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丹後の地名

水銀地名−大浦半島

丹後の地名:大浦半島

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舞鶴石炭火電(舞鶴市浦入) 山本文顕(郷土史家)


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舞鶴の水銀地名3 (大浦半島の周辺)


浦入・大丹生・祢布の地名(舞鶴市大浦半島)

浦入と大丹生
舞鶴湾の入口東側に大丹生おおにゅうおおにゅうおおにゅう浦入うらにゅううらにゅううらにゅう(『加佐郡誌』に浦丹生。海軍も浦丹生と書いている)の集落がある。隣同士の村である。若狭との国境に付け根を持つ、この大きな半島を大浦半島と呼ぶ。

 浦入・大丹生あたりは残欠本文では志楽郷に含まれるようである。『加佐郡誌』は凡海郷と推定している。
舞鶴火電(浦入070719)
 現在は出力九十万キロワットの舞鶴発電所(石炭火力四機。現在は一基だけ建設される)を据え付ける工事が進んでいて、浦入は特に昔日の面影はない。写真の異様な高さの煙突がある工場がそれで、その敷地が浦入である。(1号機は稼働中。2号機が19年5月より建設され、22年8月より運転予定)
その右側の集落が大丹生である。左の小さな山の先が博奕ばくちばくちばくち岬、舞鶴湾の出入口になる。右の大きな山は多禰(たね)山(多禰寺山・大道山)と呼ばれる。

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何故ここに石炭火電

何でこんな所に火電か、単純な疑問が湧いてくる。若狭湾は15基の原発が並ぶ世界一の原発密集地であり原発銀座と呼ばれる。
従ってそのメタルの裏側は、論理的に次のチェルノブイリの最有力候補地でもある。
 「事故なんか起こしませんよ」と気休めにもならぬことを言ってくれるが、しかし事故は必ず起きる、人間は神ではないからである、ミスは避けられない、人間がすることである、絶対に安全ということはあり得ない。
ちょっと調子がいいとすぐ安全の手を抜く、炉心緊急停止装置なんか過剰安全だ、不要だから取ってしまえ、などとほざいた財界人もいた。取ってしまったらそれだけ電気が安くなり、手前の商品が安く作れるとでも考えたのであろう。これくらいイカれた連中が、事故隠しをしながら炉を動かしているのが現状のようである。(最近の報道などを読むと、最悪の予想を上回るあまりのおそまつさにあきれて言葉もでない)
某自動車メーカーがその好見本である。人命などはどうでもいいのである。どうかこの腐ったメーカーだけに限られた体質であってくれよと心より願う。「しかしあそこだけやろか」、とはである。
(この人は歯医者さんであった。こう書いたその数日後、新聞各紙は「関西電力3659件の不正報告発覚、新たな不正発覚のおそれもある」と伝えた。この中には検査データ改ざんやねつ造など悪質なものも含まれるそうである。11箇所の火電の3年間分だけでこれだけも出てきた。毎日4件ばかりウソ報告をせっせと書いた計算になる。社長一ヶ月間減俸2割の処分だそうである。あっぱれな社長である、社長自らがそれでは社内は改まるものも改まらないことだろう、何も私が付け加える必要もないようである。関電自らがその倫理も責任感も失った腐りきった体質を自己暴露している。今までもずっとそうであったし、今後もずっと続くことは間違いなかろう。何もこれくらいの不正は関電だけでも電力業界だけでもない。わが国では警察すら偽造報告をする、次の日の新聞を見られよ、またまた兵庫県警とか。ウソは泥棒の始まり。泥棒が電気を売り、泥棒が泥棒を捕まえる国、誰が我国をこんなにも立派なドロボー国家にしたのだ。)舞鶴火電(撮影・坂根正喜氏)

原発銀座の西側に並べて火電を作る。右写真は坂根正喜氏による舞鶴火力発電所の空撮。
 こんな消費地から遠く遠く離れた所でなく、消費地のすぐ隣に作ってこそ火電だろう。
送電線の電気抵抗は0ではない、電線の長さに正比例して大きくなる、1キロで済む所を100キロも送れば100倍の電気抵抗になる。抵抗があれば電力は熱となって消費されてしまう。周辺機器はできるだけ短いケーブルで繋ぐべし、ということはパソコンを使う人なら知っている通りである(これは抵抗だけの問題ではないだろうが)。
ここで発電して、阪神方面へ長距離を送電すれば、巨額の送電網建設費が必要なうえに、さらに途中で電力損失が発生する。四基建設すれば、一基分は途中のロスで消えてなくなる(クソの役にも立たないデータなら腐るほども公開されているが、このデータは見られないようである。もしあっても改竄かも知れなく、信用できないかも知れない、どの程度のものかわからないが、きわめい大ざっぱな計算に基づいて案外にこれくらいにはなるのではないかと思う)。
大変な損であり、無駄に二酸化炭素が放出されて、しっかり地球温暖化に「貢献し」、電気料金は高くつく。(二基がフル稼働すれば、国内の二酸化炭素排出量の1パーセント弱がここで発生するそうである)。国際競争力は落ちる。よくガメツイ財界が黙っているものだと感心する。

なぜそんなことをするのか? 隠蔽で黙って答えない。私は石炭は中国から輸入するものと考えていた、それならこちらが近いので、だからここに建設するのかと。しかし輸入された石炭はオーストラリア産であった。深刻な電力不足とかで中国石炭は値上がりしているという。関電の石炭火電はここしかない。中部電力のHPによると、同社の石炭の輸入元は68%がオーストラリア、19%がインドネシア、12%が中国である。他の燃料と比べて安価であるが、燃やした石炭の10%が灰として残り、この処理が困るようである。関電筋HPも「大量に」灰が出るとは書いている。私が計算して差し上げよう、一基がフル稼働一年で20万トンばかりは出るであろう。その灰はどこへ捨てるんだ。

 不思議でも何でもない。少しでも高めたいはずの効率を無視して、わざわざ遠く離れた所で石炭を燃やすのは、実はそこそこの公害がでますよということを暗に認めているのである。石炭を燃やす火電はたぶん原発級のやっかいな代物なのであろう。石炭は重油の十倍は悪いともいわれる。どうせわかりはしないから市民にはとぼけておきましょう、そんなことは公然の秘密・暗黙の了承のことである。分に過ぎたような過大すぎる道路と引き替えに、僻地丹後は公害を押しつけられたのである。

 人のウワサによれば最初の計画としては小浜市の田烏(たがらす)のあたりに建設されるはずで、そのための道路もすでに出来ていたという。なぜか急遽変更してここへ持ってきたという。うそかほんとかは知らないが、舞鶴はきれいな空気も海も、恵まれた自然環境も関電様に売ってしまった、丹後人のもう一つの哀れなる顔がある。同じ丹後人でもこれき身びいきできない。ン百億円のゼニ(経済効果というらしい)で自然を売らないか、これは国策だといわれれば、諸兄はどうされるだろうか。「哀れな丹後人」になりたくはないだろうか。私とて、そうなるかも知れない。哀れな人間である、金のためなら何でも売りますよ、何でも信じる欲ボケした愚かな民ですよ、ワリワリは。魂を売るくらいなら殺された方がましだ、という誇り高きシーア派とはデキが違う。せっかくの大切な郷土資産をわずかばかりのゼニと引き替えに売ってしまうようなチョー低い郷土愛意識、愛国心では、さぞや立派で強い町作り・国作り・イラク作りができることあろうヨ、と彼の国からの皮肉が聞こえてきそうに思う。

火電を作りたいという話はだいぶに以前から舞鶴にもあった、長浜あたりを当初は予定していたように聞く。市の広報紙の書くように25年前からといったものではない、さらにどうも大浦にも原発をねらっていたのではなかろうかとも思われる、「野原に原発」といった話は噂にはあったが、それは秘密でわからない。関電も市も要の大問題は黙くて決して語らない。地元の舞鶴の反対運動が特に強いというのではなく、全世界的な反原発意識強まりの中では無理と断念したのではなかろうか。(原発再見直しの動きがあるので、ヤバイ状態はつづきそうに思われる)

さて大浦半島はさらなる大問題を抱える。プルトニュウムを燃やす計画である。大浦半島の東端に位置する高浜原発、ここはもう丹後ではないが、すぐ隣なので少しだけでもふれておかねばならない。ウランに混ぜてプルトニュウムを燃やす計画はアメリカやフランスすら危険でコストがかかると判断したのであろうか、放棄したものという。高浜原発3.4号機(中央の丸い屋根。左隅は1.2号機)
無責任な者どもに限って自信過剰になり、大失敗を演じるものである。英国の会社の作った燃料棒のデータがねつ造とわかった。関電も通産省も事前に調査して問題なしとしていたものが実はねつ造データであった。何を調査していたのだろう。まともな調査能力も持たない連中だということも暴露されることとなり全世界の信頼を失った。
こんな輩がそのほとぼりもいまださめぬうちに、またぞろプルトニュウムを燃やすというのだ。さて今度はどんな大失敗をしでかしてくれようとしているのだろうか、全世界が大浦半島を注目している。私の住む所はここから南西直線距離で約10キロである、京都・大阪とて100キロとは離れていない。風向き次第では原発事故=死の圏内である。
 安心しようではないか、反対派がためにやる反対はどうせウソばかりに決まっている、関電様と国がやることに間違いがあるはずはないではないか。と考え信用することにしていたが、はて、それでいいのだろうか。私はもうやめた。

一号機が04年8月4日より稼働した。出力90万キロワット、関電初の石炭火電である。年間390万トンの豪州などから輸入する石炭を燃やす。市には46億以上の金が入るそうである。二号機も建設されるという。恐るべきエネルギー公害ともさけばれる石炭火電がいよいよの稼働である。しっかり監視しろよ。地球がつぶれるぞ。

「揚水発電所に見る援助交際?」
   「大浦半島」
   「なぜ大都市の近くに原発を建設しないのか」


心配が現実となった。私の事故予測などは決して当たらずにくれよと願っていたが、誠に残念で恐ろしい事故である。数学的な予想通りに、04.08.09関電美浜原発三号機で二次冷却水の配管が破損し漏れた高温蒸気で4人の下請け作業員が亡くなった。国内原発事故で最大の事故が発生した。美浜原発(美浜町丹生。最も大きい建屋が3号機)

 配管は設置以来28年間一度も点検していないというから、あきれるを通り越した話である。どんなずぼらな者でも28年も乗っている愛車ならば当然すみずみまで何度も点検しているだろう。関電や国のいう「安全」「管理」「体制」の実態がまた明らかになった。点検もしないで安全、根拠もない空念仏の安全ではないか、寝言と同じである。安全というものはそんな事で得られるものではない、その道のプロが、もしワシの安全点検のミスで死亡事故が起きれば、ワシも責任を取って、このネクタイで首をつるのだという己が命をかけてやるものである。
ちょっと頭を下げるだけで、何を甘っちょろい事をほざくか、関電のボケは始業点検もさらしとらんのか、横着な奴らやでとがいう。ナレというか、安全やろというダレた考えというのか、恐ろしいひどい話やね。とも。
火電は後回しで仕方ないとしても原発は全機を止めて点検のし直しをするより手がなかろう、点検もしないで「たぶん安全だろう」の思いこみは決して許されない。ついでながら以前から気になっていたのだが、関電は原発を原電と呼ぶ。何故そんな原電などと標準語でもない呼び方をするのか、もしかして日本語も知らないのか、今後は原発と呼び改められるがよかろう。

 今回は放射能災害とは関係がなかった。不幸中の幸いである。しかし28年も使った愛車同様に、工学上の法則に基づいて老朽原発の「安全だろう」は年々怪しくなる。28年間一度も点検せずで「安全でしょう」の論理が通るのである。他も推して知るべしである。次はこれでは済まないぞ、その警告と受け止めるべきだろう。廃炉も含めて今後の対策を模索すべきである。

 本HPは主に古代の地名を研究しようとするもので、原発事故とは直接は何も関係がないものである。美浜原発のある場所は福井県三方郡美浜町丹生という所である。若狭の丹生であるから、本題に戻って、ついでにそこを見ておこう。写真でいえば、原発の向う側なる。
「福井県三方郡美浜町丹生」


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大丹生・浦入と水銀


大浦半島は意外に大変な場所である、まだまだ大変はあるが、それは後回しにして本題の大丹生浦入の地名にもどろう。先に引用したが、再度『丹生の研究』に、

 〈 丹 後 の 丹 生
 丹後の舞鶴湾の咽喉部に大丹生がある。いまは舞鶴市域に加わっているが、近ごろの市域のことであるから、東舞鶴港から1時間も船にゆられなければ行きつかない僻地で、もとの行政区画の京都府加佐郡西大浦村大丹生と表示する方がふさわしい。訪れてみると、この大丹生は、舞鶴湾口の狭い海峡に面しているが、それでも小さな入海を抱いて波静かであり、海岸から2.5kmの谷奥まで楔形に耕地が拡がる。この谷のなかを大丹生川が流れているが、河の左岸つまり南側は黒色の土壌であるのに、右岸は水銀の鉱染をうけて赤い土があらわれ、それは部落の北にそびえる赤坂山につづいている。この土壌には水銀0.00051%が含まれ(昭和34年7月30日採取)、この僻地に大丹生が存在する理由を頷かせた。
 大丹生部落の南隅には海辺の白砂の上に大丹生神社が鎮まる。しかしこの社名は明治になつて郷名に基いて呼称されたもので、実体は山王社にほかならない。この村には別に海辺から約1kmの奥に今は奥の宮と呼ばれている熊野社がある。それからさらに奥に進んだ丘陵面に宮の尾という地名も残っているが、これ以上むかしの大丹生の人たちに信仰された神の正体を捜ることはできない。丹生の実状に即したニウヅヒメ祭祀は、すでに村民の生活が変つている以上、追求できなくなってしまった。古記録はむろんない。ただ古老(堂本松之助・上林新吾の両氏)に訊ねて、大丹生に対比して考えられがちな小丹生の名がどこにもないことは、確かめることができた。
 ところで、大丹生の北、舞鶴湾の湾口部に湾に面して浦丹生という小部落がある。これは丹後半島の東北岸に見出される蒲入(がまにう、与謝郡本庄村)とともに、丹後のどこかに丹生を設定しなければ解けない名称である。この疑問に対して、私は舞鶴市の南郊に位する女布(にょう)をまず取上げた。  〉 
高野の中西や京田と比べると僅かに含有率が下がる。
浦入と大丹生でセットだと私は考えている。大丹生に対する小丹生とか、浦入に対する丹生という地名は当地にはない。過去にもあったという記録はない。もともとはどちらも大丹生村であったのではなかろうか、大丹生神社があるから、大丹生と呼ばれたのであろう。多禰山の支脈が海まで伸びていて、両集落を分けている。だから一方を大丹生と呼び、他方を浦入と呼んだのだと思う。
地名の漢字は十中八九は当字と柳田は書いているが、丹生はその残り僅かな当字ではなく、漢字の意味通りの地名である。
何のことかと言えば、よく豊後国風土記の次の記事がよく引かれる。又『丹生の研究』の一文を引かせてもらうと、

 〈 では丹生とはどういう意味か。古典のうちで、これを明快に解いてくれるほとんど唯一のて典拠は「豊後風土記」の次の一節であろう。そこには海部郡の4郷が紹介され、そのうちに、
  丹生の郷(注:郡の西に在り)
  昔時之人は、此山の沙を取りて朱沙に該(あ)つ。困りて丹生の郷と日う。(原漢文)
とある。該には該備・兼該・該当などの意味があり、文中の該字は、一般に兼ねる、備うと読まれているが、おそらく該当と受取ってよい。したがってこの一文は「昔時の人は此の山の朱砂に該るを取る。困りて丹生郷という」とよむべきであろう。いうまでもなく朱沙(朱砂)とは丹砂、または辰砂であって、水銀(Hg)の原鉱石である硫化水銀(HgS)のことである。また生字は、埴生・麻生・竹生・石生・赤生などの生と同様に“生みだす”とか“生産する”の意味である。したがって丹生とは、朱砂を産出する土地の意味にほかならない。
それゆえに「豊後風土記」の丹生郷に関する記述は、豊後の丹生すなわち大分市坂の市丹生の奥ヶ原に抗口を留めている丹生鉱山をはじめ、この地方に数多く見出される水銀鉱山の形跡によって示される水銀鉱床地帯に深い関連をもち、その鉱床の一部が地表に露頭していたものが、太古に早くも利用されていたことを明かにする。  〉 
としている。豊後国海部郡丹生郷の地、現在の大分県大分市坂の市町丹生が遺称地という。坂の市町原に丹生神社がある。祭神は罔象女命と建岩龍命(元は丹生都比売命)だそうである。
風土記が昔の事として語るくらいだから、丹生の歴史と地名はずいぶん古いものである。大丹生・浦入の丹生、どの集団の開発に懸かるのだろうか。紀伊丹生氏より息長丹生氏を私は考えてしまうが、さてどうだろう。ここには何も残っていないのだから、どうしようもない。

大丹生には大丹生神社があった(はずである)。すぐ前は海である。社前の道が広くなり、車が止めやすくなったようである。今は山王宮の神額が架かっているが、たしか少し以前は大丹生神社とあったように記憶しているのだけども…、私の記憶違いだったか。(その後この神社に立ち寄った時は写真の鳥居は石製の立派なものに作り替えられていた。はて、何という神社名かなと、見上げてみると神額がない)
 次のHPにあるように、山王宮の左手に赤い鳥居のある祠がある。山王宮(舞鶴市大丹生)
「大丹生神社は何故山王宮…」
私がここを訪れた時は、その山王宮の屋根に大きな日本猿が一匹いて私を見ていた。山王様のお使いであろうか、私を警戒して逃がしてもいけないと思い、それで鳥居から中へは入らなかったのだが、立派な社殿の左に一つ祠があるのは気になっていた。赤いからたぶん稲荷さんだろうと、その時点で私は勝手に判断してしまった。
 現在では社名も知れない祠だが、これが本来のここの主神の大丹生神社ではなかろうか、祭神は丹生都比売あるいは罔象女だろうと、このHPは想定されている。すごい!本当にそうかも知れない。
神社は大古からの神々の空間で、そこでは不思議な生物に出会うことがある。こんなの日本にいたか、これは何だろうと頭をかしげるような生物も境内に住んでいることがある。たぶん大昔からそこに住んでいるのであろう。
ところが近頃は境内があまりにも綺麗に整備されすぎていくという傾向がある。都市の目抜き通りではない、現代人が気を利かしすぎて整備しすぎるとこうした生物が住めなくなってしまうし、かえって神社の値打ちも下がる。大した信仰心もない者がいらんことをするな…とは言わないが、モちょっと控えめにされた方がいいではなかろうか。
 「この山にがおりますか」と間抜けな事を問うと「猿だらけです」ということであったが、農作物に害を与えるが、猿退治などは夢考えないことである。山中を猿を追っかけて汗みどろ血みどろになって何匹かを捕まえ、やれやれこれで安心と、我家へ帰ってみると、猿どもが冷蔵庫をあけ、たらふく飲み食いし、エアコンをつけテレビをつけ、オシンを見てみな泣いていた、という話がある。
せっかく山王宮があるのだから、間抜けな人間としては、猿の好物をたっぷりとお供えして、どうか畑には手を出さないようにと願うより手はない。
エル・マールまいづる近くに「親海公園」がオープンの準備を進めていた、関電のPR館「エル・マール舞鶴」という船を浮かべた展示館もあった、ここにはプラネタリウムがあるそうである、完成すれば私も子供に連れられて足を運ばさせられるだろう。
 火電の稼働に先立って開かれた。いいものを作ってくれてありがとう。5才の息子は満足していました。
併設して市が作っているものはだいぶにケチくさい。官僚がイヤイヤ作ったといった感じのものである。子供が安心して遊べる施設が舞鶴にも少ない、子供の事など何も考えてみたこともない証拠であろう、そんな町は遠からず滅ぶであろう。子供の学力が低下していると心配するより先に大人の学力が低下していることを心配した方がいいだろう、子供は大人社会の鏡である。思考停止状態の、ただ惰性とマンネリだけの大人社会の中で育つ子供の学力が低下しないはずがない。
 息子は海族の船長になりたいそうである、彼にも遠い祖先の血が騒ぐのであろうか。ぜひこの隣に海賊船を作ってやってもらえないものだろうか(本当に動くやつですよ)。火電建設の経済効果は811億円だそうである(市広報紙)。だれがポケットにねじ込んだかしらないが、たらふく儲けている大企業にさらに儲けさせるだけが国や市の仕事でもあるまい、際限もなく欲ボケした連中などはほっておけばいい。子供のために、将来への投資のためにもう少し、いやもっともっと廻していいのではないか。
 船の中はミュージアムにもなっている、内容は小学校低学年向け程度のものである。ついでに(これが本当のネライかも知れないが)「環境にやさしい原発」などと関電の(国のであろうが)ウソ宣伝もやっているから見ておきたい、バカバカしくて反論する気すら起きないが、それほどよろしければ、どうぞ若狭湾の老朽炉は全機廃炉にして、東京のド真ん中あたりに15基並べて、新たに建設されればよろしかろう。建設後は一度も点検検査しないで「安全です安全です」と宣伝すればよろしかろう。関電さんともあろうものが、誠に情けない、語るに落ちるとはこのことだ。これではとても事故は防げまいし、原発を運転する感覚や資格に根本的に欠けることを自分の口から語っている。
いっそうのこと、「絶対に安全で無事故、環境にやさしく健康と美容にもよい、お得で、人類の夢のエネルギー、プルトニウム原発」とでも宣伝すればいいであろうに、ずいぶんと遠慮した宣伝である。原発について展示するなら、まじめに話をすれば、せめてチェルノブィリについては触れておかねばなるまい、関電さん、何もない。小学生の夏休みの宿題でも、これはめったなことで落とす児童はあるまい、結局のところ何もPRできるものはなく、誤魔化しと居直りしか手はないのであろう。原発に必然のその大弊害にはふれずして、環境によろしいだと、笑ってやろう。せめて雇用でも増えればいいのだが、3Kのわずかな不安定で死も覚悟しなければならないような、しかも賃金は正社員の半分にもならないようなものしかない。地元人間には御宣伝頂くほどの何もさしたる利益はない。今のところは公害というほどのものはないというがジワジワと毒が蓄積されることであろう、まだ出来たてなので夜中にゴーゴーという発電機の廻る大きな音が瀬崎あたりで気になる程度という。舞鶴湾内でチヌを釣る釣り人の間では、あんな物ができてからチヌが一匹もおらんようになったともうわさされる。2号機以降の建設予定もない。こんな大きな不細工な発電所を建設するよりは、このごろ流行の家庭ソーラー発電の電力でも買っている方がゼニになるそうである。
大浦半島には狼がいたという。現在でも熊も20頭ばかりいる、マムシもいる、咬まれないようにして下さい。
「サルの話」
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浦入遺跡(舞鶴市千歳浦入)


