丹後の伝説:27集 |
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巨勢金岡、赤野の中世集団墓、きつねがり、烏島、蛇島、他このページの索引赤野の中世集団墓 えかきの金岡さん(舞鶴市赤野) 大きなワラぞうり(舞鶴市平) カラス島(舞鶴市佐波賀) きつねがり(舞鶴市平) 蛇島(舞鶴市佐波賀)'惣兵衛ビワと吐月水(舞鶴市佐波賀) 平の力男 八幡神社(舞鶴市平) へこき与平(舞鶴市平) |
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えかきの金岡さん (赤野)
多称寺村をあがるところに赤野村がある。平村の北にあたる。延徳二年(一四九○年)河辺村半済方御年貢米銭納帳写(西大浦村誌)に 赤野村二十三貫三百十八文 二十一石六升二勺五才 とあり、彦左衛門、赤野弾右衛門の名が記されている。河辺村のなかでは最も貢租を負担していた豊かな村である。 当村には、平安時代初期の絵師巨勢の金岡の屋敷跡があると伝えられる。旧語集は「当村巨勢金岡屋敷跡あり、伝云姓は巨勢宮大納言無位階自然至+秦丹青妙学呉道子筆法及精仏像、仁和四年九月五日賜詔、宇多帝画賢聖之図和国之名筆也」と設す。 大正から昭和にかけて郷土史家の山本さんの記録によると、金岡墳塚の石棺が、多称寺中腹の「じょうどじ」山という緩やかな傾斜地にあり、上中下三段の台地がある。ここが金岡寺の旧趾である。四、五尺もあろうかという礎石があり、屋敷地は石崖を廻らし平面図としてみれば香爐形をなす、巨勢金岡が画面に用いた落款印形どおりの二脈香爐形と一致する。金岡の死没年代がはっきりしていない。この石棺の調査がまたれる。 金岡は貞観年中(八五九年)神泉範の長官であった。平安時代の中期ごろから唐絵がおとろえ、日本固有の画風がおこってきた。この和様の絵を大和絵といっているが、この始祖が金岡だといわれている。松尾寺の寺宝とし国の文化財に指定されている「普賢延命像」「孔雀明王像」は金岡の筆であり、元慶四年京都御所紫宸殿の障子に「聖賢の障子」といわれるのを画いたのも残っている。 ふと書棚の方をみた。紀州民話の旅という本が目につく。舞鶴のサンケイ支局長さんからいただいたものだ。金岡さんの記事があったことを思いだした。 「筆捨松」の話だ。平安初期、風景や風俗画に新様式を開いた宮廷絵師、巨勢の金岡が、熊野詣での途中、峠の枝ぶりのよい松に腰をかけ写生をしていた。そこへ一人の童がでてきて、 「どちらが上手か、競争しよう」と持ちかけた。どちらもうまくて甲乙決めがたい。そこで童は、描いた鳥をとび立たせると、金岡もウグイスを飛びたたせた。さらに童が手をたたくと、鳥は絵にもどったが、ウグイスは帰ってこない。金岡はくやしくなり、絵筆を松の根元に投げすててしまった。その童こそ、熊野権現の化身で、おごった金岡をいましめるためにやってきたのだという。この話は土地の人たちの教訓となって今だに残っている。村人は近くに石碑を建て、二代目の松を植え大切にしている。
大浦半島の赤野神子谷に・14〜16世紀・支配者の存在示す中世集団墓
舞鶴地方史研究会・神戸市から専門家招き調査 舞鶴地方史研究会(小林清会長)は、大浦半島の赤野神子谷の竹林にある中世時代の集団墓について神戸市の摂陽文化財調査研究所の古川久雄さん(49)を招き、このほど調査をした。十二年前に平の郷土史家の真下克己さん(78)がその存在を明らかにしたが、古川さんの調べで十四世紀末から十六世紀末までにできたもので、この谷を支配していた土豪の存在を示す遺跡と分かった。真下さんは文書にも記録されている赤野氏一族の墓と推測している。 真下さんは平成二年、集団墓の存在を明らかにし、調査結果を同研究会の会報に発表した。凝灰岩の板碑や五輪塔、自然石などの計五十九基が無秩序に転がっていたり、一部は原型を残して建っていた。