丹後の地名

細川ガラシャ夫人
in 丹後味土野


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細川ガラシャ夫人


Amezing Grace


ガラシャ夫人(弥栄町・ガラシャの里の案内看板より)←以前建てられていた「ガラシャの里」の案内看板のガラシャ夫人絵
ガラシャ夫人は、明智光秀の娘で、15歳の時、同い年の細川忠興に嫁いだ。主君、織田信長の媒酌であった。

みめ麗しく、というか超麗しかったといわれるが、才長け、情けあり、信仰心強い婦人であったと伝わり、二人はたいへんに仲の良い夫婦であったという。

ガラシャは洗礼名で、丹後にいた時は、まだその入信以前であるので、細川珠(玉・玉子)夫人と呼ぶのがよいのかも。「丹後七姫伝説」の一人に彼女も挙げられている。


味土野の女城跡の案内
父親の明智光秀は「逆臣」とか「三日天下」と蔑視嘲笑され、一般の評価はクソミソであるが、築城や砲術、軍学の第一人者でまた教養人でもあった。一時は信長配下ナンバーワンで、丹波ばかりでなく丹後平定にも力を貸している。地元の丹波福知山や亀岡などではその遺徳を顕彰する「光秀祭」が盛大に行われている。「福祉行政は光秀から」ともいわれるそうで、長くはない治世であったのに地元ではたいへんな名君と人気は今も高い。
幾つもの古寺院を毀しその石碑など運び出して己が城の石垣にしたので、恨まれもしてはいるが、全体としては御霊神社に彼を祀るので、これらの地では決して光秀の悪口は言えない。
本能寺の変直後、金品を貧民に与えたり、人民を重んじた法制を敷いたりした、そんなことをした者は誰もいなかった。実際のところ今でもそうした名君はめったなことに現れない、公約はするが行動ではその反対ばかりなのだから、当時いるわけもなかった、京都人はみな名君現ると拍手で迎えたともいわれる。もし三日でなくもっと長く天下が取れていたなら、間違いなく超名君として評価された人物であった。
免税歌碑(御霊神社)
福知山市の御霊神社境内にこんな歌碑がある→
みなさんももし政治家や軍人めざすなら、免税や福祉に力を注ぎ、市民に拍手で迎えられるものとなっていただきたい。下らぬモンがショモナイ大ウソこいて当選しやがったなどと言われても仕方なかろ。





隠栖地探訪
「細川忠興夫人隠棲地」の碑
「細川忠興夫人隠棲地」の碑
ガラシャの幽閉地跡(京丹後市弥栄町味土野の女城)↑高台と下の広い場所もそうである。
この地こそガラシャ夫人の生涯を変えた、特に精神的に、宗教的に飛躍的に向上させ、ガラシャ夫人をガラシャ夫人に育てた場所かと思われる。近くに人家がないことはないが、周囲は山ばかりの自然そのまま。「花なき峰」だが錦秋の頃は特に美しく江戸期から名所であった、足を伸ばされてはいかが。こんな所↓

(道は狭く見通しはきかない、待避場もあまりありません。軽トラサイズの車がよい、マイクロなど大きな車はムリです)



母親は?子といい妻木範?の娘であり、その光秀が惚れ込んだ女性。ガラシャはその間の娘なので、たぶんうわさ通りの夫人であったと思われる。

ここは野間の霰で、ここから3キロ先が味土野

弥栄町野間霰という聚落から
←この道を入る。
1車線の山路で、対向車があればすれ違えないので注意。

ノボリや案内板などはないかも知れません。




そのころの光秀の居城・大津の坂本城から、細川父子、藤孝(幽斎)と忠興、の居城のあった長岡京市の勝竜寺城へ輿入れした。天正6年であった。
ガラシャ夫人が丹後へやってくるのは、それから二年後くらいであろうか。まだ舞鶴城も宮津城もない時代で、宮津・智源寺の西側の裏山にあった大久保(大窪)城にいたといわれる。

こんな谷間を遡る(右手明るく見えるところに道のカードレールが見える)ガラシャの頃はもっと狭い細道であったと思われる、人一人がやっと通れる道であったのでなかろうか。
←光っている所が道。
深い谷の急斜面に道がある。

運転を誤れば命はないかも、十分に注意を。




天正10年が本能寺の変で、「逆臣」などと呼ばれるが、それはかなり「信長史観」「秀吉史観」的な、強い者、後に勝った者の歴史認識であろう。逆臣が誤った歴史観がどうかはわからないが、それだけでは決めてもしまえない。しかし大勢としては光秀は天下を維持し続けられそうにもないと判断されていたようで、戦国の世では弱いと誰も味方にはなってくれない。姻戚であり、丹波・丹後を協力して平定してきた第一の親友であるはずの細川氏さえ味方になってくれない。

