その五
丹後の伝説:5集 |
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依遅ケ尾山の大蛇、取らずの大関、億計弘計伝説、鬼の送り、他このページの索引アナンボ(舞鶴市高野) 依遅ケ尾山の大蛇(丹後町矢畑) 齋大明神(竹野神社) 射矢神事(舞鶴市木ノ下) 岩神(高浜町岩神) 鬼の送り(網野町島津) 鬼の宿 茨木童子(大江町鬼ケ城) 大原神社(京都府天田郡三和町大原) 大原志(季語) 地名・奥母の由来(舞鶴市余部上) 億計王弘計王の遺跡(舞鶴市大内と和江) 産屋(京都府天田郡三和町大原) 河守の蛙と福知山の蛙(鬼ケ城) 賀茂社(山城国) 鬼神塚(丹後町) 杵の宮(綾部市) 鯨の話(舞鶴市田井) 九鬼家節分の事 小人の恩がえし(網野町木津) 白糸浜神社の手水石(舞鶴市浜) 大蛇に毒を吹きかけられた話(舞鶴市中筋) 通夜稲荷の力士 取らずの大関・小男稲荷(舞鶴市引土折原) 笛吹神社(日吉町木住) 行永家住宅(舞鶴市小倉) 湯舟の地名(舞鶴市鹿原) |
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『京都の伝説 丹後を歩く』に、(イラスト、伝承探訪も) 依遅ケ尾の大蛇神
伝承地 竹野郡丹後町矢畑 昔むかし、何千年も前のこと、依遅ケ尾に大蛇が棲んでいた。矢畑の村の人々は時々この大蛇を見ることがあった。 この大蛇が、ある日、齋神社の神姫を見て一目惚れをしてしまった。それからは、寝てもさめてもその神姫のことを思って、食事もろくろくとれぬほどになった。大蛇は牧の谷まで下りてきたが、斎神社の神威に打たれてどうしても神社の森に入ることができない。 斎神社の神はその大蛇の心情をかわいそうに思って、雪が二メートルも積もったある日、大蛇に「二百十日の巳の刻に斎神社の松縄手にあるお旅所へ行け。そうすればお前の恋をかなえてやろう」と告げた。 やがて、依遅ヶ尾にも春が来て雪が解け、夏が過ぎて待望の秋が来た。不思議なことに、斎神社の神姫も夢のなかで、「二百十日の巳の刻、とてもよいことがあるので、縄手のお旅所へ行くように」と天照大神のお告げがあった。 二百十日になり、神姫は斎神社のお旅所にお参りして祝詞をあげていた。午後一時ごろになると、一天にわかにかき曇り、バケツから移したような大雨が竹野川に降ってきた。みるみるうちに田も畑も海のようになってしまったが、お旅所だけは少し小高いところにあったので、水のなかにぽっかりと浮いたようになった。神姫は宮へ帰ることができず、何度も祝詞をあげていた。午後二時ごろになると、依遅ヶ尾から炭のような真黒い雲が下りてきた。この雲に乗って、依遅ヶ尾の大蛇が神姫に逢いに来たのだった。しかし、何とかして姫に近寄ろうとしたけれども、斎神社の威光に打たれ、もんどりうって立岩の沖の海に落ちた。その嵐のなかでキラリと光った二つの目は姫を吸いつけるようににらみ、竹野の人も間人の人も、海を見ていた人はみな、この大蛇の目を見ることができた。この嵐のためについに大蛇の恋は遂げられずに終わった。 それから何千年もの間、大蛇は二百十日の午後二時ごろ、依遅ヶ尾から炭のような黒雲に乗って、後の立岩の沖へ出てくる。大蛇はだいぶん年をとったのか、二百十日を間違えて 二、三日早く来たり、四、五日遅れて来たりするようになった。 (『丹後の民話』第三集) 【伝承探訪】 丹後町を流れる竹野川に注ぐ支流吉永川のほとりの吉永集落から尾根道を上って行くと、長く点在する矢畑集落に出る。このあたりもかなりの高さだ。そのもっとも上にある家のところから改修中の道をさらに奥に歩くこと、十数分。岩肌を露出させ、厳しく屹立する依遅ヶ尾の山容が眼前に見えるところへ出る。高さ五百四十メートル。海岸近くにあってひときわ目立つ姿のこの山は、金剛童子山・磯砂山などとともに、当地方の漁師たちの目印とする山であった。山の頂には祠が設けられ、四月・十月には近在の村人たちが登って祭りが行なわれていた。この山の水は南へは吉永川となって流れ出し、また東は遠下から宇川へ注ぎ、西は牧の谷の方へと流れ出る。しかし、この矢畑へは豊かに流れてくることはない。旱魃になると、山頂では雨乞いが行なわれたものであった。このように、この山には、大蛇の姿として観ぜられる水の神の信仰を窺うことができるのである。 一方、かつて、竹野神社には神に仕える斎女が選ばれた。斎女は市場村(現熊野郡久美浜町)から出た。神の子が生まれると、その家に白羽の矢が立ったと伝える。今、市場には齋宮大明神と呼ばれる小祠が祀られている。斎女は神の妻とも観ぜられた女性である。このような女性に神が通うというものには、大和国三輪山の蛇神(三輪大物主神)が通ったという『日本書紀』の伝説の例がある。竹野の伝説はこのような神と王女との聖なる結婚という発想に依るものである。そして、これに依拠しつつも、斎女は竹野神社の神を祀る者ゆえ、依遅ヶ尾の山の神の結婚を認めないとされている。この伝説は、二百十日頃の空模様の異様さという自然現象をこの山の神の結婚の不成立への怒りという点において説こうとしたものではなかったか。 ともあれ、依遅ヶ尾の山から西、竹野神社の方へと流れ出る水脈は、この伝説にみえる、大蛇が通う恋の道だったのである。 『宮津府志』(天野房成・指田武正・小林玄章・宝暦13)に、 …又斎宮ト號スルハ熊野郡市場村ニ斎官之人有女子を生メバ則チ飛箭屋上ニ立ツ也。其ノ子四五歳之時当宮ニ奉リ斎女ト為也。山中深林之中ニ獨リ禽獣ト同居シテ敢テ畏怖スルコト無シ。若シ長シテ天癸(月経)至リ或ハ交接之情生スルニ及テハ即チ大蛇出現シテキキトシテ(雷鳴のとどろくがごとく)眼ヲ瞋ラス是時ニ及テ官ヲ致シテ郷里ニ還ル 以上神社啓蒙
田辺府志曰、麿子親王当国の凶賊を平治し、天照太神の宝殿を造営勧請し伊勢の斎女に相准し熊野郡の中より士姓を撰び少女を斎女に奉る、側に別宮あり是麿子親王の社也。 按に麿子親王今俗に金丸親王と云、人皇三十二代用明天皇第三の皇子(一曰第二)母は葛城直磐村の女広子厩戸皇子別腹の弟也、親王は当麻氏の祖也和州当麻寺を再興せし当麻国見直人は此親王の孫也、親王の当国凶賊を征伐せし事田辺府志に載たり然共未だ国史を詳にせず。又親王の本祠は熊野郡市場村にありとぞ、今本社の左の方にある社是亦親王を祭るなり。又社人曰古代の神箭中古迄傳りしが百七八十年前当社回禄の災あり神箭宝器武具等悉く焼亡し今僅に鎧二領武器一二残れりとぞ。又当社の神馬は隠岐の国より献ずとなり、荷来る神馬死すれば隠岐の国より神馬を仕立て出雲の国へ渡し、夫れより散銭箱を附て放ち遣すに必滞る事なく当社に来るとなり。又祭禮に用ゆる旗竿丹波国天田郡野花村孫八郎と云者の方より送り遣す、六七寸周りの竹を根と共に掘たるもの也、古来は福知山川へ流し夫れより数十里海上を経て竹野浦へ漂ひ着くとなり、此野花村孫八郎家に故ありて麿子親王の武器を持傳ふ毎年六月丑の日に是を諸人に観せしむるとなり。 『田辺府志』に、 斎大明神の由来前段麻呂子親王鬼賊退治の處につぶさに記せり。齋大明神といふ事は同国熊野郡市場村の中に神につかふる家あり、女子を生る時神箭飛ゆきて彼家の棟に立たり、四五歳の時宮におくり奉る山中たれども獣もやぶる事なし、成長して交接の心生する時大蛇出て眼を瞋らかす、其時郷に帰る、是を齋女といふなり、此斎女ある宮ゆへに世人齋大明神といふなり。 田辺のご先祖様はたいへんな記録を残してくれたものである。イツキというのは、潔斎して神に仕えること。またその人。と広辞苑にあるが、私の齋藤の齋である。今はこんな漢字は使うことも少なく、書ける人は稀であろう。現在使われるとしたら、齋藤と書く場合か、火葬場の齋所くらいではなかろうか。確か白川静の辞書だったと思うが、齋の字は先祖霊にぬかずく正装の女性の髪型を字にしたものとあったと記憶する、下は示でなく女という字を書くのが古体であるという。中国ではそうであったということであるが、日本でも似たことであったかも知れない。 齋女は神に仕える女である。では彼女に祀られる神は何か。目を 開化后の竹野姫もこの系統の人と思われる。四五歳から大蛇というか鉄霊に仕え、鉄霊を身につけで成長した鉄のシャーマンであろう。彼女(鉄霊)を迎えないことには大和の大王家の鉄生産も軌道に乗らないと考えられたのであろうか。 『京都の昔話』(昭58・京都新聞社)に、 蛇の息子
むかしあるところに、お爺さんとお婆さんとが住んどりまして、ほで、お爺さんがある日に畑打ちにいったら、かわいげな卵が出てきたそうな。ほで、 「これはまあなんの卵だ知らんけど、きれいなんだし」思って、持ってもどって、いろりのふちにちょっと置いといた。そいたら、それがポカンと割れて、かわいげな蛇が出た。ほで、お爺さんとお婆さんはその蛇を、子供もにゃあし(ないし)、子供みたいにして大事にしてふじいう名あつけて、ほで山からもどると、 「ああふじや、もどったで」言うて、食べ物やっては大きいしとっただそうだ。 そいたら、だんだんだんだん大きくなって、もう、いろりのふちにおられんようになって、からだを床下に入れて、首だけ出やて食べ物むらってばおったそうだ。ほいからまだまだだんだんだんだん大きなるもんですで、ふじに、 「これはもう、これにはおれんが、どこに行く」言うたら、ほいたら、 「依遅ガ尾いうとこに大きな池がある。ほいで、依遅ガ尾の沢行く」言うて。 「そうならまあ、依遅ガ尾の沢へ連れていったろう」言うて、ほいで、その大きな池へ連れて放すだった。 ほうしたところが、それが大きな大蛇になって、そこを通んなる人を飲むですわ。ほで、だあれもそれをよう殺さんですし、お殿さんから、ふれが出て、 「依遅ガ尾の大蛇を殺した者にはほうびをやる」言うて。ほで、あっちもこっちも行くんですけど、みな飲まれてしまって、だあれもよう討たなんだ。ほで、その話をお爺さんが聞いて、 「これぁ、われぁもうほっておけん」言うことで、その池のふちい行って、コーンコーンと手を叩いて、「ふじやあ」いうて呼んだそうですわ。そいたら、大きな大蛇がのろのろと出てきた。ほで、 「お前はわしに討たれるか」言うたら、 「うん」言うて、こう、うなずいたそうな。それで、お爺さんは鉄砲で.ハァーンと撃ったら、その蛇の死体がそこいぱあつと上がった。ほで、そいでお殿さんからものすごいごほうびをもらって、お爺さんとお婆さんは安楽に暮らしたそうだ。 語り手・小倉たつ枝(丹後町・鞍内) 私などの子供時代と風景も変わっている。野原にはススキではなく外来種のセイダカアワダチソウがはこびっている。こんな草は昔はなかった。この草はススキよりも強そうで、もう何年かすれば、ススキはすべて駆除されることであろう。ふるさとの秋景色も変わる。 それと柿の実が誰も取らずにほったらかしになっている。つまらぬ話でもうしわけないが、私の子供の頃はこんなうまいものはないと思って、まだ熟さないうちからたべたものであった。今年は柿のなりどしとかで、すずなりである。しかし誰もたべない。取ってこいと孫に言うと、しゃあないなという顔をして取ってくる、皮を剥いてやると、しゃあないなという顔をして喰いよる。とのことであった。日照の年は柿の豊作という、ビタミンCが豊富なので柿が赤くなれば、医者は青くなるという諺もある。ただ消化がわるいかも知れない。我が家の腕白坊主、何喰っても大丈夫だが、柿を食べ過ぎたのか口の周りを腫らしていた。食べ過ぎるとおなかをこわすので注意が必要。 高野という名には蛇の伝説がつく、と畑井弘氏が述べていたので、それじゃ確かに依遅ケ尾山や竹野神社にもそんな伝説があったなと調べたものである。舞鶴の高野には城屋の大蛇退治伝説がある。 鞍内の昔話とは書かれていないが、語り手は鞍内の人である。碇高原の西麓、依遅ケ尾山の東麓である。鞍内には虎杖小学校がある。あるというのかあったのである。現在は小学校はなくキャンプ場として使われているという。イタドリとは不思議な名前である。イタドリはたくさんありそうだけれどもそこから来た名前ではないと思う。板通といった小字がある。そこから来たのではなかろうか。子供の頃は学校帰りの道草に道端の虎杖を採っては食べたものである。たいしてうまいものでもない。大きな虎杖には蛇がいるぞなどと言い合ったことを思い出す。しかし本当に蛇がいたことはなかった。虎杖の方言にはタジというのがあるそうだが、本来はそう呼んだようである。タジとかタジヒは蝮(マムシ)のことである。丹比・多治比・丹治などとも書く。古代の多治比氏は火明命の系統である。
『大江のむかしばなし』に、(イラストも) 河守の蛙と福知山の蛙
金屋 荒川太一 河守の蛙はまあ福知山を一遍見たい思ったじゃし、福知山の蛙は河守が見たい思ったんですやろ。それで、偶然こう、向こうのとこっちの蛙が同じ思いで、河守の蛙は河守の方からあの鬼ヶ城に上ったわけですわ。この向こうの山ですわあ。ほいで、福知山のも上ってきたわけですわ。はいて、あの、 「わしは福知を見にきたでや」言うわ。 「わしは河守見に来たじゃ」言うわ。ほいで、 「あの、わしはほんなら福知を見せてもらうし」ちゅうことで、あの鬼ヶ城の福知山の方角に行って河守の蛙、それから、河守の方角に行って福知山の蛙、とっちも“よいこらしよ”と立ちあがって見たちゆんですわ。ほいで、見たところは河守ですわ。福知山の町を向いた眼がこっち見とるさかい。ほいたら、 「福知山いうところは河守によう似た所じゃなあ」とこう言うた そしたら。福知山の蛙は、 「河守も福知山によう似とるわなあ」 どっちもなあ、自分とこばっかし見とる。そんで、お互い別れて、 「どこに行っても同じこっちゃなあ」言うて、別れていんだちゅ。それだけのこちゃ 似た話は他の地にもあるが、蛙は地霊だそうで、本来は河守と福知山の地主神・守護神・祖神が鬼ケ城に登ってお互いに国見をしたという話なのだと思う。特に夫余系の種族では蛇や蛙、蝸牛は地霊であると言われる。高句麗の神話ではその祖王は金蛙王といい、金色に輝く蛙で、大きな石の下から見いだされて夫余王解夫婁の子となったと伝えられるという。 「建国神話・高句麗」
『中筋むかしと今』に 大蛇に毒を吹きかけられた話
