丹後の地名 若狭版

若狭

宮崎(みやざき)
福井県大飯郡高浜町宮崎


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福井県大飯郡高浜町宮崎

福井県大飯郡高浜村宮崎






宮崎の概要




《宮崎の概要》
高浜町の中心地。JR「高浜駅」や佐伎治神社の前(北側)に広がる広い市街地の一帯。


高浜駅、町役場などがあり、町政・教育・文化・福祉などの中心地。
宮崎町は、明治14~22年の町名。高浜村を構成する5町の1つ。もとは高浜村の町方小名横町と赤尾町。明治22年高浜村の大字となる。
宮崎は、明治22年~現在の大字名。はじめ高浜村、明治45年からは高浜町の大字。明治24年の幅員は東西3町・南北2町、戸数133、人口は男301 ・ 女324。

《宮崎の人口・世帯数》 (中央+宇治+赤尾町+横町) 542・462


《宮崎の主な社寺など》

妙見山
佐伎治神社の裏山(西側の山)で、神社の横から登れる。
『高浜町誌』
妙見山
 妙見山は、高浜市街の南側標高一四三メートルで、山頂に妙見堂がある。妙見堂は室町時代逸見駿河守の重臣高木陣太夫の開基である。
 旧高浜地区の全貌を眺望し海をへだてて、越前岬を遠望する眺めは実に素晴しい。夏の夜沖合いに漁火の点滅する眺望は他には求められない美観である。.

佐伎治神社

高浜の南部、砕導(さいち)山麓にある。祭神大己貴命・素盞嗚尊・稲田姫命。旧県社。「延喜式」神名帳に載る「佐伎治神社」で、享禄5年(1532)の神名帳写(小野寺文書)には「砕導明神」とみえる。「若狭郡県志」は「砕導大明神社」として「在高浜村木津ノ庄十ケ村之産神也」「伝言、二条院長寛年中改造之神殿三間四面也」と記す。「若州管内社寺由緒記」には、もと薗部(そのべ)にあったが、逸見駿河守が現在地へ移したと記す。この頃別当寺として龍蔵(りゅうぞう)院があったという。また、貞享2年(1685)の舞々由緒言上書(杉本家文書)には「砕導之舞台にて永禄六年癸亥三月十六日ニ宮建立之供養ニ舞御座候」とある。
当社には七年祭(県指定無形民俗文化財)とよばれる行事がある。巳年・亥年に実施され、巳年は豊年、亥年は不作といわれる。旧暦6月の卯の日から酉の日まで7日間行われる。第1日を神輿おろしという。神輿は3基あって、中山は塩土地区と事代地区が担当、東山は薗部地区、西山は子生地区である。各区からの練込のあと午前中に社殿前で御田植・太刀振が行われ、午後神輿が町中を練歩く。2日目から6日目までは、各区の御旅所などで屋台芸が演じられる。最終の7日目を本日(ほんび)といって神輿の還幸祭が行われ、宮崎海岸の鳥居浜で神輿の御洗式がある。当社の神宝に雨乞鐘という無銘ではあるが平安時代の梵鐘がある。

社前の案内板
当社概誌。神社名、佐伎治神社。祭神、素盞鳴命・大己貴命・稲田姫命。由緒、延喜式神名帳大飯郡小七座の一。若狭国神階記従三位砕導明神。中世社記焼失のため創建年代其他不詳なれども考証によれば、景行天皇皇子磐鹿雁命に若狭国を授け賜ひし時既に当社在りしものの如く今より一千八百年以前の創建と推定せらる。長寛年中神殿改造永禄年中高浜の領主二条某社領田七町七反歩寄進当時社運興隆なりしき往昔は或は薗部村なる深田の中園池林という処に在りしとも言い或は現今の城山の地に在りしとも言う。而して天正年中当国々武田家臣逸見駿河守昌経現在の地に遷し祀れりと伝う其後木下宮内少輔利房高浜の領主となるに及び大いに崇敬して造営後堀尾茂助吉晴造営の志ありしも未だ破損なかりしため鐘楼を建立せりという。
元和三年卜部兼英の文に、正一位砕導大明神の行名見ゆれど進階の年代不詳なり、正一位碎導大明神の鳥居扁額及正保三年酒井讃岐守忠勝造営の棟札及び安永六年の造営に際し酒井修理太夫忠治白銀一枚寄進の棟札存す。中世神仏混合の思想より社域に龍蔵院(真言)を建立社僧及び別に社人と称する者を以ちて奉仕し来りしが明治の新政となるに及び寺院を廃し新たに神職を任命。明治八年四月県社に列格同四十一年四月神饌幣帛供進神社に指定せらる。
神紋橋 祈年祭 三月十七日。
大祭日 例祭 十月十二日、十三日。
    新嘗祭 十一月二十三日。
    式年神幸祭(七年祭り)
特殊祭儀 巳年亥年の六月卯の日より酉の日まで。請雨祭 非常の大旱に行う。鳥居洗式 二十五年毎。 氏子区域 現高浜町高浜地区。


『高浜町誌』
元県社
佐伎治神社

大己貴命
素戔嗚尊
稲田姫

宮崎
字宮内              

七三七坪
一四九五戸               

一〇月一二・一三日
七年祭
巳の年、亥の年、旧六月
卯の日-酉の日               
社殿、拝殿、
神楽殿、鳥居
御輿倉、神饌所、
絵馬堂、
拝所、神楽殿、
廊下、同付属長屋、水舎、御船舎、神倉
社務所、神職住家、木屋               
お田植え
太刀振り
(県指定無形民俗文化財)               
式内社
「延喜式」神名帳にのる
雨乞鐘(県指定文化財)
鐘寄にあかったと伝えられれる
鰐口
沢村大学(横町出身)の寄進による               
日吉神社 大山咋命
 赤松神社 素戔嗚尊
 天満神社 菅原道真公
 大山神社 太大津見命
 山神神社 大山津見命
稲荷神社 倉稲魂命
 彦霊神社 皇産霊命
神皇産霊命
天津神
国津神
導祖神
 松尾神社 大山咋神
 木船神社 貴布祢神
 若宮神社 品陀和気命
息長帯比古命
息長帯比売命
 伊射奈伎神社 伊弉諾尊
 大神神社 天照大神
 水無月神社 表筒男命
中筒男命
底筒男命
広峯神社  
御霊神社 殉国の英霊
佐伎治神社
 高浜の南部、砕導(さいち)山麓にある。祭神大己貴命(大国主命)・素盞嗚尊・稲田姫命。旧県社。「延喜式」神名帳に戴る「佐伎治神社」で享禄五年(一五三二)の神名帳写『小野寺文書』には「砕導明神」とみえる。「若狭郡県志」は「砕導大明神社」とある。「若州管内社寺由緒記」には、もと薗部にあったが(住伎治神社由緒略記には現在の城山にあったともいう)逸見駿河守が現在地へ移したと記されている。この頃別当寺として竜蔵院(真言寺)があって、その社僧が常住して神事を併せつかさどっていたが、明治維新「廃仏棄釈神仏混淆」禁止令によって跡を断ったといわれている。
 当社に七年祭とよばれる行事があり、以前には旧暦六月の卯の日から酉の日まで七日間行われていたが数年前より海水浴期の関係でそのつど協議により大体一か月程早められて行われている。第一日を神輿おろしといい、神輿は三基あって中山は塩土、若宮、本町、中町、大西、今在家、宇治、事代地区が担当、東山は薗部、岩神、横町、赤尾町地区、西山は子生、笠原、坂田、立石、中寄、畑地区である。各区からの練込みのあと午前中に広嶺神社前で御田植・社殿前で太刀振り(県指定無形民俗文化財)が行われ、 午後神輿が町中を練り歩く。二日目から六日目までは各区の御旅所などで屋台芸が演じられ、最終の七日目を本日といって神輿の還幸祭が行われ、途中宮崎海岸の鳥居浜で神輿の御洗式がある。当社の神宝に雨乞鐘(県指定文化財)といわれる焚鐘がある。無銘ではあるが平安時代のものだという。
 雨乞鐘は延元元年(一三三六)暴風雨の時、打ち寄せたのでその地名を鐘寄と名づけられた。付近の祠に納めたが「アネゴーン」の音色を発するので、姉に当たる鐘が海中にあるものと幾度か捜したが、引揚げることが出来なかった。その後神のお告げによって永和元年(一三七五)現在の佐伎治神社に奉納した。姉をしたう妹鐘を旱天続きに海中に沈めると雨を降らす故を以て雨乞鐘と名付けた。近年では大旱ばつのため昭和一四年七月一○日午後、鐘寄の海岸に沈めかけると青葉山麓から、紫黒色の雲が盛り上がり雷雨をもたらし、一夜明けた住民は伝説の恐しさと信仰の尊さに感服したのである。
 また神社に元和六年 (一六二○)細川忠興の重臣で戦功目覚しかった沢村大学(横町出身)の寄進による「鰐口」がある。




七年祭り」(2013)

