ女、答へて曰はく「妾独人間に留まりぬ。何か従はずあらむ。請はくは衣と裳を許したまへ」といふ。老夫、曰はく「天つ女娘、何にそ欺く心を存てる」といふ。天つ女、云はく「それ、天つ人の志は信を以ちてもととせり。何そ疑ひの心多くして衣と裳を許さざる」といふ。老夫、答へて曰はく「疑多く信なきは率土の常なり。故、この心を以ちて許さずあり」といひ遂に許せり。即ち相副ひて宅に往き、即ち相住むこと十余歳になりき。 ここに天つ女、善く酒を醸せり。一坏飲めば吉く万の病除かる。その一坏の直の財、車に積みて送れり。時にその家豊かにして土形も富みき。故、土形の里と云ふ。これ中間より今時に至るまで便ち比治の里と云へり。 後に老夫婦ら、天つ女に謂りて曰はく「汝は吾が児に非ず、暫く借りて住めり。宜早く出で去きね」といふ。ここに天つ女、天を仰ぎて哭慟き、地に俯して哀吟き、即ち老夫らに謂りて曰はく「妾は私意を以ちて来れるには非らじ。こは老夫らが願へるなり。何にそ厭悪の心を発し忽に出去之痛あらむ」といふ。老夫、増発瞋りて去くことを願ふ。 天つ女涙を流し微門の外に退きぬ。郷人に謂りて曰はく「久しく人間に沈みしに天にえ還らず。また親もなき故、由る所知らず。吾や何哉、何哉」といふ。涙を拭ひて嗟歎き、天を仰ぎて歌ひて曰ふ、 天の原 振り放け見れば 霞立ち 家路惑ひて 行方知らずも 遂に退り去きて荒塩の村に至りぬ。即ち村人らに謂りて云はく「老夫老婦の意を思ふに、我が心は荒塩に異なることなし」といふ。仍ち比治の里なる荒塩の村と云ふ。また丹波の里なる哭木の村に至り、槻の木に拠りて哭きき。故、哭木の村と云ふ。 また竹野の郡船木の里なる奈具の村に至りぬ。即ち村人らに謂りて云はく「此処に我が心なぐしく成りぬ。古事に平けく善きことを奈具志と曰ふ」といふ。乃ちこの村に留まりつ。こは謂ゆる竹野の郡の奈具の社に坐す豊宇加能売の命そ。(原漢文)(よみは小学館版の『風土記』によるもの) 〉 このように風土記に記録されるが、この クイズを出すわけではないが、右の写真はどこだろう。おわかり頂けるだろうか。 〈 伊香小江 古老伝曰。近江国伊香郡与胡郷伊香小江、在郷南也。天之八女、倶為白鳥自天而降。浴於江之南津。于時、伊香刀美、在於西山。遥見白鳥、其形奇異。因疑若是神人乎。往見之、実是神人也。於是伊香刀美、即生感愛、不得還去。窃遣白犬盗劇取天衣。得隠弟衣。天女乃知、其兄七人、飛昇天上。其弟一人、不得飛去、天路永塞。即為地民。天女浴浦、今謂神浦是也。伊香刀美、与天女弟女共為室家、居於此処、遂生男女。男二女二。兄名意美志留、弟名那志等美。女名伊是理比@、次名奈是理比売。此伊香連等之先祖是也。母即捜取天羽衣、着而昇天。伊香刀美、独守空床、?詠不断。 〉 訳するのがヘタなので、「余呉湖に伝わる羽衣伝説」を見て下さい。 「余呉湖 菅山寺」(新羅の森と天日槍を祀る神社) 「余呉の天女」(湖畔の白木の森と新羅崎神社) 「天女伝説の謎」(新羅崎神社跡や 「鉛練比古神社」(余呉湖のすぐ北の中之郷には式内社・鉛練比古神社があり、天日槍を祀る)。 上記それぞれのHPが伝えるように、余呉湖の羽衣伝説は新羅の王子・天日槍がもたらしたものといわれる。 恐らく丹後比治山の天女伝説もそうであったろうし、真名井といった泉名もまた天日槍であろうか。丹後一の神・豊受大神もまた天日槍の祀る神であったろう。ケすなわち食糧の神、農耕の神、酒の神であり、鉄の山へ降りているので、鉄の神でもあったろう。 『丹後路の史跡めぐり』(梅本政幸・昭47)は、 〈 五穀の神と知られ、伊勢の外宮に祀られている豊受大神などは大陸よりの帰化人らしく思われ、新羅より帰化した天日槍族などは、但馬から熊野‐竹野地方に大きな勢力を張っていた。 〉 と、昭和47年というからかなり早くから指摘する人もあった。 比治山には別名が多くあり、 ヒジやアシウラはクシフル系の地名である。磯砂は砂鉄の事であろうか、しかしそんな呼び名は聞いたことがない。たぶんこれは次のようなことと考える。舞鶴の「笶原魚居匏宮」の魚居はマナイと読むが、イサナコとも読める、読めないこともない。マナ井→ 磯砂山は峰山町五箇の真言宗の古刹・笛原寺の山号であるが、この寺は古い、ずいぶんと古くからこのように呼ばれていたと思われる。笛原の地は丹波与謝郡となっている。まだ郡はなかったと思えるが、丹波郡ではなく、与謝郡となっている。 残欠に伊去奈子嶽とあり、すでに風土記以前からの山名である、そんな時代から読み替えが行われていたと考えられる。 『元初の最高神と大和朝廷の元始』(海部穀定著)は、 伊去奈子の名称の起源に就いては、これを説く文献としては現在遺存してはいないのである。 として、 『元初の最高神と大和朝廷の元始』(海部穀定著)は奈具社と哭木里も伊去奈子嶽の語尾であり、同じ伊奘諾命のことと考えておられる。 魚居はナコとも読める。というかその方が正しい読み方であるが、竹野郡奈具社(弥栄町船木の式内社奈具神社)のナグと哭木村(峰山町内記、内木。式内社名木神社が鎮座するから、ナキギではなくナキが本来の呼び名であろうか)も案外にこんなことかも知れない。