この内、二基については室町時代の「文明七年(一四七五)」の銘文が刻まれていたが、だれの墓か手掛かりはなかった。 古川さんは高浜町の日引石に詳しく、舞鶴市内の石造物の調査にも何度も訪れているが、今回初めて赤野の現地を見て回った。文字が彫ってないことなどから中世のころのものと指摘。近世以降に墓として使わなかったためこの集団墓が残ったとし、現状のまま保存することをアドバイスした。 大正三年に村の歴史を書いた「西大浦村沿革及び記事」には、赤野氏の記述がある。永仁二年(一二九四)から永正十三年(一五一六)にかけて大浦全域を支配した。真下さんは赤野氏に関する文明年間の文書の存在や、赤野氏の墓地に中世にさかのぼる墓がないことなどから、この集団墓が赤野氏一族のものと考えた。「中世裏の発見で西大浦村の文書が現実的なものとなった」と話していた。
平の力男 (平)
京の河原町三条の京つけもの屋に並べられた《すぐき》《千枚漬》の原料は、舞鶴の平からきたのだという。 三十数年前のこと、佐波賀では大正ごろから《佐波賀》を作っていた。佐波賀で大根の種を作ったので、そのように呼ばれていた。 二月、三月の雪の下でも育って大きくにり、甘味が強いため、さし身の《けん》など生で食べると大変よい味がした。それで京都、大阪の問屋によく売れた。しかし、今はそのあとかたもなく、タバコ畑になっている。そのタバコを吸いながら古老は空を見上げながら次のことを語ってくれた。 昔、平にたいそう力のある男がいた。その力男は働き者で一人になった母親を大変大事にし、一メートル九○センチの体に母親をおぶって田畑にいくことがあったが、その姿はまるで大木にアブラゼミがとまっているようだった。 牛にスキを引っぱらせて田畑をすくのだが、そのスキはたいそう重く、普通の人ではとても持つことができないほどの重さだった。 ある日、よその国から力自慢がやってきて、ちょうど田畑をすいていた力男に力男の家を尋ねた。すると力男は牛に引っぱらせていたスキを片手でひょいと持ち上げ、自分の家をそのスキで指し示した。それを見た力自慢は普通の人でもこんな力持ちなのか……と、すごすごと帰っていった。
きつねがり (平)
雪の深い平の里。正月十四日、平の鎮守の若宮神社には一人の若い堂守がいました。この人は大変な美男子で、近辺の若い女たちのあこがれのまとでした。が、どうしたことか、この堂守は女たちにいいよられても、庄屋たちが嫁を世話しようとしても、ただ笑っているだけてした。 その日堂守は明日が左義長だから正月の飾りをおさめようとしていました。ひとり忙しく働いていますと、一人の若く美しい女が頭から雪におおわれた姿で神社にやってきました。この辺では、ついぞみかけない女で、黒髪が腰のあたりまで美しく波立っていました。 その美しい女は堂守をみると、「旅に出たのですが日が暮れるし、この雪で困っています。どうか一晩ここに泊めていただけないでしょうか……お願いします」と、美しい鈴のなるような声でいいました。 堂守は、ただ、あ然として、その女の美しさにじっとみつめていました。 女の人は白い手をついて、「どうか一晩でもよろしいので泊めてください」と再び美しい声でたのみました。堂守りは、もう日がくれているし、雪の中にこの女の人をほおりだすこともいかず、かわいそうに思って泊めてやることにしました。 堂守りは女の人がおなかがすいているだろうと、一生懸命ごちそうをつくりました。女の人は、それをおいしそうに食べました。堂守りも、いっしょに食べました。女の人がご飯をよそってくれました。何回もおかわりしました。おひつの中のご飯はあまりなかったはずなのに少しも減りません。 堂守りは不思議に思いましたが、いつになく満腹になったので、少し横になりました。 女の人は押入からフトンを出し、堂守りのために敷いてくれました。フトンは一つしかありません でした。