丹後の地名 若狭版

若狭

小車田(こしゃた)
福井県大飯郡おおい町小車田


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福井県大飯郡おおい町小車田

福井県大飯郡大飯町小車田

福井県大飯郡佐分利村小車田






小車田の概要




《小車田の概要》
佐分利川中流域右岸側に位置する。「きのこの森」の向かい側、大きなビニールハウスがあってイチゴなど販売されている会社があるが、その奥にある集落。兼業農家中心の農業地域。
この上手(写真の右側)に「丹」という所があったという、水銀かも知れないから、当地のイチゴもおいしいかも…

小車田の地名は、神祭のための車田にちなむと伝える。
小車田村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年佐分利村の大字となる。
小車田は、明治22年~現在の大字名。はじめ佐分利村、昭和30年からは大飯町の大字。明治24年の幅員は東西1町余・南北2町余、戸数17、人口は男54・女44。かつて字宮前に姫宮があったが明治44年伊射奈伎神社に合祀され、その御神体の如来像は現在も同社に残る。


《小車田の人口・世帯数》 56・19


《小車田の主な社寺など》

姫宮
字宮前に姫宮という社があったが、明治44年社蔵の仏像とともに福谷の伊射奈伎神社に合祀された。
『大飯町誌』
元、姫宮という社が、字宮前にあったが、明治四十四年(一九一一)三月十日福谷の伊射奈伎神社に合併された。その御神体であったという仏像が、今伊射奈伎神社に移管されている。像高五一センチメートルの如来座像で藤原時代の作といわれている。破損が甚だしく腐食も見られるがこれを奉祀していたとすると、相当な信仰者が藤原時代にあったと思われるのである。したがって、集落の歴史もその時代までさかのぼることができるのである。

舞々村
小車田村と石山村との間に舞々谷(まいまいだに)という小名がある。この舞々谷には7、80年ほど前まで幸若舞を業とする者がいたという。奥太夫を本家とし孫太夫・与太夫・久太夫の4家であった。高浜に舞々の集落があったが、その配下という。
『大飯町誌』
 石山と小車田との間に舞々谷(小名)という所がある。その舞々谷は一〇〇年ほど前まで丹といった所で、神子を主業としていた家が四戸あった。奥太夫が本家で孫太夫、与太夫、久太夫がその一族であった。みな太夫名を名乗っていたのは幸若舞という舞仕であったからである。幸若舞(本郡では幸菊といった)は白拍子の舞から外かれたもので、南北朝ごろから一種の流派を完成したものらしい。多く祭式上に用いられ、領主からも相当の禄を受けて保護された時代もあった。
 この丹の集落が四戸かたまっていて、高浜龍蔵院の配下として佐分利一円と丹波の一部で祈祷と舞とを行っていた。こうした特別な業態をもつ関係上、宗門改めなどの場合出家などと同じように取扱われて一般の戸数の上には加算されなかった。したがって文化四年(一八〇七)の小車田一七戸の中には丹の四戸は加えられていない。荒木文書「高付」のなかに、「舞々上下、市場、下薗、小堀に各一人」とあって本郷にもおのおのの村に一人ずついたことが分かる。
 ついでながら高浜の幸菊文書によって、大飯郡内で行われた様子を述べて参考とする。
 「私共先祖の義は幸若別家の者にて、少々の御扶持も頂戴……」、
 「一、居屋敷御赦免地、諸役御免除に仰付けさせられ候義は、天正十六年(一五八八)浅野久三郎様御代に御判物下し置かれ、其の後代々頂戴仕り……」(文化五年の文書)とあるように、高浜城主浅野久三郎(浅野長政の臣)から屋敷年貢や諸種の掛かり目を免除され、扶持米も少々給与されていた。
 これは高浜のことであるが、当町域ではその数年後、佐畑に同じ家臣の小笠原与十郎が配置されていたから、何らかの保護が加えられていたのであろう。その後宗門改の制度ができたときから「別段に帳面差上げ」とあるから、寺院を離れて別に宗門改書を作ったものらしい。
 こうしたことから追い追い別扱いをされるようになり、「元禄中の頃より舞々町と唱え高浜の……帳尻に相成り……至って筋目悪敷者と専ら申成し……」という状態に陥ったのである。好意の保護政策がとんでもない迷惑なことになったのであった。もちろん、これは高浜の記録であるが、同じ舞々村というためにあるいは誤解する向きがあったかも知れない。
  「正保五年戊子八月二十五日福谷村天神宮鳥居……、寛文九年己酉九月八日岡安村依居大明神鳥居……、慶安二年己丑八月五日大島村なりれ大明神御立……天和三年癸亥七月五日大島六所大明神鳥居……にも供養の舞数多御座候(貞享二年=一六八五)文書)」によって各所で舞を奉納していることが分かる。小車田の丹集落が高浜の舞々町一流衆へ差し入れた次の一札が残っている。
     指上げ申す済口(すましぐと)一札の事
 一、此度中間の者 其の内職筋に付、藤井民弥殿支配上、龍蔵院様よりの懸り合により、其の地の一流ヘーに頼置き候事実正に候。之により国主御役所様土御門殿様、御室御所様、右の御所役様方へ御厄介に預り候者、国主御役所様より、土御門家支配の義御指留御座ありてより、古例通り他□□間敷侯 已来内職筋御指図の別書之れあり候て、事済み仕り候。その証として連判一札仍て件の如し
   文政十二己丑七月(一八二九)
         佐分利谷小車田村  孫太夫 印(以下三名略)
     高浜町舞々町一流衆中