魚居をナコと読み、それが転訛してものと考えられる。どちらもマナ井のことであろう。 哭木里・奈具社(逸文風土記)、伊去奈子嶽(残欠)といずれも風土記の時代の呼び名である。奈良時代には、そのようにマナ井は呼び替えられて久しく、すでにそのことは忘れられていたのだろうか。言い出した当人にも信じられないような話である。 そんな話は信じられないとすれば、 〈 京都府竹野郡弥栄町船木に、奈具神社があり、「奈具」は「佐奈具」の「佐」の脱落と思われる。そこが「船木」の地であることはおもしろい。 〉 誠に面白い話である。しかし船木がミソかも知れない。もしこの説のように佐那具の具が脱落したのでなければ、フナキのフが脱落した可能性も考えられる。フナキ神社→ナキ・ナク神社である。平城宮出土木簡に「丹後国竹野郡舟木郷…」とあるのはここだろうとされる。『和名抄』にはないが、一つの郷があったかも知れない。これがまたワキともなったかも知れない。宮津市由良の脇という地区は加佐郡式内社の奈具神社を祀る。 一般にはフナキとは船を作る木だろうと言われているが、氏族名の可能性がある。羽衣伝説は船木氏の伝説かも知れなくなる。フナキの地名は全国にかなり多い。伊勢の船木直は多氏などの同族である。前出の『古代の鉄と神々』は、 〈 遠祖は大田田命・神田田命というタタラに発祥する名. 〉 としている。『古事記』も引いておく。 〈 神八井耳命は、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫の三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余国造、科野国造、道奥の石城国造、常道の仲国造、長狭国造、伊勢の船木直、尾張の丹羽臣、島田臣等の祖 〉 誠に面白い問題を持っていて、簡単には話が進まない。どこかで再度とり上げてみたいと思う。 さてつまらぬ話をもう一つ。なぜ八人なのだろうか。天女伝説は各地に伝わるが、古いものは八人のようである。本来は八人だったのだろう。高松塚古墳壁画も八人である。
伊勢の外宮の神はどこから遷ってきたものなのか、これを伝える資料はそう古いものはない。『倭姫命世紀』が古いのだが、鎌倉初期の成立だろうとされている。それには、但波乃吉佐宮、とある。あるいは丹後乃吉佐宮(『豊受皇大神御鎮座本紀』)と伝えられる。丹波にも丹後にも吉佐神社というものはない。
笶原神社に残る慶長五年の棟札の全文は次の通り。白文である。私にはよく読めないので、そのまま揚げておく(『加佐郡誌』より)。 (笶原神社の棟札) 丹後州紳座郡田邊城外西嶺有笶原神宮焉、豊受大神神幸之古跡而所謂爲眞名井原與佐宮三處之一而此嶺別有天香或藤岡之名焉、崇神天皇即位世九壬戊歳使豊鋤入姫命遷天照太神草薙劔月夜見神于此地以奉齋一年三月矣然後鎭其、御霊化又遷與謝九志渡島以奉齋此時始有與佐郡名焉夫當宮之有霊験者著于世也因記一二以示於後世社記曰、文武天皇慶運三丙午歳夏久旱魃不降一露尋有災火而山悉焚爲之萬民無所置手足也於是、勅阿部朝臣眞君副使中臣朝臣人足等被進種々神宝幣帛於当宮雷聲忽応而火災自滅矣、高岳親王詣当宮依神詫建清光殿于宮地遂奉戒言以自愼矣、花山帝患無子被祈於當宮即有感応而、清仁親王生、後醍醐天皇所於當宮被免蝮蛇之患、邦高親王亦祈此神御脳忽平癒此以下世蒙、神明之威徳者不可勝数、歴帝崇此紳之徳数進幣帛被修理賓殿雖然星移物代而雨露疵其?清宮既古矣于時慶長五年秋八月石田三成方人小野木重勝方囲當城之時父藤孝詠一首歌以奉于此、神而後爲籠城矣歌云、天照神之御坐郡奈禮婆荒振毛能乎屋良比賜邊庸既有感応而、太神夢中以長歌詫、智仁親王親王輒奏之、天子、天子大驚直乃、勅烏九岩廣卿西三條實條卿加茂松下大宮司等下、綸命於小野木因之小野木等速解囲退是故父出戦苦得小治一國也是非我徳也正、神明之妙助也益尊敬、其神徳自奉幣帛愼配吾姓祖、清和天皇之霊爲寄附神領九町七段百九十歩者也又其宮地山林自西馬谷之尾崎接圓隆寺之境南至桂林寺之境分地各正而寄附者如先規茲新営治、宝殿命神主海部真正之令祷當城鎭護國家安全五穀成就武運長久府惟、神明霊徳尚紳愍敬白慶長五年庚子冬十一月十四日 再建願主當國城主 細川越中守忠興謹誌 この神社も元伊勢であると主張している。元伊勢三箇所の一であるという。(三を二とする書もあるが、どちらが本当かは現物に当たるより手がない。文化財の指定もないようだが、今も現物はあるのであろうか。はっきりと申し上げて、こうした地元に伝わる資料を大切にしないで、どこぞの偉いのかも知れない大先生が申されたようなことの方を信用しているようなことでは、地方の歴史家と呼べるようなものではない。中央亜流の三流以下の田舎歴史家である。ああいやだ所詮はド田舎者の男だのうと陰口をたたかれよう。ウソでもいいからまずは大事にしてはどうか。『加佐郡誌』『与謝郡誌』のほうがまだしもましな根性をしている。)