『大飯郡志』
佐伎治神社
〔若狭國紳名帳〕 從三位碎道明神
〔同郡縣志〕 在高濱村木津庄十ヶ村之産神也所祭神三座謂素盞鳴尊稻田姫大己貴命是也創建未知爲何年傳言二院條長寛年中改造之神殿三間四面也 又卜部兼英状曰  正一位碎導大明神〔若州大飯郡高濱郷〕 右垂跡以来被増一階勘年紀既爲極位之神殊神膳可奉備魚味者神道啓状如件 元和三年四月吉日 依斯状則後年奉進神階於正一位乎延喜式所載…佐伎治神社者是也(〔若狭国志〕殆同文)
〔稚狹考〕 高濱村碎導明神さいちと呼来れり近き所に坂田村あり…通音とすべし
〔神社私考〕 碎道と書て佐伊知と唱へり里人の舊記に永(?)禄の頃高濱の領主二絛殿より當社に田七町七反寄附ありといふ(〔大田文〕本家二條殿御領立石庄七十六町)其後いたく衰へ給ひて薗部村なる深田の中園池森と云ふに小社にて在しを天正の頃逸見駿河守昌經今の地に徙し祭れり其後木下宮内少輔利房(〔妙長寺文書〕惟俊)高濱の領主となり再建す又その後堀尾茂助吉晴建立の志ありけれとも未破損なきによりて鐘樓を建奉れり縁起に上下大明神(若狭彦姫)御弟宮也とありと云へり〔志に云く今掲正一位額相傳所勅(されど今本文無之)〕
(信友は郡域の變更を前提として尚ほ他に本郡内の神社と認む可き説を共著〔神社私考〕に述ぶ)


縣社 佐治伎神社 祭神大己貴命素盞鳴命稲田姫命宮崎字宮内に在り 社地七百三十七坪氏子八百三十一戸建物-社殿〔二間四尺二間三尺〕拜殿〔四間餘二間四尺明治四十三年建設〕 神楽殿〔二間半四間〕 鳥居御輿殿〔一間半三間〕神饌所〔二間五間〕 繪馬堂〔一間半五間〕拜所〔一間半四方〕神樂殿廓下〔四間半一間〕 同附屬長屋〔八間半二間〕水舎〔六尺五尺〕御船舎〔一間二間〕 神庫〔一間一間〕舎務所〔六間八間半〕神職住家〔五間半四間半〕木屋〔四間一間半〕 便所〔二間一間〕
境内社 日吉神社祭神大山咋命外〔三神合祀〕建物〔一間二尺餘一間餘〕明治四十四年五月十七日次の三社を合併す。
 無格社天満社 祭神菅原道真公 三明〔字東三明〕
 同  山神神社  同 大山津見神  宮崎〔字東宮崎〕
 同  赤松神社  同 素戔鳴尊   立石〔字清水〕(〔若狭國神名帳に載する古社合併可惜全郡誌神社章参照〕)
 稲荷神社 祭神倉稲魂命 外十七神(合祀) 建物〔四間五寸一間〕   明治四十四年六月一日次の七社を合併す。
 社林内社産神社 祭神〔高皇産霊神神皇産霊神道祖神天津津神國津神〕 同 松尾神社   同   大山昨命
 同 若山神社 〔廣嶺社品陀和気命息長帯比古命同姫命〕 同  伊射奈伎神社 同 〔伊邪那伎命伊射那美命〕
 同 木船神社 同 貴布彌命   同  大神神社  同  天照大神
 同 水無月神社 同 表筒尾命中筒尾命底筒尾命
 此社が古社碎導明神なる事は、既に全郡誌沿革章に考證せり。明治初年は村社なりしが、八年四月縣社に列せらる。由緒不詳。傳ふ社殿は長寛二年に改造せるものと、正保二年領主酒井忠藤滕更に社殿を葺補し、安永六年領主忠與再び改築したりといふ、中世以降は例の兩部習合にて真言宗別當 山伏(龍蔵院今廃頽)社務を執り、神庫には古鐘〔或云雨乞鐘(牧山寺の遺物)鐘寄の海に獲たりしと傳ふ〕全鼓〔澤村吉重寄附〕及び澤村の肖像筆蹟等を藏し、例際〔十月十三日〕に神事能あり、臨時大祭に三神輿渡御太刀舞の神事〔素戔嗚尊八頭蛇を斬るに擬す〕あり、臨時大祭は七年祭とも稱し、己年亥年陰暦六月酉日に、神輿おろしとて、三社-稲田姫のは宮崎薗部笠原岩神の四區、大國主命のは畑立石子生坂田鐘奇中津海の六區、素盞鳴尊のは其他の區〔高濱町の大部分〕にて之を奉じ、各氏子を廻ること七日即御旅の渡御をなす、其中素盞鳴尊のは、其気性を擬せしにや、舊くは所謂荒ぶる所爲も多かりしけれど、今其暴事も斷えぬ、七日目には之を本日と稱し、宮崎の濱にて清め且祓ひを行ひて、各社殿に還御する等、種々の神事ありて古来世に著聞せり。又日參の好習慣〔其状下に〕あり。
〔若狭郡縣志〕 毎歳九月十二日十三日有神事能又七か年之間一度六月酉日〔酉有三則甲中三酉〕有祭禮豫神輿三基遊行其一則到薗部村一則?高濱民家之内一則置同處本町市屋之傍衆人來而拜之然經七日當酉日各還幸有供奉之練者又高濱村之漁人并笠原之土人交拔眞釼振之而舞是素盞鳴尊斬大蛇之行粧也正保二年酒井忠勝有祈願之事而修理神殿龍藏院爲社僧又別有神職者也(〔若狭國志〕殆同文)
〔神社私考〕注 (國史を勘ふるに此神に殊さらに叙位の事見えざれば嘉詳四年天下諸神叙位の時無位に坐して初て従六位上に叙れ給へり其後天下請神に増一階の事九度ありけるに依りて勘れぱ永徳元年正四位下に叙されておはしませるを 然るを既爲極位三神とは…當らざる…)正保二年…葺補…華表基礎在里中道路稱外華表路 〔注此大祭の時…撃合て後だいじりうつたと匐る事ありこは浪合記と云ふ書に南朝の御裔良王おちぶれ給ひ尾張津島天王の神主となりておはしけろ時良王に附屬の士…王の敵臺尻大隅守を…祭の時…討取たり此後此祭に臺尻討たと匐りはやす例となりたる由見えたりさて津島神は午頭天王と申…此社の祭神…と同じ神名なれば…津島祭をまねびたるにて其は浅野長政領る時已か生土の津國祭の風をうつせるものなるべし
〔故郷百首〕件信友高濱の磯辺の浪も立かへりさきちの宮の花のはるかせ。
〔新鉄道旅行案内〕(昭和二年六月刊) …式内の古社で古来高濱附近一帯の總鎭守として崇められて居例年毎年十月十三日に行はれ外に七年目毎に行ふ大祭は一週間に渉つて行はるゝ地方稀に見る盛典で花車を曳き太刀を振り田植唄を唄ふなど各字の催しは頗る古雅なもので近郷近在よりの來觀者が多い。
尚社境に隣接して愛宕山の中腹には町の公園がある湾内の風光は一眸の下に集って一幅の書圖を展べたやうである。
 無格社廣峰神社は此神域内神庫の東方に鎮座せり。
同 愛宕神社は此西に隣れる愛宕山〔妙見山半腹〕に鎮座して、例祭〔陰暦七月二十四日〕には松上げの儀あり、町民悉く參拜す。
 雨乞鐘の傳説 (一)千餘年の昔、暴風雨の翌朝、海波今の鐘寄區の海邊ヘー鐘を打寄す、住民引揚げて其地の祠に納む、故に其地を鐘寄といふ。其鐘卸ち現社藏の物なりと。
(二)昔時朝鮮に姉妹鐘有り、如何なる故ありてか、其一鐘此地に漂着す、之れ社藏の物なるが、他の一鐘妹鐘を戀ひて亦来りしも、着陸すゐを得ず、尚海底に在り、故に社鐘を撞けばアネゴーンと悲鳴すと、之を曳揚げむとて近づけば、海水忽ち黒暗々に濁る
を常とす。(或云之は烏賊の群棲して人舟の影を見れば例の墨汁を吐くなりと。(按に鐘の傳来不明なるも、韓鐘説あるは朝鮮役の鹵獲物乎、領主従軍せり、此地の人何ぞ渡鮮せざりしを保せんや、此種の物各地に多く存せり)
(三)姉鐘海底に在り、故に旱魃の時には、此鐘を鳥居濱に運び水中に浸せば(或云七日間海中に沈めて喧騒雨を祈るにりと)姉鐘其妹に會晤し得るを悦び雨を降らすと。
(四)昔時事代沖に三沈鐘を發見す、村人其二を曳揚げ、一を社に蔵め、一を馬居寺(和田村)に寄す、他の一鐘は〔径約一尺〕如何にするも揚げ得ず、今尚晴朗の日には之を認むるを得るも、近づけぱ海水黒變所在を失ふと、又数十年前に之に綱を掛けしも、一擧に斷れ了りしと。
(五)牧山僧坊の物を、彼等廢頽の際海に沈めしなりと。(社蔵の大般若経の傳説と合考すれば、夫或は然らむかと首肯さる)
(六)鐘寄の傳説にては延元元年打寄せしを神告に由り永和元年此社に納むと(彼傳説参照)
 国道丹後道を南に岐れて、一條の参道長く碎道山麓に通じ、子生川に架せる神橋一の橋より南は、菜海麥浪の間、老松の積翠道を挟むこと數丁、石華表の傍には石標〔縣社佐伎治神社と題し當地出身釈宗禅師書〕在り、神門より石甃を踏めば社殿に達し、更に磴階數十級を攀づれば丘上神殿を仰ぎ、神域蘚苔滑に、右に稲荷祠、左に神庫、東に接する廣峰祠、其祠後の四抱に餘る大老松(郡内第一)、西崖に潺湲の響を起す渓流等、清寂閑雅真に賽者に襟を整しむるものあり。社務所は神域の左に連り、神國の風越轉た可掬、前庭の能樂堂亦觀るに足れり。
 (高濱公園は革表前の右径より登覽するなり)。
附り 龍藏院 此院は往時の社僧の居にして雨乞鐘も此に釣られ(鐘楼の遺趾今尚存)社の什物も此に保管せられしものにて、
〔寛永四年中高附〕 龍藏院  松光坊
〔正徳三年國中寺號〕 龍藏院  松ノ坊
〔文化四年雲浜鑑〕 碎道明神別当真言宗 龍藏院 永福院文書類は、松の坊(現存)と、永福寺に保存せるが、
就中大般若(六百巻)は南北朝時代足利時代の所寫に係れり。
(屡々永穗二年三月 日一校畢是昌等の奥書あり)又第九巻には施主地上元盛又若州遠敷生守村福満寺云々とも書せしもあり第三百十巻には永正二年菊月二十二日若州生守村福満寺常住也願主施入景正六郎奉國とあり、此福滿寺は牧山頂に遺趾を留むる古寺にあらざるか俟後考 予按は彼條下に記述せり乞参照
〔萬治二年原本明和八年所寫社寺什物帳〕眞言宗正一位碎導大明神勅願所御寳殿〔三間四間〕御神體中尊観音〔左地蔵右阿彌陀〕二條院御宇長寛中御草創 社僧摩尼山龍藏院寺號西寶寺 右什物 一喩伽經弘法大師筆一巻 一理趣經 真如法親王御筆一巻 一仙人之絵筆不知 一軸一佛繪 七幅一鑵子 一ツ一盤銅 一ッー大般若印本一部一十六善呻 一幅
〔若狭郡縣志〕 龍藏院…二條院長寛年中之創建而爲勅願所元號摩尼山西寳寺今專稱龍蔵院住僧兼知碎導神社事矣
無格社 廣峯神社 祭神素盞鳴尊 宮崎字宮後に在り 社地二百九十四坪 鳥居 一基 同  愛宕神社 祭神軻偶突智命 宮崎字八ツ石に在り 社地三百八十坪 社殿〔二間二間半〕鳥居 一基 同  恵比須神社 祭神事代主神大国主神 事代にあり(一称太神宮) 社地二十四坪 信徒百人 社殿 二尺五寸五尺 拝殿一間一間半