発電所建設に先立って、この地の遺跡調査が行われた。ちょっとした砂嘴のある入江と裏山斜面は密柑畑だけの所であったが、ここから縄文から平安時代にかけての多くの遺跡が見つかった。浦入遺跡と呼ぶ。どこに何が眠るかは見当もつかないものである。現在の舞鶴のひな型のような遺跡群であった、という現在よりも最先端の地であったかも知れない。丹生関係のものはないようであるが、この地の水銀は交換品であったかも知れない。浦入遺跡出土のけつ状耳飾り

 全部書いていたら大変だが、書かずにおれない貴重な物ばかり、簡単に触れておこう。

6300年前のアカホヤ火山灰が5センチ堆積、その灰の中から「けつ状耳飾り」がみつかる。火の鳥みたいなイヤリンクだが、これで謎とされてきたこの種のリンクの絶対年代が決定できた。蛇紋岩製で糸魚川あたりの産であろうかといわれる。

丸木舟(5300年前のもの。わが国最古・最大級といわれる外洋舟である。)屋久島の縄文杉を思い起こす年代である。アカホヤの爆発でそれ以前の杉は全部焼けたのであろう。その後に生えたものが現在まで生きているわけである。こんな木は一度切ると二度と再生は不可能である。なぜなら5000年もかかるからである。丸木船

北陸・隠岐産物など広い範囲との交易物。黒曜石も出ているそうである。隠岐島産であろうか。
黒曜石(隠岐産)









日本海側最古の鍛冶炉(5世紀後半)と奈良〜平安時代の製塩炉・鍛冶炉

導入期の横穴式古墳

「笠百私印」の刻印(円形・径3.1センチ)のある製塩土器支脚(下写真)(奈良末〜平安初期)

和同開珎、万年通宝、神功開宝の三種類の銅銭
笠百私印(市広報紙より)

「縄文の丸木舟」(浦入遺跡を紹介) 「浦入遺跡」 「神戸大学助教授鎌田…」(アカホヤや当時の気候変動がわかる) 「けつ状耳飾」 「縄文時代の装飾」 「耳族について」  「韓国出土のけつ状耳飾」
「京印章のお話」 「印制度のはじまり」 「物部私印」
「図説福井県史」(若狭の塩作り) 「岡津製塩遺跡」



製塩遺跡は若狭湾には多い。「福井県史」のHPは、
若狭湾沿岸の製塩土器の出土分布
 7世紀末から9世紀前半ごろの船岡式・傾式の製塩土器を取り上げた。岡津式は船岡式にふくめたが、浜禰UB式など船岡式より古いとみられているものはふくめていない。越前は、船岡式・傾式段階と考えられる平底型と、傾式の製塩土器を取り上げた。『日本土器製塩研究』より作成した。

として、次の図を入れている。


若狭の製塩遺跡
まるまる無断でコピーさせてもらった、この図は何かで見たことがある(ような記憶がある)が、このように製塩と言えば若狭である。石敷炉というのが、これに当たるが、浦入はこの形式だけではない。全国初といわれる「方形区画炉」形式のものが主体である。また鍛冶炉と重複する。

 〈 鍛冶炉跡は、西側の海岸部で製塩炉群と重複し、一列に並んで見つかりました。奈良時代の終わりごろから平安時代にかけ、製塩を一時中断して鍛冶を大規模に行った時期があったとみられます。
 これだけの鍛冶炉が一遺跡から検出された例は珍しく、一定間隔で並ぶ鍛冶炉の形態は、公的な鍛冶工房のあり方を示すといわれていることから、浦入遺跡群の性格を考えるうえで非常に重要な遺構といえます。(広報紙より) 塩焼く海人が鍛冶炉も運営していたように思われる書き方である。鉄も海人がつくっていたような遺跡である。たぶん鉄も海人が大規模につくっていたのであろう。塩竈神社(朝代神社)塩も作るし鉄も作る。何でもやる。現在のように分業が発達していたわけではない。同じ人間が季節は違うと思うが両方の作業をしていたと思われる。
ビールのジョッキーのような形と大きさをした、その製塩土器には「笠」の刻印がある、笠氏は金属精錬もこなした氏族であることがわかる。法隆寺の仏像銘の「笠評君名大古臣」がにわかに注目されたわけである。大古はタコだろうから、舞鶴高野の高や高浜・木津高向宮の高向(たこ)と同じであり、何か繋がりがあるかも知れない。笠評君は加佐郡の氏族と見てもおかしくはないことになる。
「丹生」の地名が残り、多禰寺があり、三輪社があり、式内社と三宅郷もある。丹生の地名が残る場所は大変な場所のようである。


 この時代より古い師楽(しらく)式と呼ばれる古墳時代の製塩遺跡については「若狭の師楽式土器」参照。舞鶴は奈良時代くらいまでで古い物は現在の所は見つかっていない。朝代神社(舞鶴市朝代)には塩竈(しおがま)神社(左写真)がある。何か製塩と関係がある神社のかも知れない。


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千歳下遺跡(波作久美)の5世紀の多量の鉄製品

千歳(舞鶴市西大浦)
浦入遺跡のある地は大丹生ではなく、ひとつ南の千歳ちとせちとせちとせの地である。北から浦入、大丹生、千歳と並んでいるが、古くは全部千歳と呼ばれたのでなかったかと思われる。慶長検地帳では波作久美(はさくみ)村と出るそうだが、「文珠ボサツ千年爰にいますと云伝、穴文珠とて海岸にあり此村むかしは波作久美村此因縁にて千年村と改る」(丹後国加佐郡寺社町在旧起)、「天武天皇大甞会を行ひ給ふ時、主基方の地を丹波加佐郡に取る、今の千歳村是なりといふ」(田辺府志)、「忍耳尊千歳御在位有シ所也ト古書ニ見ヘタリ」(旧語集)とかある、何かたいへん由緒深そうな村である。ここには5世紀の鉄製品が出土する遺跡がある。
『京都新聞』(990401)に、

 〈 *古墳中期の祭祀跡*
*舞鶴・千歳下遺跡で発掘・北近畿初の青銅鏡も*

 舞鶴市教委は三十一日、同市千歳の千歳下遺跡から、古墳時代中期(五世紀半ば−後半)の祭祀(さいし)跡が見つかった、と発表した。近畿北部にある古墳時代の祭祀遺跡では初めてとなる青銅鏡のほか、玉類や鉄片も大量に出土。遺跡は舞鶴湾口の近くにあり、海上交通を支配していた豪族による祭祀場所とみられ、同市教委は「古代祭祀の実態を知る貴重な資料」としている。
 同遺跡は舞鶴湾岸から東約百bにある古墳時代から平安時代の複合遺跡。市道改良工事に伴い、約六十平方bを発掘調査していた。
 祭祀跡は、深さ二bまで掘り下げた三b四方の試掘溝で、複数の地層から六つの穴や集石などを確認。遺物では青銅鏡の破片二つと、勾(まが)玉、管玉が各十個、ビーズ状の臼(うす)玉が七百点以上、穴のあいたボタン状の有孔円板七枚、鎌(かま)、おのなどの農耕具らしい鉄片が多数出土した。
 青銅鏡の破片二つは外縁部が中心で、長さ八・二a、幅三・八aと、長さ九・六a、幅一・七a。破片の一つには穴があいているほか、割れた断面が磨かれていることから、ひもを通して首飾りにしていたと推定される。遺構からは焼け石も見つかり、火を使った祭祀を行っていたことも分かった。
 福岡県の沖ノ島祭祀遺跡や鳥取県の長瀬高浜遺跡など、これまでに鏡が見つかった海辺の祭祀跡はいずれも交通の要所。同遺跡も、舞鶴湾口を押さえる位置にあり、遺物の豪華さから付近の海上交通を支配した豪族の祭祀場所とみられる。
 同市教委は「海上安全のほか、農耕具が出土したことから五穀豊穣(じょう)も祈っていたのだろう。祭祀跡が重なって見つかり、遺物も多いことから、二、三代にわたり継続して祭祀が営まれていたのではないか」としている。現地説明会は四日午前十時半から。  〉 

『舞鶴市民新聞』(990928)に、


 〈 *古墳時代中期の鉄製品など多数出土*
千歳下遺跡
 市教委は二十五日、千歳下遺跡から古墳時代中(五世後半)の鉄製品、鉄片など祭祀(し)関連遺物が多数出土した、と発表した。古墳の副葬品以外に鉄製品が出土した例は全国的に珍しく「当時の祭祀を知るうえで貴重な資料」としている。
 今回の調査は、道路改良工事に伴い、八月から約六十平方bを発掘した。今年三月に隣接地でも発掘調査が行われ、祭祀に使われた青銅鏡の破片や勾玉(まがたま)などが出土していた。
 鉄製品は、古墳時代中期の遺構面の幅一・二b以上、長さ二・五bの隅丸方形の土こうから見つかった。土器や勾玉、管玉、ガラス玉五点、臼玉百点以上とともに、オノやカマなど十七点の鉄製品が出土した。この中でカマの一点は、切断された跡があり、祭祀場で加工された鉄製品が見つかる例は珍しいという。 |
 市教委では「鉄を多く保有する有力な豪族の祭祀場跡であることがうかがえるが、この豪族の古墳が存在しないのが大きななぞとして残った」と話している。  〉 
有名な遠所(えんじょ)遺跡(弥栄町)より百年も早く製鉄がここで行われていたと考えていいと思う。鉄の五世紀にすでに多量の鉄製品を持っていた集団の地である。周囲をもう少し発掘すれば何かアッと驚くような物がでそうな謎と期待大なる地である。千歳(舞鶴市)

 慶長の検地帳では波作久美はさくみはさくみはさくみ。狭汲とも書かれるが何の意味かわからない、『寺社町郷旧起』の解説者氏は、「波作久美。一説にしらぎ系の言葉」としている。この検地より少し早く連歌師紹巴(しょうは)が永禄一二年(一五六九)にここを通りかかっているが、それには「千とせの浦」としている。千歳の地名も古いようである。亀岡や峰山にも千歳の地名がある。先の江戸期の諸文献の説話はこの地名に附会した地名伝承ではなかろうかと思われる、がたぶん千歳のチは千ではなくて血ではなかろうかと私は考えている。この地の地が赤いのではなかろうか。選歌師が立ち寄って発句を所望されたというくらいであるから、高名なプロの連歌師相手に連歌が作れるくらいの高い文化水準の粒の揃った人が何人もここにはいたのであろう。当時の村というものの文化の高さの一端を知ることができる。

忍耳尊というのは誰だろう。大耳という土蜘蛛が五島列島の値賀(ちか)島にいたと肥前風土記は書くが関係あるのだろうか、波作久美のミが耳だということがわかる。元々は耳族の地なのであろう。
『舞鶴市史』は次の伝説を載せている。

 〈 経塚          (千歳)
  千歳には古くから「朝日照り、夕日輝く大石の下に、蕨縄(わらびなわ)千束、黄金千両」という言葉が伝承されている。これは救荒食糧と黄金が埋蔵してあるから、非常の時はこれを使うよう祖先が残したものだともいわれている。
 また、この経塚のある山裾の道には、狼が出るといって怖がられ、古来から神聖なところと崇めたそうだが、いつのころか盗掘されたという。  〉 
京田の白雲山の麓にも似たような伝説があったが、黄金こがねこがねこがねとは粉金のことであり、粉金とは砂鉄のことである、と言われる。
 尚、木津川をさかのぼった伊賀上野市の佐那具の南隣にも千歳というところがある。ここはセンザイと読む、千座とも書かれたようだが、ここから銅鐸の一部が出土している。

大浦半島:水銀地名

医王山多禰寺(舞鶴市多祢寺)

医王山多禰寺(舞鶴市多祢寺)
大丹生・浦入からなら、大丹生川をさかのぼると東側の山の中腹に多禰寺たねじたねじたねじという真言宗の古刹がある。七仏薬師の伝説をもつ郡内最古の寺院であり、日本第三位とされる巨大な仁王像を持つ。

 西側からなら大丹生から、正面と思われる南側からなら赤野あかのあかのあかのという集落から登ることができる。赤野と赤がついてこちら側も朱と関係ありそうな所である。どちらにしても何か水銀とも関係ある寺院であろうかと思われる
多禰寺の仁王像
多禰寺の仁王像


(多禰寺)
 〈 京都府北部で、密教寺院の古刹がもっとも多く集中している地域は舞鶴市です。国指定をふくむ文化財の宝庫として、金剛院、松尾寺、円隆寺がよく知られていますが、これらにならぶ古刹として、大浦半島の古代史の解明が進むとともに、脚光をあびはじめているのが『多祢寺』です。
…山門の主は、国宝・重要文化財に指定されている仁王の中でも、全国第三位の大きさを誇り、多祢寺地区は「仁王の里」としても知られています。
このような大浦半島の山中に、どうして、この地方最古の寺がひらかれたのか、どうしてこのような大型の優れた仁王があるのか、という疑問は、この寺をはじめて訪れる誰しもが抱くことでしょう。
 多祢寺は、真言宗東寺派に属し、聖徳太子の異母弟、麻呂子親王の開基と伝え、本尊を瑠璃光如来とする、「七仏薬師の寺」です。(松本節子の舞鶴・文化財めぐり「七仏薬師の寺」より)  〉 

「金剛力士立像」 「医王山多禰寺」
   「西国四十九薬師霊場」 「多禰寺山」

「多禰寺」
多禰寺山門立派な仁王さんでしょう。一度見に来て下さい。山門で数百年にわたり虫に喰われていたのを修復したものです。左はその山門、巨大な仁王像ば納まっていたにしては意外にこぢんまりとしたもので今は鐘撞堂になっている。仁王は運慶作とも言われる。今は宝物殿に納まっている。ここの社務所でもらったパンフ類にはいいカラー写真がない。モノクロで写し方も悪い。撮影は禁止でしようが、隠れて写しました。ライトは当てられませんから、ブレてます。気が引けるが、こちらの写真の方がずっといいので(私の判断では)載せさせてもらいます。

 調べてみると東大寺南門の仁王さんが約8mだそうで、だんぜん一位、京都清水寺のもの、京都では一番大きいといわれるもので3.65m、これが第二位、次がこの多禰寺の上写真のもので、3.55と3.58mです。
 東大寺や清水寺を知らぬ者はないだろうが、多禰寺は誰も知らない。清水寺にわずか10センチ低いだけ。そんな立派なものがあるとは目の前にあっても信じられないが、そんなものがこのお寺にはある。加佐郡の誇りのトップに掲げるべき仏像である。それが大浦半島にある。

 周囲には中世のお墓がごろごろところがっていて、大浦は誠に大変な所のようである。
このお寺そのものについては「丹後の七仏薬師信仰」を参照してください。
「室尾山観音寺神名帳」に、正三位太祢明神と見えるのは、ここにあったのだろうか。

さて、多禰寺のタネとは何の意味だろうか。多祢山のタネ、この地の地名によるものだろうが、そのタネの意味である。多祢山
砂鉄のことをたねたねたねともいう(『西丹波秘境の旅』(澤潔著))。これがよくわかる。タネが産鉄を意味する地名であることはよく知られている。『鬼伝説の研究−金工史の視点から−』(若尾五雄・1981)は、
 〈 山陰で砂鉄のことを種(たね)といい、タタラに砂鉄を入れる時、種を入れるという。
  〉 
たたら製鉄で、たたらに砂鉄を入れる木製のスコップを「たねすくい」とか「たねすき」と呼ぶ。
 鉄の寺が多禰寺、砂鉄山が多祢山である。タネ地名は案外に見あたらない。舞鶴市和田に白浜ニュータウンが造成されたが、これは種井地区と呼ばれる所であった。同じ大浦半島の小橋・三浜に種田がある。丹後町上野に種ノ上という地名があるのみである。

 5世紀後半の浦入の鍛冶遺跡というは、その原料はどこから採ったのかと気にしていたが、これで解ける。鍛冶・製鉄遺跡であろう。すぐ南にある千歳下遺跡(古墳中期)の鉄製品はここで製作されたものであろうか。
多禰山は地図によっては大道山と書かれていると思う。大道とは何のことだろう。『田井校区のすがた』は、次のように書いている。

 〈 ※ 大道山について
 …地元では古来〃おおどう〃とは、険しい山の背を越える峠を差して呼ぶらしく、田井=野原の峠道を〃おおどう越え〃と呼び、また、空山を経て観音寺に至る山道を〃観音寺おおどう〃と呼んでいる。そういうことから、〃おおどう〃とは、ある地形を差すー般名詞であって、〃おおどうやま〃という特定の山があるのではない、と考えられる。このことについて、なお大方の教示を得たい。  〉 
安閑紀の丹波国の蘇斯岐そしきそしきそしき屯倉や近江国の葦浦あしうらあしうらあしうら屯倉と同じ記事であるが、そこに備後国の多禰たねたねたね屯倉も見える。ここは岡山県後月郡芳井町(たね)とされている。
『和名抄』には、近江国浅井郡田根郷と出雲国飯石郡多禰郷がある。いずれも聞いただけで鉄だろうと思えてしまうような所である。鉄砲伝来の種子島も砂鉄の島である。この島は『書紀』にも登場する、タネは古い島名である。ネット上に置かれている「歴史データーベース」に、
 〈 1543(天文12)九州の南端種子島にポルトガルの難破船が漂着、島主種子島時堯ときたかときたかときたかは島津の許しを得て救助。鉄砲を伝え聞いた時堯は2丁を買い求め、家臣に鉄砲の倣製を命じた。刀匠八板やいたやいたやいた金兵衛は、娘若狭わかさわかさわかさ(1527〜1570)をポルトガルの船長に贈り、その秘法を会得したといわれている。海外で日本を偲ぶ若狭の歌に、船長は憐れみ、翌年来航して帰家を許したという。  〉 
もともとこの島が砂鉄の島であり、製鉄・鍛冶の島であったから、南蛮の最新テクノロジーでもすぐにマネして鉄砲が制作できたのである。もし他の島だったら鉄砲伝来はなく、後の日本史も変わっていたかも知れない。若狭という娘の名も気になる、カサはやはり金属精錬と何か関係があるだろう。
 『海と列島文化5』は、

 〈  東海岸は礫が多く、西海岸と南海岸き大規模な砂浜海岸が発達している。これらの砂丘海岸の背後の砂浜に砂鉄が埋蔵されており、島内各地に散見されるタタラ跡などからみて、古くから利用されていたようである。  〉 
種子島では大正時代までタタラ製鉄が行われていたそうである。

崇神記の意富多多泥古おほたたねこおほたたねこおほたたねこ(紀は大田田根子)のタネも同じであろうと思われる。大田はオオタタラだろうかタダでタタラだろうか、製鉄・鍛冶族のタネ族の主であろう。鉄をそのまま名前にしたような名である。その彼が大和三輪山の大物主神・蛇神の神裔という。日本でも最も古いような氏族であるが、渡来系ともいわれる、大和一宮・三輪大社を祀る大神氏の祖といわれる。
日子坐王に命じて玖賀耳御笠を殺した記事が見られるのも同じ崇神記である。

大浦半島:水銀地名

加佐郡三宅郷と式内社・三宅神社(舞鶴市河辺)

多禰寺の正面になる赤野という集落は、引揚船の着いたたいらたいらたいらという集落の山側隣にある。谷の西側の赤野と谷を夾んで東側の柿安かきやすかきやすかきやすという集落の二つでできている。赤い野というその地名から見ても朱と何か関係がありそうである。巨勢金岡こせのかなおかこせのかなおかこせのかなおかの屋敷跡という所や、柳田国男が柱松はしらまつはしらまつはしらまつという地名が残ることを紹介している村であり、多禰寺の門前村である。引揚桟橋より対岸の平・赤野

 写真は、「岸壁の母」で有名な大陸からの引揚船の着いた所である。歌にうたわれる平桟橋である。もうすでに50年も以前のことである。
海が平湾で対岸の海辺の集落がたいらたいらたいらである。その山手の集落が赤野である。柿安は右手の山に隠れて見えない。中央の高い山が多禰山。多禰寺はその中腹にあるが、この写真では見えない。そこには多禰寺という村もあるのだが、現在は数軒ばかりである。大丹生は多禰寺から西側へ続く道を降りる。柿安の谷を東へ遡り峠道を下るとすぐに、残欠の河辺坐三宅社、式内社三宅神社に比定される河辺八幡神社に出る。

加佐郡式内社の三宅神社をどこに比定するかは、昔から論議があるそうである。残欠に河辺坐三宅社とあるからには、河辺のどこかにあったのだろうが、いいや違うという説もある。三宅神社(舞鶴市北吸)

 東舞鶴の北吸(きたすい)、市役所のすぐ近くにも式内・三宅神社と石柱を立てた神社がある(右画像)。私は子供の頃はこの三宅神社の氏子だった、夜祭の露店は今も思い出す光景である。高い急な石段を登った山腹に社殿があった。石段を登れないほどに参詣者がいたが、今はどうなっているだろう。北吸という国鉄の駅もここにあった(幟が立ててあるところ)が、とうの昔に廃線となっている。子供相撲があって私も出たことがある。相手はえらく強いやつめで一発で負けたことがある。

 身びいきしようにもここは分が悪い。元は今の自衛隊の「戦艦大和ほかの連合艦隊」が停泊しているその東側の「赤レンガ倉庫」が並ぶ、その南側にあった。現在もそこは三宅団地と呼ばれるが、ボーリング場のある三宅谷が元の鎮座地である。元の地が海軍の軍用地に取り上げられたので、現在地に遷座している。名も荒神→北吸神社→三宅神社と改称したものである。この三宅谷の住民は、江戸時代は多禰寺の檀家であったという。葬儀でもあれば、ここで狼煙を上げて多禰寺に知らせ、坊さんを船で迎えにいったという。河辺八幡社の石灯籠
だから元々は多禰寺村や赤野村あたりの人びとが、故地の氏神さんであった三宅社とともに植民した地なのだろうと思える。分家であるから、本家にはかなわない。そしてこの本家はものすごい。