ガラシャ夫人の立場が微妙になってくる。負ければ逆臣の娘、もし光秀が天下を維持できれば天下人の娘である。早まってうっかり自刃でもさせれば一大事。その他のもろもろの要素を分析して、難しい判断を細川父子は迫られた、状況がどちらに転ぶか一歩判断を誤れば一家の存亡にかかわる。
取りあえずここに置いていては具合が悪かろう「行方不明」にしておこうか。ワシも剃髪して幽斎と名乗り隠居する、息子よお前は強い側についたフリをしてろ、どちらに転んでもかなりヤバイぞ。
「細川忠興夫人隠棲地」の碑
光秀の死、母のいる坂本城落城を知らされ、ガラシャ夫人は2歳の子を残し、ごくわずかの警固の者を伴って、人知れず大久保城を出た、天橋立を左に見て、夜間の家中の者にも秘してのことであったが対岸の日置に渡る。世屋川を遡り、山を越えて、現在の京丹後市味土野(みどの)へ入った。
「細川忠興夫人隠棲地」の碑
高台中央にに「細川忠興夫人隠棲地」の碑
が建てられている。










味土野は現在も民家はあるが、相当な山奥である。紅葉と呼子鳥が有名であるが、ここに碑があるということを予め知っていないと誰も行かないような、人が住んでいるとはとても思えないようなずいぶんと辺鄙な場所(失礼)。
今は日置の反対側、弥栄町の黒部から入るのがよく、麓の野間の須川や霰までは道がよくスイスイで行ける。それから先の3キロばかりは車同士がすれ違えないような狭い道になる。
この味土野聚落の小高い丘の上、「おさきの丘」と呼ばれるそうだが、ここにに「女城跡」があり、ガラシャ夫人の幽閉先であった。
どなたが添えるのか花が捧げられている。「昭和11年4月建設」。「与謝郡竹野郡連合婦人会女子青年団」と書かれている。

このころは信長も秀吉も切支丹を保護していた。武将でも高山右近や内藤如安のように切支丹大名がいた。
味土野隠棲に従った侍女の中に清原いとという熱心な切支丹信徒(マリアの洗礼名をもつ)もいた。細川家の親戚筋にあたり、幽斎から見れば、いとは従兄弟の娘になるそうであるが、清原家は高位の公家で、いとはガラシャとは一つ年下で、実の姉妹といってもいいほどよく似た佳人であったという。ここで過ごした2年の間の彼女の影響が強いのでないかもと言われる。
ここではもう半分くらいは切支丹であったかもわからない。
味土野観音(平成三年再建)
秀吉は大坂城の建設にとりかかった。忠興殿はその脇の玉造に新邸を作って、信長の一周忌も終わったことだし、そろそろガラシャも呼び寄せたらよかろう、と秀吉は言てくれた。ありがたい話だが、しばらく様子を見て、その1年後に玉造へガラシャ夫人は移った。
ここは丹後の田舎と違ってイエスズ会のキリスト教会がある。
『細川ガラシャ夫人』(三浦綾子)は、

 〈 その玉子の熱心さを、ルイス・フロイスは故国への報告書に次のように書き残している。
〔夫人は非常に熱心に修士と問答を始め、日本各宗派から、種々の議論を引き出し、また吾々の信仰に対し、様々な質問を続発して、時には修士をさえ、解答に苦しませるほどの博識を示された。修士は夫人を、「日本で、いまだかつて、これほど理解ある婦人に、また、これほど宗教について深い知識を持っている人に会ったことはない」といった〕  〉 
秀吉は突如切支丹禁令を出し、教会には近づけなくなった。ガラシャ夫人は清原いとに洗礼をうけた。ガラシャは何語なのか知らないが古いラテン語か、意味は恩寵・聖寵のことという。天正15年のことという。
"Amazing Grace"という曲がある、賛美歌のようなどこかの民謡のような、1個人が作曲したというより民衆の伝統曲が複合したような不思議な感銘を受ける曲だが、ガラシャは英語で言えばそのGraceのことであろうか。この綴りなら英語式に読めばグレースだが、何語か式に読めばガラシャとも読めそう。


ガラシャ夫人は美貌で聞こえた人であるし、秀吉は女気違の所があり、丹哥府志が記すようなこともあったという。その秀吉も慶長3年に死んだ。
秀吉なきあとの豊臣政権の実権はほぼ家康が握り、慶長5年、家康は会津にいた上杉景勝を討つという。家康一群が会津に出陣、すぐに石田三成が家康討伐の兵を挙げる。関ヶ原の戦いの前哨戦になっていく。三成は丹後征伐にとりかかると共に、家康に従った大名たちの大阪にいた内室たちを人質にとりはじめた。
細川家は三成方からはこころよく思われていないにもかかわらず、ガラシャ夫人方がなぜもっと早く逃げなかったのか、忠興ともあろう者が逃げる段取りを十分に準備していなかったのかがよくわらないのだが、忠興の命であったとも言うし、逃れる場所もなかったかも知れない。丹後の留守を預かる幽斎の隠居城・田辺城は50名ばかりの武士と寄せ集めの500名がいたが、三成軍は15000で包囲していた。
三成勢が玉造邸に大挙して押し寄せるなか、覚悟を決め、家臣の長刀にかかった。
享年38歳。慶長5年7月の夜のことであった。
丹後七姫らしい数奇な運命を生きた人であったが、「逆臣、三日天下者の娘」などとは決して呼べない強い人間らしい生き方を貫いている。