現在丹後で元伊勢と言えば、宮津市の丹後一宮・籠神社か、ここ大江町の大江山麓の内宮・外宮を呼ぶ。そのほかは一般には元伊勢では通らない。 〈 皇大神社は、内宮の宮山に鎮座、正面に本殿、両側に脇宮二社が祀られる。本殿の祭神は天照大神、脇宮の祭神は、左殿が天手力雄命、右殿が栲機千々姫命である。そして境内の周囲に末社八四社の小祠が並ぶ。本殿と脇宮の間に龍灯の杉と呼ぶ古木がある。本殿から一段下ったところに鳥居がある。この鳥居は黒木の鳥居である。黒木の鳥居は京都嵯峨野の野々宮神社に建てられているが、他には例がないものである。神楽殿の前から、龍灯の杉をはじめとする大木と背後の自然林に覆われた社域は、神さびて古来から大社であったことを物語っている。 由緒については、崇神天皇のとき、天照大神の御神体である神鏡を、大和国笠縫邑よりここへ遷し、四年間奉斎した但馬乃吉佐宮の旧跡であるといわれ、「丹後旧語集」にも、「天照大神自此所崇神天皇御宇遷大和国、自夫今ノ伊勢国高間原遷宮奉成」とある。当社の神社明細帳には、崇神天皇の御代天照大神が大和国笠縫の里から当国吉佐宮へ遷幸の途中、この地にしばらく鎮座した。のち伊勢に鎮座したため、ここを元大神宮と称するようになったとある。一方、「宮津府志」には、「鎮座年暦未詳一説云用明帝時麻呂子親王之所二勧請一也 神社啓蒙等以三河森外宮一爲二吉佐宮一而謂下今祠二内宮一者近代之俗上也者却似 誤也」と麻呂子親王が鬼退治の祈願のため建立したと記し、近代の地誌書「丹後風土記」も同趣旨の縁起をのせる。社殿の造営は、式年六十一年目甲子の年にされてきたが明暦二年(一六五六)四月の年紀をもつ棟札が残り、宮津藩主京極高国による神楽社、御供所、斎蔵などの修造が知られる。 〉 |
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江戸期にはたいへん人気のある神社であったと言う、参道の石段の敷石がよくすり減っている、一体何人がこの石をふんだのだろう、内宮も外宮もその麓にたくさんの宿屋を今に残している、ローマは一日にしてならず、一朝一夕にこれだけの参詣者が訪れる大観光地になれたりは絶対にしない。 〈 …河守の内外宮を元伊勢と僭称するのも困ったものである、…府中の元伊勢考証は種々あるも、河守の分には僭称に基く以外の文献を知り得ぬ。… 〉 彼も僭称と決めつける。しかし古文献に記載がないからといっても、元伊勢ではないとは限らないし、仮に記載があったとしてもそのまま信じられるというものでもない、権力側が勝手に記録したものであり、見落としということもよくある。鬼どもの社など記録できるかと意図して書かなかったかも知れない。そうした差別観念がなかったとも言えない、だいたい古い大きな社寺にはたいていそうした被差別集団があるものではあるという、本当の信仰というものはそうした中から「阿片として」産まれ発展してくるのかも知れない。 〈 さなじんじゃ 佐那神社〈多気町〉 (三重県)多気郡多気町仁田にある神社。祭神は天手力雄命ほか26柱。「古事記_」に「佐那県」、「太神宮本記」に「手力男神佐那県に坐す」とあり、地名と関係づけ考えられているが詳細は不明。延喜式内社に比定され、享保9年領主により佐那神社の石標が建てられた。大森社とも称し(度会延経:神名帳考証)、仁田・五桂両村の産土神で中ノ宮とも称した(伊勢式内神社検録)。 明治4年村社に列格、同39年神饌幣帛料供進社に指定、同41年西山・五佐奈・四神田・油夫・仁田・五桂・前村・神坂・長谷・平谷の諸社を合併。昭和18年県社に昇格。例祭は10月8日。かつてはムラの広場で、天鈿女踊りと称する手踊りが行われていた。 〉 この地が水銀の産地であることは、先の「幸谷神社」の所で見たとおりであるが、またサナはじめサヌ・サニ・シノ・シナなどは鉄の古名でもあるという(「古代の鉄と神々」)。 〈 200〜300m歩くと、日浦ケ嶽遥拝所につきます。真っ正面のピラミッド型の山が日浦ケ嶽。古来、内宮の神体山として、一願成就(じょうじゅ)の山として信仰を集めてきました。 山頂には大きな磐座(いわくら=社のなかった頃の神のよりしろ)と、石を規則的に並べた謎の造型物があります。夏至の日、この遥拝所から眺めると、夕陽がとがった山頂に沈みます。神秘の光景です。みなさんも是非、欲張らずに「一願」を祈って下さい。必ず成就することでしょう。 〉
〈 祭神は櫛岩窓戸命、豊岩窓戸命、大宮売命、八意思兼命という。二瀬川が深い峡谷をつくる辺り、東岸の岩壁にはりつくように鎮座し、対岸の「日うらが岳」に向かう。本殿裏側へ廻るとすぐ目の前に川をふさぐ形で巨岩がある。岩の上部は平らになっており、この上に神が坐して天下ったといわれ御坐石という。本殿左手の川の中に神楽岩と呼ばれる岩があり、川はここで岩壁につき当り大きく方向を変える。社務所から見下すあたりの岩に数個のくぼみがある。神が湯浴みをしたところだいって「産だらい」と呼んでいる。古くからここを濁すと大荒れになるといわれ、日照りの時には、かき廻して雨乞いをしたという。一説には、この天の岩戸神社は、如来院の鎮守として祀られ如来院の住職が代々別当として当社を管理したといわれる。 〉
