丹後の地名 若狭版

若狭

木津郷(きづごう)
福井県大飯郡高浜町高浜・和田・他


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福井県大飯郡高浜町高浜・和田

福井県大飯郡高浜村
若狭国大飯郡和田村




木津郷の概要




《木津郷の概要》
今はもう言わない、木津はどこのことかと、問うても知る人は少なかろうが、古代、中世には高浜町のJR「高浜駅」と「和田駅」の前に広がる町中一帯あたりを木津と呼んでいた。
事代の浄土宗木津山西福寺の山号とか、若狭境の丹後側に「吉坂(きっさか)」の地名があるが、これは木津坂のことでにかろうかと言われているくらいである。

藤原宮出土木簡の調塩付札に「庚子年四月〈若佐国小丹生評 木ツ里秦人申二斗〉」と見えるのが初見で、庚子年は文武天皇4年にあたり、西暦700年という。
「木ツ」と表記されている。「ツ」はカタカナなのだろうか、「ツ」は「州」の略体とされ、ズ(ヅ)だろうからキズと読むのかも知れない。カタカナはもっと後に、弘法大師が作ったとか言われるが、本来は「木津」と書くのを略した津の略体であるいは〝先行カタカナ〟か。
平城宮出土木簡の貢進物付札に「若狭国遠敷郡〈木津□ 土師□〉・養老三年(719)十月十」、「若狭国遠敷郡〈木津郷少海里 土師電御調塩三斗〉・神亀五年(728)九月十五日」、「□(若カ)狭国遠敷郡〈木□□〉・天平勝宝二□(750)」、「若狭国遠敷郡〈木□(津カ)□壬生国足調□〉・天平勝宝□(二カ)九月廿二日」などの墨書がある。郷内にあった少海里の比定地は未詳。
さらには、長岡京出土木簡のうちに「□(木カ)津郷海調一□(古カ)知□□」「□□(六年カ)四□(月カ)」と墨書したものが見える、木津郷は近江国高島郡や丹後国竹野郡にも同名郷が存在するが、海調が海産物とすれば当郷の可能性も高い。
キヅ郷はほかには、常陸国行方郡芸都郷がある。若狭国大飯郡は天長2年(825)に、遠敷郡(小丹生評)から分かれたものである。少なくとも飛鳥以前からキヅと呼ばれていたと知ることができる。
「和名抄」(承平年間の成立・931~38)では、若狭国大飯郡四郷の1つ。高山寺本は「岐豆」の訓を付し、東急本は訓を欠く。東急本は遠敷郡にも「木津」郷を記すが誤りであろうか。

また、貞観年中(859~77)作とされる、丹後一宮・籠神社に伝わる国宝「海部氏系図」には、…-三世孫倭宿祢命-孫健振熊宿祢-…とあり、健振熊宿祢の註文に「此若狭木津高向宮尓海部直姓定賜弖楯桙賜國造仕奉支品田天皇御宇」とある。
成立年代不明ながら、同社に伝わる「勘注系図」の、十八世孫丹波國造健振熊宿祢の註文にも、「息長足姫皇后征-伐新羅國之時、率、丹波・但馬・若狭之海人三百人、為水主一、以奉仕矣。凱旋之宕、依勲功、于若狭木津高向宮定-賜海部直姓、而賜楯桙等國造奉仕。品田天皇御宇。故海部直、亦云丹波直、亦云但馬直矣。葬于熊野郡川上郷安田」と見えて、「若狭木津高向宮」と丹後海部は深い関係がありそうに思われる。

神功皇后や品田天皇(応神天皇)とか、健振熊とか、それって神話のハナシでないの、と疑われて、何とも確実なところは不明ながらも、ここでは「若狭木津高向宮」は本当のハナシらしい具体性があり、このあたりと丹後海部、特に籠神社や久美浜海士や竹野郡木津郷とは深い関わりがありそうに見え、若丹の深い繋がりを伝えていそうに見える。
熊野郡川上郷安田は式内社・矢田神社(健振熊は祭神となっていないが)があるところで、健振熊は、ワニ氏の祖とされる難波根子建振熊のことなのか、ワニ氏は若狭小浜本貫ともいわれていて、同人でも不思議ではないが、それとも熊は熊野郡のクマ、久美浜のクミか。すぐ隣の竹野郡にも木津郷があり、当地とは姉妹郷かと想われる。
なお、気比神社は仲哀を祀り、常宮神社は神功皇后を祀り、応神はこの宮で産まれたとも伝わる。