 9月が関ヶ原の戦い。ガラシャ夫人
11月に忠興は豊前国小倉藩を拝領している。
忠興との間には3男2女があっが、跡を継いだ忠利は三男で、加藤清正のあとをつぎ、熊本藩54万石細川家初代藩主となった。
(ガラシャが自害したとき、同じ玉造の細川邸にいた長兄・忠隆の正室の千世(前田利家の娘)は姉・豪姫のいる隣の宇喜多屋敷に逃れた。忠興は離縁を言い渡すが忠利は聞き入れずそれを怒った忠興に勘当された、それを不満を持ったか次兄も出奔してしまったという。歴史は二度繰り返されるのか、二代に渡って似たような運命に巻き込まれた一家のように思われる。)
忠興は隠居所として八代城に住んだという。忠利は寛永14年の島原の乱に参陣し、母はどう思うか皮肉なことに武功を挙げたと伝わる。

 元首相の細川護煕(ほそかわもりひろ)氏は忠興・ガラシャ から数えて17代目となる。護煕氏は舞鶴田辺城に見えられたことはないが(私的な訪問はあったのかも知れないが、それはわからない)、佳代子夫人は何度か公に見えられている。
細川佳代子夫人

↓ガラシャ夫人の最後






細川ガラシャ夫人の主な歴史記録

味土野




生誕450年を記念して作られたガラシャ像(宮津市柳縄手)

《丹哥府志》
 〈 【忠興の妻】
忠興の妻は明智光秀の女なり、父光秀の信長を弑せし時野間の味土野に禁錮せらる、後大閤の命あるによって許されて還る事を得たり、大閤伏見にある頃諸侯の妻を召して饗されし事あり、是時忠興の妻覚悟を極めていふ、傍に人なふして女の人に見ゆる事やあるまじきとて、懐に匕首を用意せり、是によって秀吉の奸悪止みたりといふ。慶長五年の秋関東の軍奥州に下りし時、大阪の奉行其軍に従ふ諸侯の妻子を皆城中に取り入れて人質とす、蓋其皆大阪の味方とならんを謀るなり、独り忠興の妻城内の取篭られんは恥辱なりとて敢て入る事を肯ぜず、其伝役河喜多石見、小笠原正斎も亦いふ、公の関東に赴かせし時吾等を戒めて曰、何等の変ありとも武将の恥なからん様に汝等はかろうべしと仰置かる、若し奪ひ取らんとせば其時思召す儀にぞと申ける、かかる處へ再三の使に及ぶ皆これを辞す、七月十七日の未の刻斗りに大阪の兵五万余り玉造口の屋敷を取巻き必これを城内に入れんとす、忠興の妻少しも動せず予て斯くあらんと覚悟せりとて、十歳のなる男子と八歳になる女をさし殺し家に火を放たしめて自殺す、於是大阪の奉行色を失ふ、却て諸侯を関東の方人とするなりとて是より人質の沙汰に及ばず遂に田辺を攻むるに至る、其硯の中に手ずさみが様に書捨てる和歌あり其侍婢より伝へて世に残る、今かたみとなりぬ。
先たつは同し限りの命にも  まさりておしき契りとそしれ

【御殿】細川忠興の妻は明智光秀の女なり、天正十年夏六月三日明智光秀京都本能寺に於て将軍信長公を弑す、細川忠興其不義を悪み遂に其妻を上戸に禁錮す(上戸は今の味土野なり明智軍記に丹波三戸野に作るは非なり)其後大閤秀吉の命あるを以てこれを免ず、事は大閤記明智軍記武林伝に詳なり。
天正小鏡  身を隠す里は吉野の奥ながら  花なき峯に呼子鳥鳴く  (忠興妻)  〉 

《丹後旧事記》
 〈 野間の吉野。此所は水江の吉野より等楽寺村の金剛童子と云山へ掛抜の峯入せし山伏の行場にて紅葉呼子鳥の名所なりと伝ふ。天正年中長岡忠興の妻を爰三戸野と云所に押込て一色宗左衛門を付置れし事あり。 身を隠す里は吉野の奥なから 花なき峯に呼子鳥なく 細川忠興妻。  〉 

《加佐郡誌》
 〈 忠興の室自刃する。秀林院夫人(即ち明智光秀の女)とて、一時節操の鑑として修身書等に掲げられたのは、忠興の夫人であるが、夫が江戸方であった為大阪城内に召される事となった。然し思ふ所があったのでそれを拒んだ所、大阪方は強いて之を捕へんとしたから、夫人は潔く自刃し果てたのである。  〉 

《舞鶴史話》
 〈 ガラシャ夫人(細川忠興の妻玉子)
明智光秀の第三女で、永緑六年誕生、容姿秀麗を以て聞えていました。天正七年忠興に嫁し、忠隆、興秋、忠利の三子と二女を儲けました。天正十年六月父光秀が信長を害したため与謝郡味土野の山中に幽閉せられたことは既述のとおりであります。
 身を隠す野間の吉野の奥深く
  峰に花なき喚子鳥啼く
これはこの幽居中家に残した子達の上をしのんで詠んだものと伝えられています。誠に哀愁にみちた身の上でした。
 (註)紅葉に美しい野間の山は丹後吉野とか野間の吉野とか呼ばれて呼子鳥の名所ともいい伝えられました。
光秀が山崎の戦に滅んだ時家人は自刃をすゝめましたが夫人は夫の命をまたずして刃に伏すことは三従の誡を破るものとして肯ぜず、かたきを忍んで苦節を続けました。その後家康の計いにより忠輿のもとへ復帰することができました。慶長五年夫忠興が家康に従って東征の軍に加わた後三成等によって大阪城内に移ることをしようようされましたがこれをしりぞけ、後兵を以てその邸を包囲せらるゝに及び侍婢等と共に相果てました。時に年三十八。夫人のこの義死は忠興に後顧の婆なからしめたばかりか東行に従える諸将にも一層感激を与えて東軍の士気を鼓舞するにあずかって力がありました。
なお玉子夫人の最後の実況は「霜女覚書」に詳かにあらわされています。「霜女覚書」というのは偃武の後忠興の孫光尚の請によってその時の侍女霜女が当時の顛末を書きとめたものであります。又玉子夫人は大阪在住中耶蘇教の洗礼を受けクリスチャンネームをガラシヤといっていたのでガラシヤ夫人として最もよく知られています。ガラシヤは日本風には伽羅奢と書きました。  〉 

