丹後の地名 若狭版

若狭

深野(ふかの)
福井県小浜市深野


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福井県小浜市深野

福井県遠敷郡中名田村深野




深野の概要




《深野の概要》
南川右岸の広いところの集落。中央部を国道162号が走る。
深野村は、明治初年~明治22年の村。「雲浜鑑」に三重村の小名として深野が見える。文化5年の三重村深野村高分覚書によると、当村は三重村の枝村として年貢・諸算用などすべてが親村の配分に左右され、かなり不平等であったことがうかがえる。そのため寛政3年当村は庄屋役の設置を郡奉行・代官へ申し入れ許可されている。しかし庄屋役設置は許可されても独立村としての扱いは受けず江戸期を通じて三重村に付属した。明治7年の「改正敦賀県管轄区分表」には深谷村の組に入っており、この頃までに独立を果たしたと思われる。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て同14年福井県に所属。明治7年の戸数36。同22年中名田村の大字となる。
深野は、明治22年~現在の大字名。はじめ中名田村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西8町・南北2町余、戸数35、人口は男91 ・ 女87。


《深野の人口・世帯数》 112・40


《深野の主な社寺など》

深野縄文遺跡

苅田姫神社の周辺にある縄文前期の遺跡。周辺は水田や休耕地、荒地になっている。手前は国道162号、鎮守の森は苅田姫神社。少し上流側には岩の鼻縄文遺跡(三重)がある。
『小浜市史』
深野遺跡
深野区にある苅田姫神社の境内および隣接した北方の水田に遺跡がある。昭和四十四年(一九六九)若狭考古学研究会員のこの付近の分布調査によって遺跡の存在が明らかにされた。当時この地域一帯に土地改良が実施されており、掘り起こされた土砂の中から遺物が採集された。
 採集されたのは、少量の土器片と石器で、縄文時代前期に属するものである。縄文前期初頭、羽島下層Ⅱ式併行と後葉北白川下層Ⅲ式併行のものである。石器は扁平な河原石の両端を打ち欠いた石錘が採集され、いわゆる網のおもりとして使われた石器である。
 南川右岸に立地する本遺跡は、今から約六千年前頃に縄文人の生活が開始された。これより一キロ南方の南川左岸、名田庄村三重に岩の鼻遺跡があり、縄文時代早期・前期・中期・後期の南川に面する縄文時代の遺跡である。


『中名田誌』(図も)
深野遺跡と縄文時代
 深野苅田姫神社境内の東端から、東方約一〇〇メートルに及ぶ所に、小浜市最古といわれる集落跡「深野遺跡」がある。昭和四十年、この地区の土地改良の際、北白川下層Ⅱ式(京都市北白川小倉町出土式)の土器片、石錘などが発見され、現在、県立若狭歴史民俗資料館に保存されている。小浜市教育委員会の実地踏査では縄文前期(約五、六千年前)の遺跡とみられている。
 本遺跡の南には、約八千五百年前の縄文早期の土器群、集石群が発見され、県内最古の住居跡かと推定されている「岩の鼻遺跡」(名田庄村三重)があり、両遺跡とも南川を生活の舞台としたものと考えられる。
 今から五、六千年も昔の原始時代、私たちの祖先がこの深野に住みつき、小さな「たて穴式の住居」をつくり、この南川のほとりで貝を採り、魚を捕り、ここの草で縄をより、服をあみ、ここの土で皿を作り、鉢を焼き、ここの石で斧を作り、槍を磨き、あの林で椎の実を拾い、胡桃を採り、ツカやイノシシを追ったであろう。
 おそらく、田村川や深谷川のほとりにも、このように三々五々と私たちの祖先は住みつき、延々と今日の私たちにその血を受け継がせたのではなかろうか。