「高向」はタカムクとかタコウというよりもタコと読むのでなかろうか、タコはタカタキタクタケ等とは通音で、今の高浜のタカのことであり、タカノ(竹野)郡のタカであり、古い天日槍系のar地名変形かと想われる。木津には古社としては佐伎治神社と香山神社があるが、香山神社はまた高森明神とも、高森の宮とも呼ばれていて、まさにタコの宮であって、こちらが〝高向宮〟と思われる。

香山神社(高浜町車持・おおい町小堀)↑
当社の裏山から南ヘ山を越す峠(今は廃道)を高尾坂(高生坂)あるいは満願寺坂ともいうが、峠を越した所はおおい町万願寺村で、ここは古くは高生村、タコ村といった、タコ村の川向かいに式内社の静志神社があり、まさに天日槍の地である。
カグ・カゴは銅の古語、近くの野尻銅山ではベンガラも生産していていたが、そうした赤鉄鉱もあったのであろう、丹土が採れた山を祀る神社か。

香山神社は木津なのか、大飯なのか、ずっと後の律令時代にはちょうどその中間に位置するが、佐分利川下流を吉田(きつた)川と呼んでいたので木津であったかも…
船岡製塩遺跡の地もこの社の氏子であり、小堀はコホリ、あるいはコオリと呼ばれていて、郡衙があったかも知れないような地名で、重要な地に鎮座する神社である。

海は埋められ、山は削られ当時とはずいぶんと様変わりだが、今のおおい町図書館(背後の建物)の庭が遺跡地で、こんなレプリカ↑がある。子供の頭くらいの丸石を敷いた炉もそれなりに保存されている。中央三つのバケツのような容器が船岡式製塩土器、このように大型なのが特徴。その中に誰かがいらぬ物を突っ込んだようだが、後にある海水の濃縮装置で、少し濃縮した海水をこの容器で煮詰めて塩を取った。カンジンの火がないが、土器の周囲で火を焚いた。
製塩土器は赤っぽいので土師器と思うが、それにまじって、若干の須恵器も伴出し、それから年代は8世紀奈良時代。生産設備としては割合に整っているし長期間継続している、船岡はフノカと現地では呼ばれている、そうしたことから「官工房」だろうといわれている。規模的にはかわいらしい、技術として原始的な熱効率の悪いもので、当時はこれくらいの経済力技術力であった。
舞鶴の三浜からもこの時代のこの型式の土器が出土している。この様式の遺跡は多く、若狭の塩作りがもっとも盛んだった時代である。舞鶴はその拡大地域になろうか。
「笠百私印」などと刻された支脚付き土器になるのはこの後になり、鉄の釜とかはさらにその後である。

舞鶴上安に式内社・高田神社があり、元は高向神社と言ったという伝承がある。田高が逆さまにまったものか向が田となったものか、真偽のほどは確かではないが、香山神社とは何か関係があるのかも知れない。上安には鈴木神社もあり、与謝郡の須津とも何か関係があるかも。。
また加佐郡大内郷の中心と思われ、そのウチはこのことかも知れない。

木津だから、木を運び出した津(湊)があったのだろうが、通説だが、それはコドモの考えであろう。紀州の紀氏と関係もあろうが、それよりももっと古いもっと大きなキ氏がいたところでなかろうか。肥前国基肄(きい)郡基肄郷、今の佐賀県三養基郡基山町で朝鮮式山城の基肄城があるところ、この辺りを日本の本貫地とする渡来氏族ではなかろうか。キイとは引き延ばしただけのもので本来は渡来のキ氏と想われる。『倭人伝』の「鬼国」や、日本書紀の「貴国」もここかも。
キというのは柵(山城)のことなのか、それとも朝鮮語の尊称なのかわからないが、どちらとしても渡来語と想われる。