『大日本地名辞書』
佐伎治神社。今高浜に在り、砕導大明神とも称し、大飯郡の大社にて、延喜式に列せる官社なりき、〔郡県志〕名義并に祭神不詳。
そうしたことで出雲系の神社のように語られているが、当地と出雲はそう関係はない。関係が強いのは朝鮮で、そうだからこそ古代史上重要な役割を演じる先進の力量を持った。当社の本当の祭神は天日槍でなかろうか。明治以降の歴史学の大欠陥点であり、国を誤らせた、皇国史観おとぎ話がまだ生き残っている国であるが、そろそろ認識を改めるべきであろう。興味引かれる説もある。
『地名・苗字の起源99の謎』(鈴木武樹)
但馬の出石を定住の地としたアメノヒボコ族は、その地の首長たちと姻戚関係を結ぶことで勢力をしだいに土着化させていった。たとえば前津見(サキツミ)などはその土着の先住勢力のひとりであるが、『延喜式』〈神名帳〉に「但馬ノ国の養父ノ郡 佐伎都比古阿流知ノ命ノ神社二座」とあることから推測すれば、「前(サキ)」・「佐伎(サキ)」は「沙[羅]城(サラキ)(=斯[羅]城)(シラキ)で、「津」・「都」は「の」、「見」は「主」、「阿流知」は朝鮮古代語の「閼智(=主)」だと見てよいだろう。これと似た名前の神社には佐伎治神社(若狭・大飯郡の高浜)などがある。

サキという所はあちこちにある、佐紀盾列古墳群(大和国添下郡佐紀郷)とか、隠岐国海部郡佐岐郷、散吉の郷というかぐや姫の里、シキ、スキとか。キは柵でその下の村の意味、サシスセソの村ということだが、そのサシスセソは元々はシラギのことであろう。チはオオナムチのチで尊称とすれば、サ村のエライお方を祀る社という意味になる。当社鎮座地は宮崎というが、あるいはその古い村名サキを残しているのかも知れない


愛宕神社
愛宕神社 軻偶突知命 愛宕山   旧七月二四日 社殿、鳥居
燈籠
松上げの儀 火の神

妙見宮
両社は佐伎治神社の裏山に鎮座する。


龍蔵院
龍蔵院
 山号を摩尼山、寺号は西宝寺と称したと伝える。当院は砕導明神の別当寺として、佐伎治神社の社僧が常住神事を奉仕していた。
 創建は二条院帝の勅願所として長寛年中(一一六四~一一六五)(若狭郡県志)である。創めは和田安土山麓に在ったが、佐伎治明神の社が今のところに移るに当たって〔天正一九年(一五九一)弥助文書〕、この寺もここに移建されたが、明治二年(一八六九)神仏混淆の禁止と、廃仏毀釈のあおりをうけて衰滅したようである。
 この間、元禄六年(一六九三)と寛延三年(一七五〇)の再度にわたって、松尾寺本尊開帳に関わる紛争訴状沙汰があったと古記録に見える。すなわち、松尾寺支院遍明院は、本尊厨子の鍵を開帳ごとに、龍蔵院と交互に保管するという古来のしきたりを守らず不都合なりとして、神野村叟太夫とともに連判して、時の寺社奉行宛て御裁断を仰ぎたいと訴状に及んでいる。



臨済宗相国寺派潮音山南陽寺

『高浜町誌』
臨済宗相国寺派 潮音山南陽寺
一 所在地 高浜町宮崎四十三号十五番地(横町)
一 開 創 天正八年八月日(一五八〇)
一 開 基 三因受益和尚禅師
一 本 尊 上品阿弥陀如来
一 檀信徒数 五〇戸
一 由緒沿革 開基は三因受益和尚、相国寺末寺御改帳によれば、文
禄元壬辰年(一五九二)四月二十一日示寂とある。
「福田八郎と称する居士あり、受益和尚に深く帰依して、当山を建
立、和尚を開基と仰ぐ、」と伝えるがその来歴については不詳である。
 「大飯郡誌」には、〝寺境内は諸役御免、名寄一斗七升三合六勺貢地也〝と元禄五年改帳にある」と誌している。
 本尊の上品阿弥陀如来像は、『享保四己亥年二月十八日丹波国より御来光』と、明治七年八月一〇日、時の戸長に提出した〝書類控〟にある。
享保三年第六世中興大儀定林和尚代、草創以来の仏堂を改め今日の伽藍を観るに至った。
 大正三年五月一四日従来の「南陽庵」を寺号に改め「南陽寺」と称して今日に至っている。境内野田家の墓域に、当寺曽ての大檀那であった歌人、野田庄右衛門長盛翁の小碑がある。
 翁は郷土の古籍『稚狹考』に紹介されている歌人としてその名がある。
 同碑には、〝明和己丑秋七月野田庄右衛門長盛謹誌〟と脇書があって、左のような碑文が刻まれている。
 自我五世先?没至干今一百年也於此立碑古家傍欲使我子孫先?令音不妄而己
 当寺が管理している境外仏堂に、石塚軒薬師堂がある。木造瓦葺一二坪平屋建のお堂で、本尊薬師如来は二五年目毎に開帳法要を修し、近くは昭和五八年であった。なお、薬師縁起、その他の古記録保存している。

.
『大飯郡誌』
南陽寺 臨済宗相國寺派 宮崎東宮崎に在り 寺地二百二十一坪 境外所有地三畝二十五歩 檀徒
四十六人 本尊上品阿彌陀如来 堂宇〔〕門〔〕 由緒〔明細帳〕天正八年福田八郎創立 〔大正三年五月十四日南陽庵を現称に改む〕
(元禄五年改帳) 南陽庵 開基三因受益首座文祿元辰年示寂 建立者福田八郎來歴失念 寺内は當町並ノ御赦免 名寄壹斗七升三合六勺八才 貢地也。



浄土真宗本願寺派西雲山専能寺

境内の「蓮如上人御舊跡」の石碑
『高浜町誌』
真宗本願寺派 西雲山専能寺
 一所 在 地 高浜町宮崎(赤尾町)
 一開  創 天正元年 (一五七三)
 一開  基 親鸞上人
 一本  尊 阿弥陀如来
 一檀信徒数 一九戸
 一由緒沿革 天正元年小浜市神田妙光寺の男、この地に来って小庵を結び、慶長八年二代了明、本堂を建立して専能寺と称した。以来多少の興廃があったが、延宝八年住職是讃、宗祖上人の御木像、及び実如上人の影像を本山より下附されて以来、内外、頓に完備するに至った。第十世響天諸国遊学の旅に出てから、先代最勝上人に至る約百年間無住となり、小浜妙光寺住職が代務を執っていたことがある。
 当寺第九世の住持に与謝野禮巌あり、国学を本居系の八木立禮に就いて学び、勤王の志士と交り、特に黒田嘉右衛門、高崎正風、西郷吉之助等とともに常に京都に在って、天下の形勢、諸藩の動静をうかがい、時の朝廷に建言するなど王政復古に寄与した。晩年京都府下本派本願寺支院に隠栖して後進に国学を講じ、和歌に親しみ、その遺詠三万余首ともいい、与謝野家の歌風を興した。
 大正七年、上人に従五位を追贈してその遣功を顕彰せられた。
 前住宮崎最勝師は、高浜発展に寄与する事蹟多く、中にも小冊子『高浜案内』を自費出版して郷土の紹介につとめた。
 大正一五年一○月、当地方初の幼児保育園を創設して、幼児教育に併せて社会事業振興の範を示した。
 境内に、蓮如上人旧跡の「植竹」と称するものあり。詳しくは別項〝伝説と民話〟に紹介してある。