現在も、初詣などは大変な参拝者である。舞鶴からだと、河守の関のあたりから車がびっしり並んでいて、先に進まない。 真下飛泉の「ここはお国を何百里…」の「戦友」の歌碑のところで、飛泉は非戦なのかな否戦なのか避戦かな、批戦、疲戦、悲戦…。誰もそんな事を言った者はなかったな、などと考え、私はこの神社が大好きなのだが、こんなに多いのなら、さてもう帰ろうかなどと毎年思う。 鬼伝説もいいが、非戦もしっかり受け継いでもらいたいと願う。飛泉ならずとも植民地のぶんどり合いの帝国主義戦争にかり出されるのは、まっぴらごめん、いかなる協力もごめんである。 先の23号台風のヘドロでこの碑の辺りも埋まったままである。すぐ左側を宮川(五十鈴川)が流れているが、それが溢れた。 もう半年も過ぎるが10センチ以上は積もっている。天気のいい日ならまだいいが、雨の日なら大変なことになるだろう。 飛泉は大江町河守の出身、彼の弟さんは舞鶴におられて郷土史研究などに貢献された。 「ここはお国を何百里…」 「戦友」 「戦友」 「真下飛泉」
上の写真の右側の道路は大江町から大江山越えで宮津市に抜ける普甲峠越えの府道(綾部大江宮津線)である。右の車とは反対を向いて走れば内宮や外宮につく。
写真は北から南を見ている。突き当たりが国道175号線で、右へ行けば福知山、左へ行けば舞鶴になる。回らずにまっすぐに行けば(車では行けないかも知れないが)遺跡がある。国道からもよく見える。河守北遺跡といい、古墳期の住居跡と布目瓦が出土した。下は『両丹日日新聞』の04.10.7の記事(現在はweb上にあるが、なくなるかも知れないのでコピーさせてもらった(写真も)。「両丹日日新聞」10月7日のニュース)、 竪穴式住居跡2棟確認 大江町教委が河守北遺跡の調査で 〈 大江町教委は6日、河守・関地区で発掘調査を進めていた河守北遺跡から、約1400年前の古墳時代後期のものと見られる竪穴式住居跡2棟と土器などが見つかった−と発表した。 河守土地区画整理事業に伴い、7月から事前調査をしていた。調査対象は、町の中心地を走る国道175号沿いの約500平方m。 調査の結果、1辺が約5m四方と6・5m四方の竪穴式住居跡が確認された。過去2回の試掘で古墳時代後期から平安時代初期にかけた土器が出土し、複合遺跡があることは分かっていたが、古代住居跡が見つかったのは同地区では初めて。 このほか、かまど跡と見られる焼土塊や床底から甕(かめ)、住居の周囲にめぐらす浅い溝、須恵器や土師器の破片が多数見つかった。さらに7世紀後半から8世紀のものと見られる布目瓦の破片が出土した。 調査に当たった町教委の松本学博さんは「河守地区で住居跡を初めて確認でき、周辺に集落が広がっていた可能性も考えられる。布目瓦は後に瓦を使用した寺か何か公共施設が周辺に存在したことを示すもので、今後の調査でその実体に迫ることが出来るのでは」と期待していた。 〉 布目瓦が出土する遺跡は加佐郡ではここしかない(和江でも出ているようであるが)。丹後でも丹後国分寺より古いといわれる奈良期の俵野廃寺(網野町)、丹後国府の地といわれる岩滝町男山あたりでしか出土がないのではなかろうか。上流の福知山では和久寺廃寺や多保市廃寺が、綾部なら綾中廃寺、氷上郡市島町上田の三ツ塚廃寺、東西一直線に東塔・金堂・西塔が並ぶというが、これらくらいしかない。布目瓦というのは、『瓦の辞典』(web上)に、 〈 布目瓦(ぬのめがわら) 平安時代までの瓦には、裏側に布の目がついている。これは木型から粘土を剥し易くするために、木型との間に布を挟んだからである。こうした瓦は布目瓦と呼ばれている。室町時代に入ると布目瓦はしだいになくなっていった。明人の一観が布の代わりに雲母粉(きらこ)を使う方法をもたらしたからである 〉 7世紀後半から8世紀は飛鳥〜奈良時代である。河守に(他の名を挙げた廃寺もいずれもそうである)そんな途方もない時代に瓦を乗せた寺院か官衙があったいう文献記録や伝承は何もない。丹後指折りの超先進地域だったようである、豊かな経済の基盤は金属生産であろうか、いずれもそんな地名の場所である。この瓦は寺院だろうと考えられているようで、「河守廃寺」と呼ばれるそうである。河守廃寺のすぐ近くには丹後国府か加佐郡家があったかも知れない。対岸から韓竈が出土している、時代が少し異なるが、あるいは高い文化をもった金属か河川管理の渡来人の集落があったのかも知れない。 これだから古代史というのは人気があるのだろう。一枚の瓦の破片の出土でそれまでの通説がひっくりかえる。 これで大江町の内宮も外宮も胸を張り大きな顔で大きな声で、「ここが元伊勢だ!」といえよう。特に外宮は大きな大きな顔をしてよいだろう。吉田東伍も河守太神宮(豊受大神社=天田内の外宮)を「古の外宮の(广に寺)たるを想う」としている。ここが伊勢外宮の跡地なのではと想像している、やはりすごい人だ、現在もこの書の価値は失われない。