《丹後の宮津》
 〈 ガラシャ夫人遺蹟
 木子をたづねた道をあとへもどり、約一キロくると高原を西へ走る丁字形に一本の道がある。この道はあらかじめ木子あたりできいておかぬと、とんでもない山道へ迷いこむおそれもあるが、五万の地図をたよりにして、教えられた道をまちがえねば、決してむずかしい道ではない。まっすぐ西へ約三キロ、その辺に五六軒の民家があるところ、竹野郡弥栄町字小杉(旧野間村字小杉)部落である。この小杉から一キロ、にわかに広い自動車も走りうる道へでて、さらに一キロ余り南へのぼると、そこに三十戸ほどの民家がちらばり、いかにも山奥の感じがふかいところ、すなわち「味土野」部落であって、村の人に道をたづねて、「ガラシャ夫人遺蹟」の石標がたててあるところまでは、すぐそこである。天正十年(一五八二)のむかし、夫細川忠興とともに宮津大窪城にいたその妻お珠の方は、いうまでもなく明智光秀の娘で、この三年前に主人織田信長の声がかりで忠興と結婚したのであったが、この年の六月二日は例の本能寺の変であり、その月の十七日には大窪城ですでに父の首を目の前にせねばならなかったお珠。しかも世は早くも父の同僚秀吉の手ににぎられ、細川一家はひたすら秀吉の目をおそれ、忠興もお珠の方をどこかえ押しこめ、父の叛逆につゝしみの生活をさせねばならぬ思いである。かくてえらばれたのがこの野間谷の里「味土野」で、ここへ二三の附人とともにお珠の方は四ケ年ほども苦しい閉居をよぎなくされたのであった。
  身をかくす里は吉野の奥ながら 花なき峯に呼子鳥鳴く
                        忠興妻
 標高四百メートル余りの山里に、味気なくすごすお珠の方、忠興も戦国そうぼうのうちとはいえ、年若い愛妻を思う心はひとしおであったが、やがて大阪城のほとり、玉造に屋敷ができるころ、秀吉のとりなしで味土野の苦しみを解放し、忠興みづからお珠の方を屋敷へ迎えたのが、天正十四年(一五八六)のことであった。この忠興夫妻が宮津大窪城におる時分から、光秀の謀反、そして味土野の生活とその解攻のよろこび、このあたりのことを去る昭和三十二年八月の週間朝日別冊に吉川英治氏が、「あづち・わらんべ」と題して書いているのをみた人は多いであろう。お珠がガラシャの名でよばれる時代は、丹後から大阪へ移ってからのことであるが、それにしても、そのつゝましやかな信仰は、おそらく丹後時代にすでにもえあがっていたのではなかろうか。なにはともあれ、歴史の流れ、人の世の動き、そういったことをつよく感じつゝ、ここ味土野とわかれ、またもとの道を世屋高原から帰るもよし、さらに野間谷へおりて、役小角がひらいたといわれる金剛童子をきわめるか、古い歴史をひめる谷々の遺蹟遺物などをたづねつゝ、バスの便をもとめて峯山駅へでる計画も、時間的にさえうまくいけば、これもまた楽しいコースである。  〉 

《上宮津村誌》
 〈 …かくして一色氏の末路は刻々悲惨に悲惨をかさね、十代義俊もまた非業の死をとげた。ところが、これより前、細川と最も近く丹後平定にあらゆる力を貸して惜まなかった明智光秀は、天正十午年六月二日未明軍馬を主人信長の駐在する京都本能寺に向け、ここで信長を討って殺し、直に天下に号令の準備をすすめたが、頼みとした細川一族はくみせず、備前にあった羽柴秀吉は反転主君の仇敵として光秀を摂津の山崎に破り、同六月十三日信長を亡ぼして僅に十日の後、単騎山科から城地江州阪本へ落ちのびる光秀は、山科の小栗栖附近で無名の農民に刺殺され、翌十四日は京都粟田口に醜骸を曝すの最後となったのである。
 この当時細川一族は宮津市場におり、かつて小倉播磨守の重臣野村将監が固めた大久保山城には忠興夫妻が居城し、ここで「お玉の方」といわれたガラシャ夫人は父光秀の謀反とその死を知り、さらに同十七日には父の遺臣少年斉藤光三によってその首がとどけられ、ここに悲しくも非道のそしりをうける父の死面に接し、直ちに城下の盛林寺に葬って自らは「みとの」の僻境に閉居の身となった。いまも同寺本堂裏に光秀の首塚と称される墓碑があり、…  〉 