 河辺八幡社(下画像)は三宅社とか三宅八幡社と呼ばれたという、ここには恐ろしく古いものが残る。丹後でも随一ではなかろうか。この社が所蔵する棟札には天養元年(1144)のものがある。岩津森神社と呼ばれた社であったようで、その棟札には正応1288〜93とか、正和1312〜17、正慶(北朝年号)1332〜34、至徳(北朝年号)1384〜87、永享1429〜41といったものがある。貞治三年(1364)八月廿五日の銘文が刻まれた石灯籠もある(左写真)。無形文化財の祭礼芸能も伝わる。「王の舞」と呼ばれる若狭系の古い文化も残る。王というものは本来はこんなものだろうかと『金枝篇』の世界を思わせる。細川忠興もこの境内で能の会を開いている。何も忠興だけが能の会を開いたのではなかろうと思う。この社では村主催でも開いていたのだと思われる。この時代までがこの地の華であったようだ。河辺八幡神社(舞鶴市河辺中)
「丹後の金石銘文」

 尚、「室尾山観音寺神名帳」は、従二位三宅明神と正三位三宅明神の二社が見える。ダブッているとされるが、そうだとばかりも言えない、恐らく少なくとも二社はあったのだろう。そうでなければ、わざわざ河辺坐三宅社とはしないだろう、一社だけなら三宅社だけでいいではないか、河辺以外にも××坐三宅社もあったから、こんな社名になっているのではなかろうか。屯倉は河辺以外の××の地なども含む広い地域だったと私は想定する。さらに正三位河辺明神もある。これらの社は現在のどの社に当たるのだろう。

 猪蔵神社(舞鶴市西方寺)の境内社にも三宅神社がある。この地もあるいは屯倉だったかもわからない。どこかで書いているが、喜多の宮崎神社を『丹哥府志』は式内社・三宅神社に比定している。三宅社は何社あったかはわからない。どれが式内社かはわからないが残欠を信じれば河辺にあったと思われる。

残欠が記録する加佐郡三宅郷はこのあたりであろうかと思われる。
屯倉みやけみやけみやけ三宅みやけみやけみやけは天皇の直轄地とされる、まだ天皇はないから、大和のオホキミの直轄支配地であるが、これは大化改新で廃止されており、残欠が編まれた時代には、すでにかなりあいまいな郷であったように感じられる。

 残欠本文は虫食でよく読めない。大切な記事は虫の胃袋に納まってしまった、虫君が食い残してくれた所を飛び飛びに読んでいくより手はないのだが、三宅郷はどうも志楽しらくしらくしらく郷と重なってしまっているようである。
河辺谷はまちがいないが、この谷間だけでは一つの郷は作れるほどは広くない。河辺はカワベ・カワナベ、古くはコーベと呼んでいる。神戸だという説もある。あるいはこの三宅社の神戸かも知れない。

 東隣の平・赤野の谷は三宅郷であるかどうかはわからないが、『加佐郡誌』は三宅郷に含めている(下図参照)、私は大浦半島の全部、その付け根まで本来は三宅郷の地ではないかと考えている。海峡を飛び越えて白杉・青井辺りも、あるいは高橋郷も一部含まれたかも知れない。

 式内社の三宅神社があるのだから、加佐郡のここには何らかのかなりの屯倉があった、中央とのつながり深い地であったことはまちがいない。そうでなければ、こんな名の神社はないし、自力だけの文化とは考えられない、中央の文化があちこち今に残るわけもない。鎌倉時代中世にまで下っても上古の屯倉の残り香が漂っていたとも考えられる。

 三宅連がいたから三宅郷なのではなかろう、屯倉があったから、三宅郷・三宅社がある。加佐郡三宅郷は『和名抄』には記載がない、残欠だけに見られる。
三宅という地名は丹後町にもあるし綾部市にもある。文献記録には残っていないが地名が現在にまで残っている限り、こうした所にも屯倉があったと考えられる。

 残欠では加佐郡の九郷を列記している。だいたい東から順に書き並べているようである。志楽郷・高橋郷・三宅郷・大内郷・田造郷・凡海郷・志託郷・有地郷・川守郷の順である。『和名抄』もこの順に並んでいるが、三宅郷はない。東から西へが原則、南北もあるから、その場合は南から北へ順に並べていくようである。だから三宅郷は高橋郷の西側か北側である。西側は大内郷と余戸郷に接するから、北側である。高橋郷の北側にあった。やはり大浦半島になる。あるいは現在の浜や北吸あたりも含まれたかもわからない。
 残欠の本文には三宅郷は見られない。虫の腹に納まったか、あるいは初めから無かったのどちらかである。たぶん書かれていなかった。とにかく本文にはミの字もない。
昔は確かにあったのだが、といった名目的記念的歴史的な郷名で、その実体がもう失われていたのかも知れない。しかしもし本文が虫食で読めないだけで、本当は志楽郷と重なっていなくて、郷立てしてあったのなら、記載順序から言って、三宅郷には、現在の河辺、朝来、瀬崎、枯木浦、志楽、小倉などが含まれたことになり、志楽郷は青葉山と成生だけとなることになる。
たぶん志楽郷の前身が三宅郷ではなかろうか。又志楽と三宅が併存した古い時代もあったが、三宅は志楽へ吸収合併された、古代にも大合併の時代があったのかも知れない、
 志楽の古名が蘇斯岐かも知れない。白杉が蘇斯岐の転訛だというのなら、志楽こそ蘇斯岐の転訛ではなかろうか。

下の図は『加佐郡誌』の古代郷域の推定図である。遺称地名からだいたいは当たっているようであるが、古代といっても長い時代であり、その中でも郷域は変化しただろう、だいだいの時代の特定と、凡海・三宅・志楽・神戸は検討し直してみるべきであろうか。

 古代の郷というのだから、律令時代、ここに描かれているのはそれもだいぶに後の平安期のものとわかるだろうと思われるかも知れない。しかし三宅は屯倉で律令時代に先行する大化以前の制度であり、そもそもがこのように地図上に書き込める土地として表現できるものか怪しい。古代の郷は、もちろんそれに先行した屯倉もそうであろうが、郷は五十戸で一郷を作ったものである。一戸というのは現在の核家族のような四人ほどのものではなく、戸主をトップに三〜四世代、直系だけでなく、兄弟やその他の人々も加えただいたい付近に同居する生産のあるいは社会の最小の一単位をなせるような大きな家族、現在なら家族とは呼ばない大きな人の集団である。研究者によれば二十人くらいと言われる。
そうした大家族五十で一郷をつくったのだから、現在の村とも自然な村落とも違う物である。だいたい一千人で一郷と数えたのではなかろうか。人をそのように上から組織したものが律令国家の郷で、土地を区切ったものではない。私有地はなく土地は全部国のものであるから、さらに土地を支配する必要もなく、別にどうでもいいもののようである。郡の境は明確であるが、郷の境は別にどうでもよかったではなかろうか。水や資源の生産財の管理のためにはある程度はまとまっていたほうが都合がいいであろうし、それなら地図上に表現可能かも知れないが、波線で表現できるほどに明確なきっちりした郷境が本当にあったかどうかはかなり怪しいとも思われる。
『加佐郡誌』による古代郷域図
三宅郷に成生が含まれているが、これは残欠本文では志楽郷に含まれる。瀬崎も志楽郷である。凡海郷は由良川の川口部(のちの田数帳では和江のあたり)と沖の冠島(凡海息津嶋)は間違いないが、大浦半島部分はよくわからない。野原・小橋(勘注系図に凡海連小橋の名が見える。この小橋かも知れない)・三浜の冠島参りに参加し、冠島を共有する3集落は含まれると思われるが、そのほかはわからない。

 残欠は本文部分と、その先にある郷名を列記した郷名帳の部分とは違う人の手になると思われる。時代も少し異なるのかも知れない。両者の間で統一がとれていない。あるいは取らずにそのままほったらかしている。当時の残欠の編者自身がよくわからなかったのかも知れない。後世の史家たちに宿題として残したのかも知れない。

残欠自体に矛盾があるので、この史料のみを根拠に郷を推定していくのは無理である。本文では河辺坐三宅社も志楽郷に含まれ、三宅郷の記載はないようである。あとは空想を働かしてもらうより手もない。

この河辺三宅・大浦三宅というか志楽三宅というか、これが安閑紀の丹波の蘇斯岐(そしき)屯倉かどうかはもちろんわからない。私がいろいろと妄想するだけである。
そのような地名は残ってはいない(河辺原の小字にジキジキがあるが関係があるかどうかはわからない)。
 浦入遺跡の鍛冶炉は5世紀中頃にさかのぼり日本海側最古と言われる。「鉄の五世紀」とも言われる、倭国でもいよいよ製鉄が始まったとされる、その頃のものである、新しい製鉄技術が入ってきた。安閑よりも百年は古い。雄略の頃である。そんなに古くからの屯倉なのだろうか。
しかしこの遺跡は何かそんな物を想定しないと説明ができないと思う。また三輪社も屯倉と関係あるのではないだろうか。この地の自力ではないと思う。
浦島伝説は雄略の頃、一説には豊受大神の伊勢遷座も、弘計・億計二王子の話も雄略の頃とされる。雄略の頃に何か丹後で起こっている。恐らく丹後の新技術による製鉄の再開発と関係があるだろう。

島根県大田市に祖式町という所がある。現在はソジキと呼んでいるが、古文書には「そしき」とある。世界遺産暫定リストに載るという有名な石見銀山の南麓である。蘇斯岐屯倉は金属の屯倉であったろうと思われる。大浦などもピタリなのだがどうだろう。河辺八幡社の東にある干田古墳群はあるいはこの屯倉のボスどもかも知れないが、このヒタという地名も金属と関係がありそうな地名で、火田でないかと言われる。『鉄山秘書』(天明4年)の、金屋子神が出雲に最初に降り立った地が能義郡黒田の非田(島根県能義郡広瀬町西比田)であったという。大田市祖式町というところはどんな地なのか知らないのだが、『日本の地名』(谷川健一・1997)は、

 〈 島根県大田市の祖式(そしき)町では、子どもがはじめて物を言うようになったのを「クグイ」が鳴いたという。祖式町のとなりにある大田市大代町には久具という地名も残っている。.  〉 
実際に近代になっても大浦半島には鉱山があった、三浜の黒竜という所で銅・錫を採掘している。明治末から大正にかけて、最盛期は鉱夫70人くらいが働いていたという(『丸山校百年記念誌』)。一目小僧がいるという話も同誌にある。これは天目一箇神の零落した姿で、本来は鍛冶神である。市誌が引く「京都府鉱物誌」に記載されているものには大浦半島が多く見られる。
 鉄を作るためには莫大な森林を必要とする。鉄を1トンも作ろうと思えば一山では足りないだろう。周囲の山を全部丸坊主にしたらいくら砂鉄があっても、もう鉄は作れない。だから鉄の屯倉で大々的なら寿命は長くはない、後は荒れた山だけが残る。そしてまた山に樹木が成長してくると始める。自然と共生しないと長くはやっていけなかっただろう。
江戸時代の奥出雲のタタラ製鉄の記録によれば、1炉に3.300haの山林が必要だったという。西大浦村・東大浦村ともにそれくらいの広さである。大浦半島全体で2炉である。鉄はこんなにも資源の占有を必要とする、現在の鉄工業でもそうだが、個人的にというか小さな地域の集落や中小の豪族でコソコソとやれるものではない、巨大な組織か国家のバックアップが想定されるのである。
 アメリカいいなりの植民地開発式の農業や林業政策をやると田園も山林も荒なんとす、借金で作った道路はよくなるが、その横手にある田も山も荒れ放題となる。大浦半島は現在はかろうじて国土の荒れを食い止めているように見える部分か多い。しかしいつまでもつだろうか。
21世紀はしっかりと根本から考え直していかないと、何か政治的インチキくさいモーソーに付き合うのも何だが、自分が描いた自画像が外に見えるのだろうか。そんなどこかの敵国が攻めて来るまでもなく、このままでは自滅して亡国であろう。

大浦半島:水銀地名


もう一つ祢布村があった(舞鶴市赤野)

 『舞鶴地方史研究26号』の編集記に加藤晃氏が書いておられる、

 〈 永享十二年の「祢布村御年貢納帳」がありますから、中世に赤野を中心とする祢布村があったことがわかっています…  〉 
そんな物があるとは知らなかった。祢布は高野女布の祢布神社、兵庫県城崎郡日高町の祢布という地名と同じで、禰布・祢布はニョウと読んでいる、女布とか如布と、あるいは売布とかネウなどと同じ地名である。大浦半島にも女布があった。永享十二年といえば、1440年だろうか、その頃までは赤野はニョウであった。水銀朱の産地だった。この富が多禰寺を作ったのだろうか。小字にメコブがある。メフと同じだろうか。大浦半島は水銀の産地でもあったろう。

赤野集会所の隣の椋森神社が氏神さんである。椋森神社(赤野)ムクモリではなくクラモリと読むのだと思う。祭神は椋森神あるいは荒神とする。赤野には岩王神社というのもあるようだけれども、どこにあるのかわからない。岩尾か巌のことだろうか。クラも巌だから、先の河辺中の岩津森神社といい、このあたりは巌を祀るのが多いようだ。社殿ができる以前の磐座における古い祭事の記憶を残しているような社名である。
あるいはクラモリはクラ守であろうか、私見によればイワもクラも鉱山のことであろう、すなわちどちらも本来は鉱山の守護神であろうと思われる。
先の松本節子氏の文書に、

 〈 西大浦村『沿革及記事』は、この三地区(赤野・平・中田−引用者注)の起こりと多祢寺とのかかわりについて、ふれています。
 「字赤野ノ起元 現在ノ赤野ハ元多称寺村卜合併ニシテ 多祢寺村ノ人赤野地方ニ於テ始テ土地ヲ開キ田甫ヲ作リ 以テ民戸ヲ移シタルモノナリ」と記し、その開祖神を地主荒神として祀っているのが、現在の坪ノ内遺跡に隣接する椋森(むくもり)神社であると伝えています。
 この椋森神社の祠に祀られるご神体の木像は、一説には、多祢寺を開いた麻呂子親王であるともいわれています。  〉 

『加佐郡誌』によれば、下隣の平集落鎮守の八幡神社の境内社に日森神社があるという。日森とは火守であろうか、タタラ炉の火を守る神という意味かも知れない。朱のあるところ鉄があるという、この地で鉄が造られていても不思議ではない。下の写真が平の八幡神社である、境内にはたくさん末社があり、どれが日森神社なのかわからない。平のほか中田、多祢寺、赤野の総氏神であるという。平八幡神社(舞鶴市平)
「日守長者」

『舞鶴市史』は、

 〈 平の集落の西端、舞鶴湾に南面した同神社は平のほか中田、多祢寺、赤野の総氏神である。安政五年(一八五八)平の全村に近い六三軒とともに神社も全焼したが、神像三体は無事だったのも当時の人々の敬神の深さを物語っている。神像は三体とも一木造で、男女神一対は平安後期の優品、もう一体のやや小さい女神像は表面に鉈彫のあとがある素朴な作品。村の人たちが、家の床に間にかかげる氏神の掛け軸には、中央に「八幡大神」向って左に「日森大神」右に「斎大神」と書かれている。「日森大神」とは多禰寺創建の伝説がある麻呂子親王で、「斎大神」は天照大神とされており、多祢寺の本尊薬師如来信仰と、八幡大菩薩信仰との結びつきを示している。八幡大菩薩は水軍の守護神としてあがめられたが、この神社の存在は、平入江が重要な水軍の基地だったことと深い関係がありそうだ。  〉 
もしかすると、あるいは水軍も当たってもいようが、ここで重要なのは水銀や鉄、麻呂子親王の鬼退治伝説を忘れてはなるまいと思う。
やはり麻呂子は産鉄と関わっていることがわかる、麻呂子はまた金丸とも呼ばれるように、マロコと伝わっているが本当はマラコであろうか。法隆寺金銅に安置されている四天王像の多聞天像光背に「鉄師マラ古」の銘があるそうである(マラも漢字であるが、パソコンで表示できない字である)、マラコは鉄師と名乗っている。『播磨風土記』揖保郡麻打山に伊頭志君麻良比、記に鍛人天津麻羅、紀に倭鍛部天津麻浦。マラのつく者は鉄関係とみてよいようである。西舞鶴の高野丸子山古墳のマルコもたぶんマラコであろうかと思われる、久美浜町三原の女布権現山北麓の伊吹神社の境内に丸子神社がある。式内社の麻良多神社(舞鶴市丸田)のマラもそうであろう。マラというのは何か御存知ですね。鉄を産み出す技術とこうした性と関わるようなものはよく結びついている。丸田神社?(竹野神社境内の伊豆神社)

竹野(たかの)神社((いつき)神社・竹野郡名神大社)の宮司家の太祖を祀る社は丸田神社である。ここからだけでも竹野神社は鉄の神社、実は鬼の神社であることが知られる。誰も気が付かないのか、気が付いても言わないのか私にはわからないが、『丹哥府志』に、

 〈 …末社の内に丸田の社といふあり、是桜井氏大祖なり昔麻呂子皇子に随従して夷賊を誅戮す、今桜井氏は其子孫なり…  〉 
伝説に附会しておかしな事になっているようである。現在は丸田神社は探せどもないようで、社司桜井氏の祖を祀るのは写真の伊豆神社と案内にはある。屋上屋の中には二つのホコラがあって、奥の大きい方が稲荷神社、手前の小さいのが伊豆神社である。桜井サンは舞鶴にもあるが、竹野神社のこの桜井氏と関係がある氏族かも知れない。
マラは元々は梵語(サンスクリット語)で、単に魔とも呼ばれる。なぜ男性性器をそう呼ぶのかはわからない。
桜井サンのサクラもあるいは桜の木が生えていた井戸ではなくて金属と関係があるかも知れない。狭倉(さくら)で狭い谷間のこととされるが、倉は谷ではない。鉄倉(サクラ)でなかろうかと思われる。金属のでるような谷をクラとかサクラと呼んだのではなかろうか。

 八幡神といえば水軍という発想は東映映画でも見過ぎたのかもしれない。海賊船が出てきて南無八幡大菩薩と書かれたのぼりがかかっている、そんな映画の場面を見た子供時代の記憶がある。平安期の神像三体が伝わるというから、どうやら遅くとも平安時代にこの地に勧請されたのではなかろうかと思われるが、八幡はもと火の恵みの本の神と彼等は考へてゐたらしいとも柳田国男は書いているが、彼等というのは金売りの徒のことであるが、鍛冶屋の本山でなかったかと考えていたようである。八幡神はもともとは鍜冶神と見る説は強い。奈良の大仏さんも彼ら宇佐八幡の技術協力でできたと言われる、東大寺の鎮守は手向山八幡である。鍜冶神だということを見落とすとここは具合が悪かろうと思う。ここだけでなく大浦半島には八幡神社や若宮神社は多い(それに天神社と日吉社)。後に清和源氏の氏神となったため武神と考えたのであろうが、清和源氏発祥の地は摂津の多田銅山の地である。『青銅の神の足跡』は、

 〈 次に柳田が鍛冶神について論じている箇所を左にかかげておく。
「…宇佐の大神もその最初には鍛冶の錘ごして出現なされたと伝へられる。而うして御神実は神秘なる金属であった」
 柳田は宇佐の神が鍛冶神であることを述べるとともに、近代までつづいた宇佐の細男舞の歌の詞の中に、「ひとめの神」という語が読みこまれていることを指摘している。ひとめの神とはいうまでもなく、一目の神のことである。宇佐の神は天目一神であったことが暗示されている。  〉 

 平は各地の産鉄集団が入っていたとも考えられることになる。南宮大社系と丹後系の少なくとも二つの産鉄集団の出会う所だったのかも知れない。両者には親子の関係があるのか、兄弟関係なのか、他人の関係なのか、今のところはわからない。

 下は引揚船の着いた「岸壁の母」で有名な平湾、西側から写している。橋の向こう側に引揚記念館などがある。左手道路の先の集落が平である。66万人と16000柱の遺骨がここへ帰ってきた。低国と戦争の結末を目の当たりにした平である。過去の亡霊どもが復活しつつある日本であるが、二度とくりかえしてはなるまい。
平湾(舞鶴市平)
用明紀に、

 〈 葛城直磐村が女広子、一男一女を生む。男を麻呂子皇子と曰し、此当麻公の先なり。  〉 
従って、麻呂子親王は聖徳太子の異母弟とされるが、記紀などには丹後で寺を建てたといったような記事は見られない。丹後だけに伝わる伝説である。丹後にはマロコ・マルコ・マラコと呼ばれる金属精錬に関わる人がいたのであろう、正確にはたぶんマラコであろうが、それを紀の麻呂子親王としたのであろうか。端的に書けば、何人もの麻呂子が全国あちこちでいたのである。金属と関係のある人々のあいだには多くいたであろうし、天皇家にも、そうでない者のなかにもいたのである。それを天皇家につながる一人の人物であるかのように考えるからワケがわからなくなる。同名の麻呂子という皇子はこの人以外にも見られるがなぜこの皇子にしたのかはわからない。何か史実と関係があるのかもわからない。

奈良県北損城郡当麻町当麻にある高野山真言宗・浄土宗の2宗兼帯の当麻寺。『世界大百科事典』に、

 〈 山号は二上山禅林寺。二上山の南東麓にあり、寺のすぐ西に丸子(まろこ)山(麻呂子山)がある。寺伝によれば、用明天皇の皇子麻呂子親王が612年(推古20)河内国交野(かたの)郡山田郷(二上山西麓)に草創した万法蔵院禅林寺を、同親王の孫当麻国見が役小角(えんのおづぬ)(役行者)の練行地である現在地に移し、681年(天武10)に起工、685年に至って諸堂舎が完成、寺号を当麻寺と改めたというが、もともと奈良時代初期に現在地に創建された寺で、この地に勢力をもつ当麻氏の氏寺であったと考えられる。金堂、講堂、東西両塔が南面して建ち、また金堂と講堂の中間西方に曼荼羅堂が東面して建つが、現在ではこの堂が中心の位置を占め、東大門が正門となっている。…  〉 
「丹後の伝説」(麻呂子親王伝説)

 岐阜県不破郡垂井町に「日守ひもりひもりひもり」という地名がある。このサイトのどこかで書いているが、伊吹神社本社の地である。そこから金山彦神を祀る美濃国一宮の南宮大社の方へ少し行ったところ中山道の道中である。ここに日守遺跡があり、鉄滓が見つかっている。
「日守遺跡出土 鉄滓」 
奈良県の丹生の地帯、吉野町と東吉野町の間の峠が日の森峠である。出雲国風土記神門郡に火守社(出雲市宇那手町・祭神櫛八玉命)、ホモリと呼ぶのかも知れない。中郡大宮町河辺に日森屋ひもりやひもりやひもりやという小字が残る。これら以外にはこうした名を私は聞かない。
熊野郡神名帳にも日社明神が見える。ヒモリのルビがふられている。
「熊野郡神名帳」