舟岡山という低い丘陵の頂上に鎮座するが、そこは東平という所である、舟は丹に通じるしタイラは何かタタラを想わせる、そしてここには大入道の一目小僧がいたと伝説はいう。丹と鉄が関係する地かも知れない。河守と地名もたぶんこの社から出たものと思われる、たぶん本当は籠守太神宮と書くと私は考えている。カグすなわち銅山を守護する神社であった。籠をなぜコと読むか、それは知らないが、丹後一宮だってカゴ(籠)神社と書いてコの神社と読んでいるから、そうとも読んだのだろうとしか言えない。あるいは本当は高守、あるいは高森神社と書いてカグモリと読んでいたかも知れない、それがコーモリとなった。似た例は大宮町五十河のあたりにあるので、こちらが正解かも知れない。 東吾のマネするのではないが、こちらが私も気になる。府下最大の鉱山で人口1000名を数えた河守鉱山の主な産出鉱石は黄銅鉱であったそうである。まさに籠守太神宮がピッタリである。 なかなかここまで書く時間がありませんので、とりあえずこれを読んで下さい。 「丹後の伝説3」の外宮の大入道。 このあたりも丹後ではあるが、丹後というよりもどちらかと言えば丹波に近い所である。丹波の隣の福知山市と合併ときまったそうだが、現在はそうであるし、過去に於いてもそうであったかも知れない、加佐郡全体がどことなくそんな感じのある、丹後といっても何とはなく半端な所である。 京都府加佐郡大江町は平成18年1月1日に福知山市と合併した。京都府天田郡三和町・京都府天田郡夜久野町も同日に福知山市に合併した。
大江山の鬼は有名な話で知らぬ人はないであろう、鬼共多く籠り居て、都に出ては人を喰ひ、金や宝を盗み行く、と歌われる。時の権力から見ると、あたかもそのように写ったということで、ブッシュから見ればイラク人はあたかもオニのように見えるということである。本当に人を喰ひ、財宝を盗んだのはどっちだかは知れたものではない。わざわざ大して人も住まない山里へ、そこに住む村人の「平和と民主主義のために」大金と人命をつぎ込んで討伐軍を派遣したりするであろうか。他の政策と勘案してそんなに慈悲深い権力者だったであろうか。そんな愚にも付かぬ話は鬼どもでなくとも大笑いしそうな話である。 〈 鉱山師がよく言うところだが、山中に社寺があれば、付近にはかならず鉱脈があるという。これはかなり昔から言われていることらしい。 〉 これはこの社の氏子は鬼の子孫ですよと云っているようなものである。こんなことは関係の書籍には書かれていないので不明にも今まで知らなかったのであるが、新聞を読んでいて見つけた。『京都新聞』(2006.1.29)に、(写真も) 〈 気合い入れ鬼の衣裳合わせ・福知山・大原神社・節分を控え 節分の豆まきで「鬼は内、福は外」と一風変わった掛け声をする福知山市三和町の大原神社(林秀俊宮司)で二十八日、節分の日に鬼に扮する氏子が衣装合わせをして、本番に備えた。 神社では節分の日の二月三日夜、林宮司や参拝客が神社境内に集まり、前夜に約七十世帯を回って厄を受け取った鬼を、「鬼は内、福は外」と豆をぶつけながら本殿に招き入れ、一年の健康を祈る。この日は、鬼役を務める大槻兄市さん(六〇)ら氏子の男性四人が赤と青に染めた長袖、長ズボン、虎柄のパンツを着けて、サイズを確認。パーマをあてた現代風のかつらでおしゃれに決める鬼もいた。鬼たちは本殿前で、竹棒を地面にたたきつけて「鬼が来たぞ!」と叫び、本番に向けて早速、気合を入れていた。 〉 大原神社についは詳しくは「丹後の伝説」に引いておくので、そちらも見て下さい。 〈 *赤鬼・青鬼*民家訪れ厄払う*大原神社一帯で* 地元の住民がふんした赤鬼と青鬼が民家を訪れ、家庭の厄を払う「鬼迎え」が二日夜、福知山市三和町大原の大原神社一帯で行われた。子どもたちは鬼の訪問にびっくり。大人は家庭内の鬼を引き取ってもらえるとあって、酒を振る舞って歓迎した。 大原神社の追儺式は「鬼は内、福は外」と逆さにいうしきたり。かつてこの地域が綾部九鬼藩の領地だった配慮とされ、本殿へ追いやられた鬼は神様により改心する。十年前に、地元の「大原話し合いの会」が各家の鬼を迎える行事を始めた。 全身を赤鬼と青鬼の衣装にまとった男たち六人は各戸を訪問。「悪い鬼はおらんか」と呼びかけ、おじけづく子どもの頭をなでた。果敢に豆をぶつける子どももいた。鬼はにぎやかに計七十戸を巡り、五色豆を渡して回った。 〉 九鬼氏に遠慮したというのは、近世的な藩お抱えの藩学者先生の城下町史観ではなかろうか。九鬼領にはいくつも神社があり、多くの領民が生活している。もっとほかにも「鬼は内」があってもいいと思われるが、ここしか聞かない。「この社の鬼は内」は九鬼氏とは関係がないと思われる。鬼の子孫だろうなどといえばあるいは怒りだす人もいるかも知れない。ワシは鬼ではないと。そうした配慮かも知れないが、しかしクシフル地名や元伊勢がそうした所ならば、天皇さんも海部さんも鬼(鍜冶王)の子孫ではないのかという疑問は出てくる。勝ち組の鬼なのでなかろうか。あるいは負け組を鬼と呼び、勝ち組は神様と呼んでいるのではなかろうか。もともとは同じ物が二つに分裂した。