丹後の地名 若狭版

若狭

父子(ちちし)
福井県大飯郡おおい町父子


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福井県大飯郡おおい町父子

福井県大飯郡大飯町父子

福井県大飯郡本郷村父子






父子の概要




《父子の概要》

佐分利川を挟んで万願寺の対岸で、父子川に沿って集落をなす。地名の由来は、式内社「静志神社」の社名の転訛。
父子村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年本郷村の大字となる。
父子は、明治22年~現在の大字名。はじめ本郷村、昭和30年からは大飯町の大字。明治24年の幅員は東西2町・南北5町、戸数67、人口は男157 ・ 女134、小船3。


《父子の人口・世帯数》 175・63


《父子の主な社寺など》

古墳
『大飯町誌』
古墳
 小山古墳一基、サカン谷古墳群二基、父子古墳二基の五基がある。中でも小山古墳は一つの独立した山で、比丘尼山ともいい、幾つかの古墳が築かれていた。須恵器などの出土もあった。山頂に一基が築かれてその前面は一段下って削平されており、山の周囲は田と畑で判然と区切られている。一時、前方後円墳であろうかといわれていたこともある。これらの古墳と共に静志垂水の古伝承があり、集落成立の歴史は古いのである。

静志神社の裏だという、発掘はされていない。またニソの杜のような四十八杜があるそう。

静志神社(式内社)

集落の一番奥に鎮座。父子という当地名の語源になった古社。現祭神は少名毘古名神となっているが、それはないだろう。シズシは京都府船井郡に質志(しずし)鍾乳洞て知られる所の地名と同じだが、そこには式内社の酒治志(しゅちし)神社がある。シュチシがシズシと転訛したものと思われる。当社も元々はシュチシ神社であっただろう。シュチは須知のことで、そこで説明したが、
『魏志東夷伝』「韓伝」に、
それぞれ〔の国には〕長帥がいて、権力の大きな者はみずから臣智といい、それに次ぐ者は邑借という。
とあるが、その臣智のことで、紀では都怒我阿羅斯等で見られる。都怒我は今の敦賀で、阿羅斯等は『姓氏録』でいう阿利叱智のこと、斯等や叱智がこの臣智で、権力の大きな王様の意味ということになる。最後のシは主(ヌシ)とか大人(ヌシ)とかのシで一種の尊称か。この村を開いた渡来人集団の親分を祀った社であろう。本当の祭神は「一説に天日槍を祀る」がほぼ正しいと思われる。シズシがさらに転訛して天日槍を祀る出石(いずし)神社になったりするのだろうが、当社名は渡来語丸出し、古いままで大きな変化なし、当地周辺では一番の古社でなかろうか。大飯神社や新鞍神社も同じことであろうが、やや日本語化したものか。サブリ川同様に古い来歴を語ってくれている。
また天日槍は鉱山の神ともされ、野尻銅山との関係があると思われる。当地の石灰無尽蔵ともされ、文政年間から字小朱谷で石灰を採掘製造していたという。

『大飯町誌』
静志神社(式内元村社)
祭神 小名毘古名神
所在地 父子字静志(四六の一)
境内地 三、七二九・三平方㍍
氏子 父子(六五)戸
例祭日 十月五日
宮司 松田忠夫
主な建造物 本殿、拝殿、舞台、社務所、神楽殿、手水舎
特殊神事 豊年祭、神楽、三者舞、棒ふり、翁面当
由緒・系統 明治八年(一八七五)大谷口山麓字静志奥にあった蔵王権現を改めて式内静志神社と確定した。九二七年以前の古社 出雲系
〔合祀社〕
垂水神社
祭神 水分神
元地 父子不動滝の小祠
由緒・系統 『若狭国神名帳』に従三位垂水明神とある。九四四年以前の古社 水神信仰


静志神社
 字静志にある。祭神は本来の少名毘古名神と、あとから合祀した水分神(垂水神社)、事代主命(三島神社)、倉稲魂命、大田命、大宮姫命(上三神稲荷神社)、菅原道真公(天満神社)とである。
 明治初年神社改めの際、静志神社の所在が不明であった。その後、調査の結果大谷口という山麓に静志奥という字名があり、ここに祀られていた蔵王権現が静志神社であることが分かったのである。よって明治八年(一八七五)に出願して、式内静志神社と確定されたのである。境内社は若宮八幡神社(祭神誉田別尊)である。