村に言語障害の青年がいた。不幸にも生まれつきものの言えない彼は、毎日、山へ行って柴を二束作ってこなければ、ご飯が食べさせてもらえぬという気の毒な境遇だった。毎日、柴を刈りに行くので、だんだんと雑木も無くなり、ずうーつと奥まで出かけねば手の届くところに無くなっていた。 ある日のこと、日もとっぷり暮れる頃、二束の柴を背負って帰ったが、ひどく疲れた様子だった。翌朝、目を覚ますと随分と顔がはれていた。家の人もあわれに思ったのか、「今日は、一日休んでよい。」と許可した。 めったに、こんな休みは当たらない彼にとっては、どんなにうれしかったことか。近所を遊び歩いていた。「今日は山へ行かんでもよいのか」と手まねでたずねると、「ずうーつと、山の奥まで行って柴を刈っていたら、太い長いものが首をもたげて、襲い掛かってきたので、すわ大変と一生懸命逃げて、しばらく隠れているとやがて向こうへ行ったので、また、さっきの場所へ行き二束を完成させて帰ったのだと、手まねで教えてくれた。その目は開いていないくらいボンボンにはれ上がっていた。 そして、その翌日、彼は静かに死んだ。村人はうわばみ(大蛇)に毒を吹きかけられたのだろうと、彼の死を悼んだそうな。 口のきけない皇子の話を思い出すが、これは鉱毒の話なのではないだろうか。どことは書かれていないが、どこか中筋の地なのかも知れない。
『舞鶴市史(各説編) 』に、 奥母 (余部上)
余部上の小字 「奥」とは、中国の古建築の室の西南のすみのことで、尊者がいるところのことである。 『市史編纂だより』48.10.1より、 奥母の字名の由来
(余部上) 瀬野重太郎さん 伝説によると、昔、「きく」という嫁がいた。体の不自由なシウトと、年老いたシウトメに仕え子供もよく育てて人手不足にもかかわらず夫を助け家業に励んだ。家内中むつまじ幸幅な暮しをしており、村中でのほめ者で、村内はこの「きく」に感化されて非常に良くなった。 このことが殿様の耳に達し、村での模範であるとして「なにか褒美をとらす。なんでも望みのものを申せ」と申された。「私は殿様のおかげで、毎日なに不自由なく暮させていただいています。この上の望みはありません」と辞退した。殿様はますます感じ入り「その心掛けは天晴れだ。それではそちの住んでいる所は、この菖蒲岡城の西南に当たるので、褒美として「奥母」という名をやろう.この名を汚さぬよう今後も励め」との言葉をいただいた。 奥の字は室の西南隅のこと、中国の建築は室の西南が最も奥深い所で、日当たりも良く、家族の日常やすらぎの場となっている。殿様はこのことを知って奥母と名付けられたのである。 大雲も奥母も同じと思われる。このあたりもやはり鉄なのだろうか。
『中筋のむかしと今』に、 取らずの大関・小男稲荷
(折原) むかし田辺城のお殿様が、参勤交代で江戸城に勤務しておられたときのこと、たまたま大名方と雑談しておられるうちに、それぞれの国の力自慢を集めて相撲をとらせようということに決まりました。大きな藩の大名たちは江戸大相撲の相撲取りを抱え力士に持っていましたから、もう勝ったような顔をして大いばりでしたが、田辺のお殿様は元気がありません。というのも、田辺のお殿様は少禄でしたから、力士など一人も抱えていなかったからです。それでもと相撲をとるものはいないかと家中にお尋ねになりましたが、天下の相撲取りを相手に勝てると思うものはおらず、誰も名乗りをあげません。お殿様がほとほと困りはてていましたところ、お屋敷で風呂焚きをしている小柄な男が御前に進み出て「恐れながら相撲ならば私たち六人は大好きですから出させてください」と申し出ました。見ると小柄ながらなかなか強そうです。お殿様は大いによろこび、安心しました。 いよいよ相撲大会の日になりました。小柄な風呂焚きと仲間の下男六人がまわし姿もりりしく土俵下にならびます。試合がはじまって、一番手に小柄な風呂焚きが土俵にのぼりました。そうして、いきなり土俵のすみの四本柱の青竹を引き抜き、それをしごきにしごいてやわらかくして、ふんどしにしめてしまいました。大変な力です。ほかの力士も大名たちもワーッとおどろき、大騒ぎになってしまいました。そうして「さあ来い!」とかまえたものですから、その悠々たる態度におそれをなして誰もかかってくるものがありません。とうとう一番も相撲を取らないまま、大歓声のうちに田辺の優勝と決まりました。世間では「取らずの大関」と大評判になりました。田辺のお殿様が大喜びしたのはいうまでもありません。 その後、お殿様が参勤交代で田辺に帰る時、その六人も奴としてお供しました。ところが、引土の円隆寺橋あたりへ来たころ六人の姿が見えなくなり、いくらさがしてもようとして行方が知れません。それで誰言うとなく、あの六人は狐が化けていたのだということになり、付近に六つのお稲荷さんをお記りすることになりました。その御名は次のとおりです。 天狗岩の小男神 引 士 天狗岩 白の山の新兵衛 公文名 城ヶ鼻 男山の才蔵 引 土 円隆寺 茄子の金六 紺屋町 神明社 茶臼山の孫太郎 公文名 茶臼山 高畠の弥蔵 引 土 高畑山 この「取らずの大関」が、小男稲荷です。 狐はお稲荷さまのお使いで風呂焚きに身をかえ田辺のお殿様を守っておられたのです。 小男稲荷さんの下を通って妻の実家へ行くのだが、ある日、こんに誰も行かぬ草ぼうぼの稲荷さんへ若い和装の女性が一人急な坂道を登って行くのを見た。てっきり狐だと思ったものであるが、稲荷さんが男だというのも不思議な伝説である。それも小男、桃太郎なんぞもそうだけども、天香山の麓の天狗岩の小さい男というのも気になる話である。狐が化けていたは後のはなしだろうが、小さ子は鍛冶屋と関係があるといわれるし、稲荷も関係がある。 「白雪姫と七人の小人」のような話が伝わっていないかと注意はしていたのであるが、小人に関するような丹後の伝説には次のようなものがある。 菊池寛訳の『グリム童話集』が青空文庫にある。グリム童話の中でも飛び抜けて有名な「白雪姫と七人の小人」であるが、七人の小人は鍛冶屋である。次のようにある。そんな話はもうとっくの昔に忘れてしまったという人は読み直してみては…。 「白雪姫」 右のイラストは『グリム童話の世界』(高橋義人著・岩波新書)のもの。 日がくれて、あたりがまっくらになったときに、この小さな家の主人たちがかえってきました。その主人たちというのは、七人の小人でありました。この小人たちは、毎日、山の中にはいりこんで、金や銀のはいった石をさがして、よりわけたり、ほりだしたりするのが、しごとでありました。
白雪姫は、小人の家のしごとを、きちんとやります。小人の方では毎朝、山にはいりこんで、金や銀のはいった石をさがし、夜になると、家にかえってくるのでした。 ここのところは『完訳グリム童話集』(金田鬼一訳・岩波文庫)では次のように訳されて、註もついている。 まっ暗になってから、この小さな家の主人たちが帰ってきました。それは、お山の
一寸ぼうしたちは、まい朝お山の地の下へはいって、あらがねや黄金をさがしもとめ、日がくれると戻ってくるのですが、それまでに食事のしたくをしておかなければなりません。 註 一寸ぼうしにも種類がありますが、ここにでる「ツウェルク」というのは、ゲルマソ神話では大地の霊で、つまり地中に作用する
『ふるさとのむかしむかし』(網野町教育委員会・S60)に、 小人の恩がえし
むかしあるところに、貧之な夫婦が居りました。大晦になったが、年越のお米を買うお金もありませんでした。そこでおじいさんは、お婆さんの作った麻織物を持って、町へ売りい出かけました。日の暮れるまで方々歩きまわって 一つも売れんので おじいさんはがっかりして、 「なんちゅうこった。さっぱり売れリやひん。これでは年越の米買うところじゃないわ」 と、ぶつぶつ言いながら、町はずれまで戻ってきました。 そこへ炭売りのおじいさんがやってきた。この人も年越しの仕度をするために、炭を背負って売りに来たのですが、一つも売れず、がっかりして、家へ帰るところでした。 「おやお前さんも売れなんだですかい。まあしかたがない。なんと、おたがいに、この品物を取替えしたらどうだ」 と、二人は、炭と織物とを取り替えあって帰りました。 おじいさんはわが家の土間へ、背負った炭俵を、どすんとおろしました。お米や、お魚を買ってくると思って待っていたお婆さんは、これを見てびっくりして、 「年越の晩にお米も無いなんて わたしゃもう年とりませんわ」 とぶつぶつ怒りながら寝床へはいってしまった。おじいさんは、 「そんなこたあ、わしのせいてないわ」 と腹をたてて、その炭を、いろりの中にくべて、どんどんたいていると、家の中は、夏のように暑くなってきました。 その時、どこからか、 「ああ暑い、あつい、こりやとてもやりきれん」という声が聞こえました。 「これてはしんぼうでけん、どこかへ引越しよう。それにしても、長いことやつかいになったで、何ぞお礼せんならんが、何がええだろうな」 「うんそうだなあ年越しだてお米や魚はどうだい」などと話し声が聞こえた。 しばらくすると、土間にドサリ、ドサリという音がしました。そうして、 「ああ暑い、 あつい」 と言って誰かが出て行ったようです。 おじいさんはいろりの火にあたりながら、だまってこれを聞いとったが、しかし不思議なことだ。いったい誰だろう、と、窓の戸を聞けて外を見ると、五・六人のみにくい小人たちが、家から出て行くところでした。 すると向うから一人のおじいさんがやってきて、 「お前たちはまんだこの家に居っただかい。早やどこでも行け!」と、一人ずつ股をくぐらせて居りました。小人は、 「この家は暑うて居れん。今出て行くところだ」と言って、どこかへ消えるように、逃げて行きました。 股をくぐらせたおじいさんは、 「これでええ、これでええ」とにこにこ顔で言いました。 窓からこの様子を見ていたおじいさんは、すぐ、お婆さんを起し、このことを話して聞かせ、そして土間へ行ってみると、そこには、米や魚が、山ほど積んであったので、さっそくお正月の仕度にかかりました。 それからは、この家は、しだいに大金持になったといいます。 (原話 木津 大滝しげ)
通夜稲荷の力士
亀岡市古世町北古世 その昔−。江戸城で各藩お抱えの力士を集め 相撲太会が開かれた。いわゆる上覧試合。各藩の面目をかけた大会だけに藩主たちの意気込みはものすごかった。出場力士たちは、いずれもお国自慢の強豪ぞろい。とくに大藩同士はお互いに相手力士の秘技をさぐり合うなどスパイ合戦の火花が散った。もちろん大会前から江戸っ子たちは大騒ぎだった。 いよいよ待ちに待った大会当日。しかし、亀山藩主の顔色はさえない。藩のお抱え力士は他藩に比べるとどうみても幕下並み。出番が近づくにつれ、藩主、家来たちは「せめて男らしく負けてほしい」と目を伏せ、土俵を取り巻くどよめきも耳に入らぬほどだった。やがて亀山藩の番がきた。 「ひがーし、きつねーやま、きつねーやま」との呼び出しの声が満員の場内に流れた。亀山藩主や家来らはこれを聞いて顔を見合わせた。「わが藩に狐山はいるのか」と藩主。「しかと存じませぬ」と家来。しかし、土俵に上がった狐山は、藩主たちにニッコリ笑って会釈するではないか。 藩主らの不審をよそにこの狐山は怪力無双。出てくる他藩の力士を全く寄せつけず、次々に投げ飛ばす。あまりの強さに他藩の横綱たちもただ身ぶるいするばかり。あっさりこの狐山に優勝をさらわれた。「亀山藩はいい相撲取りを持つたものよ」と藩主は将軍や他の藩主からほめられ、大喜びだった。 ところが、大会が終わり、労をねぎらうため、狐山を酒席に呼んだところ、姿が見えない。あわてて捜させたが、家来の話では、大会が終わるとさっさと引き揚げたらしい。急いで国元に問い合わせたが、国元では、名前も聞いたことがないという。ほどなく帰国した藩主は、日ごろから信仰している「通夜稲荷」にお礼参りしたとき「ハテ」と思い当たった。このお稲荷さんが日ごろ篤信な藩主のため力士に化けて恩返ししたのにちがいないと……。藩主の感激はいうまでもない。それ以後、藩主の信仰はこれまでに増して厚くなったという。 この通夜稲荷は、亀山城内の北西スミにまつられていた。昭和はじめ、城門(いまの宗教法人・大本の黒門)前の府道拡張のとき現在地に移された。いまではこのお稲荷さまを知る人は少ない。 〔しるべ〕通夜稲荷は国鉄亀岡駅前から京都交通バスで約三分「グラウンド前」下車、停留所から歩いて一分。路地を東に行った突き当たりにある。
白糸浜神社の手水鉢 (新舞鶴)
新舞鶴小学校の方へ与保呂川岸を上る。白糸中の生徒も三三五五登校をいそぐ。小学校の子は集団でいく。けずりとられた赤土。上はみどりの木の茂る長谷山のふもとにいく。私が小学校のころは頂上まであがったものだ。山上は大変眺めがよく、新舞鶴港湾が一望にみえる。往時は、三島外記によると桜井左京の城跡であったと伝えている。 むかし、西国橋は西国街道の与保呂川の唯一の橋であり、木僑であった。暴風で水が出たときはよく流されたそうだ。やはり水の力に木の橋ではもたなかった。明治になって架橋の話がでた。明治二十三年にこの浜村や余部村が海軍の軍港地指定をうけ鎮守府が出来ることになり、この浜村に新しい町づくりがはじまることになった。京都府では地元の人たちの要望で、ごばんの目のような(京都市街)町づくりをすることになった。府の吏員がやってきて計画をたて、与保呂川が西に寺川の方に流れていたのを分離し、行永より南北にまつすぐに流すことになった。そのころは全国より労働者がやってきた。橋も西国橋、桜橋、八島橋、万代橋の四つをかけることになった。西国橋は石、桜橋は木で、八島、万代橋はコンクリートで、西国橋架設のため、石材は、地元で調達することになった。そこで長谷山にないかと山上を掘っていると石室がみつかった。掘ってみると、白骨と金環数個、刃片等があった。殊に石室の天井には煤煙を止める大きな石があったということである。その石室のうち、一番大きい石一箇は、多くの人の力で下に持っておりた。そして、村の社を一つにして、白糸浜神社を作ることになっていたので、その社の手水石として奉納することにした。その他の石は、西国橋の基礎石にした。現在の白糸浜神社の手水石は予定通りあの大きな石を使った。ほんとに固い花崗岩の石である。
(行永家住宅)