 あるいは本当にもしかするとヒモリは夷守ひなもりひなもりひなもりであるかも知れない。蝦夷浮囚を使った産鉄事業があったかも知れない。
かすや歴史ガイド−日守夷守の由来のはなし」 (ここは夷守駅家の置かれた所である。倭人伝の卑奴母離(対馬・一支国・奴国・不弥国の副官)と関係があるかも知れない)

齋大神は東の大波上の北野神社の境内にもある(由緒祭神不詳)し、大江町公庄の齋宮神社がある、ここはちゃんと竹野姫命を祀る(由来記に麻呂子親王とも伝える)。竹野郡の竹野神社(丹後町宮)が齋宮とも呼ばれており、大江山から逃れてきた三鬼をここで麻呂子親王が退治して立岩に封じ込めたの伝説がある。つながりができてきたようである。「室尾山観音寺神名帳」に、従二位伊津岐明神が見える(伊岐明神ともするが)、これは上記3所のうちのどれかではなかろうか。開化妃・大県主油碁理の娘・竹野姫の竹野神社と、ここの平と河守あたりは、知られてはいないが何か(鉄しかないが)深いつながりがあることだろう。斎神社(=竹野神社)三の鳥居

 竹野たかのたかのたかの神社は天照大神を祀る。その本殿の右側に摂社・齋宮いつきのみやいつきのみやいつきのみや神社があり、日子坐王命・竹野媛命・建豊波良和気命を祀っている。これが本来の本社である。建豊波良和気命は記に開化の子で、日子坐王とは兄弟、道守臣、忍海部造、御名部造、稲羽の忍海部、丹波の竹野別、依網の阿毘古等の祖となっている。


竹野郡の名の元となったのかあるいは逆に竹野は地名で神社名は後かも知れないが、神明山古墳という200メートルに近い前方後円墳のすぐ近くに神社が鎮座している(写真でいえば、向かって右側に巨大古墳がある。ここから歩いて頂上まで300メートル)。左が本殿の竹野神社。右が摂社斎宮神社
 竹野はタケノではなく、タカノと読む。タカヌだろう。舞鶴の高野と同じである。
畑井弘氏は高山と書いてカグ山と読む(万葉集)から高はカグ(銅)のことだとされている。竹野神社とは何でもない、籠神社のことであるかも知れない。高とか多賀、瀧、多紀、竹、岳、建、多久、高向(たこう)とか所によりいろいろと書かれるが同じことで、こうした所はたぶん金属と深い関係がある古い聖地と思われる。

 ここはかつて潟湖があって海運との関係が最近は注目さていれるが、ここもやはり本来は金属が関係した名ではなかろうか。そうでないと製鉄王、丹波大県主油碁理の娘・竹野媛、そしてその息子の…、今後の史家は金属を注目するだろう。網野町誌は、

 〈 『古事記』(七一二年完成)(以下『記』と略記)開化天皇の条に、「この天皇、旦彼の大県主、名は由碁理が女、竹野比売を娶りて生みたまへる御子、比古由牟須美命」とあり、また『日本書紀』(七二〇年成る)(以下『紀』と略記)の開化天皇六年の条に「天皇、丹波竹野媛を納れて妃としたまふ。彦湯産隅命を生む。」とある。  〉 
があわない。竹野・高野はやはり金属系の名かと思われる。高野はカグヤとも読める、竹野媛はカグヤ媛であるかも知れない。そんなアホなことをと思われるかも知れないが、記の先の系図には続きがある。それによれば、竹野比売−比古由牟須美命−大筒木垂根王−迦具夜比売命(一つ目の天皇・垂仁の妃)となる。
竹野比売の曾孫が迦具夜比売命である。実際にこうした人物がいたというわけではないであろう、このような先祖に関する伝承があったということである。当時このようにだいたい整理していたということであって、だいたいは神様であって重複して同じ神様が出てきても特に不思議なことでもない。カグヤというのは銅矢のことである。銅の神様として矢の形にして祀っていたということである。竹から産まれたカグヤ姫は本当は竹ではなく、高すなわちカグから産まれた銅矢姫であったのかも知れない。
タカノ比売であるのに何故に無理して竹野比売と書くのかと不思議に思われる方もいられるのではなかろうか、これは竹から生まれたかぐや姫だからやはり竹野と書かないと具合悪かろうと、こう書いたのかも知れない。竹乃姫の遊びかも知れない。何もそうした伝承は残っていない。小地名にもない。しかし竹野比売という漢字を選んでいるのはあるいは彼女はかぐや姫だと知られていたためなのかも知れない。
 片目の鍜冶王の垂仁に丹後の四媛が嫁ぐ伝承がある。日葉酢媛と弟姫・歌凝媛・円野媛、弟媛はともかくこれらの名も金属と関係する名なのではなかろうか。
 大筒木垂根王の筒木は綴喜郡のことであろう。このあたりと木津川のあたりは何か丹後と関係があるであろう。丹後はこの辺りまで丹後ではなかったかとも思われる。低い山を一つ越えると大和国、その境までが丹後(丹波)であったかも知れない。またアホな事をいいよると思われるだろうが、次の新聞記事を見て下さい。
「丹後の礫床埋葬法、木津町で発見」

大浦半島:水銀地名の一番上へ


            

かぐや姫の伝説

ついでに書けば、丹後(丹波)のカグヤ姫についてはもう一つ文献がある。『山背国風土記』逸文「可茂社」の丹波国の神野かみのかみのかみのの神、伊可古夜日女いかこやひめいかこやひめいかこやひめである。何の神様とも定説はないようだが、イは厳であろうから、カコヤ姫であり、カグヤ姫であろう。「賀茂社」
神野神社(氷上町御油)
 神野は氷上郡の式内社・神野神社(左写真)であるといわれる。どこかで書いたと思うが、兵庫県氷上郡氷上町の桟敷さじきさじきさじきの加古川(カグ川か。下流を『古事記』は針間のの河と書いている)を挟んでの対岸、御油ごゆごゆごゆに鎮座している、賀茂明神とも呼ばれるそうである。油良という所も近くにあるが、これらのユは油碁理のユで湯、銅の溶けた湯を言うのでなかろうか。
「神野神社」(氷上町御油)


 桑田郡式内社にも神野神社がある。祭神は伊可古夜日女である。亀岡市宮前町の宮川神社(下写真)がそれだという。『南桑田郡誌』は、

 〈 字宮川にあり、伊賀古夜姫命、誉田別命を祀る。もと神野神社と云ひ、延喜式内社なりしと傳ふ。社傳に因れば、天正五年明智光秀の兵火に罹り、社地を現今の位置に移したりと云ふ。江戸時代に入り正保四年、享禄二年等に造営の事あり、明治六年村社に列す。  〉 
『京都府の地名』は、宮川神社(亀岡市宮前町)
 〈 神尾山の東麓にある宮川神社は、「延喜式」神名帳記載の桑田郡「神野(カムノ)神社」に比定される。祭神は伊賀古夜姫命・誉田別命。旧村社。社伝によれば、天正五年(一五七七)光秀の兵火にかかり、社地を神尾山中の八幡平より現在の場所にしたという。祭神が京都下鴨神社(現京都市左京区)の祭神玉依日売の母神という関係で、葵祭の行列に毎年当村より二〇名余の氏子が奉仕に出ることが習いとなっている。  〉 
神尾はカンノオと読む。
社前の案内板には

 〈 宮川神社(延喜式内社)宮前町宮川
祭神は伊賀古夜姫命、誉田別命の二神を祀る。
当社創建は文武天皇大宝年間(七〇一〜七〇八)山上に伊賀古夜姫命を鎮めたのが起源とされ、古くは神野山と称し延喜式にいう神野神社に比定される。また誉田別命(八幡大神)は欽明天皇三十二年(五七一)に宇佐八幡宮より神野山山中に遷し祀られたと伝えられ今に社地を八幡平という。天正五年(一五七七)明智光秀と波多野秀治の合戦の際両社とも焼失し、その後落雷不作が続いたので、正保四年(一六四七)山麓の現在地に社殿を移し二神をあわせ祀り、名称も宮川神社と改めたと伝えられる。伊賀古夜姫命は京都下賀茂(ママ)神社の祭神玉依姫命の母神であり、下賀茂神社と関係深く葵祭の行列は氏子青年が奉仕に参加している。  〉 
角川日本地名大辞典は、
 〈 宮川神社に比定される式内社神野神社がある。本殿の裏には巨大な磐境がある。地内の単立修験系神能山金輪寺はかつて100近い大堂小宇が建ち並んでいた寺で、今も各所に寺坊跡がみられる。国重文の五重塔がある。金輪寺裏山一帯は400mにわたる神尾山城址の各郭配備がみられ、丹波四大山城の1つに数えられている。  〉 
『竹取物語』(岩波文庫・阪倉篤義校訂)の補注に、

 〈 かぐや姫 山田孝雄博士は、これを「かぐや姫」と濁音によむようになったのは田中大秀の『竹取物語解』以後のことで、それ以前はすべて「かくや姫」であり、「赫奕」という漢語から出た名として、「かくや姫」と清んでよむべきだとされる。しかし中世の文献に徴して考えられる「かくや姫」という名が、果して博士の言われるごとく、この物語成立以来数百年の間行われて来たものであるかは、なお疑問であって、『古事記』の迦具夜比売との関係を積極的に否定すべき根拠もない。上代の文献に見える火神の「軻偶突智かぐつちかぐつちかぐつちの神」、また光を意味する「加我かがかがかがよふ」「やそ河礙かげかげかげ」「迦藝かぎかぎかぎろひ」など一連の語を考えると、これはもとやはり、光りかがやくという意味で「カグヤ姫」と名づけたと考えるべきではなかろうか(「ヤ」は恐らく木花佐久夜比売のヤと同じ語構成要素であろう)。なお、『新撰姓氏録』の右京皇別として讃岐氏の名が見え、また開化天皇の孫に讃岐垂根王があるが、その兄の子に迦具夜比売命があって垂仁天皇に娶された。竹取翁の名を讃岐の造としたことと、この姫の名を「かぐや姫」としたこととには、こうした関係があるのではないか、とされる。はやく、『竹取物語解』がこの考え方を示している。 .  〉 
『竹取物語』では、竹取の翁は、さかきの造、さるき、あるいは、さぬきの造麿とされている。
『古事記』によれば、丹後の竹野比売と開化の間に比古由牟須美命があり、その子に大筒木垂根王と讃岐垂根王がいた、大筒木垂根王の娘が迦具夜比売命である。
垂根はタリネと読む。鎌足のタリ、息長足姫尊のタラシと同じで尊称だろう。ネは朝鮮語でニムという尊称とされる。
『竹取物語』には車持の皇子というのも登場する。車持は高浜町の地名と同じでクラモチと読んでいる。これは私は本来はクラジと読み、オロチだろうと私は思っている。(あるいはクラ持で大穴持のように鉱山王)、金属神であり、おそらく本来は太陽神であろう。車持氏は金属神を祀ると共に太陽神信仰も持っていたと考えていいように思われる。そんなことで是非ともかぐやかぐや姫の物語にご登場願わねばならなかったのではなかろうか。
かぐや姫の物語は普通には磯砂山の羽衣伝説と同じ天人女房型に分類されるそうである、そんなことはいまさら言うまでもないそうである。竹野と磯砂山は同じ竹野川の川口と源である。同じ物語の別バージョンなのかも知れない。天の羽衣や不死の薬といったアイテムもこの物語には見られる。浦島太郎とも、水銀ともつながりがありそうである。
 かぐや姫は何か途方もない秘密を秘めていそうに思われる。
柳田国男を少し引いてみよう。
『昔話解説』に、

 〈 しかし此話の一つ前の傳ヘが瓜子姫子、即ち川上から流れて来た見事な瓜の中に、入って居た小さき神童であったことが解って、後には其誤りを悟って居たやうである。形は人間でも力は神であった人を理解する爲には、殆と必然的にその異常生誕と突如たる成長を考へなければならなかった。それが大陸の諸国に弘く行はれた金色の卵から、先祖が生れたといふ物語の根本の動機であり、降っては瓢に乗り又はうつぼ舟に閉籠められて、海の彼方から漂着したといふ言ひ傳ヘとなったことは、大抵は疑ひが無いのであるが、我国自身に於てもかぐや姫は竹の節の中に、光り耀いて居て竹取の翁に見出され、伊勢の斎宮の第一世は、玉蟲の如き形をして貴き小箱の中に姿を現じたまふとさへ傳へられる。古くも新しくも似たる例はなほ多いのであって、異なる點はたゞ童話として今の世までも、もてはやされるに至らなかったといふのみである。  〉 
『海神少童』は、

 〈 桃太郎は桃の中から、瓜子姫は瓜の中から、竹取物語の赫奕姫は竹の節の間から生れ出たといふのは、何れも最初は甚だしく小さかったことを意味して居たのである。此以外にも尚一つ、同じ系統の珍らしい例として、申し児が小さな蛇の形を以て生れ出たといふ昔話があるが、是などは蛇であるだけに人間よりも更に成長が目ざましかった。鉢に入れて置くと鉢に一杯になり、盥に入れて置くと盥に一杯になり、次には馬槽に入れて育てたといふ話もある。奈良の朝廷の代に出来た常陸風土記にも、努賀毘売(ぬかひめ)といふ婦人が神の児を生んで、それが小蛇の姿であったことを次の様に記して居る。
  即ち浄杯に盛りて壇を設けて安置す。一夜の間に已に杯中に満てり。更に甕(みか)を易へて置けば亦甕の内に満つ。此の如きこと三たび四たび云々。  〉 
『かぐやひめ』は、

 〈 かぐや姫といふ名前が、竹取物語の作者の創作であったか。或は其前からの民有であったかは、今でもまだ決し難い問題であるが、少なくともあの時代以後の日本語では、此名の起りは説明し得られない 多分は竹の中に輝り耀いて居たので、なよ竹のかぐや姫と呼ぶことにしたといふのであらうが、カガヤクといふ動詞からは、カクヤといふ語は作られさうに無い。物語の本文でも近世の流布本には、赫映姫だの赫夜姫だのと書いて居るが、さういふ漢語も亦有らうとは思はれぬのである。さうすると何か隠れたる因縁があって、竹取の翁の娘をかぐや姫といふ言ひ傳ヘが、もつと以前からあったとも考へられる。此昔話の後世の異傳では、姫の名を鶯姫と呼び、竹の林の鶯の巣の中の卵から、生れ出たといふものが多い。ところが臥雲日件録の文安四年二月六日の條に、或座頭の坊が富士の煙の由来譚として語ったといふ話は、竹取物語とは内容が丸でちがって居て、やはり姫の名を加久耶姫と謂って居る。参考の爲に其話をすると、昔天智天皇の御代に、富士山の麓の市へ、いつも老人が竹を賣りに来る。人怪んで其跡をつけて行くと、山の中に家があって、そこに非常に美しい娘と住んで居た。さうして翁が謂ふには、初め鶯の巣の中から小さな卵を得て来たのが、姿をかへて此娘となり、それを愛し育てて大きくしたといふことであった。後に帝妃となって名を加久耶姫といふ云々とあって、終りに此山の峯から登天したことになって居る。是と近い話は海道記にもあって、それには赫奕姫の字を用ゐて居るが、此方は竹取の翁を採竹翁とも書いて居るから、後に似合はしい漢字を宛てたに過ぎない。兎に角にかぐや姫の名は、他の種の昔話にも用ゐられて居た例があるのだから、或は竹取物語はたゞその古来の名を襲用して居るのかも知れぬのである。  〉 
柳田はかぐや姫が本来は太陽神だという事を理解していないのだろうか。何度も読み返すがそうした文章には出会わない。それとも日の子は天皇さんだけということになっているからと、知ってはいたが書かなかったのだろうか。その後の研究でもかぐや姫を太陽神とするものは管見にしてか見ない。そんなに古い所に根っこがあるとは考えていないだろうか。
光る竹の節間から三寸の小さ子で生まれて、彼女自身やその周囲まで暗いところなく光り満ちていた「屋のうちは暗き所なく光り満ちたり」「光みちて清らかにてゐたる人」であり、ぱっと明かりが消えるように影ににもなる。求婚者に求めた物は「仏の御石の鉢」「蓬莱の玉の枝」「火鼠の皮衣」「龍の頸の玉」「燕の子安貝」全部が光る物である。明るい満月の月の世界へ帰って行く。月の都の人と自らは語っているが、彼女を太陽神、あるいは光神と考えるよりは他にどんな解釈ができるだろうか。『海道記』のように鶯の卵から生まれたとしても同じで、箱や卵を朝鮮語ではアルと言うそうだが、それは日のことである。
「鶯姫」
かぐや姫は赫奕姫とか赫夜姫とも書かれる。こんな漢字を見ると新羅の始祖王・赫居世を思い起こす。カクキョセイと日本語では読まれているが、かぐや姫とはなにほどかのつながりがあるのではなかろうか。彼も卵生であり、体から光彩を放ったという。
「赫居世」
赫居世の居世は日本語のコソで、藤社ふじこそふじこそふじこそ神社(峰山町鱒留)や是社これこそこれこそこれこそ神社(福知山市下天津)、古曾戸こそとこそとこそと大明神(=二宮神社)(綾部市有岡町)、古曽戸之宮)(=木曾殿神社)(綾部市岡町)等に残るコソで、社の字が当ててあるように神社の意味に使われる。朝鮮語では様といった意味で現在でも使われるそうである。「将軍様」の様はコソというのではないかとそんな番組があるたびに耳を澄ますのであるが、私の語学力では聞き取れない。朝鮮にも長いこといらっしゃった私のロシア語の恩師は、「そう言いますと、朝鮮の女のシャーマンでしたな、ムニャムニャと祈りをいって、大きな声で最後にコソ!といいましたな。そのコソですな。」と話されたことがある。
赫居世はパルクヌイとかヒヨツコセと読むそうであるが、居世は本来は初・始の意味で始祖の意味、転じて王の尊称となったという。赫はアルで太陽のことであるそうである。駕洛の首露王にしても卵生だが、朝鮮の古い王はすべて太陽神である。日本もそうである。別に天皇さんに限らず、天皇とは成り得なかった各地の豪族の始祖もすべてそのように伝えられていたものと思われる。だから竹野姫系列の丹後の豪族、丹後の王家だろうが、それも始祖王は赫居世とおなじような人物と伝えられていたと思われる。油碁理が最初ということはない、彼は第N代目と思われるが、それら上代の王の系列はもう伝わらないのである。大和に抹殺されてしまったのだろうか。迦具夜比売命の存在によってかつては存在しただろうと若干の想像ができるというくらいである。
『三国遺事』(一然著)で訳者の金思火+華は解説で次のように書いている。

 〈 …遺事に載っている古説話は、たいがい高級神話(Hohere Mythologie)であって低級神話(NIEDERE M.)は少なく、国民神話(National M.)はあっても地方神話 (Local Myths)はないから、震域神話のもっとも古い原始態や、その生長発達をさぐるには、すこぶる物足りない点.があるのも事実であるが、しかし細心と炯眼の持主にとっては、皮下の内膜を、ある程度透視直観できるはずである。たとえば、一つの卵生についていうにしても、朱蒙のそれ、赫居世のそれ、脱解別伝のそれ、首露のそれなどにおいて、いくらかの地方色をうかがうことができるし、また壇君の熊母と金蛙の金色蛙形、閼智の黄金の箱、脱解の七宝櫃などが、すこぶる高級的かつ常識的に変化されているものの、その熊とか蛙とか櫃、盒などと称するものの母体は、もとはみな卵で表象される太陽であることは、容易に見抜けるはずである。同じ東明の説話にしても、国伝には卵としてあるのに、漢籍には日光となっている。同じ脱解伝のなかに、ある所では櫃といっているかと思うと、ある所では卵といっているし、また同じ首露の伝説の中にも、盒と卵とが同じものとして現れているなどはみなその証左である。そしてこのような古説話の種々の契機は、ただ『三国遣事』においてのみあまねく見られるのである。….  〉 
情けないことに節穴の目しか持ち合わせないが、ウロコが落ちる思いがする。朝鮮三国のというか四国以上だけれども、その始祖王伝説は丹後の伝説8に引いて起きます。
 始祖の生まれた卵は青色とか紫色をしていた、たぶん空の色なのでなかろうか、あるいは金の卵で太陽神と金属神が結びついていくようであるが、この経路をうまく説明したものは寡聞にしてかないように思う。よくわからないが以下は私の説である。
かぐや姫は本来は赫矢姫でなかろうかと思う。光り輝く矢、すなわち太陽光線を神格化したものがかぐや姫かと思う。神武記に三輪山の神が丹塗矢に化けて勢夜陀多良比売のホトをを突いた、そして生まれたのが富登多多良伊須須岐比売で神武の正妃である。丹塗矢、すなわち赤い矢も、彼女の赫矢も同じ太陽光線のことであろう。丹塗矢とも赫矢とも呼んだと思われる。赫矢から生まれたから赫矢姫なのではなかろうか。
銅をカグというのはそれが鉱石の中で光り輝いていたため、赫と呼んだと思われる。何と赫と読むのか朝鮮の学者の書いた物を読んでも説が分かれるので、日本語と同じようではなかったかと推測してではあるが、赫矢は本来は太陽光線だったのであろうが、銅金属の神ともなっていったと推測される。神武記の方では*タタラ*比売となっているのが、かぐや姫伝説のかぐや姫にあたる。かぐや姫はまたタタラ比売なのであろう。