《舞鶴の民話4》
 〈 金屋の大松 (倉梯)
 秀吉が死んだ。あとは徳川家康につく方と石田三成に組する側とに分かれた。福島、黒田、加藤などの武将は三成をきらって家康方についた。田辺藩主細川忠興も家康方についた。慶長五年六月、会津の上杉景勝が、家康の上洛中に叛旗をひるがえした。上杉は石田三成と通じあっていたので、上杉は家康をひきつけておいて、三成が背後から旗上げさせるというのである。しかし家康はこの策は承知の上であったらしい。家康は関東に下るとき、伏見城を守る鳥居と水杯をかわしている。又、福島、黒田、細川など味方の武将に 「三成が旗上げしたら、第一に御自らの妻子は人質として連れていくだろう。もしそれにひかれて家康への合力がにぷるなら、このさい自由になさい」と言っている。諸候はいかなることがあっても、家康方につくことを誓っている。家康が上杉退治のため会津に向かって出発すると、石田三成は家康に叛旗をひるがえしたことはいうまでもない。三成は旧秀吉部下の主戦部隊である。福島正則や細川忠興には密書を使わし、三成軍につくように再三いってきている。忠興は三成がきらいで、正使が最後の通知をしてきた。「妻の玉に城内においで願いたい。さもなくば人数を押しかけて玉を頂だいするであろう」「忠興は妻の玉を愛している。忠興は東国に出発している。留守には、玉をはじめ、小笠原少斎、河北石見の家老がいるが、三成の軍が攻めてくれば、家老をはじめ従う武士たちは切腹するとも内室の玉を守る」と最後の覚悟をきめたのである。従う武士たちは多く田辺からやってきているのである。三成の正使の云い分をことわった以上、今晩にでも三成勢が攻めてくると思われた。玉は使えている侍女たちに遺品をあたえて退去させた。小者には暇を出し、諸士にはそれぞれの配置につかせた。
 敵が押し寄せて来たのは夜更けであった。黒い潮のようにかたまってきた。松明が無数に燃えていた。その勢いは強く、家老小笠原は抜刀したまま奥へ走りこんだ。玉はすでに白装束に着かえていた。玉の胸にはサソタマリアの十字架が首からかけられていた。三成の軍勢の勝どきの声と共に城になだれこんできた。諸兵は戦い戦った。赤い血はあたりに飛んだ。玉は眼をとじ、合掌し「サンタ、マリア」と口にとなえた。玉の白い胸には少刀があった。握った刀を突き刺した。白い胸から鮮かな血がふきこぼれた。家老は玉の死とねの上に戸などさしかけ、上に火薬を散乱し火をつけた。家老も共に切腹して果てた。諸士も討死にした。
 慶長五年(一六○○年)関ヶ原戦役によって、家康は覇権を握り、三年のちに幕府を成立させ征夷大将軍となった。慶長十九年、元和元年の再度にわたる大阪の役で完全に豊臣氏をほろぼしたのである。田辺から忠興に従ったもの、留守にいて玉と共に戦って死んだ者多数あり、金屋からも出陣し死んだものあり、その霊をなぐさめるため墓をたて、松を植えた。月日と共にその松はぐんぐん大きくなり、諸士の霊が育てたのか、遠くから眺められたという。誰いうとなく「金屋の大松」といっていた。しかしその大松も落雷のためその姿は今はない。私は墓標のあったところに、野に咲くコスモスの花を供えて、若くして散った昔の武将の霊安かれ、と両手をあわせた。  〉 

《京都府の地名》
 〈 おさきの岡 現・弥栄町字須川味上野
 約二〇平方メートルの平坦な丘で、土地の人は女城(めじろ)または御殿(ごてん)といい、細川忠興の妻玉子(細川ガラシャ)の隠れ家があった所と伝える。
 西北隅のシデの大木の根元に観音の石像が安置されて女城観音といわれていろ。谷を隔てて約五〇〇メートルの台地に男城(おじろ)という所がある。警固の武士数十名が詰めていたという。男城観音があり、「宝暦年中施主甚助」と刻まれる。
 忠興は妻ガラシャが光秀の娘であることから、山崎合戦後豊臣秀吉に遠慮し、ガラシャをこの地に幽閉した。彼女は世野(せや)谷(現宮津市)より山を越えて味土野に入ったと伝える。「丹哥府志」は忠興妻の歌として、
 身を隠す里は吉野の奥ながら花なき峰に呼子烏鳴く
を載せる。ガラシャが女城に着いたのは天正一〇年(一五八二)六月下旬。一年一〇ヵ月後、秀吉によって再婚という形で許されて、天正一二年三月大坂の屋敷へ帰ったという。  〉 