それで堂守りは、「私はムシロで寝ますので、あなたがそこに寝てください」と、フトンを 女の人にすすめました。 「いえ、あなたさまこそ、ここでお休みください」 夜もふけてきました。堂守りは、静かにフトンの中に入りました。すると、女も静かに堂守りのフ トンに入ってきました。堂守りは身を固くしてフトンの端へゆずりました。 女のやわらかな髪の毛が堂守りの顔をスーとなでると、たちまち堂守りの体は暖くなってきました。 堂守りは、このように暖な寝床で寝るのははじめてでした。いつもは、冷たいフトンで手足が冷く、なかなか寝れないでいたのです。なんて、あたたかいのだろう……。 女の暖い息が堂守りの首すじに流れ、いつの間にか堂守りは龍宮城に行ったように寝入ってしまいました。 あくる日、朝を告げる長雲寺の鐘の音がゴォーン、ゴォーンと聞えてきました。パとはねおきてみると、そばにいるはずの女がいません。ただ女のぬくもりだけがそこにあるだけでした。 そしてフトンの上には、キツネの毛が落ちており、土の足あとが点々と外へ続いていました。堂守りはその足あとをたどりました。足あとは裏山の奥へと続き、そして消えていました。堂守りはその時になって初めてキツネにばかされていたことに気がつきました。それにしても、ほんとうに暖い一夜だった……。 堂守りは村人にこの夜のことを話しました。村人たちは、人をばかすキツネや化物は退治しなければならないと、さっそくキツネ狩りをはじめました。 それ以来、正月十四日の夕方になると、村中の二十歳までの男子はキツネ狩りの宿に集り、武装して年上の人を先頭に若宮神社の方へ進み、村中をかけ声かけて一周することになりました。 「明日は地蔵堂のまつりとて キツネ狩り ウォーッ ウォーッ キツネ泣きゃ テン泣く 泣くキツネ とりおさえろ………」
大きなわらぞうり (平)
むかしは平から町へでるのには、てくてく歩いていくか、船でいきました。野菜やお米は船で運びました。かえりは町の金肥をつんで帰ったものです。最近は新しい大浦トンネルが出き、引揚記念館の建設の造成もほぼ終りました。平地区の家には自動車があり、便利になりました。又魚つりに大阪や神戸、京都からくる人も多くなりました。 この平には、むかしから一月二十四日には次のような行事があります。その年に四十二才と六十二才の厄年の人達の無病息災と村全体の無事をいのるための行事なのです。 一米五十センチのわらじと約二米くらいの大蛇のわら細工を竹につけ、お礼をかいた木札をつけて各村に通じる道の入口に立てかけてあります。 当日の朝、厄年の人達が集まって、行事の準備をします。まず男の人はワラを持ちよって、大きなぞうりと蛇をつくります。各家から持って来られた木札に水神さんと荒神さんへのお礼を書きます。女の人は料理の準備をします。すべての準備が終わると、仏だんにお祝米と新鮮な野菜を供えてお坊さんにお経をもらいます。はんにゃ心経をあげるのです。これが終ると四十二才の人が、お経さんといってお経の本とお洗米をもって村中をお礼をいって歩き廻ります。 さてこの大きなわらぞうりですが、古老を中心に作ります。わらぞうりをこのごろはかないので若い人は作り方を知らないのです。又わらは西武農場の牛のえさに、又姫路の方からたたみ用に買いにくるので少く、この行事用はのこしてあるのです。むかしは武者修業といって、さむらいや力じまんの人がやってきて、勝つと村をあらし、金子をとっていくことがあったのです。平にはいってこようとすると村の入口にこの大きなわらぞうりを見て、こんな大きな人がこの村にいるならかなわないとこわくなってこの村にはいらずに逃げて帰ったというのです。村の安全のためにはどうしてもこのわらぞうりが必要なのです。
へこき与平 (平)