今に残る江戸時代の家 (志楽) 志楽小学校に勤務している時、校舎改築の促進委員長であった行永勲氏、よく家に案内され役員会を開いたものだ。ほろにがく又飲んだあとあまいお茶をのませて下さった。行永勲さんは、もうこの世にはおられない。話を聞いたことを記し、霊安かれと祈る。 行永家は天明(一七八一年−一七八九年)から代々志楽荘小倉の庄屋を務めた旧家であり、住居は、間口九間、奥行五間、入母屋造で四面に庇を設ける形式で、屋根は桟瓦ぶきとして、一部二階がある。 入口にはいり、上をみると、黒くすすけた大きな柱があり、左手三間半は土間であり、床上は六間間取りである。一番上手前の座敷に床と平書院があり、下手になかの間があり、庄屋さんの家の格式がある。おくの間以外はせいの高い差物で固めているが、土間側二室は棟通り間仕切りは差物を用いず、梁から鴨居を吊っている。このように間仕切りが簡単なことは、この付近の整形四間取り平面が広間から生れたことを物語っている。この住宅の鬼瓦に文政八年(一八二五年)のへら書きがあり、農家として瓦ぶきの早いものであり、土間廻りの梁、組はほんとに見ごたえがあり、江戸末期のものとしては、ほとんど改造されていなく、丹後地方の民家としては、舞鶴に残る代表的な例で、市でも重要文化財として指定している。なお鬼瓦に銘があるのを見ると、田辺大内町瓦屋吉田忠右衛門直久と銘されている。今は勲氏の子の所有となっている。壽二郎氏は現在大津の方に務められそちらに住んでおられる。管理は近所の縁古のある老女が、時たま訪れてそうじをしたり、故障箇所がないかみていられる。江戸時代の建物、いついつまでも残せるように小倉の人たちも心して見守っておられる。
『舞鶴の民話4』に、 アナンボ (高野)
女布をすぎて、高野小学校へと坂道をいく。 道が広くなっている。小学生が三三五五帰ってくる。楽しそうに歌を歌っている。左側に大きな樹木がある。しばらくいくと、山に登る小道があり、年一回その奥の慰霊碑でお祭りがある。そこを過ぎていくと小高いところがある。老父と語る。はっきりはしていないが、先生のいう通りのようなことを幼いとき祖母から聞いたことがある。 むかしのことだ。日照りがつづく。昨年も一昨年も雨が降らず凶作だった。藩主の命令で、倹約の上に倹約せよとのおふれである。 一日の食事も二回にせよ、おかゆにして水の中に米粒が浮くように。 田の収穫以上に年貢がかかる。働けど働けどくらしはよくならない。村びとたちはこぞってお上にくらしを上申しようと何回となく相談するがまとまらない。庄屋さんもほとほと困り、倉の備高米もほとんどなくなってしまった。 こんなくらしが続けば、村民はみなうえ死してしまう。外で遊ぶ子等の姿もなくなった。小字通称おくらから横波をぬける峠のあたりは「カァカァカァ」と鳴くカラスの巣がある。時には「ギャアギャア」と鳴くときもある。このあたりは大木が並んで、昼でもくらい道のあるところだ。そこから山へ入っていくと、それほどでもない広い場所がある。そこにはあちこちに穴のあいてうずめたあとがある。 このあたりをアナソボという。世にいうおばすて山だろうと思われる。 重い年貢とききんで苦しんだ村人たちは、このままではオマンマなくなり死んでしまう。野山の食べられる雑草もほとんどなくなった。 なかには毒草をたべて死んでいた人も数かぎりなくあると、この村はいたって長寿の老人が多い。むかしから村の人たち、ちえをしぼって生きてきたのだ。足腰のたたなくなった老人たちには何を食べさせたらいいのだろう。口だけは達者で若いもの以上に食べものを食べる。たくさんいた野犬も姿をみせなくなった。連日の日でりで、小川の水もほとんどなくなり、岩だけがいやに目につく。魚つりしたこともむかしの思い出である。 弥エ門さんの家にも年老いた病床の母がいた。弥ヱ門は近在でも名の知れた孝行者である。もう納屋にも米はほとんどなくなった。母親もやせほそってしまった。いつ旅立つかわからない。弥ヱ門が母の病床のそばにいくと、母親がかぼそい声で、「二階の倉の中につぼがある、それをさがしてこい」と、命じた。中二階にあがり、わらの中をあちこちかけわけているとつぼにつきあたった。中をみると米である。それを持って下に降りた。母親はそれをたいて食べよと言う。 「私もそれをたべアナソボにつれていけ」弥ヱ門は母のことばに従って米をたいた。かまどにまきをいれ燃やした。「ブクブク」白い湯気がでる。「ブッブッブッ」何ともいえぬいいにおいで、母親は満足した顔で「お前それたく、おにぎりつくってもっていってくれ」母はおにぎりと、干魚をもっていくと「お前、さきにおたべ」っていい、自分はじっと見ているだけだ。弥ヱ門は一口ほおばった。米がこんなにおいしいとは今まで知らなかった。口の中でかみかみし、それを手のひらにのせ母にさしだした。母はおがむようにして口をもっていく。うれしそうにそれをすすった。 山の方でカラスが夜鳴きする。さびしそうな声だ。弥エ門は母を背おって外へでた。西の空に三日月がかかっている。母にはタンスから嫁入りのときの着物をかけてやった。おぶっている母は軽い。うらに手をまわす。腰骨が手につきささるようだ。あごのほれが弥ヱ門の背中にあたる。母はアナンボの方を指さす。弥ヱ門は涙をながしつつ夜道をトボトボ歩く。黒ヤミの坂道はひんやりする。いつの間にかアナンボに着いた。母は穴にそっといれてくれという。カラスの鳴き声がひときわ大きくなった。弥ヱ門はうしろもみずに走った。涙が流れる、母親の顔が前をいく。カラスの鳴き声はさらに強く耳にひびいた。 昔は60になれば、姥捨て山に捨てられたとか言われる。丹後にも姥捨て山伝説は多い、だいたい60とか61とか伝わっている。私などももう少しの年齢へ来てしまった。すこし昔に生まれていたならいよいよお山行きなのかも知れない。現在も同じようなことで、政治の貧困というのか、時代精神の貧困と呼ぶべきなのか、何も老人や病人の面倒がみれないほどには貧しい国家ではないと思われるが、封建時代と同じような話にばかりてある。病気になったりしたら自己責任で病院へ行って下さい。もしお金でなければ病院へは行けませんよ、死んで下さい。賃金も年金も上げられませんが、ガッポリと貯蓄をしておいて下さい、年老いても貧乏しても国も自治体も面倒見ませんよ。なにせ小さな政府ですからな。ただし税金はガッポリと取りますよ。特に弱い貧乏人から取りますよ。小さな政府とは簡単に言えば、姥捨て山を復活するということである。年寄りは早く死ねといった正直な某党の政治家がいたが、そのとおりのことをだましだましやろうとしているようである。愚かな政治屋どもは何をやりだすか知れたものではない。棄民政策を進めるということである。たいへんけっこうな有り難い話ではある。政治屋のパフォーマンスあたりにうまく乗せられないだけの批判精神は持っていたいものである。 「人」という漢字は見ての通りに支え合うものです、と教えられたように覚えているが、正確にはこの漢字の成り立ちはそうではないようである。人を横から見て字にしたようである。しかし苦しいときはお互いに支え合うというのは人間の人間らしい所である。支え合いの仕組みを社会にもたくさん作っておかないと、何でも自己責任では人間のすることではない。ひとのことなんか知りません、自分さえよければいいのです。それは手前勝手な堕落資本の論理である。早晩破綻が来ることであろう。苦しいことは順番送りで自分にもそのうちに廻ってくるものである。 「禁煙車だろう。女性専用車だろう。あれはおかしいよ。何も共生という精神がない。世の中にはいろいろな人がいてそれで廻っているのだから、自分と少し違えば排除しようていうのは、ちょっと社会にいきる者としては身勝手がすぎるよ。化粧品のにおいの方がよっぽどくさいよ、自分もくさいんだということがわかっていない」と老医師がいう。「何言うとんやな、そんなことを言うとるで、あかんのやな」とその奥様。さて皆様はどう考えられるだろう。 幸いに姥捨て山伝説はたくさんあるので、特に取り上げてみたいと思う。 このアナンボはしかし、そうではないのではないかと考えている。何か縦穴を掘って採集したのではなかろうか。現地を見てないので何とも言えないが…
『舞鶴史話』(昭和29年)に、 舞鶴市字大内
億計王弘計王の遺跡 憶計王弘計王の二王子は履中天皇の孫磐阪市辺押磐尊の王子でしたか父尊が雄略天皇に殺されたので共に難を避けて丹波の国に至り、更に播磨国赤石郡に赴き縮見屯倉首忍海部細目の家に身を寄せました。丁度その頃播磨の国司伊興来目部小楯なるものが細目の家にとまりましたが弘計王は歌に託して自分が皇胤であることを明かされたので小楯は大いに驚き、急ぎこれを朝廷に報奏いたしました。時の天皇清寧天皇には皇嗣がなかったので大いに喜ばれ、直ちに二王子を京に迎えて同天皇の三年四月七日億計王を立て、皇太子としました。天皇崩御あらせらるゝや億計王は御自身が皇太子であるにもかゝわらず御弟弘計王を立て、皇位につかしめました。これ即ち顕宗天皇であります。そして億計王はもとの如く皇太子として天皇を輔佐していられましたが、その弟天皇も数年にして崩ぜられたので戊申鼓正月五日皇位につかれました。億計王は仁賢天皇となられたのであります。 舞鶴市の大内はこの両王子が潜居していられたので大内の名称がこれから始ったといわれています。又八雲村字和江の和江神社では両王が酒饌を供えて開運を祈らせられたともいい、同村では毎年十一月五日に大小二桶の神酒をお供えして祭礼を行う慣例が残っていると伝えられています。 『加佐郡誌』(大正14年)に、 吉坂にクレ谷がある。公家谷の訛であって高穴穂の朝、億計、弘計の御子等潜み坐せし故後人が尊んで公家谷と称したのであるとのことである。
(山城の国の風土記に曰ふ)
可茂の社。 可茂と称ふは、日向の曽の峰に天降り坐しし神、賀茂の建の角身の命、神倭石余比古の御前に立ち坐して、宿りて大倭の葛木の山の峰に坐しき。彼より漸遷りたまひて、山代の国 の岡田の賀茂に至りたまひ、山代の河の随に下り坐して、葛野の河と賀茂の河との会へる所に至り坐し、賀茂の川を見廻らして言りたまはく「狭小くあれど、石川の清川にあり」とのりたまふ。仍ち名けて石川の瀬見の小川と曰ふ。彼の川ゆ上り坐して、久我の国の北の山基に定まり坐しき。その時ゆ名けて賀茂と曰ふ。 賀茂の建の角身の命、丹波の国の神野の神、伊可古夜日女を娶きて生みませる子、玉依日子と名く。次、玉依日売と曰ふ。玉依日売、石川の瀬見の小川に川遊したまひし時、丹塗やすなはとこのべさおつひはら矢、川上ゆ流れ下りき。乃ち取りて床辺に挿し置き、遂に孕みて男子生れませり。人と成りて、外祖父建の角身の命、八尋屋を造り、八戸の扉を竪て、八腹の酒を醸みて、神集へ集へて七日七夜楽遊したまひて、さて子と語らひて言ひたまはく「汝の父と思はむ人にこの酒を飲ましめよ」といふ。即ち、酒圷を挙げて天に向きて祭らむとして、屋の甍を分き穿ち天に昇りたまひき。乃ち外祖父の名に因りて、可茂の別雷の命と号く。謂ゆる丹塗矢は乙訓の郡の社に坐せる火の雷の命なり。 可茂の建の角身の命と丹波の神、伊可古夜日売と玉依日売との三柱の神は、蓼倉の里なる三井の社に坐せり。 三井社も逸文にあるが、省略。籠神社の極秘伝では、別雷命と火明命は異名同神だそうである。別雷命は金属神とも言われる。三井社は愛宕郡明神大社の三井社であるらしく、下鴨神社の境内に祀られているそうである。また上賀茂神社の神体山・神山は鉄山だと言われる。諏訪社も祀られていて、丹後丹波あたりにも多い諏訪神社は金属と関係があるのかも知れない。
『舞鶴の民話4』に、(イラストも) おにのうで (河東)
鬼が城山に茨木童子が住んでいた。大江山酒呑童子の一番の部下で、源頼光等が酒呑童子征伐にきたとき、用足しに城山にきていたので生き残ったのである。男にしては細型で年のわりに老いた女形のようでもあった。都に出ては酒呑童子の仇をとるべく、羅生門を住みかとして仇うちの機会をねらっていた。 娘をさらうこともあったが、人を食うといううわさが広がり、昼でもこのあたりを通る人は少く、日がくれるころからは、だれひとり門に近づくものがおらんようになった。 このうわさを聞いて、おこったのが、渡辺綱という大江山鬼たいじにいった武将である。 「このうわさがほんとうかたしかめる」 と、ある晩、馬にのり、こしには鬼切丸という名刀をさげて羅生門の屋根がそびえるそばにやってきた。誰もいない。門を見上げるがべつに変わったこともない、「気味がわるい門だな」とつぶやきながら帰ろうとしたら、うしろで 「もしもし」と女の声がする。うしろをふりかえると、きれいなむすめが立っている。 「おねがいです。五条の家までおくって下さい。使いのかえりで、日がくれたのです」 わかい女が、このさみしいところで、少しあやしいなと綱は思ったが、 「お気のどく、わしの馬で送ってあげる」 と下に降りて、むすめを馬に乗せてやろうとした。突然むすめが、おそろしい鬼の姿になり、綱の首をつかんで門にあがろうとした。「しまった」と鬼のうでをふりほどこうとしたが、びくともせん。「うわははは−」ぞっとする笑い声、綱はこしの鬼切丸をぬくなり、鬼のうでに斬りかかった。「ぎゃ!」とものすごい声と共に、綱は門からどしんと落ちた。横を見ると、はりのような毛のはえたおにのうでか落ちている。すぐに足でふみつけ、さっと刀をかまえた。 「よくもわしのうでを切りおとしたな。七日のあいだに、きっととりもどす」と鬼は暗い門の中に姿を消した。 綱はおにのうでをひろいあげ、じぶんの屋敷にもってかえり、じょうぶな箱の中にいれ鍵をかけた。家来たちに命じ、屋敷のまわりをかためさせた。 六日間はなにごともなくすぎた。鬼も綱の作戦をやぶることかてきないのだ。 七日目の夕方、家来たちが話していたら、ひとりのばあさんが屋敷にやってきて、 「わたしは綱のおばじゃ、いなかから来た」 「だれかきても中へ入れないようにと、殿さまの命令だ。だれも入れん」門番がおいかえそうとした。ばあさんは 「なんとつめたい事を言うおひとじゃ、小さいころからあれほとかわいがってやったのに」とおいおい泣く、外がやかましいのて綱がでてきた。 「おばだって、かまわん、おはいり」 「おう 綱か、会いたかったぞ」 「ところて綱よ、だれも屋敷にいれんというのは、どういうわけじゃ。なにか困ったことでもあるのか」 「ここへ、鬼がやってくるかもしれん」 「なに、おにだって」 おどろいたようにおばはふるえだした。綱はそこで七日前のことくわしく話してやった。 「そうだったのか、お前があの羅生門の鬼のうでを斬り落としたのか、さすがわしのおいだけのことはある。そのおにのうでとやら見たいものだのう」 「いえ、そればかりは」綱がいくらことわっても、おばはしようちせん。 「そんなつめたいことしわんと、冥土のみやげにひと目でもいいから見せておくれ」おばにそこまでいわれると、見せないわけにいかん。 「それじゃ、ほんの少しだけですよ」 綱は大きな箱をかかえてきて、鍵をはずして、ふたをあけた。 