人類の神様は古くは天の神様、太陽の神様だけではなかったのかと思う。こうしたものからやがて人類が金属を使えるようになると金属の神様が派生してきた。さらに農耕神がそののちに派生し、今では何でも一通りは何の神様でもあるようになった。のではなかろうか。だから古く遡ればすべて太陽神となってしまう。だからといって何でも太陽神に還元できるのかと言えば、そう単純化もできなくて、その時代時代に応じてその神の性格を考えて見なければならないのではなかろうかと思われる。
 たとえばオロチは今は水神と考えられて農耕の神となっているが、古くは金属神であった、八岐大蛇の尾から草薙の剣が出てくるのは八岐大蛇が金属神だからである。さらにもっと古くは太陽神であった。三輪山の小蛇こをろちこをろちこをろちは崇神紀によれば櫛笥くしげくしげくしげに入っていたというから、太陽神の姿を残していると思われる。ヘビが太陽の表徴であることは人類共通の文化と思われる。
同じような性格の変化はかぐや姫の身にも起こったのだろう。かぐや姫は本来はまちがいなく太陽神であった、やがて時代が下って銅や金属の神様にもなったと思われるのである。
しかしそうした明確な説話は残らない。祀られている場や祭神の関係などの破片からそんなことが類推されるのである。壷の破片が一つ見つかれば、全体がみつからなくともベテランの学術員にはだいたい全体の復元可能なのと同じである。現在は農耕神になっているし、安産の神様とかいろいろと御利益が説かれる。
火明命もそうであろうし、そのほかの古い太陽神の伝承を引く神々も同様の性格上の転化を経てきたのではなかろうか。太陽か金属か農耕かどっちか、といった問題なのでなく、そうした過去を経てきて地層のように積み重なっている。


さてもう一つ、カグヤ姫がいるなら、カグヤ彦というのもいていいではないかと思う。これもいる。先のカグは脱落して弥彦神社(越後一宮)である。弥彦はフルネームはカグヤ彦であろうか。大江山の酒呑童子の出生地とも伝わる社であり、丹後とも深い関わりがあるのでなかろうか。
私は訪ねたこともないが、『西丹波秘境の旅』は、

 〈 越後一の宮の弥彦神社の祭神は天火明命の子神の天籠山命であるが、この神もウドで目を突いた片目の産鉄産銅神(天目一個神)である。  〉 
弥彦神ははじめ熊野に住んでいて、高倉下命と申したと社伝にあるそうである。
「弥彦神社」

イヤヒコ・イヤヒメとイヤ神社はどうであろうか。伊也神社(綾部市広瀬町)
伊也神社(何鹿郡式内社)が鎮座する所は後の山家城趾であって、どうやって行けばいいんだと頭を痛めるような、人の近づきがたい場所にある。今は国道から車で簡単に行けるが、この道がなければ無理とあきらめたくなるような場所である。写真でも見えると思うが神社社殿を圧する巨岩の下にある。もともとはここでなくもう少し東にあったそうである。『綾部市史上』は、

 〈  綾部の伝承 綾部市内には日子坐王・丹波道主命に関係のある伝承をもつ神社が二つある。その一つは上杉町の八坂神社である。祭神は素戔鳴尊・大己貴尊・少彦名命。受持之神で、昔は飯宮(はんのみや)大明神と称した。社伝によると崇神天皇の十年秋、丹波国青葉山に玖賀耳という強賊がいて良民を苦しめるので、勅命を受けた日子坐王・丹波道主命が軍をひきいてきたところ、丹波国麻多之東において毒蛇にかまれ進むことができなくなった。時に天より声があったので、素戔鳴尊ほか三神をまつったところ験があって病がなおり、首尾よく賊を平げることができた。帰途、この地に素戔鳴尊と諸神をまつったのに由来するというのである。(飯宮由来記)前に記した『丹後風土記』の記事と符合する伝説である。八坂神社には、「永久五酉稔(一一一七)三月総社麻多波牟官神」の銘のある神鏡が伝わっていたから、平安時代には八田郷の総社であったと思われる。
 もう一つは広瀬町の伊也神社である。ここには、「崇神天皇の御代丹波道主命本郡に来り 甲ケ峯の麓に宮を築き天照大神 素戔鳴尊 月読尊の三神を崇敬し神社にまつった」という伝承がある。
 これらの伝承からみて、この地方には古くから丹波道主命父子による丹波の平定が信じられていたと考えられる。
  〉 








もう一つ、カグはカゲと転訛しないだろうか。加佐郡式内社・弥加宜神社のカケはカグなのかも知れない。やそ河礙かげかげかげのカゲ。
御影石といえば神戸市東灘区の御影のあたりで採れる花崗岩をそう呼ぶのだが、花崗岩とカゲはかんけいがありそうである。下鴨神社の御蔭祭。御蔭山の御蔭神社から祭神の玉依姫と賀茂別雷命を迎える祭礼である。住所は左京区上高野。どうもこれはいい筋をいっているのかも知れない。
しかしこれはこれで新たにページを立てる予定です。
弥加宜神社はミカゲと呼んでいる。残欠の杜坐彌加宜社、「室尾山観音寺神名帳」の正三位御陰明神でなかろうかと思われるが、宜の字はギであってゲとは読まない。ミカギ神社と書かれているのである。古くはミカゲ谷と呼ばれる所にあったと伝わるから、弥加宜はミカゲと読むのだろうと思われる。何でこんなことを書くかといえば、カギもカグの転訛でないかと思うからである。西舞鶴駅前の「スーパーさとう」の駐車場あたりから西側高野川にかけての地は、天香山の東麓であるが、引土の鍵という所である。宮津市波路の鍵守神社などのカギもあるいはそうかも知れない。

大浦半島:水銀地名の一番上へ


               

宮廷画師・巨勢金岡の伝説
『丹哥府志(巻之九)』に、

 〈 ◎赤野村(平村の次)
【巨勢金岡之旧跡】(赤野村の次、喜多村の下)
巨勢金岡は貞観中神泉苑の監となる(菅家文章)、或は曰官大納言に至るといふ、図を能くするを以て当時に称せらる。元慶四年宇多帝勅して紫宸殿の障子に聖賢の画を書かしむ、所謂賢聖の障子なり(扶桑略記)、最図馬を善す、帝の仁和寺に移るに及びて馬を殿壁に図かしむ、其馬夜出て稲を喰ふ、後に其図馬の蹄を見るに果して泥あり、よって試に其眼睛を刳る、於是其図馬の出る止ぬと、これ等は世の重に伝称する所なり(著聞集)。子三人あり兄を相覧といふ、次を公野といふ、次を公忠といふ、公野の子に淘江あり、淘江の子に弘高あり、皆図を善す、弘高以下は肇価稍々衰ふといふ、花鳥余情に雅麗記を引て金岡の山を図く十五層に至る然して其遠近濃淡極て其態を尽せり、弘高は蓋五層に過ずと云々。丹後旧記に云。加佐郡志楽の庄赤野村は巨勢金岡の旧領なり、其館舎の跡なりとて今田間に残る、蓋爰に居るを以て金岡の図丹後に多し、金岡の丹後に居る国史に見へずといへども蓋著聞集に明に其事を載せたり。
 【付録】(荒神)  〉 
金岡の屋敷跡といわれるのが、現在も浄土寺と小字となって残っている。多禰寺への登り口である。古くは天台宗の寺院であったという。尚現在西舞鶴の愛宕山麓の新町にある浄土寺はここから移転したものである。浄土寺山門(舞鶴市新町)

彼の描いた絵から虎が出てきたとか、馬が夜な夜な散歩したという話は全国にある。舞鶴では円隆寺(引土)に伝わる。
「巨勢金岡の絵」
「実在の人物」


柱松の神事を伝える地名。

 柳田国男は神樹編ほかにいろいろと柱松神事について触れている。「丹後加佐郡西大浦村大字赤野柱松」の小字も拾っている。
 確かに赤野の小字名には、柱松はしらまつはしらまつはしらまつがある。この地名が残るということは、今は行われていないが、かつては、この地の華やかなりし、中世の時代には、この地でも豪壮な柱松神事が行われていたと考えられる。城下町ができるまではこの地もかなり繁栄した地と思われる。多祢寺や河辺中八幡神社には大般若経600巻が伝わるそうである、般若は鬼ではないのか。金属と関係のある話ではなかろうかと思ったりもするが、現在の所は何もそんな話は聞かない。上佐波賀のさらに東側山腹に鬼ケ城古墳がある。

柱松神事は、舞鶴では高野城屋の雨引神社の揚松明あげたいまつあげたいまつあげたいまつと呼ばれているものが現在に残り、有名である。どんな祭事かは、そちらを見て下さい。「城屋の揚松明神事」等。
祢布と女布、柱松と揚松明。…。赤野と高野には未だ知られない何か深い関係があるのかも知れない。

 タイとかタイラ(ダイラ・タヒラ)という地名は、たいらな場所とかいう意味ではなく、何か鉱山と関係がありそうに私は考えている。ここは鉱山だろう、という地によくこのタイラ・タイの地名がある。どうしたことかはわからないが帰納的な感として、そんなことが言える。

 先の蘇斯岐屯倉でいえば、丹波でほかに候補地を考えるとすれば、兵庫県氷上郡氷上町桟敷さじきさじきさじき(下写真)であろうか。蘇斯岐の遺称地名とすればこうなるかも知れない(京都市北区にに桟敷岳があるがここはわからない)。この氷上町桟敷の加古川を挟んでの向かいが田井である。氷上町のあたりは崇神紀の氷香戸辺とか『播磨風土記』の冰上刀売の根拠地ではなかろうかと思われるが、金属と関係のありそうな話である。氷上町桟敷

こんな事を書いていて、また何度もそんな例に出会った。そしてとうとうと言うのか、ようやくと言うのか、はたと心づいた。タタラ→タイラ(ダイラ・タヒラ)→タイ(かも知れない)。大浦半島の平、この引揚で全国的に有名な地名は、もとはタタラであっただろう。テレビドラマ義経の敵役の平家もやはり本来はタタラ氏なのではなかろうか。
 平の北東、日本海に面する所に田井という聚落がある。ここは現在は漁師の村であり、そうとしか考えられてもいないようだけれども、北の鞍道(鞍内)浦(現在の黒地湾)から移ってきたのではなかろうか。そこには若狭国神名帳正五位の鞍道明神が鎮座していた。この社は金属神のクラジを祀っていたのではなかろうか。田井はやはりタタラである可能性がある。成生神社の境内社に三柱神社があるが、これも葛島神社も艮の方向にある平という地にあったという。
 ではダイラの地名も周辺にあるだろうか。あるのだ、このあたりが地名の面白い所で、とりつかれるとやめられなくなってくる。大浦と内浦。いずれもダイラと読めるではないか。平と大浦は同じタタラだと言った人はだれもいない。たぶん私が最初であろう。しかし内浦は意外にも考えた人があったかも知れない。鞍道明神を内浦湾神野浦に比定した『大飯郡誌』はあるいはそこまで考えていたかも知れない。クラジもウチウラも同じだと。もっとも大浦はあるいは多浦で若狭の多氏と関係のある地名かも知れないが。
古代のこの地の歴史の復元に私は細い頼りない道しかつけることができない。いつの日にか発掘がすすめば、あるいはこの説は実証されるかも知れない。
「周防柱松」 「柱松」 「柱松」 「柱松制作」 「周防祖生の柱松」 「都井岬火まつり伝説」 「城屋の揚松明」 
「アルバム・揚松明神事」「揚松明の伝説」

坪の内遺跡(舞鶴市平)。縄文後期〜中世の遺跡。椋森神社のすこし下手であるが縄文遺跡があるのは東舞鶴では大浦半島だけである。舞鶴では由良川筋と大浦半島が縄文文化の中心地である。そこは後の海人・凡海の地であり、そこに三宅ができ、さらに時代が下ると志楽と名を変えたと私は考えている。大浦にはまだまだいまだ埋もれた知られざる大事な遺跡が数多く残されていることだろうと思われる。

大浦半島:水銀地名


石崎坐三輪社(舞鶴市瀬崎)

タネの地名は大田田根子の大和一宮・三輪神社と何か関係があるのではなかろうかと推測したくなる。ところが驚くことに、ここには三輪社がある。

残欠に、石崎坐三輪社が見える。石崎というのは二石崎のことであろう、現在の瀬崎である。浦入からなら、北へ密柑山の峠を越えた(今はトンネルがある)日本海に面する三〇戸足らずの浦である。瀬崎八幡神社(舞鶴市瀬崎)

『丹後国加佐郡寺社町在旧起』に、
 瀬崎村
   正八幡宮、氏神。三輪明神社有。


『丹後旧語集』に、
 瀬崎村
  一、正八幡宮
    三輪明神 氏神也 神子田中村ヨリツトメル


 現在はここの八幡神社(写真)に合祀されているようである。たぶん明治の合祀でかくなったのではなかろうか。『加佐郡誌』に、
  八幡神社 祭神 誉田別尊・大物主命・菅原道真
とある。大物主命が大和三輪山の祭神である。大物主命は大国主命=大穴持命=大己貴命=…の別名といわれて、出雲神話の主神とされる。
『古代の鉄と神々』(真弓常忠著)では、三輪山こそ大己貴神の発祥の地とされる所である、氏は大物主神のモノとは鉄のこととされている。三輪山は斑糲岩でできているそうだが、大浦半島も斑糲岩である。下の写真の青石がその系統の変成岩と思われる。

『丹後風土記残欠』に記事がある。

 〈 二石崎
 二石崎は古老伝えて曰く、往昔、天下平治の時に当たり、大己貴命と少彦名命斯地に致り坐して、二神相議り坐します、白と黒の繊砂を把り、更に天火明命を召し、詔して曰く、此石は是れ吾分霊也、汝命は宜しく斯地に奉祭れ、然れば則ち天地之共、波浪鴻荒たりと雖も、ツユ邦内を犯すことなくる。天火明命は詔に随い、其霊石を崇きたまう。則ち左右黒白に分れて神験有り。今にたがへず。故に其地を名つげて二石崎と曰う。後世土俗言瀬崎は誤りなり。(以下四行虫食)(原漢文) 二石崎の石浜(舞鶴市瀬崎)
 こんな記事が残るということは過去には何か大切に記憶された場所だったのだろう。偽書とされたりもしながらも、この条文はよく諸論文に引かれる全国的に意外と有名な所である。
 ちゃんと大己貴命=大物主命が登場するのが面白い。以下四行虫食とは何とも残念に思う。ここに三輪社の記事があったろうと思えるが、もう永遠に読むことはできない。未来の超すぐれた史家がほかの道から何とか復元するかも知れないのを待つより方法がない。
 上の写真はその「白黒の石が分かれて、今にたがへずの所」を写している。現実にはこの通りに丸い人の頭くらいの茶色石と青石である。茶色石は花崗岩であり、青色石はたぶん蛇紋岩の系統だと思う。大浦半島の北ベリは丹後半島の花崗岩であり、南側は蛇紋岩である。上の写真の先に見えるのは博奕岬で全半島が花崗岩である。舞鶴の周辺では花崗岩といえばこちら側の海に面した所にしかない。田辺城の石垣もここの花崗岩を使っているそうである。

 大己貴命と少彦名命がここでは海神の性格を持つことがわかる。『播磨風土記』によれば、火明命は大己貴神の子となっていて、火明命も海神の性格をもつことが描かれる。ここの火明命は丹後海部氏の祖神としてであろうか。火明命は多くの古代氏族の始祖であり、海峡を挟んだ青井の結城神社(伊吹戸神社)を祀った伊福部氏もそうである。因幡国法美郡の郡領・伊福部臣氏の『因幡国伊福部臣古志』によれば、火明命の父は大己貴命である。

ア!と思わず叫んでしまった。残欠はこの石の信仰を残欠なりに説明しているのだ。瀬崎八幡神社の社殿そのものはそんなに古いわけがなく、さほど興味はない。広くはない境内をぐるっと見渡してみると、写真の光景が飛び込んできた。アっ、大己貴命と少彦名命の分霊とされる白黒の二石は今も祀られている(写真中下。八幡神社の境内で)。瀬崎八幡の丸石

 下の写真は神社の入口のタモの木の下のもの、新たに組み直したような感じであるが、中の写真は古そうに思う。残欠以前、奈良期以前にさかのぼる祭祀であろうか。これがこの地の古来の信仰なのであろう。今のような社殿ができる以前はこの石の前で祭が行われていたと思われる、これは古代祭祀の遺跡であろう。(国宝級の文化財ではないか。明治末の「赤レンガ倉庫」(赤レンガ倉庫などという呼び方はおかしい。自衛艦を鉄の船と呼ぶようなものである。無歴史的、無社会的な若いというか幼稚なお子ちゃまの呼び方である。瀬崎八幡の丸石意図してあえてそうして負の過去を抹殺するために呼ぶのなら別だが、普通の社会人ならば旧舞鶴鎮守府倉庫とか旧海軍倉庫とか呼ぶべきものであろう。メディアは旧海軍の「赤レンガ倉庫」とかカッコを付けているのがあるが、それが正解ではなかろうかと思う)、それが世界遺産級だといったオーバーな話を聞くと、当方までうっかりとつられて馬鹿げた事を言ってしまいそうだが、残欠にすでに記載されたものでもあり、その丸石だけでなく、テーブル状の支石墓的な作りも気になる。中央の一番大きな板状の石は85センチ×55センチ。支石にコンクリートブロックが使われているものもあるが、碁盤状支石墓よりも古い北方型の支石墓を彷彿させられるのである、もしこの下に埋葬施設があれば、縄文時代のものなのかも知れない、残欠よりももっともっと途方もなく古い渡来の海人の歴史を秘めているかも知れない。市の文化財くらいの値打ちは十分にあるだろう。ツブされたり盗まれたりしない内に保護されよ。それからもう一つ気になるのは両墓制の埋墓に上に平たい板状の石を置いているのがある。あれも支石墓を思い起こさせられる。何か関係があるのかも知れない。 )

「瀬崎の丸石信仰」(この丸石を荒神様とよぶ)
「多根神社」(島根県飯石郡掛合町上多根・飯石郡多禰郷の地)
     「瀬崎港」(保安庁による航空写真。二石崎の伝説は左手に見えるカーブする手前あたりの石の浜である。白黒二つに分かれている様子はこの写真ではよく見えない。吉田東伍説を思い起こさせられる写真だが、あるいは水辺が曲がって
水輪みわみわみわから三輪になったかも知れないが、そうした水輪地名は丹後周辺にはなく、やはり三輪社の三輪であろうと思う。)

『元初の最高神と大和朝廷の元始』(海部穀定著)は、

 〈 石崎坐三輪社は、その社記に、既に奈良期に、与謝郡へ遷し祭られたと見えており、…  〉 
としている。
勘注系図の海部直千嶋祝の注文に、「壬戌年秋八月、熱田大神於三輪社斎奉矣」とある。この三輪社とはどこの三輪社かわからないが、なぜそこで熱田大神を齋奉したのであろう。たぶん与謝郡へ遷った三輪社であろうと思えるのだが、時期的に判断しにくい時になる。ここの三輪社かも知れない。三輪社は海部氏と何か因縁がありそうな記事であるが、これ以上はわからない。

 与謝郡の三輪社は岩滝町弓木の木積神社にある(式内社ともされる)、木積神社(岩滝町)の神額下の写真はその扁額。谷の向かいに式内社物部神社が鎮座する、ここは与謝郡物部郷の地だと思われる。社前を流れる野田川をさかのぼると七仏薬師伝説の施薬寺(加悦町滝)である。与謝蕪村ゆかりの寺としても知られる。
 与謝郡式内社・杉末神社も大物主神を祀っている(江戸期くらいには宮津市宮町の宮津祭でおなじみの日吉神社の境内社になっている)。『与謝郡誌』に、

 〈 (日吉神社の)境内摂社に杉末紳社あり社格は村社にて祭紳大物主命相殿大已貴命少彦名命、敏達元年大和三諸山より奉遷翌癸巳四月六日官幣を奉ると傳へ延喜の制竝小社に列す  〉 
同市を東へ栗田小田宿野に七仏薬師伝説の医王山成願寺がある。
 『竹野郡誌』によれば、竹野郡弥栄町吉沢にも三輪社がある。

 〈 三輪神社 無格社 字吉沢小字ニガラミ鎮座
 (神社明細帳) 祭神 大物主神
  創立年月許かならす、天保三年十一月再建せりと云ふ、. 七仏薬師伝説の大平山等楽寺(同町等楽寺)の西側4キロばかりの所である。成相寺の鋳鉄製湯船は元はこの寺のものである。成相寺の鉄湯船
若狭にもミワ神社があった。遠敷郡式内社・弥和神社(小浜市加茂)。丹波にも何社かある。

問題はなぜに瀬崎に三輪社があるのかという点である。ここに住む友人の話では、「瀬崎は舞鶴とちゃいます、シベリアです」とのことであったが、今は道路がよくなり、楽に行き来できるようになっている。高速なみの道路を走れば、そのどんつきが二石浜である。以前は市街からはエッチラコッチラと片道ゆうに一時間はかかったものである。

シベリアみたいな所に、どうして三輪社があるのだろうか。未だ知られざる大事な歴史が潜んでいそうである。製塩土器も出土している地ではあるが、恐らく金属が潜んでいるであろうと思う、大田田根子族が開発した鉄であろうかとも思える。日子坐王の玖賀耳御笠の征服事業と関係がある社かも知れない。崇神もこの地の鉄をねらって日子坐王を派遣している。大田田根子の一派がついてきていたのでないかと想像する。
 二石崎の白石は花崗岩で黒石は蛇紋岩と私は見た、ド素人ゆえに当てにはならないので、調べて見ると白石は正解であったが、黒石は輝緑石というそうである。玄武岩とハンレイ岩の間の半深成岩で、青色の部分は石英、茶色の部分角閃石、黒い部分は磁鉄鉱等不透明鉱物だそうである。どうせ変成岩だろうから蛇紋岩でもいいかも知れない。磁鉄鉱なら砂鉄だ。ヤマ師のような事を言えば、こんな所なら鉱物がありそうだ、先の「鉱物誌」の瀬崎には、黄鉄鉱、硫砒鉄鉱、ジュルコンなど結構多く見られる。

先に引いた残欠記事は、長浜宇平氏により「丹後史料叢書」の劈頭に掲げられたもので智海が写したというものである。ところが残欠はこの他にも写本が残されている、同じ「叢書」には、六人部是香の校正になる「校正古丹後風土記」も掲げられている。それによると「白と黒の繊砂を把り」の所が「白と黒の鉄砂を把り」となっている、出石神社に伝わる残欠もそうあるという。
単なる砂か、それとも鉄なのか、一字の違いで記事の重要度がガラっと違ってしまう。どちらが正しいのか私にわかるわけもないのであるが、あるいはマサゴではなく、砂鉄かも知れないのである。
 大己貴神は、残欠では志楽郷の冒頭と枯木浦・冠島にもう一度登場する。大浦半島の取り巻く海を守護する海神のようにも思われるが、製鉄の神の性格が隠されているのかも知れない。この半島の製鉄開発主体は三輪系大和系なのか、それとも出雲系なのか。これは引土の出雲社と同じで、私には答える力量がないのであるが、火明命を始祖とする海部系であるかも知れない。
 大己貴神は大穴持とも呼ばれる、大きな鉱山を持つ者という意味ともいわれるし、少彦名は砂鉄の象徴とも言われる。鉄砂ならば鉄鉱山にかかわる伝承かもしれないのである。『播磨風土記』によれば、大汝命の子・火明命は強情で行状も非常にたけだけしかった、父親は思い悩んで、棄てて逃れようとした。火明命は風波を起こして、逃げる父親の舟を打ち壊したとある。火明命は大己貴神の子であり、海神として描かれている。父親がそうであれば、火明命も一面では鉄と関係のある神であったと思われる。
瀬崎には人形浄瑠璃が伝わっていた。『舞鶴の民話』に、