『大飯郡誌』
專能寺 真宗本願寺派 宮崎字西宮崎に在り 寺地百八十二坪 境外所有地二反廿七歩 檀徒廿六人 堂宇〔〕 由緒〔明細帳〕天正年中神田町妙光寺正順創立
 境内に蓮如舊跡の植竹と稱すろものあり、寺傳曰文明七年蓮如越前吉崎を遞れ出で、若狭西津に上陸し、小濱妙光寺に入るや、此地の代官赤尾治左衛門〔赤尾町名之に〕原づ之に帰依し、延で小鯛を饗す、蓮如食後其使用の槇箸と竹箸とを、庭石(尽竹)の傍に植つ、其箸芽を發し今に繁茂すと。治左は之を剪りて蓮如箸とて夫妻之を常用せしとか。又傳ふ現寺域は治左の舊邸地なりと。
大正七年従五位を贈られし與謝野靈巖は、此寺第七世の住僧なり〔人物條参照〕



真言宗御室派八穴山永福寺

『高浜町誌』
真言宗 八穴山永福寺
一 所在地 高浜町宮崎四十五号六十二番地
一 開 創   年  月  日
一 開 基
一 本 尊 毘沙門天 立像厨子入七五センチ
一 檀信徒数 一八戸
一 由緒沿革 草創は天正年中と伝え、寺地は天正年中浅野成次の寄進したものという。
 曽ての神社は、概ね別当寺院の社僧によって神事祭祀が執り行われていたことは、神社の沿革においてその例が多い。
 当町の鎮守砕導明神(佐伎治神社)もまたその例である。
 はじめは「永福寺」と称する真言系の寺院が別当職についていたが「龍蔵院」がそのあとを承けて、一時隆盛を極めていたようである。明治初年に至り、故あってこの寺は廃絶した。
 現在の「永福寺」は当時「松の坊」と称し、龍蔵院の塔中坊の一坊であった。
 龍蔵院が廃絶するに及んで、神社の別当職も廃され、寺宝はこの松の坊が継承し、後、寺号を「永福寺」と改め今日に至っている。
 永福寺はもと、城山にあったとも言われている。
 本尊毘沙門天像は、槙山の遺物と伝えられているが、たしかなことはわからない。
 なお当寺所蔵の「刺繍種字両界曼荼羅図」一幅がある。鎌倉末乃至南北朝時代のものとしている。
 当寺には、佐伎治神社の別当寺院龍蔵院の古文書類を多く所蔵している。中にも大般若経六百巻は南北朝時代に書写されたもので、その奥書には、『永徳二年三月 日校畢是昌』第九巻に、『施主池上元盛若州遠敷生守村福満寺云々』の文がある。第百十巻には、『永正二年菊月二十二日若州生守村福満寺常住也願主施入景正六郎奉国』とある。
 〔若狭郡県志〕三十三所観音廿五番千手観音永福寺淮播磨国清水寺(寺蔵に、佐伎治社の旧別当-社僧-龍蔵院に関する文書、及中将姫織附と称する両界曼荼羅、小野篁筆と称する地蔵尊あり。)
 当寺境内に小祠があり、桜姫稲荷大明神を祠る。毎年旧暦初午を例祭としている。
 真言宗仁和寺末文明二庚寅年開闢也、開山は長応坊数六坊砕導大明神の為宮増田一丁五反寺社領有之候へ共太閤御検地に被召上今は漸く松之坊計残り申候本尊毘沙門行基御作にて御座候       無住 龍蔵院良詮              (若州管内社寺由緒記)
.

『大飯郡誌』
永福寺 眞言宗仁和寺末 宮崎字西宮崎に在り 寺地百九十三坪 境外所有地四反三歩 檀徒十四人 本尊毘沙門天 堂宇〔〕由緒〔明細帳〕不詳。
〔若狭郡縣志〕 三十三所觀音廿五番千手観音永福寺淮播磨國清水寺(寺藏に、佐伎抬社の舊別當-社僧-龍蔵院に關する文書、及中將姫織附と稱する両界曼荼羅、小野篁筆と稱する地蔵尊あり。)寺地は天正年中淺野成次の寄附をしものと云ふ。


日蓮宗永照山妙長寺

『高浜町誌』
日蓮宗 永照山妙長寺
一 所在地 高浜町宮崎(赤尾町)
一 開 創 明応二年三月三日(一四九三)
一 開 基 浄行院日運上人
一 本 尊 一塔両尊宗祖奠定曼荼羅
一 檀家数 四八戸
一 由緒沿革 明応年中甲州身延山第十二世日恵上人創立、以来一時中絶したが、永禄年間、浄行院日運上人により中興。以来日運上人を第一世と仰ぐ。日運上人の示寂は、文禄二癸巳年(一五九三)正月一四日。その他詳細は不詳となっている。
 当寺には『宗祖日蓮上人の御真骨』を奉安している。御真骨の添え文によれば
 永照山妙長寺高祖日蓮大菩薩御分骨之霊場殊従御城主御代々役御免除之御物頂戴之依衙寺格永代色衣免許義檀中願依而廿三世雲含院日等大徳代令格外許容者也
 維時天保五甲午歳二月十九日謹而拝書
  正東山二四五世
  向島山三十五世 日慶花押
本堂は弘化四年の建立(一八四七)庫裡については不明。和田、大塚文書によれば「元禄元戊辰年十月十二日夜九ツ出火、類焼ハナシ」とある。
 境内仏堂に〝二十番神堂〟がある。堂内には入母屋式宮殿を据え、中央厨子本尊は、国神三十躰の木像を祀り、向かって左の厨子には〝清正公大神祗〟を同右厨子内には〝鬼子母神〟が祀られている。建立は寛政八丙辰年(一七九六)〝本願人堀口伊右衛門五十四才〟としたためた棟札を存する。
 なお同寺には三十番神絵図一軸を蔵し、天保五年(一八三四)三月一五日当寺廿三世日進誌すところのものによれば、
 永禄九丙寅年三月十日御城主従二逸見駿河守殿一以堀内橘介開基浄行院日運江御祈祷被二仰付一処被レ為二成御願満足一依二其功一寺地拝領云々とあり。
参考文献「大飯郡誌」抄記
 〔蔵幅〕裏当山開基浄行院日運大徳文禄二癸巳年二月十四日卒 永禄
九丙寅歳二月十日従逸見殿〔前駿州大守天周宗登大居士天正九辛巳年三月二十六日〕寺地拝領并蒙諸役免許也
中興開基真性院日宥大徳正徳四甲午年八月八日卒貞享五年四月七日従酒井靱負佐様御代々御国印頂戴仕候故称中興開基也
喪天保五甲午年三月十五
日永照山二十三世日通誌
表…駿河守殿以堀橘内介…御祈祷被仰付…依其功…其後御城主山内〔対馬守殿〕 寺西〔次郎太郎殿〕溝口〔伯耆守殿〕 堀尾〔茂助殿〕丹羽〔五郎左衛門殿〕 迄逸見殿被為任先例…御検地有御奉行浅野弾正殿常地被為在御巡在此時改…久三郎殿御制札…従其木下〔宮内少輔殿〕津川〔内記殿〕次佐々〔加賀守殿京極御家老〕小浜御出張故御制札無之 京極若狭守殿…酒井靱負様御代…改御役免除之御国印頂戴従其…


『大飯郡誌』
妙長寺 日蓮宗本國寺派 小濱長源寺末 宮崎字樋口にり 寺地六百四十一坪 境外所有地田二反九畝十三歩 檀徒四十九戸 本堂〔〕庫裏〔〕門〔〕妙見堂〔〕由緒〔明細帳〕明應年間甲州身延久遠寺十二世日意創立一時衰頽永禄年間長源寺日運中興。
〔藏幅〕 裏富山開基淨行院日運大徳文祿二癸巳年二月十四日卒 永祿九丙寅歳二月十日從逸見殿 前駿州太守天周宗登大居士 天正九辛巳年三月二十六日 寺地拜領并蒙諸役免許也
中興開基眞性院日宥大徳 正徳四甲午年八月八日卒 貞享五年四月七日從酒井靱負佐樣御代々御國印頂戴仕候故稱中興開基也 〔表天保五申午年三月十五日永照山二十三世日進誌
表…駿河守殿以堀内橘介…御祈祷被仰付…依其功…其後御城主山内〔対馬守殿〕寺西〔〕溝口〔〕堀尾〔〕丹羽〔〕迄逸見殿被爲任先例…御検地有御奉行淺野弾正殿當地被爲在御巡在此時改…久三郎殿御制札…従其木下〔〕津川〔〕次佐々〔〕 小濱御出張故御制札無之…京極若狭守殿…酒井靱負棣御代…改御役免除之御國印頂戴従其…
〔所蔵文書〕一天正十六年十一月吉日浅野久三郎成次 華押 禁制〔全郡誌沿革條写出〕
一慶長二年七月吉日木下宮内少 惟俊 華押禁制〔同前〕
一慶長七年四月吉日津川内記一義 華押禁制〔同前〕
一慶長十四年八月吉日(京極)忠高 華押禁制 同前(前同文)
一禁制 高濱妙長寺一濫妨狼藉 附竹木伐採事一自他國寄宿事 一懸諸役亊 右條々於違背之輩有之者可爲曲事者也仍如件 貞享五
年四月七日
 靱員佐源朝臣華押(酒井家歴代 十通 同形式)
正徳二年八月十五日修理大夫 元文二年二月十五日備後守 寛保二年三月十一日修理大夫 寶暦九年正月十五日遠江守 明和四年
十月朔日修理大夫 文化四年九月朔日靱負佐 文政十二年九月朔日修理大夫 天保六年九月朔日修理大夫 丈久三年九月朔日若狭守

