丹後の地名 若狭版

若狭

三重(みえ)
福井県大飯郡おおい町名田庄三重


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福井県大飯郡おおい町名田庄三重

福井県遠敷郡名田庄村三重

福井県遠敷郡知三村三重






三重の概要




《三重の概要》
名田庄内の南川最下流域両岸の平坦部に開けた名田庄内最大の農業地域。中央部を国道162号が走る。南川の西岸に下流から下三重、尾之内、山田、東岸に兵瀬、秋和と5集落がある。
三重は、平安期に見える地名で、永暦2年4月日若狭国司庁宣に「左衛門尉盛信領」内の一所として「三重十二町」と初見する。その内5町は野、7町は田代と記され、名田郷内では最も早く田地の開墾が行われた場所であった。
中世の三重村は、鎌倉期~戦国期に見える村。遠敷郡のうち。正嘉2年8月名田荘領家職は安居院実忠から外孫の三条実盛に譲渡されたが、建治3年8月日付実忠重譲状案では「三重村」は実盛知行ののちには禅師丸に相伝させると見える(同前)。このころ名田荘は上荘と下荘に分けて支配されていたが、三重村は下荘に属していた。鎌倉期におけるその後の伝領の経緯は未詳。南北朝期に入り花山院兼信によつて名田荘7か村の支配が主張され訴訟となったが、観応2年5月20日に兼信の雑掌宗光の訴えに返答すべきことが福昌寺長老に命じられており、福昌寺の知行するところであったことがわかる。また同年7月の知見村雑掌重申状でも三重村は福昌寺の知行とされている。応安4年12月25日に幕府より曽我氏助に知行が宛行われて以降は曽我氏によって伝領されたようで、康正2年には曽我氏が「若州三重村段銭」3貫文を造内裏段銭として納入している。戦国期に入り文明18年11月16日三重村は曽我教助の借銭のかたとして一時祝都寺に渡された。曽我氏の本領である備中国水田荘から毎年届くはずの本役は190貫文であるが、年々未進なのでこの未進分を祝都寺への返済分に宛てることとなり、翌年には再び曽我氏の直務となっている。三重村の城には大田祐安のあと、曽我又六郎が拠り、又六郎は兵庫頭を称したと伝えられている。天文19年には「三重村新屋」が矢田部の谷田寺に土地を売却しており、弘治2年6月22日明通寺鐘鋳勧進算用状には「三百六十文 みへ村」と見える。
近世の三重村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」によれば、小名に関屋・秋和・深野・尾ノ内・兵瀬・山田・下三重があり、家数145 ・ 人数774。神社は苅田彦神社・三所大明神とある。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。なお明治7年の「改正敦賀県管轄区分表」によると、深野は当村から分離して、深谷村の組に編入されている。同22年南名田村の大字となる。
三重は、明治22年~現在の大字名。はじめ南名田村、明治24年知三村、昭和30年からは名田庄村、平成18年からはおおい町の大字。明治24年の幅員は東西6町余・南北13町余、戸数119、人口は男278 ・ 女320。

三重は鉱山鉱毒の地名だが、何もそれらしき記録は見られない。三重は名田庄の一番北になり、これより下流側は現在は小浜市になる。そこになると野尻銅山の反対側流域になり、あるいは何かあるかも知れない。


《三重の人口・世帯数》 469・174


《三重の主な社寺など》


岩の鼻遺跡
岩の鼻遺跡
国道162号の「名田庄大橋」から南川上流側を見る。岩の鼻遺跡はこの写真で言えば川の右手側段丘上(通称・岩の鼻)で発見された、縄文前・中・後期の遺跡。ほぼ3000年にわたってここで縄文人が暮らしていた。当時の南川が今のこの地点を流れていたかは不明。

岩の鼻遺跡館。↑公民館に連絡すると職員がやってきて展示物など見せてもらえるそう。


熊野神社

祭神若宮三所大明神、旧村社。かつては三所明神社・三所大明神・三重明神と称された。「若州管内社寺由緒記」は「此所の守護神三社の大明神也、応永三十四年丁未比也、其時の神主右近左中刑部太夫と申也」と記す。戦国期に納められたという大般若経600巻が伝えられており、その一部の紙背には鎌倉後期の史料が確認される。