『大飯郡誌』
静志神社
〔若狭国神名帳〕正五位志津志明神
〔若狭郡県志〕〔若狭国史〕在所不詳
〔神社私考〕いま詳ならず(注)但委道が家記に佐分郷父子村に山王宮と云ふ社あり合殿に熊野権現を祭れり此宮を獅子宮ともいふ…此社静志社なりと記せりといへり此伝説の如くならば静志は獅子を訛れるなるべしさて村名の父子もしくは志津志の訛れるにやあらむ 又按に神野浦里人伝説に…松尾の観音の像造れる材当浦の志津海…寄来れりと 静志といふ據ありげなり…
〔地名辞書〕静石神社此に在り〔神祇志料〕父子は静石の訛とす一説静石神は天日槍を祭る。


村社靜志神社 祭神少名毘古名神外四神(合祀) 父子字靜志に在り 社地千百五十八坪 氏子五十四戸 社殿〔四間五間〕拝殿〔〕社務所〔〕神楽殿〔〕舞臺〔〕鳥居一基 手水舎〔〕(建物多く近時成る) 由緒 創建年代不詳なり國帳に正五位志津志明神とあるは此此にて中古山王大権現と稱す明治維新神社改の際御霊體は佛體なりしを以て之を海元寺に移し更に其近傍なる大谷口と名くゐ山麓の靜志奥に奉祀せられたる蔵王権現と稱する社を改めし静志神社なる事分明となり明治七年式内に確定し明治九年二月村社に列し古に勝りて尊崇奉祀す 内確定(全郡誌諸神社章参照) 明治九年(按に父子はチイ迫(サコ)にて
〔若狭國神明帳〕所載正五位少子明神?)。
〔寛永四年國中高附〕 山王大権現九月五日三寸御供備翁面當申候[若狭郡縣志] 在父子村林中爲産神…
境内社 若宮八幡神社 祭神誉田別尊 社殿〔〕上假屋〔〕
明治四十四年十一月二十四日左の四社を合併せり。
 無格社垂水神社 祭神水分神 父子 字上瀧ノ下
 〔若狭國紳名帳〕 從三位垂水明神 〔全郡誌諸社章参照〕
 同  三島神社 同 事代主命 同字三島
 同  稲荷神社 同 倉稲魂命大田命大宮姫命 同 字稲荷
 同  天満神社 同 菅原道真公 同 字天神.



滝不動堂
海元寺の奥で、高速より奥。獣除けのフェンスを開いて入る。
ちょっとした公園になっている。
『大飯町誌』
垂水(たるみ)
 この集落にはほかに元垂水神社という社があって、『若狭国神名帳』に載せられていた。当時従三位神社は少なかった。当町では依居神社、垂水神社の二社だけであったのである。滝にあった社がそれで、明治初期の台帳によると祭神は水分神、社殿二尺五寸四分、境内七二〇坪、鳥居一基となっている。
 垂水は、垂れ落ちる滝を指すのである。生活に欠くことのできぬ清らかな水を供給してくださるのは神の仕事であると感じて、これを祀ったのであろう。伴信友は、「ちちし山かきたつ岸を直落る垂水の水に夏もとまらず」と詠じている。
ふるさと小公園
不動の滝を中心としてこの辺り一帯を「ふるさと小公園」と名付け、休憩舎、ベンチ、タイコ橋、案内板などの施設のほかヤマモモ、ヤマザクラ等の植栽も行って昭和六十三年(一九八八)三月開設された。