これは高浜の龍蔵院(佐伎治神社の傍らにあった寺院のこと)の関係で小車田の舞々が、高浜の舞々の仲間になるようになっていたのに、納田終の土御門から秘かに支配を受けて祈祷などをしていた。若狭の領主から色々保護を受けながら他流の支配を受けることは、筋違いであるから差し止められていたのに、それを侵していたから、高浜の舞々から苦情を入れられたのであろう。
 それで古例のとおり土御門とは手を切って、高浜の仲間になる。その細かい指図書は別書のとおりである。これで一切解決したからその証として一札入れるということらしい。


『郷土誌大飯』
小車田
 石山と当部落との間に舞々谷(小名)というところがある。その舞々谷は七八十年前まで丹部落といった所で、神子を主業としていた家が四戸あった。奥太夫が本家で孫太夫、与太夫、久太夫がその一族であった。皆太夫名を名乗っていたのは幸若舞という舞仕であったからである。幸若舞(本郡では幸菊といった)は白拍子の舞から分れたもので南北朝頃から一種の流派を完成したものらしい。多く祭式上に用いられ領主からも相当の禄を受けて保護された時代もあった。
 この丹部落が四戸かたまっていて高浜龍蔵院の配下として佐分利一円と丹波の一部で祈祷と舞とを行っていた。「荒木文書「高付」の内に「舞々上下、市場、下薗、小堀に各一人」とあって本郷にも各々村に一人づついたことが分る。」序ながら高浜の幸菊文書によって、大飯郡内で行なわれた様子を述べて参考とする。「私共先祖の義は幸若別家の者にて、少々の御扶持も頂戴…」「一、居屋敷御赦免地、諸役御免除に仰付けさせられ候義は、天正十六年(一五八八)浅野久三郎様御代に御判物下し置かれ、其の後代々頂戴仕り…」(文化五年の文書)とあるように、高浜城主浅野久三郎(浅野長政の臣)から屋敷年貢や諸種の掛り目を免除され扶持米も少々給与されていた。これは高浜のことであるが当町域ではその数年後、佐畑に同じ家臣の小笠原与十郎が配置されていたから、何らかの保護が加えられていたのであろう。その後宗門改めの制度が出来た時から「別段に帳面差上げ」とあるから寺院をはなれて別に宗門改書を作ったものらしい。こうしたことから追々別扱いをされるようになり「元禄中の頃より舞々町と唱え高浜の……帳尻に相成り……至った筋目悪敷者と専ら申成し……」という状態に陥ったのである。好意の保護政策がとんでもない迷惑なことになったのであった。勿論これは高浜の記録であるが、同じ舞々村というためにあるいは誤解する向きがあったかも知れない。
 「正保五年戊子八月二十五日福谷村天神宮鳥居……、寛文九年巳丙九月八日岡安村依居大明神鳥居……、慶安二年已丑八月五日大島村なりれ大明神御立……天和三年癸亥七月五日大島六所大明神鳥居……にも供養の舞数多御座候(貞享二年文書)」によって各所で舞を奉納していることが分る。小車田の丹部路が高浜の舞々町一流衆へ差入れた次の一札が残っている。
   指上げ申す済口(すましぐち)一札の事
 一、此度中間の者 其の内職筋に付、藤井民弥殿支配上、龍蔵院様よりの懸り合により、其の地の一流へ、一に頼置き候事実正に候。之により国主御役所様土御門殿様、御宝御所様、右の御所役様方へ御厄介に預り候者、国主郷役所様より、土御門家支配の義御指留御座ありてより、古例通り他□□間敷候 己来内職筋御指図の別書之れあり候て、事済み仕り候。その証として連判一札仍て件の如し 文政十二巳丑七月 佐分利谷小車田村 孫太夫 印(以下三名略)
   高浜町舞々町一流衆中
 これは高浜の龍蔵院(佐伎治神社のかたわらにあった寺院のこと)の関係で小車田の舞々が、高浜の舞々の仲間になる様になっていたのに、納田終の土御門から秘かに支配を受けて祈祷などをしていた。若狭の領主から色々保護を受けながら他流の支配を受けることは、筋違いであるから指留められていたのに、それを侵していたから、高浜の舞々から苦情を入れられたのであろう。それで古例の通り土御門とは手を切って、高浜の仲間になる。その細かい指図書は別書の通りである。これで一切解決したからその証として一札入れる。という事らしい。納田終と小車田は坂一つ越せば連絡が出来たから、土御門の勢力がここへ流入したことはあり得ることである。「荒木文書」によると上下村に土御門の屋敷があったとある位で、小車田では当然の成り行きといえる。まして四戸だけでは舞々一本でやって行けるはずがない。他の一戸立の所はなおさらである。加持祈祷の方が本職になっていたことは充分了解出来るのである。そして丹部落は他の部落の神子家が女が主であったのとは反対に珍しく男神子ばかりであったという。勿論これは明治初期の状態で昔のことは分らないが、女子は主に農作や出稼ぎ奉公であった。またその主人達は皆独身者ばかりであったということも不思議な話である。財産は後の山の山林一町歩と宅地と畑だけであったというから、妻子を養う余裕がなかったのであろう。その後四戸とも消滅または分散して部落はなくなってしまったのである。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


小車田の主な歴史記録



『大飯町誌』
小車田
 小車田の地名については、昔神祭用に車田という田をもつ所があって、稲苗を車の輪のように円く、同心円にして植えたものだといいこれが語源であろう。
 


小車田の伝説





小車田の小字一覧


小車田  谷ノ下 西谷 東谷 小谷 村中 桑迫 宮前 村奥 下居恵野 上居恵野 村下 堂ノ下 山根 山崎鼻 岸ノ下 向川原 一本木 井尻 赤谷 隠谷 奥谷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『大飯町誌』
その他たくさん



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