臨済宗相国寺派中嶋山園松寺

『高浜町誌』
臨済宗相国寺派 中嶋山園松寺
一 所在地 高浜町宮崎第七十四号四番地(今在家)
一 開 創 天正九辛来年  月  日
一 開 基 湖岳一此座元
一 本 尊 釈迦牟尼仏
一 檀信徒数 二七戸
一 由緒沿革 当寺は、天正九年(一五八二)の創立と伝えるが詳細はわからない。それより遡ること二十数年、永禄年間(一五五八~一五七〇)逸見駿河守昌経公が高浜城を築き、その城主となるにあたり自らの菩提所として、昌福寺を創建し、山号を金鰲山と号した旨の古記録を存する。
 降って慶長年間(一五九六~一六一五)佐々加賀守義勝公は、今のところに寺地を築き旧寺を移し換えて、その地形になぞらえ「中嶋山園松寺」と改めた。
 当寺、古くは、茅葺き屋根であったと思われるが、天保一二年ごろ現在のような重層瓦葺きに改められたものである。
 昭和五二年には本堂の大修理、続いて五七年には本堂屋根瓦の総葺替工事が行われた。
 当寺は前述の通り、高浜城主逸見公の菩提所として、境内には「御霊屋」と称する小堂がある。旧城主昌経公の木像御影並びに御霊牌及び佐々加賀守の霊牌も共に祀られている。
 また境内墓地に接して逸見公の供養塔(五輪塔)がある。
 そのほかに資料としては、逸見公後裔久長公の納めた〝逸見系譜〟その他多くを蔵している。
 当寺に於ては、毎年四月二六日「逸見祭」を催し、公の慰霊供養法要が行われ、寺宝の公開展観がある。
 当寺の檀中、時岡右衛門家よりの出家僧に『維明和尚』あり。元文二年同家に生まれ、多年にわたり相国寺管長を勤めた。その事蹟については、別項〝郷土の人物〟にある。
 当寺境外仏堂に通称『宮の道薬師』がある。古く八穴山久昌寺の遺跡であって、久昌寺は当町最古の寺院だと伝えられている。郡誌には「(元禄五年改帳)矢穴山久昌寺相国寺末本尊薬師慈覚大師御作 源尊氏康永二末年御建立
中興開山直伝善正 慶長年中示寂寺内御赦免(住持)周言檀那久右衛門与三兵衛(天保十四年無住改帳)慶長五年四月開基僧没後貧地故無住(明治三年同)建物之儀は古来薬師堂許存在-堂前北側に断碑あり………天文十年辛巳十月十三日の文字可読 此町 最古の金石文宇あり」とあるが今は所在不明である。
 本尊薬師如来の御開帳法会は二五年目ごとにある。


『大飯郡誌』
園松寺 同   宮崎字島の内に在り 寺地六百八坪 境外所有地三反七畝十二歩 檀徒二十六戸 堂宇〔〕庫裡〔〕鐘堂〔〕門〔〕土蔵〔〕辨天堂〔〕由緒〔明細帳〕永禄年間高濱城
主逸見駿河守昌經創立昌福寺卜名ク慶長年間佐々加賀守義勝築地シテ園松寺卜改ム
此寺舊時は赤尾町に存りしを、罹災後現地に移せりと云ふ、鐘楼の傍、御霊屋〔と称す〕あり、昌經の木像、義勝の霊位、孕地蔵を安置す。寺内塋域隅に五輪塔あり、昌經の墓舊天王山中に在りしを廢城の時に移せしと傳ふ。京極忠高文書、昌經の後裔久長の納めし逸見系譜なり、共に絶好史料たり。
〔若狭郡縣志〕逸見駿河守墓…高濱之城主…葬於昌福寺・…今改園松寺
(元禄五年改帳)中島山園松寺大檀那佐々加賀守殿天正九年辛己御建立開山湖岳一此座元同年入寺京極若狭守忠高境内御赦免状有之(慶長十一年八月吉日本書郡誌沿革絛寫出)
(元禄十一年八月十九日駿河守六世裔久 手簡)…私先祖駿河守石塔貴寺ニ建置申候由…此度家来志村源太夫ト申者爲名代焼香置申候…逸見三良兵衛久長華押(九月廿日志村書管)一…逸見之系圖此度置シ申候…一貴寺駿河守在世之時分ハ昌福寺ト系圖ニ御座候間昌福寺後園松寺ト書入申候…
(毎年三月二十六日逸見氏の爲に施餓鬼法會を修す、寺寶として維明和尚〔當地出身人物條参照〕手寫し、西京画伯原在中に淨寫せしめ、其巻首に序と詩とを書し、高濱盛夏〔處々に写出〕と題せし書巻を藏す。長三間餘、郡の西半治革風光を展開して餘蘊鈕し。松樹寺域を遶り。子生川寺前を流れ眺望可稱、中島の山号蓋し寺境に因ゐなるべし)
 此寺の管理する薬師堂横町に在リ。當町最古の寺院久昌寺の遺趾なり



舞々

佐伎治神社の参道を浜の方へまっすぐ行った「横町会館」の前庭に「沢村大学…生誕之地」の碑が立っている。沢村さんは「高浜宮ノ道沢村の舞々太夫幸菊家に生まれ」たというから、この横町あたりが舞々村だったのであろう。
よく知られた若狭の舞々、丹波の梅若。彼らの神事舞や日本が世界に誇る文化という歌舞伎や能楽、キャーキャーの俳優や歌手、浮世絵などの芸術家、こうした人々もかつての身分制度では「賤」とされていた。
知り合いの友の舞台俳優がよく、「私らは昔は河原者とか河原乞食とか言われた者の裔」です、と言っていたが、申される通りであった。当時の日本の下層は農以外はみな賤民で、税金や年貢のの取りようもない社会の一般からのはみ出し者は賤であった。彼個人が人として賤しいとか穢れているとかいうのでなく、当時の身分制度の中ではそのような低い身分、下層者よりさらに下層者、下の下の身分に置かれていた。一般の農民ですらその実態を知り得る資料はないのに、彼らとなるともうまったくないようなものだが、幸いながらわずかに文書を残している。
佐分利川の小車田という所に舞々谷があって、ここには舞仕が4戸あったという。同じ幸若舞(幸菊)だが、白拍子の舞から外かれたものといい、南北朝ごろから一種の流派を完成したものらしい。多く祭式上に用いられ、領主からも相当の禄を受けて保護された時代もあったという。今の各種文化団体のようなもので、どこかの庇護がないと自力だけではやっていくのはきつい。庇護がなくなれば、消えてしまい、せっかく磨き上げた芸能文化も消えてしまう。文化がないという事態はきつく悲しく情けない、もう人間社会とはいえないようなクソになってしまう。しかしそうしたことでたっぷりゼニがもらえ、社会的地位も高まるようになり、それは彼らの上層のごく一部だけなのだが、ワシはエライもんだと思い込んでしまうのか、そうなると創意工夫努力しなくなり、彼らの人格も教養も芸術芸能も堕落して創造性を失いクソに落ちてしまう。過保護のバカボンになってしまうのは別に「賤」だけに限った傾向ではない。原点を忘れまいと「河原者の裔」と言い続けた友はえらい者なのだろう。「自虐」ではない原点確認であろう。お互い少々足りないくらいがちょうどいいのかも知れない。
『高浜町誌』
高浜町指定文化財
舞々文書 五点        高浜町教育委員会
 五三桐御紋入桐文庫収蔵巻子仕立五巻からなる古文書である「越前若狭古文書選」(昭和八年刊)には杉本しづ氏所蔵として収録されている。高浜舞々中に宛てられた免許状判物で次のとおりである。
一、天正一六年霜月一六日  浅野久三郎判物
二、天正一六年       久米田輝政〃
三、文禄五年三月一〇日   木下宮内少輔〃
四、慶長六年八月三日    津河内記 〃
五、慶長一二年一二月二三日 佐々義勝 〃


『大飯町誌』
高浜の幸菊文書によって、大飯郡内で行われた様子を述べて参考とする。
 「私共先祖の義は幸若別家の者にて、少々の御扶持も頂戴……」、
 「一、居屋敷御赦免地、諸役御免除に仰付けさせられ候義は、天正十六年(一五八八)浅野久三郎様御代に御判物下し置かれ、其の後代々頂戴仕り……」(文化五年の文書)とあるように、高浜城主浅野久三郎(浅野長政の臣)から屋敷年貢や諸種の掛かり目を免除され、扶持米も少々給与されていた。


『大飯郡誌』
舞々の遺趾 維新前は世に名高かりしも、現時は殆ど其面影を留めず。〔全郡誌参照〕
〔稚狹考〕幸若 …高濱にも其胤ありて…幸菊と號し畑田を氏とす越前の親屬にや知らず…農家のもの賎しんで交はる事なし正月の始諸村を廻りて福いれといふ事を呼ばりて庭に在りて立ながら扁翳して鞍馬山毘沙門寳懸など弓むふて産業とす…高濱に澤村といふ所あり…横町ともいへり…細川氏の家令澤村才八此所の産にて幸菊の支属なり…幸若の平家…古雅なるものなり…舞々といへども本國にては終に舞事をきかず
〔常田文書〕天明年中 舞々 拾軒 四十二人 男二十人女二十二人
〔太良庄年貢算用状〕 文和四年?猿樂田…方下行 (勸逕猿樂)應永廿八年 永享三年六百四十文山縣方禮 三百四文同時與二郎方禮 三百文長法寺方禮 (謹請申手猿樂と事)長禄三年七月日 右手猿樂々事 近年大方御制禁之處今月十八日夜於乘觀在所沙汰之事.