苅田姫神社


『中名田誌』
苅田姫神社(深野区)
祭神 苅田姫神 祭日 三月三日、十月三日
 本神社の祭神は苅田姫神である。苅田姫は藤原仲麻呂の子で、第四七代淳仁天皇(在位七五八~六四)の后であった。ところが、古代における宮廷や貴族の抗争は激しく、苅田姫は、若狭国司大野広立や大膳亮高橋子老(後の若狭国司)の取り計らいで、皇子苅田麻呂(一〇歳)、皇女玉姫(七歳)とともに若狭の国名田庄に入り、前若狭国司高橋大足の次子高橋仁士の築く地美城に身を隠された。ところが姫は不辜にも病のため翌年薨去された。やがて成人された皇子苅田丸は皇居へ参内、天皇に拝謁、苅田姫皇后の祭祀を願う。やがて宝亀十年(七七九)正一位苅田姫大明神が建立されたのである。
 以上、本神社は歴史を背景とし、皇室を神格化して崇拝するとともに、祖神、守護神、産神として仰ぎ祭ったのである。
 苅田姫神社の創建 本神社の創建は旧村誌に承元三年(一二〇九)と記されている。応安四年(一三七一)三月十日及び永和二年(一三七六)八月十八日という古い棟札が保存されていること、しかも、応安四年の棟札は本殿の上屋のふき替えであるところからみて、それにさかのぼって創建されたものといえる。
 伝承によれぼ、元知見郷に鎮座されていたが、承元二年(一二〇八)八月、洪水のため山岳の崩壊とともに神殿も漂流し、深野の現在地に停泊したという。現在一面の田地であるこの周辺地籍に「松が瀨」、「中島」、「窪瀬」、「下窪瀬」、「狭(はざま)」など川に関する地名が残されているし、近年行った土地改良に伴う排水溝工事で、もと大川の流れを受けたこともうなずかれ、伝承を必ずしも否定することはできない。
 応永二十四年(一四一七)九月三日、苅田姫の神前に集まり万民武運長久、子孫繁栄、万民快楽、五穀成就のため猿楽を催す。九月祭礼これより始まるなり(『知見新助氏文書及び苅田姫神社縁起録』)と。当時、小倉には苅田彦神社はあったが、姫神社はなかったはずである。とするならば、このことは深野苅田姫神社を指すものと考えられる。
境内末社
春日神社 祭神春日大明神、春日大社は藤原氏の氏神であり慈悲の神であるという。治承(一一七七~八一)の式年造営のころより、藤原氏を中心に春日ご信仰や伊勢、八幡信仰が流布された。苅田姫は藤原氏の出身であり、坂上田村麻呂も藤原朝臣であるところから、氏神として迎えられ信仰を深めたものとみられる。
八幡神社 祭神応神天皇、京都の石清水八幡宮を招致した。激しい力の神で物怪や疫病を鎮圧する神であり、源氏の氏神となった。苅田姫を守護した高橋仁士の末えいが源氏に属し、代々源氏に義を尽くした。
棟札 極めて古い徠札が二枚も保存されている。
(略)
(略)
 いずれも六〇〇年以上昔の棟札で、南北朝時代のものである。「此時之老者禰宜 大仲臣安清……」と記されているが、大中臣氏というのは、古代の有力な中央豪族で、律令制以後神祇官の上級職を占めていた。
 大工に左衛門尉・右衛門尉といった律令制の巡検官が当たっている。「延喜式神名帳」に記載されている式内社の証左ともいわれている。
 本殿は総けやき、板ぶきで、細かな部材を組み合わせ、整然とした中世唐様の美しさを保持している。
その他の棟札
(略)


『中名田村誌』
村社苅田姫神社
  祭神 苅田姫神  祭日、二月三日、九月三日
一、本殿 承元三年八月創建し、享保十六年六月修繕、
  天明三癸卯年九月再建する。
一、神殿上屋 応安四辛亥年三月老禰宜大仲臣安清代創立、更に天明六己午年九月十五日再建する。
一、拝殿 永和二丙辰年八月十八日創立
一、鳥居 延宝八庚申年八月建立し、元文五庚申年二月建替、更に文化十二乙亥年六月再建する。
 境内末社
   春日神社  祭神 春日大明神  由緒 不詳
   八幡神社  祭神 応神天皇   由緒 不詳
苅田姫神社由緒 伝承によれば、元知見郷に鎮座していたが、承元二年八月、洪水のため山岳が崩壊、民家が多く流失した時に、神殿も漂流して深野の現地に淀泊したという。その為、村民が相談して同三年八月、現在の位置に祠を建立して鎮護国家の祈願を謹修した。それ以来幾多の変遷を経て、ついに格を村社に列し、称号を苅田姫神社とあがめ、祭日その他の神事を最もおごそかに勤めている。

