赤野(あかの)
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《赤野の概要》 赤野は東舞鶴湾の北方、大浦半島の南部。平の北、多禰山の南麓に位置する。 《人口》124。《世帯数》33。 《主な社寺》 椋森神社 氏神は平の八幡神社。 古跡に平安期の絵師巨勢金岡の古宅祉がある 『京都府の地名』は、「延徳二年(一四九〇)の河辺村半済方御年貢米銭納帳写(「西大浦村誌」所引)に 赤野村 二十三貫三百十八文 二十一石六升二勺五才 とあり、彦左街門・赤野弾正右衛門の名が記される。河辺村のなかでは最も貢租を負担していた豊かな村であったようである」としている。 《交通》 府道21号線。 《産業》 農業
《丹後国加佐郡寺社町在旧起》 〈 赤野村 昔かな若といふ人名誉之絵師有よしに今かなわか屋敷として多祢寺坂の麓にあり。 〉 《丹後国加佐郡旧語集》 〈 荒神。当村巨勢金岡屋敷跡有。伝云姓ハ巨勢宮大納言無位自然臻丹青妙学呉道子筆法及精仏像仁和四年九月五日賜詔… 〉 《丹哥府志》 〈 ◎赤野村(平村の次) 【巨勢金岡之旧跡】(赤野村の次、喜多村の下) 巨勢金岡は貞観中神泉苑の監となる(菅家文章)、或は曰官大納言に至るといふ、図を能くするを以て当時に称せらる。元慶四年宇多帝勅して紫宸殿の障子に聖賢の画を書かしむ、所謂賢聖の障子なり(扶桑略記)、最図馬を善す、帝の仁和寺に移るに及びて馬を殿壁に図かしむ、其馬夜出て稲を喰ふ、後に其図馬の蹄を見るに果して泥あり、よって試に其眼睛を刳る、於是其図馬の出る止ぬと、これ等は世の重に伝称する所なり(著聞集)。子三人あり兄を相覧といふ、次を公野といふ、次を公忠といふ、公野の子に淘江あり、淘江の子に弘高あり、皆図を善す、弘高以下は肇価稍々衰ふといふ、花鳥余情に雅麗記を引て金岡の山を図く十五層に至る然して其遠近濃淡極て其態を尽せり、弘高は蓋五層に過ずと云々。丹後旧記に云。加佐郡志楽の庄赤野村は巨勢金岡の旧領なり、其館舎の跡なりとて今田間に残る、蓋爰に居るを以て金岡の図丹後に多し、金岡の丹後に居る国史に見へずといへども蓋著聞集に明に其事を載せたり。 【付録】(荒神) 〉 《加佐郡誌》 〈 赤野に平安時代の名絵師巨勢金岡の住した庵址があって、其の石垣等は今尚残っている。 〉
赤野 柿安 神子ノ前 柱松 堂ノ下 柳生 木坂 安田口 神子ノ谷 浄土寺 メコブ タコ 山ノ垣 |
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