「おお、これかのう、おそろしいもんじや」 おばは、ふいにそのうでをつかむや、ぽいと身がるに上に飛び 「渡辺綱、うではたしかにとりもどした」 おばの顔はみるみる鬼の顔になり、天井のまどをつきやふって姿をけした。 「し、しまった」綱はあわてて、刀をぬいたが、もうまにあわなかった。 羅生門には鬼はいなくなったか、綱はしたんだふんでくやしがった。この鬼こそ茨木童子だというが、その後この童子がどこへいったか誰一人知るものはいない。 この地の伝説というか何かこの話はどこかにあったように記憶しているが、これが鬼ケ城にいたという茨木童子である。大江山の酒顛童子の弟とか云われる。この茨木は大阪府茨木市の茨木のことだという。 伊吹童子とか鈴鹿童子とかも知られるように、こうしたオニさんの地は古来からの金属生産地のようである。 茨木市に東奈良遺跡(弥生環濠遺跡)がある。最古の銅鐸やその鋳型が出土したことで知られる。豊岡市の気比3号銅鐸の鋳型もここから出土している。また福知山市今安の式内社・天照玉命神社とよく似た名の式内社・天照御魂神社と、名神大社の新屋坐天照御魂神社が二つもある、祭神は、天照国照彦火明大神である、海部氏の祖神と同じ。鬼ケ城の北側に奈良原という所もある。清和源氏の源頼光の拠点・摂津の多田庄(兵庫県川西市)とも近い。ここには多田銅山ある。頼朝や義経なども清和源氏である。 隣の大阪府高槻市とともに古くは三島と呼ばれた所で、金属と深い関係のある土地である。たとえば東奈良のすぐ近くの式内社・溝咋神社は溝咋玉櫛媛命を主神とし、相殿に媛蹈鞴五十鈴媛命・溝咋耳命を祀る、媛蹈鞴五十鈴媛命(紀)は富登多多良伊須須岐比売(記)とも呼ばれるが神武の正妃である。富登は火処、多々良は踏鞴であり、このあたりが金属生産の古くからの拠点であったことがわかる。継体や藤原鎌足の墳墓の営まれた地であり、日本全体のヘソのような所である。古くよりの産銅地で『大阪府の地名』は次のように書いている。 能勢郡採銅所 猪名川上流の旧摂津国能勢・豊島・川辺三郡、すなわち現在の豊能郡・池田市・箕面市および兵庫県川西市・川辺郡にまたがり、東西・南北ともに十数キロの範囲にわたって銅の鉱脈が存在する。古来、この鉱脈の開掘が続けられ、享保年間(一七一六−三六)の調査によると、間歩(坑道)は能勢郡一二ヵ村に一九五、豊島郡六ヵ村に三八、川辺郡五一ヵ村に一千六九六、計一千九二九ヵ所があったという(大阪府誌)。
乾鮭の怪物 (あやべ)
四ツ尾山を左にみながら南へ行くと綾部の小学校に出る。 妻の父が務めていた蚕糸試験所がある。その左の方藤山の麓に若宮神社がある。境内に杵の宮という変わった名前の社がまつられている。妻や母の話によると、この社は土地の守護神としてあがめられてきた。 この藤山の東南麓の一帯は老木が生い茂り、昼でもうす暗いところであった。その森を横ぎる道に大きな池があった。むかし宮津や舞鶴から魚を売りに丹波、京都へと売りにいく商人がいた。冬は乾鮭など干物、塩漬け魚を行商した。ある行商人がこの池のほとりに通りかかった。草むらの中に尾の長い鳥がばたばたしているのが見えた。在所の者がしかけたわなに雉がかかっているのだ。行商の男は、あたりを見廻したが人影がない、これ幸いにとその雉をちょうだいすることにした。たゞでは悪いと思ったのか、になっている籠より商売物の乾鮭を一尾、雉のかわりにかけておいたのである。 夕方になって、わなを見まわりに来た在所の男が、雉わなに奇妙なものんがかっているのをみてびっくりした。綾部から南へ山一つ越えた所には大原神社があって、その社の氏子は勿論、近隣では鮭や鱒がタブーになっている、わなの持主は、おそるおそる乾鮭をとりあげ池にほりこんで、あとも見ずに逃げ帰った。それから年がたって、この鮭が池の主になって、怪異を引きおこす事になったのである。 道を通る在所のもの、旅人をおどかし、時には人身御供の娘を要求したり、池に引きづりこんだりした。在所のものも、この池の主に出あうことをおそれた。 数年後、また通りかかった乾鮭売りの男は、大池の主が人身御供を求めることを耳にした。様子を聞くと、ばけもの鮭のようで、もしかしたら以前に自分が置いていった乾鮭が通力を得て、あやしいわざをしているに違いないと思った。そこで男は、怪物退治を引き受けて、人身御供の少女と共に池のほとりへ向った。退治するのにいいものもないので、杵をかりていった。 池のほとりに少女が立つと、池水がさっとたち、池の面が沸きたち、怪物が現れた。みると頭は鬼瓦のようで、胸のあたりから翼のようなものが生えていて、全身がみどりのこけがはえている。よくよく見ると、まさしく自分が置いていった乾鮭に違いない。男はこの怪物にむかって、 「お前はわしがわなにかけておいた乾鮭ではないか、ねだんは三分五厘のくせに、身のほども忘れたのか。」乾鮭の怪物も、売価をいわれてはぐうの音もでず、通力を失った。 そこを男は杵をふりあげて、頭をしたたかなぐりつけた。さすがの鮭の怪物もなぐり殺された。里人は怪物を殺した杵を神としてまつり、藤山の東にある本宮山という小さい丘に「杵の宮」を建立した。そして森を伐り、水路を掘って、大池の水を由良川へ流しこんだので、谷はみちがえるように明るくなり、伝説の池のあとは、緑のゆたかな住宅地となっている。 『京都新聞』(980614)に、 *ものがたりと出会う〈2〉*
*「杵の宮」伝説(若宮神社・綾部市上野町)* *命生みだす象徴に* 閑静な住宅街を見下ろす藤山(二〇一b)の中腹に茂る、杉の木立に囲まれた境内に、小さな祠(ほこら)が立っていた。伝説のヒーローは、もちをつく 四方義規宮司(五五)によると、境内から見渡せる住宅街は大昔は広い沼地だった。その東方には、水を満々とたたえる由良川が流れている。川は常に、人々から愛されてきたが、時には「暴れ川」に変身、恐れられた川でもある。 「水への恐れは、この土地の人にとって潜在的にあるでしょうね」と四方宮司。水害で人々を襲い、大切な稲をはぐくむ水は、悪魔と神が背中合わせに同居していた。 広い沼には怪物が 伝説で、有名なギリシャ神話を思い起こした。少女がアンドロメダ、旅人が勇者ペルセウス、杵がメドウーサの首で、ギリシャ神話のヒーローはペルセウスだが、稲作が盛んな綾部の伝説で、杵があがめられているのにはうなずける。祠には、伝説の杵はないが、境内は今も「家内安全」「無病息災」を祈願する人が絶えない。 杵の宮 綾部地方に古くから伝わる伝説の一つ。村を通りがかった旅人が、人身御供として沼に供えられている少女を襲おうとしている 『京都の伝説・丹波を歩く』に、 杵の宮由来 伝承地 綾部市本宮町
大昔のこと。秋風の吹く頃、丹後から魚売りの行商人がはるばる丹波路を越えて、うんと仕入れた干し魚の荷物を担いで寺村の山道を登ってきた。そして古池のほとりで一服しようとした。 当時この辺りは、うっそうと生い茂った大森林、原生林そのままの大木が、たけなす雑草とともにそびえていた。重い荷物を下ろして休んでいた魚屋は、不意に林の茂みの中からバタバタと異様な物音がしたので、ギョッとした。おそるおそる音のした茂みの中をのぞいてみると、そこには村人の仕掛けた罠に一羽の雉子が足を取られて、バタバタもがいている。「なんだ、びっくりさせるじゃないか」と魚屋は一安心したが、まてよ、魚はいつも食っているが、鳥の肉はなかなかありつけない、ひとつ取りかえっこしてやろうと、雉子を荷物の中にしまい込んだ。そしてそのかわり一尾の塩鮭を罠に掛けて、寺村から須知山(しちやま)峠へと急いでいった。 罠を仕掛けた村人は、なんか獲物はと、日暮どき池のほとりへやって来た。と、見ると罠には思いもよらぬ鮭がかかっているのでびっくりしてしまった。というのは、当時この付近一帯は、大原神社(天田郡川合村大原)の氏子であり、大原の氏子は、うなぎと鮭は絶対に食べなかったのである。鳥の獲物のかわりに、久しぶりに海の魚にありついたが、なんともしょうがないので、「神さんの祟りにあってはつまらない。オイ鮭公、この池の主になれ」と言って、勢いよく鮭を池の真ん中めがけて投げ込んだ。するとどうだろう。鮭はときどき白い腹を見せつつ、こっちを見るようにしていたが、ついに水中に隠れてしまった。村人は思わずゾッとして、まっしぐらに家に逃げ帰ったという。 それから一年あまりたって、この池にはときどき不思議なことが起こるようになった。ある百姓は、池のあたりで何ともいえぬ怪物に出会って逃げ帰ったが、そのまま熱を出して寝込み、あらぬことを口走るようになった。いわく、「毎年秋の末には少女を人身御供に供うべし。言うごとくにせざれば祟りをなさん。我は大池の主なり」と。近隣の者ども、この難題をいかんともしがたく、年毎に少女を供えることに決した。 話変わって数年の後、あの魚商人がいつものように青野の定宿に泊まると、さめざめと泣く声がする。主人に聞けば、大池の主の祟り、人身御供に我が娘を出さねばならぬという。これを聞いた魚商人に思い当たるところがあった。先年この大池の傍らを通り過ぎた折、罠にかかった雉子を盗んで、かわりに乾鮭を置いてきたことがある。その鮭が大池の主になったのやも知れぬと。そこで魚商人は、少し思いついたことがあるので、大池の淵に行って怪物を退治しようと申し出た。 いよいよ当日になったので、魚商人は宿のあるじから渡された屈強の杵を携えて、大池へ出かけていった。池のみぎわに築かれた高壇に娘を残して、草陰に身をひそめて時刻の至るのを待っていた。と、池面にわかに波立ち怪異の姿を現わした。長さ五、六尺、頭は鬼瓦のごとき異形ではあるが、たしかに先年雉子罠に置いた乾鮭に違いない。異形の鮭が娘を引き込まんとしたとき、魚商人は大声で呼ぱわった。「何者だろうと思っていたが、先年雉子罠に置いた鮭に違いない。そのときの値段わずかに三分五厘に過ぎなかったものを。おのれ身の程を忘れたか」と言って杵で頭をしたたかに打ちのめして退治した。 さてこの様子を見聞きした所の者たちは、かの商人を神仏のごとく敬ったが、魚売りは我が手柄を否定して言った。「ひとえにこの杵の威徳によるものなので、むしろこれを神と崇め申すべきだ」と。そこで祠を築いて「杵の宮」と仰ぐようになった。 (『綾部史談』) 【伝承探訪】 杵の宮はいま藩祖九鬼氏を祀る霊社と合祀されて藤山の麓若宮神社の境内にある。井原西鶴が「丹波に一丈二尺の乾鮭(からざけ)の宮あり」(『諸国咄』)と紹介したように、不思議ないわれを有する神社である。興味深いのは伝説が大原神社の鮭の禁忌を語ることだ。大原神社の氏子は鮭を食べない。そして鮭の禁忌を語る伝承も伝わる。この神社は三和町大原に鎮座する。安産・五穀豊穣の神として藩主九鬼氏の崇敬をうけていた。 『丹波志』によれば、天児屋根命が宮地を探してこの地に来たところ、水底より金色の鮭が現われて次のように告げた。「我は水底に住む者ではない。数千年の間この山を守る神である。いま嶺に白と青の幣ありて光を放つ。まことにこの地は大神の鎮まる霊地にふさわしい」と。同書はさらに悪事や不浄のあるときは、水面に鱒や鮭が浮かぶと記す。また鱒や鮭を食べぬとき、お産は安らかになると言い、妊婦はこの禁忌を守ったと伝えられる。大原神社は安産・豊穣の神として、鮭・鱒の禁忌を伝えているのである。 杵の宮伝説は大原神社とかかわって鮭の禁忌を語る。ならばそれは東北地方の「鮭の大助」の伝承と一脈通ずるものとなる。旧暦十一月、鮭の王〈大助〉が一族を従えて川を遡る。そのとき「おおすけこすけ今のぼる」という鮭の声を聞いた者は、三日以内に死ぬという。 なぜ池の主なる〈鮭の王〉を退治した杵が神と祀られるのだろう。若宮神社の四方宮司は、杵の音は邪気を払いますからと答えられるのだ。杵は破邪の呪具である。そしてかつては生命力のシンボルでもあった。宮廷の鎮魂祭(たまふりまつり)(天皇の生命力を増大させる祭り)の呪具のなかに臼と杵が見えるように(『延喜式』〉。 杵の宮伝説は、鮭の禁忌を語る「乾鮭の宮」の物語である。それは遠い昔、杵を神と祀る由来を語る豊穣の神話だったのだろうか。 綾部から須知山峠を越えればそこに大原神社は鎮座する。鮭は末社飛龍峰明神として祀られている。 『天田郡志資料』に、 府社、大原神社
川合村字大原鎮座 祭神 伊邪那岐尊.伊邪那美尊、天照大日?尊、月読尊。 伝へ云、当社は、もと文徳天皇仁寿二年三月廿三日、当桑田郡(今北桑田郡)野々村に鎮座。然るに時の国司大原某当社を信仰すること篤く後宇多天皇弘安二年九月廿八日此所に遷座奉斎す。爾来百余年を経て、後小松天皇応永四年十月十三日領王大原雅楽発起寄進して本殿、拝殿、舞楽殿等整ふ、此時領主より近傍数村に令して當社を産土大神たらしめたといふ。其後元亀、天正の交大原氏亡び光秀本国を領す。当時火災にかかり社伝、社記の類悉く焼失す。九鬼氏の綾部藩を治するや明正天皇寛永十一年始めて社領高三石を寄進せらる。爾来累代崇敬特に篤く以て明治廃藩に至る。其間九鬼氏は事.大小となく必す當社に奉告せらるゝのみならず、領内に於ける百穀豊穣の祈願、旱天には祈雨等神楽な奉奏して神助を奉仰されき。後土御門天皇明應三年十二月廿三日綾部藩主九鬼隆季華表修造同参道修理。後櫻町天皇明和四年二月六日藩主親拝、仁孝天皇天保十一年十月神林に接続せる山林を寄進せらる、今の保安林是なり。当社は安産の守護神.穀物豊熟の大神として其名漸く遠近に聞え賽者四時絶ゆることなし。 今.社紀に存する重もなるものを挙ぐれば 安永年中、丹波園部藩主小出美濃守の代参 寛政二年春、公家清水谷家の代参 仝三年二月廿八日、公家北大路弾正少弼の代参安産御守砂拝借。 仝年七月十五日、丹波國峯山浦主京極家より仝前 仝年八月廿三日、日野大納言家より仝前 仝十二年十二月七日、伊豫國宇和島藩主世子夫人より代参安産祈祷。 嘉永二年二月廿六日、丹後國宮津藩主本庄侯夫人奉賽として御供田四畝六歩寄進あり。 當神社域は天田、船井、何鹿三郡の境地にして四周皆山。而して川合渓流の清冷其下を流れ、眞に山高く水清かなる幽邃境なり、藩政時代は綾部領にして同地より京街道なる船井郡檜山驛に出づる往還に當れり。現時の社殿は寛政八年十月廿三日御遷座式を挙げしものにして爾来神徳いや高く、大正十三年二月七日、府社に昇格せらる。実に我が郡唯一の名社たり。 『京都府の地名』に、 大原神社(三和町大原)
祭神伊邪那岐命・天照大日・命・月読命。 社伝によると、仁寿二年852桑田郡 『北桑田郡誌』に 大原神社(美山町樫原)