全国の民話を調べていくと、へをこいたので打首になったとか、嫁にきたが家を出る時人様の前ではしてはならぬと両親からきつくいわれたので、人様の前ではがまんしていた。どうしても人のいないところでは出ない、人前できんちょうすると出そうになる、おむこさんもその母も、嫁がこの頃ごはんもあまり食べないし、まるまるしていた体も細くなった。顔色もよくないので、嫁に尋ねた。嫁はおそるおそるへのことを話した。むこも母も、そんなこと遠慮することはないよ、だれでもこくものだといった。嫁はほっとしたように安心したのか顔がほころび、それでは失礼しますと、となりの部屋に入るやいなや、ものすごい音、ふすまが丸くなる程、しばらくすると風と共にぷーんと何ともいえぬ臭がしてきた。一ケ月もたまっていたのだから、むこも母も思わず鼻をつまんで呼吸するのも忘れてしまった。嫁はせいせいした。むこ殿はこんなことが毎日くり返されてはたまらないと嫁用の一部屋を建てたという。この話は京都府の久美浜の方の話しだが、舞鶴の平にも次のような話がある。 むかし平の村に与平さんという男が住んでいました。与平は働きものでおとなしかった。まだ一人者で嫁さがしをしているが、なかなかみつからない。というのも、おならをこくというので村中の評判でした。 このうわさを聞いた隣り村の長者さんが、与平を自分の家に招きました。人の招きを今だ受けたことのない与平は嬉しいやら、はずかしいやらの気持で出かけました。 長者さんの家だけあって、部屋がいくつもあり、みたこともないかざりや置物がありました。 主人は奥の部屋に案内してくれました。ほあーとする座布団に坐った。主人はじろじろと与平をみていました。女中さんがごちそうのお膳を運んできました。与平ののどがどくんとなりました。主人がこう言いました。 「与平、お前はおならをよくこくそうだが、わしの前で百発こいてみい、もし百発こいたら、米一俵やろう。」 与平はごちそうを食べたいが、主人にそう云われるとこかないわけにいかない、さっそく与平はおならをこきはじめました。ぷー 一発、二発……十発大きい時やら小さいとき、主人は耳をすまして数をかぞえる。五十発を越える頃与平の顔は少し赤くなってきました。主人はもう弱ってきたのだろう、それにしてもよくこく男だな、うわさにたがわんなと思いました。八十一、八十二、まだ続きそうだ、九十一少し間隔がながくなった。「ぷー」百発めは大きなおならだった。 びっくりした長者さんは、「もうよい、もうよい。」と云わざるを得ません。部屋は何ともいいようのないにおいです。 与平はごちそうをいただき、「もうおならはいりませんか。」と誇らしげにいいました。 長者さんも約束をたがえる人でない、一俵の米を与平にあげたということです。 どの人でもその人の特長があるということはいいことですね。
祭神 誉田別尊
由緒 不詳 境内神社 斎神社(祭神不詳) 日森神社(祭神不詳) 『舞鶴市民新聞』(061110)に、 3区の伝統芸能を奉納・平八幡神社・秋の大祭・振り物、神楽、三番叟・平・中田・赤野
大浦平地区の平八幡神社(坂根章宮司)で三日、五穀豊穣を祈願する秋の大祭が営まれた。府の無形民俗文化財に登録されている平、中田、赤野区の三区のそれぞれの伝統芸能が奉納され、多くの参拝者でにぎわった。 奉納された伝統芸能は、平区が振り物、中田区は神楽、赤野区は三番叟。平区では、朝から飾り付けた櫓屋台を引き、笛や太鼓を奏でながら区内を巡行、氏神や区長宅でも振り物を奉納した。 宮入りを前に、三区の氏子が平区の入口に集合。平区を先頭に幟を立て笛や太鼓で囃子を奏でながら、神社まで約三百メートル巡行した。境内で太鼓の打ち合いの後、神事が営まれ、本殿前の舞台で伝統芸能が演じられた。 まず赤野区の三番叟が古式豊かに奉納された。能の「翁」に準じて天下太平と五穀豊穣を祈る儀式で、一番叟をはじめ鮮やかな衣裳を着けた舞人が四つ舞を披露した。