顕宗3年紀に、
是歳、紀生磐宿禰、任那に跨び據りて、高麗に交通ふ。西に、三韓に王たらむとして、官府を整へ脩めて、自ら神聖と稱る。…
とある。紀氏は三韓の王で、神聖王と称していた、と記されている。本当かどうかは韓国の歴史を見てみないとわからないが、紀はこのように記している。
三韓というのは加羅、新羅、百済のことで、北の高麗と同盟して南半分の王になろうところまでいっていたというのである。ちょうど青皇女、オケヲケ時代の話で、この時期が紀氏の頂点だったかも知れない。その日本側拠点津であったかも知れない。隅田八幡社に伝わる武寧王より送られたという鏡とか、大和になくなぜ紀伊国にあるのか。
フツーは紀貫之くらいしか知らないが、そうナメタ氏族ではなかったようである。
丹後国竹野郡木津郷、若狭国大飯郡木津郷、近江国高島郡木津郷、山城国紀伊郡紀伊郷、相楽郡の木津川と、その先は大和国である。日本海ルートが点々と残されているのではなかろうか。

また研究者によれば紀氏の地にはオの地名が多いという。大飯郡の木津郷となるとそれも当たっているのかも、東に大飯郷、西に阿遠郷(オウ郷)、オ氏とキ氏はお友達なのかも知れない。
孝元記によれば、木国造の祖は宇豆比古で、その妹の山下陰日売と孝元との間の子が建内宿禰で、この子の木角宿祢が紀臣の祖になるという。
古事記のいうことが正しければ、紀氏もまた多氏や丹後海部氏などと同族である。紀氏もまたその後にはいろいろと名を変えているので、当地一帯にもその末裔はいるのだろうが、コレダとはつかみにくい。

子生川の流域が木津郷と見られる。子生はコビと呼んでいるが、「ネウですか、ナオですかね」と当町出身のお医者さんからメールを頂いたことがある、スルドイ感覚ですね、自称郷土史家ハダシですね、と答えたのだが、丹後の子日(ネヒ)崎(新井崎)と同様で丹生のことかと想われる。丹生氏と紀氏も同族である。何でも牧山の持主だそうで、登って好きな物を持って帰ってくれとのことであったが、この山には水銀があるのかも知れない。
平城宮跡出土木簡にも「若狭国遠敷郡〈木□(津カ)□壬生国足調□〉」と壬生氏がいたようだから、子生がニウであってもおかしくはない。

海人と丹土や水銀の赤は強い関係がある。『魏志倭人伝』が「倭の水人」の風俗として伝える「朱丹を以てその身体に塗る、中国の粉を用うるが如きなり」。その水銀がどうしても必要なのである。

これは↑若狭三方町の「水中綱引き」。赤い布を頭に首に腰に腕などに巻き付けている、これはかつての「鯨面文身」の名残りではなかろうか。本来は朱でもって身体に直接彫り込まれていたのではなかろうか。
男子は大小となく、皆黥面文身す。古より以来、その使中国に詣るや、皆自ら大夫と称す。夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身、以て蛟竜の害を避く。今倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕え、文身しまた以て大魚・水禽を厭う。後やや以て飾りとなす。諸国の文身各々異り、あるいは左にしあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。
「あーあーどうどうの輸送船の歌があるが、はじめはみごとな輸送船団やったる。船員はみな赤いフンドシやった。海に落ちてもフカに喰われんようにするためやそうや。長い何メートルもあって、それを流して泳いでいるとフカが寄ってきて、自分と比べよる、自分の身より長いとこれは喰えんと思って、喰われんそうや」とワタシのオヤジは話していたが、まさに倭人伝が生きているようなことであった。
丹後のほう宇良神社、老人嶋神社。おおい町大島の島山神社の赤。



もう緋のノボリか布切れくらいにしか、かつての風俗は残していないようだが、どうしても水銀が入用なことが窺われる。「その山には丹あり」、それが子生であったのではなかろうか。「綱引き」というのも大蛇神を祀るものかも。。