大野村大字樫原に在る郷社 (大正十一年七月十日昇格) にして、伊奘冉尊をまつる。社傳によれば本社の創建は孝徳天皇の御代にして、実に丹波六社の一たりと。されどその沿革は之を知るに由なし、江戸時代には園部薄主小出侯累世の所願所なりしを以て毎年便を立てゝ奉幣せり。天田郡河合村及び同郡曾我我井村一宮神社境内に在る大原社はいづれも本社の分霊なるより推して、本社崇敬の範囲の廣大なるを知るに足らん。 例祭は七月十日にして、昔日は神輿の渡御曳物の奉献等ありて、頗る盛儀なり。社殿は老杉巨樫の間に建てられ荘厳の気自ら人の襟を正さしむ。本殿南向柿茸神明造三間四面、内陣は桁行一丈六尺四寸梁間一丈二尺なり。上屋を有すること諏訪神社に同じ。本社の神體は長さ三尺七寸五分の幣串にして、他社に類例稀なる所なり。摂社川上神社は素戔嗚尊をまつり、もと神の奥に在りしが、今は境内に存す。本社六月十二月両度の大祓の供物は、約六町を距れる上由良川井壷にまつれる一小祠前の激流中に拾つる習はしなるは、その古雅を偲ぶに餘りあり。摂社川上神社に関しては樫原住民間に鮓講(すしかう)と称する特殊の風習を遺存せるを以て、左にその梗概を記述せん。 川上神社は樫原部落住民の氏神なりと伝ぜられたれば、氏子たるもの結婚すれば一度はこの祭典を奉仕すべき慣例古くより行はれ、之を俗に樫原の鮓講といふ。即ち当月三日には三日月講と称へ、其の親戚知友相集り、九日に要する鯖鮓を調製して水漬にす。八日に至れば親戚知友を招きて披露の宴を張り、この夜より其の祭典に係る仕入九名神職と共にその家に籠りて、翌十日の祭式の練習をなす。當日に至れば早天行場(ぎやうば)に往きて水垢離を取りて潔齋し、神饌の調理をなす。祭式は一種の田楽にて、いづれも上下を着け、笛役一人太鼓役四人サヽラ役四人より成る。さて笛に合せて太鼓を打ちサヽラを摺る。(このサゝラは矢代の編木と同様の形にして古式の百子と称する楽器に類す其数は日本国数に揃へて国内安穏を意味すると傳ふ。) サヽラ役の中年少者三人は互に起ちて潤歩しつゝ仕人の前面を一周して拝をなす、終りに他の一人は三歩前方に跳躍して拝をなす。俗に之をカラスと云ふ。その献ずる神饌は盛相飯(もつさうはん)にして、之を圓錐形の型に詰めて松板の上に載せ、千切餅五個其他昆布??青豆青葉等を添へて奉るなり。又之と同様のものに杉箸を具して参詣者一般に配布す。これ往昔人身御供(ひとみごく)を行ひし餘風なりと解せらる。現今にては仕人の前夜より来泊することを廃し、當日早朝より之を勤むることに改めたれど、大體に於ては昔日の如き儀禮を行ふなり。 『京都の伝説・丹波を歩く』に、 杵の宮由来
伝承地 綾部市本宮町 大昔のこと。秋風の吹く頃、丹後から魚売りの行商人がはるばる丹波路を越えて、うんと仕入れた干し魚の荷物を担いで寺村の山道を登ってきた。そして古池のほとりで一服しようとした。 当時この辺りは、うっそうと生い茂った大森林、原生林そのままの大木が、たけなす雑草とともにそびえていた。重い荷物を下ろして休んでいた魚屋は、不意に林の茂みの中からバタバタと異様な物音がしたので、ギョッとした。おそるおそる音のした茂みの中をのぞいてみると、そこには村人の仕掛けた罠に一羽の雉子が足を取られて、バタバタもがいている。「なんだ、びっくりさせるじゃないか」と魚屋は一安心したが、まてよ、魚はいつも食っているが、鳥の肉はなかなかありつけない、ひとつ取りかえっこしてやろうと、雉子を荷物の中にしまい込んだ。そしてそのかわり一尾の塩鮭を罠に掛けて、寺村から須知山(しちやま)峠へと急いでいった。 罠を仕掛けた村人は、なんか獲物はと、日暮どき池のほとりへやって来た。と、見ると罠には思いもよらぬ鮭がかかっているのでびっくりしてしまった。というのは、当時この付近一帯は、大原神社(天田郡川合村大原)の氏子であり、大原の氏子は、うなぎと鮭は絶対に食べなかったのである。鳥の獲物のかわりに、久しぶりに海の魚にありついたが、なんともしょうがないので、「神さんの祟りにあってはつまらない。オイ鮭公、この池の主になれ」と言って、勢いよく鮭を池の真ん中めがけて投げ込んだ。するとどうだろう。鮭はときどき白い腹を見せつつ、こっちを見るようにしていたが、ついに水中に隠れてしまった。村人は思わずゾッとして、まっしぐらに家に逃げ帰ったという。 それから一年あまりたって、この池にはときどき不思議なことが起こるようになった。ある百姓は、池のあたりで何ともいえぬ怪物に出会って逃げ帰ったが、そのまま熱を出して寝込み、あらぬことを口走るようになった。いわく、「毎年秋の末には少女を人身御供に供うべし。言うごとくにせざれば祟りをなさん。我は大池の主なり」と。近隣の者ども、この難題をいかんともしがたく、年毎に少女を供えることに決した。 話変わって数年の後、あの魚商人がいつものように青野の定宿に泊まると、さめざめと泣く声がする。主人に聞けば、大池の主の祟り、人身御供に我が娘を出さねばならぬという。これを聞いた魚商人に思い当たるところがあった。先年この大池の傍らを通り過ぎた折、罠にかかった雉子を盗んで、かわりに乾鮭を置いてきたことがある。その鮭が大池の主になったのやも知れぬと。そこで魚商人は、少し思いついたことがあるので、大池の淵に行って怪物を退治しようと申し出た。 いよいよ当日になったので、魚商人は宿のあるじから渡された屈強の杵を携えて、大池へ出かけていった。池のみぎわに築かれた高壇に娘を残して、草陰に身をひそめて時刻の至るのを待っていた。と、池面にわかに波立ち怪異の姿を現わした。長さ五、六尺、頭は鬼瓦のごとき異形ではあるが、たしかに先年雉子罠に置いた乾鮭に違いない。異形の鮭が娘を引き込まんとしたとき、魚商人は大声で呼ぱわった。「何者だろうと思っていたが、先年雉子罠に置いた鮭に違いない。そのときの値段わずかに三分五厘に過ぎなかったものを。おのれ身の程を忘れたか」と言って杵で頭をしたたかに打ちのめして退治した。 さてこの様子を見聞きした所の者たちは、かの商人を神仏のごとく敬ったが、魚売りは我が手柄を否定して言った。「ひとえにこの杵の威徳によるものなので、むしろこれを神と崇め申すべきだ」と。そこで祠を築いて「杵の宮」と仰ぐようになった。 (『綾部史談』) 【伝承探訪】 杵の宮はいま藩祖九鬼氏を祀る霊社と合祀されて藤山の麓若宮神社の境内にある。井原西鶴が「丹波に一丈二尺の乾鮭(からざけ)の宮あり」(『諸国咄』)と紹介したように、不思議ないわれを有する神社である。興味深いのは伝説が大原神社の鮭の禁忌を語ることだ。大原神社の氏子は鮭を食べない。そして鮭の禁忌を語る伝承も伝わる。この神社は三和町大原に鎮座する。安産・五穀豊穣の神として藩主九鬼氏の崇敬をうけていた。 『丹波志』によれば、天児屋根命が宮地を探してこの地に来たところ、水底より金色の鮭が現われて次のように告げた。「我は水底に住む者ではない。数千年の間この山を守る神である。いま嶺に白と青の幣ありて光を放つ。まことにこの地は大神の鎮まる霊地にふさわしい」と。同書はさらに悪事や不浄のあるときは、水面に鱒や鮭が浮かぶと記す。また鱒や鮭を食べぬとき、お産は安らかになると言い、妊婦はこの禁忌を守ったと伝えられる。大原神社は安産・豊穣の神として、鮭・鱒の禁忌を伝えているのである。 杵の宮伝説は大原神社とかかわって鮭の禁忌を語る。ならばそれは東北地方の「鮭の大助」の伝承と一脈通ずるものとなる。旧暦十一月、鮭の王(大助)が一族を従えて川を遡る。そのとき「おおすけこすけ今のぼる」という鮭の声を聞いた者は、三日以内に死ぬという。 なぜ池の主なる(鮭の王)を退治した杵が神と祀られるのだろう。若宮神社の四方宮司は、杵の音は邪気を払いますからと答えられるのだ。杵は破邪の呪具である。そしてかつては生命力のシンボルでもあった。宮廷の鎮魂祭(たまふりまつり)(天皇の生命力を増大させる祭り)の呪具のなかに臼と杵が見えるように(『延喜式』〉。 杵の宮伝説は、鮭の禁忌を語る「乾鮭の宮」の物語である。それは遠い昔、杵を神と祀る由来を語る豊穣の神話だったのだろうか。 綾部から須知山峠を越えればそこに大原神社は鎮座する。鮭は末社飛龍峰明神として祀られている。 『何鹿の伝承』(加藤宗一・昭29)に、 杵の宮由来記
綾部市寺町の谷すそを流れる、田野川の一帯を、「池田」といっていますが、大昔、この谷は、おのづから大きい池であったことは、いまでも古老は、この地方のことを「古池」といい「正歴寺のうらから一ノ瀬まて、船で通った」という、博承さえのこっています。それが後代「池田」と、いわれるようになったのは、いつの世から、開こんされたものか、近くを流れる由良川に切り開いたものか。あるいは風水害のとき、自然に崩れてそうだったものか。ともかくこのあたりが、「寺村」「神宮寺」などと、よばれているように、上代インシンをほこっていた文化の中心地帯てあったろうことは、容易に想像されるようです。また、この地方が須知山峠の麓にくらいし、大昔、京に通じる要路として、たくさんの人々が、往き来し、この美しい池の風光とともに、いくたの物語があったことでしょう。「杵の宮由来記」は、その一つであります。 ○ 大昔のことである。物語は丹後の魚の行商人からはじまる。 秋風のそよぐ吹くころ、丹後から、魚売りの行商人がはるばる丹波路をこして、うんと仕入た干魚の荷物を、あえぎつつ、中村(綾中)から並松を通り、寺村の山道に登ってきて、この池のほとりで、やっと一ぷくしようとしました。 当時このあたりは、うつそうとおい茂った大森林、原生林そのままの大木が、たけなす雑草とともに、亭々とそびえていました。「やっとこせ」と、重い荷を下して休んでいた魚屋は、そのとき不意に、林の茂みのなかから、バタバタと異様な物音がしたので、ギョッとしました。おそるおそる昔のした、茂みのなかをのぞいてみると、そこには、村人の仕かけた、ワナに一匹の雉子が、あしをとられて、バタバタもがいているのです。 「なアーんだ、びっくりさせるじゃないか」と、魚屋はひと安心しましたが、「まてョ」魚はいつも食っているが、鳥の肉は、なかなかありつけない。一つ取りかえつこしてやろうと、一人がつてんして、雉子を荷のなかに、ぼんとしまい込み、そのかわり一尾の塩鮭をワナにかけて、魚屋はすたすた、寺村から須知山峠えと、急ぎました。 ワナをしかけた村人は.なんか獲物はと、日暮どき、池のほとりにやってきました。と、みると、ワナには思もよらぬ、魚みたいなものがかかっているので、吃驚しました。 「これは何としたこっちや、魚も魚だが、これは鮭じゃないか」 と、二度吃驚しました。というのは、当時この附近一帯は、大原神社(天田郡川合村大原)の氏子であり、大原の氏子は、鰻と鮭は、ぜつたい喰べなかったものです。 鳥の獲物のかわりに、久しぶりに海の魚にありついたが、なんともしようがないので、「チエッ」と、舌打するとともに、 「神さんの祟りにあつてはつまらない、オイ鮭公、この池の主になれ!」 といって、勢よく鮭を池の真中めがけて投げこみました。すると、どうでしょう。鮭はときどき、白い腹をみせつつ、こっちをみるようにしていたが、ついに水中にかくれてしまいました。村人は、恩はずゾッと寒気をおぼえ、まつしぐらに、家の方に逃げ帰りました。 それから、一年あまりたって、この他にはときどき、不思議なことが起るようになりました。ある百姓は、池のあたりで、なんともいえぬ怪物に出合って逃げかえったが、そのまま熱をだしてねこみ、うわ言に池の怪物のことばかりいっている。これが一人だけでなく、誰れさんもみたかれさんもみた。あるときは追かけられた。という話もでて、この美しい池は、いまや淋しい、気味のわるいものになってしまいました。 しかし、この池のはたの道は、丹波、丹後と、そして京街道の要路で、ほかに脇道を通ると、いうわけにはまいりません。それから附近一帯の人々が、大変心配になりました。と、いうことは、ついに毎年人身供養として、少女を一人づつ池の主にださねば、いつ、この地方一帯に恐ろしい祟りがあるかわからんということになりました。そしていけにえになる娘の家には、どっからか白羽の矢がたつというのです。大事な娘を泣きの涙で送った親たちは、もうすでに三人、ことし四人目の人身供養に、ださねばならなくなったのが、青野の宿屋の、かわいい娘でした。 さて、一方鮭と雉子とを、とりかえつこした、丹後の魚屋は、あれから五年目、どっさり魚を仕入れて、都にのぼろうと、やってきましたが、綾部で日が暮れ、いつもとまる青野の宿屋え 「今晩は、丹後の鮭賣りだが、こんばん宿を一つ」 と、勢よくいいましたが、いつも機嫌よく迎える宿の主人が、今日にかぎって、妙にふさぎこんでいます。 「今日はちょっと取込んでいるので、どこかほかの宿え……」 というのです。魚屋は 「冗談いっちゃいけないよ。取り込んでいるつて、誰れも出入があるようすはないじゃないか水臭いこというんじゃないよ。どこだってかまわない」 と、いって元気よく、勝手しった部屋には入ってしまいました。宿屋の主人は、なじみ客のことであるし、しかたなく、「それでわ」と、いって泊めることにしました。 魚屋は、クシャクシャ腹で、夕飯もそこそこ、早寝をしました。フツと眼がさめますと、隣りの部屋から、ススリ泣の声が、するではありませんか。じツと、耳をすましますと、 「ここまで大きくしたのになア」 「いくら池のヌシだといっても、腹がたつ」 「あアあア、もう、今夜かぎりの命か」 すると、娘の声も、まじって、 「おつ父う、おつ母ア、あしや、こわい」 「ああ、いじらしい」 といって。また、夫婦のすすり泣く声がします。魚屋は、やにわにガバと、飛びおきました。 そして、がらりと、ふすまをあけますと、そこには、白裳束の娘を中にはさんで、宿の主人夫婦が泣きくづれています。「あツ」と、驚く夫婦を制した魚屋は、 「なンだって、なンって、驚くのはこっちのこっちや。なにツ、今夜限りの命だツ!驚き、桃の木、山椒の木ってやつだよ。えいツ、黙っていっちゃわからない。なんのこっちや話してみなア」 夫婦の物語は、四年前からの池の怪異と、池の主に献げる人身供養のはなし、今年は、わたくしの娘に、その白羽の矢がたったことを、涙ながらに話しました。 じっと、聞いていた魚屋は、なにか思いあたることがあるとみえ、大きくうなづいていました、決心していいました。 「ようし、おれが一番、その怪物とやらを退治してやろう」 「ええツ、それでも祟りが!」 