苅田姫神社に関する小倉、知見新助家の古文書摘載
袮徳天皇の御代藤原仲麿寵を受け勢を擅にす、其于の寡婦を以て天武天皇の御孫大炊王に妻はし己が田村邸に居らしむ。天平宝字元丁酉年四月仲麿天皇に勧め大炊王を立てゝ皇太子となす。同二戊戌八月朔、天皇は位を皇太子に譲る。淳仁天皇(淡路廃帝)是なり、同六年壬寅六月先帝薙髪し法基と号す、法基禅尼道鏡を寵し帝を疎んず、若狭守大野広立其心を悟り皇后苅田姫皇子皇女及大膳亮高橋子老と蜜に相謀り官人三四を従へ窃かに若州に下り前若狭守高橋人足に預しむ。人足其都に聞えんを恐れ次子仁士を召し命じて曰く、名田庄山中は人知らざる処汝行きて一城を築き三宮を保護養育し世に漏洩せしむる勿れ又名川庄大飯郡大島東勢之間都合五千石を汝に分領せしむ、宜しく其地を領し其命に従ひ守護すべしと、乃も仁士名田庄に入り地を選び一城を築く、後は山に従ひ前は水流を引き誠に霊城たり、喜びて地美城と名づけ三宮を奉して之に月日を送らせ給ふに同年十月不図病に罹らせたまひ、明年春皇后遂に薨じ給ふ。御年二十八歳、皇子苅田麿御年十歳、皇女玉媛御年七歳なり両宮の御悲嘆殊に深し。大野広立高橋氏の一族相謀りて此の谷隠遁の僧法進禅に請ひ城外の林下に密葬し法名を春山闌馨大禅尼と祟り石を積みて仮墳となし、ひそかに天皇に奏す。同八年天皇淡路に廃せられ給ふ、仁士二宮を養育すること八年時の至るを待つ。称徳天皇天平神護二年三月高橋人足薨す。光仁天皇宝亀三壬子年四月仁士大野広立兄老と謀り皇后の緑を以て坂上清麿高橋仁士を召し皇子苅田丸を坂上氏に、皇女玉媛を高橋氏に托し給ふ、皇子御年十九皇女御年十六なり、共に帰仏し両親を祭り給らんと望み給ふ故に奏聞す、上熟慮稍久しうして曰く『苅田丸は我弟に同じ然りと雖も我子多し天位を譲る能はず思ふに清麿男手無し汝皇后の故を以て二子亦縁あり故に汝が女を娶りて後を継がしめては如何にと』直に勅命あり清麿大いに喜び礼伏拝謝す、苅田丸勅命骨髄に徹し感涙やまず既に坂上の養子とたる。仁士亦勅命あり『姫は堅固の望に任じ禅尼となり仏事を行ふ皇后の廟を立て霊魂を祭るべし父皇の事は自ら使者を以て祭るべし』と此に於て内大臣藤原淡海公勅使として地美城へ下向さる、六月五日玉媛華厳僧高慈訓を請待し剃髪帰仏慈妙と号す。同九年八月十五日苅田丸参内拝謁す。同二十日表を奉り廃帝并びに苅田姫皇后の祭祀を乞ふ上御感あり宣旨を下賜さる苅田丸大いに喜び淡路に下り廃帝の祭祀を行ふ。同十己未の年二月二十六日苅田丸地美城に入り宣旨を伝ふ乃ち廟を建つ、三月朔工を起し八月二十日竣り直に奏上す。八月二十七日勅使文屋真人釈良弁地美城に下向あり御筆の法経華一部并びに正一位苅田姫大明神の号を賜ふ云々。
若狭郡県志曰 苅田彦明神社下中郡三重村深野に有り産神となす二月三日九月三日之を祭る又同郡知三村の内に苅田彦明神社あり同躰の神乎云々(若狭国志によれば深野関屋市場兵瀬秋輪山田小野地を三重村となすとあり)