曹洞宗大光寺末梵音山海元寺

『大飯町誌』
梵音山海元寺
宗派 曹洞宗(大光寺末)
本尊 十一面観世音菩薩
所在地 父子字寺の下(二九の二)
主な建物 本堂、庫裡、倉庫、本堂は明治二年(一八六九)上棟
境内地その他 境内九二五平方㍍、田三、二七二平方㍍、畑四九五平方㍍、山林一五、八六七平方㍍
住職 渡辺宏洋
檀徒数 四九戸
創建年代 天文二年(一五三三)
開基 石山城主、武藤上野介
開山 大光寺三世、助山文佐大和尚
寺宝 西山和尚書幅一軸、また、慶長三年(一五九八)の過去帳あり


海元寺
 字寺の下、曹洞宗永平寺派大光寺末である。本尊十一面観世音菩薩、天文二癸巳年(一五三三)創立、開山助山文佐大和尚(この和尚は田繩村大光寺二代目伊賀国弘徳寺開山正覚大和尚の弟子である)。字寺の下にある。元は海元寺谷にあった。小山の所から細い坂道がある。斎米(ときまい)道といっているのが今も残っている。
 石山城主武藤上野介の菩提所で二〇石の寺領が付与されていた。ところがこの地は本郷平野を一望に収め、高田城を俯瞰するので、城主本郷泰茂からその移転を促された。
 そのため助山和尚は石山・本郷両城主の後援を得、また三森、安川、福谷、石山から広岡、父子に至る信徒の力を合わせて今の地に移築し、法堂、開山堂、庫裡、山門、送門、禅堂、鐘楼堂、宝庫、薪炭舎、東司、浴司などを総合して七堂伽藍の実をあげ、両城主の祈願所とし、佐分利谷の信者の香花寺としても栄えた。しかし、太閤検地の際、寺領が落とされ、経営困難となったが、なお小浜空印寺と対比する郡内一の道場と称された。
 すなわち、逐次、父子瑞雲寺、阿弥陀寺、岡安実相寺(四代元達和尚代)、石山西方寺(二代大用英従和尚代)、福谷長福寺(三代周厳和尚代)、犬見海印寺(六代瑞翁和尚代)、鹿野鹿野寺(五代月峰祖沢和尚代)等の別院をも建ててこれを支配し、寺勢を回復しつつあったのであるが、延宝以前に火災に遭い時運振るわず、まず地元の瑞雲寺(本尊薬師如来)、阿弥陀寺(本尊阿弥陀如来)が共に自滅し、その堂だけを残す有様となり、その他の別院は藩末から明治にかけて、それぞれ法地を独立し海元寺と関係を絶つに至った。
 嘉永二年(一八四九)二月再び火災のため七堂は失われる。住職は小僧二人と共に焼死。慶応年中三度火災に遭ってわずかに現況を保つにとどまったのである。
 現本堂は、慶応三年(一八六七)のものである。その後昭和二十六年(一九五一)庫裡を増改築した。境外仏堂は瑞雲寺跡の薬師堂(字古島)、阿弥陀寺跡の阿弥陀堂(字山の神)、字滝下にある不動堂(本尊不動明王、海元寺開山助山文佐和尚の夢想によって発現した仏像)、字中井にある地蔵堂(本尊延命地蔵菩薩)、字寺賀にある毘沙門堂(本尊毘沙門天、海元寺一一代康岳祖泰の施主で元文五年(一七四〇)十月十五日創建、天保二年(一八三一)霜月再建施主田中庄太夫、明治二十二年(一八八九)十二月二十五日毘沙門天開眼施主田中庄太夫、昭和十五年堂再建施主田中庄太夫)の五堂宇である。なお、浄土寺跡が字杉谷にあり、石山の浄土寺はここから移されたのである。