続いて中田区の神楽があり、二人の舞人が裏っ赤な顔の獅子頭をあやつり、「鈴と御幣」などの祓い神楽曲と「寝獅子」などの獅子舞曲を、地に這い天に舞い上がり優雅に演じた。最後の平区の振り物では、幼児や若衆を中心に、「露払」から「大薙刀」などの太刀振りが、笛や太鼓に合わせて力強く演じられた。(記事と写真 ボランティア記者・河西昭彦さん) 『舞鶴ふるさとのやしろ』に、 舞鶴市史各説篇「京都府宗教法人名簿に登記されている市内の神社」によると、全市百七十神社のうち八幡神社は十八社で、一割を越え、このうち七社が大浦地区にある。そのうちでも、平安時代の神像三体(市指定文化財)をまつり、古い歴史を秘めているのが、平の八幡神社である。
平の集落の西端、舞鶴湾に南面した同神社は平のほか中田、多祢寺、赤野の総氏神である。安政五年(一八五八)平の全村に近い六三軒とともに神社も全焼したが、神像三体は無事だったのも当時の人々の敬神の深さを物語っている。 神像は三体とも一木造で、男女神一対は平安後期の優品、もう一体のやや小さい女神像は表面に鉈彫のあとがある素朴な作品。村の人たちが、家の床に間にかかげる氏神の掛け軸には、中央に「八幡大神」向って左に「日森大神」右に「斎大神」と書かれている。「日森大神」とは多禰寺創建の伝説がある麻呂子親王で、「斎大神」は天照大神とされており、多祢寺の本尊薬師如来信仰と、八幡大菩薩信仰との結びつきを示している。八幡大菩薩は水軍の守護神としてあがめられたが、この神社の存在は、平入江が重要な水軍の基地だったことと深い関係がありそうだ。
惣兵衛ビワと吐月水(佐波賀)
大浦半島の西南端に、佐波賀村というのが海に面してあり、上下佐波賀とわかれる。 ここの産物は、みかん、ビワ、茶を多く産した。特にそのころビワは珍しく変わった果物とし て知られていた。これは佐波賀の先人である惣兵衛さんが、苗を兵庫県の池田にいき、珍しいもんだといって持ち帰ったのが始まりで、この村のビワは惣兵衛ビワといわれ、近隣に知られていた。 生業は農業が主であったが、副業として綿の木を畑に植え木綿を織っていた(京都府誌)。 又漁業も盛んで、とれた漁は大阪の方にも出荷されていた。当村は船足を利用して、浜村、北吸 村など又長浜村から町肥を運び、野菜、特に大根を田辺城下に出していた。 延享三年(一七四六年)の郡中高究付覚によると農家戸数は四八、大浦組庄屋をつとめた斉藤 久左衛門もお城のような家に住んでいた。 当村の磯部には吐月水といわれる名水があり、徳樹院様はお客のあったとき、この吐月水を使用していたという。集落の裏山に古城跡がある。城主は下志万七郎左衛門が住んでいたともいい、桜井志摩守(田辺旧記)とも伝えている。集落の南方に蛇島が浮かび、海上交通の要所として重要であり、城が築かれていた。この城には逸見駿河守がいたという。これは天正のころのことだ。 なお蛇島に、中世末期、連歌師紹巴が上陸したことが、紹巴の「天橋立紀行」に記されている。 「松尾山をおがみて、志楽の地より舟にのろうとする。前日和田よりの案内不届きにて、迎舟もみえず、待ちわびていたら、あやしきつり舟をえて、心を残して蛇島にあがる。二日ばかりいて、二十一日嶺山よりおむかえをともなひ三日に出かけるに大志万但馬守父道育舟どもあつめて、千とせの浦にて朝の咽をたてける間に発句所望される。 「夏の日やふべき千とせの浦の松」
カラス島 (佐波賀上)