《大阪府の地名》
 〈 玉造越中町(たまつくりえっちゅうまち)二丁目 (現)東区森ノ宮中央一丁目・上町一丁目・玉造二丁目

 単に越中町二丁目ともいう。北は玉造口定番与力同心屋敷、東は玉造西伊勢(たまつくりにしいせ)町・玉造拐(木偏)屋(たまつくりかせや)町、西は大手城代屋敷(家中屋敷)。南北に延びる両側町で、「天保町鑑」には「玉造いなり前筋一筋西ノ筋、のうにん橋より南へ入」とある。古くは葉山(はやま)町といったが(大坂町之内町名替り候写)、明暦元年(一六五五)の大坂三郷町絵図に越中町二丁目とみえる。なお、北接して越中町一丁目もあったが、承応三年(一六五四)玉造口定番与力同心屋敷拡張のため収公され、翌年木津(きづ)川東岸下博労(しもばくろう)町(現西区)の東に移された(「与力歴譜」大阪市史編纂所蔵)。大坂三郷北組に属し、元禄一三年(一七〇〇)三郷水帳寄帳では屋敷数一二・役数一九役で、うち年寄分一役が無役。年寄は紙屋勘兵衛。宗旨組合は当町と玉造越中町三丁目・玉造紀伊国(たまつくりきのくに)町・菱屋(ひしや)町・玉造仁右衛門(たまつくりにえもん)町が一組で、当町が頭町(大坂町年寄永瀬氏留書写)。安永版「難波丸綱目」によると俳諧師文雅がいた。また細川忠興の妻ガラシャが最期をとげた屋敷の井戸との伝承をもつ越中井(府指定史跡)があり、町名との関係も考えられる。明治五年(一八七二)玉造越中町三丁目の一部とともに玉造越中町となり、翌年東成(ひがしなり)郡西玉造(にしたまつくり)村に含まれた。  〉 

味土野の現地の案内板
案内板(弥栄町味土野)
 〈 細川ガラシャ略伝
細川忠興の妻、玉子(玉)。永禄六年(一五六三年)明智光秀の三女として生まれる。天正六年、十六才の時織田信長の命により後に丹後田辺城(現舞鶴市)の城主となる細川幽斎の嫡子忠興に嫁いだ。天正十年六月本能寺の変により、父光秀が信長に謀反を起こした。光秀は忠興を味方に誘ったが、忠興はこれを聞かず玉子を離別幽閉し自分は羽柴秀吉軍として出陣し、光秀と山崎で戦った。玉子の実父光秀の死後、家臣は自害をすすめたが「私は忠興の妻、主人の命を聞かずして事を決することは婦道にそむくことです」とこれを聞き入れず、愁思のうちに二年の月日をこの地で過ごすこととなった。秀吉はこれを憐み忠興は再び妻として玉子を迎えた。
その後キリスト教に入信し、「ガラシャ」の洗礼名を受けた玉子は、忠隆・忠秋他三子を授かった。しかし、平穏な日々も束の間、慶長五年(一六〇〇年)関ケ原の戦いで、徳川家康に従い東征についた夫忠興の留守に大阪細川邸にあった玉子は石田三成の軍勢に囲まれ、人質として大阪城へ入城を迫られたが「私が人質として入城すれば堅武士の夫忠興の足手まといとなります」と自ら邸宅に火を放ち壮烈な最期をとげた。享年三十八才夏のことである。辞世の句は有名である。
  散りぬべき時知りてこそ世の中の
    花も花なれ人も人なれ
数奇な運命に彩られ、夫忠興のため殉じて果てた玉子の生涯は戦国の世に咲いた一輪の花として現在に語り伝えられている。
  身をかくす里は吉野の奥ながら
    花なき峰に呼子鳥鳴く
                 玉子
京丹後市教育委員会  〉 


案内板
 〈 女城跡
御殿屋敷ともいわれ、細川ガラシャ夫人の城跡
男城跡
女城と谷を隔てた向かい側の尾根にあり、当時細川ガラシャを警護するために作られた城
細川ガラシャ(1563〜1600)
安土桃山時代の代表的なキリシタン女性。細川忠興夫人。永禄6年(1563)明智光秀の次女として生まれる。本名玉子、ガラシャGraciaは霊名。諡は秀林院。天正6年(1578)織田信長の媒酌により、細川藤孝の子息忠興と結婚し、細川氏の居城山城勝竜寺城(京都府長岡京市)に興入れ、のち丹後宮津城に住む。天正10年(1582)本能寺の変の後にこの地に2年間隠棲する。

昧土野は、御殿と書かれていた時期もあり、現在の記念碑が建立してある平坦面にガラシャの居城があったと言われています。谷の周囲には、現在でも矢に使う矢竹が確認でき、また樹の下にある観音堂の台石はガラシャが信仰した場所として伝えられています。このほかにも古井戸、蓮池跡などガラシャの足跡を現在に伝える伝承や遺跡が多く残っています。弥栄町教育委員会  〉 

『弥栄町史』
 〈 女城の跡
味土野のオサキの岡に二十メートル平方ぐらいの平坦な草生地がある。明智光秀の二女に生まれ、織田信長の媒酌で細川忠興に嫁した玉子夫人隠棲地の跡で、俗に女城の跡という。西北の隅にシデの大木があって、その根本に石像の観音を安置する。これを女城観音という。頂上の広場の中央に、花崗岩の高さ二メートルあまりの細川忠興夫人隠棲地と記した碑がある。日本婦人の亀鑑として、細川玉子ガラシャ夫人の人となりと、その隠棲地である味土野の地を顕彰するため、竹野郡、与謝郡の連合婦人会、連合女子青年団によって建てられたもので、敷地は江宮豊造所有の土地であったが寄附をうけ、細川護立家の所有に移し、細川忠興夫人隠棲地と記した碑が昭和十一年七月竣工した。
西隅に一つの縦井戸がある。上は三尺四方位の石組で、深さは今は埋まって浅くなっている。