『名田庄村誌』
熊野神社
所在地 三重字宮ノ上
創 建 不詳
祭 神 若宮三所大明神
郡県志によれば、三重明神ともいわれるが、祭神不明で、祭礼は二月四日、神事の能が九月四日に行なわれるとされる。若州管内社寺由緒記によれば、創建は応永三十四年(一四二七)頃で、「此所の守護神三社の大明神」で、創建当時の神主は、右近左中刑部太夫という者であったとされる。当社の棟札によれば、「張屋柱立」が応永二十九年で、御子座の造立は応永三十四年としている。この時が神社の創建とすれば、若州管内社寺由緒記と一致している。しかし楝札によれば、禰宜は平貞弘となっており、異なる。ついで文正元年(一四六六)の葺替え、享禄二年(一五二九)の大般若経法楽、天文十五年(一五四六)の葺替え、天正十一年(一五八二)の大般若経法楽、寛文四年(一六六四)の葺替えなど、多くの棟札を伝存している。すべて史料編に収めた。当社所蔵の大般若経は泰澄大師筆との伝承がある。寛文四年の棟札には下三重・尾内・奥清・秋和・山田村合せて二十四人の宮座の講衆の名がみえており、講衆はその惣領に当る者としている。社会構成史の史料となしえよう。なお若狭神社明細帳によれば(福井県立図書館職)。永保二年(一〇八二)再建されたが、その前後のことは不明として、十一世紀の頃から、すでにあったとの所伝を記している。


『遠敷郡誌』
熊野神社 指定村社にして同村三重字宮ノ上にあり、舊時三所明神社三所大明神或は三重明神と稱す、祭神不詳なり、永保二年再建す、社蔵の大般若經六百卷の寫經は泰澄の時代のものをりと傳ふれ共平安朝のものなり、全部完全に保管さる、明治四十四年合併されたるもの大神宮祭神天照皇太神、八幡神社祭神品陀別命・息長帶姫命・比売命愛宕神社祭神火結神の三社あり。


若宮八幡神社(尾の内)
若宮八幡神社境内のフジは樹齢500年といわれ、県天然記念物。

花の時期でないと獣除けフェンスが閉じられている。

曹洞宗普門山慈眼寺

『名田庄村誌』
慈眼寺
宗 派 曹洞宗
所在地 三重第三十四号一番地
 本尊は、木造釈迦如来坐像で、三十五センチ金箔塗りである。
 創建については、現在の小浜市松福寺初代閑祝が、承応三年(一八五四)に建立したものといわれている。
 当寺の過去帳には、松福寺三世湛堂宗海を、開山としている。
 その後、松福寺末の平僧地であったが、同十七世東林智白により法地となり、同和尚を法地開山とした。第四世の秀岳が昭和十三年入山し、昭和二十四年、同村円明寺に転住する間の十二年間に堂宇および境内を見ちがえるように、整備した。

『遠敷郡誌』
慈眼寺 曹洞宗松福寺末にして本尊は正観世音なり、同村三重字下三重に在り、元他宗の庵寺なりしを元禄五年西津松福寺宗海今の寺に改む。


曹洞宗金峰山宝積寺

『名田庄村誌』
宝積寺
宗 派 曹洞宗
所在地 三重第十九号八番地
 本尊は、木造釈迦牟尼仏坐像。境内五百七十平方メートル。庫裡は昭和四十二年に作られた。
 寺伝によれば当山は、延宝七年(一六七九)金厳玉の創立であり。小浜市相生、興禅寺第六世天瑞円至を開山としている。寛正五年(一七九三)火災に逢い堂宇すべて焼失。その後明治二十九年に再建された。明治三十年大安孝童が法地起立をし、法類の大円石龍を伝法開山とし、第二世大安孝童となっている。歴代住職が長命で他の寺院のように住職が変っていない。現在の元明和尚は五世である。当寺には、鎮守金毘羅大権現の堂があり、山内に石の鳥居が立っている。昭和四十四年改修された。その巨石が昔を物語っている。