自分の身体を赤で守るだけでなく、船にも赤を塗ったようである。
『播磨国風土記』(逸文)播磨国明石郡条と推定されている。
爾保都比賣命
播磨の國の風土記に曰はく、息長帶日女命、新羅の國を平けむと欲して下りましし時、衆神に儔ぎたまひき。爾の時、國堅めましし大神のみ子、爾保都比賣命、國造石坂比賣命に著きて、教へたまひしく、「好く我がみ前を治め奉らば、我ここに善き驗を出して、ひひら木の八尋桙根底附かぬ國、越賣の眉引きの國、玉匣かがやく國、苫枕寶ある國、白衾新羅の國を、丹浪以ちて平伏け賜ひなむ」と、此く教へ賜ひて、ここに赤土を出し賜ひき。其の土を天の逆桙に塗りて、神舟の艫舳に建て、又、御舟の裳と御軍の着衣とを染め、又、海水を攪き濁して、渡り賜ふ時、底潛く魚、及高飛ぶ鳥等も往き來ふことなく、み前に遮ふることなく、かくして、新羅を平伏け已訖へて、還り上りまして、乃も其の神を紀伊の國管川の藤代の峯に鎭め奉りたまひき。


小牧進氏は、これを引いて(『郷土と美術91』)
『播磨国風土記』をみると、神功皇后が新羅を討ったため外征の途に就こうとされたとき、播磨国をかためた大神の子としてニホツヒメが出現。「丹波(浪)(になみ)をもって証討せよと教示をうけた。
そこで神功皇后は、ニホツヒメの教示のとおり赤土の神通力によって新羅を平伏ざせ無事帰還することができた。よって神功皇后はニホツヒメを紀伊の管川(つつかわ)の藤代(ふじしろ)の峯に鎖祭したと傳えている。
この峯は、今日の和歌山県下、富貴村東方の藤代岳だといわれる。このニホツヒメのニホは、朱砂のことであるが、松田寿男氏によるとこの藤代岳のふもと一帯は、大和水銀の鉱床群帯の真只中にあってニホツヒメは、水銀採掘者が守護する女神であったと説いている。

朱の効用というのか、海人たちの信じるところによる、丹土を塗ることの呪術的意味合いが書かれている、宝ある新羅も平定できるほどの効果があると…
ニホもニウも同じだが、ニホの方が古い呼び名でなかったかと松田博士は述べている。舞鶴に爾保崎があるが、これが丹生よりも古いのか舞鶴銅鐸の出土地である。

椎根津彦が天香山の埴で天平皿を作り天社国社の神を祀り賊を平定したと神武紀にあるが、天香山の赤土さえあれば国内の賊などは問題なしに平定できると信じられていたのであろうか。その香山を、あるいはその山の赤土を祀る香山神社である。


その後、東南院文書によれば、永承2年(1047)11月25日若狭国守橘某切符案に、若狭国守橘朝臣は東大寺御封米50石と海路料・運寺賃を合わせた合計65石6升8勺の支出を「木津納所行友」に命じており、木津に米を収納する納所が存在したと考えられている。
中世は木津荘で南北朝期~室町期に見える荘園であった。
貞治7年正月「木津ノ庄ノ内笠原ノ守光名ノぬし」もり兵衛がもりきよ名田180歩を相若御前に譲与した文書が初見。
明徳4年5月将軍足利義満は丹後国天の橋立の九世戸へ参詣する途中「木津庄高浜の矢穴」を一見したとあり、応永2年9月、同14年5月にも「木津庄の矢穴」を訪れている。
康正3年9月9日の幕府奉行人連署奉書によると、木津荘内清正名の当代官山村越前守を退けて、筑後局の直接支配とすべきことが守護武田信賢に命じられており、同年10月4日には筑後局宛の将軍御教書も出され、同人の知行が安堵されている(尊経閣文庫文書)。寛正6年3月23日には倉内民部丞貞忠が罰せられ、貞忠が代官職を勤めていた「御領」のうち「若州木津庄并富田郷Jは幕府政所代の蜷川親元に与えられており(親元日記・続大成)、当荘が幕府料所であったことが明らかとなる。蜷川親元は文正元年10月自分が代官となっている幕府料所の注文を記しているが、そのなかに木津荘年貢米44石5斗余、御年貢銭20貫460文が見える。
戦国期の幕府料所の証文を書き上げた目録にも木津荘が見えるが、当時の実態については明らかでない。なお、天文8年閏6月7日に当荘内の高浜をめぐる二条尹房と勧修寺尹豊の争いについて幕府は二条尹房に支配権を認めているが、二条家・勧修寺家と当荘の関係については未詳。
「若狭国志」は木津荘域として岩神・園部・笠原・子生・坂田・高浜・立石・畑・鐘寄・中津海の10か所を挙げるが、前記の笠原と高浜のほかは当荘に属したかどうかは未詳。