『遠敷郡誌』
本郡に於ける舞々は倉座を主とし、酒井家代々之れを保護し神事に限らず、其技を演ぜしめらる、倉座の祖たる倉小左術門は大飯郡青郷に出で中古田烏浦及堅海浦に居住せりと云ふ、宮川村加茂に吉群座あり、後には倉座と共に能を主とせし事は下に述ぶる如し、遠敷村の舞々は天文年中遠敷山城に住せし内藤下総守の家来が主家没落の後越前幸若太夫の後なる幸福太夫に就て舞法を傳へられ、浅野弾正領國の時幸福座と定められ、諸公事を免除され所々祭禮に神事之舞を勤むるを本職とし、京極氏時代も同様にして酒井家時代に於ても従前通りの保護ありしも舞流行せず、次第に活計に窮せしかば京都土御門家に従屬し泰山府君の修行を許され一流の神職となりしを以て其後は梓巫子に類せし事を主とせし如く、世俗よりは特殊の業として輕視され来れり、大飯郡高濱の舞々記録によれば遠敷村の舞々は其分流にして寛永十四年遠敷上下宮大烏居建立につき舞を舞はんとせし時、申樂吉祥太夫と前後輕重の爭議を起せしが結局舞を先にし能を後にする事となりし事あるを以て見れば遠敷の舞々は大飯郡の系統にして能楽が神事能として盛なるに隨ひ舞々と爭ひを生じたるものなりと知らる。
 高濱の舞々は文政十二年に御室御所末高濱龍蔵院より舞太夫内職の事を申渡し、配下舞太夫口傳受の事として護身法、九字之文、十字之文、日侍月侍文、札傳法、惣祈祷用傳、星傳法、地祭傳法、金神遊行法、家堅傳法、易道の類云云とあるを以て見れば、舞太夫が祈祷に類せる事をなせしは遠敷に限らざるものと知らる、組屋恒久が風俗状に田楽はなし幸若はありと云へるは此舞々の事なり。
 申樂より転化したる能楽は本郡内にては幕末迄申楽の名の下に祭禮神事に奉納の意味に於て行はれ來り、各村の氏神には大抵舞殿を設置せり、稚狹考によれば田烏の倉氏は佐柿城主粟屋家の仕官なりしが、武田氏時代の時觀世新九郎?宮増彌右衛門小濱に來り申樂し後小濱に卒し倉座は一流なりしを丹後宮津青山家の士官牛田六郎左衛門行雄の教をうけて喜多流に轉じけるは享保十二年の頃にして寛保二年藩主の命によりて觀世流となるとあり。
 酒井忠勝公は倉座のあることを誇りとせられたるを以て見れば、常時に於て?當の能を演ぜし事知らる、忠直公の時寺井清兵衛と云ふ名ある能師を二百石にて召抱其外江戸より囃方狂言師御抱へあり、倉坐の者此弟子となり町人も習得したる事、拾椎雑話に見えたるは天下靜謎に歸し、一般民衆が此種の藝術に親しみ得たる始なるべし、忠囿公又斯道を好まれ近習家中の外町も御前に務め建部宗悦なる鞁打を五人扶持にて召抱へられ、其弟子町人に多かりしは當時元祿の盛時に當りて新藝の普及せしものなるべし、稚狭考に神社の申樂を列記せり、年代を明記せざれ共寛保以後なり。

 申樂
正月十三日小濱八幡宮十四日金屋熊野権現廿五日竹原天満宮二月八日武永山王十九日生守若山八幡宮廿五日府中惣社権現三月十日日笠牛頭天王十五日瓜生鳥羽谷七村立合天満宮四月一日加茂加茂大明神二日安賀里山王三日鳥羽谷七村立合(社名缺)初申奈胡山王初申太良庄山王、中申太興寺東市場上野四分一門前池河内立合山王、中申田繩山王、五月五日若狭浦(社名缺)
六月廿四日三宅真主大明神、七月一日上野木河原大明神、八月一日中野木泉岡一言大明神、一日堤箱大明神、二日杉山蔵王権現、三日太良庄山王十五日小濱八幡宮、廿三日尾崎六所大明神、廿五日田烏天満宮、九月一日次繩熊野權現、二日田村加茂大明神、三日小倉苅田姫大明神、四日三重三所大明神、五日野代(社名缺)六日納田終(社名缺)七日深谷(社名缺)八日桂木若宮三所大明神、十日遠敷上下宮、十一日多田大明神、廿六日下根来、廿七日上根来、廿八日中畑天満宮
 申楽座に給せらる禄米は最高小濱にて一回五石五斗より最低は小村にて八斗内外にして年中若狭領にて七十四度あれ共、生計に不足せり、村々にて祈祷をなせりと云ふ、初めには申楽と爭ひし舞々は次第に轉じて申楽に入り祈祷をも…
 寛文七年の書上げによりて田烏は寛永十九年迄谷田部瀧谷は萬洽頃迄田村三重は明暦頃迄下村は寛永四年頃迄坂本は承応元年頃迄能ありし事知らる。…



砕道山城

佐伎治神社の裏山(砕道山143m)にある城趾。丹後丹波でもよく知られた逸見駿河守昌経が高浜城を築く以前は当城を本城としていた。↑突き当たりが佐伎治神社、、山城は主に左側(東側)の峰にあった。

城郭は山頂に主郭を配し、それより北東に延びる枝峰稜線上に所在し、総延長は400mに及ぶ。高所ではないが山頂からは西方を除く三方に展望が開け、北の高浜主要部を一望におさめることができる。南北両側面は鋭く切下げられてかなりの要害となっているという。道がないので行けそうにもないが、低い所にも曲輪の跡らしい削平された場所があちこちに見られる。
築城時期は、永正14年(1517)頃の丹後一色氏と若狭武田氏の争いの頃と推定されている。この時逸見氏は武田元信の被官でありながら丹後守護代延永春信と組んで若狭に攻入っている。延永・逸見勢は敗北するが、天文7年(1538)再び逸見氏は武田氏に反乱した。さらに永禄4年(1561)に粟屋党と手を組み守護武田義統と合戦に及んだ。「厳助往年記」同年6月条に「若州江法雲粟屋等入国、自旧冬合戦越前武田合力人衆一万一千罷上云々、仍法雲粟屋、逸見人衆悉引退、所々城数ケ所落居、逸見城取廻之責云々」、この時落城したとみられる。その後、逸見氏は高浜城を築き本城としている。

『高浜町誌』
砕導山城址
 砕導山城址は高浜佐伎治神社の南側一一八メートルの山上にあって、丹後道と佐分利道の分岐点の要所である。
 永正年中(一五〇四~一五三〇)若狭の守護武田信親の家臣逸見越中守貞長が築城した。(町資料室逸見氏系図による)永禄四年(一五六一)逸見駿河守は丹後より粟屋越中守及び法雲某の増援を得て武田信豊(守護)に謀反をした。武田方には越前朝倉軍が一万一〇〇〇の軍勢をつれて救援に来て逸見の城をおとし入れた。永禄八年(一五六五)城山に高浜城を構築後も砕導山城はその出城として使用され、笠原にも逸見氏の出城があった。



砕導山城の築城  高浜町中央部の宮崎地区に位置し、国鉄小浜線高浜駅の東南にあたる。国道二七号線に面して式内社佐岐治神社があり、その裏山一帯に山城跡がひろがっている。当初、砕導山城は前頁見取図の①・②・③郭しか判明しておらず『若狭郡県志』にみられる逸見氏出城跡という記述をうのみにした調査だったため、その部分しか見なかったのである。
 ところが、当町在住の杉本泰俊氏の確認によって広範囲におよぶ城郭の存在が明らかになり、再調査をおこなった結果、八五〇メートル×六五〇メートルの全容が知られることとなった。勿論これほど大規模な山城は若狭では他に認められず、若狭守護武田氏の本城後瀬山城よりはるかに大きい。この城にみられる通り、逸見氏の強大な勢力拡張の背景には、武田と同族という一面もあるが、武田氏若狭入部以来、初期の軍事力が逸見氏を中心としたものであることもその理由の一つとなろう。
 武田氏四代元信以降、粟屋党の台頭によって次第に武力集団が均衡化し、逸見党の主力的地位が順次衰退するなかで、一門衆逸見党の横暴さに批判勢力が対抗するようになつたと推察される。その結果、守護にうとんじられた逸見党は永正・天文・永禄二回計四回にわたって叛乱を起こすことになった。
 砕導山城は、さほど古い時代のものではなく、おそらく天文年中(一五三二~五四)頃に築城されたと考えられるものである。もとはこれほど広い範囲ではなく、永禄四年(一五六一)の大叛乱に際して拡張されたらしく、未完成の部分が多く見られる。
 城は砕導山を中心とするもの、千丈ケ嶽を主郭とするもの、天王山を主として枝張りを見せるものの三つからなり、逆三角形を形成する全山が要塞となっている。砕導山では①~③郭がっくられ、一部削平されているものの旧態をよくとどめており、堀切り・竪堀もみられる。③郭は北東へ二~三メートルの段切りをして一一郭が連続し最下段は海抜七五メートルのところに位置する。主郭との比高差は七〇メートル余りである。これらの郭はいずれも小郭で、長方形、方形、三角形などに調整され、最先端郭は街道に向かって半円形につくられ、その先は急傾斜面となる。先端郭は稜線の張出した突端に位置するため、眼下に町並みがみられ、さらに和田・高浜町西部市街地が一望される。
 ④郭は千丈ヶ嶽の突出した山頂に主郭を配するが、ここでは北稜線と西側稜線上に見事な掘切り・竪堀(前頁写真)が残されており、この延長が⑤・⑥・⑦となる。今一つは、天王山⑧郭を中心として⑨・⑩郭を形成するもので、⑨郭の先端は現国鉄小浜線に、⑩郭は子生川に接し大飯町佐分利谷への道路に面している。さらに⑪郭はこれら山嶽からやや離れた南側山嶺に築かれており見張台的な要素を持った一郭と考えられよう。砕導山の中段郭②から尾根上に千丈ヶ嶽へは連絡路がっけられており、堀切に接して土橋(上写真)もみとめられ、山城としての典型的な形態をとどめている。砕導山城は以上のような結果を得たが、城の要図は見取図的なものであって正確ではないことを記しておきたい。とくに、腰曲輪については、後世に削平されたことも考えられ、さらに検討を要するであろう。