『遠敷郡誌』
寳積寺 曹洞宗興福寺末にして本尊は釋迦如来な久同村三重字倉垣に在り、寛永三年真言宗東照庵林蔵主なる者ありしが其後天和元年興禪寺第六世圓至改めて禪宗とし寶積寺と改稱す。


曹洞宗放光山性山寺

『名田庄村誌』
性山寺
宗 派 曹洞宗
所在地 三重第二十七号十番地
 本尊は、木造阿弥陀如来坐像、像高五十センチ金箔塗で、観世音菩薩・勢至菩薩の木像の脇立がある。
 境内は四百三十九平方メートル、本堂・開山堂・及び庫裡等の堂宇からなっている。元、天台宗で、嵯峨天龍寺の末派であると伝えられるが、創建は不明である。
 安政五年(一八五八)火災にあい。堂宇悉く焼失した。明治元年再建し、同十四年までは平僧地であったが、同年法地起立した。当時の住職久野喚応が法地開闢の第一世であるが、その師である現在の小浜市西津の松福寺の第十四世月峯笑応を請して、法地開山第一世とした。
 明治三十七年再び火災にあい。堂宇すべて焼失した。現在の堂宇のうち、本堂のみ翌明治三十八年の再建にかかる。庫裡はその後十一世豊龍の時代、昭和十八年、開山堂は、十二世虎龍の時代、昭和四十年に建てかえられた。東面して建ち、北西に山を負い。前面は三重の平野に向い、遙に南川を隔てて、兵瀬を一望の中に集めている。後方には、八幡神社の天然記念物、藤の大木が、天を圧している。

『遠敷郡誌』
性山寺 曹洞宗松福寺末にして本尊は阿彌陀佛なり、同村三重字寺ノ本に在り、元天台宗にして一時嵯峨天龍寺派なりしが、寛文十二年松福寺第四世良然に帰依してその末寺となる。


地の神信仰・株講
株講と呼ばれる地の神信仰があり、同族の株内が集まり、旧暦11月23日(現在12月23日)に祖霊を祀るならわしがある。祠は小さなもので、神体は丸石が多く、祠の後ろには拝み木という神木がある。祠の棟札で古いものは享保14年とあり、信仰は今も続いている。,また,下三重には大将軍信仰もあり,名田庄谷に拠点を持った陰陽道安倍家の影響が及んだものと考えられる。

