旧・東大浦村(ひがしおおうら)
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《旧・東大浦村の概要》 東大浦村は明治22年〜昭和17年の加佐郡内の自治体名。大浦半島の東部に位置することによる村名。 河辺中・西屋・室牛・河辺由里・河辺原・観音寺・栃尾・大山・田井・成生・野原の11か村が合併して成立し旧村名を継承した11大字を編成した。 村役場は河辺原に置かれ、明治28年東大浦・西大浦2か村組合高等小学校が河辺中に設置された、同32年西大浦村の中田に移転した。 同44年原尋常小学校に高等科が併置された。 《人口》2050。《世帯数》341。(大14) 《主な社寺》 《交通》 府道田井中田線が村の中央を走る。 ↓平21.5.24より開通した「市道・空山線」。大山峠より空山まで通じている。 《産業》農業・漁業
〈 東大浦村。古代は何れの郷に属したものであるかを断定すべき資料に乏しく、諸説区々であることは参考一に示す通りである。今日は河辺中、西屋、室牛、観音寺、河辺由里、河辺原、栃尾、大山、田井、成生、野原の十一ケ字から成っているが、中古総称して河辺谷といったものである。 参考一、東大浦村と西大浦村とは、もと一村であったが二つに分れたものである。今其古代の郷名を探るに当って便宜上東西二村を併せて論ずることにした。…。 二、西屋に古城址があるが之に居た者の氏名は不明である。 三、観音寺は同地在の補陀落山観音寺(花蔵院)といふ寺の名に由来する。此寺は50桓武天皇の延暦年間に僧最澄の開いた所で、僧行基の作った千手観音を本尊としている。後兵焚に罹ったが後土御門天皇の文明元年に僧法爾が再興した。しかし明治天皇の慶応三年に大火に罹り大半鳥有に帰した。 四、河辺原にも古城址があるが之に居た者の名も不明である。 五、田井は往時凡海郷の部内であったといひ伝へられている。 六、成生は昔志楽郷河辺庄の部内であったといふことである。旧名鳴生、氏神は大将軍神社である。地名の起源は風土記によると左の記事がある。(前略)御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)の御代に当田国青葉の山中に陸耳御笠といふ土蜘がいたが無情であって人民を苦しめた。ひこで日子坐王は勅命をうけて親しくご征伐になった。丹後の国と若狭の国との境に到られた時に甲冑が鳴動ナリドヨんで光をあらはすことは火の燃えているやうであった。所がそこに一つの巌石があってその形が非常に甲に似ていたから将軍の甲岩と名づけられ、また其地を鳴生と号けられた。(後略)古来鰤を漁するの地であるとして其名が宣伝せらている。之を旧記(嶽氏所蔵)によって調べて見ると東山天皇の寛永三年(将軍徳川綱吉)に大地震があった。之から土民が鰤の祟であるといって恐れてあまり漁をせぬ様になったとのことである。七、野原は昔凡海郷の部内であるといふことである。 〉 |
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