神と悪魔に。悪魔がなければ神もない。現代でいえばアメリカとテロの関係のようなものかも知れない。テロとテロ対策の関係かも知れない。互いに依存しあい、もたれ合っている。もうどちらがどうなのかその区別もつかないほど両者はよく似ている。 〈 伊勢で天目一箇神を祀ると考えられるものに鈴鹿郡の天一鍬田(あめのひとくわた)神社と呼ばれる式内社がある。荘内村大字原(現在関町)にあり、俗に天一鍬田八島大明神と称して、イザナギノミコトを祭神とするが、伴信友の『神名帳考証』および『地名辞書』には天一とは天目一箇命であろうかと推定している。 〉 同書は他の所でも兵庫県佐用郡の徳久村の天一神社も天目一箇神を祀り、徳島県山川町の天一神社も天目一箇神を祀るなどと紹介されている。どうやら天一社とは片目の産鉄神である、天目一箇神を祭神としていると思われるのである。天目一箇神の略なのではなかろうか。 〈 近年まで産小屋が各地にあり、縄間・常宮・沓・色浜・浦底・立石・白木の七棟が現存する。このうち白木は現在も使用されているが、他のものも昭和三〇年代頃まで使われていた。色浜の産小屋は同五〇年県有形民俗文化財に指定された。ちなみに県内ではかなり広い地域で出産見舞をコヤミマイ、出産後一週間目をコヤアガリという語が今もなお使われている。こうしたことから、本県では広範囲に産小屋があったことが推測される。 〉 水上勉氏の『若狭路』(昭43・淡交社)は、 〈 …私も、三年ほど前の秋の一日に、気比から二村、繩間、沓、手の浦、色の浜、立石、白木と岬をぐるりと廻った。どの村も千枚田を耕す貧しい孤村なのに魅かれた。産小舎をみたのもこの時である、村の女が、お産をする際に使う小舎で、奥小屋、口小屋の二つにわかれていて、天井の梁に一本の綱がたれていた。力綱であった。床には白砂利が敷かれ、寒々してみえた。使う時に、砂の上はむしろを敷くそうだが、お産を不浄とみたのであろうか。どの家も、自家で産むことはゆるさず、妊婦は産み月がくると、身廻品をつつんでみなこの小舎へきた。奇習というより、若狭独特の仏教的な雰囲気を感じさせる暗い世界である。波さわぐ産小舎で、力綱にすがって女がひとりで子を産むのである。 私も若狭の子だが、立石の部落に似た同じような所に生まれた。産小舎はなかったけれど、納戸の隅で、産婆もよばず、母は祖母に手つだってもらって、私を産んだと今日も語るのである。 〉 「何もせんでも月40万ほどにはなる。それに交通費や経費は実費支給。議会に顔を出すだけ昼寝していても手当もつく。二重三重に歳費はもらえる。一期やったら市議はやめられまへん言うてな。議員自身がそう言うとる。定員プラス2名ほどしか立候補がないでな。何か組織が一つあったらもう当選確実や。小さな町で年々人口は減っていくのに、そんな事でどこそこ推薦の何もせん役にもクソにも立たん議員だけはやたらに多い。人口当たりでみると亀岡の3倍やそうや。こんなんは削減するなどというたら一番反対しよるしな。」これは隣町市民の話。どこまで本当かは知らないがそうならばまことに結構な商売のようである。こんな天上の商売がほかにあるだろうか。フィリピン女性を妻にした知り合いは実家はこの町であるが「親類に市議をしている者がおるんやがな、それがお前は土人と結婚しやがった言うんやで、土人とは何という言いぐさや。市会議員が言うようなことか」と怒っていた。市議にしてもそのほかの議員にしても3人ほどにしておけばいいだろう。高い税金を無能無力な者にムダにはらうのは御免だ。もし足りなければほかはボランティアでやってもらえ。アメリカは本当に3〜5人ほどだという。議員が多くいれば行政に民意が反映されると考えるのは単純なロマンティシズムである。まず本当に行政の援助、そこまで行かなくとも行政の目が必要な市民層、市民問題、たえず新たに産み出され、いろいろな分野で拡大し続けているのであるが、これを代弁するような団体や組織というものはない、もしあってもそれは小さなもので、まだ市議会議員を送り出せるほどの力はない。既存の議員を送り出せるほどの組織団体は大きなもので、そこそこの地位にある市民が成員で、もはや己が地位にあぐらをかいているもので、己以下や己以外の市民については感心がないかむしろ敵対的でさえあるし、こうした社会の変化についていけるほどの小回りがきかない、もう古くてそうした新しい自分以外の市民が抱えた問題に対処できるほどの感覚も能力ももたない。さらにこうした大団体が議員を推薦する推薦基準はまずないし、あってもいいかげんなもので、市民のために働く人を推薦するということにはなってはいない。そんなチェックもない。そんなものが推薦するような指定席議員をいくら抱えていても税金の無駄遣い以外にはならない。アメリカ議会の10倍も議員がいるがそれなら10倍民意が反映されているだろうか。10倍の無駄遣いをしているだけではなかろうか。議員も職員も10分の1に!極端な話ではあるが、当然出てくる方向であろうかと思う。民意を反映させるためには議員といった頼りないクッションをおかずに、直接に住民投票で早い内に早い内に問えばいいだろう。