男城の跡
女城と相対し、西方五百メートルの地点、金剛童子の支脈の突端に広く平坦な小丘がある。これは見張りの位置として絶好の地形で、女城守護の任に当った家臣郎党の居住した所で、俗に男城の跡という。男城観音という石造仏があり、宝歴年中施主甚助と記してある。少し離れて一基の石碑がある。嘉平、新六、菩提天保六年九月建立施主惣兵衛の文字が見える。  〉 

『中学校社会科副読本・京丹後市丹後町の歴史』
 〈 細川ガラシャと味土野
 細川忠興の妻、玉子(玉)は、永禄6年(1564)、明智光秀の3女として生まれました。
 天正6年(1578)、16才の時、織田信長の命令により細川幽斎(藤孝)の子忠興に嫁ぎます。
 天正10年(1582)6月、「本能寺の変」の際、光秀は忠興を味方になるように誘いますが、忠興はこれを聞かず玉子を幽閉し、自分は羽柴秀吉軍として出陣し、光秀と山崎で戦うこととなりました。
 玉子の実の父光秀の死後、家臣は玉子に自害をすすめますが、「私は忠興の妻、主人の命令を聞かずして事を決することは夫にそむくことです。」とこれを聞き入れず、天正10年から12年(1582〜1584)まで幽閉され、2年の月日を弥栄町味土野の地で過ごすこととなったと伝えています。
 隠棲地(女城跡)は、別名御殿屋敷(みどのやしき)ともいわれ、谷を挟んだ向かいの丘陵は「男城跡」で、玉子大人に付き従った家来達の居城の跡と言われています。
 秀吉はこれを憐み玉子を許し、忠奥は再び妻として玉子を迎えることとなりました。その後、キリスト教に入信し、「ガラシャ」の洗礼名を受けた玉子は、忠隆・興秋はか3子を授かります。
 しかし、平十穏な日々も束の間、慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの直前に、徳川家康に従い会津の上杉征伐についた夫忠興の留守に、大坂の細川邸にいた玉子は石田三成の軍勢に囲まれ、人質として大阪城へ入城を迫られます。しかし、「私が人質として入城すれば、夫忠興の足手まといとなります。」と自ら邸宅に火を放ち、壮烈な最期をとげました。享年38才夏のことです。次の辞世の句は有名です。
  散りぬべき 時知りてこそ 世の中の
         花も花なれ 人も人なれ
 戦国の世に生き、夫忠興のため、自ら死を選んだ玉子の生涯は、戦国の世の悲劇として、現在に語り伝えられています。
 また玉子が、味土野で詠んだ敵も伝えられています。
   身をかくす 里は吉野の 奥ながら
         花なき峰に 呼子鳥啼く  〉 


最近ではガラシャ夫人をや光秀を取り上げたテレビ番組を作ってもらいたいなどと運動が丹波・丹後で行われているという。
ドラマ性はあるが、しかしガラシャや光秀の持つ文化と丹後丹波文化がつながるのかということが問題になる、ガラシャなら特にキリスト教文化が当地にあったのかという問題がある。彼らと生活や精神を共にし、共に同じカマのメシを喰い喜びも苦労も共にし、共に理解し合えた仲にわれらの故郷はあるのかということである。光秀や忠興とは多少はあっただろうが、ガラシャや幽斎とはたしてあったのだろうか、チトばかりレベルが違う、住む世界が違う。何か農民にとってエエことでも気を入れてしてくれただろうか。エエことをしてくれたのなら、私も賛成するが、何もないなら無縁の人でしかない。しかし末裔が原発反対を言っているのでまあ応援してもエエが…
キリスト教は当地に入らなかったとフツーは考えられるが、多少はあったのかも知れないような遺物が残されている。