大将軍信仰
下三重には大将軍信仰もあり、陰陽道安倍家の影響が及んだものと見られる。

兵瀬の戸祝い(1月15日)は小正月の民俗行事。8月24日には松上げがある。


三重城
『名田庄村誌』
三重城跡
先ず三重城跡の位置について、若狭郡県志によれば、「在二下中郡三重村小野地之山上一、相伝、大田祐安者所レ拠之城跡也、又云、其後曾我又六郎居焉、後改号二兵庫頭一、然養二松宮玄蕃允孫弥助之男尚祐一〔尚或作レ昌〕為レ子、又左衛門是也」とされる。若狭国志には、「在二山上一今曰二崎山一、相伝、大田祐安所レ拠。其後曽我又六郎拠レ之、又六郎為二兵庫頭一養二玄蕃允松宮其孫弥助男尚祐一以為レ子」とみえる。
 以上、若狭郡県志・若狭国志によれば、その山城跡の原点に相違がある。すなわち小野地(尾内か)と崎山(現知三小学校裏山)とになっている。若狭国志には、今の崎山とあるから、その昔は小野地といい今は崎山というと解すれば同一地点であるとも考えられる。小野地とは、現在の尾内部落のことではなくて、崎山の辺を小野血といったのかも知れない。
 しかし三重区の伝承では、山田と尾之内の境に突出した山の上に城跡がある。その山の下一帯の田圃の辺を血原といい、眥武士が戦いで血を流したことからつけられた地名であると語り伝えている。
 城主に大田祐安と曽我又六郎の二人があり、これは一致している。年代については何も示されていない。史的記述として不備があるので、伝承を記したものと考えられる。
康正二年造内裏段銭国役引付帳には、「曾我殿若州三重村段銭」とあり、曽我氏の年代は康正二年(一四五六)頃ということになる。
 ところで知三村誌によると、「知三小学校前道路(旧道路旧小学校、但し同一地点)に薄りて、一山脈の延ぶるあり。一帯を大城の左近と云ひ、小高きを崎山といふ。登ること数町にして台地あり。是所謂三重城趾にして大田祐安の拠りし所なり。後は一帯の山脈もて囲まれ、前に久坂・挙野・三重の平野をひかふる景勝の地なり」とされる。なお同村誌によれば、伝承によると大田祐安は、摂津国高槻の城主であったが何者かに攻められ、防戦力つき遂に城をすて山城・近江・丹波を経て若狭に入り虫谷の高槻神社附近に住んでいたが、のち機を得て、崎山に居城を構え、附近の地を支配していた。その後間もなくある者に攻められ、またのがれて虫谷に入り相果てた。虫谷高槻神社(明治四十二年十一月、虫鹿野皇王神社に合祀された)には大田祐安の携えていた刀・薙刀を神体として奉祀するといわれていると同村誌に記している。
 ちなみに祐安の菩提寺としては、永亨十年(一四三八)二月、現在の尾之内と山田との間に突出する山上の台地に、一寺を建立して、水泉山東蓮寺と号し、本尊として聖観音を安置した。ところで大田祐安は敵に居城を攻撃され敗北、東蓮寺の本尊を抱き虫谷にのがれたといい伝えられている。後にその本尊を安置したのが三重の現在の聖観音であると伝承されている。虫谷の区民は昔は、殿様の御用の柚職であったと伝えられる。大田祐安の邸宅の跡であったと伝承されるところがあるが、今日は田圃と変っている。墓所といわれる所は、四つ谷口にあったが、昭和二十八年の十三台風の増水で流火、大きな石等も流れてしまい跡形もなくなっている。虫谷区の畠中竹松氏の家は元左衛門、野鹿金蔵氏の家は右衛門と称し、大田祐安が高槻から逃げてきた時に従ってきた家臣であり、畠中・野鹿氏はその後裔であるといい伝えられている。竹松氏の家には、竹松氏が幼少の頃まで大田氏の乗用であったという鞍一個を保存していたという。
 ここで私見を述べれば、三重城跡の原点は崎山であり、山田と尾之内の境の山は大田祐安の菩提寺、東蓮寺の原点であるとの判断も下される。
 今日では崎山の頂上は二段となって、幅十メートルから十数メートル。長さ彎曲して約百五十取るに及ぶ山上台地となっている。眺望よく、三重・久坂・挙野が眼下に見おろされ、小浜方面・久多河内・美川・奥名田方面等を見張るのに絶好の地点である。その名残らしきものとしては石が数個しか見当らないが、山城を築く場所としては好適であり、また見張所乃至は砦としてもよい地点である。
 さらに城跡と伝承されている、尾之内と山田の境の山には、台地といえる程の個所はなく、段段峰が幾段にもなって頂上に達している山形である。その各峰には中心がやや高く、円形の窪地がこれを囲んでいる。山城を築くにもまた砦を築くにもあまりに場所が狭い。しかし知三村誌に記されている菩提寺の観音堂を築く位いの場所はとれる。したがって同誌に記されているように城跡は崎山であり、ここは東蓮寺跡と考えることが妥当ではなかろうか。
 三重城には大田祐安と曽我又六郎の二人が拠ったとされる。西谷城跡の項でふれたが、大田祐安は若狭国守護、一色義範の家臣であったため、一色が武田信栄に誘殺された時、大田氏もまた武田信栄の家臣土屋六郎左衛門、その家臣曽我・知見・渋谷等のために攻められ、虫谷に逃れ住んだのであろう。血原の伝承もこの時の戦ではなかろうかと思う。
 曽我又六郎はその後を受けて、三重城に拠ったものであろう。永享十二年の頃のことであり、その後は武田元明の時代になる。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