真剣に耳を傾ける気持ちで問うことである。「いきなり新駅廃止などと言われても承伏できない。その方がもっと無駄遣いだ」などと言わねばならなくなる。「いきなり、突然に」といったことはあろうはずもない。うかつにも片方の声しか聞いてこななかったという片手落ち欠陥官僚の寝言である。私のようにたまにしか滋賀県に行かない人間でもそう思った。もういいかげんにしとけよ、滋賀県よ。もう開発はよいぞと。 もっとも税金の無駄遣いはこれ以外にももっともっともっとあってこの分野は相対的には小さい方であるかも知れない。しかしこうしたムダ人間が、己が存在価値のためだけに民意とは関係のない大無駄遣いをするのである。まずは大本を断つ。税金の無駄遣いの元は無駄な人間にある。現代人は税金である公金でメシを喰うのは恥ずかしいという感覚がない。公のために働いていますが、一銭ももらってはいませんで、こうした市民で運営されなければ、本当は自治体がよくなるはずはない。1000兆円にもなる赤字、消費税を100パーセントにひきあげてもなくなることはない。増税分もすべてムダに使われるだけであろう。さらに2000兆円に3000兆円に、…どんどん膨らむことであろう。仕組みを変えなければならない。 出生率1.1なにがし、大金持ち国家であるはずの「小さな政府」を理想とする現代社会がふりかっえて見るべき過去かも知れない。現代の民俗学はその理解を「忌み」ばかりに集中しているが、そんなことで村が出産を管理したりするだろうか。これはたぶん原始共同体時代の遺制であろうと考える、たぶんといったものでなく絶対にそうであろう。家父長時代にまではなんとか生き残り、資本主義の個人がバラバラにされ身近な共同体がまったく消え、金万能の「小さな政府」時代には人類何万年の伝統民俗はとうとう消滅した、しかし資本主義を越えた将来にはまた復元するだろうと、考えてみるがさていかかであろうか。『世界大百科事典』は次のようにしている、 〈 産屋(うぶや) 出産をする部屋や施設。特別に産小屋を設けるものと自宅で出産するものとの二つがある。産小屋はデベヤ、タヤ、ヒマヤ、カリヤなどとよばれ、月経小屋を兼ねているものもある。いずれも産の忌により、家の火をけがすのをおそれて、別火の生活をするものであった。記紀にみられる豊玉姫の出産のように、古くは出産のための仮小屋を村はずれや山中、海辺などに臨時に建てて、産がすめば燃やすかこわすかするものであった。明治半ばころまでは、村共同の産小屋を設け、産婦が産の忌の間(21〜75日)ここにこもる風が、志摩半島、敦賀半島、若狭湾沿岸、瀬戸内海沿岸、伊豆諸島などに見られ、敦賀半島では1964年ころまで使われていたものもある。自宅で出産する場合には、ニワ(土間)やゲヤ(下屋)を産屋とした。忌の観念がうすれていくとともに、母屋の中の比較的隔離されたナンドなどの寝室で出産をするようになり、この風は1955年ころまで全国の農山漁村で行われた。神事の忌の厳重な所ほど産小屋が使われ、神事で頭屋(とうや)などの神役につく家では出産があれば役を辞退したり、産婦を家から他へ移し、祭りの際は産婦を神社から離れた所に移した。また、自宅の炉辺で出産したり盛んに火を焚いて出産する所もある。 大藤 ゆき 産屋を通常の住居とは別に設ける習慣は世界の各地に見られる。この習俗は居住空間が狭い場合には妊産婦と新生児の安静や生活の便宜のためだと考えられなくはないが、むしろ、出産というものが日常的な現象とは著しく異なる特別のできごととみなされ、それが日常的な現象と混じり合わないための処置であると考える方が妥当である。また、出産は女性のみに起こる現象であるため、男性と女性を区別する傾向の強い社会では、出産を男性、特に夫が立ち入る空間から離れた所で行わせる場合が多い。産屋が設けられる社会では月経や出産が不浄視されることが多く、男性が産屋に近づくことは危険であると考えられる。同時に、共同体のメンバーにとっては神聖かつ重要な場所でもあるため、よそ者がそれに近づくことは重大なタブーとなる。 波平 恵美子 〉 「大原神社」 「お産の民俗学」 「神話のような島」 「産小屋を訪ねて」
横道にそれてしまって、関係のない人には申し訳もない。本題にもどろう。 〈 豊受大神社(とようけだいじんじゃ)(現)大江町字天田内東平 五十鈴川(宮川)の東岸に鎮座。神社の森は南北の舟形に延びる小山をなし 正面に本殿、左右に脇宮、周りに末社三七社が並び、内宮の皇大神社(内宮ともいう)とほぼ同じ配置である。「丹後旧事記」に別宮と記される多賀神社・月読宮・ 鎌倉時代に成立した「神道五部書」以来伊勢神道では、雄略天皇二一年倭姫命に天照大神の神教があり、丹波(後)の与佐宮から豊受大神を御饌津神として伊勢の山田原(現三重県伊勢市)に迎えたのが、伊勢外宮の始まりといっている。この与佐(謝)宮を当社とする説があり、近世の地誌「丹後風土記」は 此地を与謝の比沼ノ魚井原といへり真井とも。与謝宮と云。