 〈 八幡神社脇には観音堂があって、西国三十三ヶ所観音様が勢ぞろいしています。幕藩時代の頃、瀬崎の人たちにとって最大の楽しみは人形浄瑠璃でした。現在四十の頭と衣装が残り、瀬崎人形浄瑠璃の名が、近隣にまで聞こえ、あちこちから招きがあったという。明治三十七年の火災で民家とともに観音堂も焼けて、人形浄瑠璃の上演は二度となかった。この人形は阿波人形の系統である。衣装は、若狭、丹後の織物であり、その地方と織物の上で関係があるのではなかったかと古老は語ってくれた。  〉 
残欠には石崎坐三輪社とあって、この記述からだと加佐郡にはほかにも○○坐三輪社があったのではないかとも思われる。加佐郡内に三輪社が一社しかなければ、わざわざ石崎坐と限定する必要はないと思われる。多分ほかの地にも三輪社があったのではなかろうか。もしあったとすれば、それはどこだろう。
 そうした名の神社か大物主神を祀る神社があればいいのだが、どうもうまく見つからない。三輪山伝説風の伝説が伝わる土地がある。いくつかあるが、舞鶴市岡安の「池ケ首」伝説をひいておこう。朝来川の上流になり、大物主神を祀る社もある。河辺八幡宮にも大物主神は祀られている。朝来坐三輪社や河辺坐三輪社もあったかも知れない。



関係があるかも知れないような文献を拾っておけば、神功皇后紀、仲哀の九年九月に、軍兵の集まりが悪かったので、大三輪社を建てて、刀・矛を奉ると、軍兵は自ずから集まったという。筑前国風土記逸文にも同じような話があり、大三輪社を立てて遂に新羅を征服したという。瀬崎の三輪社は、あるいはこうした記事に関係がある社なのかも知れない。あるいは瀬崎も神功皇后が祀ったものかも知れない。
 尚、奈良県桜井市三輪に鎮座する大和一宮は正式には大神おおみわおおみわおおみわ神社と呼ばれる。
但馬一宮・粟鹿神社には古事記より古く和銅元年の成立といわれる『粟鹿大神元記』が伝わる。この神社の祭祀者は日子坐王の後裔とする日下部氏の以前はミワ氏であり、「古代氏族の系譜−ミワ氏族の移住と隆替−」(田中卓氏『日本国家成立と諸氏族』所収)によれば、次のようなことが書かれているそうである。

 〈 …この神部氏の系譜の伝へるところを信ずれば、同氏はもとミワ氏と祖先を同じくするが、先づ、崇神天皇の御世、大田田祢古命の子の大多彦命が命を承けて、国々の荒ぶる人等を平服せしめむがため、大国主神の術魂・荒魂を桙・楯・太刀・鏡に取着けて西国に出征し、但馬国朝来郡の粟鹿村に宿住したといふのである。…
その後、成務天皇の御世、武押雲命の孫の速日が、粟鹿大神を拝祭するが故に神部直の姓を賜ひ、また但馬国の国造に定められたといふ。但馬国造については日下部氏との関係があり、後述するが、この頃に当地方における祭政両面の権威を確立したことが察せられ、殊に系譜によれば、速日および子の忍が共に物部連小事の女を娶ってゐるらしいから、物部氏と結ぶことによってこの氏の勢力は更に増大したことであらう。そしてそれは次代の忍が神功皇后の新羅征伐に但馬国の人民を率ゐて参加したといふ所伝とも照応する。新羅征伐にいかなる氏族が参加したかといふことは、重要にして興味ある問題であるが、別に詳しく之を論ずる機会があるので、ここには割愛する。
しかし、本書によってミワ支族が"粟鹿大神の荒術魂を船鼻に取着けて"百済に赴いたといふ所伝の知られることは、実に珍重としなければならず、之は神功皇后摂政前紀の「令諸国船舶兵甲。時軍卒難V集。皇后曰、必神心焉。則立大三輪社。以奉刀矛矣。軍衆自聚。」といふ所伝とも、恐らく内面的に関連するところがあるであらう.そして事実において、粟鹿神社の摂社に住吉大神を祭る社があり、lこの社の下は古墳らしい 。両者の関係の密接であることを物語ってゐる。…  〉 

 〈 成立年代は和銅元年といふ本書奥書の年紀にふさはしく、疑ふべき積極的な理由の存しないことを詳述し、貴重なる本書の内容を基にして、ミワ支族たる神部氏が、崇神天皇の御世、山陰道但馬国へ移住し、粟鹿大神を奉祭して発展するが、やがて日下部氏興隆の前に、旧豪族としての地位を失ふに至ったといふ、一古代氏族盛衰の運命を明らかにしようとしたのであった。それは、一方において、天武天皇の御世を頂点とする対国造(豪族)政策の一面を、具体的に考へしめる結果となった。しかし、何分取扱った史料が和銅の原撰といふ希代の、しかも従来学界に殆ど知られなかった古記であって、非力なる私の文献批判が、果して識者の賛同をいただけるか否か、疑はしい切に御叱正を乞ふ次第である。粟鹿神社(朝来郡山東町)
  〉 
専門家でも自信のもてないような物は私にはどうにもならない。すべて田中氏を引くより手はない。この書には『粟鹿大神元記』全文があるので興味ある方は読んで下さい。
どうやら石崎坐三輪社はずいぶんと古い歴史があるのではなかろうか。日子坐王の系統が新技術を持っていたのであろうか、大和でも最も古いのでなかろうかとされる三輪氏の系統は古い技術だったと思われる。こんなに古い時代でも技術革新に遅れると負けるのであろうか。その時のちょっとばかりの優位に胡座をかいて、日々努力して自らを更新していないと、厳しい結果となる。
 上の写真は粟鹿神社本殿。裏の小高い丘が日子坐王の墳墓という。当神社の「粟鹿神社由来」の碑には次のように書かれている。

 〈 粟鹿神社由来
人皇第十代崇神天皇の御宇、皇威未だ及ばざる地方に皇族四道将軍を派遣し、大八洲を平定して大和朝廷の基礎を確立したまう。即ち人皇第九代開化天皇第三皇子日子坐王その四道将軍として崇神天皇の勅を挙け山陰北陸の要衝丹波道主に任ぜられ玖賀耳三笠等の豪族を討伐し丹波道一円を征定治績を挙げ大いに皇威を振作して天皇の綸旨に答う。粟鹿山麓の粟鹿の郷に王の薨去終焉の地にして粟鹿神社裏二重湟現在の本殿後方の円墳は王埋処の史跡なり 維時 昭和四十四年六月吉日  〉 
大浦半島:水銀地名


凡海郷の冠島と沓島(大浦半島沖)

加佐郡には凡海おおしあまおおしあまおおしあま郷があった。瀬崎から北の海を見れば、そこに大きな島があって、それが凡海郷である、大宝元年の大地震で沈み、島の高い山だけが海上に残った。それが冠島沓島の二つの島である。と残欠は言う。

 ウソーッとされる、偽作だろうと。ご先祖が残してくれた丹後のせっかくのアトランティスは身も蓋もなく否定される。夢なき人びとの群れ。科学万能とかで夢を失った。たいした科学でもありもしないのに。汝らには明日の郷土は築けまい。ご先祖様が草場の蔭で嘆いておられることであろう。

 下の写真がその二つの島である。右手(南側。陸側)が冠島、左手の沖側が沓島と呼ばれる。たまたま通りかかったフェリーも写ったが、舞鶴・小樽間を結ぶ。沓島(左)と冠島(右)

 二つの島は無人島である。冠島は天然記念物のオオミズナギドリの生息地で、上陸は禁止されている。沓島は正確には二つに分かれた屹立する岩壁ばかりの島(々)であり、ロッククライミングのできる人でない限りは上陸は無理であろう。十階建てくらいのマンションの高さは絶対にある。上陸しても平らな所はないのではないかと思える、木も生えていないようである。下の魚釣り船からの観測であるから、もちろん正確ではない。この海で採れる海の幸

 冠島も周囲は岩壁であるが、見て貰った通りに南側だけは上陸できる場所が少しある。両島の間は2キロばかりある。フェリーの写っている所は少し浅くなっており、引き潮の時だけの現れる、中つグリがある。沓島の北に大グリと呼ばれる浅い所があり、中つグリ・沓島・大グリが一つの塊である。

島の周囲は好漁場になっている。ここならウンとウデ次第で、1メートルの鯛も釣れる、ブリも釣れることがある、ツバス→ハマチ→メジロ→マルゴ→ブリ(4年魚)と舞鶴辺りでは名を変える出世魚であるが、季節に応じてどれかが釣れる。
松葉ガニは、ここよりもう少し沖の深い所にいる。鮮魚もよろしいが舞鶴名物は蒲鉾。これは絶品中の絶品、オーバーに言えば世界一おいしい蒲鉾、こちらに寄られたらおみやげにどうぞ。私は別に宣伝料をもらっているわけではありませんが、おすすめします。

「冠島・沓島」 「オオミズナギドリ」

「冠島・沓島」 「二万五千分の一の地図」 「冠島の自然の風景」
「雄島参り」 「沈んだ島」 「オオミズナギドリ」


冠島地形図(舞鶴市誌)
オオミズナギドリと冠島(観光パンフより)
絶滅危惧種の指定もあるかも知れない、府の鳥のオオミズナギトリ(大水薙鳥)は渡り鳥で、冬が近くなる10月の末ころ、南の海へ飛び立つ、ニューギニアあたりで越冬するという、この時によく市内へも落ちる。鳥のくせに飛ぶことがヘタクソで、一度落ちると今度は飛び上がれない。
海上なら水面を走りそれを滑走路にして飛び上がるが、平らな地面の上ではうまくいかないようである。走り廻って逃げるのを嘴につつかれながら捕まえ保護した人も多いことと思う。迷走脱線するのは11ヶ月の経験もない幼鳥らしいが、舞鶴周辺に毎年100羽くらい落ちるという。降りるのもヘタクソで降りてくるというよりもドンと音をたてて落ちてくるそうである。空母に艦載機が落下してくるようなものである。
 2月末くらいには帰ってくるが、沿岸には近寄らない鳥なので陸地に住む人々は目にする機会はあまりない。鯖の居場所を教えるのでサバドリとも呼ばれるが、「アホな鳥で…」と漁師さんは言うが、ちとアホとちゃうかいナとも思えるようなところがあり、アホウドリとも呼ばれるそうである。本物のアホウドリ(信天翁)とは分類学上でも親戚である。
猿のくせしてに木登りがヘタクソな「携帯をもったアホウザル」の命名であるので、この鳥が誠にアホウな鳥なのかどうかはわからない。彼らは「お前らよりはちとマシじゃわい」と思っているかも知れない。
 魚の居所を教えてくれるために漁師にはありがたい鳥といわれ、保護されてきたそうである。  「さば鳥と鴎」
冠島
冠と沓、島の形からそう名付けられたといわれる。私にはそうは見えない。巨大な亀が沖へ向けて泳いでいるように見える。私は密かにガメラ島とあだ名を奉った。ついでに沓島にはモスラ(幼虫)島と。
 大島さん小島さんなどといった親しみよりも、何かとてつもなく巨大なモノのモノ恐ろしい気配を感じる。古代の人びともそう感じてここに海の神々を祀ったのであろうか。
「現代に生きる冠島の古代信仰」(『海と列島文化2』所収)は、

 〈 冠島、沓島という呼称は、死後、冠や沓を残して登仙とうせんとうせんとうせんし、神仙となり遺体をあとに残さない道教仙術の方法「尸解しかいしかいしかい」からきたとみられ、二つの島は、神仙世界への接点とみなされたことから、常世島と呼ばれたのであろう。  〉 
としている。立神岩
 上右の写真は航空写真だから、たぶん保安庁のものだと思うのだが、どこからコピーしたものかわからくなってしまった。島の北側上空から写しているのだが、よく見てもらうと、亀の頭の向かって右側に、島からは少し離れて、海中から柱のように突っ立ている先の尖った岩があるのがおわかり頂けるだろうか。その手前に白い点のように見えるのは釣り船で、それと比べてもらうと、その大きさがおわかりいただけよう。これを立神と呼んでいる。上の地形図にもそれが載っている。残欠にもこの岩の名が見える。下の写真はそれを島から見ている(舞鶴市の公式HPより)立神岩(島の北側より)
 現在もこの立神岩はタテガミと呼ばれている。
さてこの立神であるが、先の『海と列島文化5』によれば、こうした岩を神と観じてタテガミと呼ぶ地域は奄美大島とトカラ列島辺りと、屋久島・口之永良部島・黒島・竹島・甑島・薩摩半島・大隅半島で、長崎県西彼杵郡野母崎町がこの呼称の北限という。東隣の福井県大飯郡高浜町に立石という所があるが、普通はそう呼ぶのであって、冠島で古来より立神と呼ばれるのは不思議な呼称である。同紙は「立神はヤマトの修験者系文化の一つである」としているが、この島に修験者が住んでいたのであろうか。

島は安山岩と凝灰岩という。中新世の凝灰岩というから、その時代の大きな火山のカケラである。日本海が生まれ、大陸から分離独立して日本列島が誕生してくる、この地の火山活動の活発な時代だったそうである。はじめは朝鮮半島の東側にあったといわれる日本列島の西側部分、大陸のカケラとよぶのか、朝鮮半島のカケラとよぶのか、その部分が日本海の誕生拡大とともに南へ移動してきたものである。その後白山火山帯の火山活動が繰り返され、変化に変化を重ねながら、現在のような丹後ができてくる。海岸美に富み、温泉が湧き、水銀はじめ地下資源が豊かなのはそうしたお陰である。

 当時の私たちのご先祖様はまだお猿さんで、アフリカの木の上で2000万年の惰性と停滞のマンネリ生活に明け暮れていた時代である。やがて信じられないような飛躍の時がやってくる。もう少し書いておけば、チンパンジーからヒト(猿人)が誕生したのは500万年前のアフリカであった。
 我々の直接のご先祖様であるホモサピエンスの誕生は20万年前の東アフリカの大地溝帯付近と言われる。その地に10万年ばかりいたのであるが、その揺籃の大地から出た一派があった。彼らは死海地溝帯に留まり、やがて西へ向かった集団はヨーロッパ人となり、東へ向かった集団はアジア人となった、これが5万年前の出来事である。3万年前にシベリアに到達している、日本列島に人が現れるのもその時代であった。由良川をさかのぼった兵庫県氷上郡春日町の七日市という所でこの時代(28000〜25000前)の遺跡が発見されている。ここでナウマンゾウやオオツノジカを待ち伏せたのでないかと言われる。ジャワ原人や北京原人の一派などがそれより先に(100万年も昔に)到達していたかも知れないが、証拠は見つかっていない。
「兵庫の遺跡」 「七日市遺跡」
人は猿の子であって、神の子ではない、将来にわたっても繁栄生存できるという保証は、ほかの猿や絶滅した旧人類と同様に何も与えられてはいない、人と自称する猿だけが神により特別に加護されているわけではない。信仰上ではどうなのか知らないが、自然史の教えるところによればそうなる。種の平均的な寿命は10万年といわれる。すでに我々はその二倍も生きている。今後も生存していけるだろうか。絶滅危惧種の指定をしなければならないかも知れない人類の将来はほかの猿と同様に己が頼りない頭で、慎重に切り開いていくより方法はない。たいへんに厳しい未来になりそうに思われる。どうか人類の上に神のご加護がありますように。

上の冠島の地図を見て貰うと「旧兵舎」というのがある。冠島は海軍用地、というか基地にもなっていた。『丹後路の史跡めぐり』(梅本政幸・昭47)は、

 〈 昭和十六年、太平洋戦争を前にして海軍防備隊の観測所、照射場がつくられ、頂上に二一センチ砲台が一基すえつけられた。
…昔から漁に出てしけにあうと冠島へ逃げこみ、納めてあった食糧で命をつなぎ、帰港してからは使った物は必ず返しておくならわしがあった。明治初年まで神聖な島として女子の入島を許さず、新井では不幸のあった者と出産をした者は入島しないならわしであった。今でも沿岸漁師は毎年船を潔めて飾り、太鼓をたたき酒肴を携えて雄鳥まいりを行う。
  〉 
小橋で聞くと、今もケガレがあった家は雄島参りは遠慮する習わしという。しかし女性は結構雄島参りに行っている様子に見えた。老人嶋神社の鳥居と海軍の施設の跡
大昔から大浦半島の三集落の共有地であったが、勝手に海軍が取ってしまったのである。お陰で雄島参りも難しい、周辺海域での漁撈も困難となった。嵐に遭っても緊急避難ができない。沓島は艦船の砲撃目標にしてブッ放つ、大正期まではアシカやトドもいたといわれるが、その時以来姿を見せない。
老人嶋神社の鳥居の右側に何やらコンクリートの枠のような物が見える。これは海軍の発電施設の跡だという。ここにサーチライトを据え付けていたという。
『舞鶴市史』は、

 〈 資源が豊かであった丹後海には、明治、大正期を通じてクジラ、アシカ、トドが回遊していた。栗田や伊根の捕鯨は古くから行われていたが、大正二年に舞鶴湾口の四所村字吉田に東洋捕鯨会社の基地が設けられている。冠島の沖の沓島には冬期にアシカやトドが生息した。同島にはいまでもトド穴とよばれる海蝕洞や、近くにトドぐりという浅堆がある。伊根にはトド網が一統あり、冬期、漁民がその毛皮をとるために来島して、多い年には五○頭も捕獲していた。当時の加佐郡内には、トド網や、イルカ網もなく、捕鯨の基地も長続きはしていない。しかし俵物になったフカの延縄漁業は大正期でも小橋で行われていた。  〉 
ここで言われている日本海側の「トド」はアシカのことではないかとも言われるが、それは置いて、所詮は低国、強い者の味方、弱い者を保護したりはしないのだが、ロクな事をしない低国海軍であったが、その軍国主義のさなかに、海軍のこの暴挙に断固として海軍当局と戦った人があった。山本文顕さんとおっしゃる、漁業とは関係のない郷土史家で薬店のおっさんだが、それを支援して漁民達も戦ったそうである。『舞鶴市史』は、

 〈 新舞鶴町で薬局経営のかたわら郷土史研究をしていた山本文顕は、新舞鶴時報に「丹後の海の詩名勝雄島考」および「神より人より鳥が大事か」と題して二三回にわたり寄稿し、前記要港部法令は、老人嶋神社への参拝を禁ずるという神社の軽視と漁撈を妨害して漁民生活を脅威する暴挙であると、鋭く舞鶴海軍当局を論難した。当時、満州事変、上海事変、五二五事件の勃発によって台頭し、軍国主義の推進を志向していた軍部は、山本の言論は法令を曲解して海軍を誹謗し、反軍思想を煽動するものとして重視し、舞鶴防備隊司令、要港部副官、中舞鶴憲兵分隊に加えて新舞鶴・中舞鶴両町在住の海軍出身者団体である桜水会・三桜会までが、こもごも反駁を行ったので、この壮烈な一民間人対軍部の論争は一般市民の耳目を集めた。当時の市民は山本の行為を快挙として声援する者、ほほえみながら黙視する者、けしからぬと激高する者、海軍当局の感情を害しては地方の不利益を招くと憂慮する者などさまざまであった(昭和八・九・一二昭和日報)。  〉 

 舞鶴の郷土史家にも偉い人がいたのである。一人で大海軍・全低国相手に戦う、すごい郷土史家である。中国や朝鮮にはゴマンといたようだが、当時の低国内には、こんな勇気と信念の人はたぶん一人もいなかっただろう。さっさと軍部や帝国主義に迎合してしまう情けないニセ史家ばかりでなく、こんな本当の史家がたくさんいれば日本もちっとはまともな国になっていたであろう。彼の後輩たる栄誉に輝く私たちも恥ずかしくないよう勤めたいものである。

 海軍も黙ってはいるはずはない、氏の寄稿文中に海軍に対する侮辱的言語があるとして告訴した。舞鶴区裁判所は科料10円を申し渡したそうである。さすがに低国の侵略軍である、その本性を遺憾なく発揮している。上古からの土地を勝手に取り上げておいて、正当に文句を言った者を逆に裁判にかけ、ごり押しで勝つ。時流に乗ったクズどものやりそうな話である、やりたい放題である。何が国を守る軍隊か、日本国民の支持すら得ることができない。滅びて当然なのである。低国裁判所も歴史に残るクズであった。真に断罪されるべきは薬屋のおっさんか低国海軍か。猿でもわかろう。

 丹後には時たまこんな人がいる。私は丹後がすきなのである。世界第三位の大海軍VS薬店のオヤジ、勝負は猿でもわかる。オヤジは負けただろうか。いやいや勝ったではないか。大海軍は滅んだ、低国は亡びた。オヤジは勝った。道理ある者が勝つ、そう歴史は教えてくれる。
金力も権力も軍事力も強い、誠に無敵の強さに見える。腰抜けどもが恐れるのも当然である。しかし世の中にはそんなものよりももっと強いものがある。それは何か。正義である。道理である。正義と共にあるものは何も恐れるものはない。正義や道理を失ったクソどもが軍事力に頼る。そして剣をとる者は剣にて滅ぶ。これは大昔からの道理なのである。