三重の主な歴史記録


『名田庄村誌』
三重
 本村の北端で、中央を南川が貫流する。平坦部を占め、灌漑の便もあり、村内でも豊饒地として、農業は三重千古の名をあげたと伝えられている。
 尾之内山(小野知山)と山田の境の頂上の三重城跡は、太田祐安の築城で、のち武田の臣、曾我氏が居城したという。太田祐安の菩提寺、水泉山東蓮寺の廃寺跡があり、この本尊が現在観音堂に安置されている。その他、秋葉谷の不動堂・下三重の曹洞宗宝積寺及び慈眼寺、尾之内の曹洞宗性山寺、さらに熊野神社(下三重)がある。神社仏閣も多く、古来から信仰の地として文化が栄えていた。
 藩政時代には現在の小浜市深野区をあわせ一村を形成していた。全区は農業をもって生業とし、米・麦・麻糸が主産物であった。
 地形的にみて、文字通り本村の玄関口に当る。現在の南川は昔は熊野神社の前を流れていたといわれる。また兵瀬の出村といわれる秋和部落は三十数戸の大部落であったが、南川の洪水のため、全滅したことさえあると伝えられている。古来から幾度かの水害を受けた地域である。平坦部の地質組成の上に、それを実証Lている。兵瀬対岸の岸壁に、多条にわたる地層が認められる。
 住民は昔から農閑期を利川して丹波への(知井坂越)荷持ちに出かける一方、時間を惜しんで牛の飼育にあたった。他方麻糸製造にかけた婦女子の勤労ぶりも、他の区にその例がないと伝えられる。今でもその風を残している。
 農耕技術の進歩とともに、住民の生業も次第に転移した。現在では生業そのものに大きな転換を示している。従来の主業であった広域に及ぶ農耕は完全に副業化し、片手間的に処理されている状態である。
 大正三年の戸数は百二十七戸、人口五百五十九人、昭和四十三年の戸数は百三十六戸、人口五百七十二人。