『野田川町誌』
 〈 上山田のマリア観音考
野田川町上山田小字薬師寺谷には、「子安地蔵尊」と呼ばれる石仏が祀られている。全長五〇セソチメートルの地蔵尊像に似たものであるが、その輸光と光背をもった本尊のすがたは、「観音像」である。像は岩塊上に半跏踞座し、宝冠はなく、結髪上から全身にかけて白衣をまとい、両腕にて胸に童子を抱いた真に円満慈母の温容を表わしている。ところでこの像の珍らしい特徴として、台座中央付近に逆まんじに似た「十字」が、岩塊の裂目にまぎらすように刻まれていることである。みるからに素朴でやさしさがある。また同じ場所に大師堂があって、この石仏を「絹本」に着色をした古い画像が残されている。この画像は台座の分は蓮華で形どられ、「クルス」が中央に画かれて、明確に「マリア子安地蔵尊」と傍記されている。これは「マリア」が童子形の「キリスト」を抱いた姿をあらわすものであって、あきらかに「キリスト」信仰に結びつく
特異なものであることがわかる、そして、この付近では、この石仏を「マリア観音」ともよんでいるのであるが、今これを祀る人々は、近隣の大師講に集う老婦人たちのみであり、かつてこの石仏をこの薬師谷にもたらしたその由緒と背景は、知る人もなく、伝え残すすべもなくなりつつあるのである。ところで、この石仏は、台座の「十字」が物語るように、かつては禁教になっていた「隠れキリシタソ」の対象物であったことが当然考えられ、かの一五四九年(天文十八年)以来、わが国に伝えられてきた「キリスト教」の伝道の歴史からみると、秀吉の禁教令にはじまる信者への宿命的な弾圧と迫害、そして隠れ切支丹の人々の姿が浮び上ってこなければならない。このことは、先に暁星女子高等学校の赤野伊之助氏によって「丹後の切支丹大名」として、同校の記念研究誌に明らかにされていることからもわかる。同氏によると、「昔九州から逃がれてきた藤原、小池という武士が、小池家の先祖に当り、熱心な信者として、一塊の石に刻んだ……。」と説明されており、また「島原の乱後、一六五八年(万治元年)幕府の切支丹奉行の北条安房守が残した宗門改めの記録によると、丹波福知山に七十八人、亀山に二十三人、園部に二十三人の信徒があったし、そのとき丹後には一人の切支丹もいなかったことになっているが……。」と述べられている点からして近隣各地方にも、まだ表面にあらわれない信者が深くひそんでいたことを、推断できるのである。ただ、この野田川町においては、文献資料とてなく、僅かに、小池家の人びとならびに近隣の古老による、昔からの云いつたえと、信仰の伝承から考えるほかはないのであるが、前記小池家は、現在一〇世と称せられており、またこの石仏は、小池家墓地付近の「ほら穴」に、台座の「十字」を土中に埋め隠した姿で祀ら
れていたと云われていることに、この石仏のもつ一つの意味を解することがでぎるのではなかろうか。ここで丹後の「キリシタン」についての資料を求めると、かの細川忠興は、一五七八年(天正六年)に織田信長に任えて田辺城に居を定めたが、その弟の興元は吉原城にあって、三十二歳で洗礼を受けたといわれており、また細川家では、多くの人が洗礼を受けている事実がある。即ち、父幽斎の妻「マリア」、忠興の妻「ガラシア」、忠興の次男「ジョアソ」、娘「ダリヨ」はそれぞれ洗礼を受けた。
さらに、細川氏の後に信濃から転封した、京極高知は、当時の「キリシタン大名」であったので、これら領主のもとでは、領民たちもその教義を学び、信仰を持つなど、信者として生活をすることが、許されていたことが考えられる。この地にも、異国の神との深い宿縁を持つ人々が、この「マリア観音像」のある小字薬師谷に、ひそみ暮しつつあったことはたしかであろうし、像についても、伝承によると、谷口にある「つつみ」の中に、何かまばゆく光り輝くものがあり、近所の人びとは畏怖してこれに近づかなかったが、あるとき某氏が、これを探して引きあげたところ、これが童子を抱いた珍らしい「観音像」であったと云い、その後、人びとは「隠し子安地蔵」として、ひそかに祀ったというような発祥をくずした点、又これを祀った人びとの「人名帖」が、ひそかに、上山田の郷倉に隠されていたとも云い、これらから「マリア観音像」としての真相が判明するのではないだろうか。現在もこの「マリア観音像」は「子安地蔵尊」として丁重に祀られている。  〉 

『町報野田川』(昭和53.7.31)
 〈 町内文化史跡を訪ねて・上山田・マリア観音
 上山田小字薬師寺谷に「子安地蔵尊」と呼ばわる石仏が祀られている。全長五十pの地蔵尊像に似たものであるが本尊の姿は観音像で、この像の特徴として、台座中央付近に逆まんじに似た十字が、岩塊の裂目にまぎらすように刻まれていることである。そして像は、両腕にて胸に童子を抱いた円満慈母の温容を表わしているが、「クルス」が中央に画かれていることから、マリア子安地蔵尊と傍記さかている。これは「マリア」が童子形の「キリスト」を抱いた姿をあらわすもので、明らかにキリスト信仰に結びつく特異なものであることがわかる。この付近の人はこの石仏を「マリア観音」とも呼び、隠れキリシタンの対象物であったと伝えられている。  〉 

『丹後路の史跡めぐり』
 〈 マリア地蔵のある山田
国鉄丹後山田は加悦谷の入口であり、大江山への登山口でもある。この山田と野田川をはさむ対岸の石川は、昔右大臣蘇我倉山田石川麿呂の領地であったという。石川麿呂は中大兄皇子と藤原鎌足が蘇我入鹿を誅罰した時に上奏文を読み上げた人である。
 下山田の平野からは古墳時代の曲玉が発見されているし、水戸谷の上山田城は塩見筑前守の居城で、永正四年武田元信が丹後へ侵入して成相山へ入った時に、武田の授将小笠原沢蔵軒のために攻められて、加屋城の石河氏と共に城将下山左近は武田に降参している。
 上山田の薬師谷の大師堂に子安地蔵が一体祀られているが、よくよく見ると子供を抱いたマリア地蔵であることに気がつく。丹後には切支丹はいなかったことになっているが、宮津国清寺や文珠智恩寺のマリア灯籠のあることとあわせ考えると、ガラシャ夫人や京極氏の信仰の流れをひいて相当のかくれ切支丹がいたのではないかと思われる。  〉 





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大久保山城「宮津市大久保
丹後田辺城
宮津城




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