 山本文顕氏は「室尾山観音寺神名帳」の研究で有名な郷土史家と同一人物と思う、私は面識はなく、それ以上はよくわからない。私が「室尾山観音寺神名帳」としてよく引いているのは『元初の最高神と大和朝廷の元始』に記載されたものであるが、それは山本文顕氏の自筆写本だそうである。オオミズナギドリはどこへも行かない冠島で冬眠するのだと主張するおもしろいおっさんのようである。
過去は米英に続いて世界三位の海軍力を持っていた。これはもちろん植民地(朝鮮や中国など)を分捕り確保するためのものであった。同じねらいを持った帝国同士であるから、最期にモノを言うのは力である、欲を出してさらに分け前を取ろうとして亡びたわけである。さて現在の日本の海軍力(おかしな話である、いつ憲法は無効になったのだ)であるが、世界の中ではどのくらいの規模になるであろうか。かなり下の方だろうとお考えかと思う。比較も難しいが、現在の日本の海軍は世界二位だと一般にはいわれる(比較が難しいのでいろいろ説はある)。帝国海軍を上回る。さてその砲口はどこへ向けられているのだろう。第一は中国だろうか。
 海外派兵の実績はイラクでつくれた、戒厳令も敷ける、あとは自前の核さえあれば…。自前で核武装ができれば、情けない対米従属の二流三流の帝国から一人前の帝国になれる…。9条を廃止できれば…。もう少しテロが暴れてくれれば助かるがなぁ…、ビンさんに資金援助して日本でもやらせようか…。中国にケンカをふっかけて挑発に乗ってくれば、こちらの軍拡の口実ができるのだが…。さあせっせっと靖国に参ってもらいましょう…。
恐らくそこまで来てしまったのであろう。帝国はいつのまにやら復活した、この軍備を見る限りは復活したと断定してもいいと思う、過去以上のものになりつつある。諸兄はじめ日本人は自国のさらなる軍国主義復活を阻止できるであろうか、それとも中国や朝鮮はじめ世界の人民に阻止してもらうという恥ずべき歴史を再び繰り返すのであろうか。
「雄島事件」
妄想はおいて、こんな山本さんのような例は氷山の一角である。たまたまこうした人がいたので、ここは記録に残っただけである。舞鶴は基地の町であり、海軍による土地取り上げの舞台であった。反対でもすればたちまち憲兵に引っ張られる、三日三晩夜も眠らせないで土地取り上げの「同意書」にハンコを押さされた。すべて泣き寝入りさせられた。朝来村などはほとんど村の全部を取られた。残ったのは山だけである。
他国への侵略の拠点として、まずは内国の侵略であった。舞鶴はそうした戦争が数多く残る所でもある。大浦半島は特に全国にもよく知られた戦争遺跡が二ケ所ある。「丹後の地名」とは関係はないが、さけても通れない歴史である。明治からこちらの舞鶴の近代化という美名のもとでの、舞鶴の侵略基地化の歴史である。

戦争被害は言っても加害は言わず、侵略と植民地はふれず、戦争犯罪意識も戦争責任感もゼロで、しかもどこかのよその国が悪かったかのように考える、そんなご都合のいい、軽薄人たちは見たくもないだろうし、もちろん誰だってそう触れたくもないものではある。しかし正気の者ならそういった訳にもいかないし、まして郷土の日本の世界の明日を築こうかという人たちは、特にしっかり見ておかねばならないであろう。
いつか「丹後の戦争」とでもして、新しいページを作る予定です。

宮津湾に姿を見せたアシカ(宮津市)060618に宮津湾に姿を見せた1メートルばかりのアザラシ(左写真)。北海道の辺りに生息するワモンアザラシと報道されている。50年に一度くらいはこうして姿をみせるようである。海氷上で出産する種であるらしいから、この辺りの近海には生息するはずはないものである。しかし本当であろうか?北海道から日本沿岸を対馬海流を逆に泳いでここまでやってきたのであろうか?人間が船に乗せてつれてきたのでなければ、正常なアザラシの自力ではあり得ない話と思われる。ものすごい距離であって、およそ一千キロ、君はよほどの決意ある偉いアザラシなのか、しかし何のためにそんな無益な努力をしたのか。普通は海流に乗ってプカプカと来なければありえそうにもない話である。海流に逆らって泳ぐというようなことは人力では無理である、アザラシなら出来るかも知れないが、狂ってでもいなければそんなことはありえないと思う。日本海側の海岸でよく問題になるハングルの書かれた多量の漂流物と同じで、出所は同じなのではなかろうか。
『出雲風土記』の島根郡と出雲郡に等等とととととと島が見える。禺禺とととととと当住と書かれている。この辺りにもいたと記録がある。日本海が寒かった名残なのか。ロシア沿海州あたりにはこんな生き物がたくさんいるのを写真で見た覚えがあるが、そのあたりから来たのではなかろうか。リマン寒流が大陸沿岸に沿って北から南へ流れていて、それが朝鮮半島にぶつかり南へ方向を変えて、対馬暖流と合流する。これはゴミやアザラシばかりでなく日本人達の祖先の多くが乗った海流である。アザラシ君や漂流物が日本人の成り立ちを証明してくれたかも知れない。
アザラシはしかしトドではなさそうである。トドと呼ばれている動物はアシカであろうと思われる。サリドマイドという睡眠薬を母親が呑んでいて「あざらしっ児」と呼ばれる両腕の短い赤ちゃんが生まれるという薬害が以前あったが、アザラシは写真のとおりに前足(胸びれというのか)が短い。アシカはオットセイと同じ種類でもっと両手が長い。ワニという動物が古代の神話にも登場する。ワニという地名も氏族もあるし、天皇さんはそのワニの子孫であるとされている。これらのワニもアシカだろうとも言われる。

大浦半島:水銀地名

沈んだ島の記録(アトランティス伝説)


『続日本紀』の大宝元年(701)の三月己亥(26日)条に、丹波国地震三日とある。丹波国で三日間、地震が続いた。(三日は三月とする写しもある)
勘注系図は、慶雲三年(706)の丹波・但馬山火事の記事は見られるが、この地震は記載がない。あるいは巻頭注文にあり重複するため避けたかも知れない。
 残欠は、次のように記している。

 〈 凡海郷
凡海郷は、往昔、此田造郷万代浜を去ること四拾三里。□□を去ること三拾五里二歩。四面皆海に属す壱之大島也。其凡海と称する所以は、古老伝えて曰く、往昔、天下治しめしし大穴持命と少彦名命が此地に致り坐せし時に当たり、海中所在之小島を引き集める時に、潮がおほしくおほしくおほしく枯れて以て壱島に成る。故に凡海と云う。
ときに大宝元年三月己亥、地震三日やまず、此里一夜にして蒼海と為る。漸くわずかに郷中の高山二峯と立神岩、海上に出たり、今号つけて常世嶋と云う。亦俗に男嶋女嶋と称す。嶋毎に祠有り。祭る所は、天火明神と日子郎女神也。是れは海部直並びに凡海連等が祖神と斎所以也。(以下八行虫食)(原漢文)  田造郷万代浜はどこかわからない。どのようにして見通しのきかない海上の距離を測ったのだろう。里という単位は現在の里ではなく、1里=6町=650メートルくらいの単位である。43里なら約28キロとなる。「舞鶴港より28キロ」は、現在も決まり文句のように使う数字である。現行の地図に照らし合わせても、恐ろしい程に正確な数字である。三拾五里二歩は府中・橋立あたりからの距離であろう。
 距離の計測値は、残欠は「里」「歩」という単位で正確な記述をしている、方向も正確である。他方の伊予部馬養の丹後風土記逸文は「丈」で、橋立の長さは二千二百二十九丈と書かれて6620メートルにもなる。これは一千二百二十九丈の間違いだろうと後世の者が勝手に書き換えてなんとか納得している、方向も怪しい、西北とあるが西南あるいは東南の間違いでなかろうかと思われる記述がある(比治里)。忠実に資料に基づく実務的な記述と、数字や地理的方向などは感心薄い文人の違いがある。どちらが信用できない偽書かは判断していただきたい。


大穴持神少彦名神が海中から引き上げたものだという話と、大宝元辛丑年に沈んだという話は、国宝勘注系図の巻首、始祖彦火明命の注文にも、「在当国風土記」として、引かれている。
 ここは残欠の成立年代を決定する上に重要な記事である。大宝元年(701)が上限で、勘注系図の下限の貞観6年(861)の160年の間に作られたということになる、上限は何世代か分、だいぶに下げねばならないかも知れない、8世紀前半という感じであろうか。残欠の記事の中味はもう少し古いものも含まれていると考えてよい。伊予部馬養連の逸文風土記よりも1世紀ばかり下るということになる。
 勘注系図と残欠はリンクされた一体のものとなっている。残欠は偽作だと勇ましく批判するなら、当然にも国宝・勘注系図も偽作と言わねばならなくなるのだが、これは誰も言うものはないようである。

 ついでだからもう少し書いておけば、勘注系図に「在当国風土記」「在風土記」として引用される残欠なのだが、一体どれだけの記事が引用されているのかはわからない、全体が公開されていないから仕方がない。どうやら5個までは私は確認しているが、それ以上あるのかも知れない。
その中の天香語山命の注文に引かれる記事に面白いものがある。与謝郡の由来を述べて、匏宮があったからヨサだという。「此郡所以号匏者也在風土記」と割注に書かれている。ところが今に伝わる残欠にはその記事はない。加佐郡だけしかなく与謝郡について触れる記事はない。しかし残欠は本来は与謝郡も作成されたいたのではなかろうかと思われる。

以下八行虫食が惜しまれる。私の印象としては、何かこの話にはもう少し続きがあるのでないかと思う。これだけの話ではないだろう。残欠は話の全部は記録していないのでなかろうか。
 大分の瓜生島のように、よくあるのは狛犬を赤く塗ったから沈んだとか、仁王さんが赤くなって沈んだとかのそこの神社の霊験譚的なもの、あるいは誰かが何かばち当たりをしたから沈んだ、信心深い誰かは助かった、その子孫がどこそこの浦の者たちである。そんな『旧約聖書』の洪水伝説とかノアの方舟伝説のようなものが隠れているのでないかと私は思う。全世界に分布する伝説で、人類史のずいぶんと古い時代からの伝説の焼き直しのようなものの一部なのかも知れない。
それにこの種の伝説に赤色が出てくるのと、瓜生という地名が気になって仕方がない。瓜生は全国にある地名だが誰もその意味を解いたことがない、確か天才・吉田東伍がどこかで、瓜生は丹生のことでないかと書いていたように記憶しているのだが、或いはそうしたことがあるかも知れない。
そうすると常世嶋の名が気になる。浦島・徐福系の赤の伝説、金属の集団につながる何かがあるのでなかろうか。この島の底に穴があいていて、そこが常世国への入口とかいったようなものもありそうな気がするのである。
 又、若狭湾は沈降した溺れ谷のリアス式海岸で、この景観を古人が注意深く見れば過去に沈んだ海岸だとわかったのではないかと思う。その時代がいつだったのかは判断できなかっただろうが、現在でもよくわからないのであるから、仕方もないのである。その過去に沈んだ海岸だという話は浦々に伝わっていたのではないだろうか。時代は特定できない話としてだったのだが、実話として伝わり、後に誰かがその時代を特定してしまったのではなかろうか。続日本紀などを読んだ人であったかも知れない。
「リアス式海岸」 「沈水海岸」 「舞鶴湾」

丹後の国内神名帳の与謝郡と熊野郡に売布明神が見える。それにはウリフとルビがふってある。これらのルビは誰が何時の時代につけたものかはわからない、かなりあやしいものもあるが、それはおいて熊野郡の売布明神は女布の式内社・売布神社と思われる。
 売布は本来はメフと読むので、女布と同じ意味で丹生のことだろうと言われる。しかし「売」は普通はメと読まない。どこかの方言的な読み方と思われる。だから売布という字を見て、これはバイフはおかしいな、ヌノウリでもおかしい、これはウリフと読んむのでないかと考えたとしても仕方がない。そしてこのウリフに瓜生という漢字を当てて瓜生という地名ができたのかも知れない。だから瓜生←売布←丹生ということなのかも知れない。
「与謝郡神名帳」 「熊野郡神名帳」
大浦半島:水銀地名


ウソかホントか
この記事はホントかウソか。伝説か。多少は沈んだのは本当だとしても、どこまでが後の尾鰭で、本体はどの位なのか。残欠とて何もウソを書く気持ちはないだろうが、手元の頼りない文献と周囲の人びとのウサワ話から事件を再現するより手はなかったと思える。自分が体験したわけでも無い、まったく見たこともないことを書くのは大変な仕事である。生まれて一度も見たこともない鯨を周囲のウワサ話に基づいて描けば、それはきっとたぶんカボチャになるだろう。日々そんな郷土の過去のカボチャ像を描いている私にはそのご苦労はよく理解できる。残欠はウソだでたらめだといっても仕方がない。文句があるなら自分で再現作業をやればいいだろう。
 しかしなにしろその凡海郷でさえ、よくわからない。残欠は四面皆海に属す壱之大島也と書いている。
『京都府の地名』は、

 〈 (凡海郷)「和名抄」高山寺本は「於布之安末」、刊本は「於布之安万」と訓ずる。
 郷名はほかにみえず郷域など不詳だが、名義から推して、大化改新直前の頃に周辺の海人族を統括した有力氏と縁由ある郷名と解せられる。「延喜式」内膳司に丹後国の年料として「生鮭三担十二隻三隻、氷頭一壺、背腸一壷、山薑一斗五升三度、小鯛・《月遍に昔》一石二斗」が記され、これが当郷と関係すると考えるならば、現舞鶴市を流れる由良川筋の内陸鮭漁業とのかかわりも推定される。郷域も由良川筋にかかわるかもしれない。あるいは古くから漁業が発達し海部が活動していたと考えられている大浦半島の野原・小橋・三浜辺り(現舞鶴市)であったかもしれない。  〉 
『地名辞書』は、

 〈 凡海郷。和名抄、加佐郡凡海郷訓、於布之安満。○今詳ならず、凡海とは海部の住居ならんと思はれ、延喜式に「丹後国生鮭三捧、十二隻三度、氷頭一壷、背腸一壷」と見ゆるは即此凡海氏の所貢なるべし、本郡にして北海の鮭の泝るは由良川なれば、今の由良村神崎村などにあたるごとし、本郡又大内郷あり、大内又凡の転にして、海部の住郷なれば其名あるか、或人云今の俗由良川辺を大内と総称す、猶考ふべしと。  〉 
『和名抄』にはあるのだが、後は『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』に


 〈 一 □□郷 四十八町九段二百九十二歩内  
   □□□四十五歩  和江村 岸九良左衛門
   廿五町三段百廿一歩     建福寺
   十八町八段八段五十九歩   本光院
   二町七段六十七歩     不足可有紀明之  〉 
の□□郷を凡海郷と推定している。由良川川口の和江は確実に含まれると推定されている。名神大社・大川神社が含まれるだろう。大川神社は現在でも大変に広い氏子圏をもっており、凡海文化の大きな広がりが推定できる。
 □□ではなく、はっきりと凡海の名があるのは、承久元年(1219)の寄進状に凡海是包の人名と、永享3年(1431)の室町幕府の御前評定目録に、丹後国凡海郷の名がある。これらはどこが郷域だとわかるような資料ではない。
 あと勘注系図の、丹波国造海部直都比−凡海連真磯−凡海連小橋−凡海連磯住−凡海連磯嶋 の系図である。凡海連真磯には、凡海連等祖、雄朝津間稚子宿禰天皇御宇移于当国加佐郡凡海郷。依改賜姓云凡海連矣。の注文がある。大浦半島の小橋が中心かなとも思えるが、小橋の小地名はあちこちにあるから、断定できない。小橋の周辺

 残欠の加佐郡の神社35座を列記した中に、石崎坐三輪社の次に、
凡海坐息津島社
凡海息津島瀬坐日子社
の名がある。
この二社のある場所が凡海だと、現在に残る資料からは確定できるだけである。それは冠島である。冠・沓の二島は凡海だが、その他については推定だけである。

 また凡海とは誰もが信じて疑わない定理のように海に関係する地名なのか、それとも忍海のように本来の意味としては単なる当字なのか、これも本当は検討してみなければなるまいと私は考えている。郷内と目される浦入に先の日本海側最古の製鉄炉などが出土したりするとその感は強まる。銅(カゴ)神社を祀る海部氏の一族とされ凡海氏、単に海や川の氏族ではあるまいと思われる。

701年に大地震があったことは、地元のどこにもそんな伝承は残らないが、本当であろう。正史にそう書かれているからである。壱之大島であったといっても、村が自給自足ができるくらいの水とエネルギーはどうだろう。飲み水くらいは何とかなったとしても、田は作れるだろうか。燃料の樹木は自足できただろうか。どれくらいの森林があったかにかかってきそうである。

 冠島は雄島おしまおしまおしまさんと呼ばれる。オシマ参りと呼ばれるこの島の神社への参拝行事がある。西は伊根町の方から、東は若狭常神あたりにかけての広い範囲の漁村から、集落によって日は若干違うが6月あたりに参詣する。このオシマは凡海の転訛でないかと言われる。
 大浦半島と冠島を結ぶ海底に隆起があると釣り糸たれる漁師はいう、このあたりの海の底なら己が庭先のように熟知している。それが沈んだ島だともいわれる。しかし海底図を広げてもそんなものはない。
 昭和2年3月7日(M7.3。死者3015)の丹後地震の時の前兆現象がある。成生・田井に行くと立派な民家が並んでいる。「ズコイおうちですね」と尋ねると「これが鰤御殿(ぶりごてん)ですがな」と教えてもらえるが、その鰤がとれなくなり、丹後沖に大量の浮き石が漂い、野原海岸の畑が陥没して蒼海と変じたといわれる(『丹後震話集』等による)。

 冠島・沓島は、大浦半島の続きではない。伊根町新井崎の辺りから張り出している舌のような海底台地の東端に乗っている島々で、丹後半島の東の端である。海の底なので見ることはできないが、これは水深70メートルくらいの深さのある狭い平らな舌である。一番上の写真でいえば、沓島の高さと同じだけ下へ下げた所が舌状の海底である。
魚釣り用のリールに着いているタナ取り用のメーターで計ってみると、冠、沓の間の水深は70メートルほどある。二島はこの舌のような張り出し台地に乗っかる比高150〜250メートル程の別々の険しい山々である。海上に見える姿をそのままに下に伸ばしてもらうといいだろう。
この島に一郷ができるほどの多くの人間を養えるほどに森林と田畑を作るとすれば、舌と一緒に最低でも70メートルは引き上げなければならない。
残欠の記事が事実なら、舌とそれに乗っかる二つの山が70メートル以上一気に沈んだということである。何万年もかけてそれくらい沈むことはあるだろうが、一気に沈むというのは、信じていいのであろうか、疑うべしなのであろうか。
もし仮に日本列島が100m沈めば、日本一低い中央分水界の氷上郡石生の辺りも海没することになり、本州島は二つの島になる。それくらいの海没なのである。
 大浦半島は安定していて、縄文時代から海岸線に大きな変化はないと言われる。本当に沈むとしたら、地震による海底の地すべりくらいしか考えられない。冠・沓島の北東の海底は急斜面で、もし地すべりしたのなら、ここへ滑ったのだろうが、その辺りの海底図に目をこらしても、島の痕跡のようなものはまったくない。私の勝手な想像だけれどもこの地震で恐らく冠島の一部が地滑りで崩落して海に消えたと思われる、凝灰岩の島だからもろいと思う。それが尾鰭をつけて伝えられたのではなかろうか。

かつて舌が海上に出ていたなら、凡海郷は加佐郡ではなく与謝郡に属したであろう。新井崎辺りからたぶん陸続きのような姿で半島状に突き出ていたであろう。
古くは凡海郷は与謝郡に属したのだろうか。『海と列島文化2』の「現代に生きる冠島の古代信仰」に、

 〈 冠島の見える野原の伝説にのこる(野原所在の−引用者注)笶原神社は、「ヨサのやしろ」と呼ばれていたといい、三浜にも、昔はヨサであったという伝承がある。古代の舞鶴と宮津はヨサ国、つまり、ヒョウタンの国であったといえる。  〉 
とある。ヨサ国がヒョウタン島とは思えないが、それは置くとして、古代の舞鶴とか加佐郡の全域ではなく、これはただ凡海郷だけが与謝郡に属していたという伝承かも知れない。大変なことである。ひょっとすると本当にあったことなのかも知れない。

もっとも賢明な先人諸兄も推察される通りに、時と場所と規模について何もかもが一緒になった上に尾鰭もついたのかも知れない。それを分離整理してどこまでが史実だとするのは私の能力では不可能である。このままおいておくより手はない。大自然の為せる技である。頼りない人知の及ばざることもよくあることである。

大浦半島:水銀地名

常世嶋(冠島)
残欠が記すように、常世とこよとこよとこよとも呼ばれたという。冠・沓周辺の海を常世の海とも呼ぶそうである。
常世というのは、古代の信仰なき身では、うまく説明もできないが、浦島太郎が行ったという場所とされる、海の彼方の不老不死の理想郷、海底の理想郷、地下の理想郷かも知れない。多遅摩毛理が非時香木実を求めて旅たったという国であり、天橋立も常代の浜と呼ばれたという(『丹哥府志』)。


凡海坐息津島社(老人嶋神社)(冠島)

残欠に凡海坐息津島おおしあまにますおきつしまおおしあまにますおきつしまおおしあまにますおきつしま社、「室尾山観音寺神名帳」の正二位息津嶋明神である。息津島→老人嶋おいとしまおいとしまおいとしまで、現在は老人嶋神社と呼ばれている。

祭神は残欠の通りに、火明ほあかりほあかりほあかり神と日子郎女ひこいらつめひこいらつめひこいらつめである。

 天火明神は海部氏の祖神であるが、日子郎女ひこいらつめひこいらつめひこいらつめとは誰であろう、なじみのない、不思議な名である。男か女か知れない名であるが女として扱われているのでそうしておこう。
このような何とも得体の知れないものが一般には最も古く、たぶんこの島の本来の祭神なのである。

 火明命の奥方であろうか、彼には確か天道姫命というのがいたがなあ、彼女のほかにもまだいたのかと思い調べてみれば、やはりそうであった。
勘注系図巻首の彦火明命の注文に

 〈 彦火明命佐手依姫命を娶りて穂屋姫命を生みます。佐手依姫命は亦名市杵島姫命亦名息津島姫亦名日子郎女神なり… とある。佐手依姫命は記では佐依毘売命となっている。沖ノ島に坐す女神であり、奥津島毘売命ともされる。穂屋姫命は物部氏系図から借りたものであろう。
 日子郎女神は火明命以前のこの嶋の本来の祭神かと思われる。宗像の沖ノ島と同じ祭神だと勘注系図はいうのであるが、奥津島毘売命と息津島姫の名が似ているためにそう推測しただけのものかも知れない、あまりと言うか、ほとんどあてにはなるまいと思われる。