と、おそれおののく夫婦を制して 「祟りなんてクソくらえだ、そのヌシってやつを、たたき切ってしまえば、こっちのもんじゃまア オレにまかしておきな」 といって、魚屋は、帯をしめなおし、はや天秤棒をにぎって、立ちかけましたが、なんと思ったか、土間の隅にかけてある、杵を、みつけ 「やツやツ いい得物があるゾ、これは屈強のものじや」 と、いってその杵をしっかとにぎり、夫婦と娘をうながして、魚屋は、そのあとにつづいて家をでました。綾中から由良川添に、やがて、道を右にとり、池の土手をあがってゆきますと、くらい林にかこまれた、池は、おりからうすぐらい、弓張月にぼんやり照らされて、気味わるく静まり返っています。土手のなかほどには、新らしく作った、青竹の、人身供養の構があります。夫婦は、その中えやつと娘をいれると、かけるように土手をくだりました。魚屋は、それをみ届けると、一抱えもある大木の影に、そツと、身をかくして、容子いかにと、娘の方をみていました。すると、やがてのこと、池の水がざわめくと思うと、さツと、波もんをあげてあらわれた怪物は、なあ−んと、丈余もある、鮭の怪物ではありませんか。 「やっぱりそうだツ、あいつだ。ここで取りかえつこした、鮭の野郎だ。池の中にはいって、主になりおりやがつたナ。ようし、いまにみておれ!!」 と、腹のなかで叫びました。鮭の怪物は、ばアツと、水をきって、土手にはいあがり、そろそろ、娘の方に近づいてゆきます。いまや、躍りかかろうとするシュン間、魚屋の杵の一撃は、怪物の脳天を打砕きました。 「おのれ! たかが三分五厘の野郎じゃないか。くたばれ!!」(三分五厘とは鮭のねだん、米の代一合たらず) と、さらに止めの一撃で、怪物は、もう、動かなくなってしまいました。 生きた気持もない、娘をかかえて、魚屋は、夫婦をよび、意気揚々と青野に引きあげました。魚屋は、附近一帯のものから、神様同様の扱いされる騒ぎになりました。 「わしの力じゃない。みんな、この杵の力さ!!」 と、あっさり言葉をのこして、魚屋は、都にのぼって行きました。 村人たちは、不思議な偉力を発揮した、この杵を、寄合の結果、御神体として、池の上のお山げんざいの本宮山のいただきに祭ったのが、この杵の宮であるということです。 ○ 「杵の宮」のことは、井原西鶴の「諸国はなし」 (一六八五)の開巻一頁の序文の中にもでています。「世間の広き事・国々を見巡りで 談話の種を求めぬ。熊野の奥には、湯の中にひれ振る魚あり、筑前の国には、一つをさし荷の大蕪あり、豊後の大竹は手桶となり、若狭の国に、二百余才の白比丘尼、近江の国堅田に、七尺五寸の大女房もあり、丹波は一丈二尺の塩鮭の宮あり。松前に百間続きのあらめあり。(中略)是を想ふに、人は妖物世に無いものはなし」 本宮山にあった杵の宮は、そのご綾部藩主九鬼さんの祖霊社とともに、若宮神社の境内にうつしまつられていたことは、綾部の人々には、よくしられていることであります。ところが、昭和のはじめ、兵庫県印南郡西志万村に住んでいられる、九鬼隆治氏が、綾部にこられ、九鬼の祖先が、おろそかにされているとかいって、おこられ、宮居をこわして、持ち帰られるとき杵の宮の御神体まで持ち帰られ、いま、このいわれの「杵」はもう綾部にはなくなっています 杵の宮は、九鬼氏とは何の関係しないもので、この地方一帯につたわる、貴重な文化財てあります。かつて、三都新聞社は、この杵の復帰運動について要望しました。そのご、この要望は、そのままになっていますが、われわれは、何とかして、杵の宮の御神体である、この、杵の復帰を実現ざして、わが郷土の文化を豊かに、したいものと念じています。 なお、本文はかつての「三都新聞」昭和二十六年九月十、十七、二十五日連載のものを、ほとんど、そのまゝ引用ざしていたゞきました。 なお、凸版の地図は、村上佑二氏「平安」(昭和二十九年四月)にのる「綾部の傳説 杵宮由来」から、厚意ある借用ざしていただきました。同誌の由来には、江戸時代、綾部藩士、辻村良衛の「ふるさと」の写本の全部がのっており、まことに、貴重なものであります。三都新聞の記事、したがって、本稿も、この「ふるさと」がもとになっていることは、いうまでもありません。 いくつかの古い伝説が融合したのかも知れない。江戸時代にはこうした形になっていたのであろうか。杵の宮の「杵」は、ウスとキネのキネなのだろうか。柳田国男『国語の将来』は、杵は古語キであったことは、杵築(きづき)・杵島(きしま)・彼杵(そのき)等の、多くの地名からでも知られるが、現在は単音節の形で呼んで居る處は一つも無い。東北地方は一般にキゞ又はキゲで、稀に山形市附近のキヌなどがある。関東地方にもキマ・キゲがまじって居るが、一般にはキネが用ゐられ、… キネは摂津国能勢郡枳根郷に式内社の岐尼神社神社がある。宮津市の木子は本当はキネかも知れない。さて何を意味したものだろうか。何か金属と繋がるのでは…
*季語「大原志」廃れさせない*
*ゆかりの福知山・大原神社と俳句愛好家* *全国から投句募る* 福知山市三和町の大原神社にちなんだ古い季語「大原志(おばらざし)」をよみがえらせようと、地元の俳句愛好家が句を募集し始めて五年目を迎えた。これまで集まった俳句は計一千句を超える。句は、神社絵馬殿の掲示板に飾り、参拝者に紹介している。今年も神社の祭礼がある五月三日に投句箱を設けて、句を募集する。 かつて安産守護、養蚕の神として知られた大原神社への参詣者は多く、都から高貫な女御が牛車で訪れるほど高名だった。「大原志」は、そのにぎわうさまを表す夏の季語として江戸期の俳書「毛吹草」にも記された。神社絵馬殿には俳諧を楽しむ三十六歌仙の絵額や江戸の著名な狂歌師の狂歌額が残り、地方の文化拠点だったが、近年参拝者が減り、養蚕も廃れるなか、大原志も歳時記から消えつつあった。 俳句を愛好する地元の書家山内利男さん(六八)は大原志を知り、言葉が持つ豊かな世界を失ってはならないと、地元句会を中心に「よみがえれ『大原志』俳句募集実行委」を結成。二〇〇二年、神社鎮座千百五十年祭に合わせて句を募ると、全国から百四十句集まった。地域の大工や製材所が協力して句額を作成。山内さんが百四十句を揮毫(きごう)し、古い句額の隣に加えた。 毎年集めた句は、山内さんが短冊に書き、二カ月に三十点ずつ境内に飾る。特選の二句は献吟する。同神社の林秀俊宮司は「埋もれていた季語が復活してきた。絵馬殿を平成の句額でいつぱいにしたい」と喜ぶ。山内さんは「大原志を使った優れた例句がなかったのも、廃れた一因。いい句が集まっているので、いつか本にして残したい」と話す。俳句は郵送も可で、大原志の季語のない句も歓迎。… 参詣を志と呼ぶ神社は、確か若狭にもあったと記憶するが、思い出せない。
鬼の送り
昔、島(網野町)の安達(あだち)家の何代か前の主人が京都から帰る途中道に迷い、あせればあせるほど山の中に迷いこみ、日はとっぷり暮れ、おなかはすいて、もはや歩く気力もなく、山の中に倒れておりました。 夜がふけてきた頃、どこからか鬼が現われて、 「おい、こんな所にお前は何をしとる」と言うので、おそるおそる、 「道に迷って、おなかがすいて、どうにもなりません」と申しますと、 「そうか、それはかわいそうに。ではおれが送ってやろう。目をつぶって、おれがよいと言うまで開いてほならんぞ」と言って目隠しをされた。 しばらくしてから、 「そら帰っただ」と言うから目隠しを取ると、それは自分の家のかどであったということです。 その後安達家一族は、節分の夜の鬼はじきをやめて、「鬼は外」の豆まきはしないということです。 語り手・糸井芳蔵 (網野町島津) ※三津(網野町)の末次というみょう字の家でも節分の豆まきをしない家が多いといいます。 『ふるさとのむかしむかし』(網野町教員委員会・S60)に、 節分に鬼やらいを行わない家
それは、だいぶん昔の話です。何代か前の島の足達家の主人が、京都から帰る途中、道に迷い 陽は暮れるし、あせればあせるほど、山の中に迷いこみ、もはや歩く気力もなくなり、とうとう山の中で倒れておりました。 夜もふけてきてから、どこからか鬼があらわれて、 「おいこんな所に、お前は何をしとる」と問うので、おそるおそる、 「道に迷ってこんな山中に入りこみました。おなかがすいて、もうどうにもなりません」と答えますと、 「そうか、それはかわいそうだ。それではおれが、送ってやろう。目を閉じ、おれがよいというまで開けてはならんぞ」といって、目かくしをされ、しばらくすると、 「そら帰ったぞ」と言うので 目かくしを取ると、そこは自分の家の前でありました。 このような不思議なことがありましたのでその後、足達家一族は節分の夜の鬼やらい(鬼は外)はしないということです。 (原話 島津 糸井芳蔵) 『ふるさとのむかしむかし』(網野町教員委員会・S60)に、 節分の晩に豆まきはしない
むかし、私の家の祖先さまが、宮津の殿さまの言いつけで京都へお使いに行きました。 京都から帰る途中、道に迷ってしまいました。日は暮れてしまって困っていました。その日は節分の日だったそうです。 すると、どこからか、ひゃっかけ(鬼)が出てきて、 「どこへ行くのか」と聞きました。 「三津へ帰りたいのだが、道がわからなくなって困っています」と言うと、ひゃっかけは、 「節分の晩に豆まきをするな、そうしたら送ってやる……さあ、わしの背中に負われて 目をつむれ。もうよいと言うまで、ぜったいに目をあけるな」と言いました。 言われたとうりにして、しばらくすると、 「目をあけ」と言うから、開けたらいつのまにか三津の自分の家に着いていました。 それで先祖さまは 「節分の晩に豆まきしてはいけな」 と、自分の子供たちにも言い伝えました。それで私の家は、豆まきがしたくても、できないのだそうです。 (原話 三津 末次みな子) ※追って、三津には末次という姓の家が十五軒以上もありますが、現在でも節分の晩に豆まきをする家と、しない家とはっきりわかれています。 『舞鶴の民話5』に、(挿図も) 「鬼は外」はしない (網野)
むかし網野町の安達家の何代か前の主人が、京都から帰る途中、田辺のあたりで道に迷い、あせればあせるほど山の中に迷いこんだ。お日様は西の山に沈み、日はとっぷり暮れた。昼べんとうは困っている親子がいてくれてやったので、おなかがすいて、もはや歩く気力もなく、山の中にたおれていた。 大江山からか、青葉山からかわからないが、どこからともなく鬼が現われた。 「おい、お前、こんな所で何をしとる」という。主人はゆりうごかされ、耳をつんざく声でびっ くりしてとびおきた。 「道に迷い、おなかがすいて、元気がなくなって一歩も歩けません」というと「そうか、それ はかわいそうに。お前はなかなか人がいい男と聞いている。ではおれが送ってやろう。目をつぶって、おれがよいというまで開いてはならんぞ」といってはらまきをとって目かくしされた。 しばらくしてから、鬼はやさしい声で 「そら帰っただ」というから目かくしを取ると、それは自分の家の前であったということであ る。 その後安達家一族は、節分の夜の鬼はじきはやめて、「鬼は外」の豆まきはしないということである。網野町の末次というみようじの家でも、節分の豆まきはしない家が多いという。 島津と現在は呼ばれる。式内社・床尾神社(祭神=天酒大明神 豊宇賀能売命)が鎮座する。金床のトコであろうと思われる。阿達氏は足痛系の氏名のようで鍛冶屋さんに多い。末次氏は須恵器作りであると言われる、千度こえる高温を扱い金属の生産とも関係がある。またスエは鉄を言う朝鮮語でもある。 床尾は普通はユカヲと読んでいるが、ユカワとも呼ばれる。そうすると天湯川板挙命を祀る鳥取氏の神社なのかも知れない。この境内社に同神を祭神とする早尾神社がある。ここから東へ2キロばかりで古代製鉄コンビナートと呼ばれる遠所遺跡がある。その先が弥栄町鳥取の集落である。 「床尾神社」 『おおみやの民話』(町教委・91)に、(イラストも) 豆をまかない話 上常吉 安見幸八
安見家のいい伝えによると、初代のころ、娘が病気になって、京へ行った帰りに、大枝(京都市)の峠までもどったら、鬼が出てきて、食ってしまうと、いうたんで 「実は、わしの娘が病気で薬もらいに来て、これから帰るところだで、どうしても帰らんなん」いうたら、 「ほうなら目えつぶっとれ」いうて、大枝から矢のように飛んで帰り、眼えあけたら、安見家の玄関だって。そしたら鬼が、 「お前を食うこたあやめた」と、いうた。 その代り安見の家では、節介の晩げ、豆はまかん。 福は来てほしいが、鬼さんも来てほしいで、「福は内、鬼は内」いうた、という話。 大枝の坂(老ノ坂)にはやはり鬼が出たようだ。 『丹後の民話』(萬年社・挿絵=杉井ギサブロー・関西電力・昭56)に、(挿絵も) 節分のない菰池
もう、ずう〜っと遠い昔のことである。 薦池という村では、節分に大江町の元伊勢神宮へお参りに行く風習があった。 その年は、大家さんが村を代表してお参りに出かけた。雪の中をひたすら歩き続け、峠を越えて、やっとの思いで元伊勢さんに着き、村の安全と村人の健康、そして、五穀豊穣を一心に念じた。 無事にお参りをすませた、その帰り道のことである。峠にさしかかるあたりから雪が又チラチラと舞いはじめだし、大家さんは道を急いだが、夕暮れ近くには、とうとう吹雪になってしまった。 大家さんは、横なぐりのひどい雪に進むことができず、あたりを見渡したが休ませてもらう人家もないので、しかたなくその場にうずくまって、じっと雪のおさまるのを待っていた。 ところが吹雪はますます勢いを強めるばかりで大家さんは、とうとう体が冷えきって、そのまま倒れてしまった。 と、大家さんの肩をゆさぶり、しゃべりかける者があった。 大家さんが、ふわぁっと目をあけて見上げると、 それは鬼だった。 鬼は、大家さんに 「わしが、お前をおぶって送ったるで、目つぶっとけ」 と、大きな声でいった。 大家さんは、小さくうなずくと、また気を失ってしまった。 そして、囲炉のパチパチという音に気がつき、 目をさますと、そこは我家だった。 「はぁれぇ……」 と、大家さんが、ぼんやりと見まわすと、囲炉のむこう側に鬼が座っていた。 びっくりして起きあがった大家さんに、鬼は、 「もう、心配ねえな」 と、いって帰ろうとした。その言葉に大家さんは鬼に助けてもらったことを思い出し、 「おおきにありがとうございました。おかげで命が助かりました」 と、何度も何度も、頭を床につけた。そして、 「何ぞ、お礼がしたいので、どうさへてもらったら、ええでしょう」 と、いった。すると、鬼は、 「礼はしてもらわんで、ええけど、ひとつ頼みがある。節分の日には、豆まかんといてくれ」 と、いった。そして、 「もし、豆まきをやめてくれたら、この村を、火事から守ってやる」 と、いって、帰って行った。 あくる朝、大家さんは村人をぜんぶ家へ呼んで鬼に助けられた話をした。 村人たちは、鬼といえば娘をさらったり、人を喰ったりする恐しいものとばかり思っていたので、狐につままれたような、ボカンとした感じだったが、 「大家さんのいうことにゃ、まちがいは、ねえ」 「鬼は命の恩人だぁ」 「よかったよかった」 と、口々にいいだした。 そして、鬼の恩に報いるために、これから村では節分の行事を一切やめようと決めたのである。 それから何百年もたった今でも、この薦池の村では、節分の行事をしていないという。 だから、鬼も約束通り、火事から村を守っているのだろう。家が焼けたということは昔からなく、山で何度か火がでたらしいが、不思議とそのたびに大雨が降り、ぼやのうちに消えてしまったと、いうことである。 津々浦々で、「鬼は外……」と豆まきをする節分の日は、全国の鬼が難を逃れて、この薦池に集まり年に一度の寄りあいに、楽しいひとときを過ごしているのでは、ないだろうか…。 (薦池・和田昭夫様より) 『子どもがつづる丹後の歴史』 鬼は内 福は内