祭神豊受太神宮鎮座初の地にして雄略帝廿一年神託有て翌年勢州山田原ニ連座なし奉ると云。 或曰此神社は式に云丹後国丹波郡比治摩奈為神社なるへしとそ。八十末社其外小宮あり内宮より境内せましされと神さひたるありさまかはらす。 と記し、旧語集には次のようにみえる。 豊受宮ハ国常立尊也、左瓊々杵尊右天児屋根命、雄略略天皇ノ御宇建立、養老五年九月初奉宮幣、人王三十三代推古女帝二十一丁巳年外宮遷座於伊勢国 「和漢三才図会」は与謝宮を「与謝郡川守」にあるとし、天田内村が江戸時代に河守組二三ヵ村に含まれていたこと、また村内の常光寺鐘銘にこの地を与謝郡としていること、外宮祠宮河田氏所蔵の万治・元禄以降の神道裁許状にもみな与謝郡とあることなどから、近世までこの地が与謝郡と称されていたといわれる。しかし郷村帳には一貫して加佐郡とされている。 「加佐郡誌」所載の当社の由緒は、雄略天皇二二年、天皇が神誨を受け、丹波国丹波郡比沼の麻奈為に座す豊受大神を伊勢国度会の外宮に移した時、しばらく当地舟岡山に鎮座したのに始まるとする。一方「宮津府志」は「当社与内宮是麿子親王之所勧請、神社啓蒙等書以当社為与佐宮者非也説」とし、用明天皇第三皇子麻呂子親王が鬼賊退治の報賽として建立したという。 明暦二年(一六五六)四月、同九月の年紀をもつ棟札によると、宮津藩主京極高国が将軍徳川綱吉の病平癒を祈りその報賽として神楽所・御供所・斎蔵を造立しており、以後六一年に一度の式年ごとに社殿を造営してきたという。文化年間(一八〇四−一八)の覚書牒(天田内林田家文書)によれば、材木引初めから社殿完成まで三年余りを要し、正遷宮の時には「群集夥しく福知山から宮津まで宿つまりてなし」とあり、この地方一帯で崇敬されていたことがうかがわれる。 四石六斗四升二合の社領があった(天和元年宮津領村高帳)。 〉 本殿をぐるっと取り囲んでいる末社を書き上げておくと、向かって左手から、御幸・天田・蜂須・若宮・榊森・和幣・御劒・大若・鏡作・知恵・月宮・龜原・種木・瀧之・東羅・金刀毘羅・蓬戸・神南・鹿嶋・繁昌・風宮・横河・青榊・保浪・平岡・礒之・甲之・小篠・白鬚・?・南之・榊原・姫若・椿本・祓戸・日吉・酒造・保養・岩崎。本殿の向かって左手に多賀之宮、右手に土之宮がある。 〈 河守太神宮 河守上村大字天田内に在り、此神戸其太神宮の广+寺たる由は、古書に明徴なしと雖、神社啓蒙に「与謝宮、在丹後国川森、所祭之神一座、今祠内宮者、近代之俗也」と論ずるに参考して古の外宮の广+寺たるを想ふ、宮津府志に河守の内外宮は、与謝宮に非ずと述ぺしは善し、然れども麿子王当国征伐の時、勧請とあるは信疑知れず、天田内の北に内宮神社あり、大字をも内宮と云ふ。筑紫紀行云、元伊勢の社とて、峻しき坂道を南へ下り行きければ、天の岩戸、拝殿、杉の荒木を以て造れり、鳥集をすぎて川の辺に至てよりは、道とみゆるものなし、ただ岩の鼻に取つきて、三十間計り下り行けば小宮あり、此あたり谷川の中に岩多く、急瀬の水くだけたばしりて、いと清潔に漲流るゝに、両岸には緑の陰蓊蔚として、誠に神さびたる所がらなり、内宮に至り拝し奉る、かやぶきの御有様、伊勢に同じ、此所を出て三丁許ゆけば、内宮町人家五六十軒、町中に宮川あり、町の出口に五十鈴川あり、天田内村人家六七十軒、即外宮の鳥集前なり、石段百四段を北の方に登れば、外宮の御本社、豊受大神宮草ぶきにて、南向に立せ給ふ。 補【大神宮】加佐郡○宮津府志、天橋記曰、今の河守の内外宮は古へ麿子親王当国の凶賊を征伐の時勧請ある処なり、内宮外宮の間に公庄・金谷と云ふ在名あり、是親王の家臣の残りて在名となれりとぞ、麿子親王は用明帝第二の皇子にて厩戸王の弟也、神社啓蒙等の書、以当社与謝富者非也。 〉 恐らくコウモリ(川守・河守)の地名はこの神社のあたりから生まれたのでないのかと私は考えている。河川の運搬労働者とかいった説もあるが、それは漢字を見ての話ではないのか。漢字の通りなら歴史研究は何の苦労もないだろう。 〈 川守郷。川守ト号ル所以ハ、往昔、日子坐王土蜘陸耳匹女等ヲ遂ヒ、蟻道郷ノ血原ニ到ル。先ニ土蜘匹女ヲ殺ス也。故其地ヲ血原ト云フ。トキニ陸耳降出セント欲シ時、日本得玉命亦下流ヨリ之ヲ遂ヒ迫ラントス、陸耳急チ川ヲ越テ遁ル。即チ官軍楯ヲ列ネ川ヲ守リ、矢ヲ発ツコト蝗ノ飛ブガ如シ。陸耳党矢ニ中リ、死スルモノ多ク流テ去キ。故其地ヲ川守ト云フ也。亦官軍ノ頓所ノ地ヲ名ツケテ、今川守楯原ト云フ也。其時、舟一艘忽ニ(十三字虫食)其川ヲ降ル。以テ土蜘ヲ駆逐シ、遂ニ由良港ニ到リ、即チ土蜘ノ往ク所ヲ知ズ、是ニ於テ日子坐王陸地ニ立チ礫ヲ拾ヒ之ヲ占フ。以テ与佐大山ニ陸耳ノ登リタルヲ知覚シキ。因テ其地ヲ石占ト云フ。亦其舟ヲ祀リ楯原ニ名ツケテ舟戸神ト称ス。(以下三行虫食) 〉 この辺りは土蜘蛛がワンサカといたと風土記は伝える。大江山の頂上に雲原(古くは与謝郡に属した)という集落があるが、この元伊勢外宮のあたりを大雲原と呼んだそうである。これらの雲は蜘蛛かも知れない。 |
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