『大飯町誌』
沿革 海元寺は元と海元寺谷にありしが本郷城を眼下に瞰親するを以て本郷城主より移轉を促され佛の靈示によりで今の地を定め開山助山和尚は石山の城主武藤上野介本郷城主駿河守の賛助を得て壯大なる伽藍を建て石山城主本郷城主の所願所兼當谷信者の香花寺と爲し小濱空印寺と対比して郡内第一の道場たり尋いで父子に瑞雲寺岡安實相寺石山に西方寺福谷に長福寺犬見に海印寺鹿野に鹿野寺等の別院を建て支配せしが後時勢の變遷に據りて瑞雲寺は自然に廢滅に歸し其他の末寺は明治維新前後に於て法地独立して海元寺と關係を絶ち昔時の七堂伽藍は百有餘年前烏有に歸し其後慶應年間火災にかゝり慶應三年新築して現状となれり。
(境外佛堂) としでは藥師堂、阿彌陀堂、不動堂、地蔵堂及毘沙門堂あり。
海元寺 曹洞永平寺派大光寺末 父子字寺ノ下に在り 寺地三百八十二坪 境外所有地三町六畝二十二歩 檀徒三百六十五人本尊十一面觀音菩薩堂宇〔〕庫裡〔〕 由緒〔明細帳〕天文二已己年創立慶應三丁卯年再建。


六斎念仏
当地の六斎念仏講、以前は正月・盆・彼岸・涅槃・卯月八日などにも行ったといわれるが、現在は盆の8月14日と正月に行われる。集落を2組に分けて午後3時ごろから回り始め、夜の10時頃終わるという。正月16日の仏法始には講に伝わる五百羅漢と十三仏の2軸を当番になった宿の床の間にかけてすべての念仏を唱えるという。
『大飯町誌』
父子区の六斎念仏
  県指定
  昭和三九・六・五
①所 在 大飯町父子
②管理者 父子念仏講中
③講 員 成人一五名(うち念仏に当たる者一〇名)
④器 具 鉦三、小鼓六、掛軸二、用箱一
⑤曲 目 四遍(しせん)、白昧(はくまい)、幡幢(ばんとう)
⑥時 期 正月十六日、盆十四日(昔は彼岸、涅槃、卯月八日も)
⑦行 事 定刻(午後)全員講元にぞろい、準備の上、集落各戸を
巡って門念仏(盆のみ)を行う。正月十六日は講元で床に掛軸(十三仏、五百羅漢)を掛け、それに向かって念仏する。終わって食事をする。
⑧構 成 親一人、子八人、鉦三、小鼓六で行う。四遍は儀式曲で、当区では喪家の求めがあると、この曲を奏する。白昧は行進曲、幡幢は門念仏のときに奏する。この区ではこの幡幢のみを六斎という。
⑨由 来 一般には六斎念仏の祖は空也上人だといわれている。広く行われたのは鎌倉初期で、今から約八〇〇年前のことである。その後凋落していたのを、今からおよそ六〇〇年ほど前に再興したのだという。この再興期に力を尽くした京都・千菜山光福寺の法如上人を開祖とする千菜系に属するといわれている。かつて父子の実際を視察された五来重(大谷大学講師)は、再興時代の響きが残っている、京都水尾のものに近いようだと漏らしておられたとも聞いている。果たしてどうであろうか。
 ここの掛軸五百羅漢は、幅二五・八センチメートル、丈七八・五センチメートルの小形の版画(墨)であるが、江戸本所天恩山羅漢寺蔵版とあり、賛に「元禄六年冬黄蘗高泉敬賛」とある。もしこれが講初のものであれば、余り古くはない。当地方ではまだ江戸期以前の徴証がないといわれている。
⑩維持方法 講の用箱中にも維持方法の分かるものはない。かど念仏や送葬時の六斎に家々から布施を包金として出す。これが唯一の財源であるという。