『名田庄村誌』
三重 岩の鼻遺跡
 岩の鼻遺跡は三重区の河川左岸の通称岩の鼻という河岸段丘上にあり、日当りが良く、水はげも良好な地点に立地し、現在の河床面との比高は数メートルである。遺跡の範囲は南北約百メートルであり、現状は畑・水田・荒地などである。
 この遺跡は、昭和二十八年の十三号台風の際南川が氾濫し、この段丘上にも1メートル以上の冠水があって、遺跡の表土が流されて包含層が露出し、おびただしい土器や石器の散乱をみるにおよんで発見された。当時、知三小学校に勤務、現在若狭考古学研究会代表である故城谷義視氏によって確認された。以来同氏によって、畑の中をなめつくすような地道な遺物の表面採集が続けられたのである。
1調査 たび重なる耕作によって遺物の表面採集の量は増加の一途であったが、遺跡自体の破壊は進む一方で、開田化も進められてきたので、学術的な発掘調査が必要となり実施の運びとなった。調査は村主催で、正式な調査届を文化庁に提出し、昭和四十四年三月二十四日から四月五日までの十三日間、若狭考古学研究会のメンバーを中心に、学術的なメスが加えられた。地主各位の暖かいご理解もあり、遺跡の各地点にAからGの七箇所のトレンチ(試掘溝)が設定され、竹ベラと移植ゴテで排土を続け、調査した総面積は百十二平方メートルにおよんだ。
 過去の水害で、遺物包含層が流出していたが、遺跡の地点によってはある程度良好な層が残存していた。特に遺跡の西部および北部に良好な地点が存在し、出土遺物も多くを数えた。
 調査では、若狭の川の流域に面する縄文遺跡はこの外に同じ南川流域の小浜市深野遺跡しか知られていず、河岸段丘上に存在する遺跡の立地の問題、明確でない若狭の縄文式土器の編年資料を得ること、さらに土器の地城性の問題、竪穴式住居址を検出し集落としてとらえることなどを主眼点として行ない、いくつかの成果をあげることができた。
2遺物 おびただしい表面採集の遺物とともに、今回の調査によって、リンゴ箱二杯ほどの土器破片と百点余りの石器を得ることができた。
 土器(写真2)は、いずれも破片であり、多くは永い間土中にあり、水の影響のためか磨滅されているのが目立った。土器の大部分は縄文時代後期に属するところの磨り消し縄文の文様が主体である。後期の土器は近畿地方で中津式とよぱれる曲線的な沈線でかこんだ内部に縄文を施文する方法のものである。もとの器形は浅鉢や深鉢が主であったと考えられよう。さらに後期に属する土器には北陸地方の気屋式と呼ぶ形式も見受けられる。また土器の中には、精製されたものと粗製のものがあり用途の違いを示している。若狭では、この時期と同じ土器を出土する場所として、小浜市加斗の台場遺跡、および阿納の塩浜遺跡、高浜町の立石遺跡および神野遺跡などが知られている。縄文時代後期に属する遺跡は若狭には多い。
 縄文時代前期に属する土器もかなり見受けられる。近畿地方に中心をもつ、北白川下層二式併行の竹を半分ないし四分の一に割って施文した爪形文土器の一群と、前期末に編年される北陸地方の鍋屋町式土器併行のいわゆるミミズバレ状の土器である。前期と同時期のものとしては、小浜市の深野遺跡、大飯町大島の寺内川遺跡、三方町の鳥浜貝塚などがあげられよう。
 また少数の資料であるが、縄文時代中期に属する資料も得られた。北陸地方の串田新式などと呼ぶ葉状文・刺突文・隆起線文等の文様が見られる。同時期のものとして、三方町の生倉遺跡、美浜町の竜沢寺遺跡があるが、資料が少なく中期はあまり明らかではない。
 岩の鼻からは、縄文時代前期・中期・後期の三時期に属する資料が得られ、時期によって、各地方の影響を受けていることが判明した。しかし包含層が薄く、層位的には各時期が混在し明確には分離していない。
 石器(写真3)は表採資料を加えれば、七百点を越す。その種類をあげれば、石鏃・石匕・石錐などの剥片石器と呼ばれるもの、磨製石斧・打製石斧・および石錘・凹み石・石皿などの礫塊石器があり、また、とくに剥片石器・打製石斧等の製作の際生じた、硅岩・安山岩・サヌカイト等の石くずは多く採集され、製作技法の一面を伝えている。石鏃はいずれも無茎のものであり、郡分的な形や大きさは、さまざまである。多量に出土し三百点以上採集されている。石匕はスクレーパーともいい、用途は動物の皮はぎと推定される。石錐、すなわちドリルとしての機能を有するものも採集されている。
 磨製石斧には、自然石の先端だけを磨いて刃をつけたものや側面を磨いた、いわゆる三味線胴形のものがある。手ごろな河原石の両端を打欠いたり、磨り切ったりして糸掛をつけた石錘も多量に出土し、磨り切り技法による石錘が圧倒的である。また木の実などをすりつぶす際に使用した石皿も採集された。また珍しい資料として、ロウ石製のケツ状耳飾の破片がある(図1)。縄文人のイヤリングとして、そのおしゃれの一端を示している。縄文時代前期の北白川下層二式土器文化に伴ったものであろう。
 以上あげた石器類の大部分は、層位的につかめず、その属する時期は明確ではない。しかし土器の出土量などから、ほとんど後期の文化に伴ったものと考えても差しつかえない。
3まとめ 前にあげた三つの問題点の中で、竪穴式住居址はついに検出できなかった。しかし彼等が生活を営んでいたのは確かであり、多量な石鏃・石錘の出土は狩猟・漁撈活動が盛んだったことを物語る。さらに土器形式は、各時期について、地域性の問題をなげかけ、若狭の編年を組立る上で重要な遺跡のひとつになった。将来、岩の鼻式という土器形式が設定されることは、確実となったのである。
 ちなみに、岩の鼻遺跡の古さは、縄文時代前期(約六千年前)・中期(約四千数百年前)・後期(約三千数百年前)である。断続的ではあるが、南川に面するこの段丘は、縄文人が生活する上に、山の幸・川の幸に恵まれた条件の良い場所なのであろう。


三重の伝説





三重の小字一覧


『名田庄村誌』
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『名田庄村誌』
その他たくさん



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