宮津市・上宮津小 六年 久古直樹 僕の家の近くに節分の豆まきを「鬼は内、福は内」といってまく家がある。僕の家は、「鬼は外、福は内」といってまくので、「鬼は内」といって豆まきをする家のあることを初めて知った。どんな訳があるのか、聞いてみた。 昔から、僕の住んでいる上宮津には大きな村山がある。昔はこの村山でたき木を作り、宮津の町まで売りに行って金をもうけたそうだ。今はその村山に植林をして、毎年地区の人たちが何日か出て植林の世話をしている。 この村山が上宮津地区の山になるについては、舞鶴の大俣村との長い長い年月にわたる争いがあったそうだ。江戸(東京)まで出て裁判をしてもらったそうだが、上堀さんの祖先の人が、その裁判の帰り道、山道で日を暮し暗い夜道を急いでいると、鬼が出てきて言ったそうだ。 「早く帰りたければ背中ににつかまれ。」 上堀さんの祖先の人は、日が暮れるし急いでいたので、鬼の背中につかまって、無事家までつれてもどってもらったそうだ。 そのとき、鬼がこんなことを言ったそうな。 「今夜つれて帰ってやった代わりに、わし(鬼)が丹後町のいつぎの宮神社にお参りするときは、おまえの家で休ませてくれ。」 けれども、上堀さんの家は当時貧しくて泊まってもらえるような家ではなかったので、そのことを言うと、鬼はこういったそうな. 「入口の戸を少しあけ、外に石うすを置いてくれればよい。」と、その事があってから上堀さんの家では二月四日の節分の日には、「鬼は内、福は内」と豆をまくのだということだ。困ったとき助けてもらったことを喜び、末代まで感謝の気持ちを伝えていくこのような話を僕はおもしろいと思った。 ホーラやっぱり、という感じでこうした話が伝わる。碇峠の東側、浦島太郎さんのふるさとである。大江町元伊勢とも関係が深い。上の写真の鞍部が碇峠、右手の山が碇山、中央の建物の下に道が見えるが、この道を登って行けば、菰池である。二軒は人が住んでおられる様子だったが、残りは空屋のようであった。農業で生活できるほどの農地はなさそうに見えた。 『ふるさとの民話』(丹後町教委・昭58)に、 鬼祭りのおぼこ
枚の谷 川戸 数恵 昔は、ここら辺はもう 「丹後の 「奥さん、あります」と。「もうあらたかなもんで これはその鬼祭りのときの 「ああ、とうもありがとうございます」と言うて、それをもって飲ましたち、ほいたら治ったいうて。 「おぼこ」とは何だろうか。ウグイの子をそう呼ぶが、そのことかどうかわからない。牧の谷は此代の分村。上の写真では中央の奥まった谷である。正面の山は依遅ケ尾山。中央左手少し明るくしてある所、低い丘のように見えるのが、日本海側では最大とか二位とかいわれる神明山古墳である。竹野神社は古墳の左側にある。 『丹哥府志』には、 ○牧の谷(乗原、牧の谷の二村は木代村の端郷なり、山を隔てて宮村の南にあり)
【鬼神塚】(祭十一月中の丑) 昔麻呂子皇子の誅戮せられたる夷賊の墓なり賊に鬼神塚といふ、凡十五六も處々に散乱してあり、昔は四五尺斗りある石の擬法師に似たるものを其墓に建てたり、まづ五輪ともいふべきものなり、今半は地に埋れて壹ツ残る、其損じたるによりて近世新に石を建て鬼神塚と刻す。其祭の次第異風なる事なり、始め竹野村の下社家といふもの卅六人斎戒沐浴して祭の前夜より清浄の家を撰み竹野村に篭る、翌日相與に宮村に来り社司桜井氏と同じく牧の谷へ行き於是呪文をあげる、世の人其祭り與る人に見らるる時は三年の内に命終るとて一人も其祭を見るものなし、其夜の夜半に及ぶ頃社司一人従者一人本社へ参り米を洗ふて飯を焚く、其飯の熱する頃従者本社より退き其跡に於て社司如何する事を知らず、社司も亦如何する事をいはず、よって世間其次第を知る者なし、或は云、飯に砂を半交ぜて背手にて之を神前に供す、既に供して直ちに帰る、其帰る頃其飯を食ふ者ありといふ、其夜奇怪の事ありとて日の暮より家の戸を鎖して一人も戸外に出る者なし、昔凶賊の此辺に徘徊せし時の余風其祭り残りて斯様の次第なりや、如何の謂をしらず。
(九鬼家の節分の事)
先年のことなり。御城にて、予、九鬼和泉守〔隆国〕に問には、世に云ふ、貴家にては節分の夜、主人闇室に坐せば、鬼形の賓来りて対坐す。小石を水に入れ、吸物に出すに、鑿々(さくさく)として音あり。人目には見えずと。このことありやと云しに、答に、拙家曽(かつ)て件(くだん)のことなし。節分の夜は主人恵方(えほう)に向ひ坐に就ば、歳男豆を持出、尋常の如くうつなり。但世と異なるは、其唱を、鬼は内、福は内、富は内といふ。是は上の間の主人の坐せし所にて言て、豆を主人に打つくるなり。次の間をうつには、鬼は内、福は内、鬼は内と唱ふ。此余、歳越の門戸に挟(さ)すひら木、鰯の頭など、我家には用ひずとなり。これも亦一奇なり。 ふと竹野神社(竹野郡名神大社)の話を思い起こさせられる。この社の宮司の祖を祀る社を丸田神社と呼ぶから、実は竹野神社も鬼を祀る神社なのであろう。
射矢の神事 (与保呂)
与保呂川をさかのぼって亀岩橋を渡っていくと、現在、新しい住宅が右側に立ち並んでいる。ついこの間まで田んぼであったのに。 木下橋を右折すると木下の村がある。遠くにこんもりとした森がある。そこは昼も暗く、なかには八幡宮が奉祠されている。 この八幡宮は毎年、三月九日に「射矢の神事」が行われる。この日のために地元では青少年三人が一週間前から身を清め、神事にそなえる。その式は乙矢中矢箭の三態とし、各三人がそれぞれを受け持ち、一態は九矢三節をし、通し二十七矢を射る。的は鬼面にて最後の一箭は満を張って射るしぐさをし、左手で矢を握ったまま放さず式を終る。この式は、今から七十年前では行われていたのだが今はない。この神事の起源は、古老によれば、今より八、九百年前、与保呂が比えい山延暦寺の所領であったころ、当時は荒涼たる一山野で野獣があばれまわり、開拓者を悩ました。そこで、その収獲物を害する野獣を追い払うため、野中に仮小屋を立て、夜な夜な開拓者が交代で弓箭を持って守ることになった。ある夜、おじいさんが弓矢を取ってこの仮小屋を守っていると、夜半となって老妻が遠くから大声を出しながら走ってきた。なにごとかと聞けば、「今、比えい山からおふれが来て、この手紙を持って来た」という。 その唐突なことといい、その姿といい、これはあやしいとにらんだ老人は、その老バめがけて一矢を放った。老バは手にした鉄の茶ガマのフクでこれを防ぎ、次々と老人が放つ射を巧みに受け流した。 そして、ついに老人の手もとには最後の矢が残っただけとなった。老人はこれを満と張った弓につぎ、大声で「残念ながら、これでおしまい」と叫んで、矢を放たずに左手に握った。 この時、怪獣が鬼面をそばだてて老人に飛びかかって来た。老人は手にした矢でこれを刺し、怪獣を退治したというのである。 現在、この神事は薬師堂で行われている。
【鬼神塚】(祭十一月中の丑)
昔麻呂子皇子の誅戮せられたる夷賊の墓なり俗に鬼神塚といふ、凡十五六も處々に散乱してあり、昔は四五尺斗りある石の擬法師に似たるものを其墓に建てたり、まづ五輪ともいふべきものなり、今半は地に埋れて壹ツ残る、其損じたるによりて近世新に石を建て鬼神塚と刻す。其祭の次第異風なる事なり、始め竹野村の下社家といふもの卅六人斎戒沐浴して祭の前夜より清浄の家を撰み竹野村に篭る、翌日相與に宮村に来り社司桜井氏と同じく牧の谷へ行き於是呪文をあげる、世の人其祭り與る人に見らるる時は三年の内に命終るとて一人も其祭を見るものなし、其夜の夜半に及ぶ頃社司一人従者一人本社へ参り米を洗ふて飯を焚く、其飯の熱する頃従者本社より退き其跡に於て社司如何する事を知らず、社司も亦如何する事をいはず、よって世間其次第を知る者なし、或は云、飯に砂を半交ぜて背手にて之を神前に供す、既に供して直ちに帰る、其帰る頃其飯を食ふ者ありといふ、其夜奇怪の事ありとて日の暮より家の戸を鎖して一人も戸外に出る者なし、昔凶賊の此辺に徘徊せし時の余風其祭り残りて斯様の次第なりや、如何の謂をしらず。 鬼神塚は神明山古墳の南側にあるそうであるが、私はまだ訪ねたことがない。
鬼の宿
山形県西田川郡菅野代鬼坂、この地についてはすでに述べた通り、鬼に鍛冶屋が宿を貸した話のあるところである。鬼に宿を貸すところとしては、大和国吉野郡天川村洞川、同村坪内などのほか、自分の知っているのは、兵庫県城崎郡香住町である。ところで前者の吉野郡洞川、坪内などは金峰山(大峰山)の登山口であって、役行者に関係があり、修験道の鬼に関連があることは想像されるが、後者の香住もカスミであって、修験者は霞を吸って生きているといわれるように カスミというのは、山伏の生活を援助するところの地名である。兵庫県の香住もその一つであろう。ここには浜砂鉄も沢山とれるし、その近くの山からは、黄金も出たという次の報告がある。 本尊は帝釈天王です。焚天は祀っていません。四天王が脇仏となっています。昔は浜から沢山の砂鉄が取れました。鉱山は、金山が近くにあります。今は廃鉱です。同村に鋳物師がおりました。焚鐘等を鋳造したのが残っています。鬼の伝説はありませんが、節分に鬼の宿をする家があります。大蛇の伝説は残っています。 (兵庫県城崎郡香住町下の浜帝釈寺) なおこれについで、帝釈寺横田住職からの通信によれば、この香住には山状寺があったとあり、本来帝釈天を祀る帝釈寺そのものが須称山にあり、四天王と共に鬼をつれているものであって、役行者などの鬼なども、この帝釈天などのことから出て来たのではないかという疑いさえもある。帝釈天と鬼については別の機会にも述べることにするが、とにかくこの香住は、明らかに山伏−金工地−鬼の関係を示している。正月に鬼を迎える家は、仙台にもあった。全国各地には、もっと沢山あるのではないかと思われる。前記の大和国吉野郡天川村洞川には、磁鉄鉱が沢山とれるし、同村坪内もその上にある弥山が黄金がとれると伝えているところである。 このあたりは丹生の地であり、花見トンネルというのもある。確か鉱山もたくさんあった。鉱山地帯で鬼の宿があっても不思議ではない。 同書には次の記事もある。 …その数年前、出羽の羽黒山の研究の第一人者戸川安章氏から頂いたハガキのことであった。それは次のような文面であった。
出羽国鬼坂峠には、次の如き話があります。後三年の役に越後の鬼が阿部貞任を助けようとして同町にある鬼坂峠にさしかかった。するとそこに立っていた地蔵さんにけとばされて、ぼうぼうの態で越後の方へにげ帰ったが、途中で日が暮れた。鬼のことなので、どこでも泊めてくれない。ふと鬼は鍛冶屋は鬼を嫌わないと聞いていたので、鍛冶屋へ行って泊めてもらいたいというと、快く泊めてくれた。越後に帰った後、鬼はその時の恩を深く感じて、沢山の贈物をしたという。 鍛冶屋は死人を忌まないとは、民俗学のよく言うところであるが、…
*記者の選んだ新ふるさとのアングル*
*大原の産屋* *7日7晩こもって出産* 天田郡三和町の北東部、国道173号北側の山懐に抱かれて建ち、千年の歴史を刻む大原神社。その近く、のどかな田んぼを縫う清流べりに小さな小屋が立つ。 古代の住居を思わせる、かやぶきの風変わりな建物。出入り口は幅約九十a。内部は、広さ四畳間ほどの白い砂地があるだけだ。天地根元造りと呼ばれる。この小屋が産屋(うぶや)だ。 大正時代の初めごろまで、大原神社周辺の地域では、臨月を迎えた妊婦は、家族と生活を別にし、七日七晩、この小屋にこもって出産し、安産に恵まれたという。大正以降、四十年ほど前までは、出産後に三日三挽ここにこもったが、今はまったく使っていない。 建造年月日は分からないが、神のお告げで建てたとも伝えられる。民俗学上、注目され、大学関係者が調査によく訪れる。府有形民俗文化財でもある。 三和町では、産屋を見直し、「安全安心に子供が生まれてくるイメージは、健康福祉の町のシンボル」にしようという動きがある。地元では付近を「うぶすなの里」と名付け、毎日曜の朝に、農産物直販所を開いている。さらに将来、周辺に観光農園や遊歩道などを整備していく町の計画もある。 産屋を管理する大原神社の林秀俊宮司は「今の世は命を軽率に考える傾向がある。産屋のそばに全国でも珍しいお産と子育ての資料館を建て、訪れた人に命を大切にすることを考えてもらえれば」と夢を膨らませる。 『福知山市史』に、 「産屋のこと」
字大原の人は古来子を産む時には、神域付近が汚れるとして、大原川の向こう河原付近に作られた「 昭和三十一年綾部高校の磯貝勇氏が出版された「丹波の話」に大原の産屋(同氏は産小屋と称す)についての研究が載せられている。それによると、「わが国の古俗では、血を忌み、特に産穢(アカフジョウ)を深くおそれ、出産のため産屋を作りそこで出産し、その後幾日かを他の家族と火を別にして生活した……天田郡川合村大原では、今も産婦は出産後すぐウブゴヤに移って、そこで幾日かの生活をして過す風習が残っているのは著名なことである。このウブゴヤは天地根元作りの原始的な藁ぶき仮小屋で、今では出産後この共同小屋に移るというが、本来は出産をこの小屋で行ったものであろうし、古くは出産のためにかかる小屋をその都度設けたはずである。 こうした風習は一見珍しそうであるが、決して珍しいものではなく、今でもタヤとか、ウブヤとか称して、血の不浄に対して火を別にする例は全国に多い。綾部などでも近いころまで、お産の時は畳をあげて行うという簡易な略式手段を採用したことは一般であったらしい」と記してある。福知山辺では、農村部の老婦は、昔はそういうことがあったと聞いているが、それは百年も昔のことであろう。お産はむしろめでたいことと思っているという返事が多い。ともかくイミ(忌)の問題は、民俗固有の信仰なども加わっており、古代人の思考の残象でもあるので深く考えて見る必要があろう。 『丹波の話』(礒貝勇・昭和31)に、 産小屋