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


父子の主な歴史記録


『大飯町誌』
父子
 父子は野尻と同じく、元は佐分利郷に属し中世石山城主武藤上野介の所領とたったこともあり、支配者はしばしば替わったであろうが、区域はやはり佐分利組であった。小名が上条、下父子、瀑奥(たきのおく)に分かれているのをみると、民居の成り立ってきた経路もおのずから解明するのである。
 明治十七年(一八八四)七月、本郷村外六力村連合戸長役場の区域に編入されることとなり、これが本郷村の集落となる端緒となったのである。
 ここから小浜市小屋へ通ずる山道がある。今は山仕事のほか通る人もないが、昔は互いの連絡路で物資の交換もあった。東南を山で囲み北西に佐分利川を控えている。
父子と静志
 古名は静志であったらしく、『神祇志料』という書には、「父子は静石の訛とす。一説静石神社は天日槍を祭るか」とある。地名辞書には、「静石神社此にあり」とあり、式内志津志社であることが確認されている。集落の名も元は静石又は志津志で、これが後になってチイシと訛り、父子の文字が当てられるようになったものと思う。
伝説地
 茶屋跡と伝えている所がある。海元寺の近傍の茶山という所で、昔石山城主武藤上野介が馬で山道伝いにこの茶屋まで来て、ここで衣装を着替えて菩提寺の海元寺へ詣でたのだという。
 また、石塔鼻に武藤上野介の墓だと言い伝えている高さ一㍍の五輪の碑があるが真偽不明である。
 三相木(さんずき)という所に布袋(ほてい)松という古松があった。国主の賞された名木で『若狭名木帳』に載せられていたというが、昭和初年のころ伐採されてしまった。
 不動滝については『若狭郡県志』に「父子の瀑父子村にあり。流れ落つること直下五丈余、巌は牆壁の如く古樹繁茂し盛夏と雖も亦風色凄愴たり。滝の傍に巌洞ありて其の内に小祠を置く」と。滝の落差は五丈、岩壁の幅は約二丈である。滝の傍らにカゴの木があり、町指定天然記念物となっている。
 海元寺に隣接する東側の狭地(滝口勝家の辺り)を昔から「殿屋敷」と呼んでいる。往古舎人(とねり)らしい兄弟二人が名田庄の山を越してこの地に住みいったのが称呼の始まりで、それから代々猿木甚兵衛・仁衛門を襲名している。姻族は名田庄村納田終に多く、暦学の視といわれる安倍一族に深いかかおりがあると言われてきた。応仁の乱の戦火を避けて都落ちし名田庄に移居した安倍一族の仲間で由緒ある者ではないかとうわさされ、都落ちしたときは兄弟の一人が御幣を肩げて里入りしたのだと言われている。今まで集落内の葬式はどの家も土葬であるのに、昔から猿木家だけが火葬を営んできたのも特異的な存在でこれを裏付けるものとされている。殿屋敷を中心にして上大神宮・下大神宮の地の神を祀る二つの椎の森があって、元は両者とも殿屋敷の者によって祀られていたのが、現在は中瀬家の地の神として引き継がれている。
 父子のほぼ中心、上条と下条の境に「四十九(しじく)の塚」があって、昔四十九人の侍を祀った墓所だと言われる。前庭の小さな広場は、村の重要な行事の場となっていて、毎年七月二十四日と八月二十四日は愛宕神社の大火勢が、また七月二十八日と八月二十八日は「不動さんの松明」という大火勢が子供だもの手によって行われている。そのほか六斎念仏の広場となっている。
 父子には「四十八杜(しじゅうはちもり)」という伝承が残っている。昔この集落の草分けが四八戸あって、それぞれ「タブノキ」「シイ」など常緑樹の大木を信仰の対象として祀っていたが、後世になってそれに古墳や墓所が加わって聖地信仰の対象となり、その上、地の神信仰も重なってわからなくなってしまった。現在「杜」として確認されているものは、上大神宮(フジノモリ)・下大神宮・古島社・だいけんどの(ザントウバ)・比丘尼山(イナリノモリサン)・さよの木・三相木の一本松・白山神社・山の神の九ヵ所である。


父子の伝説





父子の小字一覧


父子 中川原 明神 向明神 六団 榎谷 出口 葦原 猿古塚 三ッ森谷 海元寺谷 桜木 町田 岩渕 三祖木 猿橋 東道場 西道場 鳴鳥 中井 笠屋敷 小山下 小山 下中瀬 中瀬 稲荷 寺下 大神宮前 中屋敷 山神 国久 賀佐 殿屋敷 上光音 光音 上滝下 滝下 小屋坂 岫屋敷 静志下 稲山根 静志 壱枚田 静壱奥 高岸 象 古島下 奧町 坂ノ谷 寺賀 四十九 天神 大谷 小屋坂口 滝ノ奥 ヂヤラ山 鍛治谷 杉谷 鍛治大谷 大鼓東谷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『大飯町誌』
その他たくさん



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