『加佐郡誌』『舞鶴市史』はじめ、地元ではこの日子郎女神を目子媛めのこひめめのこひめめのこひめ(紀)・目子郎女めのこいらつめめのこいらつめめのこいらつめ(記)として、それに基づいていろいろと丹後の古代を推測したりしている。
 紀によれば尾張連草香の娘で更名色部しこぶしこぶしこぶといい、継体の最初の妻であり、安閑・宣化の生母である。記によれば尾張連等祖、凡連の妹となっているが、この目子郎女は冠島とは何も関係はない。残欠には写本がたくさんあってその中にはここを目子郎女とするものもあるが、校訂者が原本のテキストの日を目と訂正したもののようである。
どのテキストにも日と書かれている。勘注系図に火明命の奥方であり日子郎女神=市杵島姫命と書かれている以上は目子郎女とすることはできない。目と日の漢字がたまたま似ている、凡海連と凡連が似ている、丹後海部氏と尾張連は同族というだけであろうが、そんなことから勝手に祭神の名を変えてはならぬ。似ているからといって馬と鹿を替えてはならぬ。

 この間違いは明治8年から編纂事業の始まった『京都府地誌』が最初のようである。残欠を引いているのであるが、この書は日子郎女神を目子郎女神と引き間違えてしている。『加佐郡誌』も同様の引き間違えをしている。それ以後ずっと間違えたままであるから、もういいかげんで訂正されよ。
 単なる間違いではなかろうと思われる。自らが偽書として切り捨てた残欠をこっそりと密輸入し、しかもそれを一字だけ替えているのであろうか。それはたいへんにタチが悪い。申すまでもないであろうが、これは資料の改竄・捏造とよばれ、たいへんな罪になる、麻薬に手を出すのと同じで、そんな事をすれば社会的な生命はそれで終わりになる。そんな者の書くことはまったく信用できないことになる。一字一句も信じられなくなる。「神の手」とか呼ばれた捏造専門の考古学者がいたではないか、彼を真似てはならぬ。古人の残した史料は現代人の判断で一字一句たりといえども容易に替えてはならない。歴史を改竄し捏造しうそをデッチあげる、まさにそのことであるからである。
 これは××市の古代史研究者にのみに言える傾向ではない、ようである。だいたいは彼らの師も平気でそうであったから、弟子はさらに平気の平左で、何も気に掛けないでそうなのである。彼らには初めから古代史というか古代の世界像に彼らなりの勝手な思い込みがあった。日本の古代はこうであらねばならないとするろくでもないイメージがはじめから頭にある。朝鮮人の子孫であったりするはずは初めから絶対にないのである。ワシらは優秀民族なのだからあんなクズ連中と同じであるはずはない。だからそうした自己のイメージに合う史料だけを拾うのである。合わなければ、それは偽書であり、誤字であり、勝手に自分のイメージに合うよう書き換える、平気の平左、ヘッサラでおやりになる。テキストに何が書かれていようがこうした連中には何も関係がない。そんな手前勝手なことを続けていれば、すぐに学問的な限界がくるのだが、それもヘッサラ、こうなればもう学問と呼べるレベルではなくなる。学者としての自覚もない。

参考に『舞鶴市史』、

 〈 若狭湾沿岸の漁業者にとって関係深いのが、冠島鎮座の老人嶋神社である。同社が「丹後国正六位恩津島神授従五位下」(三代実録・元慶四年880)の恩津神島に擬せられるのは、恩津島が沖ツ島にほかならないからで、丹後の陸地から海を望んだとき、この冠島を考えるのは自然であろう。ただし「延喜式」には収載されていない。この島は大宝元年701三月に、大地震のため陥没したと伝承される凡海郷の一部であるといわれるが確証はない。
 冠島は隣接の沓島とともに「俗に沖の島といふ、一に雄島女島(中略)大島小島(中略)、陰陽島(中略)皆二島相対する処の名なり」(丹哥府志)といい、二島の形成について「文珠大士冠沓を投げし給ひしが化して島となれる」(丹後名所案内)とも伝えられている。島の形状から名を与えたものである。
 「梅雨前後風波穏やかなる日浦々の者太鼓を撃つつ多く参詣す(中略)宮内に米あり、難船の者爰に泊し、其米を借りて之を炊ぎ命を助かる者尠からず」(丹哥府志)「社の前後幟数十本、皆難航に逢ふ者の願済しなり」(同)ともあって、類似の記事は「宮津府志」などにも見える。この社の祭神は、天火明命、目子郎女命とされるが、天火明命は海浜に住む海部の民が祖神と仰いだ神であった。海部氏の系統は尾張連・六人部連・津守連・但馬海直などがあって、丹後の海部は宮津市大垣の篭神社宮司家が中心であった。もとは海部氏一統の奉祀するものと考えられ、やがて広く漁業、海運関係者の間にまで尊崇されるところとなったのであろう。
 神社の立地を地理学的な場からみるとき、島嶼に神を祀るのをさして神島タイプというが、冠島もこのタイプに分類することが出来よう。古くは九州の宗像氏の「沖の島」のように、古代の際祀遺跡、遺物が神島に発見されることがあるが、冠島については未調査である。  〉 
大浦半島:水銀地名


凡海息津島瀬坐日子社(冠島)
残欠に凡海息津島瀬坐日子社おおしあまおきつしませにますひこのやしろおおしあまおきつしませにますひこのやしろおおしあまおきつしませにますひこのやしろとある。「室尾山観音寺神名帳」の正五位上息津嶋上手明神とあるのがこれだろうか。
 日子社とあるのだから、こちらが男神である。そうするとやはり息津島神社は女神となる。私はやはり老人嶋社は本来は女神だと思うのである。
 火明命は後に加上された祭神であろう。この島の本来の祭神は日子郎女神である。その亦名市杵島姫命…とかいうのも怪しくて、本来は関係はないだろう。

 日子郎女神と呼ばれる神が、この島の古来の主であろう、孤島に一人暮らしでは寂しかろうと、後にくっつけたのが日子社であろう。さらに後の世に火明命が加上されて、これが後には主祭神のように思われるようになったと私は想像する。

さて、もう一度よく考えてみたい。日子郎女神は本当に女神だろうか。丹後の海の最高女王神とするには名前がどうもおかしいのである。
『舞鶴市内神社資料集』所収の地元の丸山尋常高等小学校が記す雄嶋雌嶋伝記に、

 〈 抑モ此島ハ神代ヨリ彦姫ノ二神鎮座アルヲ以テ雄嶋ト云又冠島ト云ハ形冠ニ似タルヲ以テ俗ニ呼ヒ来レル而年其実ハ凡海郷ニテ今現ニ在ル、処ハ殊ニ常世島トモ称フナリ…  〉 
このように地元(小橋か三浜だろうが)では冠島の祭神は彦・姫の二神であるとするのである、恐らく古来よりそう伝えられていたのであろう。
 従って日子郎女神と呼ばれる、男か女かもわからないような不思議な神名は本当は日子神と郎女神の二神の合体したものである、伝承の彦・姫の二神のことだと断じてよいと思う。
この事を指摘した先人は誰もいないようだが、日子郎女神は一人のように考えられてきたが、それはちがう、男女の二神を日子・郎女神としたのだと私は考える。この祭神は本当は「日子郎女神」ではなく、「日子 郎女神」と「日子」と「郎女神」の間は空白が一文字分あったのではないかと思う。あるいは残欠が参考にした、現在に伝わらない古い文献にはたぶん、有息津島社所祭也とか分かち書きで書かれていたのでないかと思う。これを日子郎女神と一人神と取り違えたのであろう。

 これがわからないで、日子郎女神を独身女性と考えて、日子神が作られたり、火明命もやってきたのである。実はいらぬおせっかいだったのである。

尚、継体記に坂田大俣王の女、黒比売を娶して、生みませる御子、白坂活日子郎女。とあるが、この…日子郎女もおかしいのではなかろうか。紀では茨田連小望の女、関媛が生んだ娘を、白坂活日姫皇女としているが、どこかに記録の混乱がありそうである。
 イラツメという古い言葉である、古い祭神だということである。現代人にはもう意味がわからないかも知れない。イラはイロという言葉である、母を同じにする者同士ということ、ツは格助詞と呼ばれるもので、「〜の」の意味である。メは女であるから、同母の女ということ、同じ母をもつ姉か妹のことである。転じて若い娘を親しみを込めてイラツメと呼ぶとされる。「ちょっとそこのお姉ちゃん」と、本当はアカの他人だが、肉親のように呼ぶようなものである。

 冠島の祭神にはちゃんとした固有名詞はなかったのである。古来のままの彦神・郎女神であったのである。あえて名付けるならば、勘注系図にあるように息津島姫と息津島彦と呼ばれたであろうか。息津島姫のイラスト

三浜には冠島の神様は女神で、男神は新井崎神社の神様と伝える伝説もあるそうである。3月3日に年に一度女神は会いに行くという(「現代に生きる冠島の古代信仰」)。これは外来系の七夕伝説とも関わっていそうである。

丹後一宮・籠神社の現在の主祭神は火明命であるが、相殿に二座あって、一は言わずと知れた豊受大神であり、あと一が市杵島姫命ともする。これが海神豊玉姫や多紀理姫だったり天照大神ともする。岡のナンバーワンの女神と海のナンバーワンの女神が祀られているのだと思われる。それは本来は冠島の日子郎女神の半分の郎女神であろうかと思う。
 丹後七姫には当然この姫が加わるべきであろうと私は思うが、現在はまったく無視されている。
 岡のナンバーワンの豊受大神であるが、物部氏系図の借り物であろう天道日女命について勘注系図には亦名を屋乎止女やおとめやおとめやおとめというとある。屋乎止女とは八乙女のことであろうから、磯砂山の八人の天女であろう。豊受大神のことになる。火明命は丹後の岡と海の女王二人を妻とした神話があったことになる。実際には火明命はこれら二女王より後の世の神様であり、どこからかやってきた神様のように思われるのである。
勘注系図の彦火明命の注文は、凡海息津島瀬坐日子社は彦火明命とし、凡海息津嶋社を佐手依姫とする。だいたいそれでいいのではないかと思う。
 まとめると、残欠や勘注系図の編まれた時代はそのように考えられたが、本来は凡海息津嶋社は息津島姫(郎女神)を祀り、凡海息津島瀬坐日子社は息津島彦(日子神)を祀ったものだといえよう。
 上のイラストは『舞鶴の民話5』に挿入されているもの、無断ですが、大変にいいイラストなので拝借します。彼女が丹後の海のナンバーワン女王神、冠島の主神であらせられる郎女神命、亦名を息津島姫命、亦名を凡海息津島姫命と申し上げる。
 勘注系図の彦火明命の注文全文も載せておきます。「彦火明命」

もう一度考えてみようかと思う。以上は歴史に残る資料からの推測であるが、資料には確たるものはないが、どうももう一段古い層の信仰が隠れているように私には思われる。
 凡海坐息津島社と凡海息津島瀬坐日子社はいずれも××坐と限定されている。冠島に鎮座するという意味である。ということは他の地にも息津島社や日子社があったことを暗示しているように思われる。わざわざこの島まで渡らなければお参りができないと不便なので、この島から勧請した同名の社を各浦々で祀っていたとも想像できる。あるいは冠島とは関係なく祀られていた一般的な神様なのかも知れない。
 さて日子郎女神のことである。日子はヒルコとも読むことがある。日本をイルボンと朝鮮語では発音するらしいが、そのイルである、ヒルコとはエビスさんのこととされるが、凡海息津島瀬坐日子神社の後身ではないかと思われる現在の瀬の宮神社はイベスさんとも呼ぶのである、イベスとはエビスのことである、だからあるいは次の推察が成り立つかも知れないと思うのである。
 日子と書くようにどうも元々は太陽神で、海の彼方から招き迎える日の神である。葦の舟に乗ってやってくる福をもたらす神様のようである。
 新井崎から見れば、彼岸にはこの島から太陽が昇るという。新井崎・冠島・常神半島のラインは太陽の道があるのでないかと私は以前から考えているのであるが、ここに日の神が祭られていても不思議ではなく、日子郎女神は原初的には太陽神なのかも知れない、日子郎女神とは元来はヒルメであり、オオヒルメノムチ=天照大御神の原形神かも知れない。これは火明命自身でもあり、饒速日命でもあり、伊勢神宮以前の歴史から抹殺された古い神なのかも知れない。冠島の二社は元来は恐らく太陽神のヒルメとヒルコを祀る社なのではなかろうかと思われるのである。

大浦半島:水銀地名

船玉神社など(冠島)

冠島は自然保護の観点から上陸禁止なので、デジカメ片手にちょっと行って見てくるわけにはいかない。年に一度のオシマ詣りの時だけしか氏子でも行けない。私は一度も行ったことはない。波の上ただよう釣り船から、あのあたりにあるんだろうなと見ているだけである。
 現在は同島には、老人嶋神社とその境内社の船玉神社(祭神底多久御魂神)と崎宮神社(瀬の宮神社。おイベスさん。姥越神社とも祭神不詳)があるという。
 これらの神社に参詣するため、年に一度だけ周辺の集落から渡る信仰行事が今に伝わる、これをオシマ参りと呼ぶ。集落によってはこれに競艇民俗があった。現在は船にはモーターがついているので行われない。
『現代に生きる冠島の古代信仰』に、

 〈 雄嶋参りは勇壮な海の男の祭典と考えられていたし、漁民の間では競漕して参るものとされていた。昭和二年(一九二七)に死亡事故がおきたため、競漕は以後とりやめになったという吉原(舞鶴市西地区)の雄嶋参りの往年のようすを、明治三四年(一九○二) の『舞鶴案内』は次のように記している。
  「毎年陰暦五月五日に例祭を行うので、この日には舞鶴から吉原の漁夫が競舟と称する漁船の競漕を催おす古習があって、その選手はその日に吉原を出てこの島に渡り、終夜近海で漁拶した上、翌朝は身潔めて神に祈りを捧げるげ、櫓一挺に櫂八本の漁船二隻に組を分け、正午一斉に纜をといて十八海里の海上を腕の限りに競漕して舞鶴に帰るのである。決勝点は湾内横波の松で、速いのは一時間半ばかりで先着するという。それから、数多の歓迎船に擁せられ、漕ぎ手の若者はさまざまの扮装をこらしてとうとうたる太鼓の昔勇ましく吉原へ凱旋する。これを『雄嶋戻り』と称え当日の朝から満街の士女は舟を装いこの盛挙を観るため湾内に輻輳し先着の船が眼に入ると歓呼の声喝采の響きは海波に相和し、観る者も漕ぐものも狂せんばかりの壮観を呈する」  〉 
 片道一時間半というのだから、エンジン付きの舟とさほど変わらないスピードだ。吉原ばかりでなく、各地の集落で同じようなぺーロン競艇が行われたといわれる。また海辺の漁村では、男が成人すると小さな舟を櫓一本であやつり、冠島に参拝して無事に戻ってはじめて一人前の男と扱われたという。
 20年で自動的に成人式に参加できるような現在のようなやり方はもうやめたらいいかも知れない。税金の無駄使いでしかない、来賓者などは、たいていはみんな仕事を休んで、無給で出席しているのだ。昔から現在形の成人式があったわけでもないし、年齢も違う。形だけは一人前になっても、一人前の仕事ができるようになるには大変なことである。漁業においても農業においても、何であれ「プロはすごい」ものである。マンネリと惰性で続けるよりも時代とともに変えるべきであろう。新成人者ばかりでなく、祝う側も悪いのだ。
 試練を科して、それを達成できなければ、一人前とは扱わないのがいい、そうすれば騒ぐような、小学生以下の水準でしかないバカ者はいなくなるかも知れない。この行事復活してみてはどうだろう。

下の図は冠島への参詣集落の分布図。『宮津市史』より
冠島参詣分布図。宮路市史より
「雄島参り(高浜町塩土・事代)」

大浦半島:水銀地名





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三方郡美浜町丹生


資料編の索引

50音順

丹後・丹波
市町別
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市 

 若狭・越前
市町別
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市






福井県三方郡美浜町丹生(付録)

事故のあった美浜原発のある所は丹生という所である。若狭湾に付き出した立石半島の西側の先端に近い所である。若狭国と越前国はここが境になる。この半島は別天地のような綺麗な砂浜の続く所であるが、現在は問題の原発だらけの半島でもある。この美浜原発の先が敦賀市白木という所で、動燃の高速増殖炉「もんじゅ」がある。
『丹生の研究』が詳しい。(写真は私が入れています)

 〈 若狭には、遠敷(おにう)という異常な訓みとむずかしい問題をかかえている地名(郡名および郷名)がある。これを後章にまわすとしても、なおこの国には問題が多い。「倭名抄」によれば、遠敷郡の郷名のうちに"丹生"と"丹布"、とがあって、どちらも訓は"尓布"である。また「延喜式」神名帳には、三方郡19座の1に、および遠敷郡16座の1に、おのおの丹生神社が載せられているほかに、三方郡に仁布神社が報告されている。式内社・丹生神社(美浜町丹生)
 まず、三方郡の丹生神社が丹生浦にあったことから明かにしていこう。この地名は「倭名抄」に掲げられていないが、往古は日本海の要津であった。例えば「扶桑略記」巻24、延喜19年(919年)11月21日の条に、渤海国からの使者到来に関してその名が見出される。文意をとれば、渤海国の客徒はまず丹生浦に来航して浮居し、着岸せず、牒状を政府に送る。それには一行の人数や来訪の理由が述べてはあるものの、京都では仔細がわからない。そこで同月25日に右大臣忠平は、彼らを若狭に着岸させずに、越前に回航させ、そこから入京させるべきだと奏し、そのとおりに運んだのである。当時は敦賀の松原館がこの方面から来着した外客に宛てられていたので、それに従わせたわけであるが、とにかく丹生浦が敦賀の副港的立場をもち、同時に若狭有数の海口であったことが考慮できるであろう。この港町は、敦賀湾と若狭湾とを分ける立石半島の突端部にあり、三方郡美浜町(もとは山東村)丹生といわれる。国鉄の美浜駅から東に5km進み、半島の付根にある佐田を起点にして、ここから半島の西岸を13kmも北行したところである。立石半島の突端部はここで数字の7字形を呈して海をだきこむ。この小湾に南面する漁村が丹生である。最近はここに原子力発電所が建設されるそうであるが、部落の変貌もさることながら、さぞかしあの美観が失われることであろうと、心痛に堪えない。私がここを調査したのは昭和34年7月28日であったが、このころはまだ全くの僻地で世人の関心から遠ざけられていたから、往来も容易ではなかった。幸にも私は郷土の人永江秀雄氏の配慮で美浜町町長の後援をうけ、また現地でも多数の人たちの協力をうけて完全に調査を終ることができた。採集した試料は水銀含有0.0019%から0.0066%を示して、丹生の名を実証してくれたが、ここに所在した丹生神社は、浦の東側の山添いに"賀茂大明神"(社額による)として残っていた。昭和12年にこの神社から提出された"村社加列願"に「福井県三方郡山東村大字丹生字北宮脇第三十三号第八番地式内無格社丹生神社」とあるから、この社が本来ニウヅヒメ祭祁に起り、後代に丹生・加茂明神と変じ、現在加茂神社として通っていることが判明するであろう。式内社・須可麻神社(美浜町菅浜)
これに関連して注意しておきたいのは、丹生への往還路を握っている佐田部落に織田神社があり、その末社の一つに丹生神社が見出されることである。この社が護持されていた神岳寺の由来について写本(草創神岳寺根源由来略記)に「弘仁年間空海来りて改宗、真言宗となし芳春寺と改称し、仁和元年折田の南北に両宮を建立し丹生賀茂明神を勧請して同年五月十一日始めて行幸あり」とあるように、この丹生神社は真言宗に常套的に見られた丹生・高野明神の変形と認めるべきであろう。式内社・高那彌神社(美浜町竹波)
それよりも、もっと関心を惹くのは、この佐田の織田神社が式内社であり、佐田から立石半島の西岸をゆく丹生往還のみちに沿って山と海とに挟まれた猫額状の土地を見出しては息づいている部落が4つあるが、そのどれにも式内社が鎮まっている事実にほかならない。すなわち佐田の北の菅浜に須可麻神社、竹波に高那弥神社、そして丹生に丹生神社という次第である。この事実は、この半島西岸が日本海沿岸航海にとってどれほど重要であり、そのためにいろいろな氏族がひしめいていた名残にほかiならない。したがってその先端に位した丹生浦の立場は、おのずから明白であろう。「日本書紀」巻8、仲哀天皇2年の条に「皇后は角鹿(敦賀)より発し行きて、淳田の門に到り、船上にて食す、時に海鯛魚(たい)多く船傍に来る、皇后は酒を以て海鯛魚にそそぐに、海鯛魚は即ち酔て浮きぬ、云々」(原漢文)とある。井上通泰氏(「上代歴史地理新考一北陸道」PP、411〜412)は、伴信友(「若狭国官社私考」)がこの話のなかの淳田門(ぬたのと)について、これを三方郡丹生浦の琴引が崎と同郡常神岬との間の管絃の渡(古名・のたのと)に宛てたのに賛意を表し、この一節を「若狭風土記」の佚文と認めている。注目すべきであろう。現在丹生の恵誓寺に蔵せられている寛永年間(?)の口上書(写本)に、この浦を叙述して「東西北の三方は源山そびへ、南は開て入海、東西北に)川ながれ、麓は町屋作り五百八拾軒斗、塩釜六拾三軒、寺拾一ヶ寺、西町・鍛冶町・中町、一方は並木あり、……」とあるのを見ても、江戸初期の描写ながら、往時の繁栄が偲ばれよう。
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私が蛇足を加えるところは何もない。
摩気神社(園部町竹井) しかし一つだけ加えたくなってしまった。菅浜の式内社・須可麻神社(祭神・菅竃由良度美・日槍の七世の孫)と麻気神社が同じ所に祀られていた。麻気はマケとかマキとか読んでいるが、本当はアサケなのではないのかと思う。立石半島は花崗岩で金属が採れたと私は考えている。京都府船井郡園部町の明神大社・摩気神社とか、奈良県磯城郡田原本町の式内社・鏡作麻気神社などもやはり金属に関係のある社と思われるが、マケ・マキと読んでは意味がわからなくなる、アサケであろう。アサは金属と関係のある言葉である。滋賀県高島郡マキノ町の北牧野製鉄遺跡群、恵美押勝の時代のものとだといわれるが、一方では継体が即位できたのもこうした鉄のお陰だともいわれている。
ついでに白杉の槙山・高浜の牧山の意味も解ける。両山とも麻気山で、鉄の山という意味ではなかろうか。

「丹生神社」(美浜町丹生の式内社)
大浦半島:水銀地名


















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