ウガヤフキアエズノミコトの御名は、産小屋の完成を待たす御誕生になられたとうとい命の御名であることは知る人も多かろう。 わが国の古俗では、血の忌み、特に産穢(アカブジョウ)を深くおそれ、出産のため産屋を作りそこで出産し、その後の幾日かを、他の家族と火を別にして生活したことは、種々の伝承から立証することが出来る。 天田郡川合村大原では、今も産婦は出産後すぐウブゴヤに移って、其処で幾日かの生活をして過す風習が残っているのは著名なことである。このウブゴヤは天地根元作りの原始的な藁ぷきの仮小屋で、今では出産後との共同の小屋に移るというが、本来は出産をこの小屋で行ったものであろうし、古くは出産のためにかかる小屋をその都度設けた筈である。 こうした風習は一見珍らしそうであるが、決して珍らしいものではなく、今でもタヤとか、ウプヤとか称して、血の不浄に対して火を別にする例は全国に多い。綾部などでも近い頃まで産の時は畳をあげて行うという簡易な略式手段を採用したことは一般であったらしい。何鹿郡小畑村などでも女の月忌みの時、土間に筵をしいて食事をとったものだと聞いたことがある。 又上記の川合村では月忌みの際ヒガエと称して、火を別にしている例がある。何鹿郡中筋村高津では、台所の一隅に別火を行うための一区画があり、その時に使用するため什器を用意している家もあると聞いた。 イミの習俗を作りあげた根本の物の考え方は、わが民族の固有信仰の問題につながる重要なテーマであって、単なる物好きの詮索に終るべきものではないことは確かである。 (一九五○・七) ケガレを嫌ったというのは後世の現代人による現代的なたぶん誤った解釈であろう。国内だけでなく広い世界に分布する風習であるから、日本神道、それもだいぶに後の神道概念では説明できないと思われる。鵜葺草葺不合尊が鵜の羽根で葺いた産小屋で生まれたと記紀が伝えるように、古くはどこでもそうであったと思われる。敦賀の立石半島などにも残るといわれるが、原発に気を取られていて見落としてしまった。
湯舟 (鹿原)
鹿原の金剛院といえば、平安時代の初期に真如親王が開基された、すばらしいお寺だ。夕日をあびて三重の塔は金色に、裏のいちょうやもみじにはえて一幅の唐絵をみるようである。八堂ガランのこの寺は、真如親王が唐に渡られてからというものは、誰の管理することなく、ただ鹿のすみかとなっていたという。 この寺の出来る前、このあたりを湯舟という所であった。どこからともなく移り住んだ人たちが、荒地を耕やし田畑を作っていた。その奥には薬師様のお堂が林の中にまつられていたと云う。人達はその湧き出ているお湯につかっては一日の疲れをいやしていた。若挟の人たちも病、特に足腰など悪くなった人にとって此の上なくよく病にきくお湯であった。 常にこんこんと湧きでて、その湯は鹿原川へ湯気をたてて流れていた。その上には清滝があり冷たい水(夏)あったかい水(冬)が落ちていた。そこには山しよう魚やカジカが住んでいた。 しかし湯舟より下で農耕をいとなんでいる人たちにとっては、湯は有難いのだが、稲作りはどうにもやっかいなもので、冷たい水が必要な時には、あったかい湯の水がやってくると、せっかく田植した稲はことごとく細くなり、やがてかれてしまう。 人々は何とかして上の清流を得たいと試みるがどうにもならずお湯が入りこむ。用水路を掘りどろでかこいするが駄目であった。 ある人がどこで聞いてきたのか、お湯をとめるには「しょうぶ」を植えたらお湯がとまる、と聞いて来た。村人たちはお湯のわく下にしょうぶを植えた。しょうぶは適当な水温のため、すくすくと育った。お湯が下に流れなくなった。村人はこの話をしてくれた人は頭のいい人だとほめたたえた。 豊作の年は続いた、しかしいった人はいつのまにか姿が見えなくなった。若狭の人が湯治にやってきたが湯はなく、ただ冷たい水が流れ、ただ冷い冷いというだけだった。 今もこの湯舟のあたりは冷たい水で、湯のわく所はなくなった。しょうぶの花が風にゆれるだけだ。 金剛院の入り口に湯船橋が架かっている。国道から入ると鹿原川に架かる橋である。この橋を渡らないと金剛院へは行けない。お風呂の湯ではなく、油碁理のユであり、金属の溶けたものを現在も湯と呼ぶ。
笛吹神社の由来
伝承地 船井郡日吉町木住 船井郡 人里第三十四代の推古天皇の御宇、六月朔日に、秦川勝という者が、山城国太秦(うずまさ)に広隆寺を造立する奉行を命じられた。ところがその夜の霊夢に、「丹波国に木の住み家があって、その付近に高さ数丈の槻(つきのき)がある。だからおまえはその地に行って、槻を求め、上座の材とせよ」というお告げを得た。そこで早速夜が明けると同時に、現在の世木村大字木住にやって来て、いろいろと探しあぐねた挙句の果てに、やっとお告げのあった槻の木を見つけた。そして非常に喜んで、それを伐って帰った。しかしその代りに、京都の加茂のあたりから一尺四面くらいの古い祠(ほこら)を持参して、槻の大木のあった場所に安置し、大山祇尊(おおやまつみのみこと)を勧請して、笛の社と称した。それから大字木住にあった良木をどんどん伐採しては、それを筏に組んで大堰川の流れを利用して下した。そのお蔭で、秦川勝は広隆寺の造立を無事に完成する事ができたという。 そして大山祇神は、世に山の神のように心安く考えられているが、実は田の神で、神代の頃には東の笛の役を勤めておられたそうだ。そのために当社が笛の社、あるいは笛呪の社と呼ばれているそうな。 (『丹波の伝承』) 【伝承探訪】 秦川勝にしたがって、桂川を遡るように車を走らせる。右手に国分寺跡を眺めながら、亀岡盆地を突切り、船枝から船岡に至って道はつづら折りとなる。桂川が蛇行して流れるからだ。やがて桂川は胡麻川の入り込む殿田で右折する。この本流に沿って上り、支流の木住川に来ると、そこが槻の木の森なる笛吹神社であった。 今の社殿は、杉の大木に覆われている。しかし、やや離れて笛吹山を仰ぐと、なるほど槻の木の巨木が、うっそうと繁茂している。言うまでもなく槻の木は欅(けやき)の古名である。その繁茂する山が、なぜ笛吹山なのか。またその山の神が、なぜ笛の神なのか。かつて神代の笛の役をつとめた神だからでは、説明にはならない。あるいは各地の笛吹山・笛吹峠をうかがえば、いずれも境界の地であって、しばしば笛吹童子の逸話を伝えることが参考になるであろう。つまり天神来迎の期待できる聖地なのであった。 しかし、今注目するのは、川勝の夢告を六月朔日とする伝承である。しかも大正五年(一九一六)の『世木材誌』では、その夢告を六月朔日、祭神勧請を八月朔日としている。かつて折口信夫は、名著『古代研究』のなかで、この槻の木と朔日との関係についてふれ、 槻の木は、月経のつきごもり(晦日)の居の辺に立っていたのだ。物忌みのための別居である。月経を以て、神の召されるしるしと見なして、月一度、槻の斎居に龍らしたのだ。 という。しかしてさらに、 神まつる居は、すべて槻の木の下に作った。ここに月経の日を仕へるのを忘れて、月経の日に、忌みに龍る居の様に考えたのだ。月のはじめは、高級巫女の「つきもの」の見えた日ををもってした。月の発(た)つ日で、「つきたち」である。神の来る日が、元旦であり、縮まっては、朔日であると考えた。 と論究する。襲(おすい)の裾に月経の付いた熱田の美夜受比売と尾張に帰還された倭建命との聖婚にかかわるもので、みごとな推論であった。 これによると、槻の木の繁茂する地は、朔日に神の降臨を待つ聖なる所ということになる。そしてその地名・神名によると、笛の力によって、槻の木のもとに神の降臨を期した聖地ということになろう。しかも、その笛吹神社の槻の木は、これを祀る木住緊落の人々の精神的支柱であっただけではなく、川勝の事跡として伝えるごとく経済的なそれでもあったのだ。 その木住の里は、木住川を遡って二キロ、笛吹山の後背の地にうかがえる。その名の通り、檜・杉の植林に生きる山村であった。豪農らしき家を訪ねてみると、九十一歳の湯浅清一郎翁が相手をしてくださる。聞けば、今でこそ檜・杉で山林業を営むが、かつては細い杣道では材木は運べず、ひたすらクヌギ・ナラ・カシの薪・炭で暮らしをたててきたと言われる。しかるに、かの笛吹山は桂川近くにあって、その欅の巨木を川岸まで運び出すことができたのだという。 笛吹山の槻の木は、木住の川口なる桂川の川岸で筏に組まれ、秦川勝の末裔の指導のもと、ゆっくりと大井川・桂川を下り、広隆寺そばの梅津まで運ばれて行ったのだ。はたして天暦十年(九五六)の『山城国山田郷長解』によると、当梅津の地には修理職の木屋が置かれ、それを秦氏一族が管掌していたことが知られるのであった。 私としては笛吹とは楽器の笛を吹くという意味ではないと考えている。昔は伊吹部なども楽器を吹く部民と考えられたことがあったが、笛吹も楽器でなくてフイゴを吹いたのだと考える、木住という地名ともども興味の引かれる神社である。こうした地名と笛と重なればどうしても金属と思われるが、こちらへ振り向けるヒマがなくて現在はこれ以上立ち入れそうにもない。奈良県北葛城郡新庄町の式内社・笛吹神社は火雷大神・天香山彦命のほかを祀る。
岩神の区名
岩神区に在る国道側の温石に一小祠存す。傳ふ昔時一村民之に踞して仮睡す、夢に此岩忽神化して告ぐ、我を祠らざれぱ、三日間に覆天の巨巌と化し世留を全滅せしめんと、驚き覚めて即ち之仮祠を営むと、 蓋し岩神区名の所由。採る可き點あるか如し 又云行旅人の立寄うて缺き持ち去るを防遏せるなりと 余りに現代的なりかくては岩神区名を奈何せむ 『若狭高浜むかしばなし』(平4・町教委)に、 岩神のおんじく石。
和田の西の端、 あるとき、一人の村人が石の上にうずくまって、うたた寝していると、突然この石が天をつくばかりの大きな岩になった。そして、 「われは岩神なり。この世をぶちこわしてやる」 と、大声で告げた。びっくりして村人は目をさました。それから、村のみんなに夢のお告げを伝えた。 「あの石は神様なのじゃ、大事にせや」 「そうだ、祠をつくっておまつりしよう」 「そうすれば、たたりが起こらないだろう」 村人たちが集まって、祠を建て石をまつったのだった。そうして、このあたりに岩神という地名が付いたのだといわれる。 ある日、ここを通りかかった巡礼者が、この石に虚空蔵菩薩のお札を張った。それからというもの、近郷近在からは“こくぞうさま参り”といってたくさんの人びとがお参りに訪れた。この石は珍しい それからこんな話もある。伝兵衛という家の老婆が、その温石をけずり取り、いろいろの病気に効くといいふらして、人びとに売り歩いた。確かに温石の粉は効き目があったそうだ。 その昔、巡礼者が虚空蔵菩薩のお札を石に貼ったころは、お堂の屋根はわら屋根だった。ところが村人に夢のお告げがあり、 「わら屋根では、わらのごみが落ちてきて、きたならしい」 といわれた。村人たちはさっそく屋根を瓦ぶきにふきかえたそうな。 『舞鶴の民話5』に、(挿図も) 岩神さん (若狭和田)
舞鶴から東へ、吉坂峠をこえトンネルをこえると高浜につく。更に東へいくと、和田の海である。この和田の海水浴場へ家族みんなで行き、子どもたち三人共ここで泳げるようになった。遠浅の海は美しく、妻と子どもたちとボートにのって、島へもいった思い出多い海である。 和田には、大正十一年に鉄道が舞鶴から開通した。以前には若狭丹後街道の交通の要点で、船と車馬の接合点であった。小浜及び和田間は青戸の入江を連絡船によった。永禄九年 (一五六六年)小浜の桑村謙庵が武田義統の許可を受け、分捕った船を以て通航し、爾後世襲の家業となり、慶長年間更に一艘を増加し、明治大正まで続いた。小浜和田間の海上距離は二十四キロぐらいで、明治五年の船賃は次の通りであった。 一船買切り(六十五銭)乗合(一人)一銭五厘 米一俵(四斗入)(七厘)酒一樽 一銭 大正時代には日に三回、橋立丸と青嶋丸が航行した。その所要時間は一時間半から二時間であった。昭和二十八年の台風十三号には鉄道は不通となり、その一ヶ月間、小浜和田間は自衛隊の船が航行し、人及び物資を輸送した。 和田の西端岩神部落の旧国道脇にお堂があって、中に大きな石が祀ってある。 昔村人がこの石に腰かけ眠っていたところ、この石が神の姿となり、我を神として祭らなかったら三日間に天をおおう巨岩となり、地上の世界を全滅するとのお告げがあった。ねむりよりさめたこの男は驚き、村人等にこの事を話し、説明してお金をだしあい、祠を作ったといわれる。 今日まで岩神様、病気災難、厄除けの神として信仰する人が多いという。 この南側の温石山岩は昭和三十年頃より数年間、肥料の原料として、舞鶴に搬出されたが、現在は中止されている。 石も成長するものと考えられていたのではなかろうか。何かものすごい姿をした岩である。神威を感じても不思議ではない。
鯨の話
数年に1度、忘れたころにクジラが網にはいります。1月〜2月ごろが多く、クジラがくると漁がしをい、と昔からいわれています。 ここでとれるのはイワシクジラで、昔はクジラがとれると、その歯を各戸で分けて家の入口にぶらさげておいたそうです。魚の骨がのどにささったとき、これでのどをなでると骨がとれるといいました。 古い記録では、成生で明治44年にブリ大敷にクジラがはいりました。このクジラの小売代金が16円9銭で、そのクジラの供養のために「鯨 また、この地方では、イルカをイルカボンと敬って呼んでいます。それは、イルカが魚を網に追い込んだり、また逆に魚を追い散らしたりするからです。 毛島の毛島明神は、イルカの神様で、「伊留嘉明神」ともいい、7月18日に毛島参りをします。 |
資料編の索引
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