永禄四年の叛乱  天文七年(一五三八)以後、体制を立直しこのような城郭を築いて若狭国西方の一大勢力として存在したのは、好戦的な駿河守昌経の出現によるものである。彼はまた野心家でもあった。しかし、天文二〇年の武田信豊田辺(舞鶴市)陣立には同行しており、翌二一年春には信豊か逸見の城に入城するなど(『羽賀寺年中行事』)、武田信豊の段階ではきわめて友好的な関係が保たれていた。ところが、弘治二年(一五五六)武田氏家督をめぐって国内争乱が起こり、信豊の弟宮川新保山城主、宮内少輔信高が討死、信豊は隠居させられるという事態が発生した。信豊と子息義統の争いであった。信豊は隠居したもののその隠居料をめぐって再び争いが起こり、一時信豊は近江へ退出するというところまで行った。義統には、朝倉義景がっいており、この争乱は永禄四年までつづいたらしい。逸見昌経は信豊に与したものか『続群書類従』武田系図には「○上略或記曰、信豊永禄元年巳未十月廿三日逸見謀反、同十一月七日与二義統一父子合戦、辰刻信豊方千賀左京亮以下卅余人討死〔此説有疑〕○下略」とあって、永禄合戦と記している。ここでは此説に疑ありとするが、信豊・義統の合戦は事実で、近江へ出国した信豊は同国より義統を攻めようとして熊川に着陣している。このときは近江守護佐々木氏の仲介で事なきを得たのであった(『羽賀寺年中行事』)。
 この期を利用したのが守護方に不満を持っていた粟屋勝久・逸見昌経ではなかったか。両者は信豊方に属したため敗北し国外へ退去していたことも考えられるが、砕導山城の規模からみるとこの城を拠点にして虎視眈眈と機会を狙っていたことが伺える。『厳助往年記』下(東大影写本)に
  (一五六一)
  永禄四年
   入月 日 若州江法雲・粟屋本入国、自旧冬及合戦、自越前
        武田合力入衆一万千斗罷上云々、仍法雲・粟屋・
        逸見本入衆悉引退所々城数ヶ所落居、逸見城取廻
        也、責之。
と記録され、朝倉義景軍が応援として一万一千の入軍を送りこんだことを示している。ここに記される法雲とは、丹波八木城主松永甚介長頼(蓬雲軒宗勝)のことで、悪名高い松永弾正入秀の弟である。この頃、丹波から丹後へ侵入、加佐郡にも勢力を伸ばしており、その人物と逸見・粟屋が手を結び、武田氏を攻撃したのであった。
 この合戦は右の文に旧冬よりとあるように、永禄四年正月早々からおこなわれており『白井家文書』に
   (正月一日)         (被)
  去朔日、於和田合戦之刻、同名与力披官入?或打入刀突鑓・或
  分射分捕以下、各蒙疵剰討死在之、無比類忠節候、別而依申付
  如此之働神妙候、弥相勇可抽粉骨状□如件
   永禄四       (武田義統)
    正月廿八日     義元(花押)
         白井民部丞殿
とあってその事実を証明することができる。
 蓬雲軒宗勝の軍勢は田辺より若狭へ入っており、一方その支配下にあった川勝光照(豊後守・京都府北桑田郡美山町今宮城々主)も、六月八日北桑田郡野々村衆を動員し若狭へと迫って来た。名田庄谷・舞鶴側の二面作戦がとられたらしい。六月の合戦は二度おこなわれており『大成寺文書』逸見維貴書状に「其内両度合戦候へ共、何も当国被得勝利候」と記され武田義統の勝利を伝えている。『厳助往年記』に云う六月の合戦とは、一九日のことである。丹波勢は天田郡と桑田郡の軍勢を集結。一方、逸見方も一族を動員しており『前同文書』に  此方之衆一番ニ者右馬允、同筑後父子・甚介・与七・与力衆中津海此衆ニ入数相添被立候、其後、六月一九日より河内父子ニ入数相
加、重而相立申候とあって、総力を結集してこの一戦に立向かったことが知られる。一九日合戦は『御湯殿上日記』永禄四年入月二二日の条に「若狭の事ほううん十九日の合戦、若狭よくて、八里こなたへほううんのきて国静かなるよし、武家へちうしんの由沙汰あり」と記されており、丹波・逸見・粟屋連合軍と、武田・朝倉連合軍の一大決戦は永禄四年六月一九日であったことがわかる。『厳助往年記』にいう逸見の城は砕導山城と考えられ、落城した日も伺うことができよう。ここに逸見河内がみられ、この頃すでに逸見軍団の指揮者として存在したことが知られる。
 永禄四年の叛乱は、叛乱というより下剋上と云った方がより適当かも知れない。若狭守護武田信豊・義統父子の相剋を利用した守護被官人らの国取り合戦であり、結果は朝倉軍の強力な軍事援助によって排除されたのであった。丹波・若狭連合叛乱軍がどのくらいの軍勢であったかを知ることはできないが、砕導山城の規模からはかなりの人数であったことが推察されよう。もっとも、逸見氏はこの合戦でも主役にはなり得なかったのである。



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《姓氏・人物》


宮崎の主な歴史記録



宮崎の伝説・伝記


『高浜町誌』
沢村大学吉助生誕の地碑
 沢村大学吉助生誕の地碑は高浜、宮の道、一の橋北側にある。
 沢村大学は永禄三年(一五六〇)宮崎に生まれ逸見駿河守に仕えた後、田辺(西舞鶴)城主細川忠興の家臣となり、三〇余度の戦場で常に武攻抜群であり後に熊本、細川藩の家老となった。敬神の念があつく忠誠、郷土愛の強き武将で慶安三年(一六五〇)九一歳で没した。