舞鶴の東湾の方には、蛇島とからす島という島がある。蛇島は大じゃが住んでいたというけど、今はからすの巣である、なぜからす島にからすが住んでいないのか古老にそのわけを聞いてみた。 むかし、からす島にはたくさんのからすが住んでいた、いつのまにか島のどうくつにふくろうが住みつきました。はじめは仲よく住んでいたのですが、ちょっとしたことで仲たがいをしてしまった。からすは羽根が強く、昼はじょうぶな羽根でふくろうをいじめていました。しかし、ふくろうは夜になるとよく目が見えるので、夜になるとからすをいじめました。ねる頃になるとふくろうはからすをつついたり、たたいたりしたのでからすは段々ね不足になった。その為かからすはとなりの蛇島にうつってしまったのです。それよりこの島はふくろうの天下になってしまったのです。 からす島には弁天さんという女の神様がまつってあります。へび年の七月生まれで、とてもきれいな女の人で、七福神の一人で、お金の神様の一人です。 毎年七月の十二支の巳の日におまつりがあり、豊作、豊漁、家内安全をいのったそうです。たいこをたたいてとにぎやかなお祭りでなく、船で島までいって、おまいりするだけでした。 今は自動車を各家に持つようになり、町に出る船を持っている家もすぐなくなり、おまいりもほとんどなく、魚つり業の人たちが、都会から来た人を案内する船があるだけで、島々や蛇島の附近は釣人のつり場としてさかんで、夜になるとこの島からふくろうの鳴き声がきこえてきます。
蛇島
蛇島には大昔、大蛇が住んでいて、前の佐波賀村の人々を苦しめて仕方がなかった。佐波賀上、下の中間に「子ナギ」という谷があり、昔は両字の人たちはこの谷に住んでいたが、蛇島の大蛇がねらって痛めるので、上、下に分かれたという。 この大蛇を退治したのは、雲門寺の開山普明国師であるといわれ、また大蛇は雄島へ逃げたともいわれるが、とにかく蛇が住んでいたから蛇島と名付けられたといわれている。 『舞鶴の民話1』に、 蛇島 (上佐波賀)
舞鶴湾の東の海に島が二つ並んでいる。一つは蛇島といい、他を烏(からす)島と呼んでいる。 戦前は、蛇島の方は海軍士官の子女だけが海軍の船に乗り、泳ぎにいけることになっていたが、一般の子供は島へは行けず、与保呂川の河口あたりの海岸で泳いでいた。 与保呂川の下流を新川といい、よくここで小学生がおぼれ死んだため、川のほとりには地蔵さんが祭られた。 毎年八月には、おぼれ死んだ子供たちの霊をなぐさめるため祭りが行われ、灯ろうが流されるが、そのときは東の海が灯ろうで一杯となる。 昔、蛇島には大蛇が住んでいて海をへだてた佐波賀の村人を苦しめた。 村人は佐波賀の子ナギという谷あいに住んでいたのだが、夜な夜な大蛇が村人を苦しめたので、村人はその谷を境に上下に分かれて移り住んだといわれている。 また、この大蛇を退治したのは中舞鶴の雲門寺の開山普明国師といわれている。 『市史編纂だより』に、 資料紹介
《蛇島の買収》 編さん室 舞鶴湾の東港寄りにぽっかり浮ぶ蛇島(じゃじま)は、東西約100メートル、南北同227メートル、周囲同585メートルの小さな島である。全島うっそうとした樹林に覆われ、その名からして何か曰(いわく)がありそうに思えるが、そのはっきりした由来は分からない。 この島の名が文献に出て来るのは、安土・桃山時代の連歌師里村紹巴が、文禄12年(1569)の閏5月から7月にかけて、ほぼ1カ月半の天橋立一見の旅を終えてものした紀行文「天橋立紀行」が初見と思われる。しかし、ここではそれらのことについて述べようというのではなく、実はこの蛇島は、かっては1個人の所有であったのを大正5年、当時の海軍当局によって買収されたいきさつを紹介するのが目的である。 以下の資料は全て近畿財務局舞鶴出張所に保存されている「蛇島買収関係書類」による。 まず詑島の地籍及び面積は、加佐郡西大浦村大字佐波賀小字蛇島(5、230坪)。所有者は同村大字平参番戸、上野惣吉(敬称略)。一方、買収側の舞鶴鎮守府司令長官は名和又八郎海軍中将(第7代)。 大正5年3月13日、同長官決裁になる買収1件書類によれば、買収事由は「大正5年3月8日官房機密第258号ノ二訓令ニ依リ買収ヲ要ス」とあり、買収価格は2.678円35銭である。 (以下資料は略) |
資料編の索引
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