『遠敷郡誌』
苅田姫神社 村社にして同村深野字古屋にあり、祭神不詳なり、國帳に從三位苅田姫明神とあり、元苅田姫大明神と稱す、昔上流にありしが此處に流着すと傳ふ、神名帳考證に穀靈、儀式帳云、伊加利比賈命・陸奥國苅田嶺神社、按農功以収穫爲要故穀霊以苅田爲神名伊勢取鍬柄祭、稱鍬山伊加利神事豐受宮所摂方伊加理神社とあり、境内神社に春日神社・八幡神社あり、共に祭神不詳なり。


曹洞宗善光山正寿寺

『中名田村誌』
正寿寺(曹洞宗松福寺末)
本尊 釈迦牟尼仏
脇檀 薬師如来
 本寺は、承応二癸巳年三月の改宗で、開山は長谷和尚である。境内は、三十五坪あって檀家は十三戸である。今は無住勝ちで、本寺松福寺が兼務している。


『中名田誌』
正寿寺
本尊 釈迦如来  脇壇 薬師如来
開基 長谷寒宿和尚 法地開山、東林智白和尚
 正寿寺は深野市場谷の入り口にあって、山号の善光山をとって「善光山正寿寺」という。
 もと真言宗に属し、大日如来を本尊としていたとみられるが、今は蓮弁の台座を残し、釈迦如来を本尊としている。
 当寺院の創建はつまびらかではないが、脇壇の薬師如来や、鎮護の熊野権現の神像から、鎌倉時代から室町前期の草創と考えられる。承応二年(一六五三)、小松原村松福寺の長谷寒宿和尚によって改宗、曹洞宗松福寺末寺として開山された。当時の檀家は、深野村と塩瀬村合わせて一四戸であった。
 寛政六甲寅歳(一七九四)同寺院の『御開山・権現宮御講記録帳』には次のように記載されている。
 当寺権現宮御講ハ古来ヨリ勤行申候処、漸ク打絶罷在候得共、
 不思議ニ此度大提尊師復帰モ致シ 古格之通 相続致候間、以
 後滞ナク相勤可申者也。定日二月十五日 掛銭壱人前 拾五匁
 弐分
 当寺権現宮の御講は古代から行われていたこと、無住であった当寺へ住職が復帰したこと、御講の掛け銭は銀一五匁二分であったことがわかる。なお、この掛け銭については、檀家の希望者に二分の利息で貸し出すことも記帳している。
 深野と塩瀬の檀家関係は約二八〇年間も続いたわけであるが、それ以前の真言宗の時代はどうであったか判明していない。
 宝物(天保六年=一八三五=十一月記)
 仏像 大日如来坐像・薬師如来
 掛軸 涅槃像・達磨両像・永祖画像・
 其他 錦絵茶腕(恵照代)
 承応二年(一六五三)   本堂造改築
文政元年(一八一八)十月  本堂再建
天保十三年(一八四二)   石地蔵(代受苦)建立
呀和六年(一九三一)十二月  塩瀬檀家本寺より分離、和多田禅応寺に所属する
昭和二十八年(一九五三)七月本堂新築


『遠敷郡誌』
正壽寺 曹洞宗松福寺末にして本尊は釋迦如来なり。同村深野字市場谷口に在り、寛文七年建立す。


真宗導浄寺

『中名田誌』
導浄寺(光久寺末寺)
本尊 阿弥陀如来
 導浄寺は深野山神地籍にあって、真宗光久寺の末寺であり道場である。昭和十六年八月、知三村三重(兵瀨)よりここへ移転したものである。
 光久寺は寛正二年(一四六一)、正覚房(中野新二郎)の創建といられ、文明七年(一四七五)、蓮如上人が越前の国から巡錫にきて、数日滞在されたという。宝永年間、元文年間と二度の火災にあい、現在の本堂は寛政九年(一七九七)の建立である。
 檀家は小倉畑・秋和・兵瀨・山田・深野に分散する七〇戸で極めて広範な地域にわたる。そこで、いつの時代からか、下地域にその末寺兼道場が置かれることになった。
 毎月の報恩講はこの道浄寺で盛大に行われる。昭和六十一年十月四日新築上棟、竣工は十一月の予定である。



山城
小字市場口背後の山頂には中世の山城跡が残る。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


深野の主な歴史記録




深野の伝説








深野の小字一覧


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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