沢村大学
 永禄三年(一五六〇)高浜宮ノ道沢村の舞々太夫幸菊家に生まれ、幼名を〝才八〟と称した。長じて高浜城主逸見駿河守昌経公の家臣となり、数々の戦功をたてて軍陣に勇名を馳せるに至り、生まれた村名にあやかり「沢村大学助吉重」と名乗った。
 天正九年(一五八一)三月二六日大学二二歳の折、主君逸見公病没という事態に当たり、その一子源太虎清を跡目に立てようとして自ら虎清を背に負い、はるばる江州安土の城下におもむき、たまたま信長の騎馬駈けに遭うての馬前に竹挟みの訴状を差し出して直訴に及ぶこと以来再三。遂に認められたかに見えたが、天正一〇年六月本能寺の変起こり、信長の大望空しく自憤の裡に一生を終わった。ここにおいて大学の孤忠空しく壊え去り、さしもの勇者もこの時ばかりは号泣暫しやまなかったと伝える。
 遺子源太虎清もほどなく夭折して茲に逸見家は断絶するに及んだ。大学助二三歳の時である。
 この年八月、自らは再起を期して丹後田辺の城主細川忠興公に仕えることとなり、歩卒の軽輩に甘んじながら一歩々々を着実に歩み幾多の戦陣に勇名を馳せ、細川公の信任を深めると共に、天正一三年夏小牧の陣、一八年には小田原攻め、秋の奥州攻め、慶長五年秋関ヶ原の役には細川方一方の将として獅子奮迅の働きを見せ、彼の帯さむ〝皆朱の槍〟は向うに敵なく、常に忠興公の馬側にあって離れずその奮戦ぶりは目ざましいものがあったという。その功によって禄高五千石、続いて城代更に家老職にと進んだ。時に四一歳。
 寛永一四年(一六三七)一〇月、島原のキリシタン一揆に出陣したのは実に七八歳の高齢であったが、主君忠利の長子肥後侍従光尚の軍下に一軍を指揮して原城を陥れた。その時の軍姿と思われるものが、佐伎治神社所蔵(町指定文化財)の沢村大学助吉重画像(文政年中江崎寛斎筆)である。
 大学助吉重は遠く故郷の地を離れて肥後の国にあり、望郷の念ひとしお深いものがあったであろうことがうかがえる。その郷恩に酬いんとして氏社、砕導大明神の宝前に大鰐鐘一打を奉納してその添え状に曰く
  吉重白ス荀クモ貴国高浜之邑ニ生レ辱クモ砕導大明神之氏子ト為然リト雖モ
世ノ変化ニ随ヒ生国ヲ去ル丹陽ニ足キ細川参議忠興朝臣ニ仕フ細川忠懃之義ニ
依ツテ丹従リ「豊之二州」(豊前、豊後)ニ移リテ茲ニ歳尚シ矣家督羽林忠利天
下之厳命浅カヲザルヲ以テ寛永九壬申之冬豊ヲ改メテ肥豊二州之太守ニ封ゼラル矣
于レ此ニ府君寛永十八辛巳之暮春不豫之疾ニ嬰リテ逝ク長子肥後侍従光尚事
無キノ故ニ厥ノ後ヲ相続セリ細川之臣再ビ椿齢(長寿)之レ祝ヲ唱フ矣先祖藤孝入道
玄旨自リ光尚ニ至ルマテ我レ仕ヘテ四世ニ及ベリ処々而ウシテ領地ヲ倍ス主恩蒙ルコト
他ニ異ル矣今已ニ八旬有余ニ及ブト雖モ身体髪膚是レ全タシ子枝孫葉猶茂ス矣是
這偏へニ神之助ノ成シタモウ所豈何ヲカ疑フコト有ラン于今斯ノ鰐鐘ヲ鋳テ以テ楼殿ニ掛
クル者神慮之厚恩ニ示フルナリ古人曰ク喜ビ有ラバ則チ以名物之謂乎矣于前書
写セン者ハ我レ菩提ノ地ニ撰下ンデ洛陽ノ黒谷豊州羅漢寺肥陽成道禅利ノ三処上造
立逆修于ナス也 爾時二儒ノ憐ミ有ラン焉予ガ壮歳自リノ事跡ヲ之書ヲクコトヲ請ハル
余後世ノ嘲ヲ憚ルニ依ッテ辞スト雖モ碑之書允サレザル也今旧里ニ送リテ他之聞視ニ入
レシム誹リヲ招クト雖モ愚意之スノ所者当社参詣之道俗之中若シ予之門葉残リテ鰐
鐘之彫字ヲ閲シ姓名ヲ慕ウコト有ラ者懐意ヲ安ンゼシメント為ス也  他之嘲リハ遮莫
且又現当ニ世之大利ヲ成ス応キ而已
  寛永廿一甲申歳三月吉祥日
            沢村大学助吉重
 龍 蔵 院
    机 下        (原本漢文体=和文解訳)
 慶安三年(一六五〇)九一歳の長寿を完うした。その碑は、肥後熊本、成道禅寺にある法名、林月浄西居士。

『舞鶴市史』
丹後時代に召し抱えられた家臣例をみると、上林助兵衛(源太左衛門)は甲斐武田氏の浪人であったが、丹波国上林に移住して当姓に改めた。細川家に出入りしていたので、田辺龍城戦が勃発するや駆け付けて奮闘し討死したが、その子甚助が召し出され一〇〇石を賜った。魚住正重は若狭高浜城主逸見氏の一族であった。宗家の没落後、父の市正はすでに青龍寺において召し出されていたが、彼は細川氏が丹後へ進攻のとき、「国人御取鎮之御人数不足之御様子ニ付、逸見の家来残居候者共相催し、罷越相勤」(「綿考輯録」)めて召し抱えられ、その後、文禄の役ほかの戦陣で活躍して鉄砲・弓組の頭に任じられ、一二〇〇石の知行取り(知行地受給者)となった。沢村才八(大学)も右記逸見氏に属したが、主家没後の天正十年、丹後に来って足軽に採用され、度々の戦功によって士分に取り立てられ一〇〇石給された。
 このように、細川氏が戦乱による領主の衰亡で続出した浪人を家臣化していった中には、信長によって討滅された摂津高槻城主左近光秀の子入江景秀、同有岡城主荒木村重の子荒木善兵衛のように細川氏を頼って庇護をうけた者もあった。


『若狭高浜のむかしばなし』
宇治の日暮し塚
 宇治の村に、それはそれは意地の悪いばあさんがいた。ひどい嫁いびりで、近所でも評判のばあさんだった。
 もしも嫁がその日の暮れる前に帰ろうものなら、すさまじい剣幕で怒りののしる。
 「まだ外は明るいやないか。少しでも明かりのあるうちに帰ってきたら、許さへんで」
 嫁はもうふらふらだった。食事もろくに食べさせてもらえず、ただただ働くばかりの毎日だったからだ。しかし、貞実な嫁は耐え忍んだ。いっさいさからわず、朝はまだ星が残る頃から夜は星が輝くまで、実によく働いた。飲まず食わずで働きすぎた身体は、だんだんぼろぼろになっていった。
 ある日、とうとう嫁は病気になり、亡くなってしまった。
 「あれじゃ、無理もあるまい」
村の人々はみんな気の毒がった。そして嫁は、谷間の野にひっそりと葬られた。日の暮れまで働いた嫁の眠るこの場所は、誰からともなく〝日暮し塚〟と呼ばれた。
 今も宇治の町辻には、一本の古い榎がある。
これがこの薄幸な嫁の塚跡だといわれているが、真相は謎のままだ。


赤尾のご隠居
 今から二百二十年以上むかしの話である。赤尾町に小間物屋善兵衛の父、若無が隠居していた。召し使いものや出入りのものに対してもいつもやさしい、それはそれは温厚な人物であった。
 安永二年のことである。高浜浦町に疫病がはやり、漁師たちは漁にでることもできず、大変多くの人びとが飢えに苦しんでいた。あまりに悲惨な様子を見かねて、高浜町の心ある人や、お寺が米を持ちよって救援にあたった。米のゆとりが多少ともあったご隠居の若無もまた米をおくった。それは一度、二度、三度と度重なっていった。若無は米だけでなく、炭やたきぎなどもおくるのだった。しかし、飢えに苦しむ漁師の家庭はあまりにも多かったので、ご隠居の心はひとときとしてやすまることはなかったのだった。
 ある夜のこと、浦町の刀袮(漁師の長)の九右衛門の家の戸を叩くものがいた。主人の九右衛門が起きて外へ声をかけた。
 「どなたかな」
 「浦町の漁師のかたがたが疫病に苦しんでいると聞き、ここに白米二俵を持って参りました。どうぞ、とくに困っている方に分け与えて下さいますよう、お願いします」
 「そういうあなたさまはどこから参られたのか。お名前をお聞かせ願いたいものだが」九右衛門が戸を開けてたずねた。
 「いえいえ、よろしくお分け下さい。私どもの名は言うに及びません」
と、答えて足早に立ち去った。
 翌朝、九右衛門は仲間と相談し、白米を病気で困っている十五軒の漁師の家に分け与えた。みんな涙を流さんばかりに喜んだ。
 このことは、人から人へと伝えられ、巷に広がっていった。やがて、そのうわさは奉行の耳にも届いたのだった。
 奉行は刀袮の九右衛門を呼んで白米が届けられたときのことを詳しくたずねた。そしてやっと、白米二俵をもってきた人物をつきとめた。
 「その者は、赤尾町小間物屋の庄右衛門の出店(今の支店にあたる)、善兵衛の隠居のところへよく出入りしている久七らしい」そこで、善兵衛が呼ばれた。しかし、善兵衛ははっきり答えることがきてなかった。回りのものにたずねても知らないので、父の若無に聞いてみることにした。父はいった。
 「長い間、浦町の漁師たちが疫病で苦しんでいる。前にもわずかばかりだが、米をおくったものの、そんなのは多くの人が分ければ、取るに足らないくらい少しのものだ。また、分けてあげたいと思っても、はばかられたので、家族のものにも知られないよう、ひそかにやったのに。ああ、知れてしまった」
 このことを聞いた息子の善兵衛は、奉行所にありのままを報告した。話は殿様にも知れるところとなり、殿様は若無に金子を与えてほめたたえた。さらにまた、救援物資をおくった町の有志と寺院に対してもおほめの言葉を授けたのだった。


蓮如上人の植竹
 今から五百年以上もの昔、文明七年(一四七五)のころだ。蓮如上人は、越前の吉崎をまわって若狭の西津湊に上がり、そして小浜の神田妙光寺に留まっていた。
 当時、この地の代官は赤尾治左衛門だった。治左衛門は上人を深くあがめていたため、高浜の自分の邸に招くことにした。
 「さて、夕食は何の料理でもてなすことにしようか」
あれこれ迷った末、治左衛門は若狭小鯛の料理でもてなすことに決めた。
 いよいよ当日、焼いた若狭小鯛を皿に盛って差しだした。お上人は一口たべるやいなや、
 「これは、古今に類なし」
と大いに喜んだ。そして、食べ終えると、使っていた竹箸を庭石のかたわらに突きさしたのだった。
 しばらくすると、不思議なことが起こった。なんとその箸には根がつき、青い芽を出し始めたのだ。
 「うれしや、うれしや」
治左衛門はたいそうな喜びようで、その竹を大切に大切に育てた。やがて太く立派になった竹からは、再び箸が作れるようになった。治左衛門夫婦は、この箸を〝蓮如箸〟と名づけ、生涯使い続けたという。
 治左衛門の旧邸跡である専能寺の境内には、今もその竹が青々と繁っている。






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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『高浜町誌』
その他たくさん



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