木津郷の主な歴史記録


『大飯郡誌』
木津郷〔高山寺本訓岐豆〕現今の高濱附近ならん乎、木津庄の名は藩政時代まで行はれたり。
〔稚狭考〕木津は今の世高濱よりきつの庄あり吉坂(丹後の界)といふも木津坂なるべし。
〔若狭舊事考〕 木津庄とて…十村あり此わたり古木津郷なりと云傳なり名義は字の如くにて此郷の北方の海邊に然る名の地の在たるか大名となりたるにか…近江國高島郡の郷に木津…材木を運び送る船津…舊の唱は古都なりけむ。
〔地名辭書〕 今高濱及和田村大島村是なり…中世和田庄を分置したるを見るべし。
〔福井縣史〕 木津忌寸(〔新撰姓氏録〕佐京諸蕃上木津忌寸後漢霊帝三世孫阿智使主之後也)の貫するところを以てその名を得たり中世木津庄の故域…大島村をも郷中に籠めたれども當否不可知(和田庄の含否不明?薗部の名も木津と共に〔建久の交名状〕に見え-町誌参照-、共に材木関係者よりありしは明かなり。)

木津庄の伝説


『若狭高浜のむかしばなし』
海盗児(河童)
 ついこの間までほとんどの童女はみんなオカッパ頭であった。つまり力ッパ(河童)の
ような髪型のことである。
 河童というのは、海、川、沼に住んでいて人は河童に尻の穴から尻子玉を抜かれて食べられると、溺れ死んだそうである。溺れ死んだ人の尻の穴がぽっかりと黒く大きく開いているのは尻子玉を抜かれた証拠であるといわれている。
 これは、高浜が木津庄といわれていたときの話。
 昔むかし一人の漁師が海へ出て漁をしていると、突如大荒らしにみまわれ舟は難破してしまった。舟から投げ出された漁師は海中で一本の木に命を託して懸命に泳いでいると、そこへ海盗児が現われて男の尻のものを取ろうとした。
 「海盗児さん今尻のものを取らないでくれ。必ず五日のうちに尻のものを差し上げます」と男は涙ながらに言った。
 「お前がそないいうなら五日待ってやろう。五日の夕暮れに浜へ出ておれ、必ずだぞ」と言い残して海盗児は姿を消した。
 男は木にすがりつき、無事高浜に帰ることができた。家族や親戚、近所の人たち一同は奇蹟の生還だと大いに喜ぶと同時にこの大荒らしによくぞと、驚いた。みんなは〝よかった、よかった〟と男を祝ってくれたが、当の男の顔は沈み力が抜けた様子で何も語ろうとしない。男の脳裏には、あの恐ろしい海盗児との約束が忘れようとしても浮かんできて消えない。
 男はひどくやつれ、近所の人と話をするのを避けるようになった。男は〝あした、あした〟と独り言を言っていた。約束の日がきた。男の顔は真っ青になっている。女房や子供も心配し、近所の人に相談した。みんなの前で男は重い口を開いて、海盗児のことを話した。近所の男たちはあれこれと考えを話してくれるが、意見はまとまらない。
 海盗児は約束の刻限がきても男が来ないので、腹を立てて男の家の表戸を叩いた。近所の人が戸を開けると、線香の匂が海盗児の鼻をついた。家の中では近所の男女たちが集まって泣いている。海盗児は尋ねた。近所の人が涙ながらに話すと、海盗児は言った。
 「なんだ死んだのか、それなら助けるのではなかった」
 頭も使いようですね。それから漁師は健康を回復、仕事に精を出したという。
 今では海盗児(河童)が出たと聞かなくなったが、どこへ行ったんだろうな?